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2017.01.04 Wednesday

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    3人の神学生とは誰だったのか?

    2013.08.30 Friday

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      『クアトロ・ラガッツィ ー 天正少年使節と世界帝国』若桑みどり著 集英社発刊より 


        プロローグ

       なぜ今、そしてどうして私が、四百年以上も前の天正少年使節の話などを書くのだろう。 日本では信長がその権力の絶頂で明智光秀に討たれ、秀吉が天下をとって全国統一をなしとげようとしていたころに、九州のキリシタン大名三人がヨーロッパに派遣した四人の少年は正式な使節として遠く海をわたっていた。  彼らは中国、インド、ポルトガルを経て、スペインにわたり、その領土に「太陽は沈まない」と言われた国王フィリペに親しく謁見した。彼らはそこからイタリアにわたり、ルネッサンスの最後の栄光をまだ輝かせていたフィレンツェの大公フランチェスコ・デ・メディチの熱烈な接待を受け、芸術史上の大パトロン、ファルネーゼ枢機卿に迎えられて永遠の都ローマに入り、カトリック世界の帝王であるグレゴリウス十三世と全枢機卿によって公式に応接され、つぎの教皇であり大都市建設者であったシクストゥス五世の即位式で先導を務めたのである。八年後に彼らは日本に帰り、秀吉に親しく接してその成果を報告し、西欧の知識・文物と印刷技術を日本にもたらしたのだった。
        つまり彼らは、十六世紀の世界地図をまたぎ、東西の歴史をゆり動かしたすべての土地、すべての人間をその足で踏み、その目で見、その声を聞いたのである!そのとき日本がどれほど世界の人びととともにあったかということを彼らの物語は私たちに教えてくれる。そして、その後、日本が世界からどれほど隔てられてしまったかも。
        … 私は研究の土地としてローマを、研究のテーマとしてカトリック美術を選んだ。… ミケランジェロをいくら研究しても、私は「西洋美術を理解する東洋人の女」であるにすぎない。…日本人として西洋と日本を結ぶことを研究したい。究極、この今の私と結びつくことを研究したい。そのテーマはいったいなにか。それがわからなかった。そして自分のほんとうのテーマを探すために大学に一年間の休学を申し出たのである。

        そのとき、1961年に横浜から船に乗ってマルセイユまで行った最初の外国旅行の強烈な体験が、無意識の蓋をあけたように復活してきた。この船はフランスの郵船で、ベトナム号といった。同じ船には文化人類学者として高名な川田淳造さんや、同じく映画学者としてカリスマ的な蓮實重彦さんもいたといえば、留学生がつくってきた日本の戦後の歴史の一端がわかるだろう。ベトナム号は、横浜を出帆して、香港、サイゴンへ、セイロン島のコロンボ、そしてポンペイ、北西アフリカのジブチ、そこからカイロ、地中海へ一ヶ月の船旅を続けた。私が知ったのは、日本がヨーロッパからとても遠いということだった。それだけではない。日本とヨーロッパのあいだには、いくつもの不穏な海、いくつもの、荒涼として灼熱のヨーロッパ植民地が横たわっていた。
        東アジアの小国に生まれながら、西欧型知識人の環境と教育によって、イタリア・ルネッサンスをはじめとする西欧文化をわがものと思い、奢り高ぶっていたが、じつは世界などなにひとつ知りはしない。東アジアについても東南アジアについても、アフリアについても、近東についても、なにもなにひとつ知ってはいない。
       … このとき、おおぜいの日本人の留学生のなかに、ひときわ私の注目を惹くグループがあった。非常に若い、質素なシャツを着た三人の青年だった。彼らはほかの乗客のようにばか騒ぎをせず、ダンスパーティに出ず、とても静かで、とての日常的だった。甲板では読書をしていることが多く、たまには卓球をしていた。好奇心にたえかねて、あるとき、彼らがどこへ行くのかを尋ねた。彼らはみな神学生だった。そして選ばれてローマのコレジオ(神学校)に神学を学びに行くのだった。私はこの船ではじめてローマに行く人をみつけてうれしかったのでこう聞いた。「イタリア語はできる?」三人はさわやかに笑いイタリア語はできないと言った。「では不安でしょう?授業はどうするの?」ひとりの青年が答えた。「ラテン語ができますから」。それからひとりの黒いシャツを着た青年をさして言った。「彼はとくにできます」。畏敬の念でいっぱいになって(エラス!私はラテン語が不得意だ!)、「ではラテン語ができるから留学生に選ばれたの?」と聞いた。黒いシャツの青年が答えた。「たぶん幼児洗礼を受けているから選ばれたのだと思います」(????)
       … ローマに着いたのは十一月で、クリスマスが近づくころ、ヴァティカンのそばで、私は黒い長いスカートに黒いつばのある大きな帽子をかぶり赤い線の入った帯をしたすてきな三人の神父さま(まだ神父ではなかったが)に会った。彼らはまるで昔からローマに住んでいたように見えた。彼らはクリスマスイブには、ウルバヌス八世の創建した大学の礼拝堂でのミサに招待してくれた。彼らにはおおぜいの仲間がいて、同じ祈り、同じ歌を同じことばで語っていた。外国に行く興奮で日本人留学生が緊張しきっていたのに、船の上で彼らがあんなにも平安だったのは、彼らが外国にではなく、その祖国に向かっていたからだっった。かつてローマに行った少年たちの手記が、彼らがいつもとてもおだやかで平和だったと書いていたように。
      … 最初はキリシタンの美術について調べていたが、しだいに、天正少年使節についての文書がとても多いことがわかった。それを読んでいると、それに引きつけられ、ほかのことが考えられなくなった。少年使節が聖天使城のそばを通ってローマじゅうの歓呼とファンファーレに迎えられ、大砲の響きが町をゆるがすところでは、思わず興奮した。なぜならこの図書館からはその聖天使城が太陽の光に照りはえて見えたからである。そして、なぜそれまで思いもしなかったのか、図書館の前のホールは、かつてクリスマスの聖歌をあの三人の青年と聞いた礼拝堂だった。 …