スポンサーサイト

2017.01.04 Wednesday

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    第二章 互いに愛し合いなさい

    2015.07.22 Wednesday

    0
      安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

      第二章
       互いに愛し合いなさい

      《わたしがあなたたちを愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である》(ヨハネ15・12)
        最後の晩餐の席上でイエズスははじめて、弟子たちに相互いに愛することを掟として強調した。これはありきたりの人間愛の勧告ではなくて、強い聖なる命令として与えられた。少し前にも、イエズスが御父の掟を守って彼自身が父の愛に留まったことを裏づけて、あおいっそうの厳しさを混じえて教える。これから弟子たちをはじめとして、全人類の罪を贖う十字架の死がやってきても、それを拒むことなくイエズス自身が御父の愛の掟として従順に受け入れて、御父の意志を完全に成し遂げることをほのめかしている。それと同時に、たとえ弟子たちの中にこれまで敵となって争う仲間があったとしても、相互いのゆるし合いと愛の実行に踏み切る必要があると言って掟として与えた。それらをもってわたしの愛に留まることになると諭すのである。
       そういう意味であれば今日のわたしたちも、キリストと共にわがままな私情を十字架にかけて殺して従うほかはない。キリストの愛は純粋で、わたしたちのように肉欲の感情におぼれ、とらわれたものではなく、すべて聖霊の働きに服した愛のいとなみである。その深いわけを尋ねれば、三位一体の神聖なる愛がキリストの人性のうちに少しもそこなわれずに顕現されたものだからである。わたしたちには、自己の肉の愛欲に基づいて、つねに他人をうらやみ敵として、ライバル意識をもってわが身を守るという仕方で生きる肉的性質がある。これまで弟子たちと生活を共にしてきたキリストの愛は、三位一体の神の愛が実現化したものである。十字架上の人類の罪を贖う愛は、三位一体の愛が人間たるキリストの人性を通して完全に実現化されたものと見ることができる。
       わたしたちが生まれながらにして自己愛に染まって、絶えず他の相手を意識し、自己に反する者を敵として扱い、仲たがいをし、あるいは他人を意をもって征服し、満足して生きがいを感じるのはどうしたことか。それは明らかに愛の破局であり、三位一体の神性の愛とはうらはらに相いれないものである。三位一体の神の本性は、神聖なる愛そのものであるがゆえに、完全な真理に基づいているので、無限の正義に満たされていると考察される。人間の肉的愛欲は神の正義に基づくものではなく、被造物の獣的肉欲と精神的高慢に基づいているので、神の正義の点からすれば、神意に背くもので神の怒りを招くものである。それをおもんぱかってイエズスは、わたしが愛したように、互いに愛しなさい、とすすめたのである。この言葉は神の愛の本質をあらわすものと見なければならない。

       《愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない》(ヨハネ15・13)
       イエズスが言われた言葉、「愛する者のために命を捨てる」には深い意味がある。この世に生まれてくる人間は生まれながらの自分の命を大切にする本能があり、そのように育てられてきた。人にとって自分の命ほど高価な宝はなく、命を失うことはなにもかも失うことであって全世界を失うことを意味し、たとえ豊かな金銀宝石財宝があっても命がなければすべて無に等しいものである。人にとっては命ほど高価なものはなく、それに代わるべきものは絶対に存在し得ない。それほどかけがえのない命を、他人である愛する者のために捨てるということは、なにかそれに代わる理由がなければならない。神の大いなる愛に仕えて死ぬのであれば、これこそ最大級の愛と言うべきものである。これは神の愛に真に生きている人びとのみができることであって、自己愛にとらわれている者には決してできない。イエズスは、神の愛をもっている者だけが可能である、と言っている。人となってこの世に降った神の子イエズス自身は神の愛をこのように最後の晩餐で弟子たちに披露して、模範を残している。
       愛というものに、また愛する人に自分の心を与えれば与えるほど真の宝物となって輝くものである。自分の命を与えて死をもって他人を生かす愛はあり得ないのである。一般に友人の間では、自分の親愛なる心を与えたり受けたりすることで喜びを感じるものである。親友同士の心の交換によって愛は成立するものである。動物には霊の働きがないので本当の愛は成り立たない。人が個人的自己愛にこもって、他人をないがしろにしてふるまう場合も愛は成立しない。個人主義を重んじて社会生活をしたり、他人はどうであろうとも、自分さえよければ満足して喜ぶなど、現代では、個人主義の思想が自由と権利の両翼をつけて怪物のように飛びまわっている。個人主義という思想は自分の自由を尊重し、自己愛に基づいて出発した自由思想であって、神の愛に対して独立を宣言し、やがて無神論の世界の海を泳ぎまわる生活へと導く。極端な個人主義に生きる者は神もなければ他人もない思想に行きつくのである。
       キリストの愛は、神から出た愛であって、人なるものは皆兄弟であって、神の愛に生かされている。その兄弟なる他人、友人の救いのために自分の生命を十字架にかけて、兄弟の罪とその罰を引き受けて死ぬのであるとイエズスはほのめかしている。この言葉がどれほど意義の深いものであったのか、その時の弟子たちには少しも理解できず感動も愛の心をも呼び起こすことはなかった。
       詳しく言えば、キリストの愛は兄弟なる人びとのために、命を捨てて人ひとりの罪を絶対無限なる正義の神の前に、償いとなる贖いの犠牲として十字架の苦しみと死を甘んじて受けさせたのである。わたしたちも皆このキリストの贖罪によって罪がただでゆるされ、神と和解して新しい永遠なる神の子の命を、キリストの復活を通して与えられるのである。その愛は洗礼の秘跡の神秘のうちに深く閉じ込められている。神の子、イエズスは友のために命を捨てるという愛以上のものはないと断言している。

       《わたしが命じることを行うなら、あなたたちはわたしの愛する者である》(ヨハネ15・14)
       今ここでイエズスが命じたことはどの言葉を指して言っているのか、福音書を開いて見れば守るべきイエズスの言葉はすべてであるので無数に近いほど見受けられる。人間は誰にもできない不可能なことを命ぜられればあきらめるしかない。しかしわたしたちも、またそれを聞いた弟子たちも自然の力、自分の能力である人間本来の能力で、彼の命じた言葉を守ることができる。また努力すれば努力するほど達成することができると思われる。最後の晩餐の席でイエズスの命じたことは、弟子たちがお互いに愛すること、敵さえも愛することで、それには自分の命を捨てて愛することであると言っているようである。イエズスの愛は自分を犠牲にして天父にささげて神との正義の和解をもたらして罪人なるわたしたちを神の愛する者としたのである。キリストの十字架の死は、一人ひとりの罪のための死であって、人類という集団の罪のためではなかった。罪というものは個人の独立した人格の自由意志の選択に基づくもので、人さまざまの意志行為に応じて罪となる。罪は集団的集まりとして犯されたものであっても、神の前には独立した一人ひとりの罪として問われるべきものである。キリストは十字架の死をもって世界人類の罪を贖ったが、集団として一人ひとりの罪が皆に一様にゆるされたわけではない。一人ひとりが贖いの効果を受けるためには、改心してキリストの罪の贖いの真理に基づいて愛を信じ、受け入れて洗礼を秘跡を受けねばならない。これによってはじめて救いが神の正義の前に成り立つのである。
       神の正義の前に一人ひとりが親しくキリストに結ばれることは、世界が始まって以来なかったことである。自然的な生き方をするわたしたちが、自分の判断のみを根拠にして、いくら自分の行いは正しいと主張し、弁解しても、神の前に正義が成立するはずはないし、神の親しい友となることもできない。
       キリストの愛とは、神の汚れない神性の愛のことであって、これを持つ者はすべての兄弟を友人としてもっており、神に背く人間の自己愛、肉欲の愛、兄弟を対立する敵として争いを起こさせるようなものではない。そのような人間本来の愛は、やがて自然の肉的生命が滅びると同時に消えてなくなる愛である。イエズスが語ったのは神の神聖な愛に生かされてこそ、わたしの愛する者であることができるということなのである。
        

      この世はあなたたちを憎む つづき

      2015.07.17 Friday

      0
        安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

        第二章 この世はあなたたちを憎む つづき

         《わたしが来て、彼らに話さなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。だが、今は、自分の罪について言い逃れができない》(ヨハネ14・22)
         ここでイエズスの人間的な思いやりの心をわたしたちは深く味わうことができる。彼がこの世に天の父から遣わされて来なければ、また、その教えと行いがなかったならば、それらを聞いた者たちもまた奇跡としるしを見た人たちにも全く責任がないと言う。それは無知な人間にまことに同情的な言葉である。しかし、人間的に見てそうであるかも知れないが、唯一なる神の立場に立って愛の行為を受けた人びとの背きを考えると罪だけが残る。聖書に基づいて神の言葉をさかのぼって見ると、イスラエル人はアブラハムの時から神の約束を受けて召し出され、とくにモーセの律法を受けてそれらをことごとく守ると約束した民族であった。その場合も山を動かすほどの恐るべき奇跡と不思議なしるしを伴っていた。厳しい律法に導かれ、世界に住む民族の中にイスラエル人ほど唯一なる神の言葉と保護、しるしに従って生きた民族はなかったのである。その間、数々の預言者があらわれて自分の命さえもかけて神の言葉を伝えたのである。
         二千年前に、三位一体の神が唯一の神の子であるペルソナを遣わして、イスラエル人の一人としてイエズス・キリストとならしめてこの世に遣わして語らしめた。また彼によって誰も行うことのできない無数の奇跡としるしを示して証ししたのである。だがイスラエル人たちはそれを信じることなく、かえってわけもなく憎しみの感情に支配されて十字架にかけて殺す、ということを予想してイエズスは弟子たちに言うのであった。それは彼らが知らないからと言って責任をまぬかれるものではなかった。明らかに人間的欲にとりつかれて、自己保存の自然的人間の自由な考えに支配されていたからである。
         現代のわたしたちも福音の言葉が全世界にのべられ、キリストのことをまがりなりにも聞いているにもかかわらず、神などいないと傲慢な心になって真理の本源である神を否定し、わたしたちの罪を贖うために遣わされた神の子、イエズス・キリストを厄介なものとして退けるならば、どうやって救われることができるであろうか。人間が神を憎むようになった理由として、サタンの働きかけがあるのではあるまいか。迫害はすべてサタンのこの世の支配権が人間を通してあらわれたものであるようだ。

        《わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいるのである》(ヨハネ14・23)
         三位一体の神は同一の神性を共有しているので、御子を憎む者は同時に御父をも憎むという真理が成り立つのである。それに反して御子を信じて受け入れて愛する者があれば、御父を具体的に見ることがなくても、彼を知ることになって、同時に御父の愛に生きていることになると言う。
         最後の晩餐の席上での少し前に、フィリポがイエズスにあなたの父を見せてくだされば、わたしたちは満足ですと言ったのに対して、彼の無知をあたかも叱責するかのように、まだわからないのか、わたしを見る者は父を見ているのであって、それをまだ知らなかったのか、と責めた。その言葉の真理を現代のわたしたち一人ひとりにも適応して考える必要がある。わたしたちも二千年間にわたる教会の伝統の中に生きているが、使徒伝来の教理をはじめ典礼の遺産をもれなく受け継ぎ、七つの秘跡の恩典に浴しながらも、まだキリストの真実の姿を知らないで、御父を見せてくださいと願うであろうか。もし、真理そのものであるイエズスをよそにして、見える影や形にとらわれて、見える形の偶像のようなものに導かれているとするならば、それは単なる人間的信仰であって、迷信に近いかも知れない。聖霊に導かれてペトロやパウロがキリストの復活の信仰に立ち返って生きたように、あくまでも信仰は霊的で見えない神の言葉によって生きることなのである。
         この世における幻視とかそれに類した不思議なしるし、現象があっても肉の感覚にまどわされることなく、神の言葉による霊的信仰をつねに堅持しなければならない。それゆえ、神秘体の頭であるキリストの生命にしっかりと結びついての信仰を強調したのである。同時にわたしたちが不信仰に陥って何らかの理由で彼を憎むとすれば、その人は父をも憎んでいると教えたのである。これは三位一体の神を考えて見れば当然な帰結でもある。
         《ほかのだれも行わなかったような業を、もしわたしが彼らの間で行わなかったら、彼らには罪がなかったであろう。だが、今、彼らはその業を見た上で、わたしと父とを憎んでいる》(ヨハネ14・24)
         イエズスの言葉は神の子自身の言葉をあらわすもので、福音の言葉は神の真理を表現する、神の光ともいうべき神性の輝きである。彼の言葉は全能の力をあらわして死者をもたちどころに生き返らせる奇跡を生じる。キリストは神の力をもっていかなる病人であってもまた身体障害者であっても完全な形で癒されるのである。彼の言葉には不能もなく、何ものも逆らえなかった。サタンや悪霊の力をもってしても彼の言葉に従わざるを得なかった。旧約の預言者たちも、モーセですらイエズス・キリストの業をしのぐものではなかった。そのことを指して、イエズスはだれも行ったことのない業をこの世に現実にしたのに、彼らはそれを見ているのに信じなかったと言う。その言葉を今わたしたちが現代にあてはめて考えるならば、キリストが十字架にかけられて死んで墓に葬られ、三日目に復活して弟子たちにあらわれたことが挙げられよう。教会は約二千年間にわたって歴史的証明を繰り返し続けているにもかかわらず、多くの人びとはこれを聞いても信じようとしない。キリスト教で言うキリストの復活は、未信者である自分たちには全く関係がないもので、それほど重要なものでないと言って、あくまでも無神論を唱えて世の生活を送っているのである。
         ユダヤ教の人びと、大司祭たちはじめ司祭団、律法学士やその他の民衆がキリストを十字架にかけて殺したのであるが、その理由と言えば人間の諸欲に従って神の子である救い主、聖なる者を憎み、彼を遣わした父をも憎んだからであった。彼らは三位一体の神の業である自分たちへの救いをことごとく排斥したのである。二千年前のユダヤ教の人びとはキリストを排斥することによって、三位一体の神の救いの干渉を拒み憎んだことになるが、それは現代の科学の発展に伴って起こった思想である今日の無神論と変わることがない。彼らはいわば今日の無神論の前ぶれのようにキリストを排斥した。
         今日わたしたちは物質文明をみだりに謳歌しているが、物質的科学が進歩を続ければ続けるほど神の存在やその働き、人間の救われることを無視するようになり、ますます無神論的になって諸欲のとりこになり、この世の快楽のみを追い求めがちになっている。宗教の分野においてもイエズスの言葉、神の言葉をただの人間が自由に自分の言葉に置き換えて、宣教していることもあるようだ。このような世界にはキリストと神の真の姿はなく、彼が真理の証明としてのべた御父である神を抹消していることになる。神が存在しない世界ではもっぱら人間がいかに自分が偉大であるかを示し、人びとの偶像となってあこがえのまとになることを願うのである。人びとの業とは違い、キリストの行った業は御父なる神の業であったので、教えにしても奇跡やしるしにしても聖なるものであり、それらとは無縁のものである。いまや人びとは自分のなす業があたかも神の業であるかのようにふるまい、自分を神に置き換えようと望んで、その邪魔になるとして、神を憎んでいるようだ。

         《しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が成就するためである》(ヨハネ14・25)
          イエズスは人びとに理由もなく憎まれることについて、聖書の言葉、ユダヤ人が尊重している律法の言葉を引用して、預言的に弟子たちに教える。自然の人間には、毎日とる食物にしても他人に対しても好き嫌いがあったり、また人種的に異なれば差別をしたりする性向を持っており、そのために現代の世界においても民族間における戦争や争いが絶えない。人類は皆兄弟姉妹であると言うのはたやすいが、愛がなければ無に等しい。イエズスの場合はこの世に隠された神秘があってそのために迫害を受けることになった。イエズスの本性はまことに汚れのない人たる本性と永遠から輝いている神の本性の二つの部分を共に持って成り立っている。彼には少しもこの世の汚れとか人間の暗い部分が含まれていない。物質やエネルギーの光ではなく真理という霊の光である。
         それに対して神の上知に反逆したサタンの悪がしこい知恵は、楽園において、蛇の形で表徴され、いかに外形は美しく見えても、内なる心の知恵において、神の言葉を自分の悪がしこさで変え、人祖をだまし不従順とならしめて、はじめて神を憎むものとならしめた。サタンの知恵は、聖書によって見るかぎり、神の知恵の働きに反抗して憎む性質がある。神の真理の光に対して不正の闇を装うものである。暗闇は光の欠如を示す哲学の論理であるが聖パウロの言葉によれば悪霊と呼ぶもので、空中を駆けまわってこの世を支配していると言う。
         アブラハムの子孫と呼ばれるイスラエルの人びとでさえも誘惑にかかって罪を犯した。神の子であるメシア、救い主であったイエズス・キリストが出現しても、イスラエルの彼らはいわれもなく彼を憎んで十字架の死刑を求めたのである。
         世界人類に対してイエズスの福音によって救いの教えが完全に説かれており、それは人間にとって唯一の希望と喜びと善となるべきものであったにもかかわらずそれを無視して、今なお無神論的世俗の快楽を追い求めて、人間は神の子であるキリストを憎んでいる。サタンの知恵は今なお働いており、この世から神の絶対的存在を抹殺するかのように働きかけ、また、人間の支配を、それが絶対的所有であるかのごとく考えさせるよう、人びとに見えないように働きかけている。神は世の存在をもともと無から創造されたが、被造物は神の外側とも言うべき時間と空間の次元のもとに創られた存在である。神の宇宙創造の計画から推し量って見れば、この世は一時的仮の世界であって、永遠の輝く世界を目的とした過ぎ去り滅び去る運命にあるものである。神は全知全能の計画のもとにやがて世界を新しく創り変えることを、世の終末として預言している。「被造物も、やがて腐敗への隷属から自由にされて、神の子どもの栄光の自由にあずかるのです。わたしたちは今もなお、被造物が皆ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを知っています」(ローマ書8・21〜22)。これはこの世に属する者と神の国に属する者との対極的な運命をのべていることになる。 

        この世はあなたたちを憎む

        2015.07.13 Monday

        0
          安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

          第二章

          この世はあなたたちを憎む

           《もしこの世があなたたちを憎むなら、あなたたちよりも先にわたしを憎んだと知るがよい》(ヨハネ15・18)
           人間がこの世に生まれてきて、天地創造の神と、神の子であるイエズスの存在を知るほど大事なことはない。神なる父から遣わされた神の子であるイエズスが本当の意味で神の姿であることを知るならば、世界人類にとってこれほど尊ぶべきことはなく、諸手をあげて歓迎してもしすぎることはないであろう。人類の歴史を見るに、人びとは自由の好みによって神々をつくり、それに拝跪していた。それらの恣意的につくられた神々を崇拝する人びとの中に三位一体の唯一の神の子が救い主となってあらわれて来て活動を開始すると迫害が起こるようになった。
           聖書の記録によれば、イエズスの誕生の際に東方の博士たちの一行が不思議な星に導かれて、エルサレムのヘロデ王宮を訪ねたあと、聖書の預言に教えられて、ベツレヘムで救い主に出会って礼拝したのである。このことを知ったヘロデ王は、救い主を殺すためにベツレヘムの町の多くの幼子たちを皆殺しにしたと伝えられている。
           またイエズスは最後の晩餐の席で、自分がこれから起こるユダヤ教の裁判によって死刑に処せられることを告げて、彼の福音を受け入れない者たちからあなたがたも全世界にわたって、それもこの世が終わるときまで憎まれ、迫害される運命にあると教える。
           人類の始まりと同時に宗教は起こったと考えられるが、それ以来、数知れず行われた民族間の争いの中で、宗教も迫害を受けつづけた。歴史を見ると、唯一の神の教えであるキリストの福音、つまりキリストの教えを信じて殉教した者の数は、他宗教と比べて比較にならないほど多くある。二十一世紀を迎える今日でも、共産圏のみならず、民主国家の国でも、子どもたちの教育の場で、神の教えや神に関して教えてはならないと禁じているのは、世をあげてキリストの存在を憎んでいるといえるのではなかろうか。キリストがこの世を支配する者たちの憎しみをかっている事実は否定できない。善悪をよくわきまえている文化人でさえも、キリストを憎むのである。これはどうしたことか、神に問う意外ないと思う。その理由と言えば、神の存在を憎み、罪から救われたことを憎み、それから贖われることを忌みきらって、神なしの世界を自由に泳ぎまわって自分かってに生きることに自由の喜びを感じているためのようだ。それは昔の暴君のおごりの生活に倣うことである。
           現代の人びとは科学的無神論を謳歌して、明けても暮れてもこの世の快楽を賛美して、享受している。弟子たちののべ伝える福音書の教えはこれらの生活に反するものであるため、憎まれると言う。弟子たちが世の人びとから憎まれるということは、キリストがそうであったことと一致するので、弟子は師にまさるものではないが、師と同様に完全であることを知って喜びなさいとすすめる。

          《もしあなたたちがこの世に属していたなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛したことであろう。だが、あなたたちはこの世に属しているのではなく、わたしがあなたたちをこの世から選び出したのだ。それだから、この世はあなたたちを憎むのである》(ヨハネ15・19)
           簡単に言えば、イエズスが弟子たちを選んで世俗の生活から呼び出して神の道を歩むように神の言葉を聞かせた。その上、自分の模範に従って天の御父への道を歩むようにとすすめ、この世の所有物でないように切り離し、天の御父の意志を求めて自分に従うようにして、世に属する者の権利を捨てさせたのである。イエズスが最初に選んだ人たちは、ユダヤ教に属する司祭たちとか律法学士のようなファリサイ派の人たちではなく、ガリラヤ湖畔に働いている漁師であったペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレと言った無学な労働者たちであった。
           弟子たちがイエズスに招かれたのは、人の目には見えない霊的な神の国に属するためであって、そえには苦しみが伴う生活が待っているとはっきりわかるように教えなければならなかった。世間の人びとから悪く言われ、悪いことをしないのに迫害されるのは、一般的に言えば不条理であるが、そのことが正当化されているかのように、世の人びとから迫害される。その理由を問えば次のようであるとイエズスは言う。あなたがたは以前は世俗に属して世の精神で生きていたため、肉親や身内との関係は親しいものとして結ばれて愛に抱かれる生活を送っていた。その時は血のつながりによって誰とも敵対することがなかったが、今はそうではない。イエズスと親しい関係に入って天の国に呼ばれて天に属する弟子となったのである。天に属する者、神の子の権利が与えられている者となったために、地上の者はあなたがたをすべて敵とみなして戦いを挑んでくる。そのために世から憎まれて、イエズスが迫害されたようにこの世から迫害される運命になると教える。イエズスに呼ばれて彼の弟子となった者のうちにも、彼を離れて世間にかえる者があり、その神の国を捨てた者がいっそう烈しくイエズスを憎み迫害することになるが、これはこの世が続くかぎり繰り返される運命である。
           この世の精神は、自分に属する者を愛して離さないと頑張る。イエズスもまた神の子として呼びかけた人びとを神の選びとして受け入れて、神の言葉、真理を絶えず繰り返して教える。天と地が全く相異なっていることが迫害の原因でもある。召された者は自分の内なる肉欲と闘い、霊的に肉的自己を捨ててキリストの愛に燃えて、いっそう天に属する者として励むゆえ迫害が及ぶのである。

           《『僕は主人に勝るものではない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。わたしを迫害した人々なら、あなたたちをも迫害するであろう。わたしの言葉を守った人々なら、あなたたちの言葉をも守るであろう》(ヨハネ15・20)
           イエズスは弟子たちへの将来の迫害を預言して「僕は主人に勝るものではない」とたとえを用いて、迫害のなりゆきを説明する。主人である者を迫害する者は、やがてその福音をのべ伝える使命を受けた弟子たちにも同じように繰りひろげるものである。世の生活に甘んじて楽しんでいる者は、この世の生活を目的として世に属している者であり、この世ではなく神の国に仕えている者は神の世界に属する者であって、全く相反した国の主人に仕えている者のようである。キリストの生活は、この世に仕えるものではなく、霊的に天の御父に仕えるものであった。彼の歴史的出現は、天から遣わされた者としての使命をこの世の働きを通して実現するためであった。今日の二千年の時代においてもそれはなんら変わることなく、信仰の世界においてわたしたちも彼の弟子と同じく、福音に従って生きるならば天に属しているのである。自然の生活のみでは、たとえいかに時代や政治の変化があっても、世に属していることには変わりがない。共産圏の国々を見ても、また民主主義の世界を見ても、個人主義的利益をむさぼり、多くの人が飢えているのにも目を向けず、無神論を奉じて快楽を生きる目的としているのでは、世に属する生き方であり、天に属するものではない。
           イエズスの福音はあくまでも神を中心とし、神の国の建設を目的としたもので、それはこの世の人びとが信仰をもって神の言葉を受け入れて、救いの恵みに喜びの希望をおき、神の愛をもって受けることである。このように生きる人は「わたしの言葉を守った」人なのであると主であるイエズスは言っている。また、その言葉に続いて「あなたがたの言葉をも守るであろう」と言っているのは、弟子たちの愛の言葉である願いを守ると約束しているのである。弟子たちがこの世に残って生きていようと、神の言葉をあくまでも純粋に守って伝えなさいと注意を促しているようだ。この役目はイエズス自らが弟子たちに与えるもので、他に変更することなく忠実に守りつづけなさいと言う。世間がどのように変化を重ねても、神の言葉をかえてはならない。神に仕えて忠実に働く者はすべて聖霊の力に守られているので、あなたがたの言葉も同様にわたしの言葉として守られているとの約束であった。

           《しかし、人々は、このようなことをすべて、わたしの名を信じたということで、あなたたちに行うであろう。わたしをお遣わしになった方を知らないからである》(ヨハネ15・21)
           イエズスの名のゆえに、と言うのは救い主であり、罪の贖い主であり、また三位一体の神から遣わされた神の子であるということで、それは天に属するとの理由からこの世に属する者たちがこぞって迫害に立ち上がることを意味する。それは神に反する霊の働きである悪霊のしわざであって、その霊の支配を示すものである。神の信仰のない者はもちろんのこと、信仰のある者も、キリストの真の生命に欠けたる者も、人間の知識によりすがる者も同様に神の子の名を迫害する。その深いわけをイエズスは簡単に説明して、彼らは天の御父を本当に知らないからであると言っている。外面的な人間の自然の能力の知識によって、または哲学的知識によって、それよりも深い神学的知識によっていても、人間の傲慢と高ぶりによって信仰がゆがめられていれば、神の子があらわれても、受け入れないで迫害するものである。教会の長い歴史の中には、たくさんの聖人聖女が教会の人びとから迫害を受けた事実もある。この点において有名なフランスのジャンヌ・ダルクはその一人であった。ヨハネの福音を引くまでもないが参考のために引いてみよう。「み言葉の自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)
           ユダヤ教の二千年の歴史の背景をもった人びとも、最後に神の子イエズスがあらわれて、言葉と奇跡としるしをもって真実を告げたのに、偽りのキリストとして十字架にかけて殺してしまう。それこそ愚かな人間の知恵であった。
           神の御子を受け入れるこの世の人びととはどういう人であるのか聖書を引いてみよう。「み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、人間の意思によってでも、男の意思によってでもなく、神によって生まれた」(ヨハネ1・12~13)。聖書はその人たちの心の素姓をこう述べている。自然の人間がいかに才能に恵まれたと言っても、またいかに努力し働いて修行したとしてもそれだけでは神の子の四角を得ることはできない。それにただ一つの可能性がゆるされているとすれば、神によって生まれること以外になく、また神によって選ばれて天の御父の恵みを受けて彼を本当の意味で知るしかないのである。

          つづく