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2017.01.04 Wednesday

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    マリア・シンマによる覚え書き

    2016.02.20 Saturday

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      『煉獄の霊魂の叫び』マリア・シンマ著 (天使館発刊)より

      第二部 マリア・シンマによる覚え書き 

      奉献されてもいないわれわれの手の上に、ご聖体を受けてもよいのだろうか

       ある司祭の霊魂が私のところに来ると、自分は非常に苦しまなければならないので、彼のために祈ってくれるようにと願いました。それ以上のことは何も言うことができずに、消えました。その後、他の霊魂がそのことについて私に説明してくれました。
      「あの司祭はとても苦しまなければなりません。なぜなら彼は、信者の手にご聖体をくばる方式を取り入れたうえに、ひざまずいてご聖体を受けるために必要な拝領台も取り去らせてしまったからです。取り去られた拝領台をもとの場所に置き直し、あの司祭によって、手の上にご聖体を受けるように習慣づけられてしまった人々に、もうそのようにしないように奨励することによって、この霊魂を助けることができます」。
       私が、その土地の教区長にこのことを話しますと、非常な理解を得ることができました。教区長は言いました。
      「手の上へ聖体拝領を取り入れたのは、私じゃありません。拝領台については、私としてもこの願いをかなえるように試みることはできますが、その場所の司祭に決定させるようにするべきでしょう」。
       また別の司祭の霊魂も何回か私の所に来て、彼も教会の中の拝領台を取り去り、信者に立ったままで聖体拝領をすることを強制する結果をもたらしたために、とても激しく苦しんでいると訴えました。
       このような事実から考えますと、そこには何かうまくいかないことがあるということが理解できます。パパ様が、立ったままでもご聖体を受ける許可をお与えになったということは本当です。しかし、ひざまずきたいと願う人には、それが可能であるようにしなければならないのです。また私達も、このことを各司祭に主張することができます。
       もし神父様や司教様たちが、手の上への聖体拝領の方式を取り入れたことについての彼らの責任が、どれほど大きなものであるかを知ったなら、勿論それをしないでしょうし、人々に許すこともしないでしょうに。

       もう一つ、非常に現実的な話題について触れなければなりません。現代では時代が変わったということは明白です。私達は、一つの現代的世の中に生きています。しかし、神の掟まで現代化することはできません。神の掟は、いまだに宗教の教えの重大な一部を形成しています。重要な信仰の真理の幾つかを疑わせたり、それを沈黙のうちに放置させようとする「オランダ式教会要理」は、除去するようにしなければなりません。新たに昔の公教要理の本を何千冊も印刷しているスイスのように、伝統的カテキズムに戻ってください。子供たちが、正当な教えを受けることができるようにです。もし司祭やカテキスタがそれをしないようならば、そのときは両親がしますように。


      日曜日を聖化すること

       私が講演会を行うときには、ある霊魂が、祝日を聖化することについて常に言及するように、という使命を私に与えました。事実人々はこの日に、どうしても必要であるというわけではないのに、無益な仕事をします。
       さらに、ミサは土曜日ではなく、日曜日に行かなくてはなりません。土曜日のミサは、ただ日曜日に行く可能性がない人たちのためにだけ導入されたのです。たとえば若者たちが(日曜日)に、遠足に行かなくてはならないときなど、そのようなときには土曜日にミサに行くことが許されています。しかし、習慣としてそうすることは許されません。私は土曜日のミサに行く。そうすれば日曜日に行かなくてすむから。こんなふうにすることは駄目です。神のみ前において、こんな風にすることはできません!
       煉獄の霊魂たちは、また言います。他の言語を話す人たちも、心を集中して主日の典礼にあずかれるように、ラテン語は母国語と併用して置かれることが望ましいと。パパ様も、このように望んでおられます。


      現代様式による教会建築

      「現代的な教会の建物について、何か言うことがありますか?」と聞かれました。この分野についても煉獄の霊魂は、正しいこととそうでないことを区別します。現代的教会建築について私は反対である、といって叱られました。それは本当ではありません。これらの教会が心の集中を妨げない限り、私は現代的建築様式に反対ではありません。しかしこのような教会の中に、醜かったり、気持ちの悪い印象を与えて恐怖を起こさせるようなご像や絵画があるとき、それは確かに悪魔の作品であり、神のものではありません!
       私はこのことを言わなければなりません。例えば、ウィーンのエッツェンスドルフ、聖ロザリオ教会で見たことは、一つの愚弄であり恥です。主の家における恐怖です。私は、いったい誰があの教会の企画をしたのかと尋ねてみました。すると、それはフリーメイソンの人であったことを知りました。この教会は、まさにその痕跡を有していたのです。
       チロルのルンツでも現代様式の教会を見ましたが、それを見た私は喜びました。どうしていつも、あのようにしないのでしょうか。ご聖櫃は正しい場所に、ご聖体があるべき教会の中心に置かれていました。両脇には、そこでご聖体を拝領することができるように拝領台があります。ひざまずいて受けたい人は、そうすることができます。または立ったままでもできるように、中心部にそのための空間があります。
       美しいマリア様のご像もあります。この教会には、遠くに住んでいる人たちもやってきます。なぜならば、多くの人々はもはや、破壊されてしまったような小教区教会には行かなくなってしまったからです。その多くにおいては、現代の聖像破壊者たちが、聖なる雰囲気をかもし出していたもの全てを投げやってしまったからです。
       私が訪ねたうちの二つの教会では、もう聖水入れを見つけることができませんでした。私はその理由を尋ねました。
      「ここはカトリック教会だというのに、どうして聖水盤がないのですか?」。
       それは、司祭がこのようなことはばかばかしいモードだから、と言ったからということでした。それは私は答えました。
      「彼は、煉獄でもう一度、このばかばかしいモードに出会うでしょうよ」。


      もはや人は、罪の自覚をなくしてしまった

       多くの場所では、赦し(告解)の秘跡の実行も廃(すた)れてしまいました。この秘跡は、キリストご自身が制定なさったもので、多くの人たちが信じているように、教会によるものではありません。事実、キリストは仰せられました。
      「聖霊を受けなさい。だれの罪であれ、あなたたちが赦せば、その罪は赦され、赦さないでおくなら、赦されないままである」(ヨハネ20・23)。
       ですから、罪は告解されなければなりません。そうでないならば、いったいどうしたら司祭は、それを赦すか否かを決めることができるでしょうか?
       ある日一人の人が私に言いました。「でもキリストは、告解場に行って罪を言わなければいけないとはおっしゃいませんでした」。
       私はそれに答えました。「はい、キリストは、そうはおっしゃいませんでした。では、告解室の外で司祭から赦しを与えてもらうことができるように、もし人々の前で告白することをあなたが好むなら、そうしてもいいんですよ。どっちにしても、あなたは自分の罪を言い表さなければだめなのです」。
       様々な理由をつけて個人的告白を、たとえば黙想によって行う償いなどで代用しようとします。このような教会では、告解の実行は著しく減少します。ローマ、及びオーストリアの司教団も、大罪を犯した人を共同告解などによって赦すことは不可能である、ということを、非常にはっきりと宣言しました。ですから共同告解は、決して個人的告解に取って代わることはできないのです。
       さらに、初聖体を受けようとしている子供たちにも、告解をさせないですまそうとする傾向があります。このようなことは許されるべきではありません。教皇様はすでに2回にわたって、初聖体に先立って、赦しの秘跡が執り行われなければならないと、はっきり言われました。残念ながら、多くの司祭たちはパパ様に従いません。彼らはきっとこのことを、いつか苦い心をもって償わなければならないことでしょう。
       煉獄の霊魂たちは私達に、教皇様のために祈るようにと絶えず奨励します。パパ様がおっしゃることを注意深く守り、自己の良心に従うことは、現在とても大切なことです。
       ウルムという所で、私はまだ赦しの秘跡を受けたことがない15歳の少年たちに会いました。私は、なぜ告解をしたことがないのかと彼らに尋ねました。
      「初聖体を受ける機会に、それは許されなかったんです。そのあと、小学校6年のときに告解するチャンスがあったけれど、僕達はお互いに尋ね合いました。「君、あの時よりもっと何か告白すべき罪がほかにある?―そうだな、ちょっとけんかしたとか、言うことをきかなかったとか、そんなこと以外にはないな。―よし、それじゃ、いいや!―と僕達は言いました。―初聖体を受ける前にしなくちゃいけなかったと思うけれど、しませんでした。それで、告解する習慣をつけなかったので、もうしなくなっちゃったんです」。
       このことでも分かるように、初聖体を受ける前に赦しの秘跡に近づくということは、まさに少年たちの良心を形成するために、とても大切なことなのです。多くの改革者たちが、司教様たちの教えに従いませんでした。彼らは健康な草花までも、そのすべてを頑固に刷新してしまったのです。その結果今彼らは、信徒たち、特に子供たちが、もう彼らに従わなくなってしまったという事実を認めなければならない状態です。

      煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣

      2015.08.01 Saturday

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        『煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣』マリア・シンマとのインタビュー(高間友の会発行)から抜粋

        愛の傷

        この霊魂たちはあなたに何を頼みますか。
         大抵の場合、ミサをあげてくれるようにと。そしてそのミサに与ってくれるように頼むのです。またロザリオを唱えてくれるようにとか、十字架の道行きをするようにとも頼むのです。
         この時点でひとつの疑問がわいて来ます。煉獄とは正に、どういうものですか。それは神の驚くべき考察だと言うべきです。私自身のイメージを述べさせてください。
         ある日のこと、ドアが開いてかつて地上では見たことのない美しい人が、それも極めて美しくまた壮麗な姿で現れたと想像してください。あなたはこの人の輝きと美しさに心を奪われ圧倒されてしまうでしょう。それどころか彼があなたを必死で愛していることを示しています。―あなたは今までにこれほど愛されていることを夢にも見たことがなかったのです―彼があなたを自分に引きつけてあなたを抱きしめたいという強い願望があることを感じるのです。そしてあなたの心にすでに燃えている愛の炎があなたを彼の胸の中へ飛び込むように押しつけるのです。
         ところでちょっと待ってください。この瞬間にあなたは何ヶ月も間身体も衣類も洗っていないので自分が悪臭を放っていることを実感するのです。鼻水が出ているとか髪の毛が油で汚れていてもつれているとか洋服に大きな汚いしみがある等と。そこであなたは独り言を言うのです。「いや、この状態ではちょっと人前には出られない。まずシャワーを浴びにいかなければ、…きれいに身体を洗ったらすぐ帰って来よう。」と。
         しかしあなたの心に芽生えた愛は非常に強烈で、すごく燃えていて、とても強いので、シャワーを浴びる時間が耐え切れないほど長く感じるのです。たとえそれがほんの二〜三分だったとしても、不在の痛みは心の残虐な傷となって、愛の激しさに比例するのです。―それは愛の傷です。
         煉獄は厳密にはこういうものです。それは、私たちの汚れによって課せられている猶予、神の抱擁の前にある猶予であり、強烈な苦しみを起こす愛の傷、待つこと、または愛のノスタルジアです。この燃焼、この郷愁はまさに、私たちの中にまだ残っているあらゆる汚れを洗い清めるのです。煉獄は熱望の場、神に対する気違いじみた熱望、私たちがすでに知っている神への渇望の場です。この神と出会ってはいるのですがまだ彼と結ばれていません。煉獄の霊魂はマリアに度々、自分たちがどれほど神を慕い求めているか、この強烈な望みはどれほど自分たちを苦しめるかを語るのです。死の苦悶のようなものです。
         さて私は基本的なポイントを明白にするためにマリアに尋ねることにします。

        マリア、煉獄の霊魂は苦しみの中にあっても喜びと希望を持っていますか。
         はい。どの霊魂も煉獄から地上に戻ることは望んでいません。彼らは私たちの知識をはるかに超える知識を持っています。地上の暗闇に戻ることを望むことは絶対に出来ないのです。

        これで彼らの苦しみと地上での苦しみの違いが分かります。煉獄では霊魂の痛みはひどくても、神と共に永遠に生きるという確信があります。それは揺るぎない確信です。痛みよりも喜びの方が大きいです。この地上にもう一度住んでみたいと思わせるものは何もありません。地上には確信できるものが一つもないからです。

        マリア、煉獄に霊魂を送るのは神ですか。それとも自分でそこへ行くことを決断するのですか。今話してくださいますか。
         霊魂自身が煉獄に行きたいのです。それは天国へ行く前に清い者になるためです。

         煉獄の霊魂は完全に神の意志を固守します。彼らは善を喜ぶのです。彼らは私たちの善を望んでいます。とても愛します。神を愛しています。私たちのことも愛しています。彼らは完璧に神の霊、神の光に結ばれています。

        マリア、死の瞬間に人には神がはっきりと見えますか。それともぼんやりと見えますか。
         ぼんやりと見えるのですが、やはりそれは霊魂の中に神に近づきたいという強烈な熱望を起こすほどの明るさです。
         それは実際には地上の闇と比べればまぶしいほどです。が、霊魂が天国に着く時に見る完全な光と比べれば暗闇に等しいです。ここで『臨死体験』を参考にすることが出来ます。霊魂はこの光に強烈に引き付けられるあまり、その体験の後に再び身体に戻ってくるのは死の苦悶に等しい苦しみです。


        愛は数多くの罪を償う

        マリア、煉獄の霊魂に対する聖母の役割は何でしょうか。話していただけますか。
         聖母は度々彼らを慰めに来られ、彼らが多くの善行をしたとおっしゃって彼らを勇気づけられるのです。

        聖母が彼らを解放する特別な日がありますか。
         特にクリスマス、諸聖人祭、聖金曜日、キリストの昇天、聖母の被昇天です。

        マリア、なぜ人は煉獄へ行くのですか。煉獄へ行く最大の原因となるのはどんな罪ですか。
         愛に反する罪です。自分の隣人への愛に反する罪、心のかたくなさ、敵意、悪口、中傷―そのようなものすべて。…人について悪いことや本当でないことを言うのは自分を最も汚す罪の一つであり、長期間の清めを必要とします。

         ここでマリアが本当に心を打たれたという実例をあげました。彼女はある女とある男が煉獄にいるかどうかを調べるように頼まれました。依頼した人々の驚いたことには、女はすでに天国に入っていたのですが男はまだ煉獄にいました。事実、この女は堕胎の手術中に死んだのに、男は通常、教会に通っていて正しい信仰生活を営んでいた様子でした。
         そこでマリアは勘違いをしたと思っていっそう正確なことを調べました。しかし間違いではなかったのです。二人はほとんど同じ頃に死んだのですが、女の方は謙遜に自分の罪を認めて深く回心したのに対して、男はみなを批判し、いつもぶつぶつと不平ばかり言って他人の悪口を言っていたのです。この女の葬儀の時、「このならず者が教会の墓地に葬られるべきではない」ときつく批判したのです。そのために彼の煉獄滞在期間は非常に長かったのです。そこでマリアは、「外見によって判断してはいけない」と結論を引き出しました。…

        マリア、どうか教えてください。まっすぐに天国へ行く最大の可能性のある人はどういう人ですか。
         すべての人に対して良い心のある人です。愛は多くの罪を償います。
        そう通りです。聖ペトロもこのように話しています!(第一ペトロ4・8)

        煉獄に行くのを避けて天国へ直接行くためには 地上の生活においてどうしたら良いでしょうか。
         煉獄にいる霊魂を助けるために大いに働かねばなりません。その代わりに彼らは私たちを助けてくれます。ずいぶん謙遜でへりくだっていなければなりません。これが悪に対する、また悪しき者に対する最大の武器なのです。謙遜は悪魔を退散させます。


        彼らのためにミサを捧げる

        マリア、霊魂を煉獄から救い出すのを助ける一番効果的な方法は何ですか。話してくれますか。
         最も効果的な方法は、ミサを捧げることです。

        なぜミサなのですか。
         ミサの中でキリストが私たちへの愛ゆえにご自身をお捧げになるからです。そこでキリストがご自身を神にお捧げになるので、それは最も完全な奉献です。司祭は神の代理をするものですが、私たちのためにご自身を捧げてご自分を犠牲にするのは神ご自身です。示死者のためのミサの効果は生存中にミサを大切にしていた人にとって更に大きいです。ミサに参加してそこで心から祈った人、時間の許す限り平日のミサに与った人なら、自分たちのために捧げられたミサから大きな助けを受けます。この場合にも人は自分が蒔いたものを刈り取るのです。
         煉獄にいる霊魂には、自分の葬式の日に人々が自分のために祈っているか、ただ参加していることを見せるためだけであるかがはっきりと見えます。哀れな霊魂は、涙は自分たちのためにならないと言っています。祈りだけが助けになります。人々が葬式に来ても神にひとつも祈らないことを、度々嘆いています。彼らは涙を流しますが、それは無駄です。

        ミサに関して私はアルスの聖なる司祭、聖ヨハネ・ビアンネが小教区に伝えた美しい実例を引用します。彼は彼らに次のことを話しました。
        「私の子供たちよ、ある善良な司祭が愛情を込めてかわいがっていた一人の友人を失うという不幸に見舞われました。それで彼はその霊魂の安らぎのために一生懸命祈りました。
        ある日、神は彼の友人が煉獄にいて非常に苦しんでいると彼に知らせました。その聖なる司祭は死んだ愛する友のためにはミサの聖なる犠牲を捧げるほかないと信じていました。聖変化の時、彼は手にホスティアを取って言いました。『聖なる永遠の父よ、交換させてください。あなたは煉獄にいる私の友人の魂を手に持っておられます。私は両手にあなたの御子の身体を持っています。ああ、善良で慈悲深い父よ、私の友人を救ってください。そうすれば、私は御子の死と受難のすべての功徳と共に御子をあなたに捧げます』
         この願いはかなえられました。実に、ホスティアを高くかかげたとき彼には友人の魂が栄光に輝いて天国に昇っていくのが見えました。神はこの取り引きを受け入れてくださったのです。
        「子たちよ、私たちにとって大切な魂を煉獄から救いたい時は同じようにしましょう。聖なるいけにえを通して、その死と受難のすべての功徳と共に神の愛しておられる御子を神にお捧げしましょう。神は私たちに何一つ拒否することはお出来にならないのです。」


        地上での苦しみを無駄にしないで下さい

         哀れな霊魂を助けるためにとても力強いもう一つの方法があります。すなわち自ら捧げる断食、苦行、節制等のような私たちの苦しみ、またもちろん病気や哀悼のような望まなかった苦しみも含めて。

        マリア、あなたは哀れな霊魂を救い出すために彼らのために苦しみを受け入れることを何回も頼まれたのですね。その時あなたは何を体験し何を耐え忍んだかを話してくださいませんか。
         初めての時、ある霊魂は私が肉体的に彼女のために三時間苦しむように頼み、その後は仕事を続けることが出来ると約束しました。私は「もし三時間で終われば受け入れても良い。」と考えて受け入れました。その三時間はあまりにも苦しかったので三日間も続いたと思っていました。しかし、終わってから時計を見ると三時間経っていただけでした。
         その霊魂は、私が彼女のために愛をもって三時間苦しむことによって彼女の煉獄の二十年間の苦しみの免除を得た、と言いました。

        分かりました。でもどうして三時間だけ苦しむことによって煉獄の二十年間の苦しみの免除を得させることが出来たのですか。あなたの苦しみにはどのような特別な価値があったのでしょうか。
         地上の苦しみには違う価値があるからです。地上では私たちは苦しむ時、愛において成長することが出来、功績を得ることが出来ます。しかし煉獄の苦しみの場合はそうではありません。煉獄では苦しみは霊魂を罪の結果から清めるためだけなのです。地上ではすべての恵みが与えられています。それは選択の自由が与えられているからです。

         これはとても勇気づけられることです。というのは、苦しみには特別の意味があるからです。自発的に捧げる苦しみ、仕方なく耐え忍びながら捧げる苦しみ、もっとも小さな犠牲、病気、悲嘆、失敗などを忍耐をもって耐え忍び、謙遜をもってそれを歓迎するならば、その苦しみは霊魂を助けるのに並外れた力を持つのです。
         マリアはこう語ります。成すべき最善のことは聖母マリアの御手の中に苦しみを置くことによってイエス様の苦しみに私たちの苦しみを結び付けることだと。聖母マリアは苦しみをどのように利用するかを最もよく知っている人です。しばしば私たち自身は自分の周りにある最も緊急な必要を知らないのです。
         勿論、これを全部聖母マリアは私たちの臨終の時、私たちに返してくださるのです。
        もうお分かりでしょうが、捧げられたこれらの苦しみは来世で私たちの最も貴重な宝物になるのです。私たちはめいめい互いにこのことを思い出させなければなりませんし、また苦しむ時には互いに励まし合わなければなりません。


        そして祈りを惜しまないでください!

         とても効果的なもう一つの方法は十字架の道行きであるとマリアは言っています。なぜなら、主の苦しみを熟考することによって私たちは少しずつ罪を憎み始め、すべての人々のための救いを渇望し始めるからです。そしてこのような気配りは煉獄の霊魂の苦しみを大いに和らげるのです。十字架の道行きは私たちの中に回心する心を起こすのです。私たちは罪に直面させらととき回心し始めます。
         煉獄の霊魂に大変役立つもう一つのことは、死んだ人たちのためにロザリオ十五玄義を全部唱えることです。ロザリオの祈りを通して毎年多くの霊魂が煉獄から救われています。霊魂を救い出すために煉獄へ来るのは神の母ご自身なのです。これはとてもすばらしいことです。煉獄の霊魂は聖母マリアのことを「慈悲の御母」と呼んでいます。
         霊魂たちはマリア・シンマに免償は自分たちの解放のために計り知れない価値があるとも言うのです。教会が霊魂の益になるために提唱するこの貴重なものを利用しないのは時には無慈悲なことになります。…ですから煉獄の霊魂を助ける大きな手段は一般に祈りです、それもあらゆる種類の祈りです。

        ここで私はヘルマン・コヘンの証しを伝えたいと思います。彼は1864年にカトリックに改宗したユダヤ人の芸術家で、御聖体を非常に崇敬しました。彼は世俗を離れて大変禁欲的な修道会に入りました。彼は御聖体に対して大きな崇敬をもっていたので、しきりに崇拝していました。崇拝中彼は、とても愛していた自分の母親を改宗させるように主に乞うのが習慣になっていました。ところが彼の母は改宗しない内に死んだのです。それでヘルマンは悲しみに沈み、深く嘆いて御聖体の前にひれ伏して祈ったのです。
        「主よ、私はあなたからすべてを頂いています。それは事実です。が、私はあなたに何を断ったでしょうか。私の若さ、世の巷での希望、幸福、家庭の楽しみ、求めても良い安息、それらすべてをあなたが私をお呼びになった時すぐ捧げました。永遠の善なる主よ、あなたは百倍にして報いてくださると約束してくださいました。それなのにそのあなたが私の母の魂を拒否なさいました。私の神よ、私はこの苦難に屈服します。不平を言うことをやめます。」彼はおいおいと泣きました。すると突然、不思議な声が彼の耳を打ちました。
        「信仰の薄い者よ! あなたのお母さんは救われています。私の面前では祈りは何でも出来るということを理解しなさい。あなたがお母さんのために私の頼んだことは全部聞き入れました。だから私の摂理はお母さんが死ぬ時にお母さんのことを考慮したのです。
        「彼女が死んだ時、私は彼女のところへ行きました。彼女は私を見て叫びました。『私の主よ、私の神よ』と。勇気を出しなさい。あなたのお母さんは地獄に落ちることを避けました。だから熱烈な嘆願の祈りが間もなく煉獄の束縛から彼女を救うのです。」
         ヘルマン・コヘン神父はその後間もなく、二度目の出現を通して母親が天国へ昇って行ったことが分かったのです。

         大切なことを少し付け加えさせてください。煉獄の霊魂たちはもはや自分たちのためには何も出来ないのです。彼らは全く無力なのです。もし生きている者が彼らのために祈らないならば、彼らは全く見捨てられてしまうのです。ですから苦しんでいるこれらの霊魂を救い出すために私たちはめいめいがそれぞれの手中に広大な力、信じられないほどのすばらしい力を持っていることを本当に理解するのはとても大切なことです。…

        マリア、地上で功績を得ることが出来るのに、煉獄ではどうして功績を得ることが出来ないのですか。
         死の瞬間に功績を得る時が過ぎてしまうからです。地上に生きている間は私たちが犯した罪を是正することが出来ます。煉獄にいる霊魂は私たちに与えられているこの可能性をうらやむのです。天使たちさえ私たちを羨みます。なぜなら、私たちは地上で生きている間は、成長することが出来るからです。


        死の時点

        死の時点で痛悔または回心の役割は何ですか。
         痛悔は非常に大事です。痛悔によって罪は必ず赦されますが、罪の結果は残ります。死ぬ時に全免償を受けたいならば―それはまっすぐ天国に行けるという意味です―心はあらゆる執着から解放されていなければなりません。

         ここで私はマリアが話してくれた非常に重大な証しを分かち合いたいのです。親戚の人たちがきっと永遠に滅びただろうと信じていた女の人の正体を聞くように、マリアは頼まれたのです。なぜなら彼女は凄まじい生活をしていたからです。彼女は事故に遭い、列車から落ちて死んだのです。ある霊魂がマリアに、この女の人は救われた、地獄から救われた、と言いました。なぜなら、死ぬ時に彼女は神にこう言ったのです。「あなたが私の命を取られるのは正しいことです。私はもうこれ以上あなたに背くことは出来なくなりますから。」と。この言葉が彼女のすべての罪を消してしまったのです。
         この実例は非常に重大です。それは、死ぬ時のほんのわずかな謙遜と回心の瞬間が私たちを救うことが出来るということを示しているからです。これは彼女が煉獄へ行かなかったという意味ではありません。が、地獄は避けられたのです。彼女は自分の不信仰のゆえにたぶん地獄へ行くべきだったでしょうから。

        マリア、死の時点で人が永遠の世界に入る前に、まだ神に立ち戻る機会が与えられますか。―死んだと思える時と実際に死んだ時との間の一瞬―たとえその人が罪の人生を送ったとしても。
         はい、はい。主は一人一人に数分間を与えます。霊魂たちはそれを証しします。それは罪を後悔するためと、主と顔を合わせたいか否かを決断するためです。その時、自分の生涯が映画のように目に映ります。…

        死にかかっている人に対してどのような態度がいちばん良いでしょうか。彼のために出来る一番良いことは何ですか。
         一生懸命に祈ることです!死ぬために準備させることです。彼に真理を語り本当のことを言うべきです。…

        自殺した人にはどういうことが起こりますか。こういう人たちの訪問を受けたことがありますか
         今までのところ、自殺した人で永遠に滅びた人の例に遭ったことは一度もありません。それは勿論、そういうケースが存在しないという意味ではありません。が、度々、怠慢であったり中傷を広げる周りの人々の罪の方が大きい、と霊魂たちは私に言うのです。

        この人たちは自殺したことを後悔していますか。
         はい。しばしば自殺は病気の結果です。この霊魂たちは自分たちの行為を後悔するのです。彼らは神の光の中で物事が見えるのですから。彼らは、彼らがまだずーっと生きるために残してあった時間に彼らのために用意してあったすべての恵みを即座に理解するのです。―彼らのために残してあったこの時間を、時には何ヶ月もあるいは何年も、しかと見るのです―また彼らには、神に命の残りを捧げることによって助けて上げることが出来た霊魂たちすべてが見えるのです。ついに彼らの心に最も堪えるものは、彼らが自分の命を短くしたたために、出来たはずだったのにしなかった善業を見ることです。
         しかしその原因が病気の場合は、主は当然これを考慮に入れてくださいます。

        たとえば、私が肉体的にあるいは精神的にあまりにも苦しみ、その苦しみがあまりにもきつくて死にたいと言えば、私は何をすることが出来ますか。
         はい。これは非常によくあることです。私だったらこう言います。「私の神よ、私はこの苦しみを霊魂を救うために捧げます。」と。そうすれば、主は私に新しい信仰と勇気を与えてくださいます。しかし最近はもうこのように誓う人は一人もいません。これを行うことによって魂は大きな至福、すなわち天国での大きな幸福を得るのだと、言うことも出来ます。天国には何千種という異なったタイプの幸せがありますが、各自が完全に幸福なのです。望みはすべてかなえられていますから。もうこれ以上何も報いられないことを皆は知っています。

        マリア、お尋ねしたいのです。他宗教の方―たとえばユダヤ教徒―があなたを訪れて来たことがありますか。
         はい。彼らは幸せです。信仰をよく生きる人は誰でも幸せです。でも神のもとへ行くために最も多く獲得するのはカトリックの信仰を通してです。

        霊魂にとって悪い宗教がありますか。
         いいえ。しかし地上には非常に多くの宗教がありますからね! いちばん近いのはギリシャ聖教とプロテスタントです。ロザリオを唱える多くのプロテスタントがいます。が、宗教的なセクトはとても有害です。宗教的なセクトから人々を引き出すためにあらゆる方法を使うべきです。

        煉獄に司祭はいますか。
        (マリアは天に目を向けて「ああ!」と言って)
         はい、沢山います。彼らは聖体祭儀に対する尊敬を奨励しなかったのです。ですから信仰は全体的に見て痛手を受けるのです。祈りを怠っていたために彼らはしばしば煉獄にいます。―その怠慢が彼らの信仰を弱めたのです。しかしまっすぐに天国へ行った者も沢山います。

        では、神の御心に従って生きたいと本当に願っている司祭に何と言ってあげますか。
         聖霊に対してたくさん祈り ― 毎日ロザリオを唱えるように勧めます。

        あなたは地上で性的倒錯行為を行った霊魂の訪問を受けたことがありますか。
         はい。彼らは永遠に滅んでいません。清められために大いに苦しまなければなりません。例えば同性愛、これは本当に悪魔からくるのです。

        では、同性愛で苦しんでいるすべての人々にあなたはどういう助言をなさいますか。
         それを捨てるための力強さを得るために大いに祈りなさい。特に大天使聖ミカエルに祈るべきです。彼は悪魔に対して並外れて優れた偉大な戦士です。

        魂を最終的に失うようにと私たちを導く心の持ち方、つまり地獄へ行く原因となることは何ですか。
         それは魂が神の方へ行きたくないと思う時で、その霊魂が実際に「私は行きたくない」と言う時です。
         

        罪人の審判と罰

        2015.03.01 Sunday

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          DE IMITATIONE CHRISTI『キリストにならう』バルバロ訳 ドン・ボスコ社より

          第一巻 第二十四章 罪人の審判と罰


          1 正しい審判者

           あなたは、すべてのことにおいて最高の目的を見いだしなさい。いつの日か、あなたは、すべてを見抜くお方、贈り物でごまかせず、口実が理由にならず、「正義に従って裁く」(イザヤ11・4)、厳しい審判者の前に立たなければならないと思いなさい。ああ、みじめで愚かな罪人よ、怒っている人の前でさえ震えるあなたは、すべてを知っておられる神のみ前に出て何と答えるのであろうか?なぜ、審判の日に備えようとしないのか?
           その日には、誰一人として、他人から弁護も保護も受けられない。人はおのおの十分な荷を背負っているのである(ガラテヤ6・5参照)。今こそ、あなたの苦労には功徳がある。あなたの涙は神に喜ばれ、あなたの祈願は聞き入れられ、あなたの苦しみは償いと清めになるのである。

          2 救いへの道

           侮辱を受けて、その受けた侮辱よりも相手の悪事のために悲しみ、自分に反対する人々のために快く祈り、心からその罪をゆるし、相手にゆるしを乞うのをためらわない人、また、怒るよりもむしろ優しくあわれみ、しばしば自分自身を責め、肉体をまったく霊に服させようとする忍耐を持つ人は、もはやこの世において、救いを得させる煉獄を通っているのである。
           来世で償いをするよりも、今、罪を償い、悪を根絶するほうがよい。しかし、肉体に対してもっているよこしまな愛のために、私たちは自分自身をあざむきがちである。

          3 罪の罰

           煉獄の火が燃やすのは、あなたの罪以外の何を指すのであろう?今、あなたが自分自身に甘ければ甘いほど、そして自分の肉に従えば従うほど、いよいよ苦しい罰を受け、いよいよ多量の燃料を積むのである。
           人は罪を犯した五官を特に罰せられる(知恵11・16参照)怠け者は燃える鞭打ちの枝に刺されるであろう。美食の人は、恐ろしい飢えと渇きに苦しめられるであろう。淫行の人や快楽を追った人は、燃える瀝青(チャン)*と臭い硫黄とのなかに、沈められるであろう。またねたんだ人は、あまりの苦しみに、狂犬のようにほえたけるであろう。*アスファルト
           どんな悪にも、それぞれの罰がある。そこにおいて、傲慢な人々は、恥辱におわれ、貪欲な人々は、みじめな赤貧におとされるであろう。そこにおいては、苦しみの一刻は、この世での辛い苦行の百年よりも苦しいことであろう。そこにおいては、滅びた人々のために一刻の休みも慰めもないであろう。この世では、ときどき苦労を憩わせ、友人の慰めを受けることもあるのであるが…。だから審判の日、聖人たちと共に、安全にいることができるように、今、あなたの罪を省み、それを痛悔しなさい。
           「その時、正しい人は、自分たちを苦しめた人々、迫害した人々の目の前に、毅然として立つ」(知恵5・1)。その時、この世で人間の裁きに謙虚に従った人が、ほかの人を裁きに立つであろう。その時、貧しい人と謙虚な人とは、大いなる心の平和を得て、傲慢な人はどちらを向いても恐怖におののくであろう。

          4 義人たちの喜び

           その時、キリストのためにおろか者と軽蔑された人が、この世で知恵のある者であったと知るであろう。その時、忍耐をもって甘受したすべての患難は、喜びのもととなるであろう。「悪をおこなった口は、すべて閉じられる」(詩編107・42)。その時、敬虔であったすべての人は喜び、信仰に反した人は嘆き悲しむであろう。その時、苦行をおこなった人は、つねに楽しく暮らした人よりも、喜びにあふれるであろう。
           その時、粗末な服は輝き、ぜいたくな服は黒く濁るであろう。その時、貧しい住居は壮麗な邸宅よりも称賛されるであろう。その時、世界の全権を手に握ることよりも、絶えざる忍耐のほうが、役立つであろう。その時、世間のあらゆる狡知よりも、単純な従順のほうがはるかに称賛されるであろう。

          5 徳の報い

           その時、深い学問を持つよりも、清い素直な良心のほうが、はるかに喜びをもたらす。その時、富を軽蔑したことは、この世のすべての宝を持つよりも価値があるであろう。その時、敬虔な祈りの思い出は、美味な食事の思い出よりあなたを慰めるであろう。その時、長いおしゃべりよりも、沈黙を守ったことのほうが、はるかに喜びをもたらすであろう。その時、聖なる業は、多くの雄弁よりも価値があるであろう。その時、厳しい生活と、辛い苦行とは、地上のすべての楽しみよりも、あなたを喜ばせるであろう。だから今、小さな苦しみを忍ぶことを学びなさい。そうすればその時、さらに重い苦しみを避けられるであろう。あなたが後の世で課せられる苦しみを、まずこの世で甘受しなさい。もし今、これほどわずかな苦しみを忍べないならば、どうして永遠の罰を忍べるであろう?もし今、わずかに不愉快なことさえ、これほどに忍べないならば、地獄の火はどうであろう?実にあなたには、この世で楽しみ、後の世でもキリストと共に幸福に生きるという二つながらの幸せは、ゆるされないことである。

          6 地獄の恐怖

           もしあなたが、今日まで絶えずほまれと快楽とのなかに生きてきたとしても、今を愛して、突然死が訪れたとすると、それらが何の役に立つであろう?神を愛して、神に仕えること以外は、「すべて空しいことである」(コヘレト1・2参照)。心をあげて神を愛する人は、死も、苦しみも、審判も、地獄も恐れない。完全な愛は、神への安全な道を霊魂の前に開くからである。それに反して、罪を犯しても悔いない人が、死と審判とを恐れるのは当然である。もし愛があなたを罪から遠ざけることができないとしても、少なくとも地獄を恐れて罪を避けよう。神への畏敬を重んじない人は、長く善の道に歩むことができなくなる。すぐに悪魔の罠にかかってしまうであろう。