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2017.01.04 Wednesday

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    24 原罪について

    2014.12.30 Tuesday

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      あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より
      24 原罪について

       イエズスが言われる。
      「私の母のことばは、最も理屈っぽい人のどんな躊躇も散らすはずであるが、神のことさえも、自分たち人間の尺度をもって計ろうとする人々が多くいる。神の計らいは限りなく、人間の考え方を超えているので、あなたたちも人間風にではなく、霊によって考え、神に従う努力をすれば大変、役に立つことだろう。あなたたちの考えが勝手に錠を下ろしたところにとどまるべきではない。この考えは人間の理性が完全無欠であることを前提とするので傲慢である。全く完全なのは神だけで、神は、そうするのがよいと思われれば、世間の目から見れば無知な、みじめな、愚かな、幼稚なものとして軽蔑されるような人の知恵と口を借りて啓示される。神の上智は、人間の理性の傲慢さをまごつかせるのを好むかのようである。神は、自分にこれという思想もなく、学問もない代わりに、愛と清さですぐれている人々に、ご自分の知恵を注ぐのを好まれる。人間たちよ! ファティマ、ルルド、ガダルペ、ラ・サレットのような所を考えてごらん。そこには本当の聖なる出現があった。これを見るのに召されたのは、年齢、文化、身分などからいえば地上で最も貧しいあわれな人々にすぎなかった。”聖寵”は、このような知られざるもの、”皆無に等しいもの”にご自分を現わし、ご自分の伝令とされる。その場合、人間はどうすべきか? あの税吏のように深くへりくだり、こう言えばよい。『主よ、私はあなたを知るに値しない罪びとです。このような人々をとおして私をなぐさめ、訓戒と天の案内者とを与えるあなたの慈悲は祝されよ(1)』『何だ! それは迷信、空想、異端にすぎず不可能なことだ』と言うな。頭のすぐれていない人は、神の知識を深く知ることは不可能だと言うのか? なぜ不可能か? 私は死者をよみがえらせ、狂気を治し、口を開き、目を開き、白痴に知恵を与えたではないか。私は悪魔たちを追い出したと同じように、魚たちには網の中に入ること、パンがふえること、水がぶどう酒に変わること、嵐に大凪となる
      ことを命令したではないか。神にできないことは何だろう。神の子キリストがあなたたちの中にくだる前に、神はご自分の命令で活躍していた僕たちに、奇跡を行わせたではないか。年寄りのサライは、後に私と契約を結んだイサクを産んだではないか? モーセの命令によってエジプトがさまざまの災いに襲われ(2)、イスラエルの民が通るように海が開かれ(3)、ヨシュアは太陽を止め(4)、ダヴィドが巨人を倒すなどの不思議を行ったではないか(5)? その上、新約は、それぞれの花が一つ一つの奇跡である花盛りの花壇のようではないか? 奇跡の主はだれであるか、神に不可能なことは何か? だれが神に等しいか?
       あなたたちは頭を下げ、礼拝せよ。人類の存在がなくなる前、キリストは以前とキリスト以後の預言、または創世の書の最初のことばから始まる聖書の象徴するところが知られるべきであるので、私はまだ説明されていないところについて説明する。この贈物を快く迎え、豊かな実となるようにせよ。私が人間の中にいた時に、私の訓戒に対して心を閉じ、超自然の奥義と真理とについて、私と肩を並べることができなかったために、私のことを悪魔憑き、冒涜者と言ったあのユダヤ人のようになるな。
       私は”比喩的な木”と先に言ったが、今は”象徴的な木”と言おう。そうすればあなたたちは、もっとよく理解できるだろう(6)。その象徴ははっきりしている。神の二人の最初の子らが、あの木に対してどんな態度をとるかによって、彼らには善と悪とに対して、どれほどの傾きがあるか分かっただろう。黄金を試す王水のように、カラットを量る貴金属細工師のはかりのように、その木は神の命令によって試金石となって、アダムとエバとの金属の純度の度合いを調べた。
       これについて、あなたたちの異議をもう聞いている。『そんな罰は重すぎるし、罰のもとになったあの事がらは幼稚だった』
       そうではない。あの二人の子孫である、あなたたちの”今の”不従順だったら、彼らの場合ほど重くはない。あなたたちは、もう私にあがなわれているが、サタンの毒が―ある病気にみられる後遺症のように―血の中に完全になくなることはない。しかし、あの二人は罪を知らずに聖寵を所有していたのだった。そのため愛と無垢しか産まない聖寵に支えられて、あなたたちよりも強いはずだった。だから、その賜物をもらったにもかかわらず堕落した二人の罪はより重い。
       与えられて食べてしまった、その”実”も象徴的だった。それは、神の命令にそむいてサタンのそそのかしによって、味わおうとした経験の実であった。私は人間に愛を禁じたのではない。ただ悪意なしに相愛すること、それだけを望んだ。私が彼らを清く愛したと同じように、彼らはどんな肉欲にも汚されない清い愛をもって相愛すべきであった。
       聖寵は光であり、これを所有する人は、何を知ってよいかも分かる、ということを忘れてはならない。”聖寵に満ちあふれるものマリア”はすべてを知っていた。上智である神に教えられて、どんな場合でも、いつでも清く選ぶことができた。だから、エバも知ってよいことは知っていた。良くないことを知る、ということは無用である。すなわち、神から来る知識以上知る必要がなかった。しかしエバは、神のみことばを信ぜず、従順の約束を破った。エバはサタンの言うことを信じて約束を破り、よくないことを知るのを望み、知ってどんな呵責もなくそれを愛し、私がそんなに清いものとして与えた愛を腐敗したもの、品位を失ったものとしたのである。彼女は楽園の花園の中を幸福に走りまわり、木がその梢を沼地にかがめずして花咲くように、自分のそばに子孫の花が咲くのを見ることができたのに、その代わりに堕落した天使のように、泥の中にたわむれてしまったのである。
               *         *          *
       あなたたちも、私が福音書の中で言っている、あの愚かな子供のようになるな(7)。あの子供たちは歌声を聞き、耳をふさいだ。音楽を聞いて躍ろうとせず、泣き声を聞いて笑おうとした。お前たちも固苦しく考えず、何でも否定するものであるな。悪意と頑固さなしに、皮肉と不信仰でなく光を受け入れよ。
       このような問題については、これだけで充分である。私はあなたたちに、新たに天国を開き、あなたたちをあがなうために死んだ者に対して、どれほど感謝すべきであるかを理解させるために話した。なぜなら、あなたたちの90%がエバのように、サタンの息吹きとことばに中毒して、愛するためではなく情欲を満たすために生き、天のためではなく泥のために生き、もはや理性も魂も持っていない犬のようだからである。あなたたちは魂を殺し、理性を腐敗させたのである。まことに言うが、獣たちが互いの愛において、あなたたちに勝るのである。」

      (1)ルカ18・13。
      (2)創世17・15〜21。
      (3)脱出7・17〜17・7まで。
      (4)ヨシュア10・12〜14。
      (5)一サムエル17。
      (6)善悪の木とは、本来、姿、形としてはまことの木だったが、同時に象徴でもあった。
      (7)ルカ7・31〜33。

          

      21 アリマタヤのヨゼフの墓、マリアの受難 つづき

      2014.10.05 Sunday

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        マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より 

         ニコデモとヨゼフとが、石の向こう側にある腰かけのようなものに壷と包帯と清い長い布(6)を用意して、水が入っているらしい洗面器と丸めたガーゼを置いて近づいてくる。マリアはそれを見て強い口調で問いただす。
        「あなたたちはそこで何をしているの。何をしたいのですか。イエズスを整える? どうして? 母のひざに置いておきなさい。もしイエズスを暖められたなら、もっと早くよみがえるでしょうから。もしも私が御父を慰めることができたら、神殺しのその憎しみを消すことができたら、父はもっと早くゆるしてくださり、そして、イエズスは早く戻ってきます」
         苦しむ婦人は錯乱しているようにも見える。
        「いやいや、あなたたちにはあげない。一度イエズスを与えたわ。この世に一度イエズスを与えたけれど、この世はイエズスを受け入れようとしないばかりか殺してしまった。もう決してイエズスを与えたりしないわ。何ですって? この子を愛しているですって? ああそう、それなら、どうしてイエズスを守らなかったの? いまはもうあなたたちの話を聞きたくない。愛していると言うために、この時まで待ったと言うの? あなたたちの何とまあ、あわれな愛! 罪のないものをとても守りきれないほど、この世の人々を恐れていたのなら、少なくともイエズスを私に、その母にわが子を守るように渡すくらいのことはしてもよかったはずです。私はイエズスがどんなものか、イエズスのためにどうすればよいかを知っていました。あなたたち! あなたたちはイエズスを先生として取り囲んだだけで、何の足しにもならなかった。そうでしょう? 私は間違ったことを言っていますか。 あなたたちは、その復活を信じていないのが自分で分からないのですか。信じているですって? とんでもない。ではどうしてそこに布と包帯と香料を用意しているの? あなたたちがイエズスをもう冷たくなって明日は腐敗するあわれな死人と考えているからでしょう。そのために防腐処置を施したいのでしょう。あなたたちマンテカ(クリーム状の塗り薬)など要りません。ベトレヘムの羊飼いたちの、あの清い心を持って救い主を拝みにいらっしゃい。ごらん、この眠りは疲れた人の休息です。イエズスは一生涯どれほどの労苦の連続だったことか! そして、その労苦はどんどん増える一方でこの最後の時に…。いま、やっと休んでいるのです。母にとっては、疲れてやすんでいる大きな子供でしかないの。ここの床と部屋の何とみじめなこと! でもイエズスが初めて見た床もこれより美しいわけではなく、その住まいだってもっと楽しいものでもなかったわ。羊飼いたちは眠っている幼な子を救い主として拝んだのだから、あなたたちはサタンに打ち勝ち、眠っている救い主を拝みなさい。それから、世界に向かってこう言いなさい。
        『神に栄光! 罪は死んだ! サタンが敗れた! 神と人との間、天にも地にも平和!』と。
         イエズスの帰りのために道を用意しなさい。”母性”が司祭にする(7)私があなたたちを送ります。さあ行きなさい。そうして欲しくないと言ったではありませんか。私がイエズスを涙で洗いました。これで十分、他のことは要りません。マンテカを塗らないで。その役に立たない喪の包帯がなければ、イエズスがよみがえるのがもっと楽になります。ヨゼフ、なぜ私をそんな目で見るの。あなたも、ニコデモ。この恐ろしい一日が皆の頭を狂わせてしまったのですか。それとも忘れたのですか。覚えていないの?”この悪いよこしまな代はしるしを望むが、預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられない(8)。…こうして人の子は三日三晩地の中にいる(9)”覚えていないのですか。”人の子は人間の手に渡され、殺されるだろう(10)。しかし三日目によみがえるだろう”本当に覚えていないの?
        『まことの神のこの神殿を壊しても私は”三日間”でそれを建て直す』
         人々よ、神殿とはイエズスの体です。うなずけないと言うの? 私のことをかわいそうに思うの? 私の気が狂ってしまったと思っているのですか。どうして、どうして、イエズスは死者をよみがえらせたのに自分自身をよみがえらせられないことがあるものですか。ねえ、ヨハネ」
        「お母様!」
        「あなたは私を”母”と呼ぶのね。私はそう呼ばれないと生きられないわ。ヨハネ、イエズスがヤイロの小さな女の子とナインの少年をよみがえらせた時、そこにいましたね。その人たちは本当に死んでいた、そうですね。ただの深いまどろみだけではなかったでしょう? 答えなさい」
        「死んでいましたとも。女の子は二時間前に、少年は一日半前に」
        「そして、イエズスの命令でよみがえった、そうでしたね?」
        「そうです。イエズスの命令でよみがえりました」
        「聞きましたか、あなたたち二人は。それなのにどうして納得できないのですか。命は罪のない若い人により早く戻ると言いたいのですか。だけど私の子は罪のないものです!いつも若いもの、神です、私の子は!…」
         マリアはいろいろな準備に取りかかったこの二人を悲嘆と情熱のこもる目で見るが、二人は苦しみに胸を締めつけられながらも、がんとしてマリアのことばをはねつけ、もう香料を全部入れて布を浸し、それを巻いて準備は万端である。マリアは二歩進み、幼な子を揺りかごに入れるのと同じようにそうっと用心しながら大事に御子を石の上に下ろす。もう二歩進んで、喪の床の足元にかがむ。そこで、マグダラのマリアがひざまずいて泣いている。マリアはマグダラのマリアの肩をつかみ、揺すって呼びかける。
         「マリア、答えて。この人たちは、イエズスは人間で傷ついて死んだのだからよみがえれないと考えています。でもあなたの兄さんは、イエズスよりも年上だったでしょう」
        「そうです」
        「全身に傷ができていましたね?」
        「そうです」
        「墓に下ろす前にもう腐敗が進んでいたのではありませんか」
        「そうです」
        「そして、窒息と腐敗の四日間の後、よみがえりましたね」
        「そうです」
        「そうしたら?」
         重く長い沈黙が続いた後、人間とは思えないうなりが始まる。聖母は片手を胸に当ててよろめく。婦人たちはマリアを支えるが、マリアは皆を追い払う。あの、あわれみ深い人たちを追い払ったように見えるが、実際は自分だけが見ているものを追い払い、そしてうなり声を上げる。
        「さがれ! さがれ! 残酷なもの! ”このような”復讐はいや! 黙れ! おまえの声などききたくもない! 黙れ! ああ、私の心をあいつがかみくだく!」
        「だれですか、お母様」
        「ヨハネ! サタンです。『よみがえるはずがない。預言者はだれ一人そう言ったことはない』と、つぶやくサタンです。いと高き神よ。あなたたち、善い心のあるあなたたち、あわれみ深いあなたたち、私を助けて。私の理性がゆらぐの! もう何も覚えていない。預言者たちは何を言っているの? あの詩編は何と言っているの? だれが私にイエズスのことを語っているくだりを繰り返してくれるの?」
         メシアの受難のダビドの詩編を唱えるのは、オルガンのように響きのよい声のマグダラのマリアである。(11)
         母は、ヨハネに支えられて身も世もないほど泣き、その涙は亡くなった子の上にぽたぽたと落ちてぬらす。それを見てマリアは拭い、わが子に小声で話しかける。
        「これほど多くの涙! あなたが渇いていたとき一滴も与えられず、いまは…あなたの全身をぬらしてしまう…あなたはたっぷりと露をふくんだ小さな灌木のようです。いま、母様があなたを拭きます。子よ! あなたはどれほどの苦しみを味わったのか! 傷ついているあなたの唇に母様の苦い涙が落ちないように…」
         それから大きな声で命じる。
        「マリア、ダビドが言っているでしょう…、そう、そう、イザヤ…そのことばを読みなさい…」
         マグダラのマリアは、受難のくだりを読み、その声はすすり泣きに変わる。
        ”彼が自分を死にわたし、
        悪人の数に入れられた…
        彼は、多くの人の罪を背負って、
        罪人のために取り次ぎをした(12)

        「黙って! 死はいや! ”死にわたされた”のではありません! いいえ! いいえ! あなたたちの不信仰がサタンの試みと一緒になって、私の心に疑いを抱かせる! 子よ、あなたを信じずにはいられません! あなたの聖なることばを信じないなんて?! 私のこころに言いなさい! 話して。 あなたの到来(13)を待つ人々を解放しに行ったその遠い岸から、待っている私の心に、あなたの声を受け止めようとして全身を耳にして聞いている私の心に、あなたの心の声を聞かせなさい。”戻ります”と母様に聞かせて! ”三日目によみがえる”と言って。お願い、子よ、神よ! 私の信仰を守るために助けてください。サタンは私の信仰を絞め殺そうと、とぐろを巻いてねらっている。サタンは人間の体から蛇の口を放したわ、あなたがサタンの獲物を奪い取ったから。いま、その毒牙を私の心に突き刺し、動悸、力、ぬくもりを麻痺させていくの。
         神よ! 神よ! 神よ! 私が信仰を失わないようにしてください。私を失望にまで追い込まぬように、サタンにその自由を与えないで。子よ、子よ、あなたの手を私の心の上に置いて。そうしたら、サタンを追い出せます。頭の上に置いて、そうしたらそこに光を持ってこれます。そのいつくしみで私の唇をなでて聖別し、信じようとしない全世界に向かって、”信じます”と言えるよう強めて! 信じない人に多くゆるすべきです。一度信じなくなれば…どんな恐ろしいことでも平気でできるもの。この拷問をいま味わっている私が…」あなたに聞かせます。父よ、信仰のない人々をあわれんでください! 聖なる父よ、消耗しつつある私(14)という生贄によって、あなたへの信仰を信仰のない人々に与えて下さい
         果てしのない沈黙。ニコデモとヨゼフとは、ヨハネとマグダラのマリアに合図する。
        「お母様、いらしてください」
         呼びかけているのはマグダラのマリアである。こう言いながら、イエズスの指に指をからめて接吻し続けているマリアをイエズスから離そうとする。
         ようやく母は立ち直る。威厳に満ちあふれ、血の通っていないあわれな指を最後に伸ばし、動かない手を体の上に置く。それからマリアは腕を下ろし、すっくと立って頭をやや仰向きかげんにして祈りをささげる。ことばは聞こえてこないが、その姿勢を見れば祈っているのが分かる。マリアは奉献するとき祭壇に立つ司祭のようである。
        「主よ、御身の下僕(しもべ)であるわれら、いと高き御稜威(みいつ)に対して御身の賜った贈り物の中から、この清く聖なる汚れなき生贄をささげ奉る」
        次にマリアは振り向いて語りかける。
        「どうぞ、なさってください。でも”イエズスはよみがえります”あなたたちは私が正気かどうかと疑っているけれど無駄なことです。イエズスがあなたたちに言われた真理に対し盲目になっています。この世を贖うには敗北したサタンが私の心に与える拷問もあります。私はこれも耐え忍び、未来のすべての人々のためにささげます。
         さようなら、子よ、私の産んだものよ、さようなら。私の幼な子よ、さようなら、さようなら…さようなら…聖なる…善いものよ…いとも愛する、愛すべきものよ…美しさ…喜び…救いの泉…さようなら…あなたの目の上に…あなたの口に…あなたの黄金の髪の上に…冷たいあなたの体の上に…。あなたの刺された心…おお、その刺された心臓に…私の接吻…私の接吻…私の接吻を…さようなら…さようなら…主よ、私をあわれんでください」
                     *         *           *
         イエズスが言われる。
        「その拷問は、断続的な攻撃で日曜日の明け方まで続けられた。私は受難のときに”一つだけ”試みられた。だが母は女だから何度もも…。サタンはかの勝利者に対して百倍もの残酷さともって荒れ狂ったが、マリアはサタンに打ち勝った。しかし、マリアへの最も残酷な試みは母の肉体への試み、母の心への試み、母の魂への試みである。世間は、私が最期の息を引き取ったときに贖いが完成されたと思っているが、そうではない。人間の三重の邪欲を贖うために三重の拷問を加えられ、母がそれを完成させたのである。私のことばを否定させようとし、私の復活を信じないようにさせていたサタンと三日間戦ったのである。”マリアは信じつづけた唯一の人であった”この信仰のためにもマリアは偉大で幸せである(15)
                     *         *           *
        三人は包帯の準備をさせた。台の方に来てイエズスを裸にし、海綿か綿のようなものでしたたる香料を手早く塗り、次に全身にクリーム状の香料を塗る。それをする前に、二人でイエズスを持ち上げて石の板もきれいにし、その上に、床から半分ほど上がったところまで垂らして敷布を敷く。またイエズスをうつ伏せに寝かせ、背中、腰、足、つまり体の後ろ側を全部ぬってから、その香料が取れないように十分注意しながら気をつけて死体を回し、前の方も塗る。初めに胴体、それから手足にかかる。手を最期に塗り終えて腹部に交差させる。香料のその混合剤は、ゴムのようにくっつくものらしい。なぜなら死体の重みでいつもすべり落ちていた手が、今度はそのままになって動かない。足はそうではなく、それまでの形を保っており、一方はややひざを曲げ、もう一方は真っすぐに伸びている。最期は頭で、注意深く塗る。顔の造作などは香油の層の下に見えなくなるが、その時に口を閉じるためにあごの下から結ぶように包帯を巻く。この時マリアは鋭い悲鳴を上げる。二人は垂れ下がっていた布をひっくり返してイエズスを覆う。こうしてイエズスは聖骸布の厚い布の下に見えなくなる。もはや布に覆われた姿しかない。ヨゼフはすべてよく整えられているかどうか念入りに見てから、顔の上に麻の汗ふきと細長くて短い縞模様の布を足して、これを右から左へ体の上を通して聖骸布が体にぴったり着くようにする。これはミイラによく見られる特徴ある包帯やまたラザロの場合の包帯と違い、ごく大ざっぱなものである。
         イエズスは、もはや完全に葬られた。その姿形さえもその布の中に消えてしまい、灰色の石の上に置かれた、両端が狭く真ん中が広くなった布の細長い塊にしか見えない。マリアは一層激しく泣くばかりである。

        (5)キリストの復活について、さまざまなためらいを示した弟子たちの態度にも影響されることなく、またその上、サタンに試みられて神からさえも”見捨てられた”という思いのために、とりわけ苦しんだマリアは不屈の信仰を持ち続け、その苦しみを信仰のない人々のために特にささげた。聖母マリアの不屈の信仰に最も近づいたのは、ラザロとマグダラのマリアであった。
        (6)この著作によると、骸布は二枚だった。一枚は、イエズスを十字架から下ろした際に使用した敷布で、それは血、汗、ほこりなどにまみれて葬りのためには使えなくなった。もう一枚は、トリノにいま保管されている聖骸布である。コンビエンニュ、ベザンソン、カドワンなどのフランスの町は、聖骸布を保っていることを誇りにしているが、トリノの大聖堂で保存されているものだけが、現代の大多数の科学者によって認められている唯一のまことの聖骸布である。
        (7)処女マリアは、イエズスの母として、直ちに深く”教会の母”としての資格を悟った。ここでも、これに従って振るまっている。
        (8)マテオ12・39。
        (9)マテオ12・40。
        (10)マテオ26・2。
        (11)詩編22章。
        (12)イザヤ53・12。
        (13)ペトロ第一3・18~20。
        (14)原文では小文字で引用されているイエズすのことばの部分が、マリアのことばの意味を説明している。
        (15)苦しみの母、マリアへの理解と愛とを知らせ深めるのは、この著作の目的の一つである。

        21 アリマタヤのヨゼフの墓、マリアの受難

        2014.10.05 Sunday

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          マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

          #21 アリマタヤのヨゼフの墓(1)、マリアの受難(2)

           一行はカルワリオを下って、ふもとにある石灰岩に掘られたアリマタヤのヨゼフの墓の前に着き、イエズスの亡きがらを運び込む。
           墓は次のようになっている。収穫間近の野菜畑の奥の方に、一見したところ自然にできたもののようだが、人間の手になる洞穴がある。厳密な意味での墓室(カタコンブに見られるものとは違うが)と、周りの壁に掘った安置所がある―分かりやすく言えば―石に掘った蜜蜂の巣のような丸い穴で縦に入れる。まだ誰も葬られたことのない。ぽっかりあいた穴は、灰色がかった石に黒いしみのように見える。この墓室の前には、一種の控えの間があり、その真ん中には注油のための石の台があり、この上に敷布に包まれたイエズスが安置される。
           ヨハネとマリアも入るが、二人だけである。というのは、控えの間は狭過ぎてこれ以上人が入ると身動きできなくなるからで、他の婦人たちは入口のそばで待っている。
           二人の運び手がイエズスの覆いを取り、二本の松明のあかりで部屋の隅に包帯と香料とを用意している間、マリアはわが子の上にかがみ込んでしとどに泣く。また、イエズスの腰に巻かれた白い布で拭い始める。母のこの涙はイエズスの体に施された唯一の洗浄であり、その涙がいかに多かろうともこの痛めつけられた体のほこり、汗、血などを通り一遍にまた所々しか洗えない。マリアは凍える亡きがらを何度も何度もなでる。生まれたばかりの赤ん坊をなでるよりももっと細やかな心遣いで、裂けたあわれな手を自分の手の中にとり、その指に接吻し、一本ずつ開いて薬をつけるように傷口をあわせている、あまり痛まないように。もうなでることもできなくなるその手を頬に当てておえつをもらし、あまりの苦しみに耐えかねて悲鳴を上げる。私たちのためにあちこちと棒になるほど歩いた足、疲れ切って力なく投げ出されているあわれな足をまっすぐにそろえる。
          それから、冷たく硬直した胴体をなでさする。石の台にあお向けにされているので、槍による裂傷が大きく口を開いており、胸骨の奥深くまで見える。(心臓の先端がはっきりと胸骨と左の肋骨との間に見え、その上、2cmほどのところに心外膜と心臓とに槍の先が作った傷が少なくとも7cmあるのに比べ、中のは1.5cm強である)これを見たマリアは、カルワリオでのような叫びを上げる。まるで自分も同じように心臓を刺されたように手で胸をかきむしってもだえる。わが子の傷の上に接吻を雨のように降らせるあわれな母。のけぞっている顔にまた接吻し、右側へひどく傾いているのを真っすぐに直し、いつまでも開けたままのまぶたを下ろし、やや右に曲がって少しだけ開いている口を閉じさせようとする。昨日までは申し分ないほど美しく整えられ、そしていまは血のりがべっとりついて、もつれている髪の毛をきれいに整える。一番長い髪の束をほどき、自分の腕にとってなで、やわらかく波打っていたイエズスの巻き毛をなつかしみ、みとどおりにしようと指で丸める。そうしながらも、不意にほとばしるような悲鳴を上げる。幼いころのわが子を思い出して…。マリアの基礎的な主題は”イエズスの幼いころのこと、イエズスへの愛、自分が世話した思い出”である。マリアは神的なわが子のために、そよ風さえも用心していたのに、いま人間がイエズスにしたことを考えると…。
           マリアの悲鳴は、私の心をも痛める。悲鳴を上げた後”私の子よ、あの人たちはあなたに何をしたのですか”と言いながら、石の上に裸のまま横たわっているわが子を見るに忍びなくて、肩の下に腕を回し、もう一方の手で胸に抱き締めて、洞穴での御降誕のときのようにあやしているのを見ると、私はだれかに心臓をぎゅっとつかまれたように胸苦しくなる。

          マリアの霊的なもだえ
           マリアは注油の石のそばに立ち、なでたり、話しかけたり、悲鳴を上げて泣いたりしていると時々、松明の揺らぐ光がその顔を照らし、私には泣きはらした真っ赤な頬の上を大粒の涙がころがり落ちるのが見える。それに口の中でつぶやいているのに、はっきり聞こえることば全部と、子供と母の、心でかわされるまことの対話が聞こえる。私はそれを書くように命令された。
          「かわいそうな子よ! これほどまでに傷だらけで!……どんなに苦しかったことでしょう! ああ、こんなありさまで!…子よ、あなたは何て冷たいの! 氷のような指、力も全然ないわ! 折れているのかしら。すやすやと眠っていた幼いころにも、大工仕事の後でぐっすり眠っていたときにも、こうではなかった…。何と、冷たい! あわれな手! いとしいもの! 私の愛よ、その手を母にゆだねなさい! ごらん、こんなに引き裂かれて。ヨハネ、この胸の傷を見て、何とむごい人々! 傷だらけのこの手、ここも、お母さんが治してあげます。おお痛くない、痛くない…接吻と涙とで、息と愛とでこの手を暖めてあげますよ。子よ、一度でいいから私をなでて! あなたは氷のようだけど、私は熱で燃えてしまいそう。私の熱は冷えたあなたにいやされ、冷えたあなたは私の熱で和らげられると思います。子よ、愛撫を一つ! あなたが私をなでてくれてからほんの少ししか時はたっていないのに、私には何世紀も過ぎ去ったように思えます。あなたのいつくしみを味わうことなく何ヶ月もたったことがあったけれど、その時はただ時の流れしか感じなかったのに。なぜって、あなたが来るのはいつも分かっていたから。それに、何ヶ月ではなく何日、わずか数時間しか離れていないと心に言い聞かせて、一日を一時間、一時間を一分に数えていたのでした。どうしていまは時の流れがこんなにゆっくりなのかしら。ああ、あなたが逝ってしまったから。あの人たちが殺したのだわ! あなたはもうこの世にはいない! もういない! 私はあなたの心を探し、抱き締めたくてそこかしこと探し回り、私の愛の波がどこを探してみてもあなはもう見つからない。どこにも! 私に残されたものといえば、魂のない冷たくなったこの亡きがらだけ。私のイエズスの魂、私のキリストの魂、私の主の魂よ、どこにいるの? 残酷なジャッカル(3)、どうしてサタンと一緒になって私の子の魂を盗んだの? どうて私をイエズスと一緒に十字架につけなかったの! もう一つの犯罪を恐れたのですか。(声はますます強く、張り裂けそうになる)ためらいもせず肉体になった神を殺したおまえたちなのだから、あわれな女を一人殺すのは何ほどのことがありましょう。おまえたちは、やすやすともう一つの罪を犯したではないか。殺害された子の母を生かしておくことこそ、最も恐ろしい罪ではないのか!」
           激しい声とともに頭を起こした母は、命の火の消えた顔の上にいままたかがみ、低い声でイエズスだけに話しかける。
          「ここで、やっと墓の中で一緒になれました。木(十字架)の上での臨終のときに一緒にいたかったように、この命を超える”いのち”に向かう旅路に一緒にいたかったように。でも、命のかなたへの旅路について行けないなら、あなたを待つ間はここに残っていましょう」
           マリアは立ち上がり、皆に向かって断固とした調子で宣言する。
          「皆、行きなさい。私は残ります。イエズスと一緒に私をここにいさせて。ここでイエズスを待ちます。えっ、何ですって? そんなことはできないって言うの? なぜ? 私が死んだなら、ここに、イエズスのそばに横になり準備されるのを待っているでしょうに。私はわが子のそばにいます、ひざまずいて。十二月のある夜、イエズスがバラ色のぽちゃぽちゃした赤ん坊となって産声を上げたときそうだったように。もうキリストをもっていないこの世の夜、ここに残ります。まことの夜! 光はもうない!…冷たい夜、愛は死んだ!…ニコデモ、何を言っているのですか。私が不浄になるなんて、その血は不浄ではなりません。この子を産んだときにも不浄になりませんでした(4)。この子は神の懐から来て天の輝きの中に生まれたものです」
           母はまた子に覆いかぶさり、わが子以外には何の関心も払わず、低い声でささやく。
           「子よ、覚えていますか。あなたのほほえみがこの世に生まれ出たとき、すべてを覆った素晴らしい輝きの崇高な服を、御父が天から贈られたかの至高な光を。それはあなたの誕生の奥義を包むための光であり、父と聖霊の光からきていたあなたが、この暗い夜を、いとわないようにとの配慮でした。それがいまは? この暗闇と冷たさ…何という寒さ。体中がわなないています、十二月のあの夜よりも。あの時には、あなたが私の心を暖めてくれる喜びがあり、あなたを愛する二人がいました。いまは…いま私はひとりぼっちで、それに息も絶え絶えです。でも私は二人分あなたを愛します。苦しみの時にあなたから去った、そんなにあなたを愛していなかった人々に代わって。あなたを憎んだすべての人々に代わってあなたを愛します。子よ、全世界に代わって愛するなら、あなたはもうこの世の冷たさを感じないでしょう。いいえ、感じさせはしません。あなたが生まれるために私の懐が開かれたのなら、いまも冷たさを感じさせないように懐を開いてあなたを抱く覚悟でいます。幼いあなたを抱いたこの懐が、どれほどあなたを愛していたか覚えていますね。それは母親の権利と義務で、また私の望みでもあります。このような愛を抱けるのは母親だけです。子供に対して宇宙のような大きな愛を持てるのは母だけです」
           声が次第に高くなり、有無を言わせない調子で言う。
          「さあ、皆行きなさい。私は残ります。3日たったら戻ってきて。そうしたら一緒に外へ出ます(5)。私の子よ、あなたの腕にもたれて、またこの世を見たらどうでしょう!よみがえった、あなたのほほえみの光に満たされて、この世はえも言われぬ美しさでしょうね。主の歩みに震えるこの世! 死があなたの魂を抜き取り、心からあなたの霊が出た時、大地は震えおののいたのです。また今度も震えるでしょう…もはや恐怖と苦痛のためではなく、私は知らないけれど、女性としての私の本能が直感すること、一人の処女が、結婚するためにやってくる花婿の足音を聞くときのその優しいときめきを感じるはずです。それだけでなく、大地は聖なる震動に揺らぎます。私は胎内に三位一体の主がおられることを感じました。ことに、自分の深奥から震えたと同じように。
           …すべての子供には父と母がいます。私生児にも父と母はいます。ところが、あなたのバラと百合との体を、ガリラヤの小川のような水色の刺繍のような血管とザクロのようなこの唇、またこの目、天国の二つの小さな湖のようなこの目を、母親は一人でつくったのよ。だから、あなたのすべては私のもの。母様のすべて!”はい”という私の受諾で、母様一人でこれらのすべてをつくったのです。おお私の喜びよ、清さと従順とであなたをつくりあげたわ! あなたの心は何でしょう。処女への神への接吻を受けた私の心から出た私の愛の結晶であるあなたの心は、それです。ああ!(このうめき声はどれほど悲痛なものか、マグダラのマリアが思わずヨハネと二人でマリアを支えるために駆け寄ったほどである。他の婦人たちはあえてそうする勇気もなく、ヴェールを下し泣きながら入口からのぞいている)それをあの人たちが引き裂いたのよ。そのためにあなたはこんなに冷たく、私もまた冷たい! 私の心には、もう炎が燃えないの。私のものであったけれども、あなたに心をつくるために与えたその炎の反映がなくなったのですもの、もうこれ以上は生きていられない。ここに! ここに! ここに! 私の胸の上で! 死が私を迎えにくる前にあなたを暖めたい。あなたを揺り起こしたい。昔、私は”家がない、食べ物がない、苦しみしかない”とあなたに歌って聞かせていました。おお、何と預言のようなことば! 苦しみ、苦しみ、苦しみ、あなたのために、私のために!”私の上で眠りなさい、眠りなさい”と、あなたに歌っていました。いまも、ここ、ここ、ここ、ここに…」
           石の端に腰かけて、子の片腕を肩に回し、この頭をわが胸にのせて頬ずりする。強くかき抱いて揺すったり、接吻したり、悲嘆のつけるところを知らない。 

          (1)マテオ27・60~61。マルコ15・45~47。ルカ23・53~55。ヨハネ19・40~42。
          (2)毅然としてはいても、イエズスのまことの母であった処女マリアが、中近東らしい表現の仕方で、嘆いたり、わめいたりしたことは、特に東方教会の典礼にも色濃く現されている。 
          (3)キリストの殺害に手をかした、当時のユダヤ人が憤慨し、また呪詛のために”残酷なジャッカル”に例えられているのは当然である。
          (4)レビ12章。マテオ1・18~23。ルカ1・26~38。マリアの懐胎と出産は人間によるものではないから、自然の法則に触れなかったのである。