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    第二章 迫害の預言

    2015.09.26 Saturday

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      安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

      第二章 迫害の預言

       《わたしは、あなたたちの信仰が揺らぐことのないように、これらのことを話した》(ヨハネ16・1)
      ペトロをはじめ弟子たちは、裏切り者となったユダを除いて、先生のお話の一言一句に心をこめて聞き逃すことなく、心底からの愛の傾倒を持って一生懸命になって聞いていた。弟子たちの信仰が揺らぐとは、どんなことがあったのかたださねばならない。まず、信仰が揺らぎ、不信仰となって彼を離れ去って、将来に約束された神の国を断念してこの世の快楽を求めれば、ユダのようにお金をもってイエズスを売ることになる。また神の唯一なる約束である福音の教えを、一般的人間の教訓と同じレベルで受け取って、人間本来の欲望の生活をもって人間の幸福とし、満足していれば、すべて神を裏切って生きていることになり、これも信仰が揺らいでいることになる。
       イエズスの神の知性には少しも誤りがなくくもりもなく、自分が将来の福音のために、また神の国である教会建設のために選んだ弟子たちを、使徒と呼びあらためてもその選択には誤りがなかった。ユダといえども滅びの子として使徒たちの中に名を連ねていたが、それにもはかり知れない神の摂理のうちに隠れた使命があった。
       最後の晩餐の時には、弟子たちは先生であるイエズスを何もかも知る者として、またその神の子の知恵を信じていたようである。彼らには、やがて晩餐が終わって二、三時間後に、イエズスが闇夜の中で敵どもに捕われたとき、自分たちが彼を捨てて離れ去るなどということは毛頭考えられなかった。イエズスは前もって預言して教えたが、弟子たちは彼の預言によって信仰が揺らいだのではなく、予想もしなかった一瞬の出来事に揺らぐことになった。そのつまずきはペトロをはじめとする弟子たちが先生の身の安全をあくまでも守ろうとはせずに自分の身の安全を求めて、置き去りにして逃げてしまうことであった。それは信仰を失うつまずきと表現されるであろうが、思いもよらない人間的事件によって信仰が揺らいでしまったのである。それは自然に生きる人間として避けがたいことのように思われる。信仰の点からみれば、一方的に教えられ、守られてきた子どものような信仰であって、自分の生命を捨てて、死の犠牲に結びつくほどの霊的な信仰ではなかった。イエズスはこれから起こる新しい事件によって彼らがイエズスの十字架の死と復活に結びつけられた信仰をもつようになると約束する。それは今までのように弟子たちをつまずかせたりすることのない信仰であると言う。弟子たちの一時的な揺らぎは、試練となって新しく大人の信仰につくりあげ、成長する過程をひそかに教えたのである。本当の信仰のゆらぎとは、回復の見込みがなく失望して完全に離れ去って滅びに至ることである。

       《人々はあなたたちを会堂から追放するであろう。それどころか、あなたたちを殺す者が皆、自分は神に仕えているのだと思う時が来る》(ヨハネ16・2)
       まず、弟子たちがイエズスの死後、主のご復活の大いなる出来事にあって信仰を回復し、やがてイエズスの約束に従って聖霊を受けて強力な信仰によみがえり、使徒となり得て、福音の宣教をユダヤ人のみならず異邦人の全世界にも勇気をもってあまねくのべ伝えることになる。そうなれば、ユダヤ教ばかりでなく、異邦の世界の人びとからも彼らの先生と同様に迫害されることになる。これはこの世を支配している人間の目に見えないサタンの働きによるものである。
       その顕著な例を見ると、使徒行録に記されているステファノの殉教がある。改宗以前のサウロはユダヤ教徒として、律法に従って神に仕える信仰をもっていたが、彼は盲目的に迫害に賛成した第一人者であった。わたしたちの日本においても、豊臣秀吉が九州征伐の後に、キリストの福音を撲滅しようとキリシタンバテレンを追放して迫害を始めたのは、日本は神国であるが故にとの理由によるものであった。これも自然的に言えば秀吉自身が神に奉仕するとの考えであったから、自分こそまことに日本国の神に仕えているものだと確信しており、聖人たちを殺しても罪悪感はなく、かえって勇気をもって迫害することに意義をおぼえるものであった。
       時間がたち、使徒の時代から二千年を経る現代に至っても、全世界を眺めてみれば、キリストの教会がいまだに国家的と言おうか政治の立場から迫害を受けていることには変わりがない。人を殺すような迫害ではないが、今の科学的無神論の時代においてはもっぱら世の快楽を求めて神の存在を排斥している。神があってもなくても人間には関係なく、人間にとって世の政治が大切であると人びとが教え導かれている。それによって、人間は神の存在よりも個人が大切で、個人の自由生活が尊重されて、個人が神の存在になり代わってそれ自身が礼拝されているおもむきがある。このような考えに立てば個人は絶対的存在の価値を有していることになりかねない。人間個人が世界を支配する王様の地位を得ているようなもので、神の存在が人間の世界には認められず、人間に仕えてこそ神に仕えることだとすりかえが始まっている。もし神の存在が認められても神に仕えることを人間が許さず、人間の意に反して神に仕える者があれば、その者を抹殺してしまう政策がとられうことになるだろう。人間自身に仕えていることは同時に神に奉仕していると思いがちであるが、この世の終わりにも、神に対する反逆が起こるという預言があるのももっともであると考えられる。それは地上の人間に神が迫害されていることになる。

       《彼らがこのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである》(ヨハネ16・3)
       人びとがあなたたちを殺すのは、彼らが神のためになると一方的に考えているからだが、その実は神である御父と御子を知らず、真の三位一体の神が世界の創造主であるということを知らないからである、と言う。日本では豊臣秀吉が切支丹宗門が邪教であると言って迫害したことが一般的に知られているが、それは偶像の神々に拝跪して、真の三位一体の創造の神を迫害したことになる。今の時代の共産圏の政治下では、マルクス主義を拝んで三位一体の神の信仰を阿片と見なして迫害し、禁じ、それを奉ずる者があれば牢獄に閉じ込める。神が存在しているのに人びとの心には、かってにつくられた学説やつくり話の思想に誘発されて、三位一体の神が存在するはずもないと科学的無神論をかかげて人間の生活に安心しきっている。無神論を唯一の真理でもあるかのようにかかげて生活している者は、神の存在が絶対に見えない暗闇の世界のどん底に自分の心を閉じ込めているからである。神がなければ、人間が自由かってに生きられるので、どんな罪も認めることはないであろう。この場合の罪は人間対人間の悪であって、それ以上に問うことがないとするようである。無神論という思想が人間の理性や知恵を支配すれば、自分の主義に背く者を殺しても罪悪を感じないばかりか、正当防衛とも考えるようになる。黙示録の獣の記事を引いて見よう。「この獣には、大言と冒涜の言葉を吐くことが許され、四十二か月の間活躍する権力が与えられた。そこで、獣は口を開いて神に対し冒涜の言葉を吐き、神の名と、その幕屋、また天に住む者たちを冒涜した。この獣は聖なる人々に戦いをいどんで、これに勝つ力が与えられ、また、すべての種族、民族、言語の異なる人々と国民とを支配する権力が与えられた。地上に住む者は皆、この獣を礼拝する。しかしほふられた小羊のいのちの書に、世の創造の
      初めからその名を書き記されている者だけは礼拝しない」(黙示録13・5~8)
       昔は無神論という科学主義の思想がなかった代わりに、偶像の神々が大いに人びとの心を支配してきた。それは今日の無神論に匹敵するほどであった。今日の科学の発展に伴い人びとの心から偶像の神の姿は消えたが、その代替として無神論が人びとの間にわき上がってきた。黙示録によれば、それは海から出現した怪物、獣であると指摘されている。その海とは、世界をとりまくすべての民のことである。このような世界にわたしたちがいま生きているとすれば、とくにイエズスの言葉が心にしみてくるように思われる。

       

      聖霊の介入


      《しかし、あなたたちにこれらのことを話したのは、その時が来たとき、わたしがそう言ったということを、思い出させるためである。これらのことを、わたしが初めから言わなかったのは、あなたたちと一緒にいたからである》(ヨハネ16・4)
       イエズスが最後の晩餐の席上で語った言葉が、この世界の終わりまで見通して、これから弟子たちの信仰の基礎の上に建てられるイエズスの神秘体であるべき教会がたどる運命について預言し警告していると考えられる。そのためにその時が来たなら、わたしの言葉が実現してあなたたちに役立つことであろう、と言うのである。
       福音の言葉をつぶさに調べて黙想するならば、その時、その時に大いに役立つように霊的な言葉として聖霊によって教えを受けることができる。それゆえ、彼は弟子たちをはじめとする福音の言葉を受け入れて神秘体につながる信者たちを、この世における孤児として残すのではなく、他の有力なる弁護者、天の御父のもとから遣わされる霊が導くことになると言って約束する。弟子たちの信仰は、はじめはイエズスの語る言葉を聞き、彼のやさしい愛によって保持されていたが、彼が離れ去ると弟子たちは孤児になることを恐れたため、彼に代わって守る有力なもの、それが聖霊であるが、他の弁護者と言うべきものを遣わすのである。
       聖書の預言、ことにイエズスの将来の教会についての言葉はその時になって適中するものであるので、わたしたちは祈りつつ待っている忠実な僕のように信仰をもって待つ必要がある。この世の出来事に心をうばわれて信仰のことをそっちのけにして生きる者は、やがて祈る信仰の道からはずれてついに暗闇の世の快楽を求めて歩むようになる。その時になってしまえば、いくら心の中を探っても神の姿がつきとめられず、神の存在をも疑うことになり、無神論の世界に転落するのである。聖書にあるたとえ話は、ある種子は道ばたに落ちて人に踏まれ、それから空の鳥が飛んできてその種子をついばむと教えている。このたとえについてイエズスは、道ばたに落ちて人に踏まれるとは、神の言葉が人の批判にかけられて信仰の芽が出ないうちに、空の鳥のように悪魔が来てついばむのである、と教えている。人がこの世に一度の生をうけて存在することは、永遠の存在として神の前に立つことを意味するもので、来世の長く続く永遠の世界に生きることに深い意義を認めなくてはなるまい。人が無になって消えて滅びてしまうのであれば、人生とはなんの意義もないかのようである。神の存在を認めてこそ人の生きる価値があらわれてくる。イエズスの言葉はそれを証している。 

      聖霊の証し

      2015.07.27 Monday

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        安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

        第二章より

        聖霊の証し

         《わたしが父のもとからあなたたちに遣わす弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来られるとき、この方がわたしについて証をなさる》(ヨハネ15・26)
         イエズスがこの見える世界を去って見えない父の世界に行くとしても、弟子たちに父のもとからわたしの代わりに他の弁護者を送って来るので、あなたたちはそれほど心配する必要がないと力づけて、彼が来るとこれまでどおりイエズス自身とその教えについてもっと詳しく述べ力づけて証明してくださると約束している。その方はただの人間ではなく、神性をそなえた真理の霊であり、神の愛の位格ペルソナであると保証する。その方はわたしと同様に三位一体の霊であり愛のペルソナ位格であり、父と同様に聖霊というべき方であると教える。聖霊のペルソナは賜物の形態をもって天から下って弟子たちの心に、それぞれに自らの働きかけをもってイエズスご自身がなされたのと同様に真理の光を注ぎ込み、はっきりと神の言葉の中に隠されている真理を了解させてくださると言うのであった。二千年の歴史を経てもそれは変わることなく今日のわたしたちにおいても、キリストの救いの言葉を受け入れて当時の弟子たちと同じように現代のキリスト信者、弟子になれば、聖霊に導かれて信仰の生活を続けていることになる。現在、全世界においていろいろな教派の形でキリストの福音がのべ伝えられているが、それを聞いて入信する者は少ないと聞いている。世界をおおっている科学的無神論の教育の場では、神の愛の霊の働きをあらわす心が消えてしまっているようだ。聖霊の証しである賜物を受け入れてそれに従う心をもたず、世のさまざまな快楽に心の耳を傾けて無神論的主張をかかげて生きる者たちには、神の言葉は生きて実を結ぶ余地がない。真理を退けて自分たちの肉の欲の快楽をあたかも真理として選びとっているのであっては霊の実を結ぶものではない。それは真理を愛して生きることではなく、暗闇に従って歩むことであって、やがては世の滅亡と共に滅び去るものである。人間の最終的死はどう見てもこの世の滅びである。この世を支配しているものがあるとすれば、暗闇の霊であり、光ではなく神に背く不義の霊であり、真理の霊でなく、滅びの霊である。人が救われる真理の霊はキリストが父のもとから遣わす霊以外にはないのである。

         《また、あなたたちも証しをするであろう。初めからわたしと一緒にいたからである。》(ヨハネ15・27)
         イエズスの人格というべきペルソナは、もともと三位一体の神の子のペルソナであって、神性に属するものである。しかし、この世に属していないその神の子が聖母マリアの子どもとして生まれ、人間の歴史の中に入ってきてわたしたちと同様に人間生活を営んだのである。
         わたしたちは一人ひとりが現世の歴史的存在であり、その歴史的事実を証明することができるので、幽霊のような架空的なものではない。文明社会においては国家による戸籍登録などがその証明となる。
         二千年前のイエズスの誕生を聖書に基づいて見ると、ヨセフとマリアがローマ総督アウグストの勅令によって戸籍調べのために、故郷のベツレヘムに上がったときにマリアが産期が満ちてイエズスを産んだと記録されている。これはもともと人の目には見えない神の子が、見える人類の歴史の中に現実に入ってきたことを意味するものである。全世界の人間はいまやキリストの誕生の日を世紀元年として用いている。イエズスが人類の救い主として天の御父から遣わされてきたことを、歴史的人物として世界の人びとに紹介されることも必要であった。それでイエズスはこの世で父からの使命を果たすために、福音の宣教を開始すると同時に弟子たちを呼び集めて、彼らに自分と同じように特別の使命を与えて使徒に任命するのであった。この使徒たちはイエズスと一緒に寝食を共にしてほぼ三年間も訓育を受けたのである。最後の晩餐もこの十二人がイエズスを囲んで席についていた。しかしこれまでの自然的訓育では、霊的に言えば十分ではなかった。イエズスの人性と神性を一応理解して信仰に入ったとはいえ、霊的にはまだまだ幼い子どもであり、超自然の恵みに欠けるもの足りなさがあった。
         彼らは特別な恩恵、天の能力、三位一体の聖霊の賜物が着せられて、はじめて神の子である救い主また贖い主となるべきものをわたしのように、人びとに紹介して証明するようになるとイエズスは約束する。将来イエズスをこの世に証明するためには、師イエズスと同じように自分の血を流して殉教することになるとほのめかしているようだ。
         ペトロの後継者であるローマ教皇の存在を見るに、二千年前も今日の紀元二千年においても歴史的存在としてキリストの代弁者として見ることができ、無神論の現代においてもキリストの人性と神性を証明する唯一の使徒として見ることができる。 

        互いに愛し合いなさい つづき

        2015.07.24 Friday

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          安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

          第二章 
           互いに愛し合いなさい つづき

           《もう、わたしはあなたたちを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか、知らないからである。わたしはあなたたちを『愛する者』と呼ぶ。父から聞いたことはすべて、あなたたちに知らせたからである。》(ヨハネ15・15)
           僕と呼ばないで、これからは愛する者(友人)と呼ぶと言って、そのわけを弟子たちに説明する。僕と友人との差異はどこにあるのかと問うならば、同じ人格をもつ人間であっても、僕は一段と低い身分であって、主人と対等にできる相手ではない。一方的に命令に服従しなければならない義務がある。いわば奴隷であって命の保証もなく自由も権限もない。弟子たちはこれまでイエズスに一方的に教えられ教訓に服従してきたのであってその観点からみれば、僕と言える。福音を聞いて喜んで主に従い、神の言葉をそれなりに実行してきた彼らの生活は、この世に天から遣わされてきたイエズスの人間生活となんら変わるものではなかった。その点からすれば主の兄弟であると言っても差し支えなかった。イエズスがいつかある所で説教したのを聞いた婦人は、感動のあまり「あなたを宿した胎よ、あなたの吸いし乳房よ」と称賛を送った。それを聞いてイエズスはそばにいる弟子たちを指して「むしろ幸いなるかな、神の言葉を聞いてそれを守る者たちよ」と訂正したのである。
           キリストからすれば、御父の言葉を聞いてそれを忠実に守って生きる者は、キリストと同様に神の子の資格を得るもので、世に遣わされてきたイエズスの人間性と同じ兄弟の身分とみなすべきである。イエズスがこの世に御父の福音をのべ伝えるために来たのは、たくさんの友人をつくって、御父の意志をこの世に成し遂げて、兄弟となる愛の実を結び一緒に父の家に帰るためであった。イエズスは十字架の受難と死を通して、わたしたちに罪のゆるしを得させて友人とみなし、兄弟愛をもって神秘体を実現し、終わりの日を期して肉体の復活をもって完成するのである。これら一連の御父の救いの神秘的計画を弟子たちに知らせたので、もはや僕ではなく友と呼ぶことにした。その真理は世に隠されたものである。

          《あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしこそあなたたちを選んだのである。わたしがあなたたちに使命を与えたのは、あなたたちが出かけて行き、実をみのらせ、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたたちがわたしの名によって父に願うことは何でもかなえていただけるようになるためである》(ヨハネ15・16)
           この言葉ほど弟子たちにとって意義の深いものはほかにないだろうと思われる。今日のわたしたちの間では、わたしたちが学びたいことがあれば、それに熟練した博識な師を選んでその人から知識や技術を受けるのが常識である。それに反して、イエズスが自由の選択によって、なにも知らない弟子たちを選んだと言っている。これは人間の意志が先行しないで、神の意志が先行して神の国を建設するものであると教えていることになる。神の計画があってその計画を実現するために、人材として呼ばれる人、選ばれて働く人たちがある。イエズスの弟子たちはちょうどそのように働くために選ばれた人たちであったと、晩餐の席において今まで隠されていた真理をあらわして言うのである。
           だが神の選択の意志が先行して呼ばれていても、それに応じて答える人間の意志がなければ、弟子として成立しない。イエズスはこれまで述べてきたように、御父から遣わされてきて、弟子たちをこの世の生活から招いて選んだのであると秘められたことを告げる。それは結局、御父から招かれたことになり、新しい神の国を建てるために働くように召されたことになる。イエズスが御父から与えられた使命を全部果たして御父のもとへ帰るとすれば、やがれ弟子たちはこの世に残されて後をつぐことになる。弟子たちの使命は、イエズスの名のもとに働くことであって、それは、たとえて言えばぶどうの木の枝が、生命があるかぎり、季節になるとたくさんの実をつけるように努めるということである。しかしその霊的なぶどうの実はこの世の自然のぶどうの実のように消滅しないで、永久保存のできる天国という宝庫にたくわえられる。
           そのことについてイエズスの名によって願いなさいというのであるが、それは救い主である神の子の生命に霊的に完全な一致をもって御父に願うことを意味している。イエズスの生命に少しでも欠けたところがあったなら、生命とは微妙なものであるから、実をつけることはない。イエズスが弟子に与える使命には、少しでも信仰に欠けたるところがあってはならないと注意を促している。ここにはイエズスの弟子に対する全身全霊の信頼があらわれている。

           《あなたたちが互いに愛し合うこと。これがわたしの命令である》(ヨハネ15・17)
           イエズスによってこの世から選び出され、神の国のために働く使徒となった弟子たちは、相互いに愛し合うことを、厳しく命じられている。これからイエズスの十字架の死をもって贖罪の恵みにあずかり、つづいて復活の生命に呼ばれて新しい生命の人となったキリストの神秘体に召されて生きるべき者たちは、もともと自然の生命に支えられて生きているとはいえ、霊の生命のもとにキリストと共には働くことになるのである。彼らは信仰のうちに神の子キリストの生命を着て働く者であり、そのためにこの世から選び出された者である。天の御父が三位一体のわが子をこの世に遣わして働くようにしたことと同様にキリストの死後、弟子たちをこの世に残して福音のために働くようにしたのである。弟子たちの使命は神の子なるイエズスと全く同じ使命であり、その使命をこの世で忠実に果たすためには、主の恵みと力は不可欠である。
           イエズスは最後の晩餐の席において、大事な最後の教訓、掟を与えた。そして、弟子たちがイエズスとしっかり結び合って一本の太い同じ生命の綱につながれて生かされているかぎり、互いに結び合う愛の力が働くのであると言う。わたしたちが自然の命に生きて、どのように兄弟愛に結ばれていても、いったん利害関係の対立が起これば、親子兄弟と言えども命をかけて争うことにもなる。
           神の生命に基本をおいて、兄弟となったイエズスの弟子たちは、三位一体の三つのペルソナが相互いに異なるとはいえ同一である神性のうちに相互いに愛し合っているように、互いに愛して生きなければ、キリストの愛に留まることはできない。また互いに争うことがあればすべてもろともに滅びてしまう。イエズスの新しい霊的な生命に生きる者には、互いに愛する掟の基本がそれぞれの心を貫いていなければならない。イエズスは少し前に、友のために命を捨てるほどの大いなる愛はない、と言って争う命を捨てることが大切であると諭している。
           神の愛は敵であろうが、味方であろうがその人格の存在がゆるされているかぎり、その本質は状況の変化に応じて変わるようなことがない。イエズスの愛はそのまま神の愛の反映であって鏡のごときものである。彼は晩餐お初めに、わたしがあなたがたを愛してきたように、あなたがたも互いに愛し合いなさいと命じている。人間の自然的愛は、対象いかんによって目まぐるしく変わるものであって、この世の世界にあって絶えず闘争をくりひろげているが、イエズスの弟子たちが神の国の世界に生きようとすれば、相互いの愛の掟を厳重に守らねばならないのである。