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2017.01.04 Wednesday

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    聖パードレ・ピオ 予知の賜物など

    2013.09.23 Monday

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       『キリストの似姿 ピオ神父』ペトロ・ボン・エッセン 神崎 房子 共編著
      第三章『ピオ神父の生涯』より/ジョン・A・シュグ著より

      5 予知の賜物

       大方の場合、未来についてのピオ神父の知識は幸いな前兆であるか、少なくとも、悲しい情景に喜びの光線を投げかけた。1936年1月、三人の信徒が神父の部屋に入った。神父は突然ひざまずき、「神の審判席に間もなく着く一人の霊魂のために祈るように」と三人に頼んだ。皆がひざまずいて祈り、立ち上がった時、ピオ神父は「誰のために皆さんが祈ったか知っていますか?」と尋ねた。彼らが「いいえ、あなたの意向に沿ってお祈りしただけです。」と答えると「皆さんがお祈りしたのは、イギリス王のためでした」と神父は言った。真夜中に、アウレリオ神父は、自分の部屋のドアを誰かがたたくのを聞いた。開けるとピオ神父が立っており、「神の審判席の前にただ今出ることになっている霊魂のためにいのりましょう。その人はイギリス王です」と言った。二人の神父はしばらくの間、共に祈った。
      次の日の午後、ピオ神父がアウレリオ神父の部屋にいた時、イギリス王ジョージ五世が死去したと、諸新聞が報道した。
       人々がピオ神父とテレパシーで交信するのが稀ではない次のような例がある。ボローニャ出身の母親と五人の子供達が訪問し、神父に子供達を彼の霊的子供として受け入れるように頼んだ。それ以来、五年間毎日、「ピオ神父様、私の子供たちのことをよく見守って下さい。子供達を保護し、祝福して下さい」と彼女は祈った。
       ついにこの人達はサン・ジョバンニ・ロトンドを再訪する機会に恵まれた。母親は神父様、私の子供達をよく見守って下さい。子供達を保護し、祝福して下さい」と嘆願した。「同じことを何回私に頼むのですか」と神父は答えた。「今がお願いした最初です」と言う彼女に、「あなたは五年間以上も同じことを私に頼んで来ましたよ」と答えた。神父の予知能力は時には人々を混乱させた。
       ローマに住む一人の霊的娘が、ピオ神父が正しかったことを認めさせられるまではこだわっていたある事柄について語っている。彼女が告白し始めるとき、「話さないで下さい。私が話しましょう」と神父が遮ぎり、彼女の罪や不完全さについて次から次へと示した。神父が「あなたは嘘をつきました。不注意でした。…教会の中で怒りもしました」と笑って言ったことに彼女は驚いて、否定しながらも、悩んで、以前に何が起きたかを思い出そうとした。そして、教会の中で婦人たちが神父に飛びかかり、その両手をひったくろうとした場面を思い出した。彼女は「私はそれらの婦人を全員の髪の毛を引き抜いてやりたかった…。婦人たちの頭をかぼちゃみたいに、お互い同士ぶっつけてやりたかった」と独り言を言った。ピオ神父が笑うのを聞いて、自分がどんな気がしたかを思い出したのである。
       そのとき、「しかし、すぐにあなたは後悔しました」とピオ神父は付け加えた。その些細なことにも、どぎまぎしながら彼女は「それは本当でした…私はピオ神父が祭壇の所にいて、人々を祝福しているのを見ました。そして『神父様が怒らないのに、どうして私が怒るべきか』と自分自身に言いました。しかし、私が何を考えたかを、神父様は一体どのようにして知ることができたのですか」と言った。
       ピオ神父がいつも知っているとは限らなかった。知っているというふりもしなかったのである。お願いに対する神父の唯一の答は、「祈って、神の意志を待たなければなりません」と言うものであった。

      7 聖母

       ミサや告白の他に、祈りの生活のためにピオ神父が勧めた主要なことは、祝福された聖母マリアへの献身である。「マミーナ、私の愛すべき小さな母」と神父は聖母を呼んでいる。そして自分のすべての霊的子供達の上に、優しく、しかも断固として聖母への奉献を勧めている。「全世界の罪人達に聖母を愛するよう呼びかけるため十分に大きな声を持ちたいと願っています」と神父は言った。ピオ神父の聖母への献身の形式はロザリオの祈りである。神父はロザリオを自分の手から決して離さなかった。修道士の一人は、「ロザリオが神父の手の中で根を張らなかったのに、驚いています」と語っている。
       ピオ神父は亡くなる二日前、霊的娘の一人に「聖母を愛しなさい。聖母を愛することを確かめなさい。そしてロザリオの祈りを唱えなさい。それは現代世界の諸悪に対する武器です」と語った。ロザリオを何回唱えるかと質問されると、「一日、六十環を唱えた時は満足です」と答えた。驚いた人が「しかし、神父様、どのようにすると、そんなにたくさん祈れますか」と質問すると、神父は「それぐらい祈れないのはどうしてですか」と答えた。
       ユーセビオ神父はロザリオを三環唱えたので、十分に祈ったのをピオ神父から誉めてもらえると思い、「神父様は…四十環ですか、それ以上ですか」と質問した。「六十環のロザリオを唱えます。しかし他の人には言わないで下さい」と答えた。
       どうしたらそのような長い祈りが時間的に可能なのかと疑問に思う。しかし、神父が一瞬たりとも無駄にしなかったこと、群衆がその周りに押し寄せていても神父がロザリオを爪繰っていたことを実感するなら、また神父がほとんど眠らなかったのを思い出すなら、ピオ神父の祈りの魂がそれほど多くのロザリオを唱えるように彼を導いたかを、理解できる。
       ピオ神父が心の中に燃えさかる火を感じて考えていたのは聖母マリアのことであった。火が余りにも熱かったので、氷を置いて消し、自分を焼き尽くさないようにしなければならなかった。聖母マリアは彼にとってとても親しかったので、聖母が出現した時、神父は驚かなかった。誰でも聖母に会っていると考えていた神父は霊的指導者に書いている。
      「聖母マリアは非常な心遣いで今朝祭壇の所まで私と一緒に来て下さいました。…
       聖母は私について考えるより他に何もすることがないという風でした」
       
       1959年八月五日、ピオ神父は聖母マリアから大きな恵みを頂いた。教皇の特別な許可により、ファチマの聖母の像、巡礼の乙女がサン・ジョバンニ・ロトンドへ、ヘリコプターで運ばれて来た。その前三ヶ月間ピオ神父は病床に伏し重態であったが、医師の助言に反対して起床することを主張した。長上の許可を得て、二人の頑丈な修道士に支えられて、半分歩き半分運ばれて居室から聖母像が崇められている教会にやっと辿りついた。
       苦痛と熱と涙の中で、神父は元后の聖母の前にひざまずき、祈り、有名な聖母像の台に恭しく接吻した。神父は、自分の部屋に帰りつく体力しかなかった。午後二時十五分ヘリコプターは飛び立ち、聖母像をイタリアの他の都市へ運ぶことになった。広場や修道院の上をペリコプターは三回まわった。
      ちょうど、ピオ神父の部屋の窓からよく見えたのでヘリコプターの窓を通して聖母像を見る事ができた。「聖母マリア」と神父はうめいた。
      「イタリアにあなたが着いた日、私は病気でした。今、あなたは離れて行きます。私をこのまま置いて…」。
       パイロットは、引っぱりもどされる突然の衝撃を感じた。ピオ神父自身の証言がある。「その瞬間私は骨の中に身震いを感じました。そして私は直ちに治りました。」
       彼は起床し、生涯健康であったかのように仕事をした。後に、ローマにいる長上に宛てた手紙の中で自分の治癒について説明した。

      9 天使

       守護の天使の友情のおかげでピオ神父は安堵の胸をなでおろすことができた。彼は「これらの天のみ使い達は私を見舞い続けて下さる」とアゴスチノ神父に書いている。自分の守護の天使を「私の青春の伴侶」と呼んでいる。神父の天使は神と彼との間を往復するランナーであった。彼の霊的子供達が、どうやって天使と話せるかと質問した時、「あなたの守護の天使を私の所へ送るように」といつも答えた。時々、人々は、自分達の守護の天使に頼んだメッセージを神父が受けとったかどうかを質問した。「天使はあなたたちのように不忠実であると思いますか?」と言うのがその答であった。
       ドミニック・マイヤー神父がサン・ジョバンニ・ロトンドに初めて行った時、ピオ神父の言葉は空想の飛躍であると考えた。カプチン会員であり、教義神学の教授であったドミッニク神父は、ピオ神父の英語担当の秘書となった。ピオ神父のことがもっとよく分かり、人々のメッセージが天使の感応でピオ神父に伝達されたことを確信する人々に会って、ドミニック神父はそれを信じた。
       ピオ神父が冗談半分とも思える苦情を言ったのを、何回も公言している。或日、ドミニック神父が「神父様、疲れているようですね。昨晩よく眠れなかったのですか」と尋ねると、ピオ神父は「たくさんの守護の天使が次から次にメッセージを伝えたので夜中眠れなかった」と言った。
       イギリスの空軍将校がドミニック神父に次の手紙を書いた。
      「神父様。私が無事帰宅できるようにピオ神父様が助けて下さいました。どうぞお礼を申し上げて下さい。四月十六日、日曜日、私はフランスのアビニヨンとリヨンの中間にいました。一日中歩き、とても疲れていました。私は、ピオ神父に助けを願うように私の守護の天使に頼みました。十分以内に自動車に乗せてもらい、パリに帰れました。そこで五十か六十リラしか持っていなかったので、カレーまでの切符を買い、十分な食事をするため、自分の腕時計を売ろうとしました。再び、私の守護の天使に、腕時計が良い値段で売れるよう神父様の助けを願うようにと頼みました。十五分もたたない内に、私は二千フランを人から贈ってもらいまいした。そして、余裕ができたら、イギリスのカトリック社会事業団に寄付するように言われたのです。ピオ神父様はお願いを十分に聞き入れて下さいました。私は自分の腕時計を今も持っています。どうか、私の感謝をお伝え下さい」
       同様な話を何百人もの人達から聞くと、話し手がいずれも責任感が強く物事の道理をよくわきまえている人達なので、これらの話は本当であると思わざるを得ない。
       ピオ神父の守護の天使は青春時代の彼の親友であるばかりではなかった。神父のためにフランス語の手紙を書き、フランス語で書かれたアゴスチノ神父からの手紙を訳してくれた。
       ピオ神父はギリシャ語やフランス語を全然勉強しなかったが、時折、これらの外国語を使って自分の霊父達に手紙を書いている。最初にこの事態が起きた時、フランス語で書かれた手紙が来たのに驚いたアゴスチノ神父は、誰がピオ神父にフランス語を教えたのかと聞いた。ピオ神父はからかうように、「私のフランス語の能力についての質問には『あああ、私は何と言ったらよいか分からない』と言うエレミアの言葉をお返しします」と答えた。
       アゴスチノ神父はだまされ易い人ではなかったが、ピオ神父の説明を認めた。そして次のように書いている。
      「ピオ神父はギリシャ語もフランス語も知らない。彼の守護の天使がこれらの外国語をよく説明するので、ピオ神父は私のフランス語の手紙に返事を書ける」
       教区司祭、パヌロ神父も異語の賜物について興味があり、次のように書いている。
      「ギリシャ語のアルファベットを知らないでギリシャ語をどうして読み書きできるのかとピオ神父に尋ねると彼は『私の守護の天使が全部教えてくれるのです。ご存知でしょう』」と答えた。
       1912年九月二十日、ピオ神父はアゴスチノ神父へユーモアを混えた手紙を書いた。
      「守護の天使の使命が偉大なら、私自身の天使は確かにより偉大な使命があります。なにしろ諸外国語を私に通訳するのですから」

      11 二ヶ所同時存在

       ピオ神父の秘書であるドミニック・メイヤー神父は、ピオ神父のおかげで治ったオーストリア人の女性について話した。七年前にピオ神父の生活と精神に心を奪われ、サン・ジョバンニ・ロトンドに移住した彼女は、金銭面ではともかく、何かと犠牲を払った。そのうえ、六週間前から腕がとても腫れて、椅子を動かすこともベットを整えることもできなかった。
       ある夜、ピオ神父が彼女の夢に現れ、自分の親指を彼女の腕の中に押し入れる程に圧迫した。朝になると腕は完全に治っていた。二、三ヶ月後、告解の後、神父が彼女の所に現れたので彼女を癒したのはピオ神父かどうか尋ねると、「そうだ」と言った。
       第二次世界大戦中、北アフリカ戦闘の最中にイタリア軍は連合軍に恐ろしく砲撃された。イタリア兵の一人は、大きな岩の後ろで助かった。突然一人の「修道士」というあだ名の男が彼の隣に立っていて、袖をやさしく引っぱってこの岩の陰から出るようにと言った。その兵士は安全と思った場所から立ち退くことを拒否した。「修道士」は彼の袖をもっと強く引っぱったが、兵士はそれでも動こうとしなかった。遂に「修道士」は彼の腕をつかみ、力づくで引っぱり出した。その直後、砲弾が彼の立っていた所で炸裂し、あたり一面を破壊した。兵士は安全であった。「修道士」は消えた。
       何日かたって、兵士は自分の同僚にその話をした。友達はいつも身につけていたピオ神父の写真を見せた。「私の命を救った修道士です」と兵士は叫んだ。以前一度もピオ神父について聞いたことも、見かけたこともなかった。
       ピオ神父の霊的子供達の1人、ローマの公爵夫人が聖ペトロ大聖堂で告白しようと決心した時、すでに遅く、堂守が聴罪師は全員帰ったと告げた。彼女はともかく聖堂内に入り祈るつもりだった。大聖堂の半分近くまで行くとカプチン会員に会った。彼が「告解したいですか」と言ったので彼女は同意した。
       聖ペトロ大聖堂から出たところで、堂守が明朝早く来るようにすすめた。夫人が「告解はもう済ませました」と言うと、彼は「どのようにして」と尋ね、彼女が気が違っているという手振りをした。それから何年か過ぎて、公爵夫人は二人の友達と一緒にサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れた。ピオ神父が彼女に向かってまっすぐ歩いて来て、「あなたを覚えていますよ」と言った。「神父様、この度が私の初めての訪問です」という彼女に、神父は、「私を覚えていませんか…聖ペトロ聖堂であなたに会いました」と言った。
       他の霊的娘は、ウルグアイのモンテビデオの、エスケラ・メダラ・ミラグロサ修道院長であるマードレ・テレサ・サルバトーレスであった。彼女は胃癌と心臓の動脈障碍のため激痛の中で臨終を迎えていた。
       修道女たちがピオ神父に手紙を書いて、助けを願った。推測すると、神父が手紙を受けとったと思われる同じ日に、サルト司教区長代理ダミアにニ・モンシニョールがイタリアから帰国し、マードレ・テレサにピオ神父の手袋の一つを与えた。
      マードレ・テレサ自身の話を聞こう。
      「その手袋を、拳ほどの腫れのある脇腹と、窒息しそうになっている喉元にあてました。そして眠りました。夢の中で、ピオ神父が痛みのある脇腹に手を触れました。…三時間後に目を覚まして衣服を頼みました。そして、何ヶ月も寝ていたベットから起き上がったのです。…誰の助けもなしに起きて聖堂に行き、昼食のために食堂にも行きました。何ヶ月もろくに食べていませんでしたが、その時は誰よりもたくさん食べました。それ以来何の痛みを感じません。直ちに普通の活動を始め、完全に癒されました。」