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2017.01.04 Wednesday

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    第一章 ペトロの否認の予告 

    2016.01.08 Friday

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      安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

      第一章

      ペトロの否認の予告

      《イエズスはお答えになった。「わたしのために命を捨てるというのか。よくよくあなたに言っておく。あなたが三度わたしを知らないと言うまで、鶏は決して鳴かない」》(ヨハネ13・38)
       ペトロは自分の自然の能力によって、イエズスの後について行かれると思っていた。この世の人、わたしたちも自分の能力とか行いを信じて、キリストに従えるものと思ってわずかな信仰を過信しているのではあるまいか。あたかも自分の能力、修養、努力によって得た学識で聖人になれるかのように思いがちである。ある神学者が自分の知識を誇りに思ってか、神学を知らない人が信仰生活において往々にして間違った行動をとっていると述べた文章を見たことがある。それは間違いではないが、信仰の弱い人を蔑視することなく、助け力づけるのが神を愛する働きではあるまいか。信仰は聖霊の恵みに応じて働くものであるとすれば、それが大であっても小であっても、一も二もなく神の愛の働きであると思われる。神は信仰の弱い者をもそれなりに支えてくださる。イエズスがペトロに対して彼の自前の信仰宣言に全く信用を見せず、彼の罪をはっきりと預言した。ペトロの自信にみちた信仰告白は、鶏が時を告げる声にも等しく、むしろ劣っていると言うのであった。無心の鶏は時を告げて真理を告白するが、ペトロの信仰告白はかえって偽りを告げるものであった。人間自身から出る信仰は、神の霊による信仰でないから真理の証明にはならず、偶像の神にささげるものと同様である。そのような信仰告白を聞いてもイエズスには少しも慰めとはならなかったばかりでなくかえって悲しく思えたであろう。わたしたちのひとりよがりの信仰は、つね日ごろこの程度であると知らされるのであるが、わたしたちはそれに気がついていない。わたしたちが神に全く身をささげる祈りとか、誓願文、聖母に身をささげる奉献文などは、それなりに立派なものであっても、人間が作成したものであるからペトロの信仰告白と似たりよったりのものであるかも知れない。ただ自分の心を慰めているにすぎないとすれば、猛省すべきである。ペトロの場合、自分の心に偽りがあったとは言えず、また精一杯の正直な告白であったことは確かであるが、謙遜の心を欠いてひとりよがりの傲慢の心に支えられていたので、誤りを犯しているその慢心の信仰はやがて神のみ前に碎かれる運命にあって、新しく聖霊によって生まれかわるべきものであった。


      父への道であるイエズス

      《心を騒がせてはならない。あなたたちは神を信じている。わたしをも信じなさい》(ヨハネ14・1)
       二つのことをイエズスは弟子たちに命じている。神を信じることと、イエズス自身をも神と同じ程度に信じることを要請している。ユダヤ人の間において、また今日の人びとにもたびたび問題になることは、人間イエズスを神と同様に信じることができるであろうかと言うことであった。それだからこそ、弟子たちに対して、心を騒がせてはならないと、前置きして注意を促したのである。それは他人の意見に惑わされず、静かな心をもってこれまでのイエズスの言葉や奇跡を受け入れて、素直に信仰しなさいということである。まことに神を信じる信仰は、何ものにもとらわれることなく、いかなる権力や勢力にも支配されない自由に澄みきった良心で神の言葉を受け入れることである、と教えている。全身が目であるように、三位一体の神である御父を受け入れることが第一に必要であることに注意を促している。そればかりでなく、同時に三位一体の御子であるイエズスをも同じように信じなさいと命じている。イエズスは、唯一の神性である三位一体の御子のペルソナである自分を指して御父と御子は同一の神性を家として永遠から実在して住んでいる、御父のペルソナを父として信じる者は御子のペルソナをも神と信じるのが正しい信仰であると言う。この見える物質の世界に人間としてあらわれたイエズスが、人間の仲間のひとりとして働き、弟子たちの間に先生として教え、言葉と奇跡、しるしをもってそえを神の業として証明した。その証明が完全に実現されるのは、弟子たちのためであって、それは父の家の準備となると教えている。
       イエズスが全精力をかけて教えた神の福音の言葉にふり向きもせず、ないがしろにして通り過ぎる者は、この世の幸福を満喫できたとしても、やがて死がやってきて滅びてしまう運命にある。いくら人間的信仰が外面的に立派に見えても、真実が伴わなければ消えて無になる。それは永遠の真理である神の愛に基づかないからである。天地創造の神と人類の罪の贖い主であるイエズス・キリストに基づかない架空の信仰であれば、滅びに至るものと見なければならない。イエズスは別れの最後の晩餐の席上において、本当の信仰が弟子たちにあるように願っている。 

      (絶版)

      第二章 聖霊の介入

      2015.12.08 Tuesday

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        安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

        第二章 聖霊の介入

         《その方はわたしに栄光をお与えになる。わたしのものを受けて、あなたたちに告げ知らせてくださるからである》(ヨハネ16・14)

         聖霊のペルソナは三位一体の御父と御子からの愛の息吹きとして生まれると表現されているから、人となってすべての人びとの罪を贖って、御父に栄光を帰した御子のペルソナにも同じ栄光を与えることになると説明している。
         わたしたちがキリストの福音の言葉を聞いて、天にまします御父を知って、彼を信じて彼からこの世に遣わされた御子なる救い主を受け、罪の世から救われる洗礼の秘跡を受けて、聖霊の賜物に満たされ、新たに生まれさせられて神の子キリストの兄弟になることが、キリストの栄光の花として与えられることなのである。これこそ超自然の創造である誕生と言うべきである。楽園においてアダムが三位一体の神の姿に似せて最初に神の栄光として造られたが、彼はその栄光をそのまま永久に保つことはできなかった。なぜならサタンが蛇の形をとって、彼に与えられていた同伴者エバを巧妙に欺いて、神が禁じていた唯一の知識の木の実を食べさせ、ついには彼をもだまして食べさせたからである。これによって人祖が初めて神の言葉なる福音、神の約束を破って、神の知恵である真理、すなわち神の言葉なる神の子を拒絶したことになる。これが不信仰のはじめとなり、また原罪の原理が成立したのである。彼は自分自身のためばかりでなく子孫のためにも不信仰の宣言を公にしたのである。この時から人間は神の福音を離れて自らの理性の知恵を重んじて、自然を支配する知恵に従って生きることになった。それ以来、自分の知恵に全く依りすがって生きる者にとって、神の知恵はあたかも無益なものであるかのようだ。その結果として、神の永遠なる計画にあずかれず、滅びに至る運命にさらされることになる。「主は、神を認めない人々、わたしたちの主イエズスの福音い聞き従わない人々に報復なさいます」(テサロニケ書(二)1・8)
         アダム以来の人類に対する神の罰を、十字架の死をもって贖罪の犠牲をささげて排除したのはイエズス・キリストひとりである。これによってキリストは新しいアダムと呼ばれ、キリストに結ばれて救われる人びとに神の栄光を、罪が犯される以前の古いアダム以上に与えることになる、とイエズスは教えている。しかし、その時の弟子たちの心理はその栄光の言葉を聞いても、今日のわたしたちと同じく心にとめることがなかったと考えられる。それは神のはかり知れない神秘のうちに輝いていても自然の中の現実ではなかった。


         《父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、その方がわたしのものを受け、あなたたちに告げ知らせてくださると、わたしは言ったのである》(ヨハネ16・15)

         この世で人間たるナザレのイエズスの所有物は何であったろうか。ナザレの家とか大工の仕事場、道具とか自分の日常生活に欠くことのできぬ衣類などということになろうか。しかし晩餐のときの言葉は、そういうこの世の事物ではなく、天の御父が持っているものと言っているので、それは唯一の神たる神性の栄光を指しているのであろうと考えられる。さきにも言ったように三位一体の唯一なる神が神性の働きによって、天地万物を無から創造されたのであるから、わたしたちが信仰をもって、この真理たる創造の世界を受け止めて宣言することは神に栄光を帰することになる。
         近代文明のさきがけとして進化論が提唱され、やがて論は神なしの創造世界にまで発展してきた。世の科学者をはじめ哲学者までも無神論の立場をとってものを言うようになったので、世論は神なしの世界を認めるようになった。しかし宗教の世界、ことにキリスト教の世界では依然として、神の存在は輝いているものと見なければならない。それはなぜかと言えば、有限の物質の存在は無から成り立つことができず、アリストテレスの哲学的論理にも反するものであって、神なる絶対的創造者を必要とするからである。キリスト者は現代の進化論をどう受け止めているかと言えば、全知全能なる神の存在を認めて、神の知恵に従って真理と法則、秩序ある計画に基づいて創造された被造物が、徐々に進化して、今日の世界を形成したものと一応考えられる。つまり神なしの自然の創造説は無意味なのである。神が存在してこその進化論ということである。
         イエズス・キリストはわたしたちと同様に人性を受けた神の子のペルソナ位格であるので、彼の神性の立場に立てば全くの唯一の神であり、人性の立場に立てば全くの人間そのものである。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と言っても、少しの誤りもないし、誇張もないので真理そのものと言うほかはない。
         聖パウロはこの真理をのべてこう言っている。「キリストは神の身でありながら、神としてのありかたに固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、しもべの身となり、人間と同じようになった。その姿はまさしく人間であり、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで、へりくだって従う者となった。それゆえ、神はこの上なく彼を高め、すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった」(フィリピ書2・6~9)
         それで「その方がわたしのものを受け、あなたたちに告げ知らせてくださる」と言ったことは、イエズスがこの世において行ったすべての行跡が御父のものとなって、再び弟子たちをはじめ、この世の人びとに恵みとして伝えられることを示す。

        第一章 イエズス、弟子の足を洗う

        2015.12.01 Tuesday

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          安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

          第一章 イエズス、弟子の足を洗う

           《わたしはあなたたち皆について、こう言っているのではない。自分がどんな者たちを選んだかを、わたしは知っている。『しかし、わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって踵を上げた』という聖書の言葉は、成就しなければならない》(ヨハネ13・18)

           イエズスの言葉の意味を広く考えてみると、現代に至るまで、数多くのご聖体のパンを食べてもイエズスに逆らう者があると預言的に言うのである。彼の選びにかなった人とそうでない人が教会という場に混じっている。これはよい麦と毒麦が生えている畑のたとえ話のようである。人びとのごく自然的な生活の流れに、神の言葉が摂理として人知れずに実現されていくのである。
           イエズスが自ら選んだ数少ない十二人の弟子たちのうちにも、滅びる者がまぎれ込んでいたのを思えば、今日の世界の中にある教会の中にもキリストを信じないで、結果として裏切る者が数多くあると想像がつくのである。教会が長い歴史を通して、信仰の教義、ドグマを発表するたびごとに、異端者も数多く出るのであった。聖書のたとえ話のようによい麦と毒麦が分かれるのである。その区別を、イエズスが最後の晩餐という記念すべき場においてのべたことは、驚くべきことであろう。それを聞いた弟子たちは、自分を疑ってめいめいの良心をかけて吟味するのであったが、主が預言として語ったので弟子たちは先生である彼に自分ではないかと問いかけ、もし自分を疑っているのであればと、その危険を避けるために尋ねたのである。それに反して、自信満々な人は、かえって裏切ることになる。なぜかと言えば、弱い人間性に頼ってこれでよしとするために神の助けをあてにしない不信仰のまま身を亡ぼすことになるからである。
           かかる場合のユダの心理をわたしなりに推測すると、ユダは自分自身に頼って自信満々の態度で、神も神の言葉もなく、自らの計画を唯一のものとして安心しきっていたのであろう。それは主を裏切る計画、筋書が彼の心に確立していたからだ。イエズスの足を洗う作業も、ユダの心を変える奉仕にはなり得なかった。
           わたしたちも主に選ばれて、彼の信徒になったとしても、ユダと同じように自分の欲の望みの計画を筋書として心にえがき、神のみ言葉に従って生きるよりも、自分自身の計画や筋書きに従って生きるほうが楽しく、安易であるとすれば、そうするであろう。ユダはイエズスの弟子となっても、神の言葉をよそにして、自分の心の望みと計画を実現して、滅びに至った典型的な人であったようである。


           《事が起こる前に、今からわたしは言っておく。事が起こったときに、『わたしはある』を、あなたたちが信じるためである》(ヨハネ13・19)

           イエズスは、自分の預言が聖書の言葉に基づいているので、その預言が成し遂げられたときに「わたしはある」ものであることを、弟子たちは信ずると言っている。このことは昔モーセが神に「あなたの名は何という名ですか」と尋ねたとき、神はわたしの名は「ある、ヤーウェ」と言った聖書の中の言葉に倣い、イエズスも「私は神である」と信じるように弟子たちに明白にのべたのである。裏切られて敵に売り渡されても神であることには少しも変わりないと証言している。イエズスを売ることが可能な人は誰であろうか。それはイエズスによって、彼の言葉を聞いて信じた人びとの中から選出されて使徒と名づけられた十二人である。この十二人に、自分の体を渡して、教会を設立する。福音書によれば、使徒たちの最後に名を連ねているユダもそのひとりであった。イエズスは弟子たちに自分の身体をパンとして与えているので、それを売ることもできた、というのであろうか。
           今日の世界で、もし教会としてキリストを裏切る者があるとすれば、司教職にある者か、また全教会を裏切ることのできる者は教皇職にある者にかぎられる。世の終わりに、キリストの神秘体である教会が完成したあかつきには、キリストを裏切る偽りのキリストが出現しなければならないと聖パウロはほのめかしている。この者はサタンの働きによって教会たる神殿の中に座を占めて、支配するようになると言っている。ユダの場合も、サタンが彼の中に入って、イエズスを敵に売ることを決めたように聖書に書き残している。この最後の晩餐の席においてイエズスも世の終わりのころに同様のことが起こると暗に示しているようだ。それはとくに警戒すべきであると思えるが、わたしたちとしては神の摂理として見るべきである。信仰のない者は、それこそ自然の成り行きと考えるであろうが、サタンの働きを無視することはできない。信仰の働きはそれを見破って警戒するのである。


           《よくよくあなたたちに言っておく。わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」》(ヨハネ13・20)

           イエズスがこの世の人びとの中から選んで使徒とならしめた人たちを受け入れる者が、イエズス自身を受け入れることになるが、信仰においてそれ以外の人びとを受け入れてはならないと言うのである。このことがらは、教会において、大事な教導職として受け取っていなければならない。イエズス自身を真に受け入れることは、歴然たる教導職を無視しては不可能である。たとえ、顕著なしるし、不思議な出来事、奇跡が起こった場合でも、イエズスが行ったのでなければ、信じてはならない。天の御父の力、神性の働きがはっきりとあらわれてこそ、イエズスに結びつくしるしである。教導職とイエズス・キリストと天の御父である神に結びついてこそ真実の救いの宗教であり、信仰に値する宗教である。それらの一つが欠けても、救いの真理は成立しないであろう。世界には昔ながらの種々の宗教があって、われこそは衆生を救う道であると豪語しても、またこの世の偉大な人間が語るとしても、たかが人の作った偶像にすぎず、それは真の神の言葉ではなく、やがて消えてなくなる人の言葉にすぎないものである。