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2017.01.04 Wednesday

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    教育者へのドン・ボスコのことば

    2016.01.18 Monday

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      IAPAN
      1570年〜90年ごろ刊行された「世界地図帳」の中の東北アジアの国。
      日本列島は、IAPANと記され、その中にMeaco(メアコ)と書かれている。
      ドン・ボスコは、自分が始めた教育事業の未来の発展の姿の一つに、
      「広い海のそばにそびえる高い山とメアコという町」が見えたという。
      IAPAN_L

      『教育者へのドン・ボスコのことば』1985年 ドン・ボスコ社発行 ガエタノ・コンプリ著・編 

      100年前、夢で日本を見た人

       一八八五年、帰天の三年前、サレジオ会の創立者ドン・ボスコは一つの夢を見た。その中に自分が始めた教育事業の未来と発展の姿を見たという。世界一周をした感じで、次々といろいろな国、民族、町の名前が出て来た。南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、ペルシア、インド、中国等と。ついに北京の次に「広い海のそばにそびえる高い山とメアコという町」が見えたと言う。
       実は、ドン・ボスコは世界地理に詳しい人だった。フランスの地理学界の名誉会員にされたほどだった。一八八五年頃と言えば、日本は明治維新で、欧米の関心をひきはじめた頃であった。日本の二十六聖人の列聖(一八六二年)や長崎のキリシタンの発見(一八六五年)は欧米で話題を巻き起こしていたころでもある。ドン・ボスコが見ていたはずのキリシタン時代の地図と文献には日本の都は、メアコ「MEACO」と記されている。すなわち、一八八五年の夢の中に、ドン・ボスコは間違いなく日本のことを見たのである。(MB 第十七巻 六四六ページ)
       現在はその夢を実現するかのように、日本はいくつものサレジオ会関係の教育事業が存在している。世界中の他のサレジオの教育事業と共に(男子系、女子系、それぞれ二◯◯◯余ある)ドン・ボスコの巨行くの理想と、普遍性の証と言えるものである。
       教育はごまかしがきかない。本物でなければ、教育事業は遅かれ早かれ、必ず滅びることになる。その教育事業を支えるのは、特に私学の場合は、建学の精神である。それが本物でなければならないのである。
       さて、世界中のサレジオ会の事業の中に何が本物で、何がその建学の精神となっているのだろうか。言うまでもなく、それはドン・ボスコの教育理念である。それがなければサレジオ会もないのである。この百数十年の間、世界中のサレジオの事業を支えて来たものは、このドン・ボスコの理念以外にはありえない。従って、私たちの学校の基本的な教育方針が何であるかといえば、その答えは当然、ドン・ボスコの理念と決まっている。問題があるとすれば、それを真に理解しているかどうかであろう。
       ではこのサレジオ会の精神とは、どういうものであろうか。もちろんこれは生きたものなので、詳細に観察していけばある程度まで、あらゆるサレジオ会の事業の中に見られる。しかしより基本的な文献としては、ドン・ボスコ自身の書いたもの、またその他の、サレジオ会の名において書かれた文書がある。それを研究すれば、サレジオの伝統が明白になるであろう。私たちにとってはこれらの文献こそ、サレジオ会教育の原点となるものである。疑問が生じたときは、ここにもどらなければならない。
      ここに、ひとことおことわりしておくが、ドン・ボスコはいわゆる教育学者ではなかった。彼は教育者であった。すなわち、彼はただの教育理論を研究したり、それを著したりするつもりはなかった。毎日生徒と交わり、教育の実践んい全力を入れるのが教育者である。理論を知る必要はあるだろうが、教育者は研究のために生きるのではない。生徒のために生きるのである。ドン・ボスコはまさにそのような人であった。彼の生活自体は一つの教育の手本である、そして彼の著作は豊かな教育経験に満ちている。ドン・ボスコは深い洞察力と、人間の心に対する理解に恵まれていた。それゆえ彼の教育方法は、人間の教育の正鵠(せいこく)を射た普遍的なものであると私は信じている。教育の天才であったと言っても言い過ぎではないと思う。彼の言葉と行いは、いつまでも教育者に理想と希望を与えるものとなるであろう。勿論、時代と場所による限界があろうが、基本的な考え方はいつまでも生きるであろう。
       だがドン・ボスコは特別偉そうなことを言っているのではない。ごくあたりまえのことを話しているだけである。教育の根本はごくあたりまえの事ではないだろうか。あたりまえの事を怠ってしまえば、いくらすばらしい設備を誇っても、いくら良いカリキュラムを組んでも、いくら偉そうなことを話しても、何にもならない。それでは、なにがあたりまえなのであろうか。それはドン・ボスコに言わせると、教育とは最終的に、心と人間関係の問題であるということ。いつでも生徒と心が通うようにして、彼らに自分の人生をぶつけて、いっしょに生活しながら、その心の中に一つの信念を創りあげること、これが教育なのである。教科を教えることは、ある意味では、ただ自分の姿勢を示すための一つの手段であって、教育のすべてではないという。教育とは、あくまでも人間の教育の事を言うのである。ものを教える教師であるだけでは、教育者ではないというわけである。
       日本においては現代ほど物質的に恵まれた時代はないが、同時に、教育がこれほど危険に直面したこともないだろう。家庭内暴力や校内暴力はその著しい現象の一つにすぎない。結局、何が足りないのだろうか。答えは、ここで紹介するドン・ボスコの文献の中にあると思う。これらを読んでみると、まるで現代の日本の教育者のために書かれたもののように思われる。だが実際はもちろん、何よりも、まず、サレジオ会の事業で働いている私たちのために書かれたものなのである。まず私たちのため、先生のため、そして父兄のために書かれたものである。
       この本の中に紹介されるドン・ボスコ関係の文献のうち、その重要なものは、およそ100年前(一八七七年〜一八八四年の間)に書かれた。それはドン・ボスコが帰天する前の最後の十年間に当たる。ある意味で、ドン・ボスコの精神的な遺産である。ドン・ボスコ自身が書いた一生涯の貴重な経験の結果とも言えよう。時代と環境の違いを考慮して、現代の日本の教育の現状を念頭におきながら、それぞれの訳文の前に導入の説明文を加えたり、注を入れたりした。また、現代用語に合わせるため従来の翻訳を再考した。なお参考のために、ドン・ボスコが教育の原点としていた聖書の箇所や、ミッションスクールの存在にかかわる教会法や、サレジオ会の公文書関係の何箇所かを加えることにした。
       聖書の中に洗礼者聖ヨハネについて、「神より遣わされた人がいた。その名はヨハネであった」と書かれてあるが、同じようなことはヨハネ・ボスコについても言えるのではないかと思う。彼も「光を証明するために来た」のである。ドン・ボスコへの忠誠を誓う意味でも、その帰天一◯◯周年(一九八八年)の準備として、この一冊を日本のサレジアンファミリーの皆さまに捧げたい。 (G・コンプリ)
       

      8 くいちがった祈り

      2016.01.05 Tuesday

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        『聖ヨハネ・ノイマン伝』レデンプトール会編より

        8 くいちがった祈り (1849~1852年)
         一八四九年一月、アメリカのレデンプトール会の準管区長として、説教師として高い評判のあるベルナルド・ハフケンシャイド神父が来任した。
         ヨハネ・ノイマンが外見的に小さくみずぼらしく見えるのに反してベルナルド神父は、体格もよく威風堂々たる風格を具えていて全く対照的であった。しかしこの二人の差はただそれだけであった。つまり二人とも同じ指導方針を抱いていた。即ち、既に存在している修道院を霊的に堅固なものにすると同時に、何よりも会則を遵守する修道者を養成するということであった。それで新管区長による最初の任命は、ノイマン神父を自分の顧問ならびに忠告係とすることであった。
         アメリカに来たばかりのベルナルド神父は、自分の手伝いとしてこの聖なる修道士を得たことを喜び、かれを自分の右腕と呼んで自慢した。又今までノイマン神父の顧問であった神父たち、たとえば、ノイマンについて特に目上に誤解させる様な報告を秘かに送っていたステルジク神父などを、丁重に断って辞めさせた。
         又、準管区から独立の管区に昇格する手続きのためにベルナルド神父がヨーロッパに旅行した、一八五〇年夏から一八五一年三月までの間には、自分の代理として再びノイマン神父を選んだ。
         その他、新しく創立した神学校の校長として一時的にノイマン神父が選ばれ、管区昇格の時にバルチモアの聖アルフォンソ教会の主任司祭ならびに院長に選ばれた。
         バルチモア教区の大司教ケンリックは、大司教に選出されるまでは、補佐司教としてフィラデルフィアの教区で二十年間働いていた。その後フィラデルフィアの司教が死去し補佐司教もいないままに、その司教座は空位となっていた。ケンリック大司教はそのことを心にとめ、適わしい人物を探すことを絶えず心がけていたのである。このバルチモアの教区にノイマン神父が赴任したことは全く神の摂理であった。

         レデンプトール会がアメリカにおいて小教区の黙想会を始め、大きな成功をおさめたのはこの時期である。名説教家のベルナルド管区長がこれを始めた。ノイマンはこの仕事にはあまり活躍しなかった。修道会の職務に追われ、又幾つかの女子修道院の聴罪司祭として働いていたからである。六、七カ国語に通じているかれは、こういう仕事に適していた。しかし幾度か司祭の黙想会の指導をしたこともある。
         キューレー神父は、聖なるノイマン神父が又、神学者でもあることを詳細に伝えている。ノイマンは、ドイツ系の子供のために大小二つのドイツ語の教理の教科書を著わした。それは今でも使用され小さい方は三十八版、大きい方は三十一版も重ねているという。又「聖書の歴史」という著書も永年にわたって愛読され、ドイツ系信者のための新聞には、教義神学や修徳神学の論文や記事をたびたび発表していた。聖トマスの「神学大全」にならって、九十一の概論に分けた論文を、細かに記した二千頁ものノートさえ書き残している。その中には、聖アルフォンソはもちろんのこと、聖フランシスコ・サレジオ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ、アヴィラの聖テレジア、グラナダのルイなどが引用されている。
         これによってノイマンが、単に祈りの人であるだけでなく、学者でもあったことが分かるであろう。


         聴罪師としてのノイマン神父の評判は高かった。修道精神を生きているかれが、他人の中にそういう精神を植えつけるのは易しいことであった。ノイマン自身、修道女たちのためにそういう働きをするのが喜びであることが、かれの説教をきくとよく分かった。自分の熱中している霊的生活について語る時、聞く人の心の中にそれを燃え上がらせるのであった。
         ノイマン神父は、主として二つの修道会の修道女たちのために働いた。モニクのノートルダム修道女会と御摂理のオブレート修道女会である。前者は、アメリカで基礎を固めたレデンプトール会と結び付いて働き、それによって全米に確固とした発展を遂げる様になった。後者は、黒人のみで創立された会であるが、将来性の見込みはないとし、エクレストン大司教は解散命令を出そうとしてこういった。
         「この修道会の創立は、寛大な試みではあったが失敗でした。それぞれのシスターは自分の家に帰るようにしましょう。あなた方のための仕事(メイド)の需要は多いから、十分生活して行くことができるでしょう。」
         高位聖職者のこの言葉を伝え聞いたノイマンは修道女(シスター)たちを助けにやって来た。大司教の許しを得て、自分の会の最も熱心な司祭の一人を週に二回、ミサを献げるためにこの修道院に行かせ、日曜日には聖体降福式(ベネディクション)を行う様にさせた。ノイマン神父自身は、修道生活についての相談に応じ、かの女たちの特別聴罪司祭として働いた。それでこの御摂理のオブレート修道女会は救われ、今日でも米国各地に、数多くの修道院と学校を擁して活躍している。この会の現在の隆盛は、いうまでもなく聖なる司祭ノイマンのお蔭である。
         バルチモアに来たこの熱心な司祭の評判は、間もなく大司教フランシス・ケンリックの耳にまで届いた。大司教は自分の毎週の告白を、ノイマン神父にする様になった。大司教はすぐに自分の聴罪師が聖人であることを見抜いた。週毎にこの若いレデンプトール会士の、神への愛と修道的完徳への熱望を、はっきり見たのである。
         一八五一年夏のある日、大司教はノイマン神父の部屋を訪れて親しげにこういった。
         「神父様、そろそろご自分のために司教冠(ミトラ)を選ばれたらどうでしょう。ご存知の通り、フィラデルフィアには今司教がおりません。噂によると、選ばれるのはおそらくあなたですよ。」
         ノイマン神父は愕然とした。自分の目にはフィラデルフィアの様な広い教区を治めるのに、自分ほど不適格な者はいないと映った。立っていた神父はひざまづき
         「閣下、どうぞそんなことになりませんように。」
         と真剣に涙を浮かべてケンリック大司教に切願した。かれの深い謙遜と、いくらなだめても変わらない悲しみに動かされて大司教は、そうならないように努力しようと約束するのであった。ノイマンはバルチモアの女子修道院に依頼して、自分の意向―司教にならない様に―のために特にシスターたちに祈ってもらった。
         更に管区長に願って、ローマのレデンプトール会本部の、聖座との接渉係に手紙を送り、その様な高位を免れ得る様に取りついでくれと頼んだ。
         しかし全てはむだであった。ノイマン自身の祈りと、周囲の人々の祈りとは、どうもくい違ったまま天に上がっていく様であった。

         ケンリック大司教はじめ幾人かの司教は、ドイツ系信者のためにどうしてもドイツ語のできる司教を欲しいと思っていた。南カロライナ州チャールストンのレイーズ司教は、布教聖省長官にこう書いた。
         「ノイマンがドイツ人であり、又修道者であるということに、若干の人は難色を示すかも知れませんが、かれを司教としてお選び下されば、こっと短時日のうちに、信徒にも司祭にも透かれるであろうことは間違いありません。多くの知的な賜物と同時に、人の心を惹き付ける特別な霊能(カリスマ)をかれは有しております。説教師としてさ程優秀ではないと反論されても、それはさして重大な理由にはなりません。無論、条件が揃っておれば、米国人で雄弁な人物を推薦致しますが、数カ国語が可能である点でも、又学識においても、ノイマン神父ははるかに抜きんでております。」
         確かにある司教たちははっきりと、ノイマンを推薦することに反対した。かれは恐らくノイマンをあまりよく知らなかったか、かれの外見の貧弱な様子に悪い印象を受けたのであろう。それで、司教団に対しノイマン神父を推していたケンリック大司教は、司教団を代表して布教聖省に書面を送ったが、三名の候補者の名をつらね、ノイマンはその二番目に記した。が同時に個人的に、ローマのアイルランド人神学生の学寮(コレッジ)の校長をしている友人に手紙を書き、かれに頼んで、ノイマンの名がリストの最初に挙げられるべきである真相を、直接に教皇聖下にお目にかかって申し上げ、この謙遜な主任司祭を、フィラデルフィアの司教としてご指名下さる様にお願いしてほしいと伝えた。
         この工作は功を奏した。
         教皇ピオ九世は、フィラデルフィア教区の第四代司教として、ヨハネ・ネポムセン・ノイマンを選ばれたのである。

         ケンリック大司教がこの正式の選任通知を受け取ったのは三月一日であった。大司教はこの知らせをノイマンに伝えるために急いで修道院に出かけた。若い神父は留守であった。そこで大司教はノイマン神父の部屋の小さな机の上に、自分がフィラデルフィアの司教として二十年間用いた、司教佩(はい)用十字架と司教指輪を残して黙って立ち去った。
         間もなく帰って来たノイマンが自分の部屋に入ると、机の上の品の放つ光がすぐかれの目を捕らえた。あわてて頭の中にひらめく思いを信じるのを恐れ、受付の助修士(ブラザー)にだれかが自分の部屋に入ったのかと尋ねた。
         「大司教様がいらして、いつもの様に告白をなさるために、あなたの部屋にお入りになりました。」
         この言葉を聞いて神父は指輪と十字架の意味を悟った。権威の座に着くことなどいささかも望んだことのないかれは、全くうちのめされた者の様であった。司教に選ばれたことを知ったかれは、よろめきながら部屋のドアに鍵をかけ、崩折れる様に床に膝をついた。
         朝になってかれを探しにきた助修士は、そのままの姿勢で祈りつづけている神父を見い出した。
         時を移さず、貧しい謙遜なノイマンは、管区長ベルナルド神父に手紙を送り、特別のとりなしを願った。それで管区長は、アルプスのかなたの総長代理スメタナ神父に依頼して、ローマ聖座に対し、極力辞退の請願をする様にとりはからった。未来の枢機卿であるレデンプトール会士、デシャンプ神父は、この請願を布教聖省に提出した。

         この期間にノイマンは、自分が告白をきき指導しているいくつかの修道会の人々に、自分の意向のために祈るように願い、又聖アルフォンソ教会の自分の修道院の神父たちには、急迫した危険を避けるために、七つの痛悔の詩篇をくり返し唱えてほしいと頼むのであった。

         奔走も祈りも全ては空しかった。請願は受け容れられなかったのである。
         ケンリック大司教は、その喜びを兄弟であるセント・ルイスの大司教にこう書き送っている。
        「私の喜びを、とるものもとり敢えず、あなたにお分けしたいのです。教皇様は、フィラデルフィアの後継司教として、はっきりとヨハネ・ノイマンを御指名になられました。かれは全く聖人なのです。」

         ケンリック大司教は、司教叙階式の日として、一八五二年三月二十八日、主の御受難の主日を選んだ。この日は奇しくも、ノイマンの四十一歳の誕生日に当たっていた。
         自分の肩に負わされた、途方もなく巨大な責任をよく自覚していたので、司教冠を冠りさえしなければ、自分自身の救いをもっと確実にすることができるのにと、確信していた被選司教ノイマンは、自分の標語(モットー)として
         「キリストの御受難、われを強めんことを!」
        を選んだ。聖イグナチオの祈りの中のこの句は、ノイマンの神への信頼をよく表わしている。

         叙階式の前夜、傍らの修道者にかれはいった。
         「明日、司教として叙階されるよりも、明日死ぬ方を自分は選びたい。」
         

        聖パードレ・ピオ 2 

        2013.09.23 Monday

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          『キリストの似姿 ピオ神父』ペトロ・ボン・エッセン 神崎 房子 共編著より
           第二章 教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉
          列福式ミサの説教 (カルメル会司祭 和田 誠 訳)

           謙遜なカプチン会士ピオ神父は、その生涯を祈りと苦しむ人々に絶えず耳を傾けることに捧げ尽くし、そのたぐいまれな一生をもって全世界の人々を驚嘆させ、かつひきつけました。数限りない人々がサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院を訪れました。そして、その死後も巡礼者の列が途切れることはありません。私自身も、ローマで学生時代に個人的にピオ神父を知る機会を得ました。そして今日、神はこの私にピオ神父を福者の列に加えるお恵みを下さったのです。
           ミサ中の福音朗読で弟子たちを励ますキリストのみ言葉を聞きました。主は言われます。「あなたがたは、心をさわがせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」(ヨハネ14・1)この言葉を聞くとき、私たちの思いはおのずから、ガルガーノの謙遜なカプチン会士ピオ神父のもとに飛んでいきます。キリストのこの言葉は、まさしくピオ神父の中で完全に実現しました。主は言われます。「心を騒がせないように。そして信じなさい」と。聖フランシスコの謙虚なこの息子の生涯は、まさしくこの言葉通りの一生でした。彼の生き方は、永遠にキリストと共にいることのできる天国に対する希望で強められた「信仰の試練」そのものではなかったでしょうか。キリストはこうも言われました。
          「あなたたちのいるところに共にいられるよう、私はあなたたちのために場所を準備しに行く」
           ピオ神父の若いころからのその厳しい修業の目的は、師キリストがおられるところに自分も共にいるために、できるだけ完全に師キリストに似た者になろうと、絶えず努力すること以外のなにものでもありませんでした。ですから、ピオ神父の捧げるミサにあずかり、彼に告解し、その勧告を受けようとサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院を訪れる人々はピオ神父の中に、苦しみ、そして復活されたキリスト御自身の生ける肖像をみていたのです。
           実際、ピオ神父の顔には復活の光が輝いていました。聖痕を印された彼の身体は、過ぎ越しの神秘の特徴である死と復活の間に存在する緊密なつながりをはっきりと表していました。ピエトレルチーナの福者ピオ神父にとって、キリストの受難への参与はますます深いものとなっていきました。神から与えられた特別な恵み、内的また神秘的な苦しみなどはみなピオ神父に、主キリストの受難を絶えずその身をもって体験させ、受難の山「カルワリオ」はすべての聖人たちが登らなければならない山なのだとの確信を抱かせたのです。ピオ神父は、神から受けたたぐいまれなカリスマゆえに、多くの苦しみを忍ばなければなりませんでした。数々の試練は苦しく、人間的には耐えがたいものでもありました。多くの聖人たちの生涯を見てみますと、神の特別な計らいによって、神から選ばれた者である聖人たちが、まさしく多くの人々の無理解に苦しまなければならなかったということは決して珍しいことではありませんでした。そんな時、彼らにとって従順は、浄化のるつぼ、キリストと同化に至るための道、正真正銘の聖性をますます強化する手段となったのです。
           新福者ピオ神父も動揺な状況に置かれたとき、その長上に書き送っています。
          「ただ従順によってのみ行動するようにしています。神は御自分が最もよみされる唯一のもの、また私にとって救いに至り、最後の勝利をわがものとするために唯一の方法は従順であることをわからせて下さいました。」
           ピオ神父は嵐が吹き荒れていた時、ペトロのあの勧告「生きる者であるキリストをしっかりと抱きしめなさい」という言葉を、自分自身の生き方の原則にしていました。こうしてピオ神父は教会という霊的な建物のために生ける石となってくれたのです。
           今日私たちは、このために神に感謝を捧げます。聖ペトロは言っています。「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊的な家を築きあげなさい」聖ペトロのこの言葉は、ピオ神父の使徒職の中で何と見事に実現されていることでしょう。ピオ神父の周りで素晴らしい教会運動が広がっていきました。数え切れないほどの人々が、直接あるいは間接的にピオ神父と出会うことによって、信仰を再び見いだしていきました。そしてピオ神父の教えに沿って、世界中いたるところに「祈りのグループ」が生まれました。
           ピオ神父は、自分の霊的息子・娘たちにいつも聖人になるよう務めなさいと励ましていました。そして、「イエス様には皆さん一人一人の霊魂の聖化以外の関心事はありません」と繰り返し言い聞かせるのでした。
           ピオ神父はまるで十字架の下にとどまっているかのようにサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院から動きませんでした。確かにこの神のみ摂理には深い意味があったのでしょう。特に激しい試練のさ中にあったピオ神父に、神なる師イエスは「十字架の下でこそ、愛することを学ぶのです」と言い慰めるのでした。
           そうです、十字架こそ愛の最高の学び舎です。否、むしろ愛の源泉そのものです。苦しみによって清められたキリストのこの忠実な弟子、ピオ神父の愛は多くの人々の心をキリストの方へ、またその救いの福音の方へとひきつけていきました。