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    聖母と聖ザビエル

    2015.07.29 Wednesday

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      『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田貞治神父著 エンデルレ書店発行)
      第十二章 聖母と聖ザビエル
       一五四九年八月十五日、聖母被昇天の祭日に、聖フランシスコ・ザビエルがキリストの福音の使徒として、はじめて日本の鹿児島に上陸したのは、まぎれもない歴史上の事実である。ほかならぬこの日が、ザビエルを通じて、日本民族とキリストの最初に出会いの日となったことは、聖母のお引き合わせをおのずと思わせるのである。
       これが、神の祝福と恩恵の端緒となって、多くの人々が入信し、いわゆる切支丹となったことは、あらためて記すまでもないめざましい事実である。
       ザビエルは、ついに志を果たして日本列島の一端に足をふみ入れたとき、ひとかたならぬ航海の苦難をなめたあとだけに、聖母の御保護に心から感謝をささげたことであろう。またこの日が奇しくも聖母のもっとも光栄ある大祭日にあたることに意をとめ、聖母の汚れなきみ心に日本全土を奉献して神への改心の恵みを祈り求めたに相違ない。
       むかしわたしはコロンブスのアメリカ大陸発見を主題とした映画を見たことがある。一行が見知らぬ海岸の波打ち際に上陸するやいなや、そこに跪いて敬虔に祈りをささげた、その感動的なシーンをいまだに忘れることができない。
       ザビエルのような福音宣教の熱に燃える聖人が、はじめて日本の海岸に降り立ったとき、まず熱心な祈りを神にささげなかったということは考えられない。またとくに史実として資料の裏づけがなくとも、その大祝日に当たった聖母に向かって、宣教のよき効果のためお取り次ぎを願わずにすませたとは、到底思えないのである。
       ともかく、聖人の祈りと聖母のお力ぞえによって、日本の布教はまずいちじるしい成果をあげた。が、間もなく為政者によるおそるべき迫害が起こり、教会史上に例のないほどの殉教の哀史がつづられることになった。
       聖母のお涙は、人々の眼には見えなかったけれども、そのときから、無数の殉教者とともに、日本の上にそそがれていたのではなかろうか。
      秋田における殉教
       先にしるしたごとく、姉妹(シスター)笹川を通じての天使のお告げの中に、「聖母が秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに…」とあるところから、私は秋田の地に先に蒔かれていた恩恵の種をさぐる心で、秋田殉教史をひもといてみた。キリスト信者ではない著者武藤鉄城氏の労作「秋田切支丹研究・雪と血とサンタクルス」から、以下少し紹介したい。
       「寛永元年(一六二四)六月三日、ついに秋田キリシタン史の悲しき記念日、秋田藩最初の殉教の日が到来した。
       六月三日
        一、御城御鉄砲にて罷出候
        一、きりしたん衆三十二人火あぶり、うち二十一人男、十一人女
        一、天気よし
       これが、信者たちから鬼のようにおそれられた奉行、梅津半右衛門憲忠の弟政景の、その日の日記である。しかもこの大殉教をわれわれに教える日本における唯一の記録である。…
       そえにしても最後の『天気よし』の一語が、三百年も過ぎた今日でも、私たちの旨をなんと強く打つことであろう。
       十字架に釘付けられた幾十人もの信者を生きながら焼く煙の、ほのぼのと炎天にのぼる光景が瞼に映るではないか。…
       クラッセの”日本西教史”には、その日の光景を次のように描写している。
      …宗徒すでに刑場に達するや、一人ごとに柱に縛し、少許を隔て薪を積み、これに火を放てり。ここにおいて各人同声救主の救援を希願し、皆一様に天を仰ぎ救主を呼んで死を致し、殉教の素願を遂げたり。…
       殉教者の遺骸は三日間人をもってこれを守らしむ。ここに不思議なるは、夜間天光明を放つといひ出者あり。はじめこれを見認めたるは守衛にして、その者よりして基督信者に告げ、ミナの人は霊妙なる示現を見んとして、夜中屋瓦上に登る者もあり。第三夜に至り密雲天を覆ひ、降雨甚だしきに観者三百人に過ぐ。これによって基督信者は弥々信心肝に銘じ、異教者はただその奇怪に驚くのみ。
       ジアン喜右衛門が柱に縛せられたる時、その懐中より一書を落とせり。その記する所は実に聖母を信ずるの深きを見るに足る。よって一語を略せず左に陳述す。
      『至神至聖なる聖母、余がごとき不似の者にして聖子基督を信じ、その恩を謝するを得たるは実に聖母の仁慈に出づるを知る。
       仰希す。余の妻、余の子ら地獄に陥るの苦を救ひ、なほ余らをして死に至るまで信心を失はざらしめよ。
       聖母、余は実に怯懦なり、いづくんぞ大苦難に堪ふることを得ん。希ふ所は聖子救世妙智力を施し、もつてこれに克つを得せしめんことを。余や地獄に堕つるをおそれ、ために聖母に救苦を祈るものにあらず。ただ身を炙肉となして供祭せらるるを願う者なり。至仁なる聖母、幸に余の祈願を放棄するなく、余および余の妻子およびど同社の夥伴を保庇して、死に至るまで信心を聖教に強固ならしめよ。
       余は日本において奉仕する聖教と、これを聞き、これを修めて倦むことなき師父らの事を至心渇望す。これらをみだりに祈請するは実に僭越粗暴たるを知るといへども、かつて聖子耶蘇は架上にありて聖母をもつて衆生の母となす例あり。これ余が恐懼を顧みず、この懇請をなす所以なり』
       右と同じ日の光景を、パジェスの”日本基督教史”にも記録されている。…」
       このような殉教者を出した土地柄の秋田を聖母がえらんで、お言葉を賜り、お涙を流されたのも、理由のないことではない、と思われる。天使はつづけて、「恐れなくてもよい。聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです」と保証される。
       このたのもしい促しにさえ、われわれは真剣に耳を傾けようとしないのであろうか。
      日本の再布教
       殉教の血にいろどられた二五九年を経て、ようやくフランスのパリ外国宣教会の一員フォルカード師が、日本の再布教を志して渡来した。一八四四年五月一日、琉球の那覇港に到着した彼は、軍艦内の病室でミサを捧げ、感謝の祈りにつづいて、”聖母の汚れなきみ心”にこの新布教地を奉献して祈った。この祈りを、少し長いが、浦川和三郎師著の「切支丹の復活」(前篇)から左に引用紹介しておきたい。
       「ああマリアの至聖なる聖心(みこころ)、諸の心の中にも至って麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀隣、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣教の重任を託されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像崇拝よりキリスト教の信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公に又正式に御保護の下に託すべきことを宣誓し奉る。
       ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは、謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賎しき我を用ひて『強き所を恥ずかしめ、現に在る所を亡し(コリント前一、二八)』幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。」
       その後日本の政治の流れも変わり、鎖国の長い眠りも破られ、切支丹迫害の血なまぐさい歴史も一応幕をおろした。しかし、迫害が止んだからといって、日本のキリスト教化がたちまち進展するものでもなかった。むしろ遅々として、布教の効果は一向にあがらないのが実情であった。
       やがて、日本民族にとって有史以来最大の惨事ともいうべき大東亜戦争が起こり、ついに広島・長崎の大いなる犠牲をもって終局を迎えたが、一九四五年のその記念すべき日が、八月十五日という聖母被昇天の祭日であった。このことは、終戦当時九万そこそこのカトリック信者に、神の摂理による暗合を思わせ、聖母とのゆかりをあらためて想起させるものであった。
       このとき、日本の司教団は一致して、先に述べたフォルカード師の範にならい、「聖母汚れなき聖心に日本を捧げる」ことを決議し、信者たちにもその信心がすすめられたのであった。
       ところで、一九七五年一月四日、聖母像から三回も涙が流された日に、天使から姉妹笹川に告げられた言葉の中に「聖母の汚れなきみ心に日本を捧げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです」との指摘がある。
       昔から、神のおん母、人類に賜った母、聖マリアを愛し尊ぶ聖母信心は、教会の伝統から言っても聖書に照らしてみても、もっとも正統な、いつの時代にも重んずべきものであった。先の切支丹たちも聖母への信心によって、過酷な迫害に堪え、殉教をとげる力を与えられていたのであった。そのように、聖母はいつも日本を愛し、日本民族を心にかけてこられた。その聖母が、なぜ今涙を流されるのであろうか。
       「聖母の汚れなきみ心に日本を捧ぐる祈」*1 は、今でも”公教会祈祷文”の二四一ページに、そのまま記載されている。しかし、もし誰かが、天使のような眼力をもって、現在の日本のカトリック教会をくまなく見わたしたとしたら、どこかでこの祈りが唱えられているのを発見できるであろうか。口に出して唱えぬまでも、この心を忠実に保って聖母信心にははげんでいる教会を、いくつか見いだせるであろうか。
       こんにちでは、聖母を通して神にお恵みを願うことを、軽んじるばかりか、あたかも迷信か邪道のように言う人さえ、稀ではない。それに対しては、まじめに論議をまじえる前に、まず理解に苦しむ提言、といわざるをえない。
       第二バチカン公会議は、聖母信心に関して、はっきりと言明している。
      「すべてのキリスト信者は、神の母、および人びとの母に対して、切なる嘆願をささげ、教会の発端を祈りをもって助けられた聖マリアが、すべての聖人と天使の上にあげられた天において、今もなおすべての聖人の交わりのうちで、御子の許で取り次ぎを続けて下さるよう祈らなければならないのです」
       聖母は、この公会議の条項が少しも信者たちにかえりみられないことを、泣いておられるのではなかろうか。
       先の天使のお告げのつづきに「あなた方が捧げている”聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!”との願いをこめての祈りは喜ばれています」とのはげましの言葉がある。
       この祈りは、聖体奉仕会において、毎日の聖体礼拝中、ロザリオの祈りに先んじて提示される共同祈願の意向の第一として唱えられるものである。
       日ごろ姉妹たちと口にし馴れたこの祈りが、聖ザビエルにはじまり、フォルガード師から日本司教団へと受けつがれてきた由緒ある、聖母の御心にかなった日本民族のごあいさつであり、敬愛と信頼をこめたすぐれた祈祷であることに、今さらに気づき、感慨をあらたにした次第である。
      *1 聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈り (毎年聖母の汚れなき御心の公式の祝日に之を唱う)
        いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、
        われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民を
        御身の汚れなき御心に奉献し、そのすべてを御身の保護に委ね奉らんと欲す。
        願わくは聖母、慈しみの御まなざしもて われらの心をみそなわし給え。
       
        ああ、人々 真理にうとく、その心くらみ、罪の汚れに染み、
        諸国はまた互いに分かれて相争い、天主の霊威を傷つけ、
        御身の御心を悲しませ参らするなり。
       
        されどわれら日本国民は、ひたすらに光をしたい、平和をこいねがうものなれば、
        願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。
        われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく耐え忍び、
        そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、
        わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、
        身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。
        願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
        
        かくて、われらは同胞、相互いに助けはげまし、諸国は正義と愛のきずなもて結ばれ、
        もって世界は、 とこしなえの平和を 楽しむにいたらんことを望む。
        願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。
        天主の聖母、われらのために祈り給え。
        キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
        祈願 
       全能永遠なる天主、主は 童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、 
      願わくは、御あわれみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。
      われらの主キリストによりて願い奉る。 アーメン。

      聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ 第九章 つづき2

      2015.07.09 Thursday

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        『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田貞治神父著 エンデルレ書店発行)

        第九章 予告された耳の治癒 つづき2

         退院後の出来事

         さてここで話を一九七四年五月十八日に伝えられた、姉妹(シスター)笹川の全聾からの治癒についての天使の預言に戻すが、私が入院生活を送っていた四週間の期間中にはおそらく彼女の治癒は起こらないであろうと、私はベッドで考えていた。
         退院は九月四日だった。すこしづつ体力が戻り、ほぼ元通りの生活に復帰した九月三十一日(土曜)の朝、聖体礼拝のあと姉妹笹川が近づいて来て、次の報告をした。
         「お礼拝中、念祷に入ってしばらくたっととき、いつもの天使が現れておっしゃいました。『今朝の食卓で、夢のことが話題になったでしょう。心配することはない。今日からでも明日からでも、あなたの好きな”九日間の祈”をつづけなさい。九日間の祈を三回つづけている間に、御聖体のうちにまことにまします主のみ前で、礼拝中のあなたの耳が開けて、音が聞こえ治るでしょう。まっ先に聞こえてくるのは、あなたがたが、いつも捧げているアヴェ・マリアの歌声ですよ。その次に、主を礼拝する鈴の音が聞こえるでしょう。
         礼拝が終わったら、あなたは落ち着いて、あなた方を導いてくださるお方に、感謝の讃歌を願いなさい。そこで皆は、あなたの耳が聞こえるようになったことを知るでしょう。この時、あなたの体も癒され、主は讃えられます。
         これを知ったあなたの長上は勇気に満ち、心も晴れて証しをするでしょう。しかし皆がよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって、より信頼して祈りなさい。きっと守られるでしょう』
         ここでちょっと間をおいて
         『あなたの耳が聞こえるのは、しばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず、また聞こえなくなるでしょう。聖主がそれを捧げ物として望んでおられますから…。
         このことを、あなたを導く方に伝えなさい』
         深いまなざしでじっとみつめられたあと、そのお姿は消えて見えなくなりました」

         この報告を聞いた私は、それほどはっきり言われたのなら、九日間の祈を今日からでも始めなさい、とすすめ、このことは誰にも語らぬように、と念を押しておいた。
        (なお、お告げの冒頭に指摘された”今朝の食卓で話題になった夢”については、次章で述べることにする)
         それから、その治癒の恵みはいつ与えられるのであろうか、と考えた。アヴェ・マリアの歌声と鈴の音が聞こえる時、とあれば聖体降福式の場合であるから、それの行われる日曜日であることはまずまちがいない。次に、”三回の九日間の祈をつづける間に”ということであったが、私は三回の祈のあとに、と思い違いをして、では十月末の日曜であろうか、と見当をつけた。まったく、こんなにはっきり告げられた言葉でも、人間の知恵はすぐ取り違えをしてしまう。いかにも愚かなものだと思わずにいられない。

         十月十三日(一九七四年)

         この日は晴天に恵まれたので、私はレクリエーションを兼ね、久しぶりの釣りに男鹿半島の入口天王まで出かけた。夕方五時からの聖体礼拝と降福式に間に合うよう早目に帰り、少し休んでから聖堂に入った。
         聖体顕示を行い、香を焚くとき、私の胸に”今日は何かありそうだ”とかすかにひびく思いがあった。償いの祈りののち、席にもどってロザリオを共鳴する。つづいてアヴェ・マリアの歌…。その終わりごろ、姉妹笹川が畳にひれ伏して、泣いているらしい様子が目にとまった。念祷、聖務の晩の祈りを終え、いよいよ聖体の祝福の時になった。姉妹のひとりの手によって鈴が高らかに振り鳴らされる。私は顕示台をかかげて十字の印を描きながら「主よ、思し召しのままにお恵みを与えたまえ」と祈った。
         次いで顕示台にむかってひざまずき「天主は賛美せられさせ給え…」と、賛美の連祷の先唱をはじめた。その祈りが終わり、聖歌の指定をしようとしたとたん、姉妹笹川が背後から「神父様、聖歌十二番のテ・デウムをお願いいたします」と声をかけてきた。私はすぐふり返り「耳が聞こえるようになりましたか」と聞くと、「はい、今そのお恵みをいただきました」と私の唇の動きを見ることなく答える。
         そこで列席の人々(日曜の式なので、外部からの参列者もあった)に向かい「皆さん、五月と九月の二回にわたって天使から姉妹笹川の耳が聞こえるようになるお約束がありまして、そのことが今日実現しました。今これからそのお恵みを感謝してテ・デウム(神への賛歌)をうたいましょう」
        と告げた。
         人々は大そう驚いたようで、それこそ自分の耳を疑う態であったが、賛歌はすすり泣く声もまじえて感動的なものとなった。
         耳が癒されとときの模様を、彼女自身はこう述べている。
         「降福式の礼拝中に、前もって天使に教えられていたとおり、まっ先にアヴェ・マリアの歌声が、夢の中のように、遠くから耳に聞こえてきました。歌声だけで、ほかには何も聞こえてきませんでした。それから少し念祷の時間があって、つづいて晩の祈りになりましたが、その時には皆さんの声は少しも聞こえませんでした。神父様が御聖体で祝福された瞬間、鈴の音がはっきり聞こえてきました。つづいて神父様の声が『天主は賛美せられさせ給え』と聞こえてきました。それは、初めて聞く神父様の肉声でした。
         最初にアヴェ・マリアの歌声がひびいてきたとき、この取るに足らぬ者の上に神の御憐れみが与えられようとしていることをさとり、ああ有り難いこと、もったいないと思ったとたん、感謝で胸がいっぱいになり、泣き伏してしまいました。声が出そうになるのをこらえるのに必死で、祈りの言葉さえ思いつきませんでした。
         音を失って一年七ヶ月、両親を悲しませ、神経を使い、緊張の連続の毎日でした。でも今与えられた聴力も、また捧げものとして失われるはずと思うと、もっと心して祈らなければ、と気をとり直したのでした。
          ついでながら、天使はお告げの中で”この時あなたの体も癒される”と言っておられましたが、たしかに、そのころ内蔵や体のあちこちに感じていた苦痛も、同時に癒されたことにはっきり気づきました。…」

         この報知はさっそく電話で司教に伝えられた。姉妹笹川がよろこびにはずむ声で、報告し、問いに答えた。また、故郷の両親や兄弟たちとも、感激の声を交わしたのであった。
         司教の指示に従い、私は翌日彼女を伴って、日赤と秋田市立の二つの病院へ行き、耳の検査を求めた。そして両病院から、診察の結果、聴力正常との証明書をもらった。
         その二週間後、私は彼女の郷里の教会に講話を頼まれ、姉妹(シスター)三人を同伴して出かけた。彼女も加わっていたので、両親はじめ身内一同が教会に来て待ち受けており、耳が聞こえるかどうかと一心に話しかけた。まことに、はた目にも涙ぐましい光景であった。

         しかし、この耳の治癒も、天使の予告どおり、五ヶ月間だけのことであった。翌年の一九七五年三月十日には再び全聾となった。
         本人は「しばらくの間だけ」との天使の予告を忘れず、一週間で元に戻るか、九日間か、それとも四十日間か、と日々覚悟をあらたにしていたが、やがて半年近くつづいたのを、予想外の恵みと感謝していた。二月の灰の水曜日あたりから、頭痛と耳鳴りが烈しくなり、ついにまた耳は全く閉ざされたのであった。

         ともかく、一時的とはいえ、この予告通りの奇跡的治癒に、司教は大いに勇気づけられたようであった。それまでに私が姉妹笹川のノートを調べて書き上げた百枚ほどの原稿を持参して、神学者たちに検討を願うことにふみ切られたのである。
         こうして、この治癒は、湯沢台の聖母の出来事が世間に知られる導火線となった。ここにも神のはからいの不思議を感じさせられるのである。

         奇跡的治癒の意味

         天使の予告どおり、姉妹笹川のこのたびの耳の治癒は一時的であって、五ヶ月間だけの恵みであったが、それなりに深い意義をもつものであった。
         彼女の手記をまとめた私の原稿について、司教から疑問点が指摘されたことは、前にちょっと述べた。それは、御像を通じての聖母のお告げのうち、第三のメッセージは、いわゆる”ファチマの第三の予言”によく似ているので、あれの焼き直しではないか、という疑いであった。彼女が妙高の教会でカテキスタをしていたころ、ガリ版刷りでも読んで、無意識に頭に入っていたのかもしれぬ、という指摘であった。そこで私も、司教とは別に、その点を彼女に問いただしたが、そういう物を読んだことはない、ときっぱりした否定が返された。それでも司教は、彼女の思いちがいを懼れ、この章をはぶいてはどうか、とまで言われたのであった。
         そこへ、あたかも十月十三日に、天使の予告どおり耳の治癒が起こったことは、この第三のお告げの信憑性を裏書きしたのであった。
         何もこの日に限らず、治癒の恵みはいつ与えられてもよかったであろう。なぜわざわざ十月十三日が選ばれたのか? 先にも述べたごとく、私はその恩恵の日は十月末の日曜か、などと予測していた。事が起こってからはじめて、この日の意味に思い当たったのである。
         カトリック信者なら周知のごとく、十月十三日といえば、ファチマに聖母が出現された最後の大きな奇跡の行われた日である。この出来事は今や全世界に知れわたっているが、ルチアたちに告げられた怖るべきメッセージは”第三の秘密”としてまだ非公開のままであり、ただ推測的コピーが夜に出回っているだけである。
         そして、一九七三年、聖母像からのお声が姉妹笹川に怖るべき天罰の警告を与えたのも、まさに同じ十月十三日であった。その時の御像は、光り輝くなかにも、すこし悲しげな表情に拝された、と記録されている。
         この警告の真実性を立証するためには、やはり何か超自然的なしるしが必要とされたわけである。そこで、まず天使の予告を先立て、次にわざわざこの二重の記念となる日を選んで、奇跡的治癒を行われたのであろう。
         姉妹笹川に託された聖母の第三のメッセージを、あらためて読み返してみると、いかにも警告の内容はほとんど一致している。ファチマで与えられてもまだ正式に公布されず重視もされぬ警告の重大性のゆえに、この東洋の一隅でふたたびくり返され、奇跡をもって証明されたのではないか、とやはり思われるのである。”疑いが晴れて改心する人も出るであろう”と天使も告げられた。前述のごとく、伊藤司教自身もこの奇跡のしるしによって疑念をとき、”第三のお告げ”の部分を省くことをせず、原稿をそのまま神学者たちの検討に委ねたのであった。 

        聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ 第九章 つづき

        2015.07.06 Monday

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          『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田貞治神父著 エンデルレ書店発行)

          第九章 予告された耳の治癒 つづき

           不思議なしるし
                  (一九七四年八月八日木曜日)

           わたしは、一九七四年三月十日に聖体奉仕会に着任、定住しましたが、偶然にもその年の八月八日木曜日、最高に暑い真夏日に、秋田市立病院に急きょ入院して、開腹手術をする羽目になりました。その前晩からやや少しではありましたが、腹痛を覚えていました。朝、目が覚めても鈍痛の程度であったので、御ミサを捧げても途中で直るだろうと思い、そのまま聖体奉仕会のシスター方を前に、いつもと同じように御ミサを始めたのです。福音を読むところまできた時、急にお腹の中が破裂したようなショックを感じ、激痛を覚えて、「皆さん、きょうは福音を読むことはできません」と告げて、そのまま香部屋に転げ込んで、激しい痛みをこらえていた。文字通り、”断腸の思い”でした。
           シスター方は、急いで香部屋に雪崩込んできましたが、倒れている私の姿を見て、呆気にとられておりました。わたしは我慢して立ち上がり、一姉妹の肩に寄りすがって、当時三十メートル程離れたところにあった司祭館にたどりつき、ベッドの上に伏したのです。
           わたしの長兄は、秋田市内で内科の開業医をしていたので、姉妹から電話を受け、急いでタクシーでかけつけて来た。朝の七時半頃であったと思います。わたしは盲腸が破裂したのだろうと思い、それを兄に告げたところ、「そうではなかろう。腸炎かもしれない」と言い、痛み止めの注射をした上、「様子を見てみよう」と言って、兄は姉妹(シスター)たちと一緒に朝食を食べに行った。
           その間、わたしはベッドに横たわっていたのですが、猛烈な激痛は少しも止むことなく、ますますひどくなって、命も助かるまいと思うほどだった。兄は朝食をそそくさと済まして、わたしを訪ね、「どうだ、痛みは止んだか」と声をかけてくれた。わたしは彼に対して、痛みは「止むどころか、ますますひどくなりましたよ」と答えると、彼は「大変だ。それなら、救急車を呼べと叫んだ。その頃、聖体奉仕会には直通の電話機がなかったので、近隣の電話を借りて、救急車を呼んだ。兄の長男も内科医で、秋田市立病院に勤務していたので、この病院へ運ばれた。
           病院に着くと、兄の長男に迎えられ、手術の段取りとなった。この病院の医師団の間では、「安田先生の親戚の方で、盲腸が破れたという噂もあるが、大したことはあるまい」と、たかをくくった様子だった。九時を少し回った頃着いたが、実際に手術室に入れたのは、十一時きっかりであった。はじめに盲腸の手術として開腹したが、外科医たちは大腸の破裂であることに気づいた。手術室に入る前から私の両手の指は紫色に変わり、寒けを感じて全身がふるえていた。
           医師たちは、命が危うい程の状態になっているのを見てとり、万が一の場合の責任を恐れて手術を拒んだが、兄とその長男が医者として手術室に入り、「死んでもいいから、手術をして下さい。責任は我々がとります」と説得し、手術に踏み切らせた。私はこれらのやりとりの模様を、回復後に聞きました。
           大腸の二カ所に破裂があったので、合計二十センチ程切断して、腸内を掃除した上で縫い合わせたそうです。
           これらの事が起こっていた間、聖体奉仕会のシスター方は、私の症状についての何の情報もなく、ただ心配しておろおろしていたそうです。シスター笹川は一人、当時、修道院の二階にあった自分の部屋に引きこもって祈っていると、突然、わたしの手術室の様子が彼女の前に同時進行のビジョンとしてあらわれ、手をつけかねている医者たちを、兄と甥が説得しているありさまを見、手術室内の緊迫したやりとりを聞いたのです。
           ビジョンのその場面は、すぐ移り変わり、彼女は手術台とその上に横たわっているわたしを見、手術台と私の周囲に三体の天使が出現して、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美し、礼拝している姿を見たのです。
           その神的ビジョンが終わった後、彼女は二階の修室から降りていき、仲間の姉妹たちに、「神父様の病気は大腸破裂で、大変だとお医者様たちが言っています。けれども、天使たちが祈っているのを見たので、きっと治るでしょう」と告げたのです。私自身は、後になって、これらの証言を聞いたのです。
           大腸が破れて六時間が経っていたにもかかわらず、腹膜炎も起こらぬ上、大腸菌が血管の中に侵入して来ることさえなかったので、医師たちの驚きは大きなものでした。私はその後、四週間の入院で、無事退院できましたが、振り返ってみると、この出来事も皆様にお知らせすべき神様の恵みの業かとも思われ、今日、この稿を補足として書き加えさせていただきました。(一九九九年八月二十五日)
           この出来事を今の私は”不思議なしるし”と思うほかなく、全能の神の御力と自分の至らなさを思って祈っているのです。  

          つづく