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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 4

    2016.09.08 Thursday

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       『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
      ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

       

      第九章
      煉獄に於いて、神と霊魂が相互に想いつつ観る方法、聖女はこのことは説明出来ないと告白する

       

       私の心の中で今まで煉獄について観た凡てのものは、非常に熾烈であるから、私が現世で悟れる限り、いかなる観念、言語、感じを以てしても表わすことが出来ず、煉獄の概念を示し得る凡ゆる義も、真理も、偽りで、価値のないもののようにみえる。であるから私が感じるものを、説明し得る言葉がないのを、恥ずかしく思う。
       神と霊魂とは全く適合しているから、神は霊魂が創造られた時の純潔な状態にあると観給うとき、霊魂は不滅であるが、それを虚無とするほどの神の燃ゆる愛に牽き付けられる力を、神は霊魂に与え給うのである。このようにして神は、霊魂を神の本性に与らせ給うから、霊魂は自分のうちに神以外の何ものもみず、神は霊魂が創造られた時の状態、即ち、汚れなき純潔とするまで、このように霊魂を牽付け、燃やしつづけ給うのである。
       神が御自分に對するかかる愛熱を以て霊魂を牽き付け給うことが、内照によって霊魂にわかるとき、直ちに霊魂のうちには霊魂を全く熔かす、いとも哀憐深き神に對する愛の火が(神の愛熱に対応して)起こる。そのときこの霊魂は、神がいと深き愛と尽きせぬ摂理(みはからい)とを以て、霊魂を全き完徳に恒に導き給うとともに、これらのことを凡て純愛をを以てなし給うことが、神の光によってわかる。更に霊魂は、罪によって煉獄に止められており、神からの牽引力に従うことが出来ないこともわかる。この牽引力とは、御自身と一致させるため、霊魂を牽き寄せようとして、神が霊魂に注ぎ給う一瞥(いちべつ)をいうのである。
       神の光を観ることを妨げられるのは、いかに重大であるかを意識することと、何の障碍(さまたげ)もなく神の一瞥に従いたい本来の熱望とが結び付き、これら二つのものが煉獄の霊魂の苦しみをなすのである。それで煉獄の霊魂は、苦しみがいかに大きくとも、その苦しみを意もせず、むしろ苦しみよりも神の意志に背き奉ったことを一入深く想い、この神の意志は、霊魂に對する純愛を以て熱く燃えていることが、明らかに彼等にわかる。
       又一方神は愛の一瞥により、強く御自身の方に霊魂を牽きつづけ給う。霊魂はこれらのことをよく承知しており、もし霊魂が、今の煉獄よりも一層速やかに障碍を取り除くことが出来る、さらに大なる煉獄を見出し得たとしたら、直ちにその中へ飛び込んだであろう。霊魂は、霊魂を神に適合させる愛によって駆り立てられているから…。

       

      第十章
      神は霊魂を全く純潔にするため、如何に煉獄を用い給うか


       又神の愛の竈から、霊魂に或る燃え光っている光線が、注がれていることが、私にわかった。この光線は単に肉体のみならず、もし出来れば霊魂も滅するまでに、力強く且つ〔霊肉に〕貫き入るようにみえる。この光線は二様に作用する。即ち浄化し、滅する。
       金を看よ、金が他の物質を含んでいればいるほど、それだけ純化されねばならないから、火に熔かされて金滓(汚点)をことごとくなくする。これが火の物質に對する作用である。
       霊魂が神と一致し、神のうちのあれば、滅せられ得ず、自我のうちにあれば、浄化さるべきものがあるから、滅せられ得るのである。霊魂は浄化されるにつれて自我を滅し、遂に純粋となり、神のうちに憩うようになる。
       他物質をことごとく除き去り、一定の度まで純化された金は、火力がいかに強くとも滅少しなくなる。それは、火が金を滅せず、金滓(かなかす)だけをなくするからである。
       霊魂に於ける神の火も丁度これと同じである。神は霊魂の凡ての汚点が焼き尽くされ、霊魂のそれぞれの程度に従い、人が達し得る最高の完徳に霊魂を挙げ給うまで、この竈の中に霊魂をとどめおき給う。
       かくて霊魂が浄化された時(5) 自我の混合物なくして神のうちに憩い、神の実体が彼等の実体であるほどまでに親しく神と一致し、全く浄化されてもはや焼き尽くされる何ものも残っていないから、彼等は苦しむことが出来ない。この純潔の状態のままで、彼等がなほ火中に保たれていれば、彼等は苦しみを感ぜず、むしろ永遠の生命の火が(6) 障碍に遭わずに霊魂の中に燃えるように、神の愛の火は、障碍もなく、この浄化された霊魂のうちに燃える。

       

      *この”滅せられる”とは、自己に死すこと

       

      (5)もはや煉獄ではない。
      (6)神の愛を指す。

       

      第十一章
      煉獄の霊魂は、罪のわずかの汚れからも浄化されることを望む

      彼等の有つ欠点を霊魂から突然隠すことは、神の叡智の御業である

       

       霊魂は神の命に従って生活し、罪の汚れなく保たれているものと仮定すれば、創造られた時の霊魂は、完徳に達するため、能う限りすべての素質が与えられていた。がしかし、原罪によって汚され、霊魂は賜と恵みをことごとく失って死すべきものとなった。神のみがこれを再び生命にもどし給うことが出来、洗礼によって実際にそうなし給うたにもかかわらず、霊魂にはなお悪への傾きが残っており、それに抵抗しないときは、自罪に傾き、これに陥り、その自罪によって霊魂は再び〔超自然的に〕死ぬ。が神は再び霊魂を〔悔俊の秘蹟によって〕生命にもどし給う。
       しかし、この生命に還されて後も、霊魂には多くの錆があり、(神に向わず)自我に傾くから、霊魂を原始の状態に還すには、これまで私が語った神のすべての御業を必要とし、これなくして霊魂は還され得ないのである。
       霊魂が、原始の状態に還る途上にあることに気づいたとき、神と一つになる望みに燃やされるから、この望みが霊魂にとって煉獄の苦しみとなる。これは霊魂が苦しみ(煉獄)を苦しみとして認め得るという意味ではなく、霊魂にとっては、煉獄で燃やされている神の方に牽く本来の傾向と、霊魂が妨げられている障碍とが、煉獄となるのである。
       神は人の協力なくしてこの最後の業をなし給う。(7) 何となれば霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が観えれば霊魂は絶望するからである。それでこれらの短所は、私が述べた経過の中に於いてなくされる。そして短所が焼尽されたときに、焼尽されねばならぬすべての短所を焼尽す愛の火の点じたのは、神御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらの短所を霊魂に識らせ給うのである。


      (7)最後の業。霊魂を天国にゆかせるための愛の最後の行為の意。
       第十一章記述中「原罪によって汚され…生命に戻し給う」までは現世に於いて。「併しこの生命に還され…霊魂は還されることは出来ない」までは現世と煉獄に於いて。「霊魂が最初の状態に還る途上…」以下は煉獄に於いて。最初の状態に帰る途とは煉獄の途(みち)のことである。

       

       

      煉獄論 3

      2016.09.06 Tuesday

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        第六章


        煉獄の霊魂が神を愉しむことを、激しく望み愛することを説明する比喩

         

         人々の飢えを満たすため、世界中にただ一つの麪(ぱん)しかなく、ただそれを見るだけで飢えを満たすことが出来たとする。そのような場合、健康な者ならば、その食物を望むのは当然であり、死ぬか、病にかからぬ限り益々飢餓を覚えるであろう。なぜならば、この熱い望みは減じることなく継続き、彼等は一塊の—唯一塊の麪(ぱん)だけが飢えを満たし、これに達しないうちは飢えを癒すことが出来ないとわかれば、その苦しみは喩えようもなく、且つ麪(ぱん)に遠ければ遠いほど苦しみは増す。
         而して麪(ぱん)を見ることが出来ないことが確かになれば、その心中には、全く地獄のような苦しみが起こり、生命の麪(かて)である彼等の救主なる神を、恒に観奉るあらゆる希望から断たれた淪亡者(ほろぼしもの)のようになるであろう。これに反し煉獄の霊魂は、飢えて麪(ぱん)を見ることを望み、その麪(ぱん)を以って全く満たされることを望む。従って真の神、我等の救主、我等の愛の目的にて在(ましま)すイエズス・キリストなる生命の麪(かて)を、永遠に所有するに到るまで、〔霊的〕飢餓を忍び、凡ゆる苦しみを苦しむのである。

         

         

        第七章


        煉獄と地獄を創造し給うた神の卓越せる叡智


         神のために創造された霊魂は、神を措いて他に憩うべきところがないように、大罪の状態にある霊魂は地獄以外にゆくべきところがない。これは神の命による霊魂の終極である。であるから霊魂が大罪の状態のまま肉体を離れるや、定められた場所として直ちに地獄にゆく。この地獄に淪(しづ)みゆくのは、罪の本質によるのであって、他の原因によるのではない。神の義によって〔神に赴くことから〕このように霊魂がはばまれず、地獄にゆく神の命から全くまぬがれられたとすれば、霊魂は地獄の苦しみより更に大いなる苦しみを堪え忍ばねばならないのであろう。何となればこの命は神の哀憐の一部であるとともに、罪に相当する苦しみよりも軽いからである。霊魂は自分にふさわしい場所も、神が霊魂に課し給うた苦しみより更に軽い苦しみも見出せないから、その霊魂にとってふさわしい場所として、地獄に自ら淪みゆくのである。
         煉獄についても同じことが言える。肉体を離れた霊魂が、創造された時の純潔な状態でないことが解るとき、神との一致をはばんでいる障碍を観、(4) 煉獄によってのみこの障碍が除かれ得ることを悟るから、一瞬の躊躇もなく煉獄にゆくのである。そして障碍を除くために用意されたこうした方法(煉獄)がなければ、まだ償いを果たさない罪のために、霊魂は自分の終極の目的である神に到ることが出来ないことがわかり、又この神に近づき得ないことが、どれ程悪いものであるかを思い、この悪と比べれば、煉獄をいささかも悪いものとはみなさないから、霊魂のうちには、煉獄よりも更に悪い地獄のような苦しみが生じるであろう。私は煉獄の苦しみは、或る意味で、地獄の苦しみと似ていると述べたが、この苦しみさえも神に對する愛にくらべれば、又何ものもない。

         

        (4)煉獄に入る前に障碍を観る。障碍とは純潔の状態にないことで、煉獄はこの障碍を取り除く所であり、障碍がなければ煉獄はない。この障碍は煉獄よりも更に悪い。

         

         

        第八章


        煉獄の必要、如何に煉獄は恐ろしいか


         神の側からすれば、天国には門がなく、其処に入ろうとする者は、誰でも入ることで出来ると言うことを私は繰り返し言う。なんとなれば、神は哀憐そのものであり、我等を迎え入れ、種の光栄に入らせようと恒に待ち給うからである。しかし神の実体は〔人が想像し得る以上に〕遥かに純粋であるから、霊魂は自分のうちに短所の極く僅かな微片さえも認めるなら、神の尊前にその汚点のままでゆくよりも、むしろ自分を苦しみに投ずる。それで煉獄がこのような汚点を取り去るために、定められたことを悟り、霊魂はその煉獄に入り、汚点を取り去ることが出来るのは、大いなる神の哀憐であることを其処で悟る。
         煉獄がいかに怖ろしいかは、口に言い表せず、心にも悟り得ない。煉獄の苦しみは、地獄の苦しみと似ている。けれども〔既に述べたように〕短所の僅かの汚れさえも有っている霊魂は、煉獄を哀憐としてうけ、愛の対象たる神から離れていることとくらべれば、霊獄をさほど大したものと思わないことが、私にわかる。
         煉獄の霊魂が堪え忍ばねばならぬ最大の苦しみが起こるのは、神の聖旨にかなわないものが、霊魂のうちに現にあることを識り、又神の全善に対し、その聖旨に悖ることを、霊魂が自ら進んでしたことを識るからであると私は悟る。なんとなれば聖寵の状態にあれば、人は(神に関し、人に関し)真実を知り、神に近づくことを彼等に許さぬ障碍が、いかに大きいものであるかを悟るからである。

        煉獄論 2

        2016.09.06 Tuesday

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          第三章


          神から離れていることは、煉獄の最も大きい罰である。何に於いて煉獄は地獄と異なるか

           

           煉獄の一切の苦しみは、原罪又は自罪から起こる。神に於いて霊魂が永福を見出すために、神は或る意味に於ける生来の傾向を備えた霊魂を、全く純粋で、あらゆる罪の汚れのないものとして創造り給うた。
           原罪によって、更に又これに自罪を加えることによって、霊魂はこの傾向から遠ざかる。そして霊魂が神から遠ざかれば遠ざかるほど、神の聖旨にかなわないから、邪(よこしま)となる。
           事物はそれが神に与っている限り善である。理性なき被造物(鳥獣の如き)に対して、神は望み給うままに、又定め給うた如く、必ず御自身を与え給う。
           理性を具えた霊魂(人間)に対しては、罪の障碍から霊魂が浄化されたと神が観給うに応じて、或は多く、或は少なく御自身を与え給うのである。それで、霊魂が創造られた時に有(も)っていた原始の純潔と無辜の状態に近づくとき、神に於いて福楽を求めようとする生来の望みは大となり、神に對する愛の火によって益々その望みは増し加わるのである。この愛の火は、神と霊魂とを隔てるいかなる障碍も堪え難く感じるほどの猛烈さと激烈さとを以って、霊魂をその目的(神)に牽くのである。そして神のみが霊魂の栄福であることがわかればわかるほど、それだけ神から離れていることのために苦しみが増すのである。
           さて、煉獄の霊魂はもはや罪責がないから、その霊魂を〔神にゆくことから〕引きもどし、完徳に達しようとする生来の傾向を妨げる罰を除いて、神と霊魂との間には何の障壁もない。この妨げられることは、極めて僅かであっても、それがどれほど重大であるかが、明らかにわかるとともに、義が最も厳粛(きび)しく障碍(さまたげ)を要求めることも亦、つぶさに解るので、その霊魂のうちに地獄のような火が起こる。(2)
           煉獄の霊魂には、罪責(とが)がない。この罪責(とが)こそは、神の全善に与ることをゆるされない地獄にある淪亡者(ほろぼしもの)の意志を邪まとする。であるから地獄にある者は、永遠に神の意志に反抗し、その邪まな意志を抱いて絶望の淵に淪(しづ)んでいる。

           

          (2)一方に於いて、罰が霊魂を引き戻そうとするに対し、他方、神の至聖が霊魂を圧することからして、摩擦が起こり、火が生じるのである。

           

           

          第四章
          地獄に在る霊魂の状態、地獄の霊魂と煉獄の霊魂との差異。救霊をゆるがせにした者に對する聖女カタリナの考察

           

           既に述べたことから考察すれば、神の意志に我等の意志が邪(よこし)まにも背くことから罪が成り立ち、このように意志が邪まを続ける間は罪責(とが)も亦続く。であるから、邪まな意志をもってこの世を去り、現に地獄に在る霊魂は、もはや意志が変更ることはあり得ないから、罪の赦免もなく、又あり得るはずもない。
          「我は〔死の時に於いて、罪を望む意志、或は罪を歎き悔やむ意志を有てる〕汝等を見出すところに、汝を審(さば)かん」と聖書にも録(かきしる)されている通り、現世を去るとき、霊魂はその死の際に於ける善意か、悪意かによって、善悪いづれかに判定される。この審判は決定的である。人の死後、意志は再び自由になり得ず、死の瞬間に在った状態に止(とど)まっているからである。死の瞬間に、罪を犯そうとする意志を有っていた地獄にある霊魂の罪責(とが)は限りがない。彼等のうけている罰は、彼等が当然うける罰よりも軽いとはいえ、罰の存する限り無限である。けれども煉獄の霊魂には、罪に對する罰ばかりがあって、罪責(とが)はない。何故ならば、彼等は死の瞬間に己が犯した罪を悲しみ、神の全善に背いたことを悔やんだから、罪責(とが)は臨終の時に消滅した。であるから彼等の罰には限りがあり、前に述べたように、罰の期限が、徐々に減ってゆくのである。
           ああ、〔地獄にある霊魂(もの)の〕凡ゆる惨めさに超える惨めさよ! ここにある人々は盲目の余り、この惨めさを殆ど想わない。それだけにこの惨めさは大きい。
           地獄にある淪亡者(ほろぼしもの)の罰は、量に於いて無限ではない。これは神の仁慈しみ深き全善が、地獄にさえもその哀憐みの光を注ぎ給うからである。大罪のうちに死んだ者は、苦しみに於いて無限の罰をうけ、その苦しみの期間は、終わりないのが当然であるのに…。神は哀憐によって、苦しみの期間のみを無限とし、苦しみの量には限度を置き給うた。主はその義によって、実際彼等に与え給うたよりも遥かに大なる罰を課し給うことは出来たのであるが…。
           邪ま故に犯した罪は、いかに危険であることよ! 人はこれを痛悔することが稀であり、通悔しないために罪責(とが)が残り、犯した罪に對する愛着があり、罪を又犯そうとの意志がある間は、将来もなお、その罪責(とが)が残るであろう。

           

          第五章


          煉獄の平和と歓喜


           煉獄の霊魂はその意志を全く神の意志に適合させ、したがって神の全善に与っているから、罪責(とが)を全くまぬかれた状態にあるこの有様を以って満足している。真に通悔して一切の罪を厭み嫌い、告白し、もはや再び罪を犯すまいと決心したままで現世を去ったときは、神は直ちに彼等を赦し給うた。そして今や彼等は純潔であるが、ただ罪の錆だけが残り、彼等はこれを火の罰によって除き去るのである。
           このように一切の罪から浄められ、彼等は意志に於いて神と一致するから、神が彼等に与え給う光の度に応じて神を明らかに観るのである。(3) 彼等は、神を愉(たのし)むとはどんなことか、又この上を愉むために霊魂が創造られたことも悟る。なお彼等のうちには、彼等を神と一致させる意志の適合があり、神と彼等との間に於ける自然的な相互の牽引によって、彼等は神の方に牽かれているが、彼等はこれを内的に感じることによって、実際に悟っているから、いかなる説明、比喩を以ってしても判然と述べることは出来ない。けれども私は、心に浮かんで来るその種のものを述べてみよう。

           

          (3)至福の直観ではない。

          煉獄論

          2016.09.06 Tuesday

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             『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
            ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

             

            聖女カタリナは、内心に感じた神来の聖火によって煉獄を悟り、同時に煉獄の霊魂が如何に幸福であると共に、又苦しんでいるかに就いて語る。

             

            第一章

             

            煉獄の霊魂の状態。彼等には自愛心がいささかもない

             

             まだ肉体の囚獄(現世)の中に在りながら聖女カタリナは、霊魂を浄化する火である神の燃ゆる愛の中に置かれたことが解った。この愛の火は、彼の女が現世の生涯を終えて後、愛し奉る神の御前に速やかに到るため、彼女が浄められねばならなかった凡てのものを焼尽し、又その一切から彼女を浄化した。この愛の竈によって、彼女は信者の霊魂が現世に於いて、いまだ浄められずにあった罪の錆と汚点(しみ)とをすべて除き去るため、煉獄におかれることを知った。聖女は、人の霊魂を浄化する神の愛の竈の中に入れられ、彼女の愛の対象(神)と一致させられて、彼女になし給うた神の一切の御業に全く満足したとき、煉獄の霊魂の場合と同じ状態にあることを悟り、次のように語った。


                         *     *      *

             

             私にわかる限り、煉獄の霊魂は煉獄に留まることより他選ぶことが出来ない。これは神が義によってこのように命じ給うたからである。彼等は内省して、”私はかくかくの罪を犯したから、此処にとどまるのは当然である” とか、”かくかくの罪を犯さなければ今天国に行けるのに”、”彼(あ)の霊魂(ひと)は私より先にここを出る” とか、”私の方が彼(あ)の霊魂(ひと)より先にここから出るであろう” などと言うことは出来ない。又彼等は、善についても、また今不断に堪えている苦しみに更に苦しみを加えるはずの悪についても、自分のことにしろ、他人(ひと)のことにしろ、何一つ思い出すことは出来ない。彼等は、神が彼等に就いて定め給うたものに満足しているから、神の聖旨にかない奉るものをことごとく望み、そして聖旨に就いてかなひ奉る方法に於いてそれを望む。更にいとも大いなる苦しみの最中に於いてさえも、自分自身のことについて、恐らくは考えようとするかもしれないけれども、もはや考えることが出来ない。
             神の仁慈は、人々を御自身に引寄せ給う程大であるから、煉獄の霊魂は、神の全善だけを観る。それで、善でも、悪でも、彼等に影響するものを何も、観ることは出来ない。もしそれが出来れば、彼等は神の純愛のうちにとどまっていないことになるであろう。彼等は、煉獄に於ける苦しみが自分の罪の故であることを識らず、又自分自身の罪そのものを、絶えず見つめていることも出来ない(A)。この罪を見つづけていることが出来るとすれば、それは短所となるが、もはや実際に罪を犯す余地のないところには、短所もあるはずはない。
             霊魂が肉身を離れる瞬間、ただ一度だけ何故自分に煉獄があるかを悟るが、この瞬間が過去った後は決してわからない。もしそれがわかるとすれば、自我が起こって来る。故に彼等は神に對する愛のうちにとどまると共に、〔煉獄には過失がない故〕真の過失(あやまち)(1)によって、この愛の正道から踏みはづすこともあり得ないから、自分自身としての意志や欲望はなく、神に對する純愛を得ようとする意志が、ただ一つあるばかりである。
            彼等は神の命によって煉獄の火中にあるが、この神の命に服するのに、神に對する純愛を以ってするから、神の命と純愛とは一つのものである。そして彼等はもはや功を積むことがないから、罪を犯すこともなく、従って神の命から、萬事に於いて外れることもあり得ない。

             

            (1)継続的でなく、唯一度でもの意。

             

            (A) ここで聖カタリナは煉獄の霊魂は受けている苦しみの特定理由を想起することが出来ないと言っている。例えば「私は何月何日斯々の罪を犯したから此処にいるのである」と云うが如きである。がカタリナは彼等が耐え忍んでいる苦しみは、罪に對する罰に相当するものであるということを、彼等が承知していないと、絶対的に断言したのではない。何故ならば、このことを彼等が識らないと言うことは、想像し難いことであると共に、第八章の記述と矛盾して来る。即ち、「煉獄に於いて霊魂に苦しみを起こさせるものは、神の聖旨に叶わぬものを霊魂自身の裡に観ることであり、又その言い尽くし難き全善に対して、かかる罪を犯したことを意識することである」(八章)と。

             

             

            第二章


            煉獄の霊魂の歓喜。聖女カタリナは彼等が益々神を観つつあることを示す。その状態を語るのは難しい。

             

             天堂に於いて永福を享けつつある諸聖人の霊魂の歓喜(よろこび)を除いては、煉獄の霊魂の歓喜に較べられるいかなる歓喜も他に見出せないと思う。この歓喜は、神が霊魂に入り給う上に障碍となる凡ゆるものが焼き尽くされるに応じて、益々豊かに神が霊魂に入り給うから、日毎に増しゆくのである。この障碍(さまたげ)(B)とは罪の錆であり、これが煉獄の火に焼き尽くされ、こうして霊魂は神が入り給うのにふさわしい状態に自らをするのである。
            この状態は、覆いをかけた鏡と同じく、その鏡が太陽の光線を反射しないのは、太陽が照らさないのではなく、絶えず日光は輝いていても、多いがこれをさえぎっているからである。それで覆いがなくなれば、再び鏡は陽光に照らされ、この覆いがはくなるにつれて、鏡は照り輝く陽光を浴びるであろう。
             このように霊魂は、錆、即ち、罪に覆われており、この罪が煉獄の火によって徐々に焼き尽くされる。この錆が焼き尽くされればされるほど、煉獄の霊魂は彼等の真の太陽である神を徐々に完全に反射する(適合する)ようになる。彼等の歓喜は錆が落ちるにつれて増し加わるとともに、神の光線に自身を晒す。であるからその歓喜は時が充ちるまで(浄化が終わるまで)障碍(さまたげ)が少なくなるにつれて大きくなる。がしかし苦しみは減ぜず、苦しみの中にとどまっている期間だけが減じるのである。
             彼等の意志は、霊魂がもはや苦しみを苦しみとして認めることが出来ない限度まで全く神の命に満足し、神に對する純愛によって神の命と一致している。又一方、彼等の苦しみは非常なもので、もはやそれをいかなる言葉でも言い表せず、神が特別な寵愛によってそれを識らせ給うたのでなければ、いかなる知性を以ってしても、その苦しみの概念の片鱗すらもまとめることは出来ない。この苦しみの概念は、神の寵愛によって私に示されたものであるが、私にはこれを言い表すべき言葉がない。けれどもこれは、私の霊的視覚に残っていた。それで今出来るだけ、それを説明しよう。がしかし、主がその知性を啓き給うた者だけが、これを悟るのである。

            贖宥(免償)について 9

            2016.09.03 Saturday

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               第二部 特殊贖宥


              第一章 聖年


               聖年(ユビレーウム)という言葉は、ヘブライ語の「ヨベル」が語源である。この「ヨベル」は山羊を意味し、更に転喩に依って山羊の角を意味する。旧約聖書をみると、ヘブライ語の聖年は、司祭達が、ヨベルという山羊の角の形をした喇叭(らっぱ)を鳴らして、これを告げ知らせたので、その喇叭の名称が、後に点じて、年の名称となったのである。ラティン語ではアンヌス・サンクトゥス(Annus Sanctus)(聖なる年)と言う。

               

               聖年の起源

               旧約聖書に依ると、天主は、イスラエルの民に対して、五十年目毎に一ヵ年を奉献するように、定め給うた。その年が聖年と呼ばれたのである。聖年は喜びの年であって、
              (一)その一年間、大地は休息しなければならなかった。それ故、種を蒔くことも収穫をすることも禁ぜられていた。だが、自然になり出たものを取りいれることは許されていた。このように大地が休息している間、家を建てたりいろいろの道具を造ったりした。
              (二)又聖年には、資産なり家屋なりを手放していた者は、それを取り戻すことが出来た。
              (三)ヘブライ人の血統を引く奴隷は、再び自由の身となった。
               このようにして、ひどい貧窮や奴隷の身分がイスラエルの一家又は一個人のどうにも変えようがない状態にならぬよう、財産や身分が元の状態に周期的に戻れるように、律法が取り計らっていたのである。(レビ記第二十五章第十節)
               旧約聖書にある聖年に依って、公教会は、宗教上の目的を以てキリスト教の聖年を設けた。
               贖宥を伴う聖年は、少なくとも今日公教会で行うが如き形式では、教皇ボニファチオ八世が始めた所であり、一三○◯年二月二十二日、「古人の確かなる言い換えに依れば」という大勅書を以て宣言したものである。その確かな言い換え(尤もそれに関しては、現存の文書には一言も誌した痕跡はないが)に依ると、彼以前に聖ペトロの聖座についた人々、即ち彼以前の教皇達は、百年毎に、ローマの大聖堂参詣の回数によって特別贖宥を授ける習いであったという。そこで、ローマへ巡礼して行った者、そして自分の罪を告白し痛悔して、もしローマ市民なら日に一回三十日間、他国人なら同じく日に一回でただ十五日間、使徒ペトロとパウロの聖堂を訪れた者は、聖年の贖宥を受けていた。
               当時の史家ジョバンニ・ヴェラーニは、彼の年代記に、ローマ市民の外にこの聖年の参詣に加わった巡礼者の数は二十萬に達すると、録している。その巡礼者の中に、ジョットもダンテ・アリギェーリもいた。前者は、聖年の宣言をしている教皇ボニファチオの肖像をラテラン大聖堂の大廻廊に描き、後者は、その「神曲」第一部地獄編と第二部煉獄編とに、この事を述べている。
               教皇クレメンス六世は、ローマ市民の懇願に応えて、聖年と次の聖年との間にある一百年の期間をただ五十年に短縮し、その後ウルバーノ六世は、人生の短さと、三十三年の御生涯の裡に永遠の父に対してアダムの負債を我等のために贖い給うた救主の、地上に於ける御生命とを考え合わせて、先の期間を更に三十三年に縮めた。(大教書「我等の救主」一三八九年四月)。
               このような措置を講じても、聖年の来ることは余りにも稀であり、信者の大多数はその恩恵にあずかることなく生きて、そのまま死んで行くことが判った。そこで教皇パウロ二世は、二十五年毎に聖年が来るように定めた。
               こうして、殆んど今日に至るまで続けて来たのであるが、遂に現教皇ピオ十二世には、ローマに於いて一九五一年に全世界にこれを及ぼされた。

               

              特別聖年
               だが、このような、順当に周期的に行われる聖年の合間に、特別聖年と呼ばれるものがあることを、歴史は伝えている。特別と云われるわけは、通常の例に依らず、公教会が大いなる喜び又は悲しみに際した時、特別の状況の下に全世界の信者に対し、或は又、特殊の理由に依り或る範囲内の信者に対し又は或る限定した地方に対して、教皇が許可されるからである。
               こういう訳で、例えばピオ五世は、トレント公会議の活動に天主の祝福を仰ぐために、一五六◯年全世界に聖年を宣し、レオ十三世は、一八七九年、教皇に選ばれた際、第一回の特別聖年を宣し、一八八一年には、教会を迫害する敵を屈服する為、天主の佑助けを求めて第二回の特別聖年、更に一八八六年には、ロザリオの聖母の仲介によって前同様の御恵みにあずかるために、第三回の特別聖年を宣言した。ピオ十一世は御自分の司祭叙品式五十周年を記念して、一九二九年一月六日から十二月三十一日までを聖年とし、次いで「人類救済の第十九回百年祭」を祝うため、一九三三年から一九三四年にかけて聖年とした。
               聖年につきものの儀式は、聖扉の開閉式で、これに就いては、既に十五世紀以来記録が残っている。聖扉は、ローマ四大聖堂のいずれにも右手に在る。御降誕の祝日の前日、教皇は舁輿にのって聖ペトロ大聖堂の前庭に赴き、先回の聖年が終わった際壁に塗り籠めた聖扉の前に立ち、「我に正義の扉を開き給え」という句を歌いながら、銀の槌で三度その聖扉をたたく。教皇に続いて内赦院の枢機卿がその聖扉をたたくが、これは唯二度である。壁は前以て切ってあるので、崩れ落ちる。すると内赦院の参事会員等が閾(しきい)を除け、教皇が先ず第一に、右手に十字架を捧げ左手に燈をともした蝋燭を持って、この扉を通る。この儀式は同様に他の三大聖堂に於いても行われるが、聖パウロ大聖堂では主席枢機卿が、ラテラーノの聖ヨハネ大聖堂と聖マリア大聖堂(マジョーレ)ではそれぞれの枢機卿が、これを執り行う。聖年が終わって聖扉を閉ざす際には、これとは逆の儀式を行う。教皇は閾に少しの漆喰を三度ふり掛け、その上に、聖年を記念する聖牌を納れてある三個の石を据える。それから扉を塗り籠め、次回の聖年までそのままにして置く。

               

              聖年の意義

               聖年とは、恩寵と哀憐の時期で、その期間中、これを布告する大勅書や教令に述べてある特定の行為を信者たちが果たせば、その行為に付随している荘厳な全贖宥を教皇がその信者に授与し、一方又その贖宥を得ようとする信者達のために聴罪司祭に格別の権能を付与するものである。
               聖年の贖宥は、幾多重要な特権を伴い、且つその贖宥の宣言にも獲得にも荘厳な儀式があるので、通常教会の授ける全贖宥とは趣を異にし、それだけに又この贖宥は、他のものよりもっと有効且つ確実である。

               

              聖年に於いて守るべき諸規則
               その規則は、聖年宣言の大勅書に依って決まるのであるが、それは、ベネディクト十四世が幾つかの大勅書で発布したものと大体同じである。
               聖年の贖宥を得るために必要と規定される条件は、一般に全贖宥を得るに必要とされるものと同様である。換言すれば、告白、聖体拝領、聖堂参詣及び祈りが、これである。特別聖年の場合は、これに断食と施興とが加わる。
               この贖宥を得るには、先ず最初にその意向を固めることが必要であって、後で積極的な行動を以てこの意向を翻しては駄目である。
               聖年の贖宥獲得に規定された諸行為を果たすには、順序は構わないが、少なくともその諸行為ののち最後に果たすものは、聖寵の状態に於いてなし遂げねばならない。その聖寵の状態を得るには、秘蹟に依る赦免は必要でなく、完全な悔俊の行為があれば充分である。(聖庁内赦院、一九二四年七月三十一日)
               規定された条件は、教区司教の定めた所を守りさえすれば、一部分或る司教区で行い、又一部分他の司教区で行ってもよい。