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2017.01.04 Wednesday

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    30 マルタ、マグダラのマリア、シンティカとの別れ

    2015.07.20 Monday

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      マリア・ワルトルタ著作による『マグダラのマリア』フェデリコ・バルバロ訳編 あかし書房 1984年より

      「編集者のことば」
       イエズスの弟子たちの一行は、大したことは何もできなかったのに、なぜカイザリアまで行ったかについて、いろいろ不平を並べている。
           *      *      *
      「それほどの道のりを歩いたのは、何のためだったか」とペトロが言う。
      「そうだ、そうだ。カイザリアでは何の説教もしなかったし、ローマ人たちを説得するために何か特別な奇跡でも行うかと希望していたのに何もなかった」とゼベデオのヤコボが言う。
      「私たちは皆のからかいの的になっただけです」と言うトマの言葉にケリオットのユダが加える。
      「それに私たちをいろいろの苦しみに遭わせた。しかし、彼は侮辱されるのが好きらしいが、私たちもそれを好きだと思っているのか」
      「実をいえば、この場合本当に苦しんだのはテオフィロのマリアだったと思う」と静かな調子で熱心もののシモンが言う。
      「マリア! マリア! マリア! マリアが世界の中心となったのか。苦しむのは彼女だけ! すばらしいのは彼女だけ! ますます聖徳に近寄るのは彼女だけ…。私もそれほどの親切の的となれると知ったならば、泥棒、人殺しになればよかった」とケリオットのユダが憤慨して言う。
           *      *      *
       ここにペトロが堪忍袋の緒を切って言う。
      「マルジアムを私にまかされた時に、私はイエズスや皆に対してお父さんのようになると約束したが、その約束を守れないことが本当に悲しい。しかし、忍耐を失わせるのはおまえだ」とユダに向かって言う。
      「私たちのグループの中に、不和をもたらすのはおまえだ。イエズスが、私たちは心を一つにせよ、と言われたが、エルマステオのことで、シンティカ、マグダラのマリアのことで、分裂のたねをもってくるのは、いつもおまえだ。反省して恥を知れ」
       婦人たちと一緒に先へ行っていたイエズスは、そのいざこざを聞いて足を止めて皆を待つ。
      「私たちの口喧嘩を聞かれた。今、どんなに悲しんでおられるでしょう」と使徒ヨハネが言う。
      「いや先生、戻る必要はありません。私たちは道のたいくつをごまかすために、ただちょっと議論をしていただけです」とトマが言う。しかし、イエズスは皆が来るまで止まって、
      「何のことで議論していたのか。婦人たちの方がおまえたちよりもずっと素直で良い、ともう一度言うべきか」
       やさしい、とがめのために、皆、小さくなって頭を下げる。自分たちを弁解するために、あるいは他人に責任を負わせるために何を言ったらいいのか分からないので皆、黙っている。
       水のない川の橋のそばに、ラザロの姉妹たちの車が止まっている。二頭の馬が、小川の岸のよく茂っている草を食っている。マルタの僕ともう一人の御者と思われる人は河原に下りているが、婦人たちは幌馬車の中にいる。他の弟子の婦人たちが車を見て足を早め、僕は彼女たちを見るとすぐ乳母に知らせる。もう一人は馬を車につける。
       僕は地面までひれ伏して二人の女主人の前にお辞儀する。小麦色で愛嬌のある美しい年寄りの乳母が、急いで車から下りて主人の二人の婦人のところへ走る。しかし、マグダラのマリアに何か言われて、すぐ聖母の方へ行って詫びを言う。
      「おゆるしください。彼女にまた出会うことはどれほどの喜びか、私の目には彼女しか入らないのです。祝された者よ、どうぞいらっしゃってください。焼けるような太陽ですが、車には陰があります。」
       そして、相当おくれた男たちを待つ間車に乗る。シンティカが昨日、マグダラのマリアが着ていた服を着ている。マルタとマリアがシンティカに向かって、彼女は自分たちの奴隷でも女中でもなく、ただイエズスの名前で迎えたお客さんである、と言っているにもかかわらず彼女は二人の足に接吻しようとしている。
       聖母マリアが、先ほどもらった緋の小さい包み(1)を乳母に見せて、その短いひげ、羊げ毛のようなものは、どうして紡ぐのかと聞く…。
      「これは、そういうふうにして使うものではありません。それは粉にして、他の染め粉と同じように使うものです。これは髪の毛とか羊毛ではなく、貝の泡のようなものです。今、乾いているのでくずれやすい。それで、これを細かい粉にして、布にしみを作りやすい長い部分が一つも残らないようによくふるいにかけ、細かいものだけ残して使うのです。紡いだものを糸の綛(かせ)にして染めた方がよい。緋が細かい粉になったら、えんじ虫、あるいはサフラン、藍、他の木の皮や根の場合にするようにこれをとかして使います。最後のゆすぎは強い酢で染め色を止めます」
      「ノエミ、有難う。あなたが言ったようにしましょう。私は緋色に染まった糸で、刺しゅうしたことがありますが、それは使えるようにでき上がったものでした。…イエズスはもう近い、娘たちよ、もうお別れの時が来ました。主の御名で皆を祝福します。ラザロに平和と喜びをもって安らかに行きなさい。
       さよならマリア。あなたは私の胸の上に最初のうれしい涙を流したのを忘れないで。そのために私はあなたの母となったのです。なぜなら人は、自分の最初の涙を母の胸の上に流すものだからです。私はあなたの母であり、今からもずっとそうでありたい。あなたの最もやさしいお姉さん、最も愛深い乳母にも言いにくいことは私に言いに来てください。私はいつもあなたを理解するでしょう。あなたの中に見たくない人間的なことがまだまざっているために、私のイエズスにさえもあえて言えない、そのことを私に聞かせてください。私はいつでもあなたに同情するでしょう。そして、あとで、もしあなたの勝利を私に聞かせたいならば―しかし、あなたの救い主は私ではなく彼であるので、かおり高い花のように彼に言った方がよいと思うが―私はあなたと一緒に喜びます。
       さようならマルタ。今は、あなたは幸せそうですが、超自然であるこの幸福はあなたの中に続くでしょう。そのために、あなたの中に乱れることのない、その平和の中で絶えず正しいことに進歩するという必要のほかには何もありません。これをイエズスの愛のためにしてください。彼イエズスは、あなたをどんなに愛したか。あなたが全く愛している彼女をも愛するほどでした。
       さようなら、ノエミ。また、見つけたあなたの宝ものと一緒に行きなさい。あなたがかつて彼女に与えていた乳と同じように、今から彼女とマルタとが、あなたに伝えるであろう、そのことばによってあなたの飢えを満たし、こうして私の子を、人の心を悪から解放する抜魔師よりもずっと尊いものとして見るようになればよい。
       ギリシアの花シンティカ(2)、さようなら。自分だけで肉体にまさる何かがある、と感じるとったあなた、今、神の中で花咲き、そして、ギリシアの中で咲くであろうキリストの新しい花の中の一人であるように。
       私は、皆このように心を一つにして残すのはとてもうれしい。愛をこめてあなたたちを祝福します」
       足音がもう近い。彼女たちは重い幌を上げてイエズスが、もう車から二メートルしか離れていないのを見る。道を燃えるように照りつける熱い太陽の下に降りる。
       マグダラのマリアは、イエズスの足もとにひれ伏して言う。
      「すべてについて感謝しています。この旅を私にさせてくださったことも。あなただけには知恵があります。今は昔のマリアの汚れを落として出発します。ますます私を強めるために、主よ、もう一度、私を祝福してください」
      「そう、あなたを祝福する。兄弟たちが、あなたの喜びでありますように。そして私にならって、ますます成長することを、兄弟とともに喜びなさい。さようならマリア、さようならマルタ、ラザロに私の祝福を送る、と知らせなさい。この女を、あなたたちにあずけます。あなたたちに与えるのではない。私の弟子の一人です。しかし、あなたたちの方から、私の教えを理解できるように最小限度の知識でも与えるように望みます。あとで私も行く。ノエミ、あなたを祝福する。あなたたち二人も」
       マルタとマリアの目に涙が光る。熱心もののシモンは、特に彼女たちに挨拶し、そして彼女たちに自分の僕に宛てた手紙を託す。他の人たちは一緒に挨拶を送る。そして車は動き出す。

      (1)ケリオットのユダが前の旅行の時、ティロの漁師たちからもらったもので、特に聖母マリアに与えようととっておいたもの。
      (2)一人のシンティカがフィリッピ人への手紙(フィリッピ4・2~3)に出ているが同人物か、どうかは分からない。

       

      36 イエズスは橄攬山で、弟子たちに訓戒を与える

      2015.05.02 Saturday

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        マリア・ワルトルタ『イエズスに出会った人々(一)』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
        36 イエズスは橄攬山で、弟子たちに訓戒を与える
         イエズスが、ペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコボ、フィリッポ、トマ、バルトロメオ、ユダ・タデオ、シモン、ケリオットのユダと一緒に、羊飼いのヨゼフを連れだって自分の家を出て、ナザレトの郊外へ行くのを見る。しかし、そのあたりで、大して離れていないよく茂ったオリーブの木の下で立ち止まる。
         次のように話し始める。
        「私のそばへ来なさい。私は、おまえたちと一緒にいたりいなかったり、この何ヶ月間か、おまえたちをはかったり研究したりしたのです。私はおまえたちを知り、人間として世間を知りました。いま、おまえたちを世間へ送り出そうと決めました。しかし、その前におまえたちに教えておきます。おまえたちに要求している使命は、柔和、賢明、平静、忍耐、根気、良心、知識とをもって世間を迎えることです。そのために、パレスティナでの長い旅を妨げる真夏の炎暑のさ中、おまえたちを弟子として教育し、また人間形成のために使うつもりです。私は、音楽家のように、おまえたちの間に不協和音を感じるので、私の名で世間に伝えるべき天上のハーモニーのために調律したい。私のこの弟子―ヨゼフ―を、自分の仲間たちに私のことばを伝える任務に指名します。あそこで、仲間たちのいるところでは、私がこの世にいることのみならず、私の教えの最も特徴的なところを教えるためです。
         何よりもおまえたちに言いたいのは、おまえたちには愛と融和が絶対に必要だということです。おまえたちはどんなものですか。さまざまの社会階級、まちまちな年齢、あちこちの出身です。私はいろいろな知識や学説にまだ染まっていない人々を選ぶために、おまえたちを選びました。おまえたちのような人々に私の教えがもっと楽に浸透し、また、おまえたちが、将来、まことの神を全く知らない人々にも伝道すべきだから、おまえたちは各自もとの道を思い出して、こういうふうな人々を軽蔑せず、私がおまえたちをどれほどの思いやりをもって教え導いたかを思い出し、同じようにするためです。
         私はおまえたちの何かの疑問を感じています。
         ”私たちは教養はないが、単なる異邦人(1)ではない”
        それはそうです。けれども、おまえたちだけでなく、おまえたちの中で知識人と金持ちを代表する人たちでも、さまざまな理由から変形された、宗教とは名のみの宗教の中に生きています。おまえたちの中にも律法の子らであることを誇りにする人が多くあるが、十人中八人はさまざまの人間的な小さな宗教の霧の中に、アブラハム、イザク、ヤコブの神のまことの聖なる永遠の宗教を混合しています。そのために、何の知識もない素朴な漁師であり、商人もしくは商人の子ら、高官もしくは高官の子ら、金持ちもしくは金持ちの子らであるおまえたちは、互いを見て、こう言えます。”私たちは皆、平等です”私たちは皆、同じことが不足していて、同じ教えを必要としています。個人的あるいは国家的欠点を持っているから、兄弟である私たちが、いまから真理の認識と、それを実行する努力において兄弟となるべきです。
         兄弟たちよ、私はお互いにそう呼び合い、そのそうに見つめ合うのを望みます。おまえたちは、一つの家族になったかのようです。家族が栄え、世間からも感心して見られるのはいつだと思いますか。それは、心を一(いつ)にしているときです。一人の子供が他の子の敵となったり、一人の兄弟が他の兄弟に損させたりするような家族の繁栄が続くでしょうか。そんなことはありません。父親は無理してでも働き、さまざまな困難を克服するにさとくても、それは無駄な努力です。その努力は水の泡です。というのは、財産は粉々に崩れ、困難が増し、世間は心と財産とを破壊してしまう絶えざる争いに生きるそんな家族を軽蔑します。
         おまえたちにこのようなことが起こらないように、心を一つにしなさい。愛し合いなさい。手助けし合うために愛し合いなさい。愛を教えるために、愛し合いなさい。
         よく見ると、われわれを取り囲んでいる世界も、この大きな力を教えています。皆、特定の方向へ走っていく蟻の種族をごらんなさい。蟻たちについて行けば、なぜ同じ方向へ走っていくのが無駄でないか分かるはずです。ごらんなさい。あの小さな蟻たちは、われわれの目には見えない微細な器官を働かせて、野性チコリの広い葉っぱの下に大きな宝物を見つけました。それは何かというと、オリーブ畑の手入れをしに来た農夫か、食事のためにこの木蔭に休んだ旅人か、ぱっと花が咲いたように陽気な子供が落としたパンくずの宝物なのです。しかし、自分の体より数倍も大きなこの宝物を、どうして一人で巣穴に運べましょうか。すると、一匹の蟻を呼んで言いました。
        『ごらん、さあ、すぐ走って帰って、他の姉妹たちに、ここは全家族の何日分もの食べ物があると知らせなさい。この宝物を小鳥が見つけて、仲間たちをご馳走に呼ぶ前に、早く、必死で走りなさい』
         言いつけられた小さな蟻は、でこぼこの地面、石ころや邪魔する幹にもかまわず、ふうふう言いながら自分たちの巣に戻り、姉妹の皆に呼びかけます。
         『姉妹の一人があなたたちを呼んでいます。皆のためのものを何か見つけました。でも、一人では到底運べません。皆、おいで』
         その日一日働いて巣穴で休んでいた蟻も、倉に蓄えを積んでいた蟻も皆、一匹、十匹、百匹、千匹が動き出す…ごらんなさい。口で餌をつかみ、体を車がわりにして大きな荷物を持ち上げ、細い足を大地に踏ん張って運ぶ…。一匹はすべり落ち、もう一匹はパンくずが石と石の間にひっかかって動かせないので、体を曲げ、渾身の力を込めて引っ張り、またもう一匹は、その小さな種族の娘かもしれない、疲れ果てて止まるが、深呼吸してまた出発する。おお、何と団結していることか。そのパンくずは何匹かの蟻たちにくわえられ、ゆっくりと進み始めます。ついて行ってみましょう…小さな姉妹たち、もうちょっと、もうちょっと、そうしたらあんたたちの苦労が報いられます。もう疲れてしまってどうにもたまらないようだけど、負けん気が強く、ちょっと休むとまた出発…やっと巣にたどり着く。今度はどうするか、その大きなパンくずを粉のように細かくするために働きます。何という大作業。切る蟻もいれば、運ぶ蟻もいて、とうとうすべてが終わる。いま、すべてを安全なところへ納められ、幸せそうな蟻たち、通路を通り、いろいろな小部屋に楽しそうに姿を消します。彼らは蟻、ちっぽけな蟻にすぎない。だが、団結しているから強い。
         これについて、よく黙想しなさい。何か聞きたいことはありませんか。」
        「私は、これからもう、ユダヤに戻れないのですか」とケリオットのユダが尋ねる。
        「そんなことをだれが言っているのですか」
        「先生、あなたが。先ほど、ユダヤで人を教えるのにヨゼフを準備すると言われましたね! もう、あそこへ帰りたくないほど、いろいろしゃくに障ったのですか」
        「ユダヤで何かあったのですか」と、興味しんしんのトマが言うと同時に、激しい口調でペトロが割り込んでくる。
        「帰られたとき、すり減ってしまったようどと私が言ったとおりですね。”イスラエルのかの聖なる人々”は、あなたに何をしたのですか」
        「友達よ、別に、何も。ここで見つけられないほど異常なことではない。全世界を回っても至るところで、私は友人にも敵にも会うことでしょう。しかし、ユダ。おまえに黙っているよう頼んだではないか」
        「それはそうですけど。あなたが私の祖国よりもガリラヤの方が好きだと思うと黙っていられなくて。一言で言えば、あなたはえこひいきしています。ユダヤでも、あなたは尊ばれたではないか…」
        「おお、ユダ、ユダ…。ああ、ユダ。おまえのいまのとがめこそ、それこそひがみです。おまえは憤慨とねたみにとらわれやすい。私は、おまえのユダヤで歓迎されたことを知らせるためだけに尽くし、それはユダヤの人人であるおまえたちが愛されるよう、偽りでなくそう言えたのです。そして、喜びをもって。なぜなら、神のみことばには、国とか対立、反感とか敵対などの差別がないからです。人よ、私はおまえたち皆を愛している…皆を…。私の最初の奇跡を、神殿と聖なる町のところで初めての奇跡を行ったのに、私がガリラヤをえこひいきしていると言えますか。おまえたち十一人の弟子のうち―正確には十人、従兄弟は身内だから―四人もユダヤ人なのに、どうして私が差別していると言えますか。イスラエルの小さな子供に私の名前を与えるため、イスラエルのある義人の臨終を見とるために旅程を組んだというのに。
         おまえは私が差別していると言うけれど、自分の胸によく聞いてみなさい。間違っているのはおまえの方だということが分かるはずです。」
         イエズスは威厳と優しさをもって話し始めた。しかし、これ以上、何も言わなかったとしても、話し初めに”ユダ”の名を三度、単なる調子で言っただけでも、大きな教訓を与えるに十分であった。一度目の”ユダ”は尊敬に訴える御稜威(みいつ)の神で言われ、二度目の”ユダ”は、もはや父親らしい調子で教える先生、3度目の”ユダ”は、自分の友人の味方をするにあたって苦しんでいる友人の願いだった。ユダはまだ、いら立っており、不愉快そうで、傷ついたようにうなだれ、下卑た感情が現れて、その顔は醜くなっている。
         ペトロは黙っていられない。
        「小僧め! いいから詫びろ。イエズスの代わりだったら、ことばだけでは済まさんぞ。先生が間違っているとは何だ。お坊ちゃんには尊敬が足りん! 神殿では、おまえたちをこんなふうに教育しているのか、それとも、教育されてもどうもならんのは、おまえの方か。それというのもな、いままで先生だったあの人たちだったら…」
        「ペトロ、もういい。言うべきことは私も言いました。明日になったら、このエピソードを参考に教訓を与えたい。ユダヤで言ったことを、いま、おまえたち皆にくれぐれも言っておくが、私がユダヤ人に虐待されたことを決して母に言ってはならない。母は、私の苦しみを直感して、深く悲しんでいます。母を敬いなさい、母は隠れるようにしてひっそりと生きています。私のために、おまえたちのために、皆のために、徳と祈りだけに活発です。世間の濁った光と激しい争いは、この慎みと清さに包まれている家に触れないようにしなさい。すべてが愛であるところには、憎しみのこだまさえも聞かせてはならない。母を尊敬しなさい。後で分かるでしょうが、母はユディト(2)よりも勇敢です。その時が来る前に、世間のあわれな人々の毒々しいかすのような感情を無理に味わわせないで、あのような人々は、神と神の律法が何であるか、その処方さえも知らない人々です。さっき話していた人々は、自分を神の知恵を持っているものと思っているが、ただの偶像崇拝にすぎない。偶像崇拝と傲慢とを併せ持っている人です。さあ、行きましょう」
        そして、イエズスはまたナザレトの方へおもむく。

        (1)原文では、イタリア語でパガノ(pagano)、英語ではパガン(pagan)。日本の辞書では、大抵、異教徒、異邦人、非キリスト教徒、どれも厳密に言うと正しくない。パガノスということばは、原始キリスト教の発展時代のもので、田舎に住んでいる人々の回心は最後になった。そのために、もともとは、パガノスとは田舎に住んでいる人々の意味で、とりたてて差別や軽蔑の意味はない。けれども、次第にこのことばは、キリスト者でない人々が、キリストを知らず、キリストの掟を守らないために道徳的にも低いという意味になった。 いまのイエズスの弟子のことばでの、”私たちはペゲンではない”ということばには、相当の軽蔑が含まれている。けれども神のない、道徳のない人々という意味ではない。
        (2)ユディト8・16、特に、13・1~16。
         

        10 エンマウスの弟子たちへの出現

        2015.04.27 Monday

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          マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
          10 エンマウスの弟子たちへの出現
           中年の二人の男が、エルサレムに背を向けて、山道を足早に歩いている。年長の方が、三十半ばと思われるもう一人に話しかける。
          「…こうして出てきてよかったと思うよ。我々には二人とも家族があるのだから、神殿はやっきになってこの問題を片付けようとしている。神殿のやり方が正しいかどうかは分からないが、少なくとも片付けようとしているのは確かだ。…こういう犯罪的なやり方…はっきり言って、あのやり方は犯罪的だと思うよ」
          「まあまあ、そう言うな。我々は長年衆議会を信じて愛してきたから、あのやり方を気にするのだ。恐らくあなたの言う通りだろうが…それでも…」
          「いやいや、元々愛とは照らすものだ。間違った道に踏み込ませてはいけない。衆議会、祭司、神殿の頭たちは、”神と太祖の間に契約が結ばれた(1)”と教える。その時から、全イスラエルが太祖とその契約を愛してきた。それなら、彼らの場合も愛は光であって、迷いに誘い込むものではない」
          「…彼らは主を愛しているのではなく、何世紀も前から、”イスラエルの信仰”に生きている…」
          「だが、考えてごらん、ファリサイ人は律法学士や祭司や神殿の頭たちの与えているものが、まだ信仰と言えるかどうか…。神に聖別されている金をつかって、裏切者を買収し、さらに番兵たちも買収(2)している。大方の人ももう知っているが、裏切者にはキリストを裏切らせ、番兵たちには嘘八百を宣伝させている…ああ、私には、永遠の力が、エルサレムの城壁をゆさぶり、神殿の幕(3)をはがしただけで手を止められたわけが分からない。私に言わせてもらえば、エルサレムの廃墟の下にフィリステ人(4)が、みな葬られてほしかった」
          「…クレオファ、あなたは全く復讐の鬼だね」
          「…そうとも、私は復讐を見たい。イエズスがもし単に預言者だけであったとしても、あの罪のない人に、あんな仕打ちをしてよいはずはない。イエズスを訴えた口実のたった一つでも、あなたは見たことがあるか?」
          「いや、一度もない。だが間違いを一つだけ犯したかもしれない…」
          「どんな間違いを? シモン…」
          「十字架の上で、力を見せてほしかったことだ。もしそれがあったら、我々の信仰は固められたし、無信仰の独裁者への罰となったろう。イエズスは、奴等の挑戦にこたえて、十字架から下りたらよかったと思う…」
          「…だが、…それよりももって偉大なこと、復活があったではないか」
          「復活? 本当だろうか? どんな復活…霊だけの復活か、それとも肉体をもっての復活か…霊だけのものなら、霊は永遠のもので、死ぬことも、よみがえることも必要ではない…」
           シモンがそう言うと、クレオファも答えて言う。
          「私もそういうことを色々考えてみた…思うに主は、人間のどんな策略も及ばぬ神の本性をもって、よみがえらえたのではなかろうか…人間からの暴力に打たれて主の霊は恐怖を感じられただろうか…マルコが言っていたが、”イエズスは死に当たって祈っておられた、ゲッセマニのその場所は血まみれであった”と。ヨハネもまた言っていた、”その場所を人の足で踏ませるな、そこは神なる人が流された血の汗の地である。主が拷問をうけて血の汗を流されたのなら、きっと恐怖もそれに伴っていたはずだ”と」
          「ああ、お気の毒な先生…」
           二人はその痛ましい思い出を繰り返すように沈黙する。
           その時、イエズスが二人に追いついて話しかける。
          「…だれのことを話し合っているのか? あなたたちの話を切れ切れに聞いていたが、殺されたのはだれだったのか?」
           イエズスは旅まわりの村人のような姿である。二人はそれがイエズスであるとは、夢にも思っていない。
          「…旅の人、あなたはよその土地の人のようですね。エルサレムには足を止めなかったのですか? 見るところ、服は埃だらけだし、サンダルも擦り切れている。遠くから来られたのですね?」
          「たしかに私は遠い所から来ています。」
          「…それはお疲れですね。これからまた、遠くへ旅されるので?」
          「そう、ずっと遠く、今やってきた所よりもっと遠くに」
          「…それでは、何か商売をしておられるのですね」
          「商売…私は偉大な主の羊を数知れぬほど多く集めています…全世界を歩きまわって、羊と小羊を集め、時には聖性の羊の中にも入ります。聖性の羊であっても、その聖性をすてれば、他の羊よりもずっとよい羊にもなれるのです…」
          「むずかしい仕事なのでしょうね。そえでエルサレムにも足を止めずに歩き続けておられる…」
          「…それは、どういう事ですか?」
          「…どういう事って…その町で起こったことをあなただけが御存知ないらしいので…」
          「その町で何が起こったのですか?」
          「あなたは遠方から来られたから、御存知ないのでしょう…あなたの話し方を聞いていると、ちょっとガリラヤ人のようにも見えますが…ガリラヤ人の子で割礼をうけていても、よその国へ行ったなら、きっとこの国の事情にはうといでしょう…実はこの国では、三年前から、ナザレトのイエズスという偉大な預言者が出て、国中に宣教していました…神のみ言葉とみ業を伝えていたのです…その預言者は、神御自身のような声で人々に教え、人々をひきつけました…お分かりですか?…ところであなたは割礼を受けているのですか?」
          「…私は長男で、主に聖別された者です」
          「それなら、私たちの宗教のことも知っているでしょう…」
          「それについては、一言半句も知らない事はない。その定めの初まりも知っている(ハラシヤ、ミドランヤ、ハッガダ)。 人間の智恵と本能、人間が生まれ出た時からそれなしには生きられない空気、水、火、光を知ると同様に、私はその事を知っています(5)
          「…それなら、イスラエルに、メシアが約束されていたことも御存知でしょう。そのメシアは、全イスラエルにを統治する王のことでしたが…イエズスはそうではありませんでした…」
          「すると、どうだったのか?」
          「イエズスは、地上の王国を全く問題にせず、ただ自分は永遠の霊的な国の王であると言っていました。ですから彼はイスラエルを統治するどころか分裂させてしまいました。今のイスラエルは、イエズスを信じる者と、イエズスを犯罪者と断じる者とに分かれています。
           見たところ、彼は柔和とゆるしを説く人で、決して王様のようには見えませんでした。そんなことで、どうして勝利を治めることができましょう…」
          「それで…どうなった?」
          「それで…祭司長の頭たちとイスラエルの長老たちは、イエズスを捕らえ、ありもしない罪状を並べ立てて、死罪を言い渡しました…もしイエズスに罪があったとすれば、それは彼があまりにも善良な人で、またあまりにも厳しい人であったことです…」
          「善良さと厳しさが同居していたのか?」
          「そうです、同居していました…イスラエルの頭たちに、彼らの正体をあばき、真実を知らせる事についてはあまりにも厳しく、また、不正な敵を奇跡を行ってでも罰すればよいのに、それをしなかったのは、あまりにも善良だったからです…」
          「洗礼者ヨハネのように厳しかったのか?」
          「…さあ…どう言っていいか…終わりのころには、律法学士やファリサイ人を厳しくとがめ、神殿の人たちにも、神の裁きが下ると告げていました…けれども、どんな人でも、どんな悪人えも、心から自分の所業を改めれば、必ず神のゆるしがあるとも言っていました…
           確かに律法学士が聖書を読んで研究するよりも、もっと深く、イエズスは人の心を読んでいました。…本当に慈愛深い人でした…」
          「ローマはそういう無罪の人が死刑にされるのを許したのか?」
          「イエズスの断罪を決めたのはピラトでしたが、彼自身もイエズスのことを義人だと言って、死刑にすることは望まなかったのです…ところが、イスラエル人は、ピラトの弱腰をローマ皇帝に告げると脅かしたので、ピラトはそのことを恐れるあまり、イエズスの断罪を決めたのです。その悲しい事実は、私たちを心底がっかりさせました……ところで、私はクレオファの息子で同じくクレオファと言い、こちらの男はシモンと言います。私たちはエンマウスの出で、親類なのです」
          「私はこの人の長女の夫で、私たちは二人共、その預言者イエズスの弟子でした」
          「…すると、今はもう弟子ではないのか?」
          「…私たちは、イエズスがイスラエルを解放してくれるものと思っていました…そしてある奇跡によって彼の言葉が確認されるとも思っていました…それなのに…」
          「イエズスはどんな事を言っていたのか?」
          「…もう言ったではありませんか。”私はダヴィドの国に来た平和の王である…”それに”国に入れ”とも言っていました。けれども、彼はその国を私たちにくれませんでした…。
           また彼は”私は三日目によみがえる(6)”とも言っていましたが、彼が死んでもう三日は過ぎました。”第九の時(7)”も過ぎたのに、彼はまだよみがえっていません。
           何人かの婦人たちや番兵たちが、彼の復活を見たと言っているのですが、私たちは見ていません。ナザレト人の弟子たちがイエズスの死体を盗んだという噂ですから、番兵たちは自分の怠りを弁解するためにそんな噂を広めているのでしょう。私たちはみな、イエズスの死を見極めもせずに、恐れにかられて散り散りに逃げ出したのですから、だれ一人イエズスの死体を盗み出したりできなかったでしょう…。
           それなのに婦人たちは…あの人たちの言うことが信用できますか?…
           私たちもこの事についてはいろいろ話し合ってきました。復活は神となって霊だけでよみがえることか、それとも肉体を伴ったよみがえりなのかと。
           婦人たちは、地鳴り震動があって墓に天使たちを見たと言っています。金曜日には義人の霊が墓の外に出るとは言われていますが…彼女たちに言わせると、その天使たちは人間ではなくて、生死を超えたものの姿だったそうです…。婦人たちは本当にそれを見たのでしょうか…私たちの頭だった二人の男が墓に駆け付けて見ると墓がからっぽなのは本当でしたが、イエズスの姿はありませんでした。それを聞いて、私たちは本当にがっかりしてしまいました…。もう何を考えていいか分かりません…」
          「ああ何と、あなたたちはにぶい人たちだろう。預言者の言葉が、そんなにも信じられないのか(8)。もうずっと以前から預言され、言い伝えられていた事ではないか。イスラエルが誤ったのは、実にその事である。キリストが王であるという事実を彼らは取り違えた。そのために彼らはイエズスを信じられず、ひたすら恐れるだけで、今度はまた、あなたたちも疑っている。
           神殿でも村々でも、上でも下でも、人々は、イスラエルの王を人間的な王だと考えていた。けれども神の計らいは時間、空間、手段をこえたところにある。人間の王国は時間に制限され、永遠につづくものではない。モーゼのことには、ヘブライ人を圧迫した強大なファラオがいたが(9)、それらはどうなったか。数知れぬ王朝が栄えてやがて亡びる。それらがあとに残すのは、地下の墓に横たわる屍だけである。永遠と比べれば、彼らの王国は、高々一時のことである。
           イスラエルだけは、言わば神の糧を受けて、歴史の始まりから、永遠の王国であり、そのためにイスラエル、すなわち神につくられた国と言われている。けれども、王なるメシアの王国は、そのパレスティナ一国に限られているものではない。その王国は、東西南北、人間がいるあらゆる地に広がっている。それは敵も味方もすべてをのみこむ王国であり、決して、武力や暴力によってつくられるものではない。だからこそ、預言者たちの言う”平和の王”である。
           人間の用いる手段は、先に言ったように圧制と暴力であり、超人間的な王国の用いる手段は愛である。
           人間は圧迫する者に対していつか立ち上がり、それを亡ぼしてしまうが、愛だけにはそういう事はない。愛は、愛されるか、よし愛されないにしても、ただからかわれるだけで、それに向かって直接攻撃することはできない。愛は霊的なものであるからなのだ。
           無限の神は、そういう手段を望まれる。永遠の神は、有限のものを求めてはいない。霊であるもの、霊へ導くものを望む。それが人々には理解できず、手段と形式においてまちがったものを霊と称していた。
           最も崇高な王制とは、神のものである。そうではないか? インマヌエル、驚くべき強大なもの、聖なるもの、木の芽のようにたくましいもの、世紀にわたる父、平和の王、来るべきメシア、神なるもの、預言はそう語り継いでいる。神は御自分から出たものが、そういう王制をしくことを望まれたにちがいない。霊的な、永遠の王制をしくこと。略奪も流血もなく、永遠の慈愛に輝き、神のみ言葉の栄光と喜びを与える王、神はあわれな人間にそれを与えようとされた…。
           強き王ダヴィドは、すべてのものを足台とするために、自分の足の下にすべてをおいた(10)。イザヤはその受難について語っているが(11)、それがすべてではない。彼は、”自らのいけにえによって、罪人となる人間を救う(12)”あがない主であるとも言われている。
           ヨナについてもそうである。ヨナは大魚の腹にのみこまれ、三日間そこにいて、”預言どおり、その腹から吐き出される(13)”と語り残されている。イエズスも、”私の神殿、すなわち私の体は、破壊されてのち三日目に建て直される”と告げていた。そうではないか? あなたたちはイエズスが魔術をつかって神殿のこわれた城壁を建て直すと思っていたのか? 
          「いえいえ、そうではありません。城壁のことではありません。イエズスのよみがえりの事です。よみがえりができるのは、神だけの御業です。モーゼの預言が言っている”ほふられた羊”が、どのようにして死から生命によみがえったのか。サタンの奴隷である人間の”過ぎ越し”のために、彼がどのようにして死から生命へと移ったのかということです…」
          「その問いに答えよう。イエズスは自分の肉体と、そこに住まわれる神の霊と共によみがえった。あがないを完成させるために、すなわち、人類が日々犯している限りのない罪をあがなうために、そのようにして復活された。かねがね語り継がれてきたように、彼はあらゆる苦難を耐え忍んでのち、定めの”時”が来た時に復活した。
           ダニエルのことば(14)を考えるがよい。”時”が来た時に小羊は屠(ほふ)られ、また定めの”時”が来た時、彼は死からよみがえり、神を殺した者は罰を受けるであろう。
           あなたたちに言うが、思い上がった知恵ではなく、心をもって、預言者のことばをはじめから思い返し、読み直してほしい。イエズスを”小羊”として語った多くの預言者たち、さらにモーゼの言う屠られた小羊のことも思い出せ。彼によれば、その小羊の血によって(15)、”イスラエルの長男”は救われると言われている。その血によって、神の長男は救われるのである。ダヴィドやイザヤ、あるいはダニエルの、メシアについての預言を考えなさい。
           神の聖なる者の王制について、人間の知恵ではなく、霊的な意味で考えれば、死に対するイエズスの勝利、そしてその復活以上に、強力で正当なしるしはありえないことが分かるはずである。
           十字架につけた者たちを、その十字架の上から罰することは、イエズスの使命とそのあわれみにはふさわしくないことも分かるであろう。イエズスは軽蔑され、拷問され、十字架につけられた者であったが、同時に彼は救い主であった。彼の体は十字架に釘づけられていたが、その意志と霊とは自由であった。彼が血をしたたらせつつ十字架上に踏み止まったのは、罪人たちに回心の時を与えるためであった。冒涜の叫びを上げていた者を、後悔の泣き声に変えるためであった。
           今はよみがえり、御託身(ごたくしん)前の栄光ある姿に戻られた。彼は何年もの間、神の思し召しを果たすために人間となって己を空しくしていたが、十字架上で死ぬことによって、今や最も光栄ある姿になられた(16)。光栄ある肉体と共に、最高の光栄を得て、彼は今こそ栄光の永遠に入る。
           そして、満ちあふれる愛と権威をもって、イスラエルをはじめ全世界の人々をその光栄の園へと呼ぶのである。イスラエルの義人たち、預言者たち、そして救いを求めたすべての民が、そこに集まる。もう、ユダヤ人もローマ人もない、アフリカ人もシリア人もない、イベニア人もケルト人も、エジプト人もフリジア人もなく、すべての差別を超えて、絶えることのない泉のほとりに集う。極北の民もヌミデア人と肩を並べ、その国に入る。言葉の差もなく、種族の別もない。肌の色の区別もなく(17)、すべての民が、光り輝く唯一の清い言葉と愛に結ばれる(18)
           それが天の国、神の国であり、その王は、死んで復活した主であり、その永遠の民は主を信じた人々である。あなたたちも信仰をもってその国に入るように心掛けよ。
           私の友よ、ほら、もうエンマウスに入った。私は休むことなくこの道を歩きつづけて行く。まだ先は長い…」
          「いえ、あなたは、私に教えてくれたラビよりも知恵ある方です。もしイエズスが亡くなっていなければ、あなたこそ彼だと言いたい位です。牧者を失い、イスラエルの嵐にまきこまれ、もう聖書の意味さえ分からなくなっている私たちですが、もっと御一緒して、あなたのお言葉を聞きたいのです。よろしいでしょうか。そうしてお言葉を聞いていると、私たちは、失った主の御教えの意味がもっと悟れると思います…」
          「…イエズスは何年もの時をかけて教えてきたが、まだあなたたちに教えを完成させることはできなかったのか…あなたたちが、一点の疑いもなく信仰に至るには、まだ時が足りない…だが、それも無理はない。あなたたちだけの責任ではない。”血”は来たが、”火”はまだ来ていない。その”火”がくれば、すべてが分かり、そして信じることができよう。…では、私は行く」
          「ああ、…、日はすでに傾き、暮れようとしています。疲れて、腹もへっておいででしょう。どうぞ私たちと一緒にここに止まり、神のお話しをもう少し聞かせてください」
           請われるままにイエズスは家に入る。ヘブライ人の習慣どおり、疲れた足を洗う水桶と、飲み物がすぐ準備される。それから食卓につくと二人は、自分たちのために、食物を祝福してくださいとたのむ。
           イエズスは夕焼の空に目をやり、腰掛けに着いてから、卓上のパンをとって割り、二人に分ける。
           その時イエズスは復活者の姿を現される。それは彼が身近な人々に現われた時のような光り輝く栄光の姿ではないが、神の威厳に満ちあふれ、手には傷あとがはっきりと見てとれる。その目の光、その神々しさは、全く神そのものである。二人は思わず床にすべり下りてひざまずき、深く頭を垂れる。しばらくしておそるおそる目をあげて見ると、卓上のパンきれが残っているだけでイエズスの姿は消えている。
           二人はそれぞれパン切れを手にとって口づけし、深く懐中におさめ、それから涙ぐみながら言う。
          「…主だった…私たちは分からなかったが…それでも、聖書の話をしてくださっている時、心が燃えるような感じがしていた…」
          「…そうだ、新しく天の光をあびたようで、目からうろこが落ちた気がする…たしかに、あれは主であったのだ…」
          「…すぐ出かけよう…何だか疲れも飢えも感じない…エルサレムにいる人たちに、すぐこの事を知らせに行こう…」
          「…そうしよう。ああ、年寄りの父に、この時を味あわせてやれなかったのが残念だ…」
          「…いや、そうではなるまい。父親は義人だった。だから、我々弱い人間が見ていなかった神の子の復活を喜んでいたにちがいないない…さあ出かけよう。夜更けには向こうに着くだろう…思し召しであれば、きっと望みどおりに着くことができる…」
          「死の門を開いた主だから、きっと城壁の門も開いてくださるだろう。…行こう…」
           二人は夕暮れの外に出て、エルサレムに向けて歩き出す。

          (1)創世の書6・17~22、脱出の書19~40章、特に19~20、24。
          (2)マテオ28・12~15。
          (3)マテオ27・51、脱出の書26・31~37、36・35~38、レビの書16章、ヘブライ9・1~10。
          (4)判事の書16・22~31。
          (5)知恵の書16〜19章。
          (6)マテオ20・17~19、マルコ10・32~34、ルカ18・31~34。
          (7)午後三時ごろを示す。
          (8)預言者たちがイエズスのメシア性を主張している。例えば、イザヤの書2・1~5、4・2~3、7・10~25、9・1~6、11・1~16。エレミヤの書14~26章、23・1~8、30~31章、33章、エゼキエルの書34章、ダニエルの書7・9、ミカヤの書5・1~7、ザカリアの書8 72・1~23、9・9~10。ルカ4・17~21、24・25~27、使徒行録8・26~40。
          (9)脱出の書一章。
          (10)詩編110章、使徒言録2・19。36
          (11)イザヤの書50・4~9、52・13~53。
          (12)イザヤの書53・10~12。
          (13)ヨナの書2章。
          (14)ダニエルの書9章。
          (15)脱出の書11・1~10、ヘブライ11・23~29。
          (16)フィリッピ2・5~11。
          (17)イザヤの書14~25章、使徒言録2・1~13。
          (18)黙示録4~5章、21~22章。