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2017.01.04 Wednesday

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    世界は滅びても 愛は消えることなし

    2016.09.19 Monday

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      『世界は滅びても 愛は消えることなし』 安田貞治著  エンデルレ書店

      第四章 アヴェ・マリアより

       

      空の鳥を見よ。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は彼らを養われる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。(マタイ6・26)

       

       今日、わたしたちは慌ただしい生活の中で、毎日何らかの心配や心づかいをもって生きているようです。政治にたずさわる人たちは、国際情勢や国内の動きに思いをはせ、商売や事業をしている人びとは、それらの繁栄について心づかいをしていることでしょう。また家庭の主婦たちにとっては、毎日の生活と子どもの養育や教育のことで、思い煩うことが多いに違いありません。老人には老いゆく者としての寂しさがあり、青年は青年、若い娘は娘なりに、それぞれの悩みをもって生きているのでしょう。
       こうしてみると、人間というものは、かくも心配や心づかいに責められ、かくも悩まなければ生きて行けないものなのかと、あらためて考えられずにはいられません。人は誰でも、例外なく幸福や平和を求めているのに、これは一体どうしたわけでしょうか。私たちに、何が欠けているためではないのだろうか。すなわち、わたしたちの内部に、精神的な確固としたよりどころがないためではないかと考えさせられます。「一寸先はヤミ」という言葉がありますが、人生というものは、そのような不安にみちており、人間が互いに相手を十分に信じられない、というもどかしさから、免れることができないのです。
       ノーベル賞の創始者であるノーベルは、その人間観を、端的につぎのような言葉で述べております。「人間というものは、未熟で、平和を受けるに値しないのですよ。どの人間にも、野獣、悪魔、蛮人といったものがひそんでいます。要するに平和なんて、この世にはすこし高尚すぎるものなのです」
       わたしたちひとりひとりの中には、強い野獣性がひそんでおり、今日のような競争社会では、それが子どものように弱い善意を圧倒し、だんだんむき出しになってきます。欲望や優越感を満足させるために、どれほど多くの醜い争いや、そのための犠牲を生んでいることでしょう。そういう社会には、あせりと、とげとげしさと、他人の無視や利己主義が横行し、そのためにすべての人が苦しむのです。
       わたしたちの心の中の善意というものは、ノーベル氏もいうように、子どもみたいに弱いものであっても、社会生活や個人の生活に平和をもたらすためには、最も大切なもののように思われます。わたしたち相互の善意と、それへの信頼なしに、平和は決してあり得ないでしょう。イエズスは弟子たちに向かって「空の鳥を見なさい」と言って、おおらかに天の神を仰ぎ見るようにすすめていますが、それはともすれば地上をはい回り、おのれの損得利害から離れ得ぬ心を、暫時そこから解き放つための、知恵の言葉でありましょう。
       あの空の鳥たちは、人間のように「まくことも刈ることもしないのに、天父はこれを養いたもう」と言って、自然の鳥どもの生活のうちに、神の摂理、はからいを啓示しているのです。わたしたち人間の理性の能力、知性の光は、この神の大きな愛のはからいを、自然のうちに読み取るならなければ、ついに日々の煩いや悩みから、解放されることができないだろうと思われます。
       わたしがまだ青年のころ、最も心をひかれた聖書の言葉は、この「空の鳥を見よ」という一節でした。この言葉の呼びかけを聞いたとき、わたしの心は無限の空間にかけのぼって、広大無辺な神の愛に呼ばれているような気がしてなりませんでした。
       現代の学校教育においては、神はタブーとされており、したがって、宗教教育もまったく欠けております。そのような、いわば大切なカナメを欠いた教育をほどこしながら、世界人類の平和を求めるといっても、どこかチグハグな感じをまぬがれません。いつか評論家の坂西志保さんが、つぎのように言われているのを読んで、なるほどと思いました。「私はよく子どもに宗教心を与えたいが、どうしたらよいか、と母親にきかれる。あなたは何を信じられますか、ときくと、家では別に何も信じていない、と答える。宗教心というものは、ビタミン注射などと違って、そう簡単に教え込まれるものではない。また、たとえできたとしても、そのような宗教心が、人の倫理道徳の基準となり、どんな場合にも、正義を選ぶということにはならないであろう。むしろ宗教心は、自然によい環境において学び、自分のうちに完全に消化され、言葉と行為に現われるというのが望ましい。またそうならなければ効果がない、と私は考えている。困ったときの神だのみもよい。しかし、祈らなくても守ってくれる神をもち、その道にもとらないように行動するのが望ましい。学校では宗教を教えられないことになっている。したがって宗教心を養おうと思えば、家庭が主となる。何が正しいか、何がまちがっているか、はっきりした基準をもたない今日の社会で、幼いころから宗教の教えによって、自然に倫理観を身につけるのが望ましい」
       キリストはまことの神の存在を、自然界の現象、たとえば空の鳥を眺めよと言って教えましたが、日に日に周囲から自然を失っていく今日のわたしたちは、よい家庭環境の中で、正しい神の考え方や、その存在を学び取らなければなりません。神は全人類の父であり、この共通の精神の場、すべての人の父なる神を信ずる善意の足場なくして、世界の平和もありえないでしょうし、人と人との信頼もありえないでしょう。
       今日の国際関係や、人間関係のありかたを見るにつけても、あまりに相互の信頼が失われ、猜疑心と利害打算に支配され、そのために行きづまりと、苦悩を負っているように思われてなりません。神をもたなければ、人間のなかの野獣性は野放しになるのです。小さく弱い善意が押し殺されてしまうのも、当然でありましょう。神のみまえに、人間は鳥よりもはるかに優れたものであり、神の配慮のなかにあるものなのです。しかし神を尊ぶことなしに、人間相互の尊重や配慮が、真に行われることもあり得ないでしょう。

      第一章 ペトロの否認の予告2

      2016.01.15 Friday

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        安田 貞治 神父著『最後の晩餐の神秘』緑地社発行 より

        第一章 ペトロの否認の予告 

         《ペトロは、「主よ、なぜ今、付いて行けないのですか。あなたのためには命も捨てます」と言った》(ヨハネ13・37)

         ペトロは主の言葉に対して、どこまでもイエズスに従う決心で、命を捨てても従うつもりであると答えた。そのことは、あくまでもこの世界で従うことにほかならなかった。彼の信仰は、肉体的に、自然のあり方によって主に従っていればいるほどに、完全に主に従うことになると解釈していたようである。それは具体的であるが見える形の偶像の信仰とほぼ同じ種類の信仰にほかならなかったようである。
         イエズスが弟子たちに、自分に従って来なさいと最初に命じた信仰は、後になって完成された霊的な信仰ではなく初歩的な信仰であった。それは不完全なもので、よく言われるように薄い信仰であり、準備的信仰の段階であった。弟子たちのいたらない行動や不信仰は、主に時には叱られ戒められた。「信仰の薄い者、なぜ疑ったのか」(マタイ14・31)。ペトロが湖の上をイエズスと同様に歩こうとして沈みかけたとき、叱責された言葉である。
         ペトロは、イエズスのためなら、自分の命を捨てても惜しくはないと思っていたので、イエズスが敵に殺されるなら、自分も殺されたいと願うのであったが、これはあくまでもイエズスの身を守ろうということで、そのために殺されてもしかたがないというものであった。よく言われるように、絵にかかれた餅を食べようとするようなもので、ペトロの死についての考えはまだ実感を伴うものではなかった。その時のペトロも、今日のわたしたちも、人間の死は何を意味するかよくわかっていない。多くの人が死はあの世に移ることと知ってはいるが、また、死滅して全く存在が無に帰すると考えている。人間にとってこの世に死ほど恐ろしいものはないけれど、人は死んで行くとき、あきらめて無になると、夢のような気持ちで気楽に考えている者もある。死はその人にとって、いちばん大切な役目を果たしているのではないだろうか。この世に生まれてくるのは喜びであるが、この世界を去って行くのは、わたしたちにとってやりきれないものである。神の国、天国を信じて、それを目指して死んで行ける人は、まことに幸いであろう。イエズスの十字架の死はまことに残酷のかぎりを尽くした苦しみの死であったが、それは人類の罪を贖うために支払われた神の正義における身代金であり、愛であった。イエズスの死は、神の国、御父の神性のうちに帰る死であって、わたしたちもこの師にならって死んで行くために、今は信仰のうちに生きているということなのである。 
         

        第二章 イエズスは真の<ぶどうの木>

        2016.01.09 Saturday

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          安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

          第二章 イエズスは真の<ぶどうの木>

          《「わたしは真のぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である」》(ヨハネ15・1)

           イエズスは弟子たちに、はじめて、わたしはぶどうの木である、とたとえ話の形を用いて神秘体のことを話された。福音の中で「一人の地主がいた。彼はぶどう園を造り、その周りにかきねをめぐらし、またその中にしぼり場を設け、物見やぐらを立て、これを小作人たちに貸し与えて、遠方に旅立った」(マタイ21・33)とあるのを思い出す。そのたとえ話に関連して、自分が本当のぶどうの木であると告げている。天の御父はその栽培者であり農夫である、と言う。ぶどうの木は、他の種類の木と違って建築用材や道具類には用いられない木で、実を結ばなければなんら役に立たないものである。ぶどうの木はどんなに枝を広げて青々と葉が茂っても、美しい果実を結ばなければ栽培者にとっては無益となるものである。わたしはかつてぶどう園を訪れたとき、素晴らしい収穫をおさめている光景に驚いたことがある。わたしたちも、美しく実ったぶどうの実を見れば幸福感に満たされる。生い茂った百年以上もたった一本のぶどうの木に出合ったこともある。広い畑いちめんにおおいかぶさるように、無数のぶどうのふさがぶらさがって色づいているのを見て喜んだものである。
           イエズスは、最後の晩餐ともいうべき場にのぞんで「わたしは真のぶどうの木である」と言って、これから自分の前に立ちはだかる運命である苦しみと死の深い意味を教えた。イエズスの生涯は、人間としてこの世において自由奔放に生きて喜ぶことではなくて、ぶどうの木のように明けても暮れても栽培者である農夫の意志と計画に任せて従う生涯であった。もっぱら天の御父のご意志に従って、人類の救いの計画の実現に努められたのである。その計画とは、人間である自分の肉体の苦しみと血を流しささげて死ぬ、愛の奉仕であって、人びとの罪を贖うことであった。天の御父に対して、人類の贖いの果実を、ぶどうの木のようによく熟した実としてささげなければならなかった。その意味を踏まえて「わたしは真のぶどうの木である」と言われたのは、まことにふさわしいたとえであった。


          《わたしに付いていて、実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる。しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、父がきれいに刈り込まれる》(ヨハネ15・2)
           キリストはぶどうの木であって、その幹につながっている無数の枝も、木の全体を通して流れている生命は同じである。キリストの命が流れ通っているので、幹につながっている枝の先ざきまで一つの生命に生かされているのである。命がかよっていない枝があれば、外面的に見ていかに強くかたく結ばれていてもやがて弱り、ついに枯れきって死ぬのである。枯れ木に花を咲かすと言ったおとぎ話もあるが、それは真実ではない。イエズスのこの世における生活は、天の御父の計画の中にある意志に仕えて、愛の行為を実現することにその目的があった。その愛の行為は多くの実を結んで、人びとの救いとなるものであった。彼が世において語った言葉は、そのまま天の御父の言葉であり、それを真に受け入れて、信仰をもって彼に従う者は、彼と同様に御父の愛の実を結ぶことになる。
           御父がぶどうの木の栽培者であって、この上なく丹念にぶどうの木であるイエズスの人性に手入れをしている。たとえ、彼の福音を聞いていようと形だけの信仰でキリストのぶどうの木の幹、本体につながっていても、彼の言葉を守らなければ、自分の利欲の虫にとりつかれて自己愛の虫を養っていることになる。これはキリストの生命に真に生きることではなく、害になるので、イエズスの種まきのたとえにもあるように栽培者である農夫から切り捨てられる枝となる。「ある種は道ばたに落ちた。すると、鳥が来てそれらをついばんでしまった。ほかの種は土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、日が上ると根がないので、焼けて枯れてしまった。ほかの種はいばらの間に落ちた。やがていばらが伸びて、それらを覆いふさいでしまった。ほかの種はよい土に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となった」(マタイ13・4~8)。キリストの愛である生命にかたく結びつくこともなく、自分の自然の命の愛欲に基づいて、自愛と欲の慰めを求め、快楽と名誉のとりこになって働くのであれば、真のぶどうの木の実を結ぶことはできない。「わたしの言葉を聞くだけで実行しない者は、砂の上に家を建てた愚かな人にたとえられる」(マタイ7・26)とぶどうの木であるイエズスは言っている。実を結ばない枝に葉だけがどんなに豊かに茂っても、無用なもので最後は切り取られてしまう運命である。御父はキリストのぶどうの木の枝である信仰者に聖霊の働きと賜物を与えて、手入れをしているが、それにもかかわらず、枝である人自身がわがままなふるまいをして、この世の魅惑に引かれて欲の生活をするならば、結局は実をつけることはないのである。

          (絶版)