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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 2

    2016.09.06 Tuesday

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      第三章


      神から離れていることは、煉獄の最も大きい罰である。何に於いて煉獄は地獄と異なるか

       

       煉獄の一切の苦しみは、原罪又は自罪から起こる。神に於いて霊魂が永福を見出すために、神は或る意味に於ける生来の傾向を備えた霊魂を、全く純粋で、あらゆる罪の汚れのないものとして創造り給うた。
       原罪によって、更に又これに自罪を加えることによって、霊魂はこの傾向から遠ざかる。そして霊魂が神から遠ざかれば遠ざかるほど、神の聖旨にかなわないから、邪(よこしま)となる。
       事物はそれが神に与っている限り善である。理性なき被造物(鳥獣の如き)に対して、神は望み給うままに、又定め給うた如く、必ず御自身を与え給う。
       理性を具えた霊魂(人間)に対しては、罪の障碍から霊魂が浄化されたと神が観給うに応じて、或は多く、或は少なく御自身を与え給うのである。それで、霊魂が創造られた時に有(も)っていた原始の純潔と無辜の状態に近づくとき、神に於いて福楽を求めようとする生来の望みは大となり、神に對する愛の火によって益々その望みは増し加わるのである。この愛の火は、神と霊魂とを隔てるいかなる障碍も堪え難く感じるほどの猛烈さと激烈さとを以って、霊魂をその目的(神)に牽くのである。そして神のみが霊魂の栄福であることがわかればわかるほど、それだけ神から離れていることのために苦しみが増すのである。
       さて、煉獄の霊魂はもはや罪責がないから、その霊魂を〔神にゆくことから〕引きもどし、完徳に達しようとする生来の傾向を妨げる罰を除いて、神と霊魂との間には何の障壁もない。この妨げられることは、極めて僅かであっても、それがどれほど重大であるかが、明らかにわかるとともに、義が最も厳粛(きび)しく障碍(さまたげ)を要求めることも亦、つぶさに解るので、その霊魂のうちに地獄のような火が起こる。(2)
       煉獄の霊魂には、罪責(とが)がない。この罪責(とが)こそは、神の全善に与ることをゆるされない地獄にある淪亡者(ほろぼしもの)の意志を邪まとする。であるから地獄にある者は、永遠に神の意志に反抗し、その邪まな意志を抱いて絶望の淵に淪(しづ)んでいる。

       

      (2)一方に於いて、罰が霊魂を引き戻そうとするに対し、他方、神の至聖が霊魂を圧することからして、摩擦が起こり、火が生じるのである。

       

       

      第四章
      地獄に在る霊魂の状態、地獄の霊魂と煉獄の霊魂との差異。救霊をゆるがせにした者に對する聖女カタリナの考察

       

       既に述べたことから考察すれば、神の意志に我等の意志が邪(よこし)まにも背くことから罪が成り立ち、このように意志が邪まを続ける間は罪責(とが)も亦続く。であるから、邪まな意志をもってこの世を去り、現に地獄に在る霊魂は、もはや意志が変更ることはあり得ないから、罪の赦免もなく、又あり得るはずもない。
      「我は〔死の時に於いて、罪を望む意志、或は罪を歎き悔やむ意志を有てる〕汝等を見出すところに、汝を審(さば)かん」と聖書にも録(かきしる)されている通り、現世を去るとき、霊魂はその死の際に於ける善意か、悪意かによって、善悪いづれかに判定される。この審判は決定的である。人の死後、意志は再び自由になり得ず、死の瞬間に在った状態に止(とど)まっているからである。死の瞬間に、罪を犯そうとする意志を有っていた地獄にある霊魂の罪責(とが)は限りがない。彼等のうけている罰は、彼等が当然うける罰よりも軽いとはいえ、罰の存する限り無限である。けれども煉獄の霊魂には、罪に對する罰ばかりがあって、罪責(とが)はない。何故ならば、彼等は死の瞬間に己が犯した罪を悲しみ、神の全善に背いたことを悔やんだから、罪責(とが)は臨終の時に消滅した。であるから彼等の罰には限りがあり、前に述べたように、罰の期限が、徐々に減ってゆくのである。
       ああ、〔地獄にある霊魂(もの)の〕凡ゆる惨めさに超える惨めさよ! ここにある人々は盲目の余り、この惨めさを殆ど想わない。それだけにこの惨めさは大きい。
       地獄にある淪亡者(ほろぼしもの)の罰は、量に於いて無限ではない。これは神の仁慈しみ深き全善が、地獄にさえもその哀憐みの光を注ぎ給うからである。大罪のうちに死んだ者は、苦しみに於いて無限の罰をうけ、その苦しみの期間は、終わりないのが当然であるのに…。神は哀憐によって、苦しみの期間のみを無限とし、苦しみの量には限度を置き給うた。主はその義によって、実際彼等に与え給うたよりも遥かに大なる罰を課し給うことは出来たのであるが…。
       邪ま故に犯した罪は、いかに危険であることよ! 人はこれを痛悔することが稀であり、通悔しないために罪責(とが)が残り、犯した罪に對する愛着があり、罪を又犯そうとの意志がある間は、将来もなお、その罪責(とが)が残るであろう。

       

      第五章


      煉獄の平和と歓喜


       煉獄の霊魂はその意志を全く神の意志に適合させ、したがって神の全善に与っているから、罪責(とが)を全くまぬかれた状態にあるこの有様を以って満足している。真に通悔して一切の罪を厭み嫌い、告白し、もはや再び罪を犯すまいと決心したままで現世を去ったときは、神は直ちに彼等を赦し給うた。そして今や彼等は純潔であるが、ただ罪の錆だけが残り、彼等はこれを火の罰によって除き去るのである。
       このように一切の罪から浄められ、彼等は意志に於いて神と一致するから、神が彼等に与え給う光の度に応じて神を明らかに観るのである。(3) 彼等は、神を愉(たのし)むとはどんなことか、又この上を愉むために霊魂が創造られたことも悟る。なお彼等のうちには、彼等を神と一致させる意志の適合があり、神と彼等との間に於ける自然的な相互の牽引によって、彼等は神の方に牽かれているが、彼等はこれを内的に感じることによって、実際に悟っているから、いかなる説明、比喩を以ってしても判然と述べることは出来ない。けれども私は、心に浮かんで来るその種のものを述べてみよう。

       

      (3)至福の直観ではない。

      煉獄論

      2016.09.06 Tuesday

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         『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
        ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

         

        聖女カタリナは、内心に感じた神来の聖火によって煉獄を悟り、同時に煉獄の霊魂が如何に幸福であると共に、又苦しんでいるかに就いて語る。

         

        第一章

         

        煉獄の霊魂の状態。彼等には自愛心がいささかもない

         

         まだ肉体の囚獄(現世)の中に在りながら聖女カタリナは、霊魂を浄化する火である神の燃ゆる愛の中に置かれたことが解った。この愛の火は、彼の女が現世の生涯を終えて後、愛し奉る神の御前に速やかに到るため、彼女が浄められねばならなかった凡てのものを焼尽し、又その一切から彼女を浄化した。この愛の竈によって、彼女は信者の霊魂が現世に於いて、いまだ浄められずにあった罪の錆と汚点(しみ)とをすべて除き去るため、煉獄におかれることを知った。聖女は、人の霊魂を浄化する神の愛の竈の中に入れられ、彼女の愛の対象(神)と一致させられて、彼女になし給うた神の一切の御業に全く満足したとき、煉獄の霊魂の場合と同じ状態にあることを悟り、次のように語った。


                     *     *      *

         

         私にわかる限り、煉獄の霊魂は煉獄に留まることより他選ぶことが出来ない。これは神が義によってこのように命じ給うたからである。彼等は内省して、”私はかくかくの罪を犯したから、此処にとどまるのは当然である” とか、”かくかくの罪を犯さなければ今天国に行けるのに”、”彼(あ)の霊魂(ひと)は私より先にここを出る” とか、”私の方が彼(あ)の霊魂(ひと)より先にここから出るであろう” などと言うことは出来ない。又彼等は、善についても、また今不断に堪えている苦しみに更に苦しみを加えるはずの悪についても、自分のことにしろ、他人(ひと)のことにしろ、何一つ思い出すことは出来ない。彼等は、神が彼等に就いて定め給うたものに満足しているから、神の聖旨にかない奉るものをことごとく望み、そして聖旨に就いてかなひ奉る方法に於いてそれを望む。更にいとも大いなる苦しみの最中に於いてさえも、自分自身のことについて、恐らくは考えようとするかもしれないけれども、もはや考えることが出来ない。
         神の仁慈は、人々を御自身に引寄せ給う程大であるから、煉獄の霊魂は、神の全善だけを観る。それで、善でも、悪でも、彼等に影響するものを何も、観ることは出来ない。もしそれが出来れば、彼等は神の純愛のうちにとどまっていないことになるであろう。彼等は、煉獄に於ける苦しみが自分の罪の故であることを識らず、又自分自身の罪そのものを、絶えず見つめていることも出来ない(A)。この罪を見つづけていることが出来るとすれば、それは短所となるが、もはや実際に罪を犯す余地のないところには、短所もあるはずはない。
         霊魂が肉身を離れる瞬間、ただ一度だけ何故自分に煉獄があるかを悟るが、この瞬間が過去った後は決してわからない。もしそれがわかるとすれば、自我が起こって来る。故に彼等は神に對する愛のうちにとどまると共に、〔煉獄には過失がない故〕真の過失(あやまち)(1)によって、この愛の正道から踏みはづすこともあり得ないから、自分自身としての意志や欲望はなく、神に對する純愛を得ようとする意志が、ただ一つあるばかりである。
        彼等は神の命によって煉獄の火中にあるが、この神の命に服するのに、神に對する純愛を以ってするから、神の命と純愛とは一つのものである。そして彼等はもはや功を積むことがないから、罪を犯すこともなく、従って神の命から、萬事に於いて外れることもあり得ない。

         

        (1)継続的でなく、唯一度でもの意。

         

        (A) ここで聖カタリナは煉獄の霊魂は受けている苦しみの特定理由を想起することが出来ないと言っている。例えば「私は何月何日斯々の罪を犯したから此処にいるのである」と云うが如きである。がカタリナは彼等が耐え忍んでいる苦しみは、罪に對する罰に相当するものであるということを、彼等が承知していないと、絶対的に断言したのではない。何故ならば、このことを彼等が識らないと言うことは、想像し難いことであると共に、第八章の記述と矛盾して来る。即ち、「煉獄に於いて霊魂に苦しみを起こさせるものは、神の聖旨に叶わぬものを霊魂自身の裡に観ることであり、又その言い尽くし難き全善に対して、かかる罪を犯したことを意識することである」(八章)と。

         

         

        第二章


        煉獄の霊魂の歓喜。聖女カタリナは彼等が益々神を観つつあることを示す。その状態を語るのは難しい。

         

         天堂に於いて永福を享けつつある諸聖人の霊魂の歓喜(よろこび)を除いては、煉獄の霊魂の歓喜に較べられるいかなる歓喜も他に見出せないと思う。この歓喜は、神が霊魂に入り給う上に障碍となる凡ゆるものが焼き尽くされるに応じて、益々豊かに神が霊魂に入り給うから、日毎に増しゆくのである。この障碍(さまたげ)(B)とは罪の錆であり、これが煉獄の火に焼き尽くされ、こうして霊魂は神が入り給うのにふさわしい状態に自らをするのである。
        この状態は、覆いをかけた鏡と同じく、その鏡が太陽の光線を反射しないのは、太陽が照らさないのではなく、絶えず日光は輝いていても、多いがこれをさえぎっているからである。それで覆いがなくなれば、再び鏡は陽光に照らされ、この覆いがはくなるにつれて、鏡は照り輝く陽光を浴びるであろう。
         このように霊魂は、錆、即ち、罪に覆われており、この罪が煉獄の火によって徐々に焼き尽くされる。この錆が焼き尽くされればされるほど、煉獄の霊魂は彼等の真の太陽である神を徐々に完全に反射する(適合する)ようになる。彼等の歓喜は錆が落ちるにつれて増し加わるとともに、神の光線に自身を晒す。であるからその歓喜は時が充ちるまで(浄化が終わるまで)障碍(さまたげ)が少なくなるにつれて大きくなる。がしかし苦しみは減ぜず、苦しみの中にとどまっている期間だけが減じるのである。
         彼等の意志は、霊魂がもはや苦しみを苦しみとして認めることが出来ない限度まで全く神の命に満足し、神に對する純愛によって神の命と一致している。又一方、彼等の苦しみは非常なもので、もはやそれをいかなる言葉でも言い表せず、神が特別な寵愛によってそれを識らせ給うたのでなければ、いかなる知性を以ってしても、その苦しみの概念の片鱗すらもまとめることは出来ない。この苦しみの概念は、神の寵愛によって私に示されたものであるが、私にはこれを言い表すべき言葉がない。けれどもこれは、私の霊的視覚に残っていた。それで今出来るだけ、それを説明しよう。がしかし、主がその知性を啓き給うた者だけが、これを悟るのである。

        大聖テレジアの霊的報告

        2016.01.25 Monday

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          イエズスの聖テレジア(アビラの聖テレジア)の霊的報告 特殊な恵みについての報告

          18 ある日念祷をしておりますと、主は常ならぬ知的示現の中で、恵みの状態にある霊魂のありさまをお見せくださいました。その霊魂とともに、至聖三位が在し、この神聖な伴侶(とも)がその霊魂に全地に対する主権を与えておられるのを私は見ました。このとき、「私の愛する人はその庭に入り、かれの木の実を食べる」という雅歌の句(注1)の意味を悟りました。次いで主は、大罪の状態にある霊魂のありさまもお見せくださいました。その霊魂は、ちょうど、すっかり目隠しされ、しばり上げられ、つながれていて、どんなに努力しても、見ることも、歩くことも、聞くこともできず、深い闇に沈んでいる人のようで、無力そのものの状態にありました。私は、こんな状態にある霊魂が哀れでならず、ただひとりの人の霊魂でも、そこから救い出すためなら、どんな苦しみも重くはないように思いました。私がこのとき見たことは、大へん言い表しにくいことです。しかし、私がそれを見たと同じようにそのことがわかったなら、あんなにも大きな善を失って、これほど大きな悪の中に落ち込むことに同意する人は、一人もいないにちがいないと思います。(注2)
          一五七一年

          (注1)= 雅歌5・1。
          (注2)= 霊魂の城、第七の住居、第一章参照。


          49 また別の日のこと、ご聖体拝領の直後に、キリストの聖なる御体が、私たちの魂の中で、どのように聖父に受け入れられるかを悟るお恵みをいただきました。これは、この地上でのことです。主の聖なるご人性は、私たちの霊魂にお住みにならず、神性だけがおとどまりになっているからです。私は神の三つのペルソナがそこに在し、聖父は、私たちが聖父にその最愛の聖子をおささげするのをこのうえなく喜んでお受けになることを見、また悟りました。
           聖父はこのささげを、筆舌に尽くせないようなしかたでお受けになり、そのお返しとして、私たちを崇高なお恵みでお富ませになります。このほか、聖父は、祭壇上の犠牲を、それが大罪の状態にある司祭によってささげられる場合にも、お受け入れになることを悟りました。けれども、このばあい、司祭は恵みの状態にある霊魂が受ける恵みを受けられません。それは、天来の恵みがその力を失うからではなく、それを受けるべき人に心の準備ができていないからです。なぜなら、これらの恵みは、聖父がこのささげを受け入れられるというそのこと自体から生じるからです。太陽の光線が松脂に当たれば、ガラスに当たったときのように輝かないとしても、それは太陽が悪いからではありません。このことについていま私が述べた例によって私の考えをお分からせすることができたと思います。このことを知ることは大切です。ご聖体を拝領するとき、私たちの中には深い秘義があるのですから、このお恵みをたのしむのを、私たちの身体がこれほど邪魔するのは、残念なことです。
          一五七五年 セビリャにて