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2017.01.04 Wednesday

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    ミサ中の聖母

    2014.11.10 Monday

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       サンドロ・ニョッキ著『神さまの声が聞こえる おん父のすばらしいご計画』燦葉出版社より
      ミサ中の聖母 
       あの夜は静かに過ぎてゆきました。あの特別な夢がかなったなら何の変哲もない夜だったにちがいありません。あの夢は、つい今しがた見たかのように、私の思い出の中で変わることなく残っています。
       一人で教会にいた夢を私は見ました。祭壇で一人の司祭がミサを捧げていました。父なる神へのホスティアの奉献の部で聖体奉挙のところになったとき、天が開き、小さな階段が王座から祭壇へと続いていました。王座には神の母聖マリアが座っておられました。司祭の父なる神への奉献のところで、天の母は座席から立たれ、王座を離れられ、小さな階段を降り、祭壇の上でお辞儀をなされ、司祭の奉献を受けとられ、それを王座に持ち帰り、もっと高いところにおられた神のところへささげ物を高く差し出しました。このことは聖母マリアに気付かずに奉献をしている司祭の不足している考えによるものでした。
       もしあの司祭が、聖母のとりつぎをなくして神のみ前に現れるのはふさわしくないと考え、おん父におん子の奉献をささげるときになって天の母に依頼しようと考えたなら、その謙遜は聖母の王座まで上げられ、聖母がわざわざ階段を降りたりのぼったりする必要がなかったのだと私は気付いたのです。
       聖母マリアに助けを請わなかったので、あの司祭の祈りは、乏しい人間の水準のままで止どまり、当の神の母は、気を使わなくてはいけない破目になったのです。
       その司祭は、奉献しているイエズスの母への敬意を払う機会と、イエズスが司祭に、司祭の母親として聖母を与えた機会を無駄にしていまい、私はその司祭が気の毒に思われたのです。
       自分を下げるものは上げられる…ということもわかりました。聖母マリアの子供たちは、その子供の母親と一緒にいるようになっていて、もう低いところにはいないのです…でも自分を高くする人は低くされるでしょう。それは、すべての人に匹敵することなのです。法衣や任務や秘蹟は、神の前で謙遜にすることを免除はしません。もし神が一人のお母さんを私たちに与えることを考えてくださったのなら、このような配慮を無視してよいのでしょうか。この態度は、”聖母を自分の家に迎えた”使徒ヨハネの態度ではないのでしょうか。

      最も崇高な祈り

      2014.11.10 Monday

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         サンドロ・ニョッキ著『神さまの声が聞こえる おん父のすばらしいご計画』燦葉出版社より
        最も崇高な祈り
         あなた方にいま語ろうとしているエピソードでつづられた前編より短いこの後編を記すことを、私は大変うれしく思っております。
         この章は聖母マリアについてであり、神のみ旨にそってささげられる私たちの祈りに対する聖母の従順についてであります。
         ある日、私はミラノの聖キアラの修道院の礼拝堂で祈りをしていました。礼拝堂の中は人気がなく、窓のむこうにクララ会のシスターがちらほらと見受けられました。あたりは深く静まり返っていました。私はすぐに祈りに集中し、私の神にふさわしく誉め讃美し感謝したいという強い気持ちにあふれていました。
         私は自分の無力さを知っていました。いやそれ以下であり…私がふさわしくないものだということを知っていました。祈り、また祈り、どのようにして主にふさわしい祈りを差し出せるものかと考えていました。
         聖母マリアのなさる祈り以外は、神にふさわしい祈りはないのだという確かさが、もう一度私の頭の中によみがえってきました。
         自然と心から祈りが湧き出し、口をついて出てきました。
        「お母さん、讃美し、感謝し、ほめたたえます。イエズス、私のために祈ってください。」
         突然、心の目に、右側の祭壇の小さな段の一番上にある王座に、神の母である聖母マリアが座っておられるのが見えました。豪奢で華美で、それでいて飾り気のない衣装をまとっておられました。
         沈黙のまま座を立たれ、祭壇に通じる小さな階段を厳粛に降り、それからまたもう一度、礼拝堂のところまで降りて来られました。
         私は自分が礼拝堂の席にひざまずいているのを見て、驚いてしまいました。私が今までいたところから左の方へと移っていて、そこに私は立っていました。そこにはもう座席はなく(もしかしたら、一つか二つは前の方にあったのかもしれませんが)、礼拝堂のほかの場所には座席がありませんでした。
         はじめは霊的ヴィジョンのようなもので、物理的にもそれを見ていました。
         聖母は私の方へ進み、私のすぐそばまでおいでになりました。それから祭壇の方を向いてひざまずかれ、顔を地面すれすれにひれ伏し、ご聖体のイエズスを崇められました。
         私は初めの驚きのあとに、すぐさま説明のできないような当惑に襲われました。その気持ちは信じ難いほどふくらみ、私の中で聖母に何かしてさしあげたい気持ちが芽生えていました。聖母は今まで、私の願いを聴き届けておられました。私は一体聖母に何をすることができるのでしょう。聖母マリアをかかえ起こしたかったのですが、それもできませんでした。私も深々とお辞儀をして聖母マリアをまねてみたかったのです…。 何かの力が私をさえぎっていました…。 多分そこにいることが私の役割だったのかもしれません。私は聖母に早くそれを終えていただきたかったのですが、ひれ伏したままの聖母の崇拝は、その場所で続けられていました。
         聖母のなさっていることについて、聖母に尋ねることを心より私は躊躇していました…。しかしすべてが終わることを、とりあえず望んでいたのです。
         そのとき、聖母は神にふさわしい方法で、神に栄光を帰しているのだということがわかったのです。 天の高い場所で、おそれ多くも私は、神と聖母マリアの間にいて、この順列にまかせていました。神と聖母マリアとの間です。創造主の前でひれ伏しておられる聖母マリアは、大変ご自分を低くしておられ、私よりもずっと低くしておられたのです。
         そのとき味わった私の存在とは、どんなものであったか、どのようにそれを描写してよいか、わかりません。私は場違いの一匹のウジ虫のようなものでした。こういうことは私は経験したくはなかったのです。しかしそのとき、主は正義の方だと私は感じとっていました。
         あの従順と用意の整った服従は、私たちの祈りと、私たちの一つ一つの良い意向を聴き届けておられるのだということが、突然私は理解できたのです。
         あのときの気持や考えを、どのように説明してよいのか私には全く見当もつかないのです。ただ言えることは、そのとき、私は永遠だったような気がするのです。何という困惑。私は何という状況に入り込んでしまったのでしょう。
         今でもあのことを思い起こすとき、できごとは非常に短い時間の中でことごとく運んだのですが、何か際限のないできごととして私の中で持ち続けています。あれはどのくらいの時間を費やしたのか、私には知るよしもありませんが、私が座席のところにひざまずいていて、その忘れ難い体験が焼きついていることだけは、確かです。

        イエズスはルイザを教会へ連れてゆかれ、神に身を献げた人たちがイエズスにどのように接するかを見せる。

        2014.08.10 Sunday

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          ルイザ・ピッカレータの手記2『被造界の中の神の王国』(天使館刊)より
          イエズスはルイザを教会へ連れてゆかれ、神に身を献げた人たちがイエズスにどのように接するかを見せる。
          1899年4月16日
           私がいつもの状態でいると、イエズスは人びとが何をしているか見に行こうと言いました。
          「主よ、今朝は出歩いてあなたに対して人びとがさまざまな侮辱を与えるのを見る気などしません。二人でここにいましょう。」と私は言う。
           それでもイエズスは出かけようと言い張るので、主を納得させるために言いました。
           「出かけるなら、どこか教会へ行きましょう。 そこなら侮辱も受けないでしょう。」
           
           こうして私たちはとある教会の中に入って行きました。 けれどもそこですら侮辱は他の場所よりむしろ多いくらいでした。教会の中では、世の中よりもずっと多くの罪が犯されるというのではなくて、主の愛する、いわば身内の人びとが罪を犯しているからです。彼らこそ本当は、神の名誉と栄光を守るため身も心も献げてよい人びとだからです。それで、彼らからの侮辱は誉むべき主にとり、より痛いものに感じられるのです。
           そこには、いつもは敬虔なのにつまらない理由から、聖体拝領のための準備がよく出来ていない人たちがいました。その人たちは、イエズスのことを考えず、ちょっとした身体の不調とか、他のつまらないことに頭がいっているのです。イエズスはこのような魂を見てどれほどの痛みを感じたことでしょう。些事に気をとられ、イエズス様を一顧だにしないこうした人たちは、なんと哀れでしょう。イエズスは言います。
          「我が娘(こ)よ、この人たちは注がれようとする恵みをどれほど妨げているでしょう。私は他のことはともかく、近づいてくる者の愛の深さを見守っている。なのにその人たちは、愛にではなく、些事のほうに心を向けてしまう。普通、愛は些事をものともしない。でも些事があまりに多いと、愛は増えず、反対に減ってしまう。もっと困ったことに、その人たちは、時間をムダにする。とるに足りないことを話すために、聴罪司祭のもとに何時間もいたりする。それでいて雑事を一掃するための、勇気ある根本的な解決策の実行には取りかかろうとしないのです。
           それから、娘よ、最近のある司祭たちのことです。彼らは人びとのアイドルとなって、ほとんど悪霊の諸業を行っているとさえ言えます。おお、そうとも。私の息子たちこそもっと私の心を突き刺してくる。他の人たちは私を傷つけても、私の身体だけなのに、私の身内の息子たちは、もっとも繊細で感じやすい部分、つまり私の心臓のヒダまで傷つけるからです。」
           イエズスのみ心の張り裂けるような苦痛はとてもひどくて、話しながらも苦い涙を流していました。できる限りのことを私はしました。それからイエズスと共に十字架の上に退きました。