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2017.01.04 Wednesday

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    聖体拝領の真の意味 つづき

    2016.10.23 Sunday

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      … 悪魔は子供等から早くもその無邪気さを盗みたがっている事も、又、更に聖体拝領だけが、彼等を悪魔の罠から守る事が出来ると言う事も、我等の主はよく知っている。…初めて聖体を受けたばかりの子供の善意程、真面目なものは無いとは経験の証明する所である。その子供はイエズス・キリストを愛し、イエズスを自分のものにしたいと望んでいるのに、何故其の子供の望みを満足させないのか。子供の敬虔さを軽蔑する我等よりも、其の子供の方がイエズスを受けるにふさわしい者である。「幼児の我に来るを許せ、神の国は彼等のものなればなり」と、我等の主なる神キリストは言った。地上に在る神の国とは聖体である。「子供は軽卒である」と貴方は言う。誠に然りである。そして其故にこそ我々は彼等に度々受けさせねばならないのである。子供にとって一週間は一ヶ月である。その年頃では印象は生き生きとしてしるし、又敏速である。それ故にもし将来信仰の強い人にしたいと望むならば、度々キリスト教的印象を新たにする必要がある。「子供等は軽率である。」然り。そして彼等は善であり、愛情が深い。我々は彼等が必要とする愛情に適当なる養分を与えるべきである。彼等にイエズス・キリストを愛させるべきである。そのために度々子供等をイエズスに近づけよ。彼等の欠点は、それ程根強いものではない。そしてそのような欠点が、悪に成り果てる事から守ってくれるものは敬神である。
      カトリック信者の子供は、原則として初聖体後は、毎日曜日と祝日には聖体を受けるべきである。もし指導者、両親、或は教師が善意の欠けている証拠を見つけない限り又聖なる食卓から子供を遠ざける時には、余程慎重にしなければならぬ。何故なれば、堕落の危険が目近く、その母親の心を凍らせる危険は、聖体拝領のみによって効果的に防ぎ得るのであるから。貴方は子供を無邪気さと清浄さの中に保ちたいと念願しないであろうか。子供が度々拝領するように激励せよ。或は少なくとも指導者がそうするように勧めた時に、子供を妨げないように。間違った熱心から、如何に多くの両親が、知らず知らずに彼等の子供の堕落の最初の原因になることだろう。如何に多くの人々が彼等自身がひどく恐れている堕落の直接の原因、致命的原因であったであろう。貴方が子供のために恐るべきものは、度々受ける聖体ではなくて、反対に受ける事を怠ること、即ち聖体の秘蹟に対して望みを持たない事である。天主から遠ざかる子供のために、あらゆる物は恐ろしい。「然し我々は将来のために恐れる。最初は余り急がない方がよい。後戻りをする事は不愉快なことだ」と言うかも知れない。然し何故これ等の良き子供等が後戻りをしなければならないのか。何故彼等は天主を愛することを止めなければならないのか。若い時の熱が、後のキリスト教的生活の最もよき保証ではないか。もし我が子が、将来悪に対して強いようにと望むならば、今からでも子供がすべての力の源なる聖体から、沢山の力と勇気とを引き出すのを許せ。子供がすべての貞節の基礎の上に自らを親密に結びつけようとするのを許せ。子供の現在の敬神を以て、その将来の敬神の真剣さを計る事が出来るであろう。こうして保たれた無邪気さは、貴方のため、子供自身のために、清浄な青年期の曙光となるであろう。もしも聖体拝領したにも拘らず、青年期が堕落を避け得ないと言う事が度々起るならば、もし彼等が清き人を作るパンを取り上げられるならば、その結果は果たしてどうであろうか。
      初期の教会では、子供等も大人と同様に、毎日聖体拝領を許されていた。彼等はイエズス・キリストの秘蹟から、キリスト教生活の活力、信仰の祈と熱の清き精神を引き出すのが常であった。そのような力、そのような精神は十才、十二才、十五才を越えないような聖人や殉教者を教会に与えたのであった。天主の御手は不足してはいない。同じ方法は我々の時代に於いても同じ効果を結ぶであろう。そして子供に与えられた聖体拝領は、今も尚彼等の中に成聖の目を生ずるのである。或両親は言う「我々は結局子供が余り敬虔になり過ぎて遂に司祭になり、天主に身を捧げることを望むのを恐れる」と。それでは敬虔と召命とは同じことであろうか。召命を恐れる事は、カトリック信者の両親にとっては、非常に奇怪な意向であろう。何故ならは、天主に一身を捧げることは「最高の生活状態」であり、全家族に対する特別の恵みである。然し敬虔を恐れる事は、全く馬鹿々々しい。敬虔とは唯一の真の喜悦、唯一の真の幸福である。敬虔はすべての事柄に有益である。現在及び未来の生活に希望をもたらすのである。人は敬虔すぎる事はない。何故ならば、良すぎると言う事は決してないから。そのような馬鹿々々しい見解のために如何に多くの子供等が堕落した事であろう。自分の心を自ら開き、キリスト教的生活に自ら着手しようとする宗教的自由を子供等に与えよ。我々はそれを強制できないと同様、制限する権利を持たない。特に秘蹟の問題が有る時は尚更の事である。子供等を教え導け。彼等の無経験を注意深く指導せよ。然し結局我々の指導は全面的にカトリック的であらねばならず、良心の自由を妨げるような事があってはならぬ。そのような権利の濫用によって、我々は魂をゆがめ、知らず知らずのうちに、彼等に対する天主の計画の邪魔をする事になる。それ故に、度々聖体を拝領する事は、子供にも必要である。もしも強い世紀を作りたいと思うならば、子供等に度々聖体を受けさせるようにせねばならぬ。聖体のみが聖人を作り得るのである。
      私が子供に就いて述べた事は、更に強く十六才頃から二十才頃の青年等に適用される。この危険な年齢では、情熱に対する戦いが、世界の堕落した実例や幾千の外的困難のために、もっと危険になるのである。聖フィリッポ・ネリは生涯をかけて、ローマの青年の浄化に努めた。聖人の証言は、天使的成聖と特別の経験との二重の重さを持っていた。この聖人は次のように言った。「聖マリアに対する献身につけ加えて、度々聖体を拝領する事は、青年が善良な道徳と信仰の生活を保つために、又、堕落から起ち上がり、弱さの中の自分を強くするために、最上とは言わないが、唯一の方法である」と。…純潔は聖体拝領なくしては不可能である。青年を地上に於いて最も魅力的に、最も愛すべきものとする力と、すべての頼もしい徳は、更に不可能である。もし度々聖体を受ける事が盛であるならば、どんなに素晴らしい変化が我々の学校の中に起ることであろう。胸を悪くするような不道徳の代わりに、又、道徳を腐敗させるよりも有害なる無関心の代わりに、我々は若い人々が自然的に昔あったように生々とし、愛すべくして精神と愛徳の賜によって特別立派な姿を、又、教会や国家の偉大な人物に譲歩する謙遜な姿を見るであろう。何事もキリストから離れる時には凋(しぼ)んでしまう。又神性なるキリストの接触によらなければ、何事も生き生きと咲く事は出来ない。経験の示す所によれば、そのような事が聖体拝領の若い人々に及ぼす影響である。秘蹟を規則的に受ける事によって、根絶出来ないような悪は存在しないし、それがなす事の出来ないような変化はないのである。…
      イエズスのみが涙を乾かし、或は少なくとも其痛みを軽く為し得る。我々の心が、苦悩によって打ち砕かれる時、彼のみがそれを回復して平和と望と、全く超自然的な内的歓喜に到らしめる事が出来るのである。カトリック信者のみが、その歓喜を知っている。そして其歓喜は悲哀とよく調和するものである。或カトリック信者は苦悶と苦悩の中にいるかも知れない。然し彼は不幸である事は出来ない。或時、ひとり子を失った母親が静かに言った。「私は泣き悲しむ。けれども私は満足している。」 彼女は毎日聖体拝領をしていたのであった。
      イエズスの中に我々は永遠性を見出す。天国を見出す。我等の異郷の旅が余りにつらい時に、生活が余りに耐え難い時に、イエズスの許へ行かねばならぬ。その秘蹟を受けに行かねばならぬ。それは我等に地上を、試練を、十字架を、戦いを、不正を忘れさせる唯一の手段である。イエズス・キリストは自ら苦しみ、又苦しみが如何に我等の魂に益する所があるかを教え、且つ彼は我等の苦悩を取り去り、その代わりに彼の平和、彼の力を与えて下さるのである。我々は病に苦しむ時、彼に依り頼もう。彼こそは最上の医者である。そして彼の訪問は同時に我等の肉体を慰め、我等の心に歓喜をもたらすであろう。…もし貴方が回復すれば、聖体を受ける事は、貴方の苦しみの日々を成聖の日々とするに違いない。そして、それは貴方の未来の生活に、大きな影響を与えるであろう。もし回復しないならば、貴方は立派に終油の秘蹟を受け、永遠の天主の前に、愛によって全く浄められて現われるように準備が出来ているであろう。…
      聖フランシスコ・サレジオは言う「フィロテアよ、度々聖体を拝領せよ、貴方の霊的指導者の忠告に従って、出来るだけ度々。この神聖なる秘蹟の中で、美・善及び純潔に度々憧れて生きることによって、貴女は更に美しく、善良に且清らかになるであろう」と。

       

      『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊より抜粋

      聖体拝領の真の意味

      2016.10.23 Sunday

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        『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊

         

        聖体拝領の真の意味の表紙

         

        … それでは聖体拝領の真の目的、即ち目指すところは何であろうか? 外ではない、我等の霊魂が恒に清らかで生々として天主と結ばれている其の状態を持ちつづける事である。我等のうちに霊的そして内的生命を保つ事、我等を人生の闘いに於いて気絶しないように守ること、洗禮と堅振とによって、天主から授かった聖寵を失わないように守ることである。
        従って、聖体の秘蹟の特別の恵みは、養育と保存の恵みなのである。我等の主は聖体に就いてこう言っている。即ち「我等は聖体拝領を通してのみ、キリスト教的生活を為し得る」と。「誠に實に汝等に告ぐ、汝等人の子の肉を食せず其血を飲まずば、汝等の衷(うち)に生命を有せざるべし。」(ヨハネ六ノ五四) カトリック信者として天主と一致しているには、我等は聖体拝領に依らなければならない。体に対して言えることは、魂に対しても同じく言える。我等は食べないでは生きる事が出来ない。食物は生命を与えないが、生命を支え、我等が健康と呼ぶ活力を与える。ここで肉身は全く霊魂のシンボルとなっている。霊魂も又、其生命を持っている。それはイエズス・キリストを通して天主と一致する事によって生ずる。そしてこの一致が聖寵と呼ばれるのである。それを養うために食物がいる。その食物が即ち聖体に在すイエズスなのである。イエズスはこう言っている。「我は生命のパンなり。汝等の先祖は、荒野にマンナを食して死せしが、是は天より降るパンにして、人是を食せば死せざらんためなり。(ヨハネ六ノ四八—五〇) 蓋し我が肉は實に食物なり。我血は實に飲物なり。我肉を食し我血を飲む人は我に止り、我も亦是に止る」と。(ヨハネ六ノ五六・五七) 食物なくして肉身を生かして置けないと同様、聖体拝領なくして聖寵を霊魂に留めて置くことは出来ない。肉身の力と健康が食物に依ると同様、霊魂の生聖及びその活力は聖体拝領に依るのである。聖体拝領は、これをよく理解するなら、既にもっている聖寵に対する報酬ではなく、むしろそれは、聖寵を増加する手段である。それは唯手段に過ぎない。肉身を養うことも是と同様である。我等は強いから食べるのでなく、強さを保つために、或は強くなるために食べるのである。そして肉体的養育が肉体的生命のために習慣として度々繰返されると同様、カトリック信者の生活に於いて聖体拝領は極く習慣的なものとならねばならない。
        これがカトリック教育が我等に与える聖体の真の目的である。其れが為にトレント会議は、あらゆるキリスト教時代と、教会のあらゆる教父等の証言を引用して、次のような希望を正式に述べた。即ち「最も聖なる犠牲の實を一層多く刈り取るために、精神的に聖体を拝領する事に満足せず、信者は毎日実際に聖体拝領をして欲しい」と。これが真理であり、天主の御意である。これが教会の誤りなき声を通して、天主が我等に与える規則である。各人は此真理を肝に銘じ、もし必要ならば、決して誤り得ないこの判断を以て、自己の意見を正さねばならぬ。
        立派に聖体を拝領するためには、或程度の成聖を備えてをらねばならないと言うのは本当である。然し此成聖とは何であろうか。これは偉大なる聖人や殉教者の持つ完全さであろうか。決してそうではない。其れに必要な成聖は、貴方の手の届く所、すべてのカトリック信者の手の届く所にある。これは唯、罪をさけ、忠実に天主に仕えると言う真面目な意志を持つ聖寵の状態のことである。この状態は極く基本的な事であはないだろうか。貴方は天主がこれをせつに望んでいると言う事を感じないであろうか。天主は実際それを貴方に望んで居られる。即ち、これなくしては誰も真のカトリック信者なり得ないと仰せになる。大罪の状態にあって、悪を喜ぶ人は一体如何なる種類のカトリック信者であろうか。
        立派な聖体拝領のために、我等の主は、唯貴方が真のカトリック信者であること、真面目な善意によって、天主の方へ導かれることを望んでいる。貴方は此意志を持っているであろうか。良心に答えさせて見よ。もし持っていないならば、其れを求めねばならない。さもなければ、地獄は貴方のために勝利を得るであろう。もし持っているならば、何故それを強くし、増すために聖体を拝領しないのか。それは明瞭で然も答えにくい問題である。同じ事を偉大なる聖会博士大司教聖ヨハネ・クリゾストムがコンスタンティノープリの信者に向って呼びかけている。彼は言う。「貴方は天主の恩寵の中にあるか、又はないかの何れかである。もしあるならば、何故聖体拝領をしないのか。聖体拝領は貴方の聖寵を保つために定められたのである。もし罪の状態にあるならば、何故立派な告解によって心を清め、聖なる拝領台に近づいて再び罪におち入らぬように力をうけないのか?」と。もし貴方が天主に近づくためにふさわしい者になるまで待たねばならないならば、拝領するものは一人もいないであろう。聖アムブロジオは言っている。「もし毎日あずかるのにふさわしくないならば、その人は一年間で果たしてふさわしくなるであろうか」と。…教会は貴方も、又他の誰でも、共にふさわしくないのを知っている。其が為に教会はすべての教会の子供に、すべての司祭に又司教にさえも、聖体拝領の前に斯う言わせる。而も一度ではなく三度までも「主よ、我は不肖にして主をわが家(や)に迎え奉るに堪えず」と。教会は貴方が聖体を拝領するにふさわしい者であるから拝領させるのではなくして、貴方を最も聖にして寛大なる主に出来るだけふさわしい者とするために必要であるからである。教会が度々あるかるように勧めるのは、貴方が聖であるからでなく、貴方がそうなるべきであるからである。貴方が強いからでなく、弱くて、不完全で、悪に傾き、誘われやすく、罪におちいりやすいからである。…
        四世紀のある敬虔な博士は、度々聖体を受ける者と、稀にしか受けない者と、どちらが一層謙遜であるかと自問自答して見た。其の答えは正しく次の通りであった。即ち「イエズス・キリストを度々受ける者は、より謙遜である。何故ならば、それは彼が自分のみじめさをよりよく知り、それをなおす必要を一層強く感じているしるしであるからである」と。貴方は度々受ければ受ける程、ますます受けるにふさわしい者となるであろう。…
        聖アルフォンソは言った。「数少なく聖体を拝領した方が、もっと多くの信心を経験すると言う考えによってだまされてはいけない。事実稀にしか食べない人は、より偉大なる食欲を以て食べるが、規則正しく食事をする人のように強くなる事は出来ない。もし貴方が稀にしか拝領しないならば、貴方は恐らくもう少し感覚的な信心を持つであろうが、聖体拝領によってそれ程益する事も無いであろう。何となれば、貴方の心は多くの過失を避ける力に不足しているから」と。従ってほんの少しばかりの感覚的な信心に就いて考えるのは止めて、一層高い見地から敬神に就いて考えよ。聖体拝領の中にイエズスの真の実際的な愛を求めよ。そうすれば、それを貴方は何時でも発見するであろう。…
        教会は度々拝領するように勧める。もし出来るならば、毎日でも。然しその度毎に告白する義務が有るとは言わない。トレント会議によれば、我等が聖体拝領の前に告白する義務が有るのは唯「我等が大罪を犯した時」である。秘蹟に度々近づいているカトリック信者の魂は稀にしか大罪を犯さない。人間の弱さ故に普通に陥る余り重くない罪、即ち小罪に関して、確かに信仰は我等にこう教えてくれる。即ち「天主の愛を真面目に実行する事に依って、又痛悔によって、小罪を充分に消す事が出来る」と。そして此罪の赦しをもっと容易にするために、教会は準秘蹟と言って、我等の良心を浄化する最も簡単な方法を定めた。即ち聖水を以て十字架を印すこと、主祷文・告白の祈等である。
        前回の告白以来犯したいくつかの小罪の為に、貴方が聖体拝領を躊躇するならば、カトリック教会の偉大なる声は「聖体拝領は大罪を防ぎ、小罪を消す」と宣言すると言うトレント会議に耳を傾ければほい。
        これをよく理解せよ。告解でなく聖体拝領が日々の過失を消すために定められたのである。火が藁を燃やし尽くすように、聖体拝領は過失をすっかり食いつくしてしまう。火は石や鉄をなくするものではない。大罪は石や鉄のようなもので、告白の鉄槌によってのみ打ち砕かれる。藁は如何に我等の良心が真面目であろうとも、我等が日々犯す軽い過失を意味する。恐れず、喜びを以て聖体を拝領せよ。貴方は度々或は毎日でも聖体を拝領して、我等のよき主をもう決して困らせはしないと信じて安心せよ。…
        もし貴方が毎日よき聖なる生活をしているならば、貴方は常に充分聖体拝領の準備をしているのである。パッツィの聖マリア・マグダレナは、或朝修道院の為に自分の労働を捧げていた。心は祭壇の前にあった。彼女は何も心の準備はしなかったが、愛に燃え、両手にくっついた生パンにさえ気がつかずに、イエズスを受ける為に聖堂へ行ったのである。又カルメル山の修道女等の目上であった聖女は、彼女等に向って斯う言うのが常であった。「貴方達が為すすべての事を天主に捧げて下さい。天主を喜ばせる為に、すべての行いをすること。そうすれば、貴方達は恐れないで拝領台に近寄る事が出来るでせう」と。聖アルフォンソは斯う付け加えている。「何か善い仕事のために、或は国家の任務の為に、準備の時間が無いからと言ってそれを理由に聖体拝領をやめてはいけない。無駄な会話を避けるように、延期をよぎなくするすべての仕事を避けるように、唯注意しなさい。」…
        聖ペトロは奇蹟的な位置網によって、彼のボートに入った御方の神聖さと、威風とを知った時に、自分の身をイエズスの足下に投げ出して言った。「我は罪人なれば、我より遠ざかり給え」と。自愛深き主は「おそるる事勿れ」と答えた。(ルカ五ノ八) 貴方も恐れてはならない。貴方の心は天主のためであり、貴方は天主に忠実に仕えたいと望んでいる。天主はもうそれ以上の何物をも貴方に要求しないし、貴方の煩悶も貴方を身捨てず、却って貴方をへり下せるに相違いない。大概、確かにそのような煩悶は、頑固なものではなく、又貴方から聖体拝領の効果を奪いはしない。良い意志の有る所に、善い聖体拝領も有る。乾燥や嫌悪に会い、感覚的慰安の不足、なやましい煩悶等の為に、聖人等でさえ貴方のように苦しんだのであった。聖ヴィンセンシオ・デ・パウロは、信徳誦さえも誦えられないような、精神的乾燥の状態に二年間暮らした。悪魔が彼の煩悶の状態を利用して、烈しい誘惑を以て彼を悩ました時、哀れな聖人は、自分が其目的の為に書いて置いたクレド(信条)を心臓の上に置いて、僧服(スータン)に縫いつけ、断然我等の主に一致したのであった。彼が手を紙にふれる時は、何時でも、それは彼が最早なし得なかった敬神の行為と、等しいものであったに違いない。彼は自分の信仰に何の感動もなく、毎日ミサを立て、彼の精神的訓練を継続した。私は貴方に聞きたい。「聖ヴィンセンシオの聖体拝領は善かったであろうか?」と。…聖テレザに依れば、そのような愁嘆きの状態にある魂にとって、度々聖体拝領をする事より善い薬は無いのである。…
        聖体は天主の愛の源である。冷たいと貴方が感ずれば感ずる程、それ程貴方は熱の源に引かされるのである。…貴方が普通の食事をしている時でさえも、弱っていると感ずるならば、そのような時に何も食べなかったり、又は殆ど食べなかったらどうなるであろうか、弱るより先に、貴方は先ず飢えて了うであろう。もし、貴方が強き者のパンを食べないなら、貴方の弱さは十倍も増し、今貴方がしているように、小さな過失に就いて嘆くどころではなく、深刻なる過失即ち大罪に就いて嘆かねばならぬであろう。「私は毎日罪を犯す。毎日犯す故に薬が必要である」と言う聖アムブロジオの言葉を、聖トマス・アクィナスが引用している。ローマの聖フランシスが聖体拝領後、ほんの僅かしか進歩しない事を不安に感じた時に、聖マリアは彼女に理解させるために、やさしい愛情をこめて斯う言った。「我が子よ、貴女が犯した過失のために、聖なるテーブルから遠ざかってはならない。反対にその過失こそ貴女を度々聖なる食卓に導くべきである。何故ならば、祭壇の最も聖なる秘蹟のうちに貴女のすべてのみじめさに対する薬があるのだから」と。…
        毎日の聖体拝領は、彼らに罪をまぬかれしめなかったが、成聖の道に於いて彼等を大いに助け、多くの大いなる欠点から救った。又彼等の中の多くの者を、無数の徳で飾った。それは又、貴方にとっても同様である。…貴方は度々聖体を拝領すれば、貴方を知っている人々の躓きとなるのが恐ろしいとでも言うかも知れない。…それでは何が度々聖体を拝領する人に就いての躓きの原因となっているのだろうか。それは聖体拝領ではなく、度々聖体を拝領するにも拘らず、自分の悪の傾向を止めもせず、宗教的実践に生きるのを怠る事である。それは譬えば、短気な行い、不貞節、貪食、自分の健康や慰安等に就いて余りに詳細に気を配る事等である。これ等は最早欠点の域を越える数多くの過失であり、又これ有るが故に、自らの成聖を配慮する良心の注意を集める事が出来ないのである。もしも貴方がこの点で罪が有るとすれば、それを天主は禁じ給うのであるから、貴方は直ちにこの甚だしい悪を効果的になおすべきである。貴方は聖体拝領を止めるべきではない。生活をもって清くもつと我等の救主イエズス・キリストにふさわしくするために、貴方自身をふるい立たせるべきである。…
        聖体拝領はすべての聖寵、平和および善良の源である。もし貴方が度々よく拝領するならば、短期間でより善くなる事が出来るであろう。…
        一方私は本当に敬虔でない人が、度々聖体拝領すると云うのを見たことさえない。何故ならば、単に規則的な生活を送る人を我々は敬虔であるとは言わないし、又、規則的である事は敬虔なことでもない。何故ならば、規則的生活とは、天主の法律を守り、教会の法を守り、主日と祝日とにミサに与り、宗教を尊敬し、正しい生活をしている事で充分であるから、敬虔であるためにはより高く行って、イエズス・キリストの愛のうちに住まねばならぬ。一度敬虔の道に入れば、カトリック信者はもはや単に教を守る事だけでは満足出来ない。信者はその上に福音の教、自己否定、内的回想、霊魂の救いに対する奮発、キリスト教的成聖を作るすべての美しい徳を実行に移すのに一生懸命になる。義務と言うよりも愛によって行動するのである。貴方は天主への奉仕を重い軛とするのではなく、優しい子供のような感情で生きいきとさせた多くの人々を知っているであろうか。教会は敬神の根本的行為として、我々に聖体拝領を公表しているのであるから、原因がなくて結果が有れば、これは前代未聞である。経験がそれを示している。よい食物なくして立派な申し分のない健康を持つ事よりも、度々聖体拝領をせずに敬虔である事はより不可能なことである。
        聴罪者、或はもっと正確に云えば、霊的指導者は、キリスト教的完全さに向って我等を導き、助言を与える神父である。我々は指導者をえらぶ義務が有るのではない。然し敬虔の道に於いて聖なる経験の有る神父によって導いて戴く事より以上に賢明で、カトリック的実践に、より適ったものはないのである。…
        教会の真の精神を汲んでいるすべての聖人のような神父達は、度々聖体を拝領する事を好む。そしてこれに就いて、彼等は単に教会が公表する一般的規則を適用するだけである。なぜならば、事実我々は、聖体拝領の規則に関しては自由ではない。この題目に就いて、我々は霊魂の指導者に従わねばならない詳細な規則を持っている。又我々がその規則を放置するならば、それは義務を大いに妨害する罪となるのである。教会はそのような規則を有名な「公教要理」にまとめた。それはトレントの公教要理として知られ、教皇ピオ五世の指導により、トレント公会議の命によって出版されたものである。トレント公会議の公教要理は、次の如く宣べている。主任司祭は、必ず教会信者が度々又は毎日でも聖体拝領をするように努力すべきこと、何故なれば、肉体と同様、霊魂も毎日滋養分を与えられねばならないから。これが司祭及び公会議の教義である。
        敬虔なるブロアのルイは言う。「或日、我等の主は、他人に度々聖体拝領する事をやめさせた人達に就いて次の如く歎かれた。〝我がよろこびは人の子等と共に在る事である彼等のためにこそ祭壇の秘蹟は定められたのである。霊魂が我を受けるのを妨げる者は、我が歓喜を減らす者である〟」と。又聖フランシスコ・サレジオ及び聖テレジアによって非常に高く評価されていた敬虔なるアヴィラの神父は「度々聖体拝領をすることに欠点を見出す者は、聖体の秘蹟を最も強く憎む悪魔の役割を演ずるものである」と常に言っていた。コルトナの聖マーガレットの指導者は、常に彼女が度々聖体拝領をするように大いに激励した。彼が死んだ時、我等の主は彼女に、この善き司祭は彼女が聖体の秘蹟に近づくのを容易ならしめた其愛徳により、天国に於いて多くの報酬を受けたと言う事を示されたのであった。又イエズス会の聖アントニー・トレスと言う聖なる修道者の生涯の中で、我々は次のような事を読むのである。「彼が痛悔者に向って度々聖体を拝領するように勧めたために、天国に於いて彼の栄誉は大いに増した」と。絶えず自らの職務のために、教会の指示に従う事を目的とする司祭は幸福である。又そのような人生の案内者を以て、天主が自らの善意によって祝福する霊魂は幸である。…
        カトリック教会が勧める事は大げさでも不可能でもない。教会は天主に対する拝礼の真理を我等に与える。我々が教会に耳を傾けるならば、我々は、イエズス・キリストに耳を傾けているのである。教会の教訓を軽んずれば、天主の光を軽んずるものである。カトリック信者が、天主の権威に就いて余り考えようとしないのを見る事は不思議である。貴方の信仰を堅くし、又其のすべての実際的な結合を堅くせよ。イエズスが教会を通じて貴方に語り給うたのだ、と貴方は信じ、又知っている。唯耳を傾け、イエズスを認めるだけで満足してはならぬ。思う存分にイエズスの教えを実行せよ。真理を望まない人には、つぶやかせておけばよい。彼等が聖体の秘蹟に対して尊敬を払うために、どんな事をしているかを彼等に示させよ。…「汝等常に主に於いて喜べ。我は重ねて言う、喜べ。」(フィリッピ四ノ四)そしてイエズスのために生きることを望み、イエズスを以て自らを養え。

         

         

         

         

         

         

        ビンゲンの聖ヒルデガルド

        2016.09.20 Tuesday

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          『ビンゲンのヒルデガルドの世界 種村季弘著 青土社発行

           

          1:十字軍と幻視者

           

          …  彼女は見た。けれども地上の眼で見たのではなかった。天上の視(ヴィジョン)においてしか見えない「天上のヴィジョン」を見たのである。彼女は見た、「一つのいとも大いなる輝きを。そこから天上の声がとどろき渡った。」
           声は告知した。
          「か弱き人間よ、灰の灰、黴(かび)の黴よ、汝の見るもの聞くものを言え、また書け! されど目にしたものを述べるのに、汝は(聖書)解釈の素養もなく、無学にして、語ることを恥じているのであるからして、人間の語り方によらずして、すなわち人間的作為の認識にも人間的解釈の意志にもよらずして、天上のヴィジョンにおいて汝に与えられた天分により言い書くがよい。どのように神の奇蹟においてそれを見かつ聞いたかを。さながらおのが師のことばに耳かたむけ、師の思い望む通りに、師の指し指示する通りに、それをまるごと伝える聞き手であるかのように、語るがよい。されば汝もまたそのようにせよ!汝の見かつ聞くものを、汝の好むようにでも、だれか他の人間の好むようにでもなく、すべてを知り、すべてを見、そのひそやかな決断の隠された深みにおいてすべてを秩序づける存在の意志にしたがって言え、また書け。」
           天上の声の告知している相手は、「無学」で単純なヒルデガルドという女性である。「無学」とは、とりあえずラテン語をこなさないという意味であろうが、それだけではない。スコラ学と聖書解釈学の正則を身につけた当時一般の教養とは無縁の、身分こそ修道女であるとはいえ一介の女性にすぎないという意味で「無学」なのである。にもかかわらずその彼女に突如として「聖書の、(旧約)詩篇の、福音書の、旧新約聖書を論じた他のカトリック文書の意味がひらめくように明らかになった。」
          ということは、この聖書解釈や神学文書理解が聖職者の通例の研鑽の成果ではないかということである。与えられた聖職者教育コースをこなした結果の認識ではなかった。告知を受けた側としてこの正規の道を通らないで得た啓示の例外性を、彼女はふたたび自分の「無学」を強調しながら告白する。「けれどもだからといって私は、これらのテクストの語義も、分綴法も、(文法法)文例も、時称も習得することはなかった。」
           ヒルデガルドのこの告白は明らかに、当時としてはまことに危険だった。教会の指定する神学的教養の道を通らずに、我流で直接(じか)に神を見たという。しかしかりに彼女の開発した見神技術が公認されるとすれば、中世の神学体系はその場から無用の長物となり、ついには否定されることになりかねない。つまりは教権体制にさからう異端である。事実ヒルデガルドは久しい間異端の疑いにさらされる。クレルヴォーのベルナールやエウゲニウス教皇の後援を得た後も、すくなくとも教権制度の傘下にある聖職者の大多数を敵に回さなくてはならないだろう。当時の聖職者たちの常套化したあり方を当てこすった「人間的認識の作為」や「人間的解釈の意志」に「無学」の「天上のヴィジョン」を対置させ、教権制度の停滞ないし腐敗をほのめかす彼女の戦略は、ことほどさように当初から由々しい危険をはらんでいたのである。
           危険は百も承知だった。だからこそむき出しの幻視をフォルマール修道士の「校正」という隠れ蓑にくるんだ。公開の時期にも慎重を期した。幻視の書は着手してから完成までに十年の歳月を要した。
           それも1141年の執筆開始から数えての韜晦(とうかい)の期間である。彼女の幻視力はしかし1141年に突然はじまったわけではない。それ以前の数十年に及ぶ沈黙の期間があった。序文には少女時代にはじまる幻視癖のことが回顧されている。
          「隠された奇蹟の眼の力と神秘を私がみずからの内面にまことにふしぎにも体験したのは幼年時代からのことだった。すなわち五歳の時以来のことで、それがいまに至るも変わらない。しかし私は、私と同じように修道院生活のなかに生きているごく少数の人たちを除くなら、だれにもそのことを言わなかった。神がその恩寵を通じて公開を望み給うた今日に至るまで、一切を沈黙をもって覆ったのである。」
           五歳の時に何を見たのか、ここでは具体的には言及されていない。それに、後年になってゴットフリート/テオードリヒ両修道士のまとめた『自伝』によるなら、幻視体験は五歳ではなくて早くも三歳の時にさかのぼるらしい。
           「三歳の時に私は魂の高揚するような大きな光を見た。けれども子供だったので、そのことを口外できなかった…五歳になるまでいろいろのものを見、なかにはそのまま素直に人に話したものもあるが、話を聞いた人たちは、それがどこから来て、だれに教わったのかと訝(いぶか)った。」
           人が訝るようにどんな体験があったのだろうか。やがて巷間に流布された少女ヒルデガルドをめぐるいくつかの伝説のなかにそれらしいものがある。
           五歳の時に彼女は故郷の牧草地で別の女の子と遊んでいた。ヒルデガルドが突然言った。
          「ほら、あそこに仔牛が一頭いるわ。なんてきれいなんでしょう。頭から爪先まで真っ白、でも頭と脚のところだけは斑点があって…ああ、背中にもいくらか黒いところがあるわ!」
           遊び友達の女の子がそちらを見ると仔牛などどこにもいない。するとヒルデガルドが一頭の孕んだ牝牛を指して言った。「だってそこにいるじゃない!」遊び友達の女の子は家に帰るとヒルデガルドの奇妙な「作り話」を母親に言いつけた。ところが牝牛が仔牛を産んでみると、斑のありかは正確に彼女の言い当てた箇所にあった。ヒルデガルドには、まだこの世に出ていない胎内の仔牛がありありと見えていたのだ。

           


            1095年、教皇ウルバヌス二世は全ヨーロッパのキリスト教徒に聖地イェルサレムの奪回を呼びかけた。これが十四世紀にいたるまでくり返し行われた十字軍遠征の端緒となる。当時トルコの支配下にあった聖墓所在地イェルサレムの奪回が、この行動のさしあたっての目標であることはいうまでもない。
           ウルバヌス二世の呼びかけは、ヨーロッパ全土に未曾有の反響を呼び起こした。あらゆる階層の出身者からなる何万人にもおよぶ男たちが、なかには国家や君主に命じられたわけでもないので、たちまちにして十字誓願に応じた。妻子を置き去りにし、家財産を捨てて、勇躍、冒険的な遠征に旅立ったのである。騎士の指導者に率いられたものもいた。なかには掠奪目当てのごろつきとして未組織の群れをなすものもいた。いずれも重い木の十字架を担ぎ、あるいは象徴的に布製の十字の徽章だけを肩につけて、生還のおぼつかない長期の旅路に出立した。目的地に到達する前に落命したものは数知れない。…

            一方、聖地における最初期十字軍の勝利もつかの間だった。およそ半世紀後の1140年代には、十字軍の成果と東方におけるその支配地はほぼ壊滅している。ふり返ってみれば十字軍とは、無数の兵士の死と巨額の経済的損失を後にのこす暴挙にほかならなかったのである。精神的虚脱とやり場をうしなった暴力衝動はヨーロッパに逆流してくる。さなきだに中世世界では小諸侯間の私闘や掠奪は日常茶飯事である。掠奪対象としては僧院でさえ例外ではなかったのである。
           ヴィジョン公開に踏み切るまでのヒルデガルドの半生には、ざっと以上のような恐怖と暴力が外界に荒れ狂っている。山上のディジボーデンベルク修道院はたしかに静寂と沈黙のうちに閉ざされていた。外界から侵入してくるものはなく、こちらからも出てゆかない。それはしかし、兵士やならず者が奇蹟的にここを素通りしたというかぎりでのつかの間の楽園にすぎず、いったん彼らの泥足が踏み込んでくればひとたまりもなかったのである。
           十二世紀の僧院はいわば丸腰だった。暴力に対する自前のいかなる防御策も持たなかった。当然のことながら、切り取り強盗がいつ襲ってきてもふしぎのない状況のなかで、軍事的防御策を講じない僧院は存続を危ぶまれた。そこで多くの僧院が世俗の僧院管理人(Vogt)と契約する。僧院管理人は一定の契約金と引き換えに、僧院の外部にある寺領地管理と軍事的保護を請負った。
           建前はそうでも、この保護者はやがて強者の地位を乱用するにいたる。僧院が僧院管理人を保護者に指定するというより、僧院管理人が僧院を管理の傘下に指定するのが、もっぱらの実情になる。多くの寺領地がこうして僧院管理人の手に掌握された。僧院機構全体のなかで主人としてふる舞うのは、もはや僧侶ではなく、むしろしばしば世俗の僧院管理人なのだ。そのうえ僧院管理人職は家職として引き継がれる場合がすくなくない。僧院の自立性はうしなわれ、いよいよ悪代官(Vogt)がはびこる。専横な保護者がイヤでも、外敵から身を守るには悪名高い僧院管理人に依存するほかなかった。げんにディジボーデンベルク修道院も、ヒルデガルドが同院を離れてからのことではあるが、1154年に世俗の管理人と契約を結んでいる。
           後にヒルデガルドが創設する(1143年)ルーペルツベルク女子修道院はしかし例外的に僧院管理人と契約しなかった。諸侯の庇護ももとめなかった。あらゆる世俗的権力の上にあるものと直接(じか)に交渉した。神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサに請うて、皇帝の万能の「保護状」を手中にするのである。ヴィジョンは神から垂直に、世俗的保護もまた皇帝から垂直に、中間的媒介者なしに受容した。…

           

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          「生命の始祖」のヴィジョン

          世界は滅びても 愛は消えることなし

          2016.09.19 Monday

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            『世界は滅びても 愛は消えることなし』 安田貞治著  エンデルレ書店

            第四章 アヴェ・マリアより

             

            空の鳥を見よ。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は彼らを養われる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。(マタイ6・26)

             

             今日、わたしたちは慌ただしい生活の中で、毎日何らかの心配や心づかいをもって生きているようです。政治にたずさわる人たちは、国際情勢や国内の動きに思いをはせ、商売や事業をしている人びとは、それらの繁栄について心づかいをしていることでしょう。また家庭の主婦たちにとっては、毎日の生活と子どもの養育や教育のことで、思い煩うことが多いに違いありません。老人には老いゆく者としての寂しさがあり、青年は青年、若い娘は娘なりに、それぞれの悩みをもって生きているのでしょう。
             こうしてみると、人間というものは、かくも心配や心づかいに責められ、かくも悩まなければ生きて行けないものなのかと、あらためて考えられずにはいられません。人は誰でも、例外なく幸福や平和を求めているのに、これは一体どうしたわけでしょうか。私たちに、何が欠けているためではないのだろうか。すなわち、わたしたちの内部に、精神的な確固としたよりどころがないためではないかと考えさせられます。「一寸先はヤミ」という言葉がありますが、人生というものは、そのような不安にみちており、人間が互いに相手を十分に信じられない、というもどかしさから、免れることができないのです。
             ノーベル賞の創始者であるノーベルは、その人間観を、端的につぎのような言葉で述べております。「人間というものは、未熟で、平和を受けるに値しないのですよ。どの人間にも、野獣、悪魔、蛮人といったものがひそんでいます。要するに平和なんて、この世にはすこし高尚すぎるものなのです」
             わたしたちひとりひとりの中には、強い野獣性がひそんでおり、今日のような競争社会では、それが子どものように弱い善意を圧倒し、だんだんむき出しになってきます。欲望や優越感を満足させるために、どれほど多くの醜い争いや、そのための犠牲を生んでいることでしょう。そういう社会には、あせりと、とげとげしさと、他人の無視や利己主義が横行し、そのためにすべての人が苦しむのです。
             わたしたちの心の中の善意というものは、ノーベル氏もいうように、子どもみたいに弱いものであっても、社会生活や個人の生活に平和をもたらすためには、最も大切なもののように思われます。わたしたち相互の善意と、それへの信頼なしに、平和は決してあり得ないでしょう。イエズスは弟子たちに向かって「空の鳥を見なさい」と言って、おおらかに天の神を仰ぎ見るようにすすめていますが、それはともすれば地上をはい回り、おのれの損得利害から離れ得ぬ心を、暫時そこから解き放つための、知恵の言葉でありましょう。
             あの空の鳥たちは、人間のように「まくことも刈ることもしないのに、天父はこれを養いたもう」と言って、自然の鳥どもの生活のうちに、神の摂理、はからいを啓示しているのです。わたしたち人間の理性の能力、知性の光は、この神の大きな愛のはからいを、自然のうちに読み取るならなければ、ついに日々の煩いや悩みから、解放されることができないだろうと思われます。
             わたしがまだ青年のころ、最も心をひかれた聖書の言葉は、この「空の鳥を見よ」という一節でした。この言葉の呼びかけを聞いたとき、わたしの心は無限の空間にかけのぼって、広大無辺な神の愛に呼ばれているような気がしてなりませんでした。
             現代の学校教育においては、神はタブーとされており、したがって、宗教教育もまったく欠けております。そのような、いわば大切なカナメを欠いた教育をほどこしながら、世界人類の平和を求めるといっても、どこかチグハグな感じをまぬがれません。いつか評論家の坂西志保さんが、つぎのように言われているのを読んで、なるほどと思いました。「私はよく子どもに宗教心を与えたいが、どうしたらよいか、と母親にきかれる。あなたは何を信じられますか、ときくと、家では別に何も信じていない、と答える。宗教心というものは、ビタミン注射などと違って、そう簡単に教え込まれるものではない。また、たとえできたとしても、そのような宗教心が、人の倫理道徳の基準となり、どんな場合にも、正義を選ぶということにはならないであろう。むしろ宗教心は、自然によい環境において学び、自分のうちに完全に消化され、言葉と行為に現われるというのが望ましい。またそうならなければ効果がない、と私は考えている。困ったときの神だのみもよい。しかし、祈らなくても守ってくれる神をもち、その道にもとらないように行動するのが望ましい。学校では宗教を教えられないことになっている。したがって宗教心を養おうと思えば、家庭が主となる。何が正しいか、何がまちがっているか、はっきりした基準をもたない今日の社会で、幼いころから宗教の教えによって、自然に倫理観を身につけるのが望ましい」
             キリストはまことの神の存在を、自然界の現象、たとえば空の鳥を眺めよと言って教えましたが、日に日に周囲から自然を失っていく今日のわたしたちは、よい家庭環境の中で、正しい神の考え方や、その存在を学び取らなければなりません。神は全人類の父であり、この共通の精神の場、すべての人の父なる神を信ずる善意の足場なくして、世界の平和もありえないでしょうし、人と人との信頼もありえないでしょう。
             今日の国際関係や、人間関係のありかたを見るにつけても、あまりに相互の信頼が失われ、猜疑心と利害打算に支配され、そのために行きづまりと、苦悩を負っているように思われてなりません。神をもたなければ、人間のなかの野獣性は野放しになるのです。小さく弱い善意が押し殺されてしまうのも、当然でありましょう。神のみまえに、人間は鳥よりもはるかに優れたものであり、神の配慮のなかにあるものなのです。しかし神を尊ぶことなしに、人間相互の尊重や配慮が、真に行われることもあり得ないでしょう。

            煉獄論 5

            2016.09.08 Thursday

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              第十二章
              煉獄の於ける苦しみと歓喜の一致


               人が〔現世の眼から観て〕完全とみなしているものは、神の御眼には欠陥に満ちていることを知れ。人間のすべての行為—思念(おもい)、感情(かんじ)、言語(ことば)、行動(ふるまい)—は如何に完全らしく見えるとも、神の聖旨にかない奉る意向を以てなされたのでなければ、不完全で汚れている。行為が完全であるがためには、我等が主行者としてではなく、神が我等のうちに行動し給うのでなくてはならぬ。
               この行為は神の御業であり、神に於いてなされたものでなければならない。それでいかにしても人は主行者であってはならぬ。我等に功がなくとも、結局我等のうちに神が行動し給うこの純粋な愛の最後の作用は、正にかかるものを請うのである。この最後の作用に於いて、神は霊魂に入り、霊魂を燃やし給うから、霊魂を包む肉体は焼尽されるようで、(8) これを他の表現を以てすれば、霊魂は燃ゆる火の竈の中にあり、そこではただ死によってのみ、休息が得られるのである。
               それにもかかわらず、神の溢るる愛は、煉獄の霊魂に言い尽くし難い歓喜を与え給うのは勿論であるが、しかしこの歓喜は苦しみを毫も減ぜず、むしろこの愛が妨げられていることに気づくことからして、苦しみは起こる。神が霊魂に受容させ給うこの愛が、完全となればなるほど、苦しみは大きくなる。
               このように煉獄の霊魂は、最大の歓喜を当うと同時に、極度の苦しみをも感じるが、苦しみは歓喜を、歓喜は苦しみを互いに妨げない。

               

              (8)抽象的に言う。

               

              第十三章
              煉獄の霊魂は、今はもはや功を積む状態にない。彼等のために、現世に於いてなされた人の祈りと善業の施興を、彼等はどう考えるか
               煉獄の霊魂が痛悔によって、その汚れを浄めることが出来たとすれば、彼等は一瞬にしてそのすべての負い目を除き去るのどの熱烈にして劇しい痛悔の業をするであろう。これは彼等の唯一の愛であり、終極の目的である神に達するのを妨げている障碍の結果を明らかに観るからである。霊魂は負い目を、ことごとく還さねばならないことは確かで、これは義の要求を満たすための神の命である。このことについて、霊魂は自分自身選ぶことが出来ず、神の意志以外の何ものも考えず、望みもしないのは、そう定められているからである。
               彼等は苦しみの期間を短縮(ちぢ)めるために、現世の人々によって捧げられる祈りと善業の施興(ほどこし)は、神の聖旨にかなうものでなければ、望まないであろう。彼等は主の限りなき全善の思し召しのままに償罪を要求し給う神の御手のうちにすべてを委ねる。これらの施興を、彼等が神の聖旨と別箇なものとして考えることが出来れば、それは神の意志を彼等に悟らせまいとする自我の業となるとともに、彼等にとっては真の地獄のような苦しみとなるであろう。彼等は、彼等に對する神の意志の上に動き得ずに止まり、愉しみも苦しみも、彼等を再び自我に向けさせない。

               

              第十四章
              煉獄の霊魂の神の意志に對する服従


               これらの霊魂は神と緊密に一致し、神の意志に化しているから、萬事に於いて神のいとも尊き命に満足し、わずかでも浄化すべきものを有ったまま、神の尊前(みまえ)に霊魂が置かれたならば、煉獄の苦しみよりも更にひどく苦しみ悩むであろう。
               神の汚れなき至聖、全き善は、その霊魂が尊前に在ることをゆるすことは出来ない。神の尊前に在るのを霊魂にゆるすことは、神の側からすればふさわしくないことである。よって、神を全く満足させる瞬間が欠けていることに気付けば、(9) 霊魂にとってそれは堪え難いことであり、完全に浄化されずして神の尊前に立つよりも、直ちに地獄のような苦しみの中に飛び込むであろう。


              (9)今一瞬で神に到る、その一瞬が欠けていればの意。