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2017.01.04 Wednesday

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    贖宥(免償)について 8

    2016.09.03 Saturday

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       第二節 特殊的条件
       以上述べた条件は、分贖宥であれ、凡そ贖宥というものを獲得するには必要であるとして、よく規定されるものであるが、公教会は、その他の条件も規定するのが常である。
       全贖宥の場合、普通必要であると規定され、よく「従来の条件に於いて」という一般的な句で言い表す条件は、告白、聖体拝領、聖堂又は公共乃至半公共の礼拝堂の参詣、及び教皇の御旨にそう祈りである。 これらの義務は、必ずしも全部一緒に必要と規定されるわけではない。

       

      (一)告白
       贖宥を得る条件として告白が規定されている場合、これは絶対に不可欠であり、何ら大罪のない者でも、これを行わねばならない。だが赦免は必要でない。(贖宥遺物聖省一七五九年五月十九日、一八四一年十二月十五日、一八五二年五月六日)
       告白が規定されている時、贖宥の得られるその当日にこれを行う必要はない。聖会法第九三一条第一項に、「贖宥が与えられる当日直前八日間以内、及び直後八日以内に、これを行えばよい」とある。同様に、三日間、一週間等の信心業に付随している贖宥を得る為に必要な告白は、同條第二項に、「信心業完了直後八日間以内に行ってもよい」とある。
       告白に関しては、二通りの篤信者のために、特別寛大な措置が講ぜられている。
      (イ)正常な障碍のない限り、毎月少なくとも二回告白するのを常とする信者は、改めて告白を行わなくとも、告白が必要とされている贖宥を凡て得ることが出来る。但し通常聖年、特別聖年の贖宥及びこれに類する贖宥は、みな例外えある。この聖年等の場合には現行の告白が誰にも必要として規定されている。
      (ロ)同様に、毎日一回、或は毎週少なくとも五回、聖体を拝領する信者はこの聖体拝領が聖寵の状態に於いて且つ然るべき潜心と熱意とを以って行われる時は、贖宥獲得に必要な規定の告白は、するに及ばない。
       ここに注意すべきは、贖宥獲得に告白が必要であると明らかに要求されていないならば、大罪の状態にある者にさえ、告白は贖宥獲得には全然必要でないであろう。このような人は、完全な痛悔の行為によって再び聖寵を得れば、充分である。


      (ニ)聖体拝領
       贖宥獲得に必要とされる聖体拝領も、告白と同じ規定に従う。即ち聖体拝領は、贖宥の与えられる当日の前日かその直後八日間に、すればよい。(聖会法第九三一条第一項)又三日間とか九日間に渡る一連の心霊修業を、これに付随している贖宥を得るために行わねばならぬ場合には、その贖宥に必要な聖体拝領は、その修業のうち最後の業をしてから八日間以内にすれば、充分である。(聖会法第九三一条第二項)
       御復活の務めにしなければならぬ聖体拝領は、聖体拝領を必要とする贖宥を得るのに有効である。但し聖年の贖宥を除く。臨終の聖体拝領に就いても同様のことが言えるが、この場合は聖年の贖宥を得るのにも有効である。
       聖体拝領を必要条件として幾つかの贖宥が同一日中に与えられる場合、ただ一回の聖体拝領でこれらを得ることが出来る。但し個々の贖宥に課せられた他の行為を、規定された通りの方法と時期に於いて為し遂げねばばらない。(聖会法第九三三条)

       

      (三)聖堂参詣
       贖宥を得るための聖堂参詣とは、今日の聖会法規に従えば、 ”少なくとも、天主を直接御自身に対して又はその諸聖人を通して崇めようという一般的乃至含蓄的意向を抱き、祈り(もし贖宥授与者が前もって指定しているならば、その祈り、さもない時はどんな祈りでもよい)を、各人の信心、孝敬の念に従って、口で誦えるなり心中で念ずるなりして” 聖堂に参詣することである。(聖庁内赦院一九三三年九月二十日)
       参詣すべき聖堂の名が許可教令中に指定してないならば、自分の行きたいと思う聖堂なり、公共の礼拝堂なりに、随意に参詣してよい。だが半公共的の礼拝堂や私人の礼拝堂に参詣することは充分でない。但し聖庁の特許ある場合を除く
       然しこの点に就いては、共同生活を営む人たちの為に例外が認められている。信者なら誰にでも与えられる贖宥を、そういう人たちに限って与えずに置くということは、公教会の欲しない所である。聖会法第九二九条には、次のように記してある。「贖宥を得るために参詣すべき聖堂又は公共の礼拝堂の名が特に指定されていない場合、教区司教の許可を得て設立した聖堂や公共の礼拝堂のない施設内に、完徳、教育、研究、又は健康上の理由で共同生活を営む信者、及びそのような施設内に住む従業者は、男女を問わず、その施設付属の小聖堂に参詣すれば贖宥を得るために規定された参詣をしたこととなり、その他の規定された行為を完全にし遂げさえすれば、ミサ聖祭にあずかる務めを果たしたことになることが出来る。」
       参詣するように指定された聖堂が閉まっていたり、又は参詣者が大勢居て中に入れなかった場合には、その戸口の前で祈れば、贖宥を得るのに充分である。
       数種の贖宥を得ようとする時、その個々の贖宥に付き一回の聖堂参詣が必要であると規定されておれば、得ようとする贖宥の数だけ、参詣を繰り返さねばならない。即ちその回数だけ、聖堂の外に出ては又すぐ入れば、よいのである。

       

      (四)祈祷
       通常、贖宥を得るには祈りが必要であると定められている。こういう祈りは、屡々(しばしば)「教皇の御心… 御意向に従って」とか、その他似寄った一定の文句で特に区別してある。この、祈りを誦える時の心構えともいうべき教皇の御意向とは、カトリック教会の宣揚と繁栄、離教異端の根絶、罪人の回心、外教徒間に於けるカトリック信仰の宣布、世界の平和と協調、これである。
       贖宥を得るための祈りは、祈りが必要と規定されている場合、大抵はこれと云って限定せず、信者の選択に委ねられている。だが祈りは、心中念ずるだけでなく、声を出して誦えなければならない。(聖会法第九三四条第一項)全贖宥を得る場合ならば。極めて短いものもいけない。(ベネディクト十四世、一七四九年十二月三日発布、教皇令「過ぎ去りしものの間に」第三節)
       これらの祈りは、ロザリオや御告げの祈りを誦える際よくするように、他の人と交互に誦えてもよいし、他の人が大声で誦えている間心の中で念じてもよい。
       贖宥を得るのに、教皇の御意向に従って祈るという条件が付いている場合は、ただ主祷文、天使祝詞及び栄誦で充分であり、その他の祈りも付け加えたいなら、それは信者の自由である。(聖庁内赦院一九三三年九月二十日)
       だが、聖堂参詣に従って得られる、「トチエス・クォチエス」(その都度)と呼ぶ贖宥の場合は、参詣する度に誦える祈りは、主祷文、天使祝詞、栄誦で、これを少なくとも六回繰り返すことになっている。
       ここで、贖宥を伴う祈りに関し、数言説明を付け加えておくのも、決して無駄ではないと思う。
       贖宥のある祈りに就いて、聖会法が第九三四条第二項に述べている所は、次の通りである。「もし贖宥を得るのに、或る特別の祈りが規定されていたなら、その祈りを何語で誦えても、贖宥は得られる。ただその翻訳が正確である旨、聖庁内赦院の声明に依り、又はその問題の国語が話されている国の教区司教の一人に依って、然るべく保証されていなければならぬ。だが、祈りの本文に、言葉を付け加えたり、省いたり挿入したりすれば、贖宥は無効になるであろう。」
       然し、祈りにどんな付け加えをしても、又どんな省略をしても、贖宥が無効になるとは限らず、祈りの内容を変えて了う付け加えや省略の場合にだけ、無効になるのである。聖庁内赦院は、一九三四年十一月二十六日、この問題の正しい解釈に就いて質問を受け際、以上のように回答している。
       こういう祈りは、贖宥を得るためには声に出して誦えなければならないが、射祷だけは例外である。これは唯、心中に念ずるだけでも有効である。
       祈りに付随している贖宥は、どの国語でその祈りを誦えても得られると述べたが、この点に関して唯一の例外がある。それは、童貞聖マリアの小聖務日課を誦えることで、これに伴う贖宥を得るためには、ラティン語で誦えなければならない。
       一八八八年九月十三日、贖宥遺物聖省は、「ラティン語以外どんな国語でもこの日課を誦える者は、たとえその国語の訳が司教の許可を得たものであっても、この日課に付随している贖宥を得るわけにはいかない」と、はっきり声明した。
       だがこの規定は、同日課を公けに誦える場合には該当するが、私誦する場合には当てはまらない。又この祈りを誦えることは、「宗教的施設の四壁内で、乃至同施設に付属している聖堂や公共の礼拝堂で、他の人々と共同して行っても、扉が閉めてあれば、私誦する場合とも解釈される。」(聖座広報第四○巻一八七頁以下)
       贖宥を得るためには、祈りを跪いて誦えるには及ばない。但し許可教令に、跪くように明記してある場合、又は「ここに我れ、善良にして最もやさしきイエズスよ、跪ずきて拝み奉る…」という祈りの如く、跪いて誦えることが義務として付随している祈りの場合は、例外である。
       ロザリオの祈りに付随している贖宥を得るには、ロザリオの環を手に持つことが必要である同様に、十字架の道の業を果たすことが出来ない者は、その為に祝別された十字架像を手に持って、二十辺、主祷文、天使祝詞及び栄誦を誦えなければならぬ。
       だがこの点に関して、一九三三年十一月九日聖庁内赦院が決定したことは、次の通りである。信者が、ロザリオや十字架の道の贖宥を付けて祝別してあるロザリオの環や十字架像を、労務その他正常な理由に依って、規定通り手に持つことが出来ない場合は何時でも、その祈りを誦えている間、どう云う風にでもよいから、環なり十字架像なりを携帯していさえすれば、その贖宥を得ることが出来る。
       聾唖に就いては、聖会法は次のように述べている。「他の信者たちと祈りを共にしている時、天主に霊と心とを向けていさえいれば、公誦する場合に付随している贖宥を得ることが出来る。又私誦の場合は、外面的には何かの仕草でそれを表現するか、又はただ眼でそれを読み下すかしながら、心中にそれを念じて行けばよろしい。(聖会法九三六条)。

       最後に贖宥を得る上に必要とされる行為に関して、聖会法第九三五條の規定する所をもう一度ここに引用して置こう。「正当な理由に妨げられて、贖宥を得る上に必要とされる行為をなし遂げられない人達には、聴罪司祭は、その行為を変更する(他の行為を以てその行為に代用させる)ことが出来る。」
       聽罪司祭は、信者たちの為に、告白の場合のみならず告白以外の場合にも、このような行為の変更が出来ると、多くの神学者の説に従って私は信ずるものであるが、聖年の贖宥に就いては、例外としなければならないように思われる。
       聖年の場合には、許可教令に格別の記載ない限り、聴罪司祭は、告白に於いてのみこの権能を用いることが出来る。

      贖宥(免償)について 7

      2016.09.03 Saturday

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        第七章 贖宥を得るための条件


         第一節 一般的条件
         贖宥を得るには、少なくともこの世に生きている者が贖宥を得るには、いろいろの条件が揃わないといけないが、その中には、これを受ける人の状態に関するものと、その人の心構え及びその人の果たすべき行為に関するものとがある。前者は、前にも一寸触れておいたが、間接的準備と呼び、後者を直接的準備と呼ぶ。

         

         第一項 間接的準備
         贖宥を受けるものは、先ず洗礼を受けていなければならない。我々が教会の一員となるのは、洗礼に依るからである。これは、キリスト教会共有の財産、即ち諸聖人の通功という宝蔵の分け前にあづかるには、実に必要不可欠の条件である。
         次に贖宥を受ける者は、これを与える者に従属しているもの、即ちその裁治権下にあるものでなければならぬ。贖宥は公教会の司法権の行使であるが、凡そ司法官なるものは、自分の管轄下に居ないものには献納を揮うわけには行かない。そこで、教皇及びその特使は全世界の信者に贖宥を与えることが出来、司教は自分の司教管区内の信者にのみこれを与えることが出来る。だが、贖宥が場所的であれば、即ち司教教区内の或る特定の場所又は物件に付随しているものであれば、司教の監督下の信者のみならず、司教教区に居合わせた寄留者にも、独立管轄権を享けている者にも、凡ての贖宥を与えることが出来る。

         

         第二項 直接的準備
         直接的準備としての条件は、先ず、内的及び外的の二つに別けられる。

         

        (一)内的条件
         これを要約すると、聖寵の状態に在ることは、贖宥を得るためには何にもまして必要な条件である。実際、キリスト教の教義に依れば、大罪の状態に在る者、(大罪を犯してその罪がまだ赦されていない者)は、教会の神秘体内の死んだ一肢体となっている。聖トマスも、「死せる肢体が、生ける各肢体を通って循環する生命の流れを受けることは、全くない」(補足二七問第一項)と言っている。贖宥は、教会の生ける各肢体の積んだ功徳を融通するのであるから、自身の裡に超自然の生命を有しないキリスト教徒は、これにあずかる訳にはいかない。
         更に又贖宥は、既に赦された罪のために果たすべき有限の罰だけを免除するものである。然るに、罪が赦されずにそっくりそのまま残っているとすれば、どうして有限の罰が帳消しになれようか。
        だが贖宥を得るためには、その為に必要とされている行為のうち、最後のものをなし終わった際に、始めて贖宥は効果を発揮し出すのであるから、おそくともその最後の行為をし終える瞬間には、良心が潔められていればよいのである。
         

         〔設問〕罪の状態に在るものは、せめて煉獄にある霊魂のためになりとも贖宥を得られるであろうか。
        贖宥遺物聖省はこの質問を受けて、「最も信用を博して居る神学者達の説に従うべし」と答えた。所でその学者達の中では、得られると云うものもあれば、得られないと云うものもある。
         「得られないという」説の方が、普通であり、信者に教え込むにもうってつけであろうが、私見を述べれば、死者の為に贖宥を得るには、必ずしも聖寵の状態に在ることは要しないと思う。信者が死者に贖宥を得させるためになし遂げる行為は、単なる条件に過ぎず、この条件が果たされて後、教皇がその死者に贖宥を下さるのである。その死者の罰が免ぜられるように救主と諸聖人との功徳の宝蔵から引き出される宝は、公教会が支払うのであり、その公教会には、聖寵が尽きることはないのである。
         この説に反対する主張—即ち、贖宥を先ず我がものにした後でなければ、他人にこれをゆずることは出来ないと主張は、根底から間違っている。事実、奉教諸死者の記念日(十一月二日)に与えられるtoties quoties(条件を果たす毎に与えられる)全贖宥のように、唯、死者に限って適用される贖宥も数種ある。
        (ロ)更に、贖宥を得るには意向が必要である。ここにいう意向とは、贖宥の恵みにあずかりたいと積極的に望むことである。
         意向という中には、神学者が「解釈的」と呼ぶ意向もある。これは、仮定的の意向で、実際的のものではない。もし贖宥なるものを知っていたら、又はこれに心を留めていたら、これを得たという意向を持ったであろうという場合の意向である。このような意向では不十分である。
         だが現在的意向を必要としない。意向が潜勢的又は習性的であれば充分である。換言すれば、総体的意向の中に含まれていて、取り消さない限り継続するものであればよい。
         ここで奨めたいのは、その日の裡に行うはずの信心業や善業に付随している贖宥を、すっかり得たいという意向を朝のうちから確立することである。
         この祈りには、又彼の善業には如何いう贖宥が与えられる等ということは、知るに及ばない。ただ贖宥を在るがままに得たいと云う意向があれば充分である。

         

        (ニ)外的条件
         外的条件とは、贖宥を得るためにせねばならぬものとして、教会が規定している行為のことである。この行為を成し遂げるには、次のようにしなければならない。
        (イ)心を静めて。即ち、敬虔の念を以って。
        (ロ)本人自身で。但し、他人を介しても為し得る施興は、この限りではない。
        (ハ)完全に。だが、規定された行為の裡、些細な部分を省略しても、矢張り贖宥は得られる。例えば、ロザリオの祈りを誦えることが条件として課せられた場合、一二度天使祝詞を誦え落としても、矢張り贖宥は得られるのである。
        (ニ)自由に。即ち何か他の理由でしなければならない行為は、此処に云う外的条件には有り得ない。それは、贖宥獲得以外の理由で強制されてはいない行為でなければならぬ。聖会法第九三二条には、「法律又は命令に依って強制されている行為を以ってしては、贖宥を得ることは出来ない。但し許可教令中に、別に明記する所があればその限りでない」と規定している。

         

         〔設問〕他の法令に依って誦えねばならない祈りを、全贖宥獲得に必要と教皇の指定された祈りに代用することが、出来るかどうか。
         この質問に対して贖宥遺物聖省は、「出来ない」と答えている。
         例えば、教会法の命ずる聖金曜日の断食を行うことに依って、断食を必要条件とする贖宥を得る訳には行かない。
         以上述べた所は原則であって、贖宥許可教令には例外を認めていることもあろう。実際、聖会法にも次の如く記してある。「告白の際、聴罪司祭が償いとして課した行為で、しかも贖宥がこれに伴っている場合、その行為をなし遂げた者は、償いの義務を果たすと共に、又贖宥をも獲得する。」(聖会法第九三二条)
        (ホ)時として同一の物件又は場所に、幾つかの贖宥が、いろいろの名称で付随していることがある。例えば、一つのロザリオに、聖十字架棒持者の贖宥も付けば、聖ブリジッタの贖宥も付いている。ではこのロザリオで一度祈れば、同時にこれ等二種の贖宥が得られるか、というに、得られない。但し許可教令に格別の記載があればその限りでない。
        得たいと思う贖宥の数だけ、必要条件として規定された行為を繰り返さねばならない、これが一般の原則である。
         但しロザリオが然るべく祝別されていさえすれば、そのロザリオの祈りを一度するだけで、ドミニコ会の贖宥も、聖十字架棒持者の贖宥も、教皇贖宥も得ることができる旨、先ず贖宥局が声明し、次いで聖庁内赦院もこれを認めた。個々の贖宥を得るのに、聖体拝領と告白だけは繰り返すわけにはいかない。一日に何度も聖体を拝領することは許されていないし、罪に堕ちた場合のほかは一日に何度も告白する例はないからである。
        (ヘ)一定の期間に、即ち、贖宥が特別の日とか限定された時間に与えられると決めてある場合には、この時間をはずさぬようにせねばならぬ。
         贖宥を得るために定められた時間は、許可教令で解る。
         特別、時期を限定せずに与えられる贖宥は何時でも得られる。例えば、ロザリオの祈りに付随した贖宥の如き、これである。
         時期が限定されている贖宥は、この定められた時期内に得なければならない。例えば、御告げの祈りとか、アレルヤの祈りとかに付随した贖宥がこれで、信者達は、日の出時、正午及び晩、これは定まった時刻に出来なければ出来るだけ早く、これらの祈りに依って贖宥を得ることが出来る。
        ある一日中に得られると定めてある贖宥は、その日の零時から二十四時までに得ることが出来る。但し許可教令に格別の記載があればその限りではない。だがもしそのような贖宥を得るのに、聖堂に参詣することが限定されている場合は、定められた日の前日の正午から、その当日の真夜中までに参詣すれば宜しい。
         贖宥獲得に必要と規定されている行為が数多い場合、どういう順序でこれをなし遂げても構わないが、唯、一番最後の行為を仕遂げる時は、聖寵の状態にいなければならない。
         公教会は、信者の霊的利益を常に念頭に置いているので、その財宝を分かつに当たっては極めて寛大であり、なるたけ多く、なるたけ容易く、贖宥が得られるように、出来る限りの便宜を図っている。それ故、聖会法第九三五條にも、「もし信者が正常な障碍のために、贖宥獲得に必要と規定された行為を果たし得ない場合には、聴罪司祭たるものは誰でも、その規定された行為を変更する、言い換えれば、他の行為を以ってこれに代用せしめる、権能を有する」と記してある。

        贖宥(免償)について 6

        2016.09.02 Friday

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          第六章 贖宥の種類


           先ず第一に、罪のために果たさねばならぬ有限の罰の赦免は、全面的で完全のこともあるし、限定的で不完全のことも有り得る。そこで贖宥の発揮する効果に従って、全贖宥と分贖宥との二つに大別される。
          (イ)全贖宥とは、天主の正義に対して果たすべき有限の罰を凡て、信者の側で妨げをせぬ限りこれを授ける者の意志に従って、免除するものである。例えば、此処に一人の信者があって、全贖宥を得るに必要な条件を尽く果たしたとしても、その人は、たった今洗礼を受けたばかりの、成人の状態にあることとなり、この状態に在るままで死ねば、煉獄を経適することなく、直ちに天国に到るであろう。然し全贖宥は、絶対的に全贖宥である場合もある。これは、罪責が完全に赦免されている時に有り得るもので、有限の罰の処刑性も残らずその贖宥に従って免ぜられる。又相対的に全贖宥である場合もある。これは悔俊の秘蹟に於いて罪責が全て赦されない場合、此の全贖宥によって罪責の除かれた罪に伴う有限の罰の処刑性だけが免ぜられた時に、有り得るものである。又もし信者があって、何か小罪が赦されていないか、その小罪に対して愛着を抱いているとすれば、全贖宥はただ部分的にしか得られない。即ち赦された罪に対してのみ得られるのである。罪責が残っている限りは、有限の罰も残るものである。聖会法第九二六条には、「全贖宥は、人がこれを完全に得ることが出来ないならば、その人の有する状態に従い、部分的に得ることが出来よう、与えられるものと解せられる」とある。
           全贖宥は、その許可教令中に別に明記する所がないならば、一日一度しか得られない。(聖会法第九二八條第一項)
          ”toties quoties”(「その都度」即ち「条件を果たす毎に与えられる」の意)と呼ばれる全贖宥は、これに必要として規定された業を為し遂げた回数だけ、何回でも同一日中にこれを得ることが出来る。
           聖堂に参詣する信者に普通与えられることになっていいる、恒久的或は一時的日常全贖宥は、年に唯一回、信者の選んだ聖堂参詣の日に得られる。但し許可教令に格別の記載ある場合は、その限りでない。
           いろいろ全贖宥があるうちでも、最も荘厳なものは、ユビレーウム、即ち聖年の全贖宥である。これに就いては、後に詳述しよう。
           聖マルゲリータ・ダ・コルトーナに、アドリアーナと呼ぶ従妹が在って、大変仲良くしていた。アドリアーナは、切にポルチゥンクーラ全贖宥を得たいと思って、八月二日アッシジの「天使の聖母」の聖堂に参詣した。そして贖宥獲得に必要と指定されたことは、凡て仕遂げて家に帰ったが、数日経つと重病に罹って亡くなった。聖マルゲリータは、大変仲良しの従妹の霊が救われるように、沢山祈りを捧げた。所が、こうして祈っている最中に、イエズスから啓示があり、「アドリアーナの永遠の運命に就いて思い煩うことなかれ。『天使の聖母』の聖堂で獲た全贖宥の特別な功徳により、我れは彼女を、栄光にみちし者の列に、直ちに入れてやったからである」とのことであった。
          (ロ)分贖宥とは、我等の負債のすべてを免ずるのではなく、有限の罰のただ一部分だけを免ずるものである。勿論、信者が果たすべき有限の罰が、分贖宥の価値を越えないならば、ちょうど全贖宥を得た場合のように、その分贖宥だけで、その信者は自分の有限の罰をすっかり免ぜられるであろう。
           公教会が普通信者に与えるのは、五十日、百日、三百日、七年及び七の四旬日の分贖宥であるが、これは、この贖宥を得る信者には、煉獄ではたすべき有限の罰が、五十日分百日分等減ぜられるという訳ではなく、これ等の贖宥を得る信者には、教会古来の聖会法が規定した所に従って、五十日、百日等の償いの苦行をしたならば償える筈の、有限の罰を免ぜられるという意味である。教会初期に於いては、罰を犯した信者には、その罰に応じて特別の苦行を課するのが常であった。例えば、断食とか節食とか長期間の祈りとかその他聖会法に規定する苦行である。
           聖務日課中、聖堂内でお喋舌りした者には、十日間パンと水だけ。
           たとえ故意にではなくても、天主の御名を指して誓いをした者には、七日間、やはりパンと水だけ。
           日曜日に、祭日になしてはならぬ事になっている労働を行った者には、三日間パンと水。
           父や母に対して、然るべき尊敬を払わなかった場合には、三日間パンと水。父母を排毀した場合には、三年の苦行。父母を殴った場合には、七カ年の苦行。
           隣人に対して憎しみを抱いて敵対した場合には、仲直りする以前、その憎しみが続いていた日数だけ、パンと水だけの断食。
           軽い悪口には三日間、重い悪口には七日間、パンと水だけの断食。
           偽証には五年間、パンと水。
           以上の如きは、最もありふれた罪過に對する苦行に過ぎないのであって、大罪に対しては、苦行は遙か一層苛酷であった。例えば、故意に殺人した場合には二十年間、時としては臨終の際だけしか聖体を拝領するわけには行かないという条件で、一生涯罰を受けた。
           教皇は、贖宥を授与するに当たり、その贖宥の年数に四旬日の回数を付け加えるのを常とした。何となれば、四旬日の際には、聖会法の規定する苦行は平常より一層厳しく、従って一層償いになるからであった。
           玄に注意すべきは、贖宥のお蔭で我々は、苦行をすることを免ぜられると云う訳ではない。何となれば、信者たるものは皆イエズス・キリストの御足跡を辿ってゆくべきであり、その御生涯は絶え間ない苦行の連続だったので、人間は凡て例外なしに、苦行を課せられているからである。教会は、贖宥を授与する際、我等が善業をするのを止めようとさせようとしているのではない。「貴方がたは自分の負債を支払うために、自分に出来る限りをしなさい。そうすれば私は、天主の正義に対して貴方がたの負債を完済するために、貴方がたの力の及ばぬ所を補ってあげましょう
          と云うのである。
           更に贖宥には、場所的、物的、人的、恒久的及び一時的等の区別がある。
          (ハ)場所的贖宥とは、特定の場所に付属している贖宥であって、例えば、ある聖堂とかある固定祭壇のようなものとかに付随し、その場所に参詣したり、其処で敬虔の行為をなした者のためにある贖宥である。この贖宥は、その場所なり物件なりが根本的の変形を被らぬ限りは存続するもので、もしその場所なり物なりが完全に変形してしまっても、やがて元の通りに再建されれば、即ち教会とか祭壇とかが破壊されても五十年以内に殆ど以前と同じ場所に同じ名前で再興されたとすれば、以前と同じ贖宥を与えることが出来る。もし聖堂が俗用化されるような場合には、この贖宥を与える力は失くなるが、聖堂が復聖して再び以前の用途に当てられるようになると、その力も復活する。
          (ニ)物的贖宥とは、十字架像、メダイ、ロザリオ等、種々の携帯用宗教用具に付属しているもので、その用具が存続する限り乃至根本的な変更を加えられたり、売買されたりせぬ限りは、贖宥の力は何時までもこれに付随している。この贖宥の力のある用具が、その物質的統一を変えない程度の、軽微な改造や修理を受けた場合は、贖宥の力を失わない。十字架像の贖宥は、そのキリストの像に付随して居るので、その他の部分は皆取り換えても構わない。(教令 二八一号第六項)
           ロザリオに在っては、贖宥は珠に付随しているので、珠を繋いでいる鎖は取り換えてもよい。又或る数までの珠は取り換えても、又何度も取り換えるうちに球が全部換わっても、このロザリオが贖宥の力を失わないことも有り得よう。(贖宥遺物聖省一八三八年一月十日、同上の教令三及び四項に就いて)
           且つ又、贖宥の力のある用具は、他に贈与しても貸しても、この贖宥を失わない。(聖庁内赦院一九二二年一月十八日)
          (ホ)人的贖宥とは、特定の場所や物件とは関係なく、祈りとか、孝敬や愛徳の行とか云うような、或る個人的な行為に対して、一名乃至多数の個人、同志、兄弟会乃至広く全世界の信徒に与えられるものである。
          (ヘ)恒久的贖宥とは、時間の制限なく、恒久的に与えられるもので、これを更新する必要がない。この贖宥を与えた者が死んでも効を失わないが、与えた者かその後継者が取り消しをした場合だけは効を失う。
          (ト)一時的贖宥とは、或る特定の期間に与えられるもので、かかる期間は、授与の小教書又は答書の日付の日から始まるので、それを発布した日や受け取った日から始まるのではない。但し遠隔の地に宛てた小教書であれば、その期間は、日付の日から勘定せず、その教書が教区司教に送り届けられた日から、起算しなければならない。