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2017.01.04 Wednesday

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    死者たちの中の長子

    2016.01.22 Friday

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      マリア・ワルトルタ著 『― 世紀末の黙示録 ―  手記  抜粋』より

      付属文書 ヨハネの啓示(黙示録) 1950年

       死者たちの中の長子(黙示録1・5)。

       未熟な読者ならこの一節を読んで、或る種の混乱に陥り、或る種の疑問を抱き、その結果次のように問うかもしれない。「しかし、ここには間違いや矛盾はないだろうか。長子は恩寵の生命を最初に生きた長子アダムであり、それゆえキリストは『新しいアダム』、または、超自然的生活から堕落し、そのような状態のままキリスト生誕第三十三年までいた第一の人アダムを除外して、『第二のアダム』と呼ばれ、その子に先立って生まれ、恩寵満ち満ちていた彼の母マリアは、知恵の言葉により、神の長女と言われたのではないか?」。
       間違いも矛盾もない。
       アダムは最初の人間であるが、長子ではない。彼はどんな父からもどんな母からも生まれておらず、神から直接創造されたのだ。
       イエズスは、長子でもある父の独り子である。初めが無い神的思惟から御言葉は産出され、彼にも初めは無かった。したがって彼は、神のように絶対的長子である。また、マリア―彼女は知恵の書によって、また教会によって『長女』と言われている―から生まれたとはいえ、人間としても長子である。なぜなら、関与によるのではなく、直接の産出によって、父なる神から生まれたその素性によって、神の子らの真の長子である。すなわち、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆うでしょう。それゆえお生まれになる子は聖なる者で、神の子と呼ばれます』(ルカ1・35)。
       したがって、たとえ彼に先立って母は『いと高き者の長女にして娘』(シラ書24)と歌われたとしても、また彼女がその座である知恵の書は彼女について『主はそのみ業の初めに、わたしをお造りになった。いにしえのみわざになお先立って。永遠から、わたしは定められた』(箴言8・22~23)、更に『わたしを創られた方はわたしの幕屋で憩われた』(シラ書24・12)としても、彼は長子である。なぜなら、たとえ母が格別な特権によって無垢であるとしても、限り無く純白で限り無く聖である子は、限り無く母を超越する絶対的長子なのだ。神なのだから
       彼女は、父の思惟が、人びとに恩寵をもたらすために、彼女によって恩寵が来ることを考え、定めた時から、また、彼女を恩寵で満たして創造し、彼女が母になる以前も、母となる間も、母となった後も常に彼女の内に憩ったその聖なる櫃を所有した父の選択による最初の娘である。実に、彼女は無原罪であったから恩寵に満ちていたし、恩寵によって受胎し、肉となった無限の恩寵は、彼女の内部で、彼女から人間の肉と血をとり、彼女の血と共に処女の胎内で育ち、ひとえに、彼女のわざによって、また聖霊の働きによって形成されたのだ。
       彼は、永遠の産出によって長子である。父は彼のうちに、未来の一切の物事を、まだなされていない物質的、霊的あれやこれやの一切の物事を見ていた。なぜなら父はその御言葉のうちに創造と贖罪を見ており、その両方とも御言葉により御言葉のためにもたらされることを見ていたからである。
       感嘆すべき神の神秘! 利己的愛ではなく、能動的で、極めて強力で、むしろ無限の愛で自分を愛する計り知れない御者は、このたった一つの完全無欠の行動によって、位格(ペルソナ)の区別においての他は彼、父とすべてが同等であるその御言葉を産む。なぜならもし神が一にして三、すなわち感嘆すべき唯一の存在であるならば、学識の浅い人びとには三つの面からこのようにわかりやすく説明できよう。三つの各々の面は、はっきり区別される信仰の真理であり、すなわち神学的に唯一の神であり、神性、永遠性、計り知れなさ、全能により、すべてにおいて同等である三位格だ。三位格の間には混同は無く、また一位格は他の位格ではなく、だからといって三神ではなく、唯一の神は自分ひとりで子を産み、したがって自分を産み、聖霊の発出の原因となることによって、神的位格の各々に存在を与えるのだ。
      神、すなわち力は、すべてを見、知恵によって、聖霊である愛徳によって行い、最も偉大なそのわざを成し遂げる。そのわざとは、御言葉の産出と受肉、人間の創造と神格化、マリアを原罪から保護すること、その神的母性、堕落した人類の贖罪である。すべてを見、知恵によって、すなわち、万物が存在する以前から在って在るものによって行うのであるから、全面的な権利をもって自分は『長子』だと言うことが出来る。
       太古から存在し、神が宇宙に置こうとした各々の形態と性質においてその生命を生きている宇宙が存在していなかった時、彼、父の御言葉はすでに存在していた。生命が無かったがゆえに、死んでいるかのように存在していなかった万物は、彼によって創造され、こうして『生命』を得た。御言葉は、すべての要素が無秩序に、徒(いたず)らにのたうっているカオスからそれらを引き出した。御言葉がすべての事物を整備すると、すべては役立つ生命力をもち、こうして可視的な感知しうる宇宙は、完全な知恵の法則と共に、愛の目的と共に存在した。
       なぜなら、何一つ愛の目的無しに、知恵の法則無しにはつくられなかったからだ。水盤に集められる水滴から、光と熱を与える天体を形成するために集められる微分子まで、あの動物たちを養うために予定された植物的生命から、その動物たちを利用し楽しみ、その動物的、理性的完全さにより、何にもましてその内部に封印されている不滅の部分、永遠者そのものの息吹は、神を歓呼し、神の歓喜のもととなるために―なぜなら神はその子らを見て歓喜するからだ―その根源に帰るべく予定されている、創造の傑作である人間に至るまで、すべては愛のためにつくられているのだ。もし常に忠実に呼応されていた愛なら、死や苦しみが神の愛について人間に疑いを抱かせるのを許しはしなかったろう。
       死。神によってつくられた多くのものの中に死はつくられなかった。また苦しみはつくられていないし、死と苦しみの原因である罪はつくられなかった。この上もなく美しい宇宙にそれを置いたのは敵対者なのだ。また、敵から、憎しみから堕落させられるままになった宇宙の完成、人間によって、まず恩寵の死が、次いで肉の死がもたらされ、そして、アダムとその連れ合いのうちに、またこの人祖からすべての子孫のうちに、恩寵の死の結果として、すべての苦しみと心身の疲労が生じた。
       それではどうしてアダムの子孫である女から生まれたイエズス『死者たちの中の長子』だと言えるのか? たとえ神的受胎によって母は彼を生んだとしても、その母は、義人であったとはいえ二人の男女、すなわちアダムから一人ひとりの人間が受け継ぐ原罪により、超自然的生命を欠き、罪に汚れている二人の男女から生まれたのではないか? これぞ多くの人の異議申し立てである。
       その出生からイエズスは二重に『長子』である。なぜなら、すでに超自然的に生きる子らを生めなくなっていたアダムに長子が生まれた時、存在することによって、人がまだ生まれていなかったように生まれたからだ。アダムの子らは、両親がすでに堕落し、三重の色欲にまみれていた時に懐胎され、超自然的生命に対して死んで生まれてきた。そしてアダムとエバ以降、どの父親もどの母親もこのように出産してきた。
       二人共に勝れて義人であったにもかかわらず、アンナとヨアキムもまた、このように出産したのであろう。彼らもまた受け継いだ罪から損害を受けていたし、彼らは単に人間的な普通の在り方でマリアをもうけたのだから。神の母になることを予定されていたマリアの誕生における希有の出来事といえば、処女の、原罪の汚れから守護された霊魂の、男と女から生まれた万人の霊魂の中で唯一、無原罪であったその霊魂の、未来の使命の観点から神が与えられた特異な特権による注賦(ちゅうふ)だけであった。
       それに反して、エバ以降、どんな女も知らなかった恩寵に対する忠実さを知っていたマリア、最小の小罪どころか、その完全な無辜(むこ)の状態、その完全な均衡を妨げるような最小の嵐さえも知らず、ために、ちょうどアダムとエバが誘惑者の誘いに負ける以前にそうであったように、知的能力はそれに劣る部分を支配し、霊魂は知的能力を支配していたマリアから生まれたキリストは、霊的に侵されておらず破られていない胎内から生まれた長子である。はたまた、キリストは物質的に侵されておらず破られていない胎から生まれた長子である。なぜなら彼女は母とした者として、彼女から生まれた者として神であることにより、したがって扉を開くことなく、あるいは岩を動かすことなく出入りする霊という自らの賜物の持ち主として、神は人性をとるために彼女の胎に入り、救い主としてのその使命を始めるために、諸器官や筋肉を傷つけずそこから出た。
       こうして、長子、卓越した人間、恩寵に死んでいた一切の死者たちに再び生命を与えるであろう者は、唯一、恩寵の充満から生まれた。二人の肉の飢えによってではなく、恩寵のうちに生きることを維持していたならば人の子らが有していたであろうような在り方で生まれたのだ。五官の欲求ではなく、恩寵のうちに生まれてきた者が奉献する神に対する聖なる愛と、伴侶に対する悪意の無い愛は、神から義務づけられた、獣性により腐敗していない愛のみを成長させ、倍増させるべく秩序立てられねばならなかった。
       この命令に違反されると、新しいアダムを再創造するために、神はそれを汚れ無き女によって形造られねばならなかったが、驕り高ぶって神のごとくなろうと欲したあの泥をもってではなく、ひたすら、超純潔、これだけでも御言葉の母となるに値するほどの超謙遜が提供する不可欠の要素をもって、新しい人を形造ろうとした。
       そして死者たちの中の長子は、闇に横たわる死者たちに光をもたらすために来た。地球上にまだいた者たちであれ、天の門を彼らに開く贖罪を待ちつつすでに冥界に集まった者たちであれ、死者たちに恩寵への生命をもたらすために来た。また、肉も共に生きて天に帰らねばならない者たちのためにも、彼は長子であった。汚れ無く、受けた恩寵に忠実な女から生まれた彼のために、ほんとうに満ち満ちる宝を、宝の持ち腐れにせず、それどころかすべての動きと霊感に対するマリアの完全な対応による恩寵の持続的増加と共に活発にそれは用いられ、ただそれだけで、アダムの、またアダムとその伴侶のせいで、万人に共通に与えられた『おまえは塵に返る』という罰は適用されなかったろう。
       一点の罪の汚れも無かった彼女も、人間共有の罰から免れることにより、また、御言葉を安置する櫃であり、神的芽に、人間-神を形成するにふさわしいすべての要素を与える土地である肉が腐肉になったり塵になるのは適していないので、神の母も塵には返らなかった。したがって、死から肉と共に復活した長子はイエズスのみであり、いつまでもイエズスのみである。彼は、父の意志に対する完全な従順ゆえに、この上なき辱めを受け、完全な生贄になった後、否定し難いその復活をもってこの上なく栄光化されたのである。なぜなら皆が皆彼の友人たちではない多くの人が、彼の栄光化された体を見、それだけでなく、彼が天使たちの敬意を受けながら天に帰るのを見て、この二つの事実を証言することになるからである。『なぜ、あなたがたは、生きているかたを死人の中に探すのですか? そのかたはここにはおられません。復活なさったのです』(ルカ24・5~6、マタイ、マルコの並行箇所)。復活者はあまりにも美しい変容を遂げていたので、マグダラのマリアは、彼が自分だとわからせるまで、彼を見分けられなかった。さらに使徒言行録(1・11)にはこう記されている、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか? あなたがたを離れて天に上げられたあのイエズスは、天に昇るのをあなたがたが見たのと同じありさまで、またおいでになるであろう』と。

      * 神は死をつくらなかった。(知恵の書1・13)

      34 イエズスはエルサレムへ戻る。

      2016.01.07 Thursday

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        34 イエズスはエルサレムへ戻る。ケリオットのユダが神殿で話す。ゲッセマニにて

         イエズスは熱心者のシモンとエルサレムにいる。道に行商の人たちと小ろばの行列が続くところへ割って入って、イエズスが声をかける。
        「ゲット・サンミへ行く前に神殿へ行きます。その神殿で父に祈るために」
        「先生、それだけ?」
        「それだけ。ここエルサレムでは泊まれません。明朝、魚門で集まりがあるので、他の羊飼いたちにも会いたい。この人たちは全パレスティナの方々へ散らばっており、羊たちを集めて、その群れの主人である私の名前を知らせ、私のもとへ来させるために」
        「あなたのような主人を持つことは何と甘美なことか。羊たちはあなたを愛するに違いない」
        「羊たちはそうですが、雄山羊はそうでもない…ヨナに会ってからナザレトへ行き、それから、カファルナウムへ。シモン・ペトロと他の弟子たちは、私がこんなに長く留守をしているので苦しんでいると思います。弟子たちと私自身の喜びのために行きます。夏だし、そうした方がいいと思います。夜は休むためのものだから、眠りを犠牲にしてまで真理のことばを聞こうとする人は、ほとんどいない。
         人間…おお、人間というものば! あまりにも自分の霊魂を忘れ、肉体のことだけを心配し、気にしています。
         昼は太陽が焦がすので、道や広場での伝道はできないから、私の弟子たちに教えに行きます。緑が涼しく、水が冷たい私の優しいガリラヤ。おまえはそこへ行ったことがありますか」
        「いつか、医者から医者へと巡礼をしていた時代、冬でしたが、そこを通って気に入りました」
        「おお、美しい国です! いつでも。冬もそうだし、他の季節ならなおさら。いま、夏の夜は天使の夜と名づけたいほど清く、天使のように心地良いものです。山に囲まれた湖は、神を探す人々に神のことを話すためにわざわざあつらえたように見えるほどです。それは緑の中に落とされた青空の断片です。岸辺までオリーブの木がなだらかに続き、ナイチンゲールの鳴き声に満ちています。この小鳥たちも、これほど優しく静かなところに生かしてくれている創造主に賛美を歌っている感じです。
         そして、わがナザレト! 太陽の真っ白い接吻に、緑にあふれた笑顔を見せるかのように、大ヘルモンと小ヘルモンの山々の間に広がり、遠くにはタボル山が見え、頂上が明るい日射しに包まれるときはバラ色のアラバスターとなり、その反対側のカルメル山に太陽があるときは青い宝石のように輝き、また大理石と水の脈のように森や草原はさまざまの色の中で微妙なアメジスト色が目立ち、夕方には紫から水色へと変わるエメラルドのようである。南側に下っていくエスデレロンの豊穣な花咲く平原。
         それから…それから…ああ、シモン、そこには一輪の花があります。孤独に生き、自分の神と子供のために清らかさと愛の香りを放ち、生きている! 母が。シモン、おまえが母を知ったら、この世で、その愛くるしさで母に似ている人がいると思いますか。いはしないのが分かります。母は美しい。でも、その心、内面からの派出とは比べものにならない。この世は、私にすべての悪をもたらしますが、私はこの世のすべてをゆるします。なぜなら、この世に来て、この世を贖うために、この世の大いなる謙遜な元后をもらったからです。この世は母を知らないけれど、母によってすべての恵みをもらい、なおさら未来はそうなります。
         早、神殿に着きました。ここではユダヤ人の宗教の形式的な様式を守ります。しかし、まことに言うが、神の真の家、聖櫃は母の心です。その清い肉体がベールとなり、そこにすべての徳が刺繍のように飾られています。」
         神殿に入って、第一段を上り、一本の廊下をまた歩いて第二段を上ろうとしたとき、
        「先生、群衆の中、あそこにユダがいます。ごらんください」と、シモンが呼び止める。
        「ファリサイ人と衆議会の人々もいるが、何をしゃべっているか聞きに行ってもよろしいですか」
        「はい、よろしい」
        「大廊下のそばでお待ちしています」
         シモンは足早に去り、聞き取れる所まで進み、姿を隠せるように群衆の間に紛れ込む。ユダは大きな信念を持って話している。
        「ここに、皆さんがよく知っており、かつ尊敬している人々がおられます。私がどんな者であったか証できる人々です。それで私は、イエズスが私の心を変えたと言えます。最初にイエズスに贖われた者は私です。あなた方のうち、多くの人は洗者ヨハネを尊敬しているが、ヨハネはイエズスを”神の小羊”と呼び、エリアに勝る人だと言っています。洗者が天からの声”これは私が嘉する子です”と言ったとすれば、イエズスがメシアであるのは間違いない。イエズスはそうだと、誓って言える。私は学問のない者ではなく、また愚かでもない。あの人こそキリスト・メシアである。私はそお御業を見、そのことばを聞いて、はっきりそう言えます。メシアはあの人です。奇跡の主人で、いろいろな病気や不幸はイエズスの声を聞いて、死んだかのように落ち、その代わりに喜びと健康が与えられます。なおさら、心は体よりも変わります。私を見ても分かると思いますが、治してもらいたい病人などがあったら、明朝、暁のときに魚門のところへ連れて来なさい。そこにイエズスがいて、あなた方を幸せにします。その間、私はその御名で、貧乏人のために、わずかな金を与えます。」
         ユダは二人の足なえと三人の盲人と一人の老婆に施しを与えると群衆にいとまを告げ、アリマタヤのヨゼフとニコデモと、私の知らない他の三人と一緒に残る。(1)
        「ああ、何と気持ちがいいんだろう」とユダが叫ぶ。
        「いまは何も持っていません。あの人が望むような人となりました」
        「本当にあなたが分からなくなった。冗談だと思っていたが、あなたが真剣にやっているのが分かった」とヨゼフが言う。
        「真剣ですとも。だれよりも自分自身が分からなくなったのは私です。あの人に比べると、私は不浄な野獣にすぎない。しかし、相当変わりました。」
        「それなら、もう神殿に属さないと決めたのですか」と、私の知らない三人のうちの一人が問いかける。
        「もう私はキリストのものです。あの人に近づく人は毒蛇でない限り、あの人を愛さずにはいられない」
        「あの人はもう、ここには来ないのですか」
        「いいえ、来ますよ。だが後で、いまではない」
        「私はあの人の話を聞きたい」
        「ニコデモ、以前にここで話したことがありますよ」
        「知っている。私はガマリエルと一緒にいて、あの人を見たけれども立ち止まらなかった」
        「ニコデモ、ガマリエルは何と言ったのですか」
        「だれか新しい預言者だと言った。それだけ」
        「ヨゼフ、あなたは私が知らせたことを言わなかったのですか。あなたはガマリエルの友人ではありませんか」
        「伝えたけれど、答えはこうでした。『もう私たちには洗者がいるが、律法学士たちのことばによると、先駆者と王の到来に民衆が準備するために、少なくとも百年かける必要があると言われている。しかし、時はもう完成されているので、それほどはかからないと思うが』と言い返し、続けてこう結びました。
        『しかし、私はこのようにしてメシアが現れるのを認められない』と。また、
        『いつかの日、あの人のことばを聞いて、天の稲妻(2)と思い、メシア時代が始まったと思ったが…それから長い沈黙が続いたので、私は間違ったのではないかと考えている』とも言いました」
        「もう一度、話してみなさい。もしガマリエルが私たちの側に立ち、また、おまえたちもそうすれば…」
        「ああ、そんなことは勧めたくない」と、見知らぬ三人のうちの一人が口をはさむ。
        「衆議会の力は強大で、アンナが奸智と貪欲をもって衆議会を思うように動かしています。あなたのメシアが生き残りたいならば、そのまま隠れているようお勧めする。もしも力で干渉しないならば。しかし、あの場合はローマがいる…」
        「衆議会でもあの人の話を聞けば、回心するはずです」
        「ハッハッハ」と、三人の見知らぬ人たちは笑って言う。
        「ユダ、あなたが変わったとは思っていたが、まだ頭だけはちゃんとしていると思っていた。あなたがイエズスについて言っていることが本当だったら、衆議会があの人についていくと、どうして考えられるか。
         ヨゼフ、さあ、おいで、これは皆にとってよかろう。ユダ、神があなたを保護しますように。あなたには本当にその必要がある」
         そして、皆、行ってしまう。ユダはニコデモと一緒にそこに残る。
         シモンはこっそりその場を離れ、イエズスのもとに戻って来て、
        「先生、ことばと心をもってざん言の罪を犯したと告白します。あの人のことをどう考えてよいやら分からない。あなたの敵とさえ思っていたのに、私たちの中でも良くあなたについて話、それほどまでにする人はいない。とりわけ、まず弟子、それから先生を亡き者にしようとする憎しみが盛んである、ここで貧乏人に金を配ったり、衆議会員たちにも話しかけるのを見た…」
        「シモン、おまえがちょうどその時にユダの話を聞いてうれしい。いろいろ非難を受けるとき、他の弟子たちにもその話をしてもよろしい。”私は罪を犯した”という、おまえの正直さは、私が受けた喜びと、悪人と思っていたのにそうではない、と考えた弟子のために、主に感謝しています」
         二人は長く祈ってから、神殿を後にする。
        「ユダはおまえを見ませんでしたか」
        「いいえ、絶対に」
        「では、ユダには何も言わないで。あの人はひどい病気の霊魂ですが、ほめことばが、回復にむかう病人に与えられる食べ物のようなものです。あの人は、注目されたと知ると、さらに悪くなります。また、傲慢が働くときはろくなことはない」
        「では、黙っています。これからどこへ行くのですか」
        「ヨハネのところへ。この暑い盛りのときは、橄攬山の家にいるはずです」
         二人は猛烈な太陽に灼きつくされそうな道を歩きながら、日陰を探しながら、まぶしい田園地帯とオリーブ園地帯を抜けてゲッセマニにたどり着く。
         扉のところにカーテンがあり、暗くて涼しい台所の隅でヨハネが、うつらうつらしている。イエズスが呼ぶと、
        「ああ、先生。夕方、おいでになるとばかり思っていました」と驚く。
        「ヨハネ、きょうはどうでしたか」
        「私は牧者を失った小羊のようでしたが、皆にあなたのことを話していました。あなたについて話すだけでも、何だかあなたと一緒にいるような感じがするから。親戚や知り合いやよその人たちに、たくさん、あなたのことを話しました。また、足なえに施しをし、ある門の前で他の女たちと一緒に話をしていた私の母と同じくらいの年ごろのああわれな女に『なぜ泣いているのですか』と聞くと、その女は、『お医者様に”あなたの娘さんは肺病で、もう手遅れです。十月の最初の夕立のころに亡くなります”と宣告されました。私にはその娘しかありません。まだ十五歳の美しい良い娘です』と答えました。私はその母に『信仰さえあれば、娘さんを治せる医者を知っています』と言いましたが、『もうだれも娘は治せません。三人もの医者に娘を診てもらったけれど、もう喀血までしているのです』
         でも、私は説得しました。『私の言う医者は、他の医者とは違います。薬で治療するのはなく、自分の力で治します。その人はメシアです』すると、一人の老婆が『おおエリーザ、信じなさい。その人のおかげで見えるようになった盲人を知っています』と勧めたので、母親は『気を落とさずに、信頼してあなたを待っています…』と言っていました。
         これでよかったですか。こうしかできませんでした。」
        「よかったとも。今晩、おまえの友人たちのところへ行きます。それから、ユダに会いましたか」
        「いえ、会っていません。でも、私に食べ物と金を送ってきたので、それを貧乏人に配りました。それに、自分の金だから使ってもよいと言ってくれました」
        「そうですね。ヨハネ、明日ガリラヤの方へ行きましょう」
        「ええっ? うれしい。シモン・ペトロのことを考えています。どれほど喜ぶか分かりません。ナザレトにも、夜、立ち寄るのですか」
        「そう。ペトロとアンドレア、おまえの兄のヤコボを、そこで待つつもりです」
        「では、私たちはガリラヤに残るのですか」
        「少しの間」

        (1)衆議会員かそれともファリサイ人らしい。
        (2)ガマリエルは、少年イエズスに神殿で出会ったときのことを暗示している。 

        37 ナザレトで

        2015.08.05 Wednesday

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          マリア・ワルトルタ著作による『イエズスに出会った人々』(三) フェデリコ・バルバロ訳編 あかし書房 1984年より

          37 ナザレトで

           セフォリの北西、険しく石がごろごろして段々畑のようになっているナザレトは、丘の上から見ると広々している。時がたって山奥は変わったが、今、イエズスが立っている所は、イエズスを石殺しにしようと待ち受けているナザレトの群衆の真ん中を平然と横切り、皆を思い留まらせた所らしい。(1)
           イエズスは、懐かしいが敵もいるこの町を眺めようと立ち止まり、明るくほほえむ。神の子のほほえみは、イエズスを我が子として迎えた母の生地、神の嫁そして神の母となったこの地を祝福する。そのほほえみは、ナザレト人に値しない人には知られざる祝福である!
           従兄弟の二人も、我が町のように喜んで眺める。とはいえ、タデオは厳しく、ヤコボは晴れ晴れと穏やかで、イエズスのほほえみに近い。
           トマは故郷ではないけれど、喜びに顔を輝かせ、煙突から煙の出ているマリアの小さな家を指して言う。
           「お母様が家でパンを焼いています」本当の母親の話をしているかのような深い愛がこもっている。
           その年齢と教養のために落ち着いている熱心ものがにっこりする。
          「そうです。あの方の平和は、もはや私たちの心にも及んでいます」
          「さあ、早く行きましょう」と、ヤコボがせかす。
          「ナザレ人たちに気づかれないよう、こちらの小道を行きましょう」
          「そうすると、おまえたちの家から遠くなります…おまえたちのお母さんも早く会いたがっているでしょうに」
          「おお、シモン、安心して。きっとマリアの所に集まっているはずです…パン焼きのためだけでなく、あの病気の娘もいるから」
          「そうですね。こちらから行けば、アルフェオの菜園の裏手を回って、うちの庭の垣根の所に出ます」とイエズスが言う。
           とっかかりの急な坂道を滑るように早足に下り、町が近くなるとゆっくり歩く。オリーブ畑を抜け、麦の収穫の終わった小さな畑を横切り、町の最初の菜園の横を通る。菜園の垣根はよく茂り、たわわに実った枝が垂れ下がって石垣を覆っているので、菜園の中で働く人や洗濯物を家のそばの草原で干している主婦の目に留まらずに済む。
           冬はキイチゴの枝がもつれ、夏は西洋サンザシの咲くマリアの庭を囲む垣根は、今、ジャスミンと杯のような形の花で飾られている。垣根の奥で、カピネラがきれいな声で鳴き、クークーと鳩の鳴き声も聞こえる。
           「いつだったか修繕した戸も花に覆われています」と、庭の裏手の粗末な戸を見るために一足先に行ったヤコボが声を上げる。
          「では、あぜ道から行って戸をたたきましょう。母は、修繕したばかりの戸が壊れたら悲しむから」とイエズスが答える。
          「マリアは”閉じられた庭園(2)です”」とアルフェオのユダが感激している。
          「そう。そしてマリアはそこのバラです(3)」とトマが言い、
          「アザミの中の百合のように(4)」とヤコボが言い、
          「封じられた泉」と熱心ものが言う。
          「むしろ、庭園を潤す泉、生ける水の井戸、レバノンから流れ下る小川(5)。地に命を与え、その香り高い美しさで天に向かってほとばしる」とイエズスが受ける。
          「あと少しで、お母様があなたを見たら、どんなにお喜びになるか」とヤコボが楽しげに言う。
          「従兄弟よ、ずっと以前から知りたいと思っていたのですが、教えてください。あなたはマリア様をどのように見ているのですか。母としてですか。弟子としてですか。確かにあなたのお母様なのですが、マリア様は女性で、あなたは神です…」とタデオが質問する。
          「姉妹であり、花嫁であり、神の歓喜と休養また人間の慰め(6)です。私は、神としても、人としても、マリアにすべてを見、すべてを持っています。天の三位一体の第二の位格の悦楽であり、御父と聖霊と同じように、みことばの歓喜であり、肉体となった神の歓喜であり、光栄を受けた神なる人間のみことばの歓喜です」
          「何という奥義! では、神はご自分の歓喜を二度もあなたとマリアに分かち与え、あなた方をこの世にお与えになったのか(7)」こう熱心ものは感嘆する。
          「何と言う愛! これを誇るべきです。愛は三位一体がマリアとイエズスとを、この世に与えるのを惜しまれなかった」とヤコボが感嘆する。
          「神であるあなたは別にして、神はご自分のバラを、見つめるにふさわしくない人間どもに委託するのを恐れなかったのでしょうか」とトマが首をひねる。
          「トマ、『雅歌』でおまえに答えます」

          「編集者のことば」
           ここに雅歌八章十一〜十二節が引用されるが、実際のイエズスのことばは、引用とは少し別のものである。
          ”ソロモン(平和の人)には、バアル・ハモンにぶどう畑があって、それを番人に任せてあった”ここまでは聖書のとおりだが、次からは異なる。

           「この番人は、神のことばを汚す者にそそのかされ、そのぶどう畑を手に入れるために大量の金貨を積むが(すなわち、誘惑するためにはすべてを投げ出すつもりであった)、主の美しいぶどう畑”聖母マリア”は、自分自身を守り抜き、その収穫を主のみに捧げようとし、値のつけられない宝物、救い主を産んだのです」
           戸口に着いたアルフェオのユダは、イエズスが閉じられた扉をたたく時に、こう言う。
          「”私の花嫁よ姉妹よ、愛する者よ、雌鳩よ、汚れない者よ、戸を開けてください”と心から言えるのは今ですね」
           だが、イエズスは最も美しいことばを一言だけ言い、腕をいっぱいに広げて迎える。
          「お母さん!」
          「おお、我が子よ! 祝された者よ! 入りなさい。平和と愛とが、あなたとともにありますように!」
          「お母さんと、この家に住む人々とに平和!」と言いながらイエズスが入り、他の人々もついて来る。
          「あなた方のお母さんは向こうで、女弟子の二人はパン焼きと洗濯をしています」と、使徒や弟子にあいさつをしてからマリアが説明する。
           使徒たちは慎み深く、母と子だけになれるよう席をはずす。
          「母様、やって来ました。少しの間、一緒にいられます…。おお、母様。長い間人々の中にいた後で、家に帰ると、実に暖かく心地よい。とりわけ、母様が」
          「でも、人々はあなたを知れば知るほど、二本の枝に分かれていきます。あなたを愛している人々と…憎んでいる人々…憎む枝の方が太いわ…」
          「今、悪は打ちのめされる時が近いと知り…ある人々を荒れ狂わせています…娘の具合はどうですか」
           いくらかは良くなりましたが…手遅れになるところでした…もううわ言は言っていません。娘の話は遠慮がちですが、うわ言と一致しています。私たちがうわ言から娘のこれまでの暮らしを推し量っていないと言うとうそになります…気の毒な娘!…」
          「まさしく。けれども、御摂理が娘を守りました」
          「それで、今は?…」
          「今は…知りません(8)。アウレアの身柄は私のものではありません。霊魂は私のものですが、身柄はヴァレリアに預けられます。今はいろいろ忘れるために、しばらくここにいるのですが…」
          「ミルタがアウレアを欲しがっています」
          「知っています…でも、あのローマ人の婦人の許しなしに何かを決める権利は、私にありません。娘を金で買ったのか、それとも約束という武器だけを用いたのか。…あの婦人が娘を返してほしいと言ったら…どうしたものか」
          「子よ、私が代わって頼みに行きます。あなたが行くのはよくありません…お母さんに任せなさい。女だと―イスラエルでは一番下等なものですが―異邦人と話をしに行っても、それほど目立ちません。それに、お母さんはほとんど世間に知られていません! マントを羽織ってティベリアデの道を歩き、ローマの婦人の家を訪れるただのヘブライ人の女など、だれの目も引きはしません。」
          「では、ヨハンナの家へ行って、そこであの婦人に話すのがいいと思います」
          「子よ、そうします。おお、私のイエズス! あまり心配しないで…とても悲しんでいますね…私には分かります…あなたのためにあれこれとしてあげたいけれど…」
          「もはやいろいろしてくださっています、お母さん。あなたがなさるすべてを感謝しています…」
          「おお、子よ。私はちっぽけであわれな助けですね! あなたがもっと愛されるようにすることもできず、その時まであなたに何の喜びも与えられず…私は一体何なんでしょう。何も言えないあわれな女弟子です…」
          「母様! 母様! そんなふうに言わないで! この私の力は、母様の祈りによるものです。母様のことを考えると、ほっとします。今、母様の胸にもたれて、おお! どれほど慰められることか…母様!…」
           イエズスが壁にもたれて立っていた母を引き寄せ、その胸に額を押し当てると、マリアがそうっとイエズスの髪をなで、愛にあふれる沈黙が流れる。イエズスが立ち上がって言う。
           「他の人たちやあの娘の所へ行きませんか」母と一緒に庭に出る。
           娘が寝ている部屋の入口で、女弟子が使徒たちと話し込んでいるが、イエズスを見るとひざまずいて黙る。
          「アルフェオのマリア、あなたに平和。ミルタとノエミ、あなた方にも。娘は眠っていますか」
          「はい。熱が高く、もうろうとしています。このまま続くようなら、危ないかもしれません。あの体では病気に勝てないし、いろいろ思い出して錯乱状態なのです」とアルフェオのマリアが伝える。
          「そのとおりです。それに、もうローマ人を見たくないから、このまま死にたいと漏らしています…」とミルタがつけ加える。
          「もうこの娘を愛している私たちには大きな苦しみです…」とノエミが言う。
          「心配しなくてよろしい」と、イエズスが戸口のカーテンを少し開けて力づける。
           壁に向いた小さな寝台に、こけた頬だけが真っ赤で、顔は雪のように白く、黄金の長い髪にうずもれて葬られているようである。あえぎながら、もごもごと意味不明のことばをつぶやき、毛布の上に手をだらんとして、時々何かを拒絶するしぐさをする。
           イエズスは部屋の入口に立ったまま、あわれみを込めてアウレアを見つめていたが、
          「アウレア! おいで! あなたの救い主がいます」と強く呼びかける。
           娘はむっくり起き上がってイエズスを見ると、大きな叫び声を上げながら、寝巻きの裾を引きずりながら、裸足のままイエズスの足元にひざまずく。
          「主よ! 今度こそ解放されました!」
          「治りましたね。ほら、死ねませんね。先に真理を知る必要があったから」こうイエズスの足に接吻する娘に話しかける。
          「立って、平和に行きなさい」こう言うと、熱が下がった娘の額に軽く手を触れる。
           アウレアは、処女マリアにもらったらしい裾の長い麻の服を着、やせ細った肩に、髪がマントのようにたっぷりかかり、下がったばかりの熱で灰青色の瞳がうるみ、今、湧き上がる喜びに、まるで天使のように見える。
          「さようなら! 私たちは仕事があるから、あなた方は娘と家のことをしてください…」と先生が言うと、四人の使徒たちと一緒に、ヨゼフの昔の仕事場で、今は何の用もしていない仕事台に腰かける。

          (1)ルカ4章。
          (2)雅歌4・12。
          (3)シラ24・14。
          (4)雅歌2・2。
          (5)雅歌4・15。
          (6)雅歌4・8~12,5・1。
          (7)雅歌8・11~12。
          (8)人間としての知識では知らない。