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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 5

    2016.09.08 Thursday

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      第十二章
      煉獄の於ける苦しみと歓喜の一致


       人が〔現世の眼から観て〕完全とみなしているものは、神の御眼には欠陥に満ちていることを知れ。人間のすべての行為—思念(おもい)、感情(かんじ)、言語(ことば)、行動(ふるまい)—は如何に完全らしく見えるとも、神の聖旨にかない奉る意向を以てなされたのでなければ、不完全で汚れている。行為が完全であるがためには、我等が主行者としてではなく、神が我等のうちに行動し給うのでなくてはならぬ。
       この行為は神の御業であり、神に於いてなされたものでなければならない。それでいかにしても人は主行者であってはならぬ。我等に功がなくとも、結局我等のうちに神が行動し給うこの純粋な愛の最後の作用は、正にかかるものを請うのである。この最後の作用に於いて、神は霊魂に入り、霊魂を燃やし給うから、霊魂を包む肉体は焼尽されるようで、(8) これを他の表現を以てすれば、霊魂は燃ゆる火の竈の中にあり、そこではただ死によってのみ、休息が得られるのである。
       それにもかかわらず、神の溢るる愛は、煉獄の霊魂に言い尽くし難い歓喜を与え給うのは勿論であるが、しかしこの歓喜は苦しみを毫も減ぜず、むしろこの愛が妨げられていることに気づくことからして、苦しみは起こる。神が霊魂に受容させ給うこの愛が、完全となればなるほど、苦しみは大きくなる。
       このように煉獄の霊魂は、最大の歓喜を当うと同時に、極度の苦しみをも感じるが、苦しみは歓喜を、歓喜は苦しみを互いに妨げない。

       

      (8)抽象的に言う。

       

      第十三章
      煉獄の霊魂は、今はもはや功を積む状態にない。彼等のために、現世に於いてなされた人の祈りと善業の施興を、彼等はどう考えるか
       煉獄の霊魂が痛悔によって、その汚れを浄めることが出来たとすれば、彼等は一瞬にしてそのすべての負い目を除き去るのどの熱烈にして劇しい痛悔の業をするであろう。これは彼等の唯一の愛であり、終極の目的である神に達するのを妨げている障碍の結果を明らかに観るからである。霊魂は負い目を、ことごとく還さねばならないことは確かで、これは義の要求を満たすための神の命である。このことについて、霊魂は自分自身選ぶことが出来ず、神の意志以外の何ものも考えず、望みもしないのは、そう定められているからである。
       彼等は苦しみの期間を短縮(ちぢ)めるために、現世の人々によって捧げられる祈りと善業の施興(ほどこし)は、神の聖旨にかなうものでなければ、望まないであろう。彼等は主の限りなき全善の思し召しのままに償罪を要求し給う神の御手のうちにすべてを委ねる。これらの施興を、彼等が神の聖旨と別箇なものとして考えることが出来れば、それは神の意志を彼等に悟らせまいとする自我の業となるとともに、彼等にとっては真の地獄のような苦しみとなるであろう。彼等は、彼等に對する神の意志の上に動き得ずに止まり、愉しみも苦しみも、彼等を再び自我に向けさせない。

       

      第十四章
      煉獄の霊魂の神の意志に對する服従


       これらの霊魂は神と緊密に一致し、神の意志に化しているから、萬事に於いて神のいとも尊き命に満足し、わずかでも浄化すべきものを有ったまま、神の尊前(みまえ)に霊魂が置かれたならば、煉獄の苦しみよりも更にひどく苦しみ悩むであろう。
       神の汚れなき至聖、全き善は、その霊魂が尊前に在ることをゆるすことは出来ない。神の尊前に在るのを霊魂にゆるすことは、神の側からすればふさわしくないことである。よって、神を全く満足させる瞬間が欠けていることに気付けば、(9) 霊魂にとってそれは堪え難いことであり、完全に浄化されずして神の尊前に立つよりも、直ちに地獄のような苦しみの中に飛び込むであろう。


      (9)今一瞬で神に到る、その一瞬が欠けていればの意。

      煉獄論 4

      2016.09.08 Thursday

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         『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
        ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

         

        第九章
        煉獄に於いて、神と霊魂が相互に想いつつ観る方法、聖女はこのことは説明出来ないと告白する

         

         私の心の中で今まで煉獄について観た凡てのものは、非常に熾烈であるから、私が現世で悟れる限り、いかなる観念、言語、感じを以てしても表わすことが出来ず、煉獄の概念を示し得る凡ゆる義も、真理も、偽りで、価値のないもののようにみえる。であるから私が感じるものを、説明し得る言葉がないのを、恥ずかしく思う。
         神と霊魂とは全く適合しているから、神は霊魂が創造られた時の純潔な状態にあると観給うとき、霊魂は不滅であるが、それを虚無とするほどの神の燃ゆる愛に牽き付けられる力を、神は霊魂に与え給うのである。このようにして神は、霊魂を神の本性に与らせ給うから、霊魂は自分のうちに神以外の何ものもみず、神は霊魂が創造られた時の状態、即ち、汚れなき純潔とするまで、このように霊魂を牽付け、燃やしつづけ給うのである。
         神が御自分に對するかかる愛熱を以て霊魂を牽き付け給うことが、内照によって霊魂にわかるとき、直ちに霊魂のうちには霊魂を全く熔かす、いとも哀憐深き神に對する愛の火が(神の愛熱に対応して)起こる。そのときこの霊魂は、神がいと深き愛と尽きせぬ摂理(みはからい)とを以て、霊魂を全き完徳に恒に導き給うとともに、これらのことを凡て純愛をを以てなし給うことが、神の光によってわかる。更に霊魂は、罪によって煉獄に止められており、神からの牽引力に従うことが出来ないこともわかる。この牽引力とは、御自身と一致させるため、霊魂を牽き寄せようとして、神が霊魂に注ぎ給う一瞥(いちべつ)をいうのである。
         神の光を観ることを妨げられるのは、いかに重大であるかを意識することと、何の障碍(さまたげ)もなく神の一瞥に従いたい本来の熱望とが結び付き、これら二つのものが煉獄の霊魂の苦しみをなすのである。それで煉獄の霊魂は、苦しみがいかに大きくとも、その苦しみを意もせず、むしろ苦しみよりも神の意志に背き奉ったことを一入深く想い、この神の意志は、霊魂に對する純愛を以て熱く燃えていることが、明らかに彼等にわかる。
         又一方神は愛の一瞥により、強く御自身の方に霊魂を牽きつづけ給う。霊魂はこれらのことをよく承知しており、もし霊魂が、今の煉獄よりも一層速やかに障碍を取り除くことが出来る、さらに大なる煉獄を見出し得たとしたら、直ちにその中へ飛び込んだであろう。霊魂は、霊魂を神に適合させる愛によって駆り立てられているから…。

         

        第十章
        神は霊魂を全く純潔にするため、如何に煉獄を用い給うか


         又神の愛の竈から、霊魂に或る燃え光っている光線が、注がれていることが、私にわかった。この光線は単に肉体のみならず、もし出来れば霊魂も滅するまでに、力強く且つ〔霊肉に〕貫き入るようにみえる。この光線は二様に作用する。即ち浄化し、滅する。
         金を看よ、金が他の物質を含んでいればいるほど、それだけ純化されねばならないから、火に熔かされて金滓(汚点)をことごとくなくする。これが火の物質に對する作用である。
         霊魂が神と一致し、神のうちのあれば、滅せられ得ず、自我のうちにあれば、浄化さるべきものがあるから、滅せられ得るのである。霊魂は浄化されるにつれて自我を滅し、遂に純粋となり、神のうちに憩うようになる。
         他物質をことごとく除き去り、一定の度まで純化された金は、火力がいかに強くとも滅少しなくなる。それは、火が金を滅せず、金滓(かなかす)だけをなくするからである。
         霊魂に於ける神の火も丁度これと同じである。神は霊魂の凡ての汚点が焼き尽くされ、霊魂のそれぞれの程度に従い、人が達し得る最高の完徳に霊魂を挙げ給うまで、この竈の中に霊魂をとどめおき給う。
         かくて霊魂が浄化された時(5) 自我の混合物なくして神のうちに憩い、神の実体が彼等の実体であるほどまでに親しく神と一致し、全く浄化されてもはや焼き尽くされる何ものも残っていないから、彼等は苦しむことが出来ない。この純潔の状態のままで、彼等がなほ火中に保たれていれば、彼等は苦しみを感ぜず、むしろ永遠の生命の火が(6) 障碍に遭わずに霊魂の中に燃えるように、神の愛の火は、障碍もなく、この浄化された霊魂のうちに燃える。

         

        *この”滅せられる”とは、自己に死すこと

         

        (5)もはや煉獄ではない。
        (6)神の愛を指す。

         

        第十一章
        煉獄の霊魂は、罪のわずかの汚れからも浄化されることを望む

        彼等の有つ欠点を霊魂から突然隠すことは、神の叡智の御業である

         

         霊魂は神の命に従って生活し、罪の汚れなく保たれているものと仮定すれば、創造られた時の霊魂は、完徳に達するため、能う限りすべての素質が与えられていた。がしかし、原罪によって汚され、霊魂は賜と恵みをことごとく失って死すべきものとなった。神のみがこれを再び生命にもどし給うことが出来、洗礼によって実際にそうなし給うたにもかかわらず、霊魂にはなお悪への傾きが残っており、それに抵抗しないときは、自罪に傾き、これに陥り、その自罪によって霊魂は再び〔超自然的に〕死ぬ。が神は再び霊魂を〔悔俊の秘蹟によって〕生命にもどし給う。
         しかし、この生命に還されて後も、霊魂には多くの錆があり、(神に向わず)自我に傾くから、霊魂を原始の状態に還すには、これまで私が語った神のすべての御業を必要とし、これなくして霊魂は還され得ないのである。
         霊魂が、原始の状態に還る途上にあることに気づいたとき、神と一つになる望みに燃やされるから、この望みが霊魂にとって煉獄の苦しみとなる。これは霊魂が苦しみ(煉獄)を苦しみとして認め得るという意味ではなく、霊魂にとっては、煉獄で燃やされている神の方に牽く本来の傾向と、霊魂が妨げられている障碍とが、煉獄となるのである。
         神は人の協力なくしてこの最後の業をなし給う。(7) 何となれば霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が観えれば霊魂は絶望するからである。それでこれらの短所は、私が述べた経過の中に於いてなくされる。そして短所が焼尽されたときに、焼尽されねばならぬすべての短所を焼尽す愛の火の点じたのは、神御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらの短所を霊魂に識らせ給うのである。


        (7)最後の業。霊魂を天国にゆかせるための愛の最後の行為の意。
         第十一章記述中「原罪によって汚され…生命に戻し給う」までは現世に於いて。「併しこの生命に還され…霊魂は還されることは出来ない」までは現世と煉獄に於いて。「霊魂が最初の状態に還る途上…」以下は煉獄に於いて。最初の状態に帰る途とは煉獄の途(みち)のことである。

         

         

        煉獄論 3

        2016.09.06 Tuesday

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          第六章


          煉獄の霊魂が神を愉しむことを、激しく望み愛することを説明する比喩

           

           人々の飢えを満たすため、世界中にただ一つの麪(ぱん)しかなく、ただそれを見るだけで飢えを満たすことが出来たとする。そのような場合、健康な者ならば、その食物を望むのは当然であり、死ぬか、病にかからぬ限り益々飢餓を覚えるであろう。なぜならば、この熱い望みは減じることなく継続き、彼等は一塊の—唯一塊の麪(ぱん)だけが飢えを満たし、これに達しないうちは飢えを癒すことが出来ないとわかれば、その苦しみは喩えようもなく、且つ麪(ぱん)に遠ければ遠いほど苦しみは増す。
           而して麪(ぱん)を見ることが出来ないことが確かになれば、その心中には、全く地獄のような苦しみが起こり、生命の麪(かて)である彼等の救主なる神を、恒に観奉るあらゆる希望から断たれた淪亡者(ほろぼしもの)のようになるであろう。これに反し煉獄の霊魂は、飢えて麪(ぱん)を見ることを望み、その麪(ぱん)を以って全く満たされることを望む。従って真の神、我等の救主、我等の愛の目的にて在(ましま)すイエズス・キリストなる生命の麪(かて)を、永遠に所有するに到るまで、〔霊的〕飢餓を忍び、凡ゆる苦しみを苦しむのである。

           

           

          第七章


          煉獄と地獄を創造し給うた神の卓越せる叡智


           神のために創造された霊魂は、神を措いて他に憩うべきところがないように、大罪の状態にある霊魂は地獄以外にゆくべきところがない。これは神の命による霊魂の終極である。であるから霊魂が大罪の状態のまま肉体を離れるや、定められた場所として直ちに地獄にゆく。この地獄に淪(しづ)みゆくのは、罪の本質によるのであって、他の原因によるのではない。神の義によって〔神に赴くことから〕このように霊魂がはばまれず、地獄にゆく神の命から全くまぬがれられたとすれば、霊魂は地獄の苦しみより更に大いなる苦しみを堪え忍ばねばならないのであろう。何となればこの命は神の哀憐の一部であるとともに、罪に相当する苦しみよりも軽いからである。霊魂は自分にふさわしい場所も、神が霊魂に課し給うた苦しみより更に軽い苦しみも見出せないから、その霊魂にとってふさわしい場所として、地獄に自ら淪みゆくのである。
           煉獄についても同じことが言える。肉体を離れた霊魂が、創造された時の純潔な状態でないことが解るとき、神との一致をはばんでいる障碍を観、(4) 煉獄によってのみこの障碍が除かれ得ることを悟るから、一瞬の躊躇もなく煉獄にゆくのである。そして障碍を除くために用意されたこうした方法(煉獄)がなければ、まだ償いを果たさない罪のために、霊魂は自分の終極の目的である神に到ることが出来ないことがわかり、又この神に近づき得ないことが、どれ程悪いものであるかを思い、この悪と比べれば、煉獄をいささかも悪いものとはみなさないから、霊魂のうちには、煉獄よりも更に悪い地獄のような苦しみが生じるであろう。私は煉獄の苦しみは、或る意味で、地獄の苦しみと似ていると述べたが、この苦しみさえも神に對する愛にくらべれば、又何ものもない。

           

          (4)煉獄に入る前に障碍を観る。障碍とは純潔の状態にないことで、煉獄はこの障碍を取り除く所であり、障碍がなければ煉獄はない。この障碍は煉獄よりも更に悪い。

           

           

          第八章


          煉獄の必要、如何に煉獄は恐ろしいか


           神の側からすれば、天国には門がなく、其処に入ろうとする者は、誰でも入ることで出来ると言うことを私は繰り返し言う。なんとなれば、神は哀憐そのものであり、我等を迎え入れ、種の光栄に入らせようと恒に待ち給うからである。しかし神の実体は〔人が想像し得る以上に〕遥かに純粋であるから、霊魂は自分のうちに短所の極く僅かな微片さえも認めるなら、神の尊前にその汚点のままでゆくよりも、むしろ自分を苦しみに投ずる。それで煉獄がこのような汚点を取り去るために、定められたことを悟り、霊魂はその煉獄に入り、汚点を取り去ることが出来るのは、大いなる神の哀憐であることを其処で悟る。
           煉獄がいかに怖ろしいかは、口に言い表せず、心にも悟り得ない。煉獄の苦しみは、地獄の苦しみと似ている。けれども〔既に述べたように〕短所の僅かの汚れさえも有っている霊魂は、煉獄を哀憐としてうけ、愛の対象たる神から離れていることとくらべれば、霊獄をさほど大したものと思わないことが、私にわかる。
           煉獄の霊魂が堪え忍ばねばならぬ最大の苦しみが起こるのは、神の聖旨にかなわないものが、霊魂のうちに現にあることを識り、又神の全善に対し、その聖旨に悖ることを、霊魂が自ら進んでしたことを識るからであると私は悟る。なんとなれば聖寵の状態にあれば、人は(神に関し、人に関し)真実を知り、神に近づくことを彼等に許さぬ障碍が、いかに大きいものであるかを悟るからである。