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2017.01.04 Wednesday

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    ミサの聖なる犠牲(The Holy Sacrifice of the Mass)

    2015.12.19 Saturday

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      ミサの聖なる犠牲裏表紙
      The Holy Sacrifice of the Mass
      マリー・アン・ヴァン・フーフへ
      祝されし童貞聖マリアのメッセージにより解説された
      ミサの聖なる犠牲
      1. 今日における真のミサとは?
       聖トマス・アクィナスは次のように言いました。「…新しい教義を告知する目的ではなく、行動を指導するために、預言の霊を与えられた人々が、あらゆる時代において存在してきた。」ウィスコン州ネセダの聖なるロザリオの元后、平和の仲介者、神と人の仲介者の聖堂において、われらが祝された御方、神の御母は、マリー・アン・ヴァン・フーフ夫人に34年間に渡って御出現になっています。それは私たちの現在の方向を改めるよう私たちを説得なさり、また今日のほとんどの人々は正道を全く外れているということを私たちに告知なさるためです。

       天は今、私たちがキリスト教の歴史における最大の異端の中にいると警告しておられます。それは近代主義(モダニズム)あるいは人間中心主義(ヒューマニズム)の異端と呼ばれます。教会の中で行われた多くの「いわゆる」近代的改革は、サタンによって推進されたものです。キリスト教を破壊するための大いなる混乱をもたらすため、そしてキリスト教を世界統一宗教で置き換えてしまうために。この近代的世界統一宗教は、神を愛する、あるいは隣人を愛する、と口先で言いさえすれば、ほとんど全ての罪を容認する、まったく水増しされた宗教となるでしょう。

       地上における神の教会を破壊するために、サタンは人間に与える神の最も完全な贈り物を破壊さねばならないことを知っています。それはミサの聖なる犠牲(いけにえ)です。もし彼がこれを一気に行うとすれば、良い人は反対したでしょう。しかし、悪魔はこのようなことをするには賢すぎました。それゆえ彼はあちらこちらに変更を加えつつ、ゆっくりとそれを行っているのです。ついには無価値なものになってしまうまで、ミサの本質的部分が変えられてしまうでしょう。

       聖母は、マリー・アンに私たちがまさしく正道を踏み外しており、新しい指導が必要であることを私的啓示を通して明かされました。私たちが道を踏み外している領域の一つはミサを捧げることについてです。私たちは真のミサを捧げる最も完璧な方法は、西方ローマ教会のために教皇聖ピウス五世とトリエント公会議によって16世紀に許可されたトリエント・ミサであると天に言われています。天は私たちに新しい、あるいは最近の第二バチカン公会議以降に発達したミサの立て方、しばしば「オルド・ノヴス」ミサと呼ばれ、現在ではほとんどの司祭がそれによっている仕方は、水で薄められた、より敬意の少ない、より功徳の少ない、真のトリエント・ミサの変形版であるとおっしゃっています。
       にも関わらず、天は「オルド・ノヴィス」ミサは有効なミサであると確認なさっています! そして、私たちは今なお、与れるミサがこのミサだけであれば、このミサに与らなければならず、可能であれば毎日与るべきです。

       天はまた、トリエント・ミサにしか与ろうとせず、オルド・ノヴスは有効ではないと主張する極端な保守主義のカトリック信徒についても警告を発しておられました。これあのいわゆるカトリックは間違っており、不必要にして有害な変更を推進している超リベラル派と同様に害を及ぼしているのです。

       有効なミサを成立させる四つの本質的な要素について覚えておくのが良いでしょう。それは次の通りです。
      ① 司祭が正しく叙階されていること。
      ② 司祭がミサを捧げる正しい意図を持つこと。
      ③ 司祭が正しい種なしの小麦のパンとブドウから採った正しいワインを使うこと。
      ④ 司祭が聖変化の言葉の正しい形式を用いることです。

       天はまた、マリー・アンに幾つかの小さな変更は、聖金曜日の主の磔刑の予期のうちに聖木曜日の夕べになされた、イエズスによって捧げられた原始のミサの方法に戻ったものであるという理由で、許されるとおっしゃいました。それゆえ、これらは本当は変更ではなく、あるいは変更であるにしても、それはミサの厳粛さを改善するためのものです。これらの改善の一つは、ミサはラテン語で立てられても良い、という点です。あなたがたの自国の言語で行われるミサの聖なる犠牲を捧げることは、とりわけ若い人々のよりよい参加のためになるでしょう。しかしながら、翻訳は正確でなければなりません!

       マリー・アンは天から次のことを言われました。すなわち、最初のミサはアラム語で立てられたのであって、ラテン語ではなかったということです。事実、ミサはラテン語で立てられる前は、長い間ギリシャ語で立てられていました。天はまた、祭壇と司祭はミサの時、人々の方に面していても良いとおっしゃいました。司祭は祭壇においてキリストを表象しているのだということを、私たちは覚えておくべきです。天はマリー・アンに、最初のミサの幻視を与えられました。そして私たちは次のように言われています。

       それは、この最初のミサは一般に誤解されているように、最後の晩餐ではない、ということです。最後の晩餐の後にキリストは使徒たちの足を洗われました。しして、およそ一時間が経過してから、イエズスは使徒たちに面して祭壇でアラム語でミサの聖なる犠牲を捧げられたのです。天はまた、私たちに次のことを思い起こさせます。それはミサは最後の晩餐のような宴会ではなく、本質的に、そして第一義的に犠牲であるということです。

       なぜなら私たちは完全ないけにえ―キリスト御自身―を血の出ない犠牲として持つからです。近代人はミサは難しいと思っています。なぜなら彼は犠牲の観念を失っているからです。天はまた、私たちに次のようにおっしゃいました。

       すなわち近代主義者たちは、ミサにおける犠牲の観念を排除してしまおうとしており、彼らは誤った仕方でミサを聖体の食事会であると言っている、ということです。今日の近代主義者は、神と隣人を愛する限りは、あらゆる掟を護る必要はないということにしてしまおうとしています。彼らは言います。あれやこれやの些細な罪に心配しなくともよい、と。これは異端です、注意しましょう、それは非常に広まっているからです! 

       マリーアンはミサの聖変化において現実に何が起こっているのかを見る特典を与えられました。この幻視はマリー・アンの描写によって、ある芸術家によって描かれました。聖変化のとき、十字架上のキリストが祭壇上に降りて来られ、神なる聖霊との一致のうちに、私たちの必要のために、御自身を聖父なる神へ御捧げになる様が描かれています。聖母、聖ヨゼフ、諸聖人、諸天使が祭壇を取り囲んでおられます。この幻視の光景を描いた絵は、この本の背表紙に印刷されています。

      貧しい者の聖母 La Vierge des Pauvres

      2015.05.06 Wednesday

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        『貧しい者の聖母 - バンヌーでのご出現1933 -』より 世のひかり社発刊 デルコル神父著

        くらい森にかがやく光
         ベルギーの東部地方、もっとくわしくいえば、リエージュの東方20キロのところにある森につつまれた一寒村に、ひとすじの光がかがやいた。1930年、バンヌー村でこんどもまた聖母はその尊いメッセージを貧しい家庭のひとりの少女にゆだねられた。
         聖母のご出現をみたのは、12才の娘マリエット・ベコーであった。この少女は、1921年3月25日、聖母のお告げの祝日に生まれたが、その年のこの日は聖金曜日であった。しかし、宗教に無関心な良心に育てられて成長したので、いうなら、「森の子」にすぎず、信仰生活のうちに開花し、芳香を放つ前にしおれてしまう一輪の花のようにみえた。
         この少女はたぶん、天国のことも、天使たちのことも聖母マリアのことも一度もあこがれたことはなかっただろう。ベコー家では、子どもたちにそういった話をする人がいなかったからである。
         もちろん信者ではあったが、毎日曜日のミサにも公教要理の勉強にもあずからないので、友だちからは軽蔑され、善良な人々からは同情され、司祭からは叱られることがたびたびであった。
         顔かたちは並で、貧しいために日常の糧であるかたいパンやいもにさえも、こと欠くありさまで、やせていてつぎはぎだらけの古びた服を着て、いつも寒そうなかっこうをしていた。それにしても、森に行っては枯枝をひろい、猿のように気にのぼり、枯枝の大きな束をせおったりなどして労働にきたえられた丈夫な体を恵まれていた。7人の子どもの一番上の娘だったので、弟や妹たちの世話をして、病弱な母親にとって大切な手伝い手だった。
         マリエットの名がバンヌー村以外に知られるようになった時でさえ、かの女は、「放逐された者」の村の一少女でしかなかった。「放逐された者」というのは、バンヌーという村の名の意味で、不名誉なこの村の起源を示している。すなわち、あちこちから追放され、人々から嫌われた人たちの集まりであった部落で、隣村の人々からさえ、ひどく軽蔑されていた。
         村にはおよそ100軒の粗末な家と、325人(現在は372人)ほどの貧しい人々が住んでいた。間もなく聖母はこの村をご自分の村とされるのである。貧しい人々からなる小教区であるこの村のある人々は、1914年、第一次世界大戦の戦渦をまぬがれるようにと、村を聖母マリアに奉献する願をたてたが、聖母マリアは、この願が実際にに守られるようになることを待っておられたのである。
        1914年バンヌーの近隣のバッティス、エルヴ、メランの村々は敵軍の掠奪にあい、焼きはらわれたので、これにおびえたバンヌー村民の一団がバンヌー城に難をさけ、城主クリナン婦人のすすめに従って、もし戦渦をまぬがれるなら、村を聖母に奉献し、聖母バンヌー村と命名する願をたてた。そして、バンヌーは不思議にも戦渦をまぬがれた。

        聖母の呼びかけ
        第1回のご出現(1月15日、日曜日)
         ご降誕の大祝日も、ご公現の祝日(1月6日)もすぎた。それにしてもベコー家の7人の子どもたちにとっては、それは喜びのない、わびしい祝日でしかなかった。
        1993年1月のはじめ、ベルギーでは、ボーレンの聖母ご出現が正しいものであることを示す印しを神に求めて9日間の祈りが行われていた。ある司祭は、1月15日に9日間の祈りが終わり、この日ポーレンに行って、一修道女院の聖堂でミサ聖祭をささげたが、その意向は、はっきりとした印をもって聖母のみ名がたたえられるようになることを願っていた。
         バンヌーでも、主任司祭は、ヴェルヴィエ町のクララ会、ラ・ウルブ町の聖母の聖心会の修道女たちと心を合わせて9日間の祈りをしていたが、村の人は、そうしたことを知らなかった。この9日間の祈りは、1933年1月16日に終わったが、そのひそかな祈りの目的は、ポーレンのご出現が信頼できるかどうかについて、起こりうる誤解をさけることにあった。1932年11月29日から翌33年1月3日までの間に聖母は、ポーレンの5人の子どもに度々ご出現になった。この出現は、16年後の1949年7月教会から公式にみとめられた。
         1933年1月15日の日曜日にも、マリエットは、いつものように、ミサ聖祭にも公教要理にも行かなかった。その晩の7時ごろのことである。かの女は窓ぎわに立って、夜の闇をすかして庭のむこうがわの道をながめていた。家の前の小さな庭の向こうは、パパンステルに通じる道になっていて、この道の向こうには、「もみ」の美しい森があった。この森と家の間に、あとで聖母のご出現があったのである。まだ帰ってこない弟のジュリアン(10才)を心配して、帰りを待っていたのである。暗くなってもまだ帰って来ない…
         それは、星のまばらな、月のない暗い夜であった。すると、急にマリエットの眼の前に、美しい貴婦人が現われた。光に包まれ、まっ白な衣を着た婦人は、マリエットから5、6メートルほどの所に立っている。頭を少し左にかしげ、手を胸の前にくんで、ほほえみながらマリエットを見ておられる。
         かの女は、夢ではないかと、頭を右にかしげたり、左にかしげたり、上に向けたり下に向けたりしてみた。あるいはランプの反射ではないかと、ランプを置きかえたりして、窓ぎわから闇をすかしてみたが、やはり婦人はほほえみながらマリエットを見ておられる!?
         マリエットはふるえながら、隣の部屋の母親のそばに走って行き、
        「お母さん、くら闇の中に女の方がいらっしゃる。聖母のような方よ…」といった。
        「庭に聖母が?…」
        「お母さん、ここに来て見てよ、きれいな方!…」
         母が窓からのぞいてみると、せまい庭の右手の道から4歩ほどのところに、地上30センチメートルぐらいの高さに、かがやかしい光に包まれた美しい婦人の姿がかすかに見えたが、…すぐ消えてしまった。母は窓にカーテンを引きながら、
        「たしかに聖母だね…」
        と娘にいい、それから戸に鍵をかけた。
         マリエットは、また窓に近づき、カーテンをのけて出現者を見まもった。もう何もこわくない。かえって、聖母のみ前にいると思うと、うれしくてたまらなかった。…ポケットからロザリオを取り出して祈りはじめた。
        「めでたし」を50回となえ、ロザリオ一環を終わっても、これまで経験したことのないすがすがしさを感じてまた祈りつづけた。それから10回「めでたし」をとなえととき、婦人は体を動かし、左の手を胸にあて、右の手でマリエットにそばに来るように合図された。
        「お母さん、出て行っていい? あの方が何かおっしゃりたい様子で、そばに来るように合図していらっしゃるのよ」
         マリエットが母のゆるしを求めると、母は、ひと言も言わないで、まだ戸をかけたままになっていた鍵をはずして、マリエットをひき離した。母は、娘が気でも狂ったのではないかと思ったにちがいない。
         マリエットは、すぐ窓のところにもどったが、もう何も見えなかった。悲しくなったが、もう一度ロザリオをとり出して「めでたし」の祈りを、くり返し、くり返しとなえると、言いようのない慰めを心に感じた。
               *       *        *
         その夜は、夢も見ないで、ぐっすり眠った。マリエットが翌朝、まえの晩のことを全部父に話すと、父は聖母の出現ときくと、「ばかな! そんなことがあるものか?」といって、出て行った。かの女は、あとで友だちのジョセフィーヌ、レオナールに何もかも全部話した。すると、ジョセフィーヌは、すぐ主任司祭のところにいって、それを告げた。
        「神父さま、マリエットさんは聖母を見たんですって」
        「まあまあ、聖母はそう簡単に見えるもんじゃないよ」
         主任司祭がこんなに答えるのも無理はなかった。ちょうどその頃、ベルギー国のポーレン町での聖母出現のことが、みんなの話題になっていたからだった。こんどのポーレンの出来事も本当のご出現かどうかと案じて、天からの光明をうけるために、司祭は9日間の特別な祈りを終えたばかりであった。司祭は、マリエットも聖母の出現を見たと聞いたときに、こう考えた、「マリエットはポーレンのご出現の話を聞いたので、自分も聖母を見たように思ったのだろう」と。それで、かれは、ジョセフィーヌに注意した。「マリエットが人からばかにされるといけないから、このことは話してはなりませんよ」と。
         しかし聖母は、たびたびご出現によって、こうした疑いをすべてお消しになったのである。
         1月18日(水曜日)の朝、マリエットは、ミサにも公教要理の勉強にも行った。すると、今まで質問されても満足に答えたことがなかったのに、今度は、満点だった。神父は不思議に思ったので、他の子どもたちを帰してから、マリエットを聖堂につれて行って、かの女が見たというご出現のことをくわしく調べてみた。40以上の質問をして、マリエットの答えをいちいち書きとめた。
         聖母のようなあの姫君は、まっ白な衣を着、みかしらにまっ白なヴェールをかぶり、腰に空色の帯をしめ、手に-ルルドの出現のときのように、-ロザリオをかけておられた。姫君は灰色の小さな雲の上に立ち、右足だけが少し見え、美しいバラの花でかざられていた。全身から光を放っておられたが、みかしらのまわりは、よりいっそう輝いていた。姫君は、マリエットのつかっているヴァロン方言で、はっきりした声で話されたのだった。
         神父は、マリエットを試みるために、聖母はちょうどルルドの聖母と全く同じ姿勢だったといわせようとしたが、マリエットは、自分が見た聖母のほんとうの姿勢を言葉でも身ぶりでも示した。
         どんなに詳しくしらべても、真実と思える点はいくつもあったが、それでも神父はまだ疑っていた。かれは、どんな疑いの余地もゆるさない「一つのしるし」を望んでいたのだった。

        「わたしは貧しい者の母です」
        第3回のご出現(1月19日、木曜日)
         美しい聖母は「ではまた」とおっしゃったから、再びご出現があると期待されていた。マリエットは、木曜日の夜、あの時間に、いつもの場所の凍てついた地面にひざまずいて、「めでたし」の祈りをくりかえしながら、期待をこめて待っていた。
         とつぜん、「おいでになりましたよ」と叫んで孝行な子どもが母の帰りを迎える時のように、嬉しそうに手を上げた。
         これは3回目のご出現である。マリエットは、もっと親しみ深くして、美しい出現者になまえを、ていねいにお聞きしてもいいと思っていた。神父からもすすめられていたのである。
        「どなたでいらっしゃいますか?」とマリエットがたずねると、そばに立っていた20名ほどの人たちは息をのんた。これらの人々には、何もきこえなかったが、出現者はご自分の新しい呼び名をマリエットにお示しになった、「わたしは、貧しい者の聖母です」。
         聖母から親しく教えられたこの呼び名は、教会でもこれまで聞かなかった慰め多いものだった。いつの日か、すべての貧しい人々は、すべての不幸な人々は、この栄光ある呼び名のもとに、慰めのおん母聖母マリアに祈るときが来るであろう…しかし、今のところ、マリエットはこの呼び名のほんとうの意味を理解できず、「ああそうですか、貧しい者の聖母」とひとりごとをくりかえしていた。
         聖母マリアは、特に貧しい人々の聖母である。貧乏な人々と、困難に出会っている人々の心から、超自然界への有益な信仰をうばい取り、無神論的唯物論の濁流を注ぎ込もうとするのが現代悪である。人は現世の物質に対する節度のない愛着をもつようになると、天国の理想も希望もたやすく失ってしまう…その結果、世界から喜びも平和も消えうせて、人生は戦争とあらゆる災難のうずにまきこまれてしまう。
         バンヌー村での聖母マリアのご出現は、世を清い光をもって輝かせたのである。神は聖母を通じて、現代を悩ます最大の異端である唯物論に対して戦うべきことをお教えになられた。

        「各国の病人のために」
         前の日と同様に、木曜日の晩も、聖母はご出現の場所に4分おとどまりになってから、道に出て、前の日から聖母のものとなった泉の方へマリエットを導かれた。前日のように、今日もまたマリエットは3度途中でひざまずいてから、泉のところについた。
         泉は聖母の泉となっていた。聖母は地上のわたしたちの水を必要とされるのだろうか、あるいは、わたしたちの人間の従順をおためしになろうとするのだろうか? この夜、マリエットは、勇気を出して出現者にたずねた。「美しい姫君よ、あなたはゆうべ”この泉はわたしのものです”とおっしゃいましたが、この泉は誰のためですか?」。
         聖母は、黙ってしばらくのあいだ、いつくしみにみちた微笑をうかべてから、「すべての国民のために」とお答えになった。それから数分沈黙がつづきた。
         12才のマリエットには、この天の約束の完全な意味がまだわからない。すべての国民といっても、少女には、その広い意味がつかめない。聖母は「病人のためです、病人を慰めるためです」とマリエットにもわかりやすく説明してくださった。そして、少女に対する特別な愛情のしるしとして、「あなたのために祈ってあげましょう。ではまた、さようなら」ちいって、少しずつ消えていった。
        「ありがとうございます。ありがとうございます…」とマリエットは立ちあがって聖母にあいさつした。
               *       *        *
         ご出現は終わった。マリエットが下を見おろしすと、貧しい者の聖母の泉からひとすじの水が流れている。このひとすじの水は病人を慰めるために各国に流れ広がるという意味だろうか?
         じつは、このひとすじの水はわずかなもので、一つのシンボルにすぎない。このシンボルによって暗示されるのは、つきることのない豊かな恵みである。
         神の道は、人間がこれを悟ることができない。その道は人間が考えるものとは異なったものである。わたしたちは、信仰と希望をもってこれに近づき、祈りに献身的な態度をとるようにつとめねばならない。
         バンヌーにおけるご出現のすぐあと、その場所から15分ほどで行けるタンクレモンという所にアメーの修道女会が新たに修道院をたてたが、この修道院の使命は、離教教会がまことの教会であるカトリック教にたちもどるのを早めるために、祈りと苦業、研究と出版による布教にとりくむことである。ファティマのご出現のときに、聖母はロシアの回心を予想させるようなことをおっしゃったように、バンヌーのご出現でも同じような希望を抱かせようとお考えになったのではないだろうか?
               *       *        *
         マリエットが家に帰ったときに、ご出現にたち会った医師ホイゼ師は、すぐいろいろな質問をしてしらべたが、かの女の返答には不合理なところが少しもなかった。しかし、ふだん医者をこわがっていたマリエットは、医者と話すことをいやがっていた。
         人々がみな出て行ってから、マリエットは頭痛を感じて、その晩もその翌日も具合がわるく、両親の命令でベットに休まねばならなかった。 


        イエズスは秘跡を粗末にあつかわないように話した

        2014.12.09 Tuesday

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          ルイザ・ピッカレータの手記2『被造界の中の神の王国』(天使館刊)より

          イエズスは秘跡を粗末にあつかわないように話した。 1899年10月1日

           今朝のイエズスは沈黙のうちに現れ、とても悲しい様子でした。主は頭の上に、棘だらけの冠をつけていた。私の内部の力は沈黙し、一言も発しなかった。イエズスが大変な頭の痛みに苦しんでいるのを見て、私は手を伸ばし、静かにそれをはずした。なんというひどいお苦しみ、傷はひろがり、血が次々と吹き出していた。本当に心がはり裂けそう。私は自分の頭にそれをおいた。主ご自身、それが中まで食い込むようにしてくれた。すべては沈黙のうちに。

           驚いたことに、少し経って再び主を見ると、人びとはイエズスを攻撃し、もうひとつの冠を主の頭上におこうとしていた。ああ、なんて非道なの。…ああ、イエズス、なんでそんなに我慢するの。なんて大人なの。
           イエズスは黙っていた。顔も上げなかったので、誰が攻撃しているのかも知らなかった。私はあらためて冠を取り去った。心の内部では、主に対する優しい気持が目覚め、こう言った。

          「優しい主、私のいのち、何か言って。何も言ってくれないの。秘密ならいつも打ち明けてくれたのに。もうちょっといっしょに話していましょう。そうすれば私たちを圧しつぶす苦しみと愛について、何でも話した方が楽になるから。」イエズスは言う。

          「娘(こ)よ、お前は私の苦しみを柔らげてくれる。何も言わないのは、常々お前が人びとを罰さないでと、私に頼んでいるからです。お前の好きなようにしないと満足してくれない。だからお互いにいやにならないようにするには、黙っているほかないでしょう。」 私は言った。

          「イエズスよ、正義のわざを振るったあと、どれほど苦しんだか忘れたの。人間たちの間で、そんなふうに苦しむあなたを見るのがつらいので、人びとに罰を与えないでとこんなに注意するのもそのためたのです。
           そのうえ人間たちは毒へびのようにあなたに反乱して立ち向かい、あなたの御命まで奪おうとします。結果として人間はあなたに鞭打たれて苦しんだあげく、あなたの正義をさらに刺激してしまう。こんなわけで『主の御旨のままに』といえないの。」するとイエズスが答えた。

          「私の正義はもうこれ以上待てません。私はあらゆる人びと、司祭たちや、信心深い人、世俗の人たちが秘跡を祖末にするために傷ついた。秘跡を軽蔑してなんの注意もはらわない。好き勝手なおしゃべりをする。我がままが満足されないのをみて、私にたいして腹を立てたりする。秘跡があたかも絵や石の彫刻になりはててしまっているのを見て、私のこころは引きちぎられそうだ。遠くから見るとそれは生きているけれど、近づくと偽物だというのがはっきりする。さわってごらん。どうなると思う。ただの紙、石、木、生命のないものばかり。すべて人の目を欺くものばかり。
           たいていの人にとって、秘跡はこんなものだ。見せかけにすぎない。清くならずに、もっと汚れてしまうなんてどういうことか。金のことばかり言う宗教界の現状をみれば泣きたくなってしまう。黄金を見ると目が眩み、品位も地に落ちてしまう。儲けがなければ何もしない有様。こうした儲け心で一杯になり、外まで溢れでて、世俗の人までその臭みを感じとる。そこでつまずき、修道者たちの言葉などまったく信じない。

           ああ、そうとも。私を大切にする者などいない。直接私を侮辱する者、悪を避けられるのにそうしない者がいるだけだ。誰を振り返って見ればよいのだろう。だから人びとに、動けなくなるほどの罰を下そう。破滅させよう。教会は砂漠となり、秘跡を授ける者は誰もいなくなるでしょう。」
           私はすっかり恐くなって、主のお言葉をさえぎるように言った。
          「主よ、違うの。秘跡を粗末にする人びともいるけれど、正しい畏敬の気持ちでそれを受けるような人びともたくさんいます。秘跡が受けられなくなったら、そういう人はどんなに苦しむでしょう。」
           主は言う。
          「そういう人は極めてまれです。それに、秘跡を受けられないで感じたその人たちの苦しみは、私への償いになり、秘跡を祖末にする人びとの生けにえとなるでしょう。」

           よきイエズスのこうした言葉を聞いて、私の心は張り裂けそうになった! 主の無限の憐れみで、落ち着きを取りもどしてほしい。