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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 第二章の(B)注釈

    2016.11.06 Sunday

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       (B)煉獄に於いて受ける浄化の本質については、神学者間にも意見が区々である。抑々霊魂は何から浄化されるのか、罪責からか、或は単に短所からか、もし短所からだとすれば、どの意味に於いて彼等は完全となるのか、内部的に善くなることか、或は神の尊前に於いて、彼等の状態が善くなることだけを指すのか、という諸点である。
       聖ベラルミーノ枢機卿は、小罪の犯責が煉獄に於いて赦されるとまで主張している。〔これはマテオ十二章第三十二節に於いて、我が主は来世に於いて、罪に對する苦しみが赦されることを語られたのではなく、罪責が赦されることを語られたのであるから、このマテオの句は苦しみが赦され、罰が果たされる場所、即ち、煉獄の存在の証明とはならぬとのカルヴィンの主張に対して応えたもので〕ベラルミーノは「少なくも小罪の犯責(quoad culpam)は煉獄に於いて赦される」(煉獄論第一篇四章六)と言い、亦「小罪の犯責は対神愛の業と、堪忍ぶことによって赦される」(同十四章二)との聖トマスの説を裏書きしている。
       これに反しスアレスは煉獄は罪の罰の負目を取除くことが出来る以外、他の意味に於いて霊魂を改善することはない(Suarez,Disp.xi.sec.iv.a.2.§10)。凡ての罪責は霊魂が肉身を離れる最初の瞬間に(in primo instanti separationis animae a corpore)完全痛悔の唯一つの業によって赦され、この完全痛悔の唯一つの業によって意志は全く神の方に向い、人は凡ての小罪からのがれる(§ 13,)。かくして煉獄に於いて罪責(quoad culpam)が赦される。如何となれば霊魂の浄化は、死の瞬間から始まるからである(§ 10)。悪い習癖や邪まな傾向について彼は言う。「我等は悪癖や邪まな傾向のために、霊魂が煉獄に留まっていると考えるべきではない。これらは感覚的欲求から起こる限り、肉体がなくなれば、これらのものも亦なくなる。悪い習癖と邪まな傾向が意志の中にある限り、死の瞬間に取去られるか、又は霊魂が光栄に入る時、反対徳の注賦によって、意志から駆逐される」(Disp. xlvii sec. i, 6)。


       さて本論に於ける聖女の見解は、ベラルミ−ノの説に相当するか、スアレスの説に相当するか、明らかに彼女の説は、煉獄に於いて小罪の犯責が赦されるとするベラルミ−ノの説とは異なるようである。彼女は第三章に於いて「煉獄の霊魂にはもはや罪責がなく、従って神と霊魂との間には罰以外何ものもない」と言い、又第四章に於いては「煉獄の霊魂は死の瞬間に罪責(la culpa)」が取去られたから、罰のみがある」との意見は、スアレスの説に同じうしている。が併し、彼女が全幅的にスアレスの説と同じであるかというと、それは本論の幾多の箇所に照らして疑わしい。


       罪を犯した後、霊魂には汚点(macchia)が残り、又それを取除くために、霊魂は煉獄に行かねばならぬが、その汚点を聖女はどのように解しているか。


       聖トマスによれば、罪の結果は
       一、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱める(corrumpit bonum naturae)。
       二、霊魂に汚点を残す(causat maculam)。
       三、人に罰を負わせる(facit hominem reum poenae)。
       以上三様である。この汚点とは、人の霊魂のうちに当然あるべき筈のものが、罪の結果、取去られたことを指しているのである。 大罪の結果として「聖寵の光が霊魂をもはや照らさないとき、霊魂にあるもの(汚点)は影であり、而してこの影はそれを起した自罪によって、それぞれ形が異る」(ビルュアール)。又「小罪の結果は愛熱の減退を来す」(同上)(billuart,
       vol. iv. d, vii, a. 11)。


       聖女は煉獄に於ける霊魂について比喩的に語り、神を観る超自然の光栄(天国のものにあらず)の光を享けない結果として生ずる霊魂を覆うている暗影こそ、汚点であると看破しているのであろうか。
       第二章に於ける比喩は、一見それを肯定しているようであうが、この比喩に於いて霊魂のうえにに神が輝かない原因 — 結果としてではなく — として、罪の錆(ruggine del peccato)を聖女は挙げている。であるから聖女カタリナの言う汚点と聖トマスの言う汚点とは違う。聖女がこの汚点は神の義のみならず、神の純潔にも背くものであると主張していることに鑑みて(第八章)、この汚点は罰を意味するに止まらず、霊魂の短所をも含んでいるらしい。が併し汚点の中には (1)徳に対する弱さ (2)罪によって得、罪責が赦された後もなお残っている悪への傾き、(3)世俗的関心等、一語に総括すれば、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱めること(corruptio naturalis boni)が含まれている。確かに悪への傾きと世俗的関心とは、スアレスが言ったように、死の瞬間に除かれ得るとはいえ(註。得るとあるのは、除かれないかもしれないから、得るとしたのである)、実際にはそうではないらしい。又悪への傾きと世俗的関心とは、その行為を繰返すことによって徐々に得られたから、又動揺の経路によって取除かれる筈であり、徳から離れ、再び徳に戻るためにも、亦々経路を逆に辿らねばならぬらしい。現世に於いて神が霊魂を摂らい給うのも、この方法によるのである。さすれば煉獄に於いても、その方法が異なるとは考えられない。


       以上のことは本論に於いても、聖女カタリナの見解であったことを示す箇所が屡々ある。第十一章に於いて聖女は全然とは言えないまでも、殆どそれに近いことを言っている。聖寵が霊魂にかえされたとき、霊魂は屡々ひどく汚れ、自我に傾いたままであるから(imbrattata e conversa verso se stessa)(註。聖寵はこの傾きを取り除かない)、神に創造された原始の状態に霊魂が戻るためには、聖女が屡々述べている通り、霊魂は神の全能の動作を必要とし、これなくしては救かり得なかったのである。聖女はこの第十一章に於いて、自我への傾きを利己的悪癖と解している。而して本論を終るに当たり、”全善にして哀憐深き神は、凡て人より出づるものを滅し、煉獄はこれを浄化する”と言っているが、この”人より出づるもの”とは、現世的傾向を指すに外ならない。
       今この死後の項で述べたものは、聖女が他の所で語っているものとは異なった意味があるように見えるばかりで、例えば、第三章に於いて神と人との間には、罰以外何等障壁がないと言っているのも、聖女は悪への傾向を取除くことを、罰の一部に込めていたと考えられる。更に第十一章の”燃やされていると同時に障げられている”(istinto acceso ed impedito)ことが、煉獄の苦しみとなると言う場合も同様である。
       又第一章に於いて短所が煉獄の霊魂にないと言っているようにもとれるが、煉獄の霊魂は短所となることをすることが出来ないのを言っているに過ぎない。前に述べた悪への傾きとか悪癖等は何れも受動的なものである。聖女が短所はないと断言していないことは、神の純潔に背いた或るものが障碍となるとしていること、及び第十一章に述べている点とから見て明白である。その第十一章に曰く「霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が見えれば霊魂は絶望する。又神は霊魂の最後の状態に於いて短所を焼尽し、それが焼尽されるとき、神は如何なる短所があったかを霊魂に示し、焼尽されねばならぬ凡ての短所を焼尽す愛の火を点じたのは、御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらを霊魂に観せ給うのである」と。


       なお煉獄論に関し、スアレスにも匹敵するベラルミ−ノは、次のように疑念を述べている。

       「現世に於いて、一時的なものに対する偏った愛着を、種々なる苦しみ(例えば、溺愛した妻子との死別の如き)によって神が浄化し給う如く、来世に於いても、種々なる艱難、苦しみによって浄化されねばならぬ現世に於いて実際にあったかかる偏った愛着の跡が、肉体を離れた霊魂の中になお残っていると、信じられるであろうか」(煉獄論第一篇第十五章二五)と。

        "An sicut in hac vita immoderatus amor erga temporalia purgatur a Dio variis afflictionibusu, ut mortibus uxoris liberorum, etc., ita etiam credibile sit, post hanc vitam adhuc remanere in anima separata aliquas reliquias talium affectionum actualium quae purgari debeant tribulationibus et molestiis" (De Purg., lib. i. c. xv, 25)

       

       要するに受動的な悪癖や現世的関心は、煉獄に於いて取去られることは、煉獄の霊魂に内面的な改善がなされるとの観念を含むが、この観念のうちには正統神学に背反することは決してないようである。かかる観念は、この地上に於いて神が霊魂に摂らい給うことについて、我々が弁えていることと合致しているし、又本論に於いてもこれを是認しているように見える。

       

       煉獄の火について
       煉獄で霊魂が苦しんでいる火は、比喩的の火ではなく、実際の火であるとするのは、信仰個條でなく、フィレンチェ公会議に於いても、ギリシヤ教会側は煉獄の霊魂は実際の火によって感覚的に苦しまず、苦悩界の幽暗によって苦しんでいると主張したから、これを決定することを避けた。現代に於いても東方教会の公教要理は煉獄の火に就いては、何等触れていず、ローマ教会に於いても同様である(ピオ十世公教要理その他参照)。併し神学者同様信者の一般的感情は、実際の火によって苦しんでいるとしているが、これら神学者の意見の根底をなすものは、聖グレゴリオ大教皇の「対話」第四篇三十九章の「審判に先立ち、ある軽い過失に対して浄化の火があることを、我等は信じねばならぬ」、及びニッサの聖グレゴリオの「死者のための祈祷」中の「肉体を離れた霊魂は、その霊魂の中に入った煉獄の火が汚れを除かぬ限り、神の本性に与るものとはなり得ない」とに拠っているのである。
      カタリナの「煉獄論」に於いては、この問題には何等触れてはいないが、全体を通読して、聖女は精神的火のことを考えていたのではないか、との印象を受ける。

       

      注釈(B)

       

      ゼーノヴァの聖女カタリナ 煉獄論
      発行者 フェデリコ・バルバロ
      訳者 笹谷道雄
      昭和25年10月20日 ドン・ボスコ社発行

      煉獄論 6

      2016.10.24 Monday

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         『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
        ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

         

        第十五章
        煉獄の霊魂は、いかに現世の人々をとがめるか


         神の光によって照らされた聖女カタリナは、本書に記したすべてを観たとき、彼女は語った。
        「私は地上の一切の人々が、怖れ戦(おのの)くほどの大声で叫びたい。惨めなる者よ! 死の瞬間に遭遇する怖るべき悶えに對する用意を怠るまでに、現世の事柄によって盲目となっているのを、何故そのままに打棄てておくか。
         汝等は大いなりという神の哀憐(あわれみ)の希望のもとに隠れ、良善の師の聖旨に背いたことに対し、審判の暁に、この神の全善が立ち給うことを考えよ!(10) 主の哀憐は、その聖旨をことごとく果たすことを汝等に強い、悪をなすよう汝等を励まし給わぬ。主の義は、人の義に屈することなく、それがいづれかの方法で、全く果たされることを識れ。
        ”私は告白し、次いで全贖宥を受け、それによって一切の罪を浄めて、煉獄を安全に通るであろう”(11)との誤った希望をもち、自らを欺いてはならない。全贖宥には、告白と完全なる痛悔を条件とすることを知れ。この痛悔は得ることかたく、贖宥を得るよりも罪を犯さず、贖宥を必要とせぬよう、心することが最上なることを弁えよ」。


        (10)マテオ十二章四二節の該当句であろう。
        (11)「煉獄が殆どなく」の意。「大なりと謂う神の哀憐の希望のもとに隠れ」とは、神の哀憐は大であるから、罪を犯しても、直ちに赦し給う等々のことを念頭に置いて、常に主に背くことを指す。

         

         

        第十六章
        聖女は煉獄の霊魂の苦しみが、平和と歓喜を減じないことを示す


         苦しみの真中(さなか)にある煉獄の霊魂のうちには、次の二様の作用のあることを、私は悟る。
         第一は、神の哀憐(あわれみ)である。彼等は歓んで苦しんでいる間(うち)に、その苦しみは自分が受くるべき当然の酬いであり、又神の尊前に神に背き奉ったことがいかに大きいかを想いつつ、神が彼等に対し全善にて在(ましま)したことを悟るのである。
         何故ならば、主の全善が、哀憐(あわれみ)(イエズス・キリストのいと聖き御血による償罪)を以て、恒に義を和らげ給わなかったなら、唯一つの罪の酬いとして、地獄の萬苦があったであろうから。で彼等は苦しんでいるすべては正しく相当し、且つ命ぜられたものであることを弁えているから、自分の苦しみを歓びを以て堪え忍び、苦しみの一部分すらも取り去られたくないのである。そして彼等は天国の永遠の生命に於いて在るであろう時と同じく、もはや神の意志について呟かない。
         第二は満足である。これは神の命が彼等を計り給う上に、いかに愛に満ち、哀憐(あわれみ)深きかを観て感じる、その満足である。
         彼等は前述の二つのことを同時に意識させられ、聖寵の状態にあれば、霊魂は各々その能力に応じて、この二つの事柄をありのままに悟るのである。彼等は大いなる満足を感じるが、この満足は減じないばかりか、却って霊魂が神に近づけば近づくほど増してゆく。彼等はこれ等のことを直接に識らなくとも、神が啓示(しめ)し給う程度に於いて識るので、彼等の一切の注意は、自分の苦しみに向けるよりも遥かに一層神に集中され、自分の苦しみよりも神を重視する。何となれば神を瞥観することは、人が想像し得るあらゆる満足や歓喜(よろこび)に勝っている。しかし、勝っているとはいえ、歓喜からは、苦しみの少しの部分も取り去られないのである。

         

         

        第十七章
        結論として聖女は煉獄の霊魂について述べた凡てのものを、彼女が感じ、心中に経験した一切のものにあてはめる


         煉獄の霊魂が受けているこの主の浄化を、私の霊魂のうちに於いて、特に過去二ヶ年にわたって経験し、それを毎日益々明らかに悟り感じる。私の肉体のうちに在る霊魂は、ちょうど煉獄にいるようである。そしてこれは真の煉獄と似ているが、ただ違う点は、肉体がそのうちに於いて受ける霊魂の苦しみに堪え得、死なずにある程度の苦しみである。(12) しかしこの苦しみは、肉体が実際に死ぬまで、徐々に絶えず増してゆく。
         私は凡てのもの(霊魂に栄養を与え得る歓喜、喜悦、慰安の如き霊的なもの)から、遠ざかったことを感じる。
         私は、記憶、意志、悟性を以って現世の財宝も、霊的の財宝も望まず、又”これは彼れよりも、一層私を満足させる”と言うことも出来ない。
         私は、霊的にも肉体的にも、私に慰安を与えるあらゆるものが、徐々に私から取り去られたほど内的に苦しんでいた。そしてこの慰安が取り去られた時に、これらが嘗ては私の慰安と力の源であったことを悟った。しかしながら霊魂が、自分にとって慰安となり、力となるものを見出すやいなや、却ってこれらのものは無味で、むしろ厭うべきものとなり、(13) それらを私のうちに保持(たも)っていようとはしなかった。と言うのは、完徳に到るための一切の障碍を取り去ろうと、霊魂は自然的衝動によって努力し、障碍を取り去ることが出来なければ、むしろ地獄に行くことも辞さないほど、これらの障碍を取り去りたいと望むのである。それで霊魂が自身を養う凡てのものを除き去り、熱心にこの目的を保持する所から、霊魂のうちに極くわずかの短所さえも、とどめておくことは出来ない。
         肉体はもはや霊魂と交通し得ないから、地上の如何なるものを以ってしても満足できないほど、〔肉体は〕圧迫されており、肉体にとっては、神がその義を満たすために、この浄化の業を大いなる愛と哀憐(あわれみ)とを以ってなし給う、その神以外に慰めはないのである。しかし私がこれら一切のことを悟ったとき、満足と平安があるとは言え、これによって、私の苦しみや圧迫されていることは、いささかも感じない。
         しかし私には如何なる苦しみも、神が私のために定め給うた以外の苦しみを、望ませることは決して出来ない。私が必要とするすべてを神がなし給うまで、私は閉じ籠められ囚獄から外に出ることを望まず、その中にとどまっている。私の福(さいわい)は神の聖旨が行われることで、神の命がいかに正しく、哀憐(あわれみ)に満ちているかがわかるから、万一神の命に背くことがあれば、それは私が堪え得る苦しみの最大のものであろう。
         以上説明した一切の事柄は、いわば霊的に観、触れることによって悟るけれども、思いのままに説明する適当な言がない。私が今説明したすべてのことは、私の心の中に起こったありのままを述べたのであった。私が閉じ籠められている囚獄(ひとや)は、現世であり、縛られている鎖は、肉体である。
         聖霊によって照らされている霊魂は、霊魂の目的たる神に到ることの出来ない惨めさが、いかに大いなるものであるかをよく弁えているから、霊魂が敏感であればあるだけ、そのことによって大いなる苦しみを感じる。神は成聖の聖寵によって、霊魂をいわば神のごとく在らしめる権威を与え給うが、それのみならず、神の全善に与らせ、己と一にすらもならせる権威をも与え給うのである。神は苦しみ給うことは不可能であるから、神に近づく霊魂も苦しまず、神に近づけば近づくほど、主の完徳に与るのである。
         であるから霊魂が出遭う障碍のために、神に到るのが少しでも遅れることは、霊魂に堪え難い苦しみを起こさせる。この苦しみと遅滞とは、霊魂が生まれながらに有っている特質(自然的特質)(14)と、聖寵によって霊魂に示された特質(超自然的特質)とを障げる。神を所有することは、霊魂の本質上可能であるが、実際にはいまだ所有することが出来ずにいるから、霊魂が神を望むことが大なれば、それに比例して苦しみも亦大きく、霊魂が神を全く識れば識るほど、それだけその望みは激しくなり、浄化されるようになるのである。神に赴くことをはばむ障碍は、霊魂が神に牽付けられるほど、怖ろしくなる。そしてこの障碍がなくなれば、その時、遂に霊魂は在るが如く在り給う神を観奉るのである。
         神に背くよりもむしろ死することを望む者は、死の苦しみを感じないことはないが、神を讃える熱誠が、自分が生きようとする欲望よりも一層強いことを、神によって明らかに照らされる。(15) これと同様に、神の聖旨を識る霊魂は、いかに苦しくあろうとも、内的、外的のあらゆる苦しみに超えて、この神の聖旨を一層重要に思う。この理由は御自らのため、又御自らによって、浄化の業をなし給う霊魂の創造者なる神は、人が識り且つ悟り得る如何なるものにもまさって、遥かに限りなく霊魂に望まれるからであり、これは神が、霊魂を御自分の霊威(みいつ)に奪われている状態に保ち給うから、なほ更さうである。故に霊魂は如何なるものも—仮令僅かにしても—重要であると思うことが出来ない。
         自我に係わるすべてのものは過ぎ去る。霊魂は、神に全く自分を奪われているから、自分が苦しんでいる苦しみを観、語り、或は、それを識ることさえも出来ない。これらすべては(神の意志や、神の意志によって霊魂のために定められた一種の苦しみ等)前に述べたように、霊魂が現世を去る瞬間に、霊魂に示される。結論として哀憐(あわれみ)深き神は、人から出るものを全く滅し、煉獄は、これをことごとく浄化するということを付け加えておく。 [完]

         

        (12)現世に於ける煉獄であるから、肉体は死なずにあるのである。死後に於ける真の煉獄は霊魂のみ。
        (13)完徳の高嶺の状態を指す。その直後の「地獄に行くことも辞さない云々」は、実際に地獄に言っても良いという意ではなく、もし地獄に行くことを望むとすれば、人々の救霊を望み給う神の聖旨に悖り、且つ又我等の側からは、望徳に反することになる。これはイタリア人特有の誇張した表現法で、文字通り解すべきではない。
        (14)原語はproprieta.
        (15)人が己が生命と神を讃えることの何れかを選ばねばならないとき、即ち、この両者の何れかを犠牲にしなければならないとき、己が生命を犠牲に供する—即ち、死を選んだ場合、死の苦しみを感じない無感覚になったと考えてはいけない。彼は確かにこの死の苦しみを感じるが、自分の声明を愛するよりも、一層神を讃える熱誠が彼にとっては重要であるとの意。

         

                *      *       *

         

        Trattat del Purgatorio
                  di
        Sancta Caterina da Genova

        "In iis quae de Purgatcrio determinata non sunt ab Ecclesia standum  st ii, quae sunt magis conformia dictis et reve lationibus S, nctorum."

         St. Thomas,in 4 sent. dist 21, quaest. 1, a. 1.

        煉獄に関し、聖会の未だ決定せざる所は、聖人に啓示せられしと言はるること又は聖人の言はれしことに、一層合致する節を取るべし。

        (ベラルミノ枢機卿がその著『煉獄論』第二篇七章に引用せる聖トマスの文)

          

         

         

         

         

         

        ビンゲンの聖ヒルデガルド

        2016.09.20 Tuesday

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          『ビンゲンのヒルデガルドの世界 種村季弘著 青土社発行

           

          1:十字軍と幻視者

           

          …  彼女は見た。けれども地上の眼で見たのではなかった。天上の視(ヴィジョン)においてしか見えない「天上のヴィジョン」を見たのである。彼女は見た、「一つのいとも大いなる輝きを。そこから天上の声がとどろき渡った。」
           声は告知した。
          「か弱き人間よ、灰の灰、黴(かび)の黴よ、汝の見るもの聞くものを言え、また書け! されど目にしたものを述べるのに、汝は(聖書)解釈の素養もなく、無学にして、語ることを恥じているのであるからして、人間の語り方によらずして、すなわち人間的作為の認識にも人間的解釈の意志にもよらずして、天上のヴィジョンにおいて汝に与えられた天分により言い書くがよい。どのように神の奇蹟においてそれを見かつ聞いたかを。さながらおのが師のことばに耳かたむけ、師の思い望む通りに、師の指し指示する通りに、それをまるごと伝える聞き手であるかのように、語るがよい。されば汝もまたそのようにせよ!汝の見かつ聞くものを、汝の好むようにでも、だれか他の人間の好むようにでもなく、すべてを知り、すべてを見、そのひそやかな決断の隠された深みにおいてすべてを秩序づける存在の意志にしたがって言え、また書け。」
           天上の声の告知している相手は、「無学」で単純なヒルデガルドという女性である。「無学」とは、とりあえずラテン語をこなさないという意味であろうが、それだけではない。スコラ学と聖書解釈学の正則を身につけた当時一般の教養とは無縁の、身分こそ修道女であるとはいえ一介の女性にすぎないという意味で「無学」なのである。にもかかわらずその彼女に突如として「聖書の、(旧約)詩篇の、福音書の、旧新約聖書を論じた他のカトリック文書の意味がひらめくように明らかになった。」
          ということは、この聖書解釈や神学文書理解が聖職者の通例の研鑽の成果ではないかということである。与えられた聖職者教育コースをこなした結果の認識ではなかった。告知を受けた側としてこの正規の道を通らないで得た啓示の例外性を、彼女はふたたび自分の「無学」を強調しながら告白する。「けれどもだからといって私は、これらのテクストの語義も、分綴法も、(文法法)文例も、時称も習得することはなかった。」
           ヒルデガルドのこの告白は明らかに、当時としてはまことに危険だった。教会の指定する神学的教養の道を通らずに、我流で直接(じか)に神を見たという。しかしかりに彼女の開発した見神技術が公認されるとすれば、中世の神学体系はその場から無用の長物となり、ついには否定されることになりかねない。つまりは教権体制にさからう異端である。事実ヒルデガルドは久しい間異端の疑いにさらされる。クレルヴォーのベルナールやエウゲニウス教皇の後援を得た後も、すくなくとも教権制度の傘下にある聖職者の大多数を敵に回さなくてはならないだろう。当時の聖職者たちの常套化したあり方を当てこすった「人間的認識の作為」や「人間的解釈の意志」に「無学」の「天上のヴィジョン」を対置させ、教権制度の停滞ないし腐敗をほのめかす彼女の戦略は、ことほどさように当初から由々しい危険をはらんでいたのである。
           危険は百も承知だった。だからこそむき出しの幻視をフォルマール修道士の「校正」という隠れ蓑にくるんだ。公開の時期にも慎重を期した。幻視の書は着手してから完成までに十年の歳月を要した。
           それも1141年の執筆開始から数えての韜晦(とうかい)の期間である。彼女の幻視力はしかし1141年に突然はじまったわけではない。それ以前の数十年に及ぶ沈黙の期間があった。序文には少女時代にはじまる幻視癖のことが回顧されている。
          「隠された奇蹟の眼の力と神秘を私がみずからの内面にまことにふしぎにも体験したのは幼年時代からのことだった。すなわち五歳の時以来のことで、それがいまに至るも変わらない。しかし私は、私と同じように修道院生活のなかに生きているごく少数の人たちを除くなら、だれにもそのことを言わなかった。神がその恩寵を通じて公開を望み給うた今日に至るまで、一切を沈黙をもって覆ったのである。」
           五歳の時に何を見たのか、ここでは具体的には言及されていない。それに、後年になってゴットフリート/テオードリヒ両修道士のまとめた『自伝』によるなら、幻視体験は五歳ではなくて早くも三歳の時にさかのぼるらしい。
           「三歳の時に私は魂の高揚するような大きな光を見た。けれども子供だったので、そのことを口外できなかった…五歳になるまでいろいろのものを見、なかにはそのまま素直に人に話したものもあるが、話を聞いた人たちは、それがどこから来て、だれに教わったのかと訝(いぶか)った。」
           人が訝るようにどんな体験があったのだろうか。やがて巷間に流布された少女ヒルデガルドをめぐるいくつかの伝説のなかにそれらしいものがある。
           五歳の時に彼女は故郷の牧草地で別の女の子と遊んでいた。ヒルデガルドが突然言った。
          「ほら、あそこに仔牛が一頭いるわ。なんてきれいなんでしょう。頭から爪先まで真っ白、でも頭と脚のところだけは斑点があって…ああ、背中にもいくらか黒いところがあるわ!」
           遊び友達の女の子がそちらを見ると仔牛などどこにもいない。するとヒルデガルドが一頭の孕んだ牝牛を指して言った。「だってそこにいるじゃない!」遊び友達の女の子は家に帰るとヒルデガルドの奇妙な「作り話」を母親に言いつけた。ところが牝牛が仔牛を産んでみると、斑のありかは正確に彼女の言い当てた箇所にあった。ヒルデガルドには、まだこの世に出ていない胎内の仔牛がありありと見えていたのだ。

           


            1095年、教皇ウルバヌス二世は全ヨーロッパのキリスト教徒に聖地イェルサレムの奪回を呼びかけた。これが十四世紀にいたるまでくり返し行われた十字軍遠征の端緒となる。当時トルコの支配下にあった聖墓所在地イェルサレムの奪回が、この行動のさしあたっての目標であることはいうまでもない。
           ウルバヌス二世の呼びかけは、ヨーロッパ全土に未曾有の反響を呼び起こした。あらゆる階層の出身者からなる何万人にもおよぶ男たちが、なかには国家や君主に命じられたわけでもないので、たちまちにして十字誓願に応じた。妻子を置き去りにし、家財産を捨てて、勇躍、冒険的な遠征に旅立ったのである。騎士の指導者に率いられたものもいた。なかには掠奪目当てのごろつきとして未組織の群れをなすものもいた。いずれも重い木の十字架を担ぎ、あるいは象徴的に布製の十字の徽章だけを肩につけて、生還のおぼつかない長期の旅路に出立した。目的地に到達する前に落命したものは数知れない。…

            一方、聖地における最初期十字軍の勝利もつかの間だった。およそ半世紀後の1140年代には、十字軍の成果と東方におけるその支配地はほぼ壊滅している。ふり返ってみれば十字軍とは、無数の兵士の死と巨額の経済的損失を後にのこす暴挙にほかならなかったのである。精神的虚脱とやり場をうしなった暴力衝動はヨーロッパに逆流してくる。さなきだに中世世界では小諸侯間の私闘や掠奪は日常茶飯事である。掠奪対象としては僧院でさえ例外ではなかったのである。
           ヴィジョン公開に踏み切るまでのヒルデガルドの半生には、ざっと以上のような恐怖と暴力が外界に荒れ狂っている。山上のディジボーデンベルク修道院はたしかに静寂と沈黙のうちに閉ざされていた。外界から侵入してくるものはなく、こちらからも出てゆかない。それはしかし、兵士やならず者が奇蹟的にここを素通りしたというかぎりでのつかの間の楽園にすぎず、いったん彼らの泥足が踏み込んでくればひとたまりもなかったのである。
           十二世紀の僧院はいわば丸腰だった。暴力に対する自前のいかなる防御策も持たなかった。当然のことながら、切り取り強盗がいつ襲ってきてもふしぎのない状況のなかで、軍事的防御策を講じない僧院は存続を危ぶまれた。そこで多くの僧院が世俗の僧院管理人(Vogt)と契約する。僧院管理人は一定の契約金と引き換えに、僧院の外部にある寺領地管理と軍事的保護を請負った。
           建前はそうでも、この保護者はやがて強者の地位を乱用するにいたる。僧院が僧院管理人を保護者に指定するというより、僧院管理人が僧院を管理の傘下に指定するのが、もっぱらの実情になる。多くの寺領地がこうして僧院管理人の手に掌握された。僧院機構全体のなかで主人としてふる舞うのは、もはや僧侶ではなく、むしろしばしば世俗の僧院管理人なのだ。そのうえ僧院管理人職は家職として引き継がれる場合がすくなくない。僧院の自立性はうしなわれ、いよいよ悪代官(Vogt)がはびこる。専横な保護者がイヤでも、外敵から身を守るには悪名高い僧院管理人に依存するほかなかった。げんにディジボーデンベルク修道院も、ヒルデガルドが同院を離れてからのことではあるが、1154年に世俗の管理人と契約を結んでいる。
           後にヒルデガルドが創設する(1143年)ルーペルツベルク女子修道院はしかし例外的に僧院管理人と契約しなかった。諸侯の庇護ももとめなかった。あらゆる世俗的権力の上にあるものと直接(じか)に交渉した。神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサに請うて、皇帝の万能の「保護状」を手中にするのである。ヴィジョンは神から垂直に、世俗的保護もまた皇帝から垂直に、中間的媒介者なしに受容した。…

           

          卵形または火焔太鼓形の宇宙像のヴィジョン
               

          「卵形または火焔太鼓形の宇宙像」のヴィジョン

           

           

           

          生命の始祖のヴィジョン


          「生命の始祖」のヴィジョン