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    十字架の神秘 3

    2016.11.29 Tuesday

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      『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)

      第一章 イエズスの裁判より 

       

      マタイ福音

       

      《人びとはイエズスを捕らえると、大祭司カヤファの所へ連れていった》(マタイ26・57)
       そのときには、ユダヤ教の最高法院に、大祭司をはじめ司祭たち、律法学者、長老たちがイエズスを待って集まっていた。イエズスは真夜中近くに捕らえられて、律法を破る者、神殿の破壊を告げる者として告発され、訴えられていたようだった。それらのことにかぎって見ると、今日の私たちでも神の子、メシアであるとは名ばかりで偽るものとしてイエズスを見てしまうであろう。
       この世に生活するものにとって、来世などはないと考えているとしたらメシアである救い主は必要なものではない。したがって経済的繁栄と物質的幸福のみを求める人びとにとっては無意味なものである。ユダヤ教の最高法院のメンバーにしても、この世の生活が第一であって安泰を願っていたのである。彼らはローマ皇帝の支配下にあって、平安な生活を望んでいたので、今日の人びとが、無神論の世界に安住しているのと大差なかったようである。
       イエズスは、このときにかぎって、超自然的働きや奇跡のしるしを見せることもなく、自然そのままの人間として自分の自然体を縛られたままに連行されて行ったのである。それは今日でいえば、パンの形に閉じ込められているイエズスの神秘的現存、聖体の秘跡の性格を表徴するかのようであった。
       縛られた彼に対して、人びとは見える形でなぐったり、つばきを吐きかけ、平手で頬を打ったり暴力のかぎりを尽くしている。今日のキリスト信者が、聖体のキリストの現存を礼拝の対象として受け取らないで、聖体を食べるためのものという主張をかかげて、イエズスに礼拝をささげることは必要ではないと考えているとするならば、それは司祭たちでさえも、聖体の秘跡を厄介ものとして取り扱っているからだということになるのではないだろうか。
       当時のユダヤ教の大祭司や司祭衆にしても、彼について神の子、メシアであるとの評判は聞いていはいたが、福音をのべ伝え、弟子たちをつくっているときいてとくに厄介者として裁判にかけたのである。法院の全員が死刑にしようとの目的で、イエズスに不利になる証言を求めたが得られなかった。最後になって二人の証人が出てきて「この男は、神の神殿を打ちこわし、三日あれば建てることができると言った」と証言した。これをきいて大司祭は立ち上がり始終沈黙を守っていたイエズスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」とイエズスに尋ねた。なお沈黙を続ける彼に大司祭は神の名をつかって言った。「生ける神に誓ってわれわれに答えよ。お前は神の子、メシアなのか」そのときイエズスははじめて口を開いて「私は言っておくが、あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言った。そこで大司祭は服を引き裂いて、怒りをこめて「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉をきいた。どう思うか」。すると全員が「死刑にすべきだ」と答えた。
       イエズスの答えは、神秘に輝く霊界のうちで御父の姿を眺めての答弁であったように思われる。そのため、メシアである神の子を人びとがどう思おうとも、まことを宣言しなければ偽りを言うことになるのである。キリストは人間によって殺されたが、自分の死をもって罪人を贖うことにより神の生命に復活したのである。

       

       《ペトロは遠く離れてイエズスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って下役たちと一緒に座っていた》(マタイ26・58)
       イエズスが、自らの全身を敵にわたすのを見て、弟子たちは彼をおきざりにして、それぞれ逃げてしまった。最初、ペトロは勇気をふるい、剣を抜いて有無を言わせず、大司祭の下役の左の耳を切り落とした。ペトロの暴力に対してイエズスはやわらかに言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を、今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26・52〜54)
       ペトロが剣を抜いて、主であるイエズスの身体を守ろうとする行為は、自然的防衛の行動であった。それに対して、イエズスは、剣を取る者は、みな剣で滅びると言って、暴力というものが、悪く言えばすべて野獣的な行動であって、神のみ前において善なるものではなく、人を善に救い得るものでないと言っている。そのために、暴力の剣をとる者は、みな剣によって滅びる審判を受けることになる。彼がかつて弟子たちに論して「あなたの右の頬を打つ者に他の頬をも向けなさい」と教えた真理の実現のようである。人間の行為は神のみ旨にかなったものでなければならない。ペトロはイエズスを守るための手段である暴力を放棄して、今、無力になって、イエズスの後に民衆にまぎれて従うことしかなかった。そのことは彼にとって、かつての信仰のおこないではなく、民衆の一人のようにイエズスの身の成り行きを見とどけようと好奇心をもって従うことであった。ペトロは十二人の弟子に選ばれ、また使徒の頭として第一にあげられ、ローマ教皇の座と権利が与えられる約束にもかかわらず、今は民衆の一人としてふるまい、イエズスの教えに従うことを放棄して、ただひとり身をひそめて、イエズスの裁判の成り行きを見ようとしたのである。
       そこには宗教的真理の真の信仰のかけらさえなき精神状態であったに違いない。人間の理性は命を失う恐れのある状況の変化によってたちまち信仰を失うことになるのである。たとえ命をかけると言っても、それだけでは保証にならないのである。
       そのときペトロが、イエズスを遠く離れて、大司祭の屋敷の中庭まで入って、事の成り行きを見ようとしたことは、信仰のためではなく、これから起こる事件の展開にかられての行動であった。彼はイエズスの最期を見とどけようとしているが、イエズスの信仰に生きて、福音が万民を救う真理であると宣言する態度ではなかったのである。聖パウロは、改心する前に、キリスト教会を迫害したとき、天よりの声をきいた。「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」(使徒行録9・4)とイエズスは言っているので、世の終わりの教会の姿もキリストの裁判や死にあやかるものと想像がつくのである。最後の教皇も現世の成り行きいかんによって、ペトロのように民衆の一員となってキリストを知らないと言うであろうか。
       

       

      マルコ福音

       

       《大祭司たちと最高法院の全員は、イエズスを死刑にするために、イエズスにとって、不利な証言を求めたが、得られなかった。 しかしイエズスはお答えにならなかった。そこで重ねて大祭司は尋ね「お前はほむべき方の子、メシアか」と言った。イエズスは言われた。「そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座し、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」》(マルコ14・55、61〜62)
       最高法院に列座する人びとは、イエズスを死刑に処するために、民間から証人たちを呼んで証言を求めたが、食い違っていたので決定することができなかった。大司祭が立ち上がって恐るべき神の名をつかって、職務上の質問をしはじめた。それまで沈黙していたイエズスが神の名に答えるように神の子メシアとしてつかわされた者であると、きっぱりと言われた。ユダヤ教の大司祭なる者が真に神を信じていたならば、どうして彼の証言を虚偽として受け取られたか疑問である。神に誓って、これほど恐ろしい言葉が言われたためしがない。最高法院たちの信仰は、神に通ずるものではなかったと言えそうである。
       今日の世界の人びとも、聖書を読み、神の言葉を受け止めてはいるが、それとは裏腹に無神論を主張して、神がいないと言うのと似ている。
       神がいなければ、聖書の言葉は虚偽を伝えているので神礼拝も無用なものとなる。イエズスは、公生活の初めにサタンの誘惑を受けて、神の代わりにサタンを礼拝するようにというすすめを受けているが、ためらうことなく「サタン退け、あなたの主なる神を礼拝し、これにのみ仕えるべし」と一喝して退けている。
       最高法院の人びとが、直接神の子の声を聞いていながら、神を冒涜する声と受け取ったのは恐るべきことである。宗教人であっても肉眼では神を見ることはできないので、地位や権力に頼って自分の肉欲におぼれ、自然的知恵に任せてふるまっているのであれば、信仰がなきにも等しいものである。現代の人びとも科学的知恵を優先し、見える世界にのみ頼っていては神の言葉であるイエズスを絶えず否定していることになり、イエズスを死刑に定めているのと同じである。
       最高法院へのイエズスの最後の言葉に「全能の神の右に座し、天の雲に囲まれて来るのを見る」とある。人びとはこの世に対する将来の預言をきいて単なる偽りの言葉、冒涜の言葉として受け取るのみであった。
       人間の精神は自由であるといっても、神の言葉を無駄な益のないものとして排斥しているのであれば、不信仰の罪をまぬかれない。彼は数多くの言葉をのべ、奇跡をおこなった町々が悔い改めないのを見て叱り「コラジン、ベッサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ツロやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはツロやシドンのほうが、お前たちよりまだ軽い罰ですまされるであろう」(マタイ11・21〜22)
       イエズスの裁判は、ユダヤ教の最高法院たちの不信仰の罪ではあったが、この世におけるすべての人びとの不信仰は、世の終わりに神の前にただされる時がくることを表徴しているかのようである。

      十字架の神秘 つづき

      2016.11.21 Monday

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         《イエズスはお答えになった。「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していたなら、わたしがユダヤ人に引渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際わたしの国はこの世に属してはいない」》(ヨハネ18・36)

         イエズスがピラトに対して言われたことは、この世においてきわめて重要な言葉である。彼の国とは、この世のものではないこと、自然の世界に属していないということをはっきり宣言している。そして世の終わりまで政治的支配の国でないとことわっている。人間はこの世に生命を受け生まれてきて、自然の世界に属して生存しているが、この世とはいったい何であろうか。いっさいのものは死して滅ぶべき運命に裏打ちされた国である。三位一体の神の子が人となって、人びとの罪を贖い救うことによって、改められるべき国であるが、彼は聖母マリアの胎内に宿ってわたしたちと同様に死すべき人間性の生命を受けた。イエズスの世界は、もともと生まれながらに神の王国に属するもので、この世の国と全く次元が違う霊的国なのである。彼は生まれながらにして、三位一体の神、御父の顔を仰ぎ見ることのできる神の子であって、神の国に属しているのである。「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハネ3・13)と明言しているのである。
         彼がこの世に生まれてきた理由は、この世の国を建設し支配する王様となるためのものではなかった。人びとは、この世界の至る所に神の王国を建設しようと、世紀の初めから試みたであろう。しかし、神の王国とは信仰によって人びとの霊魂が救いの恵みにあずかって建設されるものなのである。それは人間の単なる努力、自然の能力で成り立つものではない。
         イエズスがこの世に属していないとの理由で、この世の人びとは思いのまま彼に暴力を振るうことができたようである。彼にとっては、どのようなことがあっても通過すべきこの世であった。ひたすら御父の意志をこの世に求めて、それにのみ没頭して生きるのであって、彼にとってはこの世界の支配は目的ではなかった。自然の法則に従って変化が伴うこの世に王位を受けて栄誉とする目的ではなかった。「人々はイエズスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエズスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6・14~15)
         ユダヤ人たちは、パンの奇跡を見て、イエズスを捕らえて王にしようとしたが、彼はそれを退けた。
        今日の教会の人びとも、政治の出来事に大きな関心を持っているが、教会の立場がこの世の一部分として存在しているかぎり、かかわりを無視することはできないが、教会とは本質的には霊的な天上のものであって、全く神の恩恵の支配のものでなければならない。イエズスの行動は真理そのものとして生きたので誤ることはなかったが、わたしたちがこの世に属しようとすれば、神の恩恵の国から遠ざかる過ちを犯すのである。イエズスは、この世の権力者から裁きを受けて、この場合、この世に属するものでないことを明白にしたのである。
         神の国とは、神の恩恵に属するもので、神の国の王子であるイエズスが、この世に属する王の裁きを受けているのは、人びとによって罪の世界となり暗闇となったための結果である。この暗黒の世界を支配している者があるとすれば、それは神ではなく、人の知恵かサタンの知恵にすぎないものである。イエズスの受難は神の隠された救いの計画ではあったが、人間の知恵と悪意によっておこなわれるこの世のしわざでもあった。

         

         《そこでピラトが「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。「わたしは王だと、あなたが言っていることである。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」》(ヨハネ18・37)
         ピラトはイエズスに、あなたはこの世に属していないと言うが、王であるのかと尋ねた。この場合、イエズスは自分が王であると自ら宣言するのではなく、ピラトが王なのかと言っていると、彼の言葉を用いて答えた。自らが王であると言えば、人びとに誤解を与えるもとになるだろう。この世に属する王であると言えば、世紀を通じて世の終わりまで、政治的争いのものになり、問題となる。神のみ前においても、人びとの政治の争いはこの世にあってはやむことはないのであろう。イエズスは真理ことが大事なもので、真理に基づく王でなければ、神の前における本当の王ではないと宣言する。イエズスは、真理という重要な言葉を持ち出して、自分が神からつかわされてきた理由を、はっきり真理である神の存在を明らかにするためだと主張する。それにつけ加えてこの世界に属する人びとのなかにも、真理に属して生きているものがあれば、みなイエズスの声を聞いて悟るのであると言う。彼の生涯をかけての言葉と行いを通じて、彼が神の子として生まれ、神からつかわされたものと知って、この真理に目覚める者がある。イエズスの声、言葉を聞いても心にとめることなく、それを聞き流している者は、もともと真理に属するものではない。このことが、人の人生にとってどれほど大事であるかは、人の知恵によってはかることはできない。
         ピラトは、王であるかと言って、この世の政治的王様であるかと尋ねた。イエズスは、かかる王がわたしの問題ではなく、真理の王が大切なものであると答え、人間を罪から救うことのできるのは、ただ真理の王のみであって、神は真理であって、永久の世界を支配する王である、とのべている。
         彼が神からつかわされてきた理由は、この真理に証明を与えるためであると言う。福音の他のところでは神が真理そのものであり、生命であって、愛であって、人のまことの道であると証明している。神は人間の本源であって真理によって創られ、人は真理である神を礼拝し、これにのみ仕えるべきであると、教えている。彼の人となりの生涯は、この真理に仕えて、人びとを罪から救う使命を負っていた。
         人びとがこの真理の道を踏みはずして、罪の暗闇に迷いさまよって生きているとすれば、それをただして教え導くのが救いのもとになる。人は自然の法則によって、この世に生まれてくるが、真理である神への道を歩むことが倫理的に必要であるとイエズスは教えている。イエズスのように、三位一体の御父のご意志をこの世に実現して、神の愛への一体化をはからなければならない。彼が教えた主の祈りとその生きるべき道はみごとに表明されている。「み旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」と、その実現に励むのでなければ、真理に属するものではない。これほど重要な真理がのべられているにもかかわらず、人びとの心は真理に疎く、生きている現状である。

         

         《ピラトは言った。「真理とは何か」》(ヨハネ18・38a)
         この言葉は、聖書の中で最も有名な言葉の一つである。真理とは何ぞや。神は真理そのものであり、真理の本源であるが、人間の理性の力では、その真理に適合し真理を汲み尽くすことができない。ただし、将来の人間が、神の恩寵を受けて、天国に入ったとき、特別の神のグロリア、栄光の恩寵のうちに、顔と顔とを合わせて真理なる神、父を見ることが許されるものである。それでも、神の本性、無限の姿を見尽くすことはできないであろう。
         見える世界に生活する人間は、神の言葉を受けて信仰のうちにおぼろに、神の真理である知恵に接することが許されている。イエズスは、ピラトに対して、自分が御父のもとからこの世につかわされてきたのは、救いの真理に証明を与えるためだと言っている。わたしたちは、神の御子であるイエズスを通して、神である真理を信じ、恩恵のうちに受け入れられて、神の真理の知恵に一致するのである。人間の自然の能力の範囲では、たとえ仏教の禅による悟りに入ったといえども、神の真理には到達することはできない。それゆえ禅の悟りはあきらめの無である、ということになる。
         ピラトは、真理とは何か、と言って吐き捨てるかのような態度をとって問題にしなかった。
         神の本質である超自然の真理は人の知恵には悟りがたく、そればかりでなく暗くなっている。真理の輝きが強ければ強いほど、人間の理性は、梟(ふくろう)の目が光を受けてかすむように、暗くなるのである。ピラトの知恵は、イエズスの真理の言葉を聞いてかすむのであった。そして「真理とは何ぞや」と言って顧みなかった。ピラトのように現代の多くの人びとも無神論をかかげて、神とは何ぞやと言っているようである。真理に目覚めている人は少ないであろう。

         

         《ピラトはこう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」》(ヨハネ18・38b)
         この言葉は、ピラトがイエズスについてくだした唯一の偽らざる評価であった。罪が見いだせない、と宣言しているにもかかわらず、ローマの総督として彼に死刑を言いわたすことは、この世においても甚だしい矛盾であり、不正な裁判であった。イエズスの十字架の死刑は、イエズスの罪によるものではなく、他人の罪、人類の罪であることがここに明白に証せられ、この世の人びとの罪を背負って死ぬという真理が実現されることになる。これこそ世の罪を贖(あがな)うべき子羊の偽らざる犠牲の役割であった。
         長い間、ユダヤ人の宗教である旧約のしきたりには、彼らが子羊を屠(ほふ)ってその肉を食べ、その血によって救われるという信仰があった。現在のわたしたちも罪人であるがまことの子羊であるイエズスの十字架のいけにえによって、彼の肉と血により、罪が贖われて救いを得ることになる。イエズス自身が真理として、また人びとの救いの真理として、ピラトの死刑を受けて実現したのである。ピラトは、自分の意志によって、イエズスが釈放されるべきであると考えたが、それが実現しなかった。ピラトは自分の自由意志でどうにもならないことを知ったとき、ユダヤ人の殺意を見て、恐ろしさを感じはじめた。それは抵抗できない隠されたサタンの圧力であった。そのとき、すべてがサタンの力に服していたが、ただイエズスの真意だけは、御父の思召し以外、何ものにも服従するものではなかった。
         彼は、その前夜ゲッセマネの園で「この杯を取りのぞいてください」と祈ったが「されどわが意のままでなく、あなたの思召しのまま成れかし」と受諾したのである。そのことは、イエズスが自分の罪のためにではなく、人類の罪のために死をもって贖う必要があると、父の意志を悟ったからである。
         わたしたちは、自分の犯した罪でさえも容易に謝ることもできず、むしろ他人に罪をなすりつけることが多い。罪のない人が、罪人の代わりになって償いのために死ぬことは、愛のためであると知ってもわたしたちには容易にできることではない。イエズスの人類を愛する愛は敵をもゆるす愛であって救いの真理を実現することによってそのことは証明せられたのである。


         《「ところで過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」》(ヨハネ18・39)
         ピラトは、イエズスを釈放するために、過越祭の慣例を思い出して、ユダヤ人の王と名のるイエズスの名を群衆の前に提案した。このことは、ピラトは、半ばユダヤ人をからかってのことだったように思われる。真剣にイエズスを釈放したいとの考えではなかった。どちらであっても、ピラトは大したことではないと思っていたようである。
         ユダヤ人の年中行事である過越の祭りは、ユダヤ民族にとって最大の喜びの行事であり、エジプト王の奴隷状態からモーセに導かれて解放された民族的解放の記念行事であった。この際、ローマ帝国としてもユダヤ国民を喜ばせるための恩典として、この祭日には、一人の罪人を民衆の願いに応じて釈放する慣例があった。ユダヤ人にしてもイエズスという神の子、真理そのものである彼を、罪人として扱っているのはそれほど重要なことと考えていなかった。時と場合によっては、群衆の行為は群集心理で罪ではないと考えるふしがあるので、その重要性を見逃しがちである。信仰の光に照らされていなければ、人びとは神の子を殺すことになりかねない。ピラトは群衆の声を聞いて、決断しようとしたが、群衆の要求によって自分の意に反してキリストを十字架の死刑に処することに決める。信仰というものは神の声を聞くことであって、人びとの意見を聞けばきくほど信仰にならないものである。自分の心が真理に服して認めなければ信仰は成立しない。真理であるイエズス自身の言葉を聞く必要がある。ピラトはイエズスに罪がないと認めるだけでは、自らの救いの信仰に至ることはできなかった。ピラトはユダヤ人の満足を求めて、イエズスを裁判することになり、イエズスにさんざんの苦しみを与えて、最後は十字架の死刑に追いやった。ピラトにとっては、天から降ってきた事件であって、それは災難のようであったが、どのようにして神の前に正しい裁きをするかという点で総督としてのあり方が問われるものであった。すべての人はこのような場合には、自分の生涯を通して、神の前に正しい行為が迫られるのであるが、ほとんど意に介さない。わたしたちも日々このように迫られているが、盲目的に行動しがちである。
         ピラトは、イエズスがユダヤ人の王であってもなくても、大した関係がないと思っていた。もし、ピラトが神を見る目を持っていれば、それは驚きに代わるのであるが、ピラトにかぎらずこの世の人びとに対してすべてが隠されているために、驚かないのである。

         

         《すると彼らは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった》(ヨハネ18・40)
         ピラトはイエズスを赦免する下心があって極悪人であった強盗バラバを舞台にのぼらせて、イエズスと彼とを並べて、群衆に向ってこの二人のうちどちらかを許してほしいかと問いかけたのである。善人そのものである神の子と極悪の強盗バラバとは歴史上かつてない比較対象であった。バラバは日本で言えば昔の大盗賊の石川五右衛門というところであろうか。
         ピラトは群衆の反応が当然ナザレのイエズスという叫びであると期待していたことだろう。今日のわたしたちのなかにも群衆の声、民の声は神の声だという者もあるが、ピラトの法廷の庭に集まった人たちはみなユダヤ人たちで、その声は隠された神の声であったことも推察される。過越祭において一人の罪人が赦免される慣例があるが、群衆の要求はピラトの予想に反して罪人であるバラバであったのである。イエズスは義人であったので、神の摂理として汚れのない犠牲の子羊となるべきものであった。ピラトの考慮は人間的であったのだが神の摂理はその裏をかいたかのようであった。
         ピラトは残されたイエズスの処分を、どうすればよいかと途方にくれて再び人民の声をきいた。群衆は彼を十字架にかけよと絶叫するので、ピラトはどうすることもできなかった。それは、あたかも神の声の響きのようであり、イエズスが罪人のために死ぬという、真理の証しとなった。天の御父はこの真理をふまえて群衆の叫びに全く沈黙しているようであった。この救いの真理がこのとき果たされないようでは、人類が罪より贖われることもできなかった。それは人類史上最大の救いの真理というべきものであって、この真理を見失う者は救済の栄光を受けることはできないのである。神の真理が大であれば大であるほど人の目につかないのであり、人びとの知恵はその光にくらむものである。バラバという罪人が赦免されたことは、人間的にみて第一号の救済の真理の一端を示すものであると言えよう。
         わたしたちは救済の真理を信仰をもって受容すれば罪から救われるのである。イエズスの死はわたしたちも罪に死ぬことを意味し、それによって、洗礼の秘跡を通してイエズスの新しい霊的な生命に呼びさまされるのである。

        十字架の神秘

        2016.11.21 Monday

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          『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)

          第一章 イエズスの裁判より

           

          《そこでピラトはもう一度、官邸に入り、イエズスを呼び出して「お前はユダヤ人の王なのか」と言った》(ヨハネ18・33)
            総督ピラトは、ユダヤ人の訴えを聞いて、イエズスを呼び寄せて「あなたはユダヤ人の王であるのか」と質問した。かりにユダヤ人の王であっても、ローマ皇帝の占領下のもとで、ユダヤ国家を自由に支配することはできないし、一国に二人の王が同時に支配権を行使することは不可能である。イエズスが王であると言えば、ローマの総督としては職務上黙っていることは許されない。ピラトは、自分が思いもよらない事件にかかわったことにはじめて気がつき、イエズスを面前に呼び出して「ユダヤ人の王なのか」と自ら尋ねた。そのとき、イエズスはユダヤ人に両手を縛られて何もできない状態であった。この時代のユダヤ人たちは、聖書の預言によって最も力強い王様を求め、全世界をも征服して支配するほどのメシアなる王様、ローマの権力をも奴隷化するほどの王があらわれることを誰しも望んでいた。昔のダビデ王やソロモンにまさる王様を来るべきメシアとして望んでいた。
           イエズスがかつて男子だけ数えて、五千人ほどの大群衆に、五つのパンと二匹の魚を奇跡的にふやして彼らに満腹するほど食べさせたことがあった。このとき群衆は彼のなさったしるしを見て感激のあまり、イエズスを捕えて、王としようと試みたが、彼は人びとの心を一応鎮めて去らせ、ひとり山に逃れて夜もすがら祈るのであった。ユダヤ教の人びとは明らかにローマの支配権をひっくり返すほどの王権を求めていたに相違なかった。しかし、彼らには世紀を通じて世の終わりまで、イエズスがこの世の王として支配するとは毛頭考えられなかったことは言うまでもない。
           ピラトの前に、ユダヤ人は彼を王として訴えたが、イエズスがこの世を支配する王ではなく、神の世界においてのまことの王であると言ったことはなんと意義深いことであろうか。この場合、単なる人間の策略であるにしても、神のみ前には真理の表明にほかならなぬものがあって、これは隠れたか身のはからいであった。ユダヤ人たちは、彼を本当のメシアなる王として訴えたのではなく、偽りの王、他人を惑わす自称的な王であるとして訴えたのである。しかし神の側からすれば本当のメシアなるユダヤ人の王であった。このことの真偽については、ピラト自らがイエズスに対して問う必要があった。イエズス自身がなんと答えたであろうか、今日のわたしたちにとっても最も興味ある関心事でなければならない。そして神の子、世界を裁くために来られる真理の王として、再臨のイエズスの姿を予見するものでなければならない。
           わたしたちは、ピラトにきくよりも、信仰のうちに、敬虔に神にきき、彼の支配に従って生きることが何より必要なのである。今日の人びとは、問うことが多い世界に生きているが、神に問うことがないのは、無神論の世界に安住しているからであろうか。

           

           《イエズスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それともほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」》(ヨハネ18・34)

           ピラトは、イエズスが本当のユダヤ人の王であるのか、と本人に確かめる必要があって質問した。
          そこで、イエズスは彼に自分の意志で問うのか、それとも他人に働きかけられて職務上質問しているのかと彼の本心を確かめた。これはきわめて重要なことである。
           わたしたちも、イエズスの本性が二つあって、神であるのか、それとも単に人間としての本性であるのか、確かめる必要がある。イエズスのこの世における存在と働き、使命について、宗教的意義が十分であるかを問わなければならない。
           聖書の言葉は、すべて宗教の真理の証しとなっているが、人生をかけて救われるべき真理を確かめなければならない。イエズスご自身が、神の真理として人間の救いに必要欠くべからずるものを提供しているとすれば、まことに重要なことである。この真理をよそにして、わたしたちの人生の目的が神への幸福に達することはできない。
           人びとは、この世の生活がそれなりに文化的意義と歴史性をもたらして、世界に意義あるものとして仕えていると言っても、それだけでは納得がゆくはずはない。自然界の被造物、生物、動物は、自分の存在の意味、目的を知らないで存在しているが、わたしたちも生涯を通してこの世の生命にすがって生きる。しかし、それだけでは生きる目的を知らずに、ついには無になる死を迎えるのである。人はそれぞれに自分の生きる意義を自分なりに意味づけてはいるが、それも死と共に消滅してしまう。
           永遠の存在である神の子である救い主に救われて、新しい示顕の神の子の生命に結ばれていなければ、わたしたち自身の存在と目的を失うのである。イエズスがこの世にもたらした宗教的意義は、わたしたちが神の生命に生きることにある。わたしたちがこの世の生活において、新しく神の生命にあずかって生きるということは、永遠の神の国に生きることであり、死後の霊界に完成されるものである。
          ピラトに対するイエズスの質問を深く霊的に考察してみると、このような問題にふれていると気がつくのである。

           

           《ピラトは言い返した。「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を引渡したのだ。いったい何をしたのか」》(ヨハネ18・35)
           ピラトは、イエズスの言葉をきいて、わたしはユダヤ人ではないと反問して、ユダヤ人の王なんかになんら関心がないと言っているようだ。ユダヤ人の王とは誰のことか、そんなものがあってはならない、ローマ帝国の政治の支配下には許されることではない、と彼はあくまでもユダヤ人を奴隷の扱いで、軽蔑の態度を示していた。自分はローマの総督として、名誉あるローマ市民であると自負心に燃えていたので、ユダヤ人のレベルで考えてもらいたくないと言っているようだ。総督の名誉にかけてユダヤ人の王を裁判にかけていると宣言している。地上の人間というものは、往々にして権力をかさにきるものである。たとえば第二次世界大戦の結末の、極東裁判の判決にしてもそうである。ピラトが、ユダヤ人たちや司祭長はじめ人民が裁いてくれと言って、お前をわたしにわたしたのであると、言いふくめるようにイエズスに言った。それではいったいあなたは何をしたのか、と新たに尋ねた。ユダヤ教の最高法院の裁判の場においてもこれと同様のことが尋ねられた。何を語ったか、どういう教えを広めたか、ということであった。今日の人びともイエズスが何を語り、何を教えたかを問うであろう。彼のおこないや言葉、奇跡をも吟味するであろうが、彼の福音の言葉は、人間に通用する言葉を用いているけれども、本質的には神の意図が見えない形で底に隠されている。わたしたちが普通つかう言葉や文章の形であっても、福音の底流には神の言葉の生命がひそかに脈打っている。それとは違って人の言葉はただ人間的思考や意志を伝達することであって、用が終われば消えてなくなるものである。
           イエズスの言葉は神から生まれた言葉であって、三位一体の御父の真理の言葉であり、永遠の生命を伝達して、人を生かすものである。それは神の意図に従って、死人をよみがえらすほど不思議な力を宿している。イエズスの言葉をきき信仰によって彼を心に導入したとき、神の生命に生かされる神秘的な活力が生まれる。それは、白紙の幼児のように単純に信仰の従順性を通して導き入れられるものなのである。
           イエズスは自分の言葉の神秘性について、人びとに種まきのたとえをもって語っている。地上の畑ではなく、人の心の畑に神の種をまくものであって、それを聞く人の心がよいものであれば、神の生命が種のように根づいて生長し、実を結ぶのである。よい畑にまかれた麦が三十倍、六十倍、百倍の実をつけるように、人のよい心にまかれた神の言葉も同様に実をつけるのである、と教え諭している。
           ピラトは、自ら神の言葉を直接に尋ねているが、彼の心の態度は実る畑の可能性がなかった。すべて高慢な心の持ち主は、神の言葉を受けつけない踏みつけられた道や石地の畑である。信仰をもって、しかも神を畏敬して聞く人にのみ心の中に神の生命が芽生えるのである。今日の人びとはどのような心で神の言葉に耳を傾けるか、それが課題であろう。

           

           

          煉獄論 第二章の(B)注釈

          2016.11.06 Sunday

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             (B)煉獄に於いて受ける浄化の本質については、神学者間にも意見が区々である。抑々霊魂は何から浄化されるのか、罪責からか、或は単に短所からか、もし短所からだとすれば、どの意味に於いて彼等は完全となるのか、内部的に善くなることか、或は神の尊前に於いて、彼等の状態が善くなることだけを指すのか、という諸点である。
             聖ベラルミーノ枢機卿は、小罪の犯責が煉獄に於いて赦されるとまで主張している。〔これはマテオ十二章第三十二節に於いて、我が主は来世に於いて、罪に對する苦しみが赦されることを語られたのではなく、罪責が赦されることを語られたのであるから、このマテオの句は苦しみが赦され、罰が果たされる場所、即ち、煉獄の存在の証明とはならぬとのカルヴィンの主張に対して応えたもので〕ベラルミーノは「少なくも小罪の犯責(quoad culpam)は煉獄に於いて赦される」(煉獄論第一篇四章六)と言い、亦「小罪の犯責は対神愛の業と、堪忍ぶことによって赦される」(同十四章二)との聖トマスの説を裏書きしている。
             これに反しスアレスは煉獄は罪の罰の負目を取除くことが出来る以外、他の意味に於いて霊魂を改善することはない(Suarez,Disp.xi.sec.iv.a.2.§10)。凡ての罪責は霊魂が肉身を離れる最初の瞬間に(in primo instanti separationis animae a corpore)完全痛悔の唯一つの業によって赦され、この完全痛悔の唯一つの業によって意志は全く神の方に向い、人は凡ての小罪からのがれる(§ 13,)。かくして煉獄に於いて罪責(quoad culpam)が赦される。如何となれば霊魂の浄化は、死の瞬間から始まるからである(§ 10)。悪い習癖や邪まな傾向について彼は言う。「我等は悪癖や邪まな傾向のために、霊魂が煉獄に留まっていると考えるべきではない。これらは感覚的欲求から起こる限り、肉体がなくなれば、これらのものも亦なくなる。悪い習癖と邪まな傾向が意志の中にある限り、死の瞬間に取去られるか、又は霊魂が光栄に入る時、反対徳の注賦によって、意志から駆逐される」(Disp. xlvii sec. i, 6)。


             さて本論に於ける聖女の見解は、ベラルミ−ノの説に相当するか、スアレスの説に相当するか、明らかに彼女の説は、煉獄に於いて小罪の犯責が赦されるとするベラルミ−ノの説とは異なるようである。彼女は第三章に於いて「煉獄の霊魂にはもはや罪責がなく、従って神と霊魂との間には罰以外何ものもない」と言い、又第四章に於いては「煉獄の霊魂は死の瞬間に罪責(la culpa)」が取去られたから、罰のみがある」との意見は、スアレスの説に同じうしている。が併し、彼女が全幅的にスアレスの説と同じであるかというと、それは本論の幾多の箇所に照らして疑わしい。


             罪を犯した後、霊魂には汚点(macchia)が残り、又それを取除くために、霊魂は煉獄に行かねばならぬが、その汚点を聖女はどのように解しているか。


             聖トマスによれば、罪の結果は
             一、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱める(corrumpit bonum naturae)。
             二、霊魂に汚点を残す(causat maculam)。
             三、人に罰を負わせる(facit hominem reum poenae)。
             以上三様である。この汚点とは、人の霊魂のうちに当然あるべき筈のものが、罪の結果、取去られたことを指しているのである。 大罪の結果として「聖寵の光が霊魂をもはや照らさないとき、霊魂にあるもの(汚点)は影であり、而してこの影はそれを起した自罪によって、それぞれ形が異る」(ビルュアール)。又「小罪の結果は愛熱の減退を来す」(同上)(billuart,
             vol. iv. d, vii, a. 11)。


             聖女は煉獄に於ける霊魂について比喩的に語り、神を観る超自然の光栄(天国のものにあらず)の光を享けない結果として生ずる霊魂を覆うている暗影こそ、汚点であると看破しているのであろうか。
             第二章に於ける比喩は、一見それを肯定しているようであうが、この比喩に於いて霊魂のうえにに神が輝かない原因 — 結果としてではなく — として、罪の錆(ruggine del peccato)を聖女は挙げている。であるから聖女カタリナの言う汚点と聖トマスの言う汚点とは違う。聖女がこの汚点は神の義のみならず、神の純潔にも背くものであると主張していることに鑑みて(第八章)、この汚点は罰を意味するに止まらず、霊魂の短所をも含んでいるらしい。が併し汚点の中には (1)徳に対する弱さ (2)罪によって得、罪責が赦された後もなお残っている悪への傾き、(3)世俗的関心等、一語に総括すれば、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱めること(corruptio naturalis boni)が含まれている。確かに悪への傾きと世俗的関心とは、スアレスが言ったように、死の瞬間に除かれ得るとはいえ(註。得るとあるのは、除かれないかもしれないから、得るとしたのである)、実際にはそうではないらしい。又悪への傾きと世俗的関心とは、その行為を繰返すことによって徐々に得られたから、又動揺の経路によって取除かれる筈であり、徳から離れ、再び徳に戻るためにも、亦々経路を逆に辿らねばならぬらしい。現世に於いて神が霊魂を摂らい給うのも、この方法によるのである。さすれば煉獄に於いても、その方法が異なるとは考えられない。


             以上のことは本論に於いても、聖女カタリナの見解であったことを示す箇所が屡々ある。第十一章に於いて聖女は全然とは言えないまでも、殆どそれに近いことを言っている。聖寵が霊魂にかえされたとき、霊魂は屡々ひどく汚れ、自我に傾いたままであるから(imbrattata e conversa verso se stessa)(註。聖寵はこの傾きを取り除かない)、神に創造された原始の状態に霊魂が戻るためには、聖女が屡々述べている通り、霊魂は神の全能の動作を必要とし、これなくしては救かり得なかったのである。聖女はこの第十一章に於いて、自我への傾きを利己的悪癖と解している。而して本論を終るに当たり、”全善にして哀憐深き神は、凡て人より出づるものを滅し、煉獄はこれを浄化する”と言っているが、この”人より出づるもの”とは、現世的傾向を指すに外ならない。
             今この死後の項で述べたものは、聖女が他の所で語っているものとは異なった意味があるように見えるばかりで、例えば、第三章に於いて神と人との間には、罰以外何等障壁がないと言っているのも、聖女は悪への傾向を取除くことを、罰の一部に込めていたと考えられる。更に第十一章の”燃やされていると同時に障げられている”(istinto acceso ed impedito)ことが、煉獄の苦しみとなると言う場合も同様である。
             又第一章に於いて短所が煉獄の霊魂にないと言っているようにもとれるが、煉獄の霊魂は短所となることをすることが出来ないのを言っているに過ぎない。前に述べた悪への傾きとか悪癖等は何れも受動的なものである。聖女が短所はないと断言していないことは、神の純潔に背いた或るものが障碍となるとしていること、及び第十一章に述べている点とから見て明白である。その第十一章に曰く「霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が見えれば霊魂は絶望する。又神は霊魂の最後の状態に於いて短所を焼尽し、それが焼尽されるとき、神は如何なる短所があったかを霊魂に示し、焼尽されねばならぬ凡ての短所を焼尽す愛の火を点じたのは、御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらを霊魂に観せ給うのである」と。


             なお煉獄論に関し、スアレスにも匹敵するベラルミ−ノは、次のように疑念を述べている。

             「現世に於いて、一時的なものに対する偏った愛着を、種々なる苦しみ(例えば、溺愛した妻子との死別の如き)によって神が浄化し給う如く、来世に於いても、種々なる艱難、苦しみによって浄化されねばならぬ現世に於いて実際にあったかかる偏った愛着の跡が、肉体を離れた霊魂の中になお残っていると、信じられるであろうか」(煉獄論第一篇第十五章二五)と。

              "An sicut in hac vita immoderatus amor erga temporalia purgatur a Dio variis afflictionibusu, ut mortibus uxoris liberorum, etc., ita etiam credibile sit, post hanc vitam adhuc remanere in anima separata aliquas reliquias talium affectionum actualium quae purgari debeant tribulationibus et molestiis" (De Purg., lib. i. c. xv, 25)

             

             要するに受動的な悪癖や現世的関心は、煉獄に於いて取去られることは、煉獄の霊魂に内面的な改善がなされるとの観念を含むが、この観念のうちには正統神学に背反することは決してないようである。かかる観念は、この地上に於いて神が霊魂に摂らい給うことについて、我々が弁えていることと合致しているし、又本論に於いてもこれを是認しているように見える。

             

             煉獄の火について
             煉獄で霊魂が苦しんでいる火は、比喩的の火ではなく、実際の火であるとするのは、信仰個條でなく、フィレンチェ公会議に於いても、ギリシヤ教会側は煉獄の霊魂は実際の火によって感覚的に苦しまず、苦悩界の幽暗によって苦しんでいると主張したから、これを決定することを避けた。現代に於いても東方教会の公教要理は煉獄の火に就いては、何等触れていず、ローマ教会に於いても同様である(ピオ十世公教要理その他参照)。併し神学者同様信者の一般的感情は、実際の火によって苦しんでいるとしているが、これら神学者の意見の根底をなすものは、聖グレゴリオ大教皇の「対話」第四篇三十九章の「審判に先立ち、ある軽い過失に対して浄化の火があることを、我等は信じねばならぬ」、及びニッサの聖グレゴリオの「死者のための祈祷」中の「肉体を離れた霊魂は、その霊魂の中に入った煉獄の火が汚れを除かぬ限り、神の本性に与るものとはなり得ない」とに拠っているのである。
            カタリナの「煉獄論」に於いては、この問題には何等触れてはいないが、全体を通読して、聖女は精神的火のことを考えていたのではないか、との印象を受ける。

             

            注釈(B)

             

            ゼーノヴァの聖女カタリナ 煉獄論
            発行者 フェデリコ・バルバロ
            訳者 笹谷道雄
            昭和25年10月20日 ドン・ボスコ社発行

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