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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 6

    2016.10.24 Monday

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       『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
      ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

       

      第十五章
      煉獄の霊魂は、いかに現世の人々をとがめるか


       神の光によって照らされた聖女カタリナは、本書に記したすべてを観たとき、彼女は語った。
      「私は地上の一切の人々が、怖れ戦(おのの)くほどの大声で叫びたい。惨めなる者よ! 死の瞬間に遭遇する怖るべき悶えに對する用意を怠るまでに、現世の事柄によって盲目となっているのを、何故そのままに打棄てておくか。
       汝等は大いなりという神の哀憐(あわれみ)の希望のもとに隠れ、良善の師の聖旨に背いたことに対し、審判の暁に、この神の全善が立ち給うことを考えよ!(10) 主の哀憐は、その聖旨をことごとく果たすことを汝等に強い、悪をなすよう汝等を励まし給わぬ。主の義は、人の義に屈することなく、それがいづれかの方法で、全く果たされることを識れ。
      ”私は告白し、次いで全贖宥を受け、それによって一切の罪を浄めて、煉獄を安全に通るであろう”(11)との誤った希望をもち、自らを欺いてはならない。全贖宥には、告白と完全なる痛悔を条件とすることを知れ。この痛悔は得ることかたく、贖宥を得るよりも罪を犯さず、贖宥を必要とせぬよう、心することが最上なることを弁えよ」。


      (10)マテオ十二章四二節の該当句であろう。
      (11)「煉獄が殆どなく」の意。「大なりと謂う神の哀憐の希望のもとに隠れ」とは、神の哀憐は大であるから、罪を犯しても、直ちに赦し給う等々のことを念頭に置いて、常に主に背くことを指す。

       

       

      第十六章
      聖女は煉獄の霊魂の苦しみが、平和と歓喜を減じないことを示す


       苦しみの真中(さなか)にある煉獄の霊魂のうちには、次の二様の作用のあることを、私は悟る。
       第一は、神の哀憐(あわれみ)である。彼等は歓んで苦しんでいる間(うち)に、その苦しみは自分が受くるべき当然の酬いであり、又神の尊前に神に背き奉ったことがいかに大きいかを想いつつ、神が彼等に対し全善にて在(ましま)したことを悟るのである。
       何故ならば、主の全善が、哀憐(あわれみ)(イエズス・キリストのいと聖き御血による償罪)を以て、恒に義を和らげ給わなかったなら、唯一つの罪の酬いとして、地獄の萬苦があったであろうから。で彼等は苦しんでいるすべては正しく相当し、且つ命ぜられたものであることを弁えているから、自分の苦しみを歓びを以て堪え忍び、苦しみの一部分すらも取り去られたくないのである。そして彼等は天国の永遠の生命に於いて在るであろう時と同じく、もはや神の意志について呟かない。
       第二は満足である。これは神の命が彼等を計り給う上に、いかに愛に満ち、哀憐(あわれみ)深きかを観て感じる、その満足である。
       彼等は前述の二つのことを同時に意識させられ、聖寵の状態にあれば、霊魂は各々その能力に応じて、この二つの事柄をありのままに悟るのである。彼等は大いなる満足を感じるが、この満足は減じないばかりか、却って霊魂が神に近づけば近づくほど増してゆく。彼等はこれ等のことを直接に識らなくとも、神が啓示(しめ)し給う程度に於いて識るので、彼等の一切の注意は、自分の苦しみに向けるよりも遥かに一層神に集中され、自分の苦しみよりも神を重視する。何となれば神を瞥観することは、人が想像し得るあらゆる満足や歓喜(よろこび)に勝っている。しかし、勝っているとはいえ、歓喜からは、苦しみの少しの部分も取り去られないのである。

       

       

      第十七章
      結論として聖女は煉獄の霊魂について述べた凡てのものを、彼女が感じ、心中に経験した一切のものにあてはめる


       煉獄の霊魂が受けているこの主の浄化を、私の霊魂のうちに於いて、特に過去二ヶ年にわたって経験し、それを毎日益々明らかに悟り感じる。私の肉体のうちに在る霊魂は、ちょうど煉獄にいるようである。そしてこれは真の煉獄と似ているが、ただ違う点は、肉体がそのうちに於いて受ける霊魂の苦しみに堪え得、死なずにある程度の苦しみである。(12) しかしこの苦しみは、肉体が実際に死ぬまで、徐々に絶えず増してゆく。
       私は凡てのもの(霊魂に栄養を与え得る歓喜、喜悦、慰安の如き霊的なもの)から、遠ざかったことを感じる。
       私は、記憶、意志、悟性を以って現世の財宝も、霊的の財宝も望まず、又”これは彼れよりも、一層私を満足させる”と言うことも出来ない。
       私は、霊的にも肉体的にも、私に慰安を与えるあらゆるものが、徐々に私から取り去られたほど内的に苦しんでいた。そしてこの慰安が取り去られた時に、これらが嘗ては私の慰安と力の源であったことを悟った。しかしながら霊魂が、自分にとって慰安となり、力となるものを見出すやいなや、却ってこれらのものは無味で、むしろ厭うべきものとなり、(13) それらを私のうちに保持(たも)っていようとはしなかった。と言うのは、完徳に到るための一切の障碍を取り去ろうと、霊魂は自然的衝動によって努力し、障碍を取り去ることが出来なければ、むしろ地獄に行くことも辞さないほど、これらの障碍を取り去りたいと望むのである。それで霊魂が自身を養う凡てのものを除き去り、熱心にこの目的を保持する所から、霊魂のうちに極くわずかの短所さえも、とどめておくことは出来ない。
       肉体はもはや霊魂と交通し得ないから、地上の如何なるものを以ってしても満足できないほど、〔肉体は〕圧迫されており、肉体にとっては、神がその義を満たすために、この浄化の業を大いなる愛と哀憐(あわれみ)とを以ってなし給う、その神以外に慰めはないのである。しかし私がこれら一切のことを悟ったとき、満足と平安があるとは言え、これによって、私の苦しみや圧迫されていることは、いささかも感じない。
       しかし私には如何なる苦しみも、神が私のために定め給うた以外の苦しみを、望ませることは決して出来ない。私が必要とするすべてを神がなし給うまで、私は閉じ籠められ囚獄から外に出ることを望まず、その中にとどまっている。私の福(さいわい)は神の聖旨が行われることで、神の命がいかに正しく、哀憐(あわれみ)に満ちているかがわかるから、万一神の命に背くことがあれば、それは私が堪え得る苦しみの最大のものであろう。
       以上説明した一切の事柄は、いわば霊的に観、触れることによって悟るけれども、思いのままに説明する適当な言がない。私が今説明したすべてのことは、私の心の中に起こったありのままを述べたのであった。私が閉じ籠められている囚獄(ひとや)は、現世であり、縛られている鎖は、肉体である。
       聖霊によって照らされている霊魂は、霊魂の目的たる神に到ることの出来ない惨めさが、いかに大いなるものであるかをよく弁えているから、霊魂が敏感であればあるだけ、そのことによって大いなる苦しみを感じる。神は成聖の聖寵によって、霊魂をいわば神のごとく在らしめる権威を与え給うが、それのみならず、神の全善に与らせ、己と一にすらもならせる権威をも与え給うのである。神は苦しみ給うことは不可能であるから、神に近づく霊魂も苦しまず、神に近づけば近づくほど、主の完徳に与るのである。
       であるから霊魂が出遭う障碍のために、神に到るのが少しでも遅れることは、霊魂に堪え難い苦しみを起こさせる。この苦しみと遅滞とは、霊魂が生まれながらに有っている特質(自然的特質)(14)と、聖寵によって霊魂に示された特質(超自然的特質)とを障げる。神を所有することは、霊魂の本質上可能であるが、実際にはいまだ所有することが出来ずにいるから、霊魂が神を望むことが大なれば、それに比例して苦しみも亦大きく、霊魂が神を全く識れば識るほど、それだけその望みは激しくなり、浄化されるようになるのである。神に赴くことをはばむ障碍は、霊魂が神に牽付けられるほど、怖ろしくなる。そしてこの障碍がなくなれば、その時、遂に霊魂は在るが如く在り給う神を観奉るのである。
       神に背くよりもむしろ死することを望む者は、死の苦しみを感じないことはないが、神を讃える熱誠が、自分が生きようとする欲望よりも一層強いことを、神によって明らかに照らされる。(15) これと同様に、神の聖旨を識る霊魂は、いかに苦しくあろうとも、内的、外的のあらゆる苦しみに超えて、この神の聖旨を一層重要に思う。この理由は御自らのため、又御自らによって、浄化の業をなし給う霊魂の創造者なる神は、人が識り且つ悟り得る如何なるものにもまさって、遥かに限りなく霊魂に望まれるからであり、これは神が、霊魂を御自分の霊威(みいつ)に奪われている状態に保ち給うから、なほ更さうである。故に霊魂は如何なるものも—仮令僅かにしても—重要であると思うことが出来ない。
       自我に係わるすべてのものは過ぎ去る。霊魂は、神に全く自分を奪われているから、自分が苦しんでいる苦しみを観、語り、或は、それを識ることさえも出来ない。これらすべては(神の意志や、神の意志によって霊魂のために定められた一種の苦しみ等)前に述べたように、霊魂が現世を去る瞬間に、霊魂に示される。結論として哀憐(あわれみ)深き神は、人から出るものを全く滅し、煉獄は、これをことごとく浄化するということを付け加えておく。 [完]

       

      (12)現世に於ける煉獄であるから、肉体は死なずにあるのである。死後に於ける真の煉獄は霊魂のみ。
      (13)完徳の高嶺の状態を指す。その直後の「地獄に行くことも辞さない云々」は、実際に地獄に言っても良いという意ではなく、もし地獄に行くことを望むとすれば、人々の救霊を望み給う神の聖旨に悖り、且つ又我等の側からは、望徳に反することになる。これはイタリア人特有の誇張した表現法で、文字通り解すべきではない。
      (14)原語はproprieta.
      (15)人が己が生命と神を讃えることの何れかを選ばねばならないとき、即ち、この両者の何れかを犠牲にしなければならないとき、己が生命を犠牲に供する—即ち、死を選んだ場合、死の苦しみを感じない無感覚になったと考えてはいけない。彼は確かにこの死の苦しみを感じるが、自分の声明を愛するよりも、一層神を讃える熱誠が彼にとっては重要であるとの意。

       

              *      *       *

       

      Trattat del Purgatorio
                di
      Sancta Caterina da Genova

      "In iis quae de Purgatcrio determinata non sunt ab Ecclesia standum  st ii, quae sunt magis conformia dictis et reve lationibus S, nctorum."

       St. Thomas,in 4 sent. dist 21, quaest. 1, a. 1.

      煉獄に関し、聖会の未だ決定せざる所は、聖人に啓示せられしと言はるること又は聖人の言はれしことに、一層合致する節を取るべし。

      (ベラルミノ枢機卿がその著『煉獄論』第二篇七章に引用せる聖トマスの文)

        

       

       

       

       

       

      聖体拝領の真の意味 つづき

      2016.10.23 Sunday

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        … 悪魔は子供等から早くもその無邪気さを盗みたがっている事も、又、更に聖体拝領だけが、彼等を悪魔の罠から守る事が出来ると言う事も、我等の主はよく知っている。…初めて聖体を受けたばかりの子供の善意程、真面目なものは無いとは経験の証明する所である。その子供はイエズス・キリストを愛し、イエズスを自分のものにしたいと望んでいるのに、何故其の子供の望みを満足させないのか。子供の敬虔さを軽蔑する我等よりも、其の子供の方がイエズスを受けるにふさわしい者である。「幼児の我に来るを許せ、神の国は彼等のものなればなり」と、我等の主なる神キリストは言った。地上に在る神の国とは聖体である。「子供は軽卒である」と貴方は言う。誠に然りである。そして其故にこそ我々は彼等に度々受けさせねばならないのである。子供にとって一週間は一ヶ月である。その年頃では印象は生き生きとしてしるし、又敏速である。それ故にもし将来信仰の強い人にしたいと望むならば、度々キリスト教的印象を新たにする必要がある。「子供等は軽率である。」然り。そして彼等は善であり、愛情が深い。我々は彼等が必要とする愛情に適当なる養分を与えるべきである。彼等にイエズス・キリストを愛させるべきである。そのために度々子供等をイエズスに近づけよ。彼等の欠点は、それ程根強いものではない。そしてそのような欠点が、悪に成り果てる事から守ってくれるものは敬神である。
        カトリック信者の子供は、原則として初聖体後は、毎日曜日と祝日には聖体を受けるべきである。もし指導者、両親、或は教師が善意の欠けている証拠を見つけない限り又聖なる食卓から子供を遠ざける時には、余程慎重にしなければならぬ。何故なれば、堕落の危険が目近く、その母親の心を凍らせる危険は、聖体拝領のみによって効果的に防ぎ得るのであるから。貴方は子供を無邪気さと清浄さの中に保ちたいと念願しないであろうか。子供が度々拝領するように激励せよ。或は少なくとも指導者がそうするように勧めた時に、子供を妨げないように。間違った熱心から、如何に多くの両親が、知らず知らずに彼等の子供の堕落の最初の原因になることだろう。如何に多くの人々が彼等自身がひどく恐れている堕落の直接の原因、致命的原因であったであろう。貴方が子供のために恐るべきものは、度々受ける聖体ではなくて、反対に受ける事を怠ること、即ち聖体の秘蹟に対して望みを持たない事である。天主から遠ざかる子供のために、あらゆる物は恐ろしい。「然し我々は将来のために恐れる。最初は余り急がない方がよい。後戻りをする事は不愉快なことだ」と言うかも知れない。然し何故これ等の良き子供等が後戻りをしなければならないのか。何故彼等は天主を愛することを止めなければならないのか。若い時の熱が、後のキリスト教的生活の最もよき保証ではないか。もし我が子が、将来悪に対して強いようにと望むならば、今からでも子供がすべての力の源なる聖体から、沢山の力と勇気とを引き出すのを許せ。子供がすべての貞節の基礎の上に自らを親密に結びつけようとするのを許せ。子供の現在の敬神を以て、その将来の敬神の真剣さを計る事が出来るであろう。こうして保たれた無邪気さは、貴方のため、子供自身のために、清浄な青年期の曙光となるであろう。もしも聖体拝領したにも拘らず、青年期が堕落を避け得ないと言う事が度々起るならば、もし彼等が清き人を作るパンを取り上げられるならば、その結果は果たしてどうであろうか。
        初期の教会では、子供等も大人と同様に、毎日聖体拝領を許されていた。彼等はイエズス・キリストの秘蹟から、キリスト教生活の活力、信仰の祈と熱の清き精神を引き出すのが常であった。そのような力、そのような精神は十才、十二才、十五才を越えないような聖人や殉教者を教会に与えたのであった。天主の御手は不足してはいない。同じ方法は我々の時代に於いても同じ効果を結ぶであろう。そして子供に与えられた聖体拝領は、今も尚彼等の中に成聖の目を生ずるのである。或両親は言う「我々は結局子供が余り敬虔になり過ぎて遂に司祭になり、天主に身を捧げることを望むのを恐れる」と。それでは敬虔と召命とは同じことであろうか。召命を恐れる事は、カトリック信者の両親にとっては、非常に奇怪な意向であろう。何故ならは、天主に一身を捧げることは「最高の生活状態」であり、全家族に対する特別の恵みである。然し敬虔を恐れる事は、全く馬鹿々々しい。敬虔とは唯一の真の喜悦、唯一の真の幸福である。敬虔はすべての事柄に有益である。現在及び未来の生活に希望をもたらすのである。人は敬虔すぎる事はない。何故ならば、良すぎると言う事は決してないから。そのような馬鹿々々しい見解のために如何に多くの子供等が堕落した事であろう。自分の心を自ら開き、キリスト教的生活に自ら着手しようとする宗教的自由を子供等に与えよ。我々はそれを強制できないと同様、制限する権利を持たない。特に秘蹟の問題が有る時は尚更の事である。子供等を教え導け。彼等の無経験を注意深く指導せよ。然し結局我々の指導は全面的にカトリック的であらねばならず、良心の自由を妨げるような事があってはならぬ。そのような権利の濫用によって、我々は魂をゆがめ、知らず知らずのうちに、彼等に対する天主の計画の邪魔をする事になる。それ故に、度々聖体を拝領する事は、子供にも必要である。もしも強い世紀を作りたいと思うならば、子供等に度々聖体を受けさせるようにせねばならぬ。聖体のみが聖人を作り得るのである。
        私が子供に就いて述べた事は、更に強く十六才頃から二十才頃の青年等に適用される。この危険な年齢では、情熱に対する戦いが、世界の堕落した実例や幾千の外的困難のために、もっと危険になるのである。聖フィリッポ・ネリは生涯をかけて、ローマの青年の浄化に努めた。聖人の証言は、天使的成聖と特別の経験との二重の重さを持っていた。この聖人は次のように言った。「聖マリアに対する献身につけ加えて、度々聖体を拝領する事は、青年が善良な道徳と信仰の生活を保つために、又、堕落から起ち上がり、弱さの中の自分を強くするために、最上とは言わないが、唯一の方法である」と。…純潔は聖体拝領なくしては不可能である。青年を地上に於いて最も魅力的に、最も愛すべきものとする力と、すべての頼もしい徳は、更に不可能である。もし度々聖体を受ける事が盛であるならば、どんなに素晴らしい変化が我々の学校の中に起ることであろう。胸を悪くするような不道徳の代わりに、又、道徳を腐敗させるよりも有害なる無関心の代わりに、我々は若い人々が自然的に昔あったように生々とし、愛すべくして精神と愛徳の賜によって特別立派な姿を、又、教会や国家の偉大な人物に譲歩する謙遜な姿を見るであろう。何事もキリストから離れる時には凋(しぼ)んでしまう。又神性なるキリストの接触によらなければ、何事も生き生きと咲く事は出来ない。経験の示す所によれば、そのような事が聖体拝領の若い人々に及ぼす影響である。秘蹟を規則的に受ける事によって、根絶出来ないような悪は存在しないし、それがなす事の出来ないような変化はないのである。…
        イエズスのみが涙を乾かし、或は少なくとも其痛みを軽く為し得る。我々の心が、苦悩によって打ち砕かれる時、彼のみがそれを回復して平和と望と、全く超自然的な内的歓喜に到らしめる事が出来るのである。カトリック信者のみが、その歓喜を知っている。そして其歓喜は悲哀とよく調和するものである。或カトリック信者は苦悶と苦悩の中にいるかも知れない。然し彼は不幸である事は出来ない。或時、ひとり子を失った母親が静かに言った。「私は泣き悲しむ。けれども私は満足している。」 彼女は毎日聖体拝領をしていたのであった。
        イエズスの中に我々は永遠性を見出す。天国を見出す。我等の異郷の旅が余りにつらい時に、生活が余りに耐え難い時に、イエズスの許へ行かねばならぬ。その秘蹟を受けに行かねばならぬ。それは我等に地上を、試練を、十字架を、戦いを、不正を忘れさせる唯一の手段である。イエズス・キリストは自ら苦しみ、又苦しみが如何に我等の魂に益する所があるかを教え、且つ彼は我等の苦悩を取り去り、その代わりに彼の平和、彼の力を与えて下さるのである。我々は病に苦しむ時、彼に依り頼もう。彼こそは最上の医者である。そして彼の訪問は同時に我等の肉体を慰め、我等の心に歓喜をもたらすであろう。…もし貴方が回復すれば、聖体を受ける事は、貴方の苦しみの日々を成聖の日々とするに違いない。そして、それは貴方の未来の生活に、大きな影響を与えるであろう。もし回復しないならば、貴方は立派に終油の秘蹟を受け、永遠の天主の前に、愛によって全く浄められて現われるように準備が出来ているであろう。…
        聖フランシスコ・サレジオは言う「フィロテアよ、度々聖体を拝領せよ、貴方の霊的指導者の忠告に従って、出来るだけ度々。この神聖なる秘蹟の中で、美・善及び純潔に度々憧れて生きることによって、貴女は更に美しく、善良に且清らかになるであろう」と。

         

        『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊より抜粋

        聖体拝領の真の意味

        2016.10.23 Sunday

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          『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊

           

          聖体拝領の真の意味の表紙

           

          … それでは聖体拝領の真の目的、即ち目指すところは何であろうか? 外ではない、我等の霊魂が恒に清らかで生々として天主と結ばれている其の状態を持ちつづける事である。我等のうちに霊的そして内的生命を保つ事、我等を人生の闘いに於いて気絶しないように守ること、洗禮と堅振とによって、天主から授かった聖寵を失わないように守ることである。
          従って、聖体の秘蹟の特別の恵みは、養育と保存の恵みなのである。我等の主は聖体に就いてこう言っている。即ち「我等は聖体拝領を通してのみ、キリスト教的生活を為し得る」と。「誠に實に汝等に告ぐ、汝等人の子の肉を食せず其血を飲まずば、汝等の衷(うち)に生命を有せざるべし。」(ヨハネ六ノ五四) カトリック信者として天主と一致しているには、我等は聖体拝領に依らなければならない。体に対して言えることは、魂に対しても同じく言える。我等は食べないでは生きる事が出来ない。食物は生命を与えないが、生命を支え、我等が健康と呼ぶ活力を与える。ここで肉身は全く霊魂のシンボルとなっている。霊魂も又、其生命を持っている。それはイエズス・キリストを通して天主と一致する事によって生ずる。そしてこの一致が聖寵と呼ばれるのである。それを養うために食物がいる。その食物が即ち聖体に在すイエズスなのである。イエズスはこう言っている。「我は生命のパンなり。汝等の先祖は、荒野にマンナを食して死せしが、是は天より降るパンにして、人是を食せば死せざらんためなり。(ヨハネ六ノ四八—五〇) 蓋し我が肉は實に食物なり。我血は實に飲物なり。我肉を食し我血を飲む人は我に止り、我も亦是に止る」と。(ヨハネ六ノ五六・五七) 食物なくして肉身を生かして置けないと同様、聖体拝領なくして聖寵を霊魂に留めて置くことは出来ない。肉身の力と健康が食物に依ると同様、霊魂の生聖及びその活力は聖体拝領に依るのである。聖体拝領は、これをよく理解するなら、既にもっている聖寵に対する報酬ではなく、むしろそれは、聖寵を増加する手段である。それは唯手段に過ぎない。肉身を養うことも是と同様である。我等は強いから食べるのでなく、強さを保つために、或は強くなるために食べるのである。そして肉体的養育が肉体的生命のために習慣として度々繰返されると同様、カトリック信者の生活に於いて聖体拝領は極く習慣的なものとならねばならない。
          これがカトリック教育が我等に与える聖体の真の目的である。其れが為にトレント会議は、あらゆるキリスト教時代と、教会のあらゆる教父等の証言を引用して、次のような希望を正式に述べた。即ち「最も聖なる犠牲の實を一層多く刈り取るために、精神的に聖体を拝領する事に満足せず、信者は毎日実際に聖体拝領をして欲しい」と。これが真理であり、天主の御意である。これが教会の誤りなき声を通して、天主が我等に与える規則である。各人は此真理を肝に銘じ、もし必要ならば、決して誤り得ないこの判断を以て、自己の意見を正さねばならぬ。
          立派に聖体を拝領するためには、或程度の成聖を備えてをらねばならないと言うのは本当である。然し此成聖とは何であろうか。これは偉大なる聖人や殉教者の持つ完全さであろうか。決してそうではない。其れに必要な成聖は、貴方の手の届く所、すべてのカトリック信者の手の届く所にある。これは唯、罪をさけ、忠実に天主に仕えると言う真面目な意志を持つ聖寵の状態のことである。この状態は極く基本的な事であはないだろうか。貴方は天主がこれをせつに望んでいると言う事を感じないであろうか。天主は実際それを貴方に望んで居られる。即ち、これなくしては誰も真のカトリック信者なり得ないと仰せになる。大罪の状態にあって、悪を喜ぶ人は一体如何なる種類のカトリック信者であろうか。
          立派な聖体拝領のために、我等の主は、唯貴方が真のカトリック信者であること、真面目な善意によって、天主の方へ導かれることを望んでいる。貴方は此意志を持っているであろうか。良心に答えさせて見よ。もし持っていないならば、其れを求めねばならない。さもなければ、地獄は貴方のために勝利を得るであろう。もし持っているならば、何故それを強くし、増すために聖体を拝領しないのか。それは明瞭で然も答えにくい問題である。同じ事を偉大なる聖会博士大司教聖ヨハネ・クリゾストムがコンスタンティノープリの信者に向って呼びかけている。彼は言う。「貴方は天主の恩寵の中にあるか、又はないかの何れかである。もしあるならば、何故聖体拝領をしないのか。聖体拝領は貴方の聖寵を保つために定められたのである。もし罪の状態にあるならば、何故立派な告解によって心を清め、聖なる拝領台に近づいて再び罪におち入らぬように力をうけないのか?」と。もし貴方が天主に近づくためにふさわしい者になるまで待たねばならないならば、拝領するものは一人もいないであろう。聖アムブロジオは言っている。「もし毎日あずかるのにふさわしくないならば、その人は一年間で果たしてふさわしくなるであろうか」と。…教会は貴方も、又他の誰でも、共にふさわしくないのを知っている。其が為に教会はすべての教会の子供に、すべての司祭に又司教にさえも、聖体拝領の前に斯う言わせる。而も一度ではなく三度までも「主よ、我は不肖にして主をわが家(や)に迎え奉るに堪えず」と。教会は貴方が聖体を拝領するにふさわしい者であるから拝領させるのではなくして、貴方を最も聖にして寛大なる主に出来るだけふさわしい者とするために必要であるからである。教会が度々あるかるように勧めるのは、貴方が聖であるからでなく、貴方がそうなるべきであるからである。貴方が強いからでなく、弱くて、不完全で、悪に傾き、誘われやすく、罪におちいりやすいからである。…
          四世紀のある敬虔な博士は、度々聖体を受ける者と、稀にしか受けない者と、どちらが一層謙遜であるかと自問自答して見た。其の答えは正しく次の通りであった。即ち「イエズス・キリストを度々受ける者は、より謙遜である。何故ならば、それは彼が自分のみじめさをよりよく知り、それをなおす必要を一層強く感じているしるしであるからである」と。貴方は度々受ければ受ける程、ますます受けるにふさわしい者となるであろう。…
          聖アルフォンソは言った。「数少なく聖体を拝領した方が、もっと多くの信心を経験すると言う考えによってだまされてはいけない。事実稀にしか食べない人は、より偉大なる食欲を以て食べるが、規則正しく食事をする人のように強くなる事は出来ない。もし貴方が稀にしか拝領しないならば、貴方は恐らくもう少し感覚的な信心を持つであろうが、聖体拝領によってそれ程益する事も無いであろう。何となれば、貴方の心は多くの過失を避ける力に不足しているから」と。従ってほんの少しばかりの感覚的な信心に就いて考えるのは止めて、一層高い見地から敬神に就いて考えよ。聖体拝領の中にイエズスの真の実際的な愛を求めよ。そうすれば、それを貴方は何時でも発見するであろう。…
          教会は度々拝領するように勧める。もし出来るならば、毎日でも。然しその度毎に告白する義務が有るとは言わない。トレント会議によれば、我等が聖体拝領の前に告白する義務が有るのは唯「我等が大罪を犯した時」である。秘蹟に度々近づいているカトリック信者の魂は稀にしか大罪を犯さない。人間の弱さ故に普通に陥る余り重くない罪、即ち小罪に関して、確かに信仰は我等にこう教えてくれる。即ち「天主の愛を真面目に実行する事に依って、又痛悔によって、小罪を充分に消す事が出来る」と。そして此罪の赦しをもっと容易にするために、教会は準秘蹟と言って、我等の良心を浄化する最も簡単な方法を定めた。即ち聖水を以て十字架を印すこと、主祷文・告白の祈等である。
          前回の告白以来犯したいくつかの小罪の為に、貴方が聖体拝領を躊躇するならば、カトリック教会の偉大なる声は「聖体拝領は大罪を防ぎ、小罪を消す」と宣言すると言うトレント会議に耳を傾ければほい。
          これをよく理解せよ。告解でなく聖体拝領が日々の過失を消すために定められたのである。火が藁を燃やし尽くすように、聖体拝領は過失をすっかり食いつくしてしまう。火は石や鉄をなくするものではない。大罪は石や鉄のようなもので、告白の鉄槌によってのみ打ち砕かれる。藁は如何に我等の良心が真面目であろうとも、我等が日々犯す軽い過失を意味する。恐れず、喜びを以て聖体を拝領せよ。貴方は度々或は毎日でも聖体を拝領して、我等のよき主をもう決して困らせはしないと信じて安心せよ。…
          もし貴方が毎日よき聖なる生活をしているならば、貴方は常に充分聖体拝領の準備をしているのである。パッツィの聖マリア・マグダレナは、或朝修道院の為に自分の労働を捧げていた。心は祭壇の前にあった。彼女は何も心の準備はしなかったが、愛に燃え、両手にくっついた生パンにさえ気がつかずに、イエズスを受ける為に聖堂へ行ったのである。又カルメル山の修道女等の目上であった聖女は、彼女等に向って斯う言うのが常であった。「貴方達が為すすべての事を天主に捧げて下さい。天主を喜ばせる為に、すべての行いをすること。そうすれば、貴方達は恐れないで拝領台に近寄る事が出来るでせう」と。聖アルフォンソは斯う付け加えている。「何か善い仕事のために、或は国家の任務の為に、準備の時間が無いからと言ってそれを理由に聖体拝領をやめてはいけない。無駄な会話を避けるように、延期をよぎなくするすべての仕事を避けるように、唯注意しなさい。」…
          聖ペトロは奇蹟的な位置網によって、彼のボートに入った御方の神聖さと、威風とを知った時に、自分の身をイエズスの足下に投げ出して言った。「我は罪人なれば、我より遠ざかり給え」と。自愛深き主は「おそるる事勿れ」と答えた。(ルカ五ノ八) 貴方も恐れてはならない。貴方の心は天主のためであり、貴方は天主に忠実に仕えたいと望んでいる。天主はもうそれ以上の何物をも貴方に要求しないし、貴方の煩悶も貴方を身捨てず、却って貴方をへり下せるに相違いない。大概、確かにそのような煩悶は、頑固なものではなく、又貴方から聖体拝領の効果を奪いはしない。良い意志の有る所に、善い聖体拝領も有る。乾燥や嫌悪に会い、感覚的慰安の不足、なやましい煩悶等の為に、聖人等でさえ貴方のように苦しんだのであった。聖ヴィンセンシオ・デ・パウロは、信徳誦さえも誦えられないような、精神的乾燥の状態に二年間暮らした。悪魔が彼の煩悶の状態を利用して、烈しい誘惑を以て彼を悩ました時、哀れな聖人は、自分が其目的の為に書いて置いたクレド(信条)を心臓の上に置いて、僧服(スータン)に縫いつけ、断然我等の主に一致したのであった。彼が手を紙にふれる時は、何時でも、それは彼が最早なし得なかった敬神の行為と、等しいものであったに違いない。彼は自分の信仰に何の感動もなく、毎日ミサを立て、彼の精神的訓練を継続した。私は貴方に聞きたい。「聖ヴィンセンシオの聖体拝領は善かったであろうか?」と。…聖テレザに依れば、そのような愁嘆きの状態にある魂にとって、度々聖体拝領をする事より善い薬は無いのである。…
          聖体は天主の愛の源である。冷たいと貴方が感ずれば感ずる程、それ程貴方は熱の源に引かされるのである。…貴方が普通の食事をしている時でさえも、弱っていると感ずるならば、そのような時に何も食べなかったり、又は殆ど食べなかったらどうなるであろうか、弱るより先に、貴方は先ず飢えて了うであろう。もし、貴方が強き者のパンを食べないなら、貴方の弱さは十倍も増し、今貴方がしているように、小さな過失に就いて嘆くどころではなく、深刻なる過失即ち大罪に就いて嘆かねばならぬであろう。「私は毎日罪を犯す。毎日犯す故に薬が必要である」と言う聖アムブロジオの言葉を、聖トマス・アクィナスが引用している。ローマの聖フランシスが聖体拝領後、ほんの僅かしか進歩しない事を不安に感じた時に、聖マリアは彼女に理解させるために、やさしい愛情をこめて斯う言った。「我が子よ、貴女が犯した過失のために、聖なるテーブルから遠ざかってはならない。反対にその過失こそ貴女を度々聖なる食卓に導くべきである。何故ならば、祭壇の最も聖なる秘蹟のうちに貴女のすべてのみじめさに対する薬があるのだから」と。…
          毎日の聖体拝領は、彼らに罪をまぬかれしめなかったが、成聖の道に於いて彼等を大いに助け、多くの大いなる欠点から救った。又彼等の中の多くの者を、無数の徳で飾った。それは又、貴方にとっても同様である。…貴方は度々聖体を拝領すれば、貴方を知っている人々の躓きとなるのが恐ろしいとでも言うかも知れない。…それでは何が度々聖体を拝領する人に就いての躓きの原因となっているのだろうか。それは聖体拝領ではなく、度々聖体を拝領するにも拘らず、自分の悪の傾向を止めもせず、宗教的実践に生きるのを怠る事である。それは譬えば、短気な行い、不貞節、貪食、自分の健康や慰安等に就いて余りに詳細に気を配る事等である。これ等は最早欠点の域を越える数多くの過失であり、又これ有るが故に、自らの成聖を配慮する良心の注意を集める事が出来ないのである。もしも貴方がこの点で罪が有るとすれば、それを天主は禁じ給うのであるから、貴方は直ちにこの甚だしい悪を効果的になおすべきである。貴方は聖体拝領を止めるべきではない。生活をもって清くもつと我等の救主イエズス・キリストにふさわしくするために、貴方自身をふるい立たせるべきである。…
          聖体拝領はすべての聖寵、平和および善良の源である。もし貴方が度々よく拝領するならば、短期間でより善くなる事が出来るであろう。…
          一方私は本当に敬虔でない人が、度々聖体拝領すると云うのを見たことさえない。何故ならば、単に規則的な生活を送る人を我々は敬虔であるとは言わないし、又、規則的である事は敬虔なことでもない。何故ならば、規則的生活とは、天主の法律を守り、教会の法を守り、主日と祝日とにミサに与り、宗教を尊敬し、正しい生活をしている事で充分であるから、敬虔であるためにはより高く行って、イエズス・キリストの愛のうちに住まねばならぬ。一度敬虔の道に入れば、カトリック信者はもはや単に教を守る事だけでは満足出来ない。信者はその上に福音の教、自己否定、内的回想、霊魂の救いに対する奮発、キリスト教的成聖を作るすべての美しい徳を実行に移すのに一生懸命になる。義務と言うよりも愛によって行動するのである。貴方は天主への奉仕を重い軛とするのではなく、優しい子供のような感情で生きいきとさせた多くの人々を知っているであろうか。教会は敬神の根本的行為として、我々に聖体拝領を公表しているのであるから、原因がなくて結果が有れば、これは前代未聞である。経験がそれを示している。よい食物なくして立派な申し分のない健康を持つ事よりも、度々聖体拝領をせずに敬虔である事はより不可能なことである。
          聴罪者、或はもっと正確に云えば、霊的指導者は、キリスト教的完全さに向って我等を導き、助言を与える神父である。我々は指導者をえらぶ義務が有るのではない。然し敬虔の道に於いて聖なる経験の有る神父によって導いて戴く事より以上に賢明で、カトリック的実践に、より適ったものはないのである。…
          教会の真の精神を汲んでいるすべての聖人のような神父達は、度々聖体を拝領する事を好む。そしてこれに就いて、彼等は単に教会が公表する一般的規則を適用するだけである。なぜならば、事実我々は、聖体拝領の規則に関しては自由ではない。この題目に就いて、我々は霊魂の指導者に従わねばならない詳細な規則を持っている。又我々がその規則を放置するならば、それは義務を大いに妨害する罪となるのである。教会はそのような規則を有名な「公教要理」にまとめた。それはトレントの公教要理として知られ、教皇ピオ五世の指導により、トレント公会議の命によって出版されたものである。トレント公会議の公教要理は、次の如く宣べている。主任司祭は、必ず教会信者が度々又は毎日でも聖体拝領をするように努力すべきこと、何故なれば、肉体と同様、霊魂も毎日滋養分を与えられねばならないから。これが司祭及び公会議の教義である。
          敬虔なるブロアのルイは言う。「或日、我等の主は、他人に度々聖体拝領する事をやめさせた人達に就いて次の如く歎かれた。〝我がよろこびは人の子等と共に在る事である彼等のためにこそ祭壇の秘蹟は定められたのである。霊魂が我を受けるのを妨げる者は、我が歓喜を減らす者である〟」と。又聖フランシスコ・サレジオ及び聖テレジアによって非常に高く評価されていた敬虔なるアヴィラの神父は「度々聖体拝領をすることに欠点を見出す者は、聖体の秘蹟を最も強く憎む悪魔の役割を演ずるものである」と常に言っていた。コルトナの聖マーガレットの指導者は、常に彼女が度々聖体拝領をするように大いに激励した。彼が死んだ時、我等の主は彼女に、この善き司祭は彼女が聖体の秘蹟に近づくのを容易ならしめた其愛徳により、天国に於いて多くの報酬を受けたと言う事を示されたのであった。又イエズス会の聖アントニー・トレスと言う聖なる修道者の生涯の中で、我々は次のような事を読むのである。「彼が痛悔者に向って度々聖体を拝領するように勧めたために、天国に於いて彼の栄誉は大いに増した」と。絶えず自らの職務のために、教会の指示に従う事を目的とする司祭は幸福である。又そのような人生の案内者を以て、天主が自らの善意によって祝福する霊魂は幸である。…
          カトリック教会が勧める事は大げさでも不可能でもない。教会は天主に対する拝礼の真理を我等に与える。我々が教会に耳を傾けるならば、我々は、イエズス・キリストに耳を傾けているのである。教会の教訓を軽んずれば、天主の光を軽んずるものである。カトリック信者が、天主の権威に就いて余り考えようとしないのを見る事は不思議である。貴方の信仰を堅くし、又其のすべての実際的な結合を堅くせよ。イエズスが教会を通じて貴方に語り給うたのだ、と貴方は信じ、又知っている。唯耳を傾け、イエズスを認めるだけで満足してはならぬ。思う存分にイエズスの教えを実行せよ。真理を望まない人には、つぶやかせておけばよい。彼等が聖体の秘蹟に対して尊敬を払うために、どんな事をしているかを彼等に示させよ。…「汝等常に主に於いて喜べ。我は重ねて言う、喜べ。」(フィリッピ四ノ四)そしてイエズスのために生きることを望み、イエズスを以て自らを養え。

           

           

           

           

           

           

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