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2017.01.04 Wednesday

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    ビンゲンの聖ヒルデガルド

    2016.09.20 Tuesday

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      『ビンゲンのヒルデガルドの世界 種村季弘著 青土社発行

       

      1:十字軍と幻視者

       

      …  彼女は見た。けれども地上の眼で見たのではなかった。天上の視(ヴィジョン)においてしか見えない「天上のヴィジョン」を見たのである。彼女は見た、「一つのいとも大いなる輝きを。そこから天上の声がとどろき渡った。」
       声は告知した。
      「か弱き人間よ、灰の灰、黴(かび)の黴よ、汝の見るもの聞くものを言え、また書け! されど目にしたものを述べるのに、汝は(聖書)解釈の素養もなく、無学にして、語ることを恥じているのであるからして、人間の語り方によらずして、すなわち人間的作為の認識にも人間的解釈の意志にもよらずして、天上のヴィジョンにおいて汝に与えられた天分により言い書くがよい。どのように神の奇蹟においてそれを見かつ聞いたかを。さながらおのが師のことばに耳かたむけ、師の思い望む通りに、師の指し指示する通りに、それをまるごと伝える聞き手であるかのように、語るがよい。されば汝もまたそのようにせよ!汝の見かつ聞くものを、汝の好むようにでも、だれか他の人間の好むようにでもなく、すべてを知り、すべてを見、そのひそやかな決断の隠された深みにおいてすべてを秩序づける存在の意志にしたがって言え、また書け。」
       天上の声の告知している相手は、「無学」で単純なヒルデガルドという女性である。「無学」とは、とりあえずラテン語をこなさないという意味であろうが、それだけではない。スコラ学と聖書解釈学の正則を身につけた当時一般の教養とは無縁の、身分こそ修道女であるとはいえ一介の女性にすぎないという意味で「無学」なのである。にもかかわらずその彼女に突如として「聖書の、(旧約)詩篇の、福音書の、旧新約聖書を論じた他のカトリック文書の意味がひらめくように明らかになった。」
      ということは、この聖書解釈や神学文書理解が聖職者の通例の研鑽の成果ではないかということである。与えられた聖職者教育コースをこなした結果の認識ではなかった。告知を受けた側としてこの正規の道を通らないで得た啓示の例外性を、彼女はふたたび自分の「無学」を強調しながら告白する。「けれどもだからといって私は、これらのテクストの語義も、分綴法も、(文法法)文例も、時称も習得することはなかった。」
       ヒルデガルドのこの告白は明らかに、当時としてはまことに危険だった。教会の指定する神学的教養の道を通らずに、我流で直接(じか)に神を見たという。しかしかりに彼女の開発した見神技術が公認されるとすれば、中世の神学体系はその場から無用の長物となり、ついには否定されることになりかねない。つまりは教権体制にさからう異端である。事実ヒルデガルドは久しい間異端の疑いにさらされる。クレルヴォーのベルナールやエウゲニウス教皇の後援を得た後も、すくなくとも教権制度の傘下にある聖職者の大多数を敵に回さなくてはならないだろう。当時の聖職者たちの常套化したあり方を当てこすった「人間的認識の作為」や「人間的解釈の意志」に「無学」の「天上のヴィジョン」を対置させ、教権制度の停滞ないし腐敗をほのめかす彼女の戦略は、ことほどさように当初から由々しい危険をはらんでいたのである。
       危険は百も承知だった。だからこそむき出しの幻視をフォルマール修道士の「校正」という隠れ蓑にくるんだ。公開の時期にも慎重を期した。幻視の書は着手してから完成までに十年の歳月を要した。
       それも1141年の執筆開始から数えての韜晦(とうかい)の期間である。彼女の幻視力はしかし1141年に突然はじまったわけではない。それ以前の数十年に及ぶ沈黙の期間があった。序文には少女時代にはじまる幻視癖のことが回顧されている。
      「隠された奇蹟の眼の力と神秘を私がみずからの内面にまことにふしぎにも体験したのは幼年時代からのことだった。すなわち五歳の時以来のことで、それがいまに至るも変わらない。しかし私は、私と同じように修道院生活のなかに生きているごく少数の人たちを除くなら、だれにもそのことを言わなかった。神がその恩寵を通じて公開を望み給うた今日に至るまで、一切を沈黙をもって覆ったのである。」
       五歳の時に何を見たのか、ここでは具体的には言及されていない。それに、後年になってゴットフリート/テオードリヒ両修道士のまとめた『自伝』によるなら、幻視体験は五歳ではなくて早くも三歳の時にさかのぼるらしい。
       「三歳の時に私は魂の高揚するような大きな光を見た。けれども子供だったので、そのことを口外できなかった…五歳になるまでいろいろのものを見、なかにはそのまま素直に人に話したものもあるが、話を聞いた人たちは、それがどこから来て、だれに教わったのかと訝(いぶか)った。」
       人が訝るようにどんな体験があったのだろうか。やがて巷間に流布された少女ヒルデガルドをめぐるいくつかの伝説のなかにそれらしいものがある。
       五歳の時に彼女は故郷の牧草地で別の女の子と遊んでいた。ヒルデガルドが突然言った。
      「ほら、あそこに仔牛が一頭いるわ。なんてきれいなんでしょう。頭から爪先まで真っ白、でも頭と脚のところだけは斑点があって…ああ、背中にもいくらか黒いところがあるわ!」
       遊び友達の女の子がそちらを見ると仔牛などどこにもいない。するとヒルデガルドが一頭の孕んだ牝牛を指して言った。「だってそこにいるじゃない!」遊び友達の女の子は家に帰るとヒルデガルドの奇妙な「作り話」を母親に言いつけた。ところが牝牛が仔牛を産んでみると、斑のありかは正確に彼女の言い当てた箇所にあった。ヒルデガルドには、まだこの世に出ていない胎内の仔牛がありありと見えていたのだ。

       


        1095年、教皇ウルバヌス二世は全ヨーロッパのキリスト教徒に聖地イェルサレムの奪回を呼びかけた。これが十四世紀にいたるまでくり返し行われた十字軍遠征の端緒となる。当時トルコの支配下にあった聖墓所在地イェルサレムの奪回が、この行動のさしあたっての目標であることはいうまでもない。
       ウルバヌス二世の呼びかけは、ヨーロッパ全土に未曾有の反響を呼び起こした。あらゆる階層の出身者からなる何万人にもおよぶ男たちが、なかには国家や君主に命じられたわけでもないので、たちまちにして十字誓願に応じた。妻子を置き去りにし、家財産を捨てて、勇躍、冒険的な遠征に旅立ったのである。騎士の指導者に率いられたものもいた。なかには掠奪目当てのごろつきとして未組織の群れをなすものもいた。いずれも重い木の十字架を担ぎ、あるいは象徴的に布製の十字の徽章だけを肩につけて、生還のおぼつかない長期の旅路に出立した。目的地に到達する前に落命したものは数知れない。…

        一方、聖地における最初期十字軍の勝利もつかの間だった。およそ半世紀後の1140年代には、十字軍の成果と東方におけるその支配地はほぼ壊滅している。ふり返ってみれば十字軍とは、無数の兵士の死と巨額の経済的損失を後にのこす暴挙にほかならなかったのである。精神的虚脱とやり場をうしなった暴力衝動はヨーロッパに逆流してくる。さなきだに中世世界では小諸侯間の私闘や掠奪は日常茶飯事である。掠奪対象としては僧院でさえ例外ではなかったのである。
       ヴィジョン公開に踏み切るまでのヒルデガルドの半生には、ざっと以上のような恐怖と暴力が外界に荒れ狂っている。山上のディジボーデンベルク修道院はたしかに静寂と沈黙のうちに閉ざされていた。外界から侵入してくるものはなく、こちらからも出てゆかない。それはしかし、兵士やならず者が奇蹟的にここを素通りしたというかぎりでのつかの間の楽園にすぎず、いったん彼らの泥足が踏み込んでくればひとたまりもなかったのである。
       十二世紀の僧院はいわば丸腰だった。暴力に対する自前のいかなる防御策も持たなかった。当然のことながら、切り取り強盗がいつ襲ってきてもふしぎのない状況のなかで、軍事的防御策を講じない僧院は存続を危ぶまれた。そこで多くの僧院が世俗の僧院管理人(Vogt)と契約する。僧院管理人は一定の契約金と引き換えに、僧院の外部にある寺領地管理と軍事的保護を請負った。
       建前はそうでも、この保護者はやがて強者の地位を乱用するにいたる。僧院が僧院管理人を保護者に指定するというより、僧院管理人が僧院を管理の傘下に指定するのが、もっぱらの実情になる。多くの寺領地がこうして僧院管理人の手に掌握された。僧院機構全体のなかで主人としてふる舞うのは、もはや僧侶ではなく、むしろしばしば世俗の僧院管理人なのだ。そのうえ僧院管理人職は家職として引き継がれる場合がすくなくない。僧院の自立性はうしなわれ、いよいよ悪代官(Vogt)がはびこる。専横な保護者がイヤでも、外敵から身を守るには悪名高い僧院管理人に依存するほかなかった。げんにディジボーデンベルク修道院も、ヒルデガルドが同院を離れてからのことではあるが、1154年に世俗の管理人と契約を結んでいる。
       後にヒルデガルドが創設する(1143年)ルーペルツベルク女子修道院はしかし例外的に僧院管理人と契約しなかった。諸侯の庇護ももとめなかった。あらゆる世俗的権力の上にあるものと直接(じか)に交渉した。神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサに請うて、皇帝の万能の「保護状」を手中にするのである。ヴィジョンは神から垂直に、世俗的保護もまた皇帝から垂直に、中間的媒介者なしに受容した。…

       

      卵形または火焔太鼓形の宇宙像のヴィジョン
           

      「卵形または火焔太鼓形の宇宙像」のヴィジョン

       

       

       

      生命の始祖のヴィジョン


      「生命の始祖」のヴィジョン

      世界は滅びても 愛は消えることなし

      2016.09.19 Monday

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        『世界は滅びても 愛は消えることなし』 安田貞治著  エンデルレ書店

        第四章 アヴェ・マリアより

         

        空の鳥を見よ。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は彼らを養われる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。(マタイ6・26)

         

         今日、わたしたちは慌ただしい生活の中で、毎日何らかの心配や心づかいをもって生きているようです。政治にたずさわる人たちは、国際情勢や国内の動きに思いをはせ、商売や事業をしている人びとは、それらの繁栄について心づかいをしていることでしょう。また家庭の主婦たちにとっては、毎日の生活と子どもの養育や教育のことで、思い煩うことが多いに違いありません。老人には老いゆく者としての寂しさがあり、青年は青年、若い娘は娘なりに、それぞれの悩みをもって生きているのでしょう。
         こうしてみると、人間というものは、かくも心配や心づかいに責められ、かくも悩まなければ生きて行けないものなのかと、あらためて考えられずにはいられません。人は誰でも、例外なく幸福や平和を求めているのに、これは一体どうしたわけでしょうか。私たちに、何が欠けているためではないのだろうか。すなわち、わたしたちの内部に、精神的な確固としたよりどころがないためではないかと考えさせられます。「一寸先はヤミ」という言葉がありますが、人生というものは、そのような不安にみちており、人間が互いに相手を十分に信じられない、というもどかしさから、免れることができないのです。
         ノーベル賞の創始者であるノーベルは、その人間観を、端的につぎのような言葉で述べております。「人間というものは、未熟で、平和を受けるに値しないのですよ。どの人間にも、野獣、悪魔、蛮人といったものがひそんでいます。要するに平和なんて、この世にはすこし高尚すぎるものなのです」
         わたしたちひとりひとりの中には、強い野獣性がひそんでおり、今日のような競争社会では、それが子どものように弱い善意を圧倒し、だんだんむき出しになってきます。欲望や優越感を満足させるために、どれほど多くの醜い争いや、そのための犠牲を生んでいることでしょう。そういう社会には、あせりと、とげとげしさと、他人の無視や利己主義が横行し、そのためにすべての人が苦しむのです。
         わたしたちの心の中の善意というものは、ノーベル氏もいうように、子どもみたいに弱いものであっても、社会生活や個人の生活に平和をもたらすためには、最も大切なもののように思われます。わたしたち相互の善意と、それへの信頼なしに、平和は決してあり得ないでしょう。イエズスは弟子たちに向かって「空の鳥を見なさい」と言って、おおらかに天の神を仰ぎ見るようにすすめていますが、それはともすれば地上をはい回り、おのれの損得利害から離れ得ぬ心を、暫時そこから解き放つための、知恵の言葉でありましょう。
         あの空の鳥たちは、人間のように「まくことも刈ることもしないのに、天父はこれを養いたもう」と言って、自然の鳥どもの生活のうちに、神の摂理、はからいを啓示しているのです。わたしたち人間の理性の能力、知性の光は、この神の大きな愛のはからいを、自然のうちに読み取るならなければ、ついに日々の煩いや悩みから、解放されることができないだろうと思われます。
         わたしがまだ青年のころ、最も心をひかれた聖書の言葉は、この「空の鳥を見よ」という一節でした。この言葉の呼びかけを聞いたとき、わたしの心は無限の空間にかけのぼって、広大無辺な神の愛に呼ばれているような気がしてなりませんでした。
         現代の学校教育においては、神はタブーとされており、したがって、宗教教育もまったく欠けております。そのような、いわば大切なカナメを欠いた教育をほどこしながら、世界人類の平和を求めるといっても、どこかチグハグな感じをまぬがれません。いつか評論家の坂西志保さんが、つぎのように言われているのを読んで、なるほどと思いました。「私はよく子どもに宗教心を与えたいが、どうしたらよいか、と母親にきかれる。あなたは何を信じられますか、ときくと、家では別に何も信じていない、と答える。宗教心というものは、ビタミン注射などと違って、そう簡単に教え込まれるものではない。また、たとえできたとしても、そのような宗教心が、人の倫理道徳の基準となり、どんな場合にも、正義を選ぶということにはならないであろう。むしろ宗教心は、自然によい環境において学び、自分のうちに完全に消化され、言葉と行為に現われるというのが望ましい。またそうならなければ効果がない、と私は考えている。困ったときの神だのみもよい。しかし、祈らなくても守ってくれる神をもち、その道にもとらないように行動するのが望ましい。学校では宗教を教えられないことになっている。したがって宗教心を養おうと思えば、家庭が主となる。何が正しいか、何がまちがっているか、はっきりした基準をもたない今日の社会で、幼いころから宗教の教えによって、自然に倫理観を身につけるのが望ましい」
         キリストはまことの神の存在を、自然界の現象、たとえば空の鳥を眺めよと言って教えましたが、日に日に周囲から自然を失っていく今日のわたしたちは、よい家庭環境の中で、正しい神の考え方や、その存在を学び取らなければなりません。神は全人類の父であり、この共通の精神の場、すべての人の父なる神を信ずる善意の足場なくして、世界の平和もありえないでしょうし、人と人との信頼もありえないでしょう。
         今日の国際関係や、人間関係のありかたを見るにつけても、あまりに相互の信頼が失われ、猜疑心と利害打算に支配され、そのために行きづまりと、苦悩を負っているように思われてなりません。神をもたなければ、人間のなかの野獣性は野放しになるのです。小さく弱い善意が押し殺されてしまうのも、当然でありましょう。神のみまえに、人間は鳥よりもはるかに優れたものであり、神の配慮のなかにあるものなのです。しかし神を尊ぶことなしに、人間相互の尊重や配慮が、真に行われることもあり得ないでしょう。

        煉獄論 5

        2016.09.08 Thursday

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          第十二章
          煉獄の於ける苦しみと歓喜の一致


           人が〔現世の眼から観て〕完全とみなしているものは、神の御眼には欠陥に満ちていることを知れ。人間のすべての行為—思念(おもい)、感情(かんじ)、言語(ことば)、行動(ふるまい)—は如何に完全らしく見えるとも、神の聖旨にかない奉る意向を以てなされたのでなければ、不完全で汚れている。行為が完全であるがためには、我等が主行者としてではなく、神が我等のうちに行動し給うのでなくてはならぬ。
           この行為は神の御業であり、神に於いてなされたものでなければならない。それでいかにしても人は主行者であってはならぬ。我等に功がなくとも、結局我等のうちに神が行動し給うこの純粋な愛の最後の作用は、正にかかるものを請うのである。この最後の作用に於いて、神は霊魂に入り、霊魂を燃やし給うから、霊魂を包む肉体は焼尽されるようで、(8) これを他の表現を以てすれば、霊魂は燃ゆる火の竈の中にあり、そこではただ死によってのみ、休息が得られるのである。
           それにもかかわらず、神の溢るる愛は、煉獄の霊魂に言い尽くし難い歓喜を与え給うのは勿論であるが、しかしこの歓喜は苦しみを毫も減ぜず、むしろこの愛が妨げられていることに気づくことからして、苦しみは起こる。神が霊魂に受容させ給うこの愛が、完全となればなるほど、苦しみは大きくなる。
           このように煉獄の霊魂は、最大の歓喜を当うと同時に、極度の苦しみをも感じるが、苦しみは歓喜を、歓喜は苦しみを互いに妨げない。

           

          (8)抽象的に言う。

           

          第十三章
          煉獄の霊魂は、今はもはや功を積む状態にない。彼等のために、現世に於いてなされた人の祈りと善業の施興を、彼等はどう考えるか
           煉獄の霊魂が痛悔によって、その汚れを浄めることが出来たとすれば、彼等は一瞬にしてそのすべての負い目を除き去るのどの熱烈にして劇しい痛悔の業をするであろう。これは彼等の唯一の愛であり、終極の目的である神に達するのを妨げている障碍の結果を明らかに観るからである。霊魂は負い目を、ことごとく還さねばならないことは確かで、これは義の要求を満たすための神の命である。このことについて、霊魂は自分自身選ぶことが出来ず、神の意志以外の何ものも考えず、望みもしないのは、そう定められているからである。
           彼等は苦しみの期間を短縮(ちぢ)めるために、現世の人々によって捧げられる祈りと善業の施興(ほどこし)は、神の聖旨にかなうものでなければ、望まないであろう。彼等は主の限りなき全善の思し召しのままに償罪を要求し給う神の御手のうちにすべてを委ねる。これらの施興を、彼等が神の聖旨と別箇なものとして考えることが出来れば、それは神の意志を彼等に悟らせまいとする自我の業となるとともに、彼等にとっては真の地獄のような苦しみとなるであろう。彼等は、彼等に對する神の意志の上に動き得ずに止まり、愉しみも苦しみも、彼等を再び自我に向けさせない。

           

          第十四章
          煉獄の霊魂の神の意志に對する服従


           これらの霊魂は神と緊密に一致し、神の意志に化しているから、萬事に於いて神のいとも尊き命に満足し、わずかでも浄化すべきものを有ったまま、神の尊前(みまえ)に霊魂が置かれたならば、煉獄の苦しみよりも更にひどく苦しみ悩むであろう。
           神の汚れなき至聖、全き善は、その霊魂が尊前に在ることをゆるすことは出来ない。神の尊前に在るのを霊魂にゆるすことは、神の側からすればふさわしくないことである。よって、神を全く満足させる瞬間が欠けていることに気付けば、(9) 霊魂にとってそれは堪え難いことであり、完全に浄化されずして神の尊前に立つよりも、直ちに地獄のような苦しみの中に飛び込むであろう。


          (9)今一瞬で神に到る、その一瞬が欠けていればの意。

          煉獄論 4

          2016.09.08 Thursday

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             『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
            ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

             

            第九章
            煉獄に於いて、神と霊魂が相互に想いつつ観る方法、聖女はこのことは説明出来ないと告白する

             

             私の心の中で今まで煉獄について観た凡てのものは、非常に熾烈であるから、私が現世で悟れる限り、いかなる観念、言語、感じを以てしても表わすことが出来ず、煉獄の概念を示し得る凡ゆる義も、真理も、偽りで、価値のないもののようにみえる。であるから私が感じるものを、説明し得る言葉がないのを、恥ずかしく思う。
             神と霊魂とは全く適合しているから、神は霊魂が創造られた時の純潔な状態にあると観給うとき、霊魂は不滅であるが、それを虚無とするほどの神の燃ゆる愛に牽き付けられる力を、神は霊魂に与え給うのである。このようにして神は、霊魂を神の本性に与らせ給うから、霊魂は自分のうちに神以外の何ものもみず、神は霊魂が創造られた時の状態、即ち、汚れなき純潔とするまで、このように霊魂を牽付け、燃やしつづけ給うのである。
             神が御自分に對するかかる愛熱を以て霊魂を牽き付け給うことが、内照によって霊魂にわかるとき、直ちに霊魂のうちには霊魂を全く熔かす、いとも哀憐深き神に對する愛の火が(神の愛熱に対応して)起こる。そのときこの霊魂は、神がいと深き愛と尽きせぬ摂理(みはからい)とを以て、霊魂を全き完徳に恒に導き給うとともに、これらのことを凡て純愛をを以てなし給うことが、神の光によってわかる。更に霊魂は、罪によって煉獄に止められており、神からの牽引力に従うことが出来ないこともわかる。この牽引力とは、御自身と一致させるため、霊魂を牽き寄せようとして、神が霊魂に注ぎ給う一瞥(いちべつ)をいうのである。
             神の光を観ることを妨げられるのは、いかに重大であるかを意識することと、何の障碍(さまたげ)もなく神の一瞥に従いたい本来の熱望とが結び付き、これら二つのものが煉獄の霊魂の苦しみをなすのである。それで煉獄の霊魂は、苦しみがいかに大きくとも、その苦しみを意もせず、むしろ苦しみよりも神の意志に背き奉ったことを一入深く想い、この神の意志は、霊魂に對する純愛を以て熱く燃えていることが、明らかに彼等にわかる。
             又一方神は愛の一瞥により、強く御自身の方に霊魂を牽きつづけ給う。霊魂はこれらのことをよく承知しており、もし霊魂が、今の煉獄よりも一層速やかに障碍を取り除くことが出来る、さらに大なる煉獄を見出し得たとしたら、直ちにその中へ飛び込んだであろう。霊魂は、霊魂を神に適合させる愛によって駆り立てられているから…。

             

            第十章
            神は霊魂を全く純潔にするため、如何に煉獄を用い給うか


             又神の愛の竈から、霊魂に或る燃え光っている光線が、注がれていることが、私にわかった。この光線は単に肉体のみならず、もし出来れば霊魂も滅するまでに、力強く且つ〔霊肉に〕貫き入るようにみえる。この光線は二様に作用する。即ち浄化し、滅する。
             金を看よ、金が他の物質を含んでいればいるほど、それだけ純化されねばならないから、火に熔かされて金滓(汚点)をことごとくなくする。これが火の物質に對する作用である。
             霊魂が神と一致し、神のうちのあれば、滅せられ得ず、自我のうちにあれば、浄化さるべきものがあるから、滅せられ得るのである。霊魂は浄化されるにつれて自我を滅し、遂に純粋となり、神のうちに憩うようになる。
             他物質をことごとく除き去り、一定の度まで純化された金は、火力がいかに強くとも滅少しなくなる。それは、火が金を滅せず、金滓(かなかす)だけをなくするからである。
             霊魂に於ける神の火も丁度これと同じである。神は霊魂の凡ての汚点が焼き尽くされ、霊魂のそれぞれの程度に従い、人が達し得る最高の完徳に霊魂を挙げ給うまで、この竈の中に霊魂をとどめおき給う。
             かくて霊魂が浄化された時(5) 自我の混合物なくして神のうちに憩い、神の実体が彼等の実体であるほどまでに親しく神と一致し、全く浄化されてもはや焼き尽くされる何ものも残っていないから、彼等は苦しむことが出来ない。この純潔の状態のままで、彼等がなほ火中に保たれていれば、彼等は苦しみを感ぜず、むしろ永遠の生命の火が(6) 障碍に遭わずに霊魂の中に燃えるように、神の愛の火は、障碍もなく、この浄化された霊魂のうちに燃える。

             

            *この”滅せられる”とは、自己に死すこと

             

            (5)もはや煉獄ではない。
            (6)神の愛を指す。

             

            第十一章
            煉獄の霊魂は、罪のわずかの汚れからも浄化されることを望む

            彼等の有つ欠点を霊魂から突然隠すことは、神の叡智の御業である

             

             霊魂は神の命に従って生活し、罪の汚れなく保たれているものと仮定すれば、創造られた時の霊魂は、完徳に達するため、能う限りすべての素質が与えられていた。がしかし、原罪によって汚され、霊魂は賜と恵みをことごとく失って死すべきものとなった。神のみがこれを再び生命にもどし給うことが出来、洗礼によって実際にそうなし給うたにもかかわらず、霊魂にはなお悪への傾きが残っており、それに抵抗しないときは、自罪に傾き、これに陥り、その自罪によって霊魂は再び〔超自然的に〕死ぬ。が神は再び霊魂を〔悔俊の秘蹟によって〕生命にもどし給う。
             しかし、この生命に還されて後も、霊魂には多くの錆があり、(神に向わず)自我に傾くから、霊魂を原始の状態に還すには、これまで私が語った神のすべての御業を必要とし、これなくして霊魂は還され得ないのである。
             霊魂が、原始の状態に還る途上にあることに気づいたとき、神と一つになる望みに燃やされるから、この望みが霊魂にとって煉獄の苦しみとなる。これは霊魂が苦しみ(煉獄)を苦しみとして認め得るという意味ではなく、霊魂にとっては、煉獄で燃やされている神の方に牽く本来の傾向と、霊魂が妨げられている障碍とが、煉獄となるのである。
             神は人の協力なくしてこの最後の業をなし給う。(7) 何となれば霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が観えれば霊魂は絶望するからである。それでこれらの短所は、私が述べた経過の中に於いてなくされる。そして短所が焼尽されたときに、焼尽されねばならぬすべての短所を焼尽す愛の火の点じたのは、神御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらの短所を霊魂に識らせ給うのである。


            (7)最後の業。霊魂を天国にゆかせるための愛の最後の行為の意。
             第十一章記述中「原罪によって汚され…生命に戻し給う」までは現世に於いて。「併しこの生命に還され…霊魂は還されることは出来ない」までは現世と煉獄に於いて。「霊魂が最初の状態に還る途上…」以下は煉獄に於いて。最初の状態に帰る途とは煉獄の途(みち)のことである。

             

             

            煉獄論 3

            2016.09.06 Tuesday

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              第六章


              煉獄の霊魂が神を愉しむことを、激しく望み愛することを説明する比喩

               

               人々の飢えを満たすため、世界中にただ一つの麪(ぱん)しかなく、ただそれを見るだけで飢えを満たすことが出来たとする。そのような場合、健康な者ならば、その食物を望むのは当然であり、死ぬか、病にかからぬ限り益々飢餓を覚えるであろう。なぜならば、この熱い望みは減じることなく継続き、彼等は一塊の—唯一塊の麪(ぱん)だけが飢えを満たし、これに達しないうちは飢えを癒すことが出来ないとわかれば、その苦しみは喩えようもなく、且つ麪(ぱん)に遠ければ遠いほど苦しみは増す。
               而して麪(ぱん)を見ることが出来ないことが確かになれば、その心中には、全く地獄のような苦しみが起こり、生命の麪(かて)である彼等の救主なる神を、恒に観奉るあらゆる希望から断たれた淪亡者(ほろぼしもの)のようになるであろう。これに反し煉獄の霊魂は、飢えて麪(ぱん)を見ることを望み、その麪(ぱん)を以って全く満たされることを望む。従って真の神、我等の救主、我等の愛の目的にて在(ましま)すイエズス・キリストなる生命の麪(かて)を、永遠に所有するに到るまで、〔霊的〕飢餓を忍び、凡ゆる苦しみを苦しむのである。

               

               

              第七章


              煉獄と地獄を創造し給うた神の卓越せる叡智


               神のために創造された霊魂は、神を措いて他に憩うべきところがないように、大罪の状態にある霊魂は地獄以外にゆくべきところがない。これは神の命による霊魂の終極である。であるから霊魂が大罪の状態のまま肉体を離れるや、定められた場所として直ちに地獄にゆく。この地獄に淪(しづ)みゆくのは、罪の本質によるのであって、他の原因によるのではない。神の義によって〔神に赴くことから〕このように霊魂がはばまれず、地獄にゆく神の命から全くまぬがれられたとすれば、霊魂は地獄の苦しみより更に大いなる苦しみを堪え忍ばねばならないのであろう。何となればこの命は神の哀憐の一部であるとともに、罪に相当する苦しみよりも軽いからである。霊魂は自分にふさわしい場所も、神が霊魂に課し給うた苦しみより更に軽い苦しみも見出せないから、その霊魂にとってふさわしい場所として、地獄に自ら淪みゆくのである。
               煉獄についても同じことが言える。肉体を離れた霊魂が、創造された時の純潔な状態でないことが解るとき、神との一致をはばんでいる障碍を観、(4) 煉獄によってのみこの障碍が除かれ得ることを悟るから、一瞬の躊躇もなく煉獄にゆくのである。そして障碍を除くために用意されたこうした方法(煉獄)がなければ、まだ償いを果たさない罪のために、霊魂は自分の終極の目的である神に到ることが出来ないことがわかり、又この神に近づき得ないことが、どれ程悪いものであるかを思い、この悪と比べれば、煉獄をいささかも悪いものとはみなさないから、霊魂のうちには、煉獄よりも更に悪い地獄のような苦しみが生じるであろう。私は煉獄の苦しみは、或る意味で、地獄の苦しみと似ていると述べたが、この苦しみさえも神に對する愛にくらべれば、又何ものもない。

               

              (4)煉獄に入る前に障碍を観る。障碍とは純潔の状態にないことで、煉獄はこの障碍を取り除く所であり、障碍がなければ煉獄はない。この障碍は煉獄よりも更に悪い。

               

               

              第八章


              煉獄の必要、如何に煉獄は恐ろしいか


               神の側からすれば、天国には門がなく、其処に入ろうとする者は、誰でも入ることで出来ると言うことを私は繰り返し言う。なんとなれば、神は哀憐そのものであり、我等を迎え入れ、種の光栄に入らせようと恒に待ち給うからである。しかし神の実体は〔人が想像し得る以上に〕遥かに純粋であるから、霊魂は自分のうちに短所の極く僅かな微片さえも認めるなら、神の尊前にその汚点のままでゆくよりも、むしろ自分を苦しみに投ずる。それで煉獄がこのような汚点を取り去るために、定められたことを悟り、霊魂はその煉獄に入り、汚点を取り去ることが出来るのは、大いなる神の哀憐であることを其処で悟る。
               煉獄がいかに怖ろしいかは、口に言い表せず、心にも悟り得ない。煉獄の苦しみは、地獄の苦しみと似ている。けれども〔既に述べたように〕短所の僅かの汚れさえも有っている霊魂は、煉獄を哀憐としてうけ、愛の対象たる神から離れていることとくらべれば、霊獄をさほど大したものと思わないことが、私にわかる。
               煉獄の霊魂が堪え忍ばねばならぬ最大の苦しみが起こるのは、神の聖旨にかなわないものが、霊魂のうちに現にあることを識り、又神の全善に対し、その聖旨に悖ることを、霊魂が自ら進んでしたことを識るからであると私は悟る。なんとなれば聖寵の状態にあれば、人は(神に関し、人に関し)真実を知り、神に近づくことを彼等に許さぬ障碍が、いかに大きいものであるかを悟るからである。

              煉獄論 2

              2016.09.06 Tuesday

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                第三章


                神から離れていることは、煉獄の最も大きい罰である。何に於いて煉獄は地獄と異なるか

                 

                 煉獄の一切の苦しみは、原罪又は自罪から起こる。神に於いて霊魂が永福を見出すために、神は或る意味に於ける生来の傾向を備えた霊魂を、全く純粋で、あらゆる罪の汚れのないものとして創造り給うた。
                 原罪によって、更に又これに自罪を加えることによって、霊魂はこの傾向から遠ざかる。そして霊魂が神から遠ざかれば遠ざかるほど、神の聖旨にかなわないから、邪(よこしま)となる。
                 事物はそれが神に与っている限り善である。理性なき被造物(鳥獣の如き)に対して、神は望み給うままに、又定め給うた如く、必ず御自身を与え給う。
                 理性を具えた霊魂(人間)に対しては、罪の障碍から霊魂が浄化されたと神が観給うに応じて、或は多く、或は少なく御自身を与え給うのである。それで、霊魂が創造られた時に有(も)っていた原始の純潔と無辜の状態に近づくとき、神に於いて福楽を求めようとする生来の望みは大となり、神に對する愛の火によって益々その望みは増し加わるのである。この愛の火は、神と霊魂とを隔てるいかなる障碍も堪え難く感じるほどの猛烈さと激烈さとを以って、霊魂をその目的(神)に牽くのである。そして神のみが霊魂の栄福であることがわかればわかるほど、それだけ神から離れていることのために苦しみが増すのである。
                 さて、煉獄の霊魂はもはや罪責がないから、その霊魂を〔神にゆくことから〕引きもどし、完徳に達しようとする生来の傾向を妨げる罰を除いて、神と霊魂との間には何の障壁もない。この妨げられることは、極めて僅かであっても、それがどれほど重大であるかが、明らかにわかるとともに、義が最も厳粛(きび)しく障碍(さまたげ)を要求めることも亦、つぶさに解るので、その霊魂のうちに地獄のような火が起こる。(2)
                 煉獄の霊魂には、罪責(とが)がない。この罪責(とが)こそは、神の全善に与ることをゆるされない地獄にある淪亡者(ほろぼしもの)の意志を邪まとする。であるから地獄にある者は、永遠に神の意志に反抗し、その邪まな意志を抱いて絶望の淵に淪(しづ)んでいる。

                 

                (2)一方に於いて、罰が霊魂を引き戻そうとするに対し、他方、神の至聖が霊魂を圧することからして、摩擦が起こり、火が生じるのである。

                 

                 

                第四章
                地獄に在る霊魂の状態、地獄の霊魂と煉獄の霊魂との差異。救霊をゆるがせにした者に對する聖女カタリナの考察

                 

                 既に述べたことから考察すれば、神の意志に我等の意志が邪(よこし)まにも背くことから罪が成り立ち、このように意志が邪まを続ける間は罪責(とが)も亦続く。であるから、邪まな意志をもってこの世を去り、現に地獄に在る霊魂は、もはや意志が変更ることはあり得ないから、罪の赦免もなく、又あり得るはずもない。
                「我は〔死の時に於いて、罪を望む意志、或は罪を歎き悔やむ意志を有てる〕汝等を見出すところに、汝を審(さば)かん」と聖書にも録(かきしる)されている通り、現世を去るとき、霊魂はその死の際に於ける善意か、悪意かによって、善悪いづれかに判定される。この審判は決定的である。人の死後、意志は再び自由になり得ず、死の瞬間に在った状態に止(とど)まっているからである。死の瞬間に、罪を犯そうとする意志を有っていた地獄にある霊魂の罪責(とが)は限りがない。彼等のうけている罰は、彼等が当然うける罰よりも軽いとはいえ、罰の存する限り無限である。けれども煉獄の霊魂には、罪に對する罰ばかりがあって、罪責(とが)はない。何故ならば、彼等は死の瞬間に己が犯した罪を悲しみ、神の全善に背いたことを悔やんだから、罪責(とが)は臨終の時に消滅した。であるから彼等の罰には限りがあり、前に述べたように、罰の期限が、徐々に減ってゆくのである。
                 ああ、〔地獄にある霊魂(もの)の〕凡ゆる惨めさに超える惨めさよ! ここにある人々は盲目の余り、この惨めさを殆ど想わない。それだけにこの惨めさは大きい。
                 地獄にある淪亡者(ほろぼしもの)の罰は、量に於いて無限ではない。これは神の仁慈しみ深き全善が、地獄にさえもその哀憐みの光を注ぎ給うからである。大罪のうちに死んだ者は、苦しみに於いて無限の罰をうけ、その苦しみの期間は、終わりないのが当然であるのに…。神は哀憐によって、苦しみの期間のみを無限とし、苦しみの量には限度を置き給うた。主はその義によって、実際彼等に与え給うたよりも遥かに大なる罰を課し給うことは出来たのであるが…。
                 邪ま故に犯した罪は、いかに危険であることよ! 人はこれを痛悔することが稀であり、通悔しないために罪責(とが)が残り、犯した罪に對する愛着があり、罪を又犯そうとの意志がある間は、将来もなお、その罪責(とが)が残るであろう。

                 

                第五章


                煉獄の平和と歓喜


                 煉獄の霊魂はその意志を全く神の意志に適合させ、したがって神の全善に与っているから、罪責(とが)を全くまぬかれた状態にあるこの有様を以って満足している。真に通悔して一切の罪を厭み嫌い、告白し、もはや再び罪を犯すまいと決心したままで現世を去ったときは、神は直ちに彼等を赦し給うた。そして今や彼等は純潔であるが、ただ罪の錆だけが残り、彼等はこれを火の罰によって除き去るのである。
                 このように一切の罪から浄められ、彼等は意志に於いて神と一致するから、神が彼等に与え給う光の度に応じて神を明らかに観るのである。(3) 彼等は、神を愉(たのし)むとはどんなことか、又この上を愉むために霊魂が創造られたことも悟る。なお彼等のうちには、彼等を神と一致させる意志の適合があり、神と彼等との間に於ける自然的な相互の牽引によって、彼等は神の方に牽かれているが、彼等はこれを内的に感じることによって、実際に悟っているから、いかなる説明、比喩を以ってしても判然と述べることは出来ない。けれども私は、心に浮かんで来るその種のものを述べてみよう。

                 

                (3)至福の直観ではない。

                煉獄論

                2016.09.06 Tuesday

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                   『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
                  ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

                   

                  聖女カタリナは、内心に感じた神来の聖火によって煉獄を悟り、同時に煉獄の霊魂が如何に幸福であると共に、又苦しんでいるかに就いて語る。

                   

                  第一章

                   

                  煉獄の霊魂の状態。彼等には自愛心がいささかもない

                   

                   まだ肉体の囚獄(現世)の中に在りながら聖女カタリナは、霊魂を浄化する火である神の燃ゆる愛の中に置かれたことが解った。この愛の火は、彼の女が現世の生涯を終えて後、愛し奉る神の御前に速やかに到るため、彼女が浄められねばならなかった凡てのものを焼尽し、又その一切から彼女を浄化した。この愛の竈によって、彼女は信者の霊魂が現世に於いて、いまだ浄められずにあった罪の錆と汚点(しみ)とをすべて除き去るため、煉獄におかれることを知った。聖女は、人の霊魂を浄化する神の愛の竈の中に入れられ、彼女の愛の対象(神)と一致させられて、彼女になし給うた神の一切の御業に全く満足したとき、煉獄の霊魂の場合と同じ状態にあることを悟り、次のように語った。


                               *     *      *

                   

                   私にわかる限り、煉獄の霊魂は煉獄に留まることより他選ぶことが出来ない。これは神が義によってこのように命じ給うたからである。彼等は内省して、”私はかくかくの罪を犯したから、此処にとどまるのは当然である” とか、”かくかくの罪を犯さなければ今天国に行けるのに”、”彼(あ)の霊魂(ひと)は私より先にここを出る” とか、”私の方が彼(あ)の霊魂(ひと)より先にここから出るであろう” などと言うことは出来ない。又彼等は、善についても、また今不断に堪えている苦しみに更に苦しみを加えるはずの悪についても、自分のことにしろ、他人(ひと)のことにしろ、何一つ思い出すことは出来ない。彼等は、神が彼等に就いて定め給うたものに満足しているから、神の聖旨にかない奉るものをことごとく望み、そして聖旨に就いてかなひ奉る方法に於いてそれを望む。更にいとも大いなる苦しみの最中に於いてさえも、自分自身のことについて、恐らくは考えようとするかもしれないけれども、もはや考えることが出来ない。
                   神の仁慈は、人々を御自身に引寄せ給う程大であるから、煉獄の霊魂は、神の全善だけを観る。それで、善でも、悪でも、彼等に影響するものを何も、観ることは出来ない。もしそれが出来れば、彼等は神の純愛のうちにとどまっていないことになるであろう。彼等は、煉獄に於ける苦しみが自分の罪の故であることを識らず、又自分自身の罪そのものを、絶えず見つめていることも出来ない(A)。この罪を見つづけていることが出来るとすれば、それは短所となるが、もはや実際に罪を犯す余地のないところには、短所もあるはずはない。
                   霊魂が肉身を離れる瞬間、ただ一度だけ何故自分に煉獄があるかを悟るが、この瞬間が過去った後は決してわからない。もしそれがわかるとすれば、自我が起こって来る。故に彼等は神に對する愛のうちにとどまると共に、〔煉獄には過失がない故〕真の過失(あやまち)(1)によって、この愛の正道から踏みはづすこともあり得ないから、自分自身としての意志や欲望はなく、神に對する純愛を得ようとする意志が、ただ一つあるばかりである。
                  彼等は神の命によって煉獄の火中にあるが、この神の命に服するのに、神に對する純愛を以ってするから、神の命と純愛とは一つのものである。そして彼等はもはや功を積むことがないから、罪を犯すこともなく、従って神の命から、萬事に於いて外れることもあり得ない。

                   

                  (1)継続的でなく、唯一度でもの意。

                   

                  (A) ここで聖カタリナは煉獄の霊魂は受けている苦しみの特定理由を想起することが出来ないと言っている。例えば「私は何月何日斯々の罪を犯したから此処にいるのである」と云うが如きである。がカタリナは彼等が耐え忍んでいる苦しみは、罪に對する罰に相当するものであるということを、彼等が承知していないと、絶対的に断言したのではない。何故ならば、このことを彼等が識らないと言うことは、想像し難いことであると共に、第八章の記述と矛盾して来る。即ち、「煉獄に於いて霊魂に苦しみを起こさせるものは、神の聖旨に叶わぬものを霊魂自身の裡に観ることであり、又その言い尽くし難き全善に対して、かかる罪を犯したことを意識することである」(八章)と。

                   

                   

                  第二章


                  煉獄の霊魂の歓喜。聖女カタリナは彼等が益々神を観つつあることを示す。その状態を語るのは難しい。

                   

                   天堂に於いて永福を享けつつある諸聖人の霊魂の歓喜(よろこび)を除いては、煉獄の霊魂の歓喜に較べられるいかなる歓喜も他に見出せないと思う。この歓喜は、神が霊魂に入り給う上に障碍となる凡ゆるものが焼き尽くされるに応じて、益々豊かに神が霊魂に入り給うから、日毎に増しゆくのである。この障碍(さまたげ)(B)とは罪の錆であり、これが煉獄の火に焼き尽くされ、こうして霊魂は神が入り給うのにふさわしい状態に自らをするのである。
                  この状態は、覆いをかけた鏡と同じく、その鏡が太陽の光線を反射しないのは、太陽が照らさないのではなく、絶えず日光は輝いていても、多いがこれをさえぎっているからである。それで覆いがなくなれば、再び鏡は陽光に照らされ、この覆いがはくなるにつれて、鏡は照り輝く陽光を浴びるであろう。
                   このように霊魂は、錆、即ち、罪に覆われており、この罪が煉獄の火によって徐々に焼き尽くされる。この錆が焼き尽くされればされるほど、煉獄の霊魂は彼等の真の太陽である神を徐々に完全に反射する(適合する)ようになる。彼等の歓喜は錆が落ちるにつれて増し加わるとともに、神の光線に自身を晒す。であるからその歓喜は時が充ちるまで(浄化が終わるまで)障碍(さまたげ)が少なくなるにつれて大きくなる。がしかし苦しみは減ぜず、苦しみの中にとどまっている期間だけが減じるのである。
                   彼等の意志は、霊魂がもはや苦しみを苦しみとして認めることが出来ない限度まで全く神の命に満足し、神に對する純愛によって神の命と一致している。又一方、彼等の苦しみは非常なもので、もはやそれをいかなる言葉でも言い表せず、神が特別な寵愛によってそれを識らせ給うたのでなければ、いかなる知性を以ってしても、その苦しみの概念の片鱗すらもまとめることは出来ない。この苦しみの概念は、神の寵愛によって私に示されたものであるが、私にはこれを言い表すべき言葉がない。けれどもこれは、私の霊的視覚に残っていた。それで今出来るだけ、それを説明しよう。がしかし、主がその知性を啓き給うた者だけが、これを悟るのである。

                  贖宥(免償)について 9

                  2016.09.03 Saturday

                  0

                     第二部 特殊贖宥


                    第一章 聖年


                     聖年(ユビレーウム)という言葉は、ヘブライ語の「ヨベル」が語源である。この「ヨベル」は山羊を意味し、更に転喩に依って山羊の角を意味する。旧約聖書をみると、ヘブライ語の聖年は、司祭達が、ヨベルという山羊の角の形をした喇叭(らっぱ)を鳴らして、これを告げ知らせたので、その喇叭の名称が、後に点じて、年の名称となったのである。ラティン語ではアンヌス・サンクトゥス(Annus Sanctus)(聖なる年)と言う。

                     

                     聖年の起源

                     旧約聖書に依ると、天主は、イスラエルの民に対して、五十年目毎に一ヵ年を奉献するように、定め給うた。その年が聖年と呼ばれたのである。聖年は喜びの年であって、
                    (一)その一年間、大地は休息しなければならなかった。それ故、種を蒔くことも収穫をすることも禁ぜられていた。だが、自然になり出たものを取りいれることは許されていた。このように大地が休息している間、家を建てたりいろいろの道具を造ったりした。
                    (二)又聖年には、資産なり家屋なりを手放していた者は、それを取り戻すことが出来た。
                    (三)ヘブライ人の血統を引く奴隷は、再び自由の身となった。
                     このようにして、ひどい貧窮や奴隷の身分がイスラエルの一家又は一個人のどうにも変えようがない状態にならぬよう、財産や身分が元の状態に周期的に戻れるように、律法が取り計らっていたのである。(レビ記第二十五章第十節)
                     旧約聖書にある聖年に依って、公教会は、宗教上の目的を以てキリスト教の聖年を設けた。
                     贖宥を伴う聖年は、少なくとも今日公教会で行うが如き形式では、教皇ボニファチオ八世が始めた所であり、一三○◯年二月二十二日、「古人の確かなる言い換えに依れば」という大勅書を以て宣言したものである。その確かな言い換え(尤もそれに関しては、現存の文書には一言も誌した痕跡はないが)に依ると、彼以前に聖ペトロの聖座についた人々、即ち彼以前の教皇達は、百年毎に、ローマの大聖堂参詣の回数によって特別贖宥を授ける習いであったという。そこで、ローマへ巡礼して行った者、そして自分の罪を告白し痛悔して、もしローマ市民なら日に一回三十日間、他国人なら同じく日に一回でただ十五日間、使徒ペトロとパウロの聖堂を訪れた者は、聖年の贖宥を受けていた。
                     当時の史家ジョバンニ・ヴェラーニは、彼の年代記に、ローマ市民の外にこの聖年の参詣に加わった巡礼者の数は二十萬に達すると、録している。その巡礼者の中に、ジョットもダンテ・アリギェーリもいた。前者は、聖年の宣言をしている教皇ボニファチオの肖像をラテラン大聖堂の大廻廊に描き、後者は、その「神曲」第一部地獄編と第二部煉獄編とに、この事を述べている。
                     教皇クレメンス六世は、ローマ市民の懇願に応えて、聖年と次の聖年との間にある一百年の期間をただ五十年に短縮し、その後ウルバーノ六世は、人生の短さと、三十三年の御生涯の裡に永遠の父に対してアダムの負債を我等のために贖い給うた救主の、地上に於ける御生命とを考え合わせて、先の期間を更に三十三年に縮めた。(大教書「我等の救主」一三八九年四月)。
                     このような措置を講じても、聖年の来ることは余りにも稀であり、信者の大多数はその恩恵にあずかることなく生きて、そのまま死んで行くことが判った。そこで教皇パウロ二世は、二十五年毎に聖年が来るように定めた。
                     こうして、殆んど今日に至るまで続けて来たのであるが、遂に現教皇ピオ十二世には、ローマに於いて一九五一年に全世界にこれを及ぼされた。

                     

                    特別聖年
                     だが、このような、順当に周期的に行われる聖年の合間に、特別聖年と呼ばれるものがあることを、歴史は伝えている。特別と云われるわけは、通常の例に依らず、公教会が大いなる喜び又は悲しみに際した時、特別の状況の下に全世界の信者に対し、或は又、特殊の理由に依り或る範囲内の信者に対し又は或る限定した地方に対して、教皇が許可されるからである。
                     こういう訳で、例えばピオ五世は、トレント公会議の活動に天主の祝福を仰ぐために、一五六◯年全世界に聖年を宣し、レオ十三世は、一八七九年、教皇に選ばれた際、第一回の特別聖年を宣し、一八八一年には、教会を迫害する敵を屈服する為、天主の佑助けを求めて第二回の特別聖年、更に一八八六年には、ロザリオの聖母の仲介によって前同様の御恵みにあずかるために、第三回の特別聖年を宣言した。ピオ十一世は御自分の司祭叙品式五十周年を記念して、一九二九年一月六日から十二月三十一日までを聖年とし、次いで「人類救済の第十九回百年祭」を祝うため、一九三三年から一九三四年にかけて聖年とした。
                     聖年につきものの儀式は、聖扉の開閉式で、これに就いては、既に十五世紀以来記録が残っている。聖扉は、ローマ四大聖堂のいずれにも右手に在る。御降誕の祝日の前日、教皇は舁輿にのって聖ペトロ大聖堂の前庭に赴き、先回の聖年が終わった際壁に塗り籠めた聖扉の前に立ち、「我に正義の扉を開き給え」という句を歌いながら、銀の槌で三度その聖扉をたたく。教皇に続いて内赦院の枢機卿がその聖扉をたたくが、これは唯二度である。壁は前以て切ってあるので、崩れ落ちる。すると内赦院の参事会員等が閾(しきい)を除け、教皇が先ず第一に、右手に十字架を捧げ左手に燈をともした蝋燭を持って、この扉を通る。この儀式は同様に他の三大聖堂に於いても行われるが、聖パウロ大聖堂では主席枢機卿が、ラテラーノの聖ヨハネ大聖堂と聖マリア大聖堂(マジョーレ)ではそれぞれの枢機卿が、これを執り行う。聖年が終わって聖扉を閉ざす際には、これとは逆の儀式を行う。教皇は閾に少しの漆喰を三度ふり掛け、その上に、聖年を記念する聖牌を納れてある三個の石を据える。それから扉を塗り籠め、次回の聖年までそのままにして置く。

                     

                    聖年の意義

                     聖年とは、恩寵と哀憐の時期で、その期間中、これを布告する大勅書や教令に述べてある特定の行為を信者たちが果たせば、その行為に付随している荘厳な全贖宥を教皇がその信者に授与し、一方又その贖宥を得ようとする信者達のために聴罪司祭に格別の権能を付与するものである。
                     聖年の贖宥は、幾多重要な特権を伴い、且つその贖宥の宣言にも獲得にも荘厳な儀式があるので、通常教会の授ける全贖宥とは趣を異にし、それだけに又この贖宥は、他のものよりもっと有効且つ確実である。

                     

                    聖年に於いて守るべき諸規則
                     その規則は、聖年宣言の大勅書に依って決まるのであるが、それは、ベネディクト十四世が幾つかの大勅書で発布したものと大体同じである。
                     聖年の贖宥を得るために必要と規定される条件は、一般に全贖宥を得るに必要とされるものと同様である。換言すれば、告白、聖体拝領、聖堂参詣及び祈りが、これである。特別聖年の場合は、これに断食と施興とが加わる。
                     この贖宥を得るには、先ず最初にその意向を固めることが必要であって、後で積極的な行動を以てこの意向を翻しては駄目である。
                     聖年の贖宥獲得に規定された諸行為を果たすには、順序は構わないが、少なくともその諸行為ののち最後に果たすものは、聖寵の状態に於いてなし遂げねばならない。その聖寵の状態を得るには、秘蹟に依る赦免は必要でなく、完全な悔俊の行為があれば充分である。(聖庁内赦院、一九二四年七月三十一日)
                     規定された条件は、教区司教の定めた所を守りさえすれば、一部分或る司教区で行い、又一部分他の司教区で行ってもよい。

                    贖宥(免償)について 8

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                       第二節 特殊的条件
                       以上述べた条件は、分贖宥であれ、凡そ贖宥というものを獲得するには必要であるとして、よく規定されるものであるが、公教会は、その他の条件も規定するのが常である。
                       全贖宥の場合、普通必要であると規定され、よく「従来の条件に於いて」という一般的な句で言い表す条件は、告白、聖体拝領、聖堂又は公共乃至半公共の礼拝堂の参詣、及び教皇の御旨にそう祈りである。 これらの義務は、必ずしも全部一緒に必要と規定されるわけではない。

                       

                      (一)告白
                       贖宥を得る条件として告白が規定されている場合、これは絶対に不可欠であり、何ら大罪のない者でも、これを行わねばならない。だが赦免は必要でない。(贖宥遺物聖省一七五九年五月十九日、一八四一年十二月十五日、一八五二年五月六日)
                       告白が規定されている時、贖宥の得られるその当日にこれを行う必要はない。聖会法第九三一条第一項に、「贖宥が与えられる当日直前八日間以内、及び直後八日以内に、これを行えばよい」とある。同様に、三日間、一週間等の信心業に付随している贖宥を得る為に必要な告白は、同條第二項に、「信心業完了直後八日間以内に行ってもよい」とある。
                       告白に関しては、二通りの篤信者のために、特別寛大な措置が講ぜられている。
                      (イ)正常な障碍のない限り、毎月少なくとも二回告白するのを常とする信者は、改めて告白を行わなくとも、告白が必要とされている贖宥を凡て得ることが出来る。但し通常聖年、特別聖年の贖宥及びこれに類する贖宥は、みな例外えある。この聖年等の場合には現行の告白が誰にも必要として規定されている。
                      (ロ)同様に、毎日一回、或は毎週少なくとも五回、聖体を拝領する信者はこの聖体拝領が聖寵の状態に於いて且つ然るべき潜心と熱意とを以って行われる時は、贖宥獲得に必要な規定の告白は、するに及ばない。
                       ここに注意すべきは、贖宥獲得に告白が必要であると明らかに要求されていないならば、大罪の状態にある者にさえ、告白は贖宥獲得には全然必要でないであろう。このような人は、完全な痛悔の行為によって再び聖寵を得れば、充分である。


                      (ニ)聖体拝領
                       贖宥獲得に必要とされる聖体拝領も、告白と同じ規定に従う。即ち聖体拝領は、贖宥の与えられる当日の前日かその直後八日間に、すればよい。(聖会法第九三一条第一項)又三日間とか九日間に渡る一連の心霊修業を、これに付随している贖宥を得るために行わねばならぬ場合には、その贖宥に必要な聖体拝領は、その修業のうち最後の業をしてから八日間以内にすれば、充分である。(聖会法第九三一条第二項)
                       御復活の務めにしなければならぬ聖体拝領は、聖体拝領を必要とする贖宥を得るのに有効である。但し聖年の贖宥を除く。臨終の聖体拝領に就いても同様のことが言えるが、この場合は聖年の贖宥を得るのにも有効である。
                       聖体拝領を必要条件として幾つかの贖宥が同一日中に与えられる場合、ただ一回の聖体拝領でこれらを得ることが出来る。但し個々の贖宥に課せられた他の行為を、規定された通りの方法と時期に於いて為し遂げねばばらない。(聖会法第九三三条)

                       

                      (三)聖堂参詣
                       贖宥を得るための聖堂参詣とは、今日の聖会法規に従えば、 ”少なくとも、天主を直接御自身に対して又はその諸聖人を通して崇めようという一般的乃至含蓄的意向を抱き、祈り(もし贖宥授与者が前もって指定しているならば、その祈り、さもない時はどんな祈りでもよい)を、各人の信心、孝敬の念に従って、口で誦えるなり心中で念ずるなりして” 聖堂に参詣することである。(聖庁内赦院一九三三年九月二十日)
                       参詣すべき聖堂の名が許可教令中に指定してないならば、自分の行きたいと思う聖堂なり、公共の礼拝堂なりに、随意に参詣してよい。だが半公共的の礼拝堂や私人の礼拝堂に参詣することは充分でない。但し聖庁の特許ある場合を除く
                       然しこの点に就いては、共同生活を営む人たちの為に例外が認められている。信者なら誰にでも与えられる贖宥を、そういう人たちに限って与えずに置くということは、公教会の欲しない所である。聖会法第九二九条には、次のように記してある。「贖宥を得るために参詣すべき聖堂又は公共の礼拝堂の名が特に指定されていない場合、教区司教の許可を得て設立した聖堂や公共の礼拝堂のない施設内に、完徳、教育、研究、又は健康上の理由で共同生活を営む信者、及びそのような施設内に住む従業者は、男女を問わず、その施設付属の小聖堂に参詣すれば贖宥を得るために規定された参詣をしたこととなり、その他の規定された行為を完全にし遂げさえすれば、ミサ聖祭にあずかる務めを果たしたことになることが出来る。」
                       参詣するように指定された聖堂が閉まっていたり、又は参詣者が大勢居て中に入れなかった場合には、その戸口の前で祈れば、贖宥を得るのに充分である。
                       数種の贖宥を得ようとする時、その個々の贖宥に付き一回の聖堂参詣が必要であると規定されておれば、得ようとする贖宥の数だけ、参詣を繰り返さねばならない。即ちその回数だけ、聖堂の外に出ては又すぐ入れば、よいのである。

                       

                      (四)祈祷
                       通常、贖宥を得るには祈りが必要であると定められている。こういう祈りは、屡々(しばしば)「教皇の御心… 御意向に従って」とか、その他似寄った一定の文句で特に区別してある。この、祈りを誦える時の心構えともいうべき教皇の御意向とは、カトリック教会の宣揚と繁栄、離教異端の根絶、罪人の回心、外教徒間に於けるカトリック信仰の宣布、世界の平和と協調、これである。
                       贖宥を得るための祈りは、祈りが必要と規定されている場合、大抵はこれと云って限定せず、信者の選択に委ねられている。だが祈りは、心中念ずるだけでなく、声を出して誦えなければならない。(聖会法第九三四条第一項)全贖宥を得る場合ならば。極めて短いものもいけない。(ベネディクト十四世、一七四九年十二月三日発布、教皇令「過ぎ去りしものの間に」第三節)
                       これらの祈りは、ロザリオや御告げの祈りを誦える際よくするように、他の人と交互に誦えてもよいし、他の人が大声で誦えている間心の中で念じてもよい。
                       贖宥を得るのに、教皇の御意向に従って祈るという条件が付いている場合は、ただ主祷文、天使祝詞及び栄誦で充分であり、その他の祈りも付け加えたいなら、それは信者の自由である。(聖庁内赦院一九三三年九月二十日)
                       だが、聖堂参詣に従って得られる、「トチエス・クォチエス」(その都度)と呼ぶ贖宥の場合は、参詣する度に誦える祈りは、主祷文、天使祝詞、栄誦で、これを少なくとも六回繰り返すことになっている。
                       ここで、贖宥を伴う祈りに関し、数言説明を付け加えておくのも、決して無駄ではないと思う。
                       贖宥のある祈りに就いて、聖会法が第九三四条第二項に述べている所は、次の通りである。「もし贖宥を得るのに、或る特別の祈りが規定されていたなら、その祈りを何語で誦えても、贖宥は得られる。ただその翻訳が正確である旨、聖庁内赦院の声明に依り、又はその問題の国語が話されている国の教区司教の一人に依って、然るべく保証されていなければならぬ。だが、祈りの本文に、言葉を付け加えたり、省いたり挿入したりすれば、贖宥は無効になるであろう。」
                       然し、祈りにどんな付け加えをしても、又どんな省略をしても、贖宥が無効になるとは限らず、祈りの内容を変えて了う付け加えや省略の場合にだけ、無効になるのである。聖庁内赦院は、一九三四年十一月二十六日、この問題の正しい解釈に就いて質問を受け際、以上のように回答している。
                       こういう祈りは、贖宥を得るためには声に出して誦えなければならないが、射祷だけは例外である。これは唯、心中に念ずるだけでも有効である。
                       祈りに付随している贖宥は、どの国語でその祈りを誦えても得られると述べたが、この点に関して唯一の例外がある。それは、童貞聖マリアの小聖務日課を誦えることで、これに伴う贖宥を得るためには、ラティン語で誦えなければならない。
                       一八八八年九月十三日、贖宥遺物聖省は、「ラティン語以外どんな国語でもこの日課を誦える者は、たとえその国語の訳が司教の許可を得たものであっても、この日課に付随している贖宥を得るわけにはいかない」と、はっきり声明した。
                       だがこの規定は、同日課を公けに誦える場合には該当するが、私誦する場合には当てはまらない。又この祈りを誦えることは、「宗教的施設の四壁内で、乃至同施設に付属している聖堂や公共の礼拝堂で、他の人々と共同して行っても、扉が閉めてあれば、私誦する場合とも解釈される。」(聖座広報第四○巻一八七頁以下)
                       贖宥を得るためには、祈りを跪いて誦えるには及ばない。但し許可教令に、跪くように明記してある場合、又は「ここに我れ、善良にして最もやさしきイエズスよ、跪ずきて拝み奉る…」という祈りの如く、跪いて誦えることが義務として付随している祈りの場合は、例外である。
                       ロザリオの祈りに付随している贖宥を得るには、ロザリオの環を手に持つことが必要である同様に、十字架の道の業を果たすことが出来ない者は、その為に祝別された十字架像を手に持って、二十辺、主祷文、天使祝詞及び栄誦を誦えなければならぬ。
                       だがこの点に関して、一九三三年十一月九日聖庁内赦院が決定したことは、次の通りである。信者が、ロザリオや十字架の道の贖宥を付けて祝別してあるロザリオの環や十字架像を、労務その他正常な理由に依って、規定通り手に持つことが出来ない場合は何時でも、その祈りを誦えている間、どう云う風にでもよいから、環なり十字架像なりを携帯していさえすれば、その贖宥を得ることが出来る。
                       聾唖に就いては、聖会法は次のように述べている。「他の信者たちと祈りを共にしている時、天主に霊と心とを向けていさえいれば、公誦する場合に付随している贖宥を得ることが出来る。又私誦の場合は、外面的には何かの仕草でそれを表現するか、又はただ眼でそれを読み下すかしながら、心中にそれを念じて行けばよろしい。(聖会法九三六条)。

                       最後に贖宥を得る上に必要とされる行為に関して、聖会法第九三五條の規定する所をもう一度ここに引用して置こう。「正当な理由に妨げられて、贖宥を得る上に必要とされる行為をなし遂げられない人達には、聴罪司祭は、その行為を変更する(他の行為を以てその行為に代用させる)ことが出来る。」
                       聽罪司祭は、信者たちの為に、告白の場合のみならず告白以外の場合にも、このような行為の変更が出来ると、多くの神学者の説に従って私は信ずるものであるが、聖年の贖宥に就いては、例外としなければならないように思われる。
                       聖年の場合には、許可教令に格別の記載ない限り、聴罪司祭は、告白に於いてのみこの権能を用いることが出来る。

                      贖宥(免償)について 7

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                        第七章 贖宥を得るための条件


                         第一節 一般的条件
                         贖宥を得るには、少なくともこの世に生きている者が贖宥を得るには、いろいろの条件が揃わないといけないが、その中には、これを受ける人の状態に関するものと、その人の心構え及びその人の果たすべき行為に関するものとがある。前者は、前にも一寸触れておいたが、間接的準備と呼び、後者を直接的準備と呼ぶ。

                         

                         第一項 間接的準備
                         贖宥を受けるものは、先ず洗礼を受けていなければならない。我々が教会の一員となるのは、洗礼に依るからである。これは、キリスト教会共有の財産、即ち諸聖人の通功という宝蔵の分け前にあづかるには、実に必要不可欠の条件である。
                         次に贖宥を受ける者は、これを与える者に従属しているもの、即ちその裁治権下にあるものでなければならぬ。贖宥は公教会の司法権の行使であるが、凡そ司法官なるものは、自分の管轄下に居ないものには献納を揮うわけには行かない。そこで、教皇及びその特使は全世界の信者に贖宥を与えることが出来、司教は自分の司教管区内の信者にのみこれを与えることが出来る。だが、贖宥が場所的であれば、即ち司教教区内の或る特定の場所又は物件に付随しているものであれば、司教の監督下の信者のみならず、司教教区に居合わせた寄留者にも、独立管轄権を享けている者にも、凡ての贖宥を与えることが出来る。

                         

                         第二項 直接的準備
                         直接的準備としての条件は、先ず、内的及び外的の二つに別けられる。

                         

                        (一)内的条件
                         これを要約すると、聖寵の状態に在ることは、贖宥を得るためには何にもまして必要な条件である。実際、キリスト教の教義に依れば、大罪の状態に在る者、(大罪を犯してその罪がまだ赦されていない者)は、教会の神秘体内の死んだ一肢体となっている。聖トマスも、「死せる肢体が、生ける各肢体を通って循環する生命の流れを受けることは、全くない」(補足二七問第一項)と言っている。贖宥は、教会の生ける各肢体の積んだ功徳を融通するのであるから、自身の裡に超自然の生命を有しないキリスト教徒は、これにあずかる訳にはいかない。
                         更に又贖宥は、既に赦された罪のために果たすべき有限の罰だけを免除するものである。然るに、罪が赦されずにそっくりそのまま残っているとすれば、どうして有限の罰が帳消しになれようか。
                        だが贖宥を得るためには、その為に必要とされている行為のうち、最後のものをなし終わった際に、始めて贖宥は効果を発揮し出すのであるから、おそくともその最後の行為をし終える瞬間には、良心が潔められていればよいのである。
                         

                         〔設問〕罪の状態に在るものは、せめて煉獄にある霊魂のためになりとも贖宥を得られるであろうか。
                        贖宥遺物聖省はこの質問を受けて、「最も信用を博して居る神学者達の説に従うべし」と答えた。所でその学者達の中では、得られると云うものもあれば、得られないと云うものもある。
                         「得られないという」説の方が、普通であり、信者に教え込むにもうってつけであろうが、私見を述べれば、死者の為に贖宥を得るには、必ずしも聖寵の状態に在ることは要しないと思う。信者が死者に贖宥を得させるためになし遂げる行為は、単なる条件に過ぎず、この条件が果たされて後、教皇がその死者に贖宥を下さるのである。その死者の罰が免ぜられるように救主と諸聖人との功徳の宝蔵から引き出される宝は、公教会が支払うのであり、その公教会には、聖寵が尽きることはないのである。
                         この説に反対する主張—即ち、贖宥を先ず我がものにした後でなければ、他人にこれをゆずることは出来ないと主張は、根底から間違っている。事実、奉教諸死者の記念日(十一月二日)に与えられるtoties quoties(条件を果たす毎に与えられる)全贖宥のように、唯、死者に限って適用される贖宥も数種ある。
                        (ロ)更に、贖宥を得るには意向が必要である。ここにいう意向とは、贖宥の恵みにあずかりたいと積極的に望むことである。
                         意向という中には、神学者が「解釈的」と呼ぶ意向もある。これは、仮定的の意向で、実際的のものではない。もし贖宥なるものを知っていたら、又はこれに心を留めていたら、これを得たという意向を持ったであろうという場合の意向である。このような意向では不十分である。
                         だが現在的意向を必要としない。意向が潜勢的又は習性的であれば充分である。換言すれば、総体的意向の中に含まれていて、取り消さない限り継続するものであればよい。
                         ここで奨めたいのは、その日の裡に行うはずの信心業や善業に付随している贖宥を、すっかり得たいという意向を朝のうちから確立することである。
                         この祈りには、又彼の善業には如何いう贖宥が与えられる等ということは、知るに及ばない。ただ贖宥を在るがままに得たいと云う意向があれば充分である。

                         

                        (ニ)外的条件
                         外的条件とは、贖宥を得るためにせねばならぬものとして、教会が規定している行為のことである。この行為を成し遂げるには、次のようにしなければならない。
                        (イ)心を静めて。即ち、敬虔の念を以って。
                        (ロ)本人自身で。但し、他人を介しても為し得る施興は、この限りではない。
                        (ハ)完全に。だが、規定された行為の裡、些細な部分を省略しても、矢張り贖宥は得られる。例えば、ロザリオの祈りを誦えることが条件として課せられた場合、一二度天使祝詞を誦え落としても、矢張り贖宥は得られるのである。
                        (ニ)自由に。即ち何か他の理由でしなければならない行為は、此処に云う外的条件には有り得ない。それは、贖宥獲得以外の理由で強制されてはいない行為でなければならぬ。聖会法第九三二条には、「法律又は命令に依って強制されている行為を以ってしては、贖宥を得ることは出来ない。但し許可教令中に、別に明記する所があればその限りでない」と規定している。

                         

                         〔設問〕他の法令に依って誦えねばならない祈りを、全贖宥獲得に必要と教皇の指定された祈りに代用することが、出来るかどうか。
                         この質問に対して贖宥遺物聖省は、「出来ない」と答えている。
                         例えば、教会法の命ずる聖金曜日の断食を行うことに依って、断食を必要条件とする贖宥を得る訳には行かない。
                         以上述べた所は原則であって、贖宥許可教令には例外を認めていることもあろう。実際、聖会法にも次の如く記してある。「告白の際、聴罪司祭が償いとして課した行為で、しかも贖宥がこれに伴っている場合、その行為をなし遂げた者は、償いの義務を果たすと共に、又贖宥をも獲得する。」(聖会法第九三二条)
                        (ホ)時として同一の物件又は場所に、幾つかの贖宥が、いろいろの名称で付随していることがある。例えば、一つのロザリオに、聖十字架棒持者の贖宥も付けば、聖ブリジッタの贖宥も付いている。ではこのロザリオで一度祈れば、同時にこれ等二種の贖宥が得られるか、というに、得られない。但し許可教令に格別の記載があればその限りでない。
                        得たいと思う贖宥の数だけ、必要条件として規定された行為を繰り返さねばならない、これが一般の原則である。
                         但しロザリオが然るべく祝別されていさえすれば、そのロザリオの祈りを一度するだけで、ドミニコ会の贖宥も、聖十字架棒持者の贖宥も、教皇贖宥も得ることができる旨、先ず贖宥局が声明し、次いで聖庁内赦院もこれを認めた。個々の贖宥を得るのに、聖体拝領と告白だけは繰り返すわけにはいかない。一日に何度も聖体を拝領することは許されていないし、罪に堕ちた場合のほかは一日に何度も告白する例はないからである。
                        (ヘ)一定の期間に、即ち、贖宥が特別の日とか限定された時間に与えられると決めてある場合には、この時間をはずさぬようにせねばならぬ。
                         贖宥を得るために定められた時間は、許可教令で解る。
                         特別、時期を限定せずに与えられる贖宥は何時でも得られる。例えば、ロザリオの祈りに付随した贖宥の如き、これである。
                         時期が限定されている贖宥は、この定められた時期内に得なければならない。例えば、御告げの祈りとか、アレルヤの祈りとかに付随した贖宥がこれで、信者達は、日の出時、正午及び晩、これは定まった時刻に出来なければ出来るだけ早く、これらの祈りに依って贖宥を得ることが出来る。
                        ある一日中に得られると定めてある贖宥は、その日の零時から二十四時までに得ることが出来る。但し許可教令に格別の記載があればその限りではない。だがもしそのような贖宥を得るのに、聖堂に参詣することが限定されている場合は、定められた日の前日の正午から、その当日の真夜中までに参詣すれば宜しい。
                         贖宥獲得に必要と規定されている行為が数多い場合、どういう順序でこれをなし遂げても構わないが、唯、一番最後の行為を仕遂げる時は、聖寵の状態にいなければならない。
                         公教会は、信者の霊的利益を常に念頭に置いているので、その財宝を分かつに当たっては極めて寛大であり、なるたけ多く、なるたけ容易く、贖宥が得られるように、出来る限りの便宜を図っている。それ故、聖会法第九三五條にも、「もし信者が正常な障碍のために、贖宥獲得に必要と規定された行為を果たし得ない場合には、聴罪司祭たるものは誰でも、その規定された行為を変更する、言い換えれば、他の行為を以ってこれに代用せしめる、権能を有する」と記してある。