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    マリア・シンマの覚え書き 2

    2016.02.22 Monday

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      『煉獄の霊魂の叫び』マリア・シンマ著 (天使館発刊)より

      第二部 マリア・シンマの覚え書き 

      なぜ神は、このようなことを許されるのか

       多くの人が自問します。
      「死者が生きている者に現れるなどということを、神が許すことは可能なのだろうか?」と。
       神の善意によってすべては可能である、ということを認めるにしても、なぜこのように特殊なことをお許しになるのでしょう?
       勿論それは、われわれの好奇心を満たすためではありません。神の憐れみゆえに、通常の域を超える出来事が起こるにしても、それはとにかく、救いのための神のご計画と調和するものなのです。このことは、事実を判断するため、またそこから霊的利益を得るために、われわれが有していなければならない見解です。またこのような事実は、死者にとって大きな慰めともなります。なぜなら彼らが苦しみから解放されることを可能にし、煉獄の霊魂のためにもっと祈り、地上的なすべてのことから離脱するように、生存者を励ますことにもなるからです。
       現代の最大の危険は、物事が物質的にうまくゆきすぎることです。われわれは、永遠のいのちについてもっとも心配しなくてはなりません。それは永遠に続くからです。一時的な事柄にわれわれの心を執着させないようにしましょう。すべて過ぎ去るものは、何も自分といっしょに持って行くことはできないのです。所有物、事業、美しい物…。全ては過ぎ去り、しかもわれわれが想像する以上に早く過ぎ去ります。われわれが持って行けるのは、良い行いだけなのです。生きるために地上の富を必要とすることは明らかですが、われわれの心をそれに執着させてはいけない、ということです。これが問題なのです。これが、他の私的啓示のように、煉獄の霊魂の出現の目的と意義でもあります。
       超自然との触れ合いを神が許されることの、唯一の理由はこれです。どうか憐れみ深い神が、私達がそこから利益を獲得することができるように、その祝福と恩恵を与えてくださいますように。
       主の道は驚嘆すべきもの、測り知れないものです。聖アウグスティヌスのように、大罪人が偉大な聖人になることも可能です。サウロは、突然聖パウロになりました。


      私的啓示に関する慎重さの必要

       度々人は、カトリック教会が私的啓示に関して用いる、非常な用心深さについて理解することができません。しかし、それには理由があり、それは善いことなのです。なぜなら、教会は真理の守り手だからです。たった一つの偽のケースを公認するよりも、十の真実なケースを認めないほうがよいのです。しかし、ある事実が完全にキリストの教えと一致するとき、それがまだ神学的に深く検討される対象になっていないとしても、教会は拒否してはいけません。
       Bruno Wechner司教様は、私を呼んで言われました。「他の死者のために煉獄の霊魂に質問するなどということが神のみ旨だとは、私は疑問を持っています。」
       私は答えました。「私もある日霊魂に尋ねました。『私がそのために質問する霊魂についての勧告を、どうやって私に与えることができるのですか?』と。その霊魂はこう答えました。『私たちはそれを、憐れみの母マリア様から知らせていただくのです』と。」すると司教様は、とにかく存在するのだろうが、天と地上との間のことについて、まだ神学的見地からみて理解されていないことがあるので、このような問題に関係しないほうがよい、という見解を示されました。そして私に、このことが信憑性のあることだと承認されることを期待してはならない。とも言われました。そして、私という人間が生きている限り、教会は決してそうすることはないだろう。教会が非常に厳しいのは(われわれはよくこのことを認めなければなりません)、特別の恩恵に恵まれた人でも、それに不忠実になることが可能で、敵からの攻撃にたいして安心することは決してできないからだ、ともおっしゃいました。ですから、このような霊魂は、悪魔のいざないに対する防衛として、よい霊的指導司祭をもたなければなりません。

       
      このような事実を知ることは必要か、それとも黙ったほうがよいか

      「なぜ煉獄の霊魂は、あなたのところに来るのですか?」
       これは、しばしば私に対してなされる質問です。それは確かに、私の信心が原因となるものではありません。私よりもっと信心深い人はたくさんいます。ところが霊魂たちは、彼らのところへ行きません。超自然的現象は、「聖性の寒暖計」とはなりません。完徳を測る基礎は、無償の愛徳、愛ゆえに他人のために苦しむこと、キリストの模倣です。地上の生活は、十字架なしにも、苦しみなしにも、過ごすことはできません。
       ある日煉獄の霊魂は言いました。
      「もっとも功徳あることは、大きな忍耐と愛をもって忍ばれた苦しみです。また神の御母がもっともよいところ、もっとも必要とされると思われることに、お望みのままにそれを用いることがおできになるように、捧げ物として聖母の御手の中にその苦しみを置くことです」。
       私たち自身が勇気をもって苦しむことよりも、苦しんでいる人に、忍耐強く我慢するようにと励ますことのほうが、あきらかにもっと易しいことです。苦しむということが何を意味するか、私は知っています。しかし、まさに苦しみが痛ましいものであるからこそ、その価値はこれほど大きいのです。
       なぜ彼らが私のところに来るのか、私ははっきり知りません。確かに煉獄の霊魂は、他の人のところにも行くことができます。Voralbergで、今は死にましたが、霊魂たちが赴いていた人を、私は二人知っています。現在でも勿論、助けを頼むために来る霊魂の訪問を受ける人たちがいますが、ほんの少しの人しかこのことを知りません。彼らの使命は、私のものとは異なるのです。
       このようなことは公衆には隠しておいたほうが、ずっと簡単であることを知っています。なぜなら多くの無理解、軽蔑を受け、しばしば司祭たちからもそうされるからです。多くの司祭は知識人なので、全てを分かろうとします。しかし主の道は、そのような方法で調査されることを許しません。非常な謙遜を必要としますが、これはわれわれの時代に度々不足していることです。


      私は修道院に入ることを望んでいた

       私は幼年時代から、神が何か非常に特別な犠牲を私に望んでおられることを理解していました。学校に行き始めるころになると、この犠牲が何かを、知りたいと思うようになりました。その頃、ミルクを取りに行くために、長い道のりを歩かねばなりませんでしたが、2カ所の乾草置き場のそばを通ってゆくのが常でした。私は考えました。「神様は、私に何を望んでおられるかを、きっと知らせてくださるに違いない」。それで、次のよな祈りをしました。
      「主よ、あなたにはすべてが可能です。私がこの乾草置場のそばを通るとき、二つのうちのどちらかに、私がすべきことを書いた紙片を見い出すことができるようにしてください」。
       しかし、いつ戻ってみても、それは無駄でした。だんだん我慢ができなくなって、神様に言いました。
      「あなたはすべてをご存知です。私のためにあなたがお選びになった道を私が見つけなくても、それは私のせいではありません」。
       学校が終わったときに考えました。「多分私は修道院に行かなくてはならない。きっと神様が望んでいるのは、そこに違いない」。17歳のときにチロルのHallにあるイエズスの聖心修道会に入りました。1年後、身体が弱すぎるということでそこを去らなければなりませんでした。
       すぐにまた、別の修道院に行きたいと思いました。今度は、Cosutanza湖畔にある、Bregenzに近い、Thalbachiのドミニコ会を選びました。「すぐにあなたに言います。あなたは、私達の会のためには弱すぎます」。それで、そこにもう残ることができませんでした。次に、フランシスコ会の女子宣教会を知りました。「ああ、私に合った修道会はこれだ。他の霊魂を神に導くこと。これこそ、私の使命に違いない。勉強をしたり教師になるには、私はあまりにも能力がなさすぎる。だから、いつか宣教地に出発できる修道会に入ろう」、と考えました。
       神様に言いました。「とにかくそこに残ることができるようにしてください。そうでないなら、もう決して他の修道会に行きません」。1938年にそこに入りました。私には、そこがとても気に入りました。ところがこの最後の場合にも、院長は私に言いました。「あなたは、皆の中でいちばん弱いですね…」。それでも畑の仕事が終わった頃には、何とかやりおおせるだろうと期待しました。しかし、収穫期が終わると院長は明言しました。「あなたは私達のためには弱すぎるので、あなたを置いておくことはできません」。



      最初の出現

       そこで考えました。「私にとって全ては終わった。神が私のために用意なさった道を見つけることはできなかった。神様は、私にそれを教えてくださらなかった」と。
       しばらくの間この考えは、霊的な意味で私を非常に悩ませました。しかし、私にできることはすべてやったので自分に罪はない、という思いが私を慰めました。
       幼年期から、私は煉獄の霊魂への大きな愛を抱いていました。私の母もそのことをとても大切にしていて、いつも次のような勧めを繰り返していました。「何かお願いしたい大切なことがあるときは、煉獄の霊魂に頼みなさい。もっとも有効な助け手だよ」。初めて煉獄の霊魂が私に現れたのは、1940年のことでした。寝室の中を誰かが行ったり来たりしているのを感じて、私は目を覚ましました。私は決して恐がりな人間ではありませんでした。恐れを感じるよりは、むしろその人に襲いかかったことでしょう。
       一人の外国人の男の人が、ゆっくりと遊歩しているのを見ました。私は詰問の調子で質問しました。「どうやって入ったのですか?何か無くしたのですか?」。彼はまるで何も聞こえなかったかのように、行ったり来たりし続けました。「何をしているのですか?」ともう一度尋ねました。何の答えも得られませんでした。私はベッドから飛びおりると、彼をつかまえようとしました。ところが、空気以外には何も捕まえることができず、もう何も見えませんでした。私はベッドに戻りましたが、再び誰かが歩く音を聞きました。「私にはこの男が見えるのに、どうして何も掴まえることができないのか?」、と考えました。私はもう一度起き上がり、ゆっくりと彼のほうに歩み寄りました。彼を止まらせようと思ったのです…するとまたもや、空気を掴んだだけで何もないのでした。
       やっと安心して、新たにベッドに戻りました。それは朝の、およそ4時頃でした。彼はもう戻って来ませんでしたが、私はもうそのあと、眠りにつくことができませんでした。ミサのあと、私は指導司祭のところに行き、すべてを物語りました。「もしまた同じようなことが起こるようだったら、『あなたは誰か?』というふうに聞かずに、『私に何をして欲しいのか?』、と尋ねなさい」、と簡単に助言してくださいました。
       次の日の夜、彼はまた戻って来ました。それは、前夜と同じ人でした。それで私は尋ねました。「私に何をして欲しいのですか?」。すると彼は答えました。「私のために、3回のミサを上げてもらってください。そうすれば、私は自由になるでしょう」。
       そこで私は、彼は煉獄の霊魂にちがいない、と考えました。私が聴罪司祭にそう言いますと、彼もそうだと承認しました。1940年から1953年にかけての期間は、普通は11月に二人か三人の霊魂しか来ませんでした。私はまだこのことに、私が果たすべき特別の使命があるとはみていませんでした。私の指導司祭でもあった教会の主任司祭、アルフォンソ・マット神父様に出来事の全てを話しました。彼は私に、決して一つの霊魂でも遠ざけてはならず、すべてを寛大に受け入れなさい、と忠告してくださいました。 


      マリア・シンマによる覚え書き

      2016.02.20 Saturday

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        『煉獄の霊魂の叫び』マリア・シンマ著 (天使館発刊)より

        第二部 マリア・シンマによる覚え書き 

        奉献されてもいないわれわれの手の上に、ご聖体を受けてもよいのだろうか

         ある司祭の霊魂が私のところに来ると、自分は非常に苦しまなければならないので、彼のために祈ってくれるようにと願いました。それ以上のことは何も言うことができずに、消えました。その後、他の霊魂がそのことについて私に説明してくれました。
        「あの司祭はとても苦しまなければなりません。なぜなら彼は、信者の手にご聖体をくばる方式を取り入れたうえに、ひざまずいてご聖体を受けるために必要な拝領台も取り去らせてしまったからです。取り去られた拝領台をもとの場所に置き直し、あの司祭によって、手の上にご聖体を受けるように習慣づけられてしまった人々に、もうそのようにしないように奨励することによって、この霊魂を助けることができます」。
         私が、その土地の教区長にこのことを話しますと、非常な理解を得ることができました。教区長は言いました。
        「手の上へ聖体拝領を取り入れたのは、私じゃありません。拝領台については、私としてもこの願いをかなえるように試みることはできますが、その場所の司祭に決定させるようにするべきでしょう」。
         また別の司祭の霊魂も何回か私の所に来て、彼も教会の中の拝領台を取り去り、信者に立ったままで聖体拝領をすることを強制する結果をもたらしたために、とても激しく苦しんでいると訴えました。
         このような事実から考えますと、そこには何かうまくいかないことがあるということが理解できます。パパ様が、立ったままでもご聖体を受ける許可をお与えになったということは本当です。しかし、ひざまずきたいと願う人には、それが可能であるようにしなければならないのです。また私達も、このことを各司祭に主張することができます。
         もし神父様や司教様たちが、手の上への聖体拝領の方式を取り入れたことについての彼らの責任が、どれほど大きなものであるかを知ったなら、勿論それをしないでしょうし、人々に許すこともしないでしょうに。

         もう一つ、非常に現実的な話題について触れなければなりません。現代では時代が変わったということは明白です。私達は、一つの現代的世の中に生きています。しかし、神の掟まで現代化することはできません。神の掟は、いまだに宗教の教えの重大な一部を形成しています。重要な信仰の真理の幾つかを疑わせたり、それを沈黙のうちに放置させようとする「オランダ式教会要理」は、除去するようにしなければなりません。新たに昔の公教要理の本を何千冊も印刷しているスイスのように、伝統的カテキズムに戻ってください。子供たちが、正当な教えを受けることができるようにです。もし司祭やカテキスタがそれをしないようならば、そのときは両親がしますように。


        日曜日を聖化すること

         私が講演会を行うときには、ある霊魂が、祝日を聖化することについて常に言及するように、という使命を私に与えました。事実人々はこの日に、どうしても必要であるというわけではないのに、無益な仕事をします。
         さらに、ミサは土曜日ではなく、日曜日に行かなくてはなりません。土曜日のミサは、ただ日曜日に行く可能性がない人たちのためにだけ導入されたのです。たとえば若者たちが(日曜日)に、遠足に行かなくてはならないときなど、そのようなときには土曜日にミサに行くことが許されています。しかし、習慣としてそうすることは許されません。私は土曜日のミサに行く。そうすれば日曜日に行かなくてすむから。こんなふうにすることは駄目です。神のみ前において、こんな風にすることはできません!
         煉獄の霊魂たちは、また言います。他の言語を話す人たちも、心を集中して主日の典礼にあずかれるように、ラテン語は母国語と併用して置かれることが望ましいと。パパ様も、このように望んでおられます。


        現代様式による教会建築

        「現代的な教会の建物について、何か言うことがありますか?」と聞かれました。この分野についても煉獄の霊魂は、正しいこととそうでないことを区別します。現代的教会建築について私は反対である、といって叱られました。それは本当ではありません。これらの教会が心の集中を妨げない限り、私は現代的建築様式に反対ではありません。しかしこのような教会の中に、醜かったり、気持ちの悪い印象を与えて恐怖を起こさせるようなご像や絵画があるとき、それは確かに悪魔の作品であり、神のものではありません!
         私はこのことを言わなければなりません。例えば、ウィーンのエッツェンスドルフ、聖ロザリオ教会で見たことは、一つの愚弄であり恥です。主の家における恐怖です。私は、いったい誰があの教会の企画をしたのかと尋ねてみました。すると、それはフリーメイソンの人であったことを知りました。この教会は、まさにその痕跡を有していたのです。
         チロルのルンツでも現代様式の教会を見ましたが、それを見た私は喜びました。どうしていつも、あのようにしないのでしょうか。ご聖櫃は正しい場所に、ご聖体があるべき教会の中心に置かれていました。両脇には、そこでご聖体を拝領することができるように拝領台があります。ひざまずいて受けたい人は、そうすることができます。または立ったままでもできるように、中心部にそのための空間があります。
         美しいマリア様のご像もあります。この教会には、遠くに住んでいる人たちもやってきます。なぜならば、多くの人々はもはや、破壊されてしまったような小教区教会には行かなくなってしまったからです。その多くにおいては、現代の聖像破壊者たちが、聖なる雰囲気をかもし出していたもの全てを投げやってしまったからです。
         私が訪ねたうちの二つの教会では、もう聖水入れを見つけることができませんでした。私はその理由を尋ねました。
        「ここはカトリック教会だというのに、どうして聖水盤がないのですか?」。
         それは、司祭がこのようなことはばかばかしいモードだから、と言ったからということでした。それは私は答えました。
        「彼は、煉獄でもう一度、このばかばかしいモードに出会うでしょうよ」。


        もはや人は、罪の自覚をなくしてしまった

         多くの場所では、赦し(告解)の秘跡の実行も廃(すた)れてしまいました。この秘跡は、キリストご自身が制定なさったもので、多くの人たちが信じているように、教会によるものではありません。事実、キリストは仰せられました。
        「聖霊を受けなさい。だれの罪であれ、あなたたちが赦せば、その罪は赦され、赦さないでおくなら、赦されないままである」(ヨハネ20・23)。
         ですから、罪は告解されなければなりません。そうでないならば、いったいどうしたら司祭は、それを赦すか否かを決めることができるでしょうか?
         ある日一人の人が私に言いました。「でもキリストは、告解場に行って罪を言わなければいけないとはおっしゃいませんでした」。
         私はそれに答えました。「はい、キリストは、そうはおっしゃいませんでした。では、告解室の外で司祭から赦しを与えてもらうことができるように、もし人々の前で告白することをあなたが好むなら、そうしてもいいんですよ。どっちにしても、あなたは自分の罪を言い表さなければだめなのです」。
         様々な理由をつけて個人的告白を、たとえば黙想によって行う償いなどで代用しようとします。このような教会では、告解の実行は著しく減少します。ローマ、及びオーストリアの司教団も、大罪を犯した人を共同告解などによって赦すことは不可能である、ということを、非常にはっきりと宣言しました。ですから共同告解は、決して個人的告解に取って代わることはできないのです。
         さらに、初聖体を受けようとしている子供たちにも、告解をさせないですまそうとする傾向があります。このようなことは許されるべきではありません。教皇様はすでに2回にわたって、初聖体に先立って、赦しの秘跡が執り行われなければならないと、はっきり言われました。残念ながら、多くの司祭たちはパパ様に従いません。彼らはきっとこのことを、いつか苦い心をもって償わなければならないことでしょう。
         煉獄の霊魂たちは私達に、教皇様のために祈るようにと絶えず奨励します。パパ様がおっしゃることを注意深く守り、自己の良心に従うことは、現在とても大切なことです。
         ウルムという所で、私はまだ赦しの秘跡を受けたことがない15歳の少年たちに会いました。私は、なぜ告解をしたことがないのかと彼らに尋ねました。
        「初聖体を受ける機会に、それは許されなかったんです。そのあと、小学校6年のときに告解するチャンスがあったけれど、僕達はお互いに尋ね合いました。「君、あの時よりもっと何か告白すべき罪がほかにある?―そうだな、ちょっとけんかしたとか、言うことをきかなかったとか、そんなこと以外にはないな。―よし、それじゃ、いいや!―と僕達は言いました。―初聖体を受ける前にしなくちゃいけなかったと思うけれど、しませんでした。それで、告解する習慣をつけなかったので、もうしなくなっちゃったんです」。
         このことでも分かるように、初聖体を受ける前に赦しの秘跡に近づくということは、まさに少年たちの良心を形成するために、とても大切なことなのです。多くの改革者たちが、司教様たちの教えに従いませんでした。彼らは健康な草花までも、そのすべてを頑固に刷新してしまったのです。その結果今彼らは、信徒たち、特に子供たちが、もう彼らに従わなくなってしまったという事実を認めなければならない状態です。

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