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2017.01.04 Wednesday

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    大聖テレジアの霊的報告

    2016.01.25 Monday

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      イエズスの聖テレジア(アビラの聖テレジア)の霊的報告 特殊な恵みについての報告

      18 ある日念祷をしておりますと、主は常ならぬ知的示現の中で、恵みの状態にある霊魂のありさまをお見せくださいました。その霊魂とともに、至聖三位が在し、この神聖な伴侶(とも)がその霊魂に全地に対する主権を与えておられるのを私は見ました。このとき、「私の愛する人はその庭に入り、かれの木の実を食べる」という雅歌の句(注1)の意味を悟りました。次いで主は、大罪の状態にある霊魂のありさまもお見せくださいました。その霊魂は、ちょうど、すっかり目隠しされ、しばり上げられ、つながれていて、どんなに努力しても、見ることも、歩くことも、聞くこともできず、深い闇に沈んでいる人のようで、無力そのものの状態にありました。私は、こんな状態にある霊魂が哀れでならず、ただひとりの人の霊魂でも、そこから救い出すためなら、どんな苦しみも重くはないように思いました。私がこのとき見たことは、大へん言い表しにくいことです。しかし、私がそれを見たと同じようにそのことがわかったなら、あんなにも大きな善を失って、これほど大きな悪の中に落ち込むことに同意する人は、一人もいないにちがいないと思います。(注2)
      一五七一年

      (注1)= 雅歌5・1。
      (注2)= 霊魂の城、第七の住居、第一章参照。


      49 また別の日のこと、ご聖体拝領の直後に、キリストの聖なる御体が、私たちの魂の中で、どのように聖父に受け入れられるかを悟るお恵みをいただきました。これは、この地上でのことです。主の聖なるご人性は、私たちの霊魂にお住みにならず、神性だけがおとどまりになっているからです。私は神の三つのペルソナがそこに在し、聖父は、私たちが聖父にその最愛の聖子をおささげするのをこのうえなく喜んでお受けになることを見、また悟りました。
       聖父はこのささげを、筆舌に尽くせないようなしかたでお受けになり、そのお返しとして、私たちを崇高なお恵みでお富ませになります。このほか、聖父は、祭壇上の犠牲を、それが大罪の状態にある司祭によってささげられる場合にも、お受け入れになることを悟りました。けれども、このばあい、司祭は恵みの状態にある霊魂が受ける恵みを受けられません。それは、天来の恵みがその力を失うからではなく、それを受けるべき人に心の準備ができていないからです。なぜなら、これらの恵みは、聖父がこのささげを受け入れられるというそのこと自体から生じるからです。太陽の光線が松脂に当たれば、ガラスに当たったときのように輝かないとしても、それは太陽が悪いからではありません。このことについていま私が述べた例によって私の考えをお分からせすることができたと思います。このことを知ることは大切です。ご聖体を拝領するとき、私たちの中には深い秘義があるのですから、このお恵みをたのしむのを、私たちの身体がこれほど邪魔するのは、残念なことです。
      一五七五年 セビリャにて 


      40 一人の律法学士との対話

      2016.01.25 Monday

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        マリア・ワルトルタ著『イエズスに出会った人々(二)』あかし書房刊より (フェデリコ・バルバロ訳編)

        40 一人の律法学士との対話

         タリケアという小さな半島から一マイルほど離れたヨルダン川の右岸に降り立つと、熱心もののシモンと二人の従兄弟が出迎えた。
        「先生、小舟で分かりました…。おそらくマナエンも目印の一つになったかもしれません」
        「だれにも見つからないように夜出発し、だれとも口を利きませんでした。信じてください。あなたがどこにおられるかと、多くの人に聞かれましたが、私はただ皆に『出発なさいました』と伝えただけです。あなたの所在については、小舟を用意した漁師のせいで分かったのだと思いますが」
        「弟のバカめが!」と、ペトロがわめく。
        「話すなと言っておいたのに! それに、ベッサイダへ行くと言ったのに! しゃべったり、おまえのひげをむしり取ると言ったのに! 絶対に、そうするぞ、そうしてやるぞ。もうこれから平和や休息や孤独とは、おさらばさ!」
        「よしよし、シモン。私たちはもう休息の日々を過ごしたではありませんか。その他に、私が目的としていたこと、つまり、おまえたちに教え、慰め、また、おまえたち同士やカファルナウムのファリサイ人との間に、いざこざが起こらないように、おとなしくさせることもできました。さあ、私たちを待っている人たちのところへ行きましょう。その人たちの信仰と愛とに報いを与えるために。この愛も、心をなごませるものです。私たちは憎みがゆえに苦しみます。ここには愛だけがあり、そのために喜びがあります」
         ペトロは、垂れた帆のように、しょんぼりしてしまう。イエズスは、”治してほしい”と顔に書いてある病人の輪のへ行き、一人ずつ、変わらぬ忍耐強さと慈悲深さで次々と治す。病身のいたいけな子供を抱え上げる律法学士にも同じ態度を取る。この律法学士はこの後、話し始める。
        「ごらんなさい。あなたは逃げようとしても無駄です。憎しみと愛は、いち早く見つけ出します。ここでは雅歌に言われているとおり、愛があなたを見つけました。あなたは雅歌の花婿のようです。町を巡回する番兵も気にせず、スラミスの娘が花婿を捜すように、皆があなたのところへやって来ます(1)
        「なぜ、そんなことを言うのですか、どうして?」
        「本当だからです。あなたは憎まれているので、あなたのところへ来るのは危険です。ローマはあなたを見張っています。神殿があなたを憎んでいるのを知らないのですか」
        「人よ、なぜ私を試みるのですか。あなたのことばには、わなが仕掛けられています。神殿とローマとに私の返事を知らせるために。私は下心があって、あなたの子供を治したわけではありません」
         律法学士はやんわりととがめられ、恥ずかしそうにうなだれて告白する。
        「あなたは人間の心の真実をありのままに見ていると分かりました。ゆるしてください。あなたが本当に聖であるのがよく分かりました。おゆるしください。ここへは、私の心に他人が置いたパンだねを発酵させながらやって来ました…」
        「パンだねが発酵するには、あなたの中に下地があったからです」
        「そうです、そのとおり…だけど、今はパンだねなし、いえ、むしろ新しいパンだねで出直します」
        「知っています。それは心配していません。ほとんどの人は自分の意思で罪を犯します。他人の意思による場合も多いが、正しい神に裁かれるはかりは違うに違いない。律法学士のあなた、正しい人でありなさい。これからは、あなた自身が他人に腐らされたからと言って、他人を腐らせてはいけません。世間があなたに圧力をかけるかもしれないが、その時は死から救われた生きる恩寵であるあなたの子供を見て、神に感謝しなさい」
        「あなたに感謝」
        「また、神に、すべての栄光と誉れ。私は神のメシアで、だれよりも先に神をほめたたえ、その光栄を探します。そして、だれよりも先に神に服従します。なぜなら、人間は真実をもって神に仕え、神の光栄のために働けば、己を卑しくすることはなく、罪に支配されることこそ己を卑しくするものです」
        「よくぞ、おっしゃいました。いつもこのようにお話しになるのですか、皆のために」
        「皆のために。アンナにも、ガマリエルにも、道端に横たわっている癩病者にも、ことばは同じです。真理は同じだから」
        「では、お話しください。あなたの一言、あなたの恵みが欲しくて、皆ここへ集まっているのですから」
        「それでは話しましょう。自己の信念を正直に考える人から、私に偏見があると思われないように」
        「私が抱いていた信念はもう死にましたが、正直言って、こう考えていました。あなたに逆らって、神に仕えようと思っていました」
        「あなたは真実です。だから、いつも偽りではない神を理解するという恵みが与えられました。けれども、あなたのそういうふうな信念はまだ死に絶えてはいない。はっきり言っておきます。あなたの考え方は、草焼きされた雑草のようです。一見、死んだように見えるけれど、根はまだまだ生きています。それに、大地がその雑草を育て、露は新芽、若葉を伸ばそうとします。こんなことが起こらないように警戒すべきです。そうでなければ、また雑草に覆われてしまいます。あなたの中でイスラエルはなかなか根絶やしにできるものではありません」
        「イエスラエルは死なねばなりませんか。邪悪な木ですか」
        「よみがえるために死ぬべきです」
        「霊的な輪廻ですか」
        「霊的な進化です。いかなるものにも輪廻はありません」
        「輪廻を信じている人がいます」
        「それは間違いです」
        「ヘレニズムは私たちの中にもこういう考え方を植えつけ、知識階級の人たちはいかにも気高い糧のように受け入れたり、誇りにしています」
        「六百十三の細かい掟のうち、ただ一つ違反したがために破門を宣告するような人たちにとっては背理であり、矛盾です」
        「本当です…しかし、そのとおりです。憎んでいるにもかかわらず、その人のまねをしているのが実情です」
        「それでは、あなたたちは私を憎んでいるのだから、私のまねをしなさい。そうすれば、あなたたちは大助かりです」
         律法学士はイエズスのこの気の利いたしゃれを察知し、機知に富んだ笑みを浮かべる。人々は口をあんぐりあけたままで聞いている。離れたところにいる人たちは、前にいる人たちに教えてもらう。
        「ここだけの話ですが、あなたは輪廻についてどうお考えですか」
        「さっき言ったとおり、間違いです」
        「存在しているものは、皆無に帰せないので、生きるものは死んだものから生まれ、死んだものは生きるものから生まれるという考え方を支持している人がいます」
        「実際、永遠であるものは皆無に帰せません。だが、あなたの話から察すると、創造主自身に制限があると思っているわけですか」
        「いいえ、先生、それは考えただけでも、神を冒涜するものです」
        「あなたの言うとおりです。では、決められた以上の数の霊魂はあり得ないのだから、ある霊魂が別の体に生まれ変わるのを認めていると考えますか」
        「考えられないはずですが、なおかつ、そう思う人はいます」
        「その上、悪いことに、そう考えるのは、あるイスラエル人なのです。未信者はいろいろ誤解をしているけれど、霊魂の不滅性を信じています。イスラエル人は、過ちすべてを除外して信ずるべきです。不滅性を未信者風に考えると、いかにも卑下されたものとなります。神の知恵は限りなく霊魂たちを造ることができます。霊魂は創造主から〝有〟にのみ移行し、いつの日か、死活の判決を聞いて命が終わり、また創造主へと戻ります。それは本当です。裁きのときに送られるところに永遠に残ります」
        「あなたは煉獄を認めないのですか」
        「認めます。どうしてそういう質問をするのですか」
        「あなたが『死んだ人は送られたところに残る』と言われたからです。かえって、煉獄は一時的なものです」
        「私はその煉獄を永遠の命の考えに結びます。煉獄は言ってみれば縛られて気絶しているような状態です。煉獄で一時的に止められ、それから霊は完全な命、限りない命に達します。そうしたら、残りは二つしかありません。天と深淵、天国と地獄だけです。霊魂も二つで、〝幸せな人々と滅びた人々(2)〟ですが、その国でどんな霊魂も再び肉を帯びることはありません。これは最終の復活の時まで続き、その時には霊魂が肉体へ入り、不滅のものは死ぬべきものに入るという循環が閉じられます」
        「永遠のものの循環ですね」
        「永遠のものは神だけです。永遠とは始まりも終わりもないということで、それは神です。不滅とは、生き始めたときから継続して生きるということで、人間の霊はそれです。つまり、永遠のものと不滅のものとの違いはここにあります」
        「あなたは〝永遠の命〟と言われるが」
        「そうです。人は命を与えられたとき以来、その霊は恩寵また意志によって永遠の命に至るのです。これは永遠ではない。命は始まりがあることを前提としています。だから〝神の命〟とは言えません。なぜなら、神には始まりがないからです」
        「それで、あなたは?」
        「私は人間でもあります。神の霊に、人間の肉体とともにキリストの霊魂を合わせたので私は生きます」
        「でも、神は生きるもの(3)と言われているではありませんか」
        「実際、神は死を知らず、尽きることのない命です。神の命ではなく、ただ〝命〟です、これだけ、今言ったことはニュアンスだけですが、知恵と真理はこのように微妙に現れます」
        「異邦人や異教徒にもこのようにお話しになるのですか」
        「このようにではありません。分かるはずがないから。あの人たちに、子供を相手にするように、太陽だけ見せます。でも、その太陽の成り立ちの詳しい説明はしません。イスラエルのあなたたちは目が不自由でも愚か者でもない。何世紀も前から神の指があなたたちの目を開き、知恵が霧を払っています」
        「先生、そのとおりです。それなのに、私たちは盲目で愚かです」
        「そうです。己をそうしたのです。おまけにあなたたちを愛している人の奇跡を望まない」
        「先生、まあ、先生」
        「律法学士よ、これは本当のことです」
         律法学士は黙ってうなだれる。
         イエズスはこの人をそこに残したまま立ち去る。色とりどりの小石で遊び始めた律法学士の子供とマルジアムの頭をなでて行ったイエズスは、伝道するよりも、そこここに集まった人たちとの対話を専らにしている。だが、これも絶えざる伝道と言ってよい。なぜなら、様々の疑問を解き、いろいろな考え方を照らし、既に話したもろもろのことをまとめたり広めたりしているからである。こうして時が過ぎていく。

        (1)リンボのこと。マテオ25・31~46。
        (2)ワルトルタの著作によれば、キリストの最初の到来のとき、太祖たちのリンボを閉じ、大再臨のときには幼な子のためのリンボを閉じる。そのため、マテオ25章と同じ様に天国と地獄だけが残る。
        (3)エレミア10・10。集会の書18・1。ダニエル4・31、12・7。 

         

        死者たちの中の長子 つづき

        2016.01.22 Friday

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           このようにして、真理の御言葉と、また嘘を吐(つ)けない天使たちと、またすべてにおいてただその父、その子、その花婿の完全さにのみ劣る完全さを備えたマリアと、また彼が昇天するのを見た使徒たちと、また最初の殉教者ステファノと、また彼に次ぐ多くの人びとは、イエズスが死者たちの中の長子であり、人間として自分の肉と共に最初に天に入ったと、確認したのである。誕生の日は一人の義人が肉から解放された霊魂と一緒に至福の霊魂たちの仲間に加わることだと言われる。イエズスはその至聖なる人間としての誕生の日に、人間-神というその全資質、すなわち肉、血、霊魂、そして神性と共にそこに居を定めた。なぜなら完全な無辜の人であったのだから。
           しかし第二の死というものがある。すなわち恩寵が欠如している霊魂のそれである。厖大な数の義人たちは、幾百年、幾千年も前から贖罪が彼らを原罪から浄化し、自分の内に超自然の生命をもつ者だけが入れる神の王国の一員となるために彼らにそれを許してくれるよう待ち望んだのだった。しかしそれよりももっと、キリスト以後に生まれて来た厖大な数の人間たちが、意図的に行った重大な罪からの浄化を遂げるであろう時、あるいは完全極まりない正義が、良心の掟に基づいて、存在すると感じている神に仕え、礼拝し、こうして教会の魂の一部となって愛徳と正義をもって生き行動した者たちすべてに、天を開くであろう時を待ち望んでいる。
           すべての霊魂を創造し、そのすべてを恩寵へと予定した完全な愛徳である神が、その王国から、自分の責任によらずに受洗しなかった者を排斥するとは考えられない。彼らにどんな過ちがあるというのか? 自分から自発的にカトリック信仰の浸透していない地域を選んで生まれたのか? 死んで生まれる新生児には、洗礼を受けなかった責任が負わされるのか? 厳密な意味で『教会』ではないが、神から霊魂を授かられたのだからそれに属しているといえる人びと、死んで生まれてきたために無垢の死者たちであったり、あるいは自然の傾向によって善を行い正しい生き方をし、それによって至高の善を称え、彼らのうちと周辺にその存在を証言したこれらの人たちに対して、神が残忍な仕打ちをすることなどどうしてありえようか? いいや、ありえない。それが胎児であろうと生まれたばかりの命であろうと、原罪を取り除く洗礼の秘跡を授けるのを妨げ一つの命を抑圧する者に対して、神が与える情け容赦の無い峻厳な審判は、そうでないことを立証するものである。もし、これらの無垢の霊魂たちが、神から引きはなされたままで幾百年、幾千年もの間、罰をうけるでもなく、かといって神を見る喜びを味わうでもない状態に放置されるほど神は厳格だというのか? 万人を恩寵に向けて予定した、無限に善である存在が、自らの自由な選択の余地無くカトリック者でない人たちから、その恩寵を横取りするなどと考えられるだろうか?
           『天には我が父の家が数多くある』、とイエズスは言った。この世が消滅するであろう時、新しい世界、新しい天、そして永遠のエルサレムの新しい幕屋があるだろうし、理性をもつ全被造物は、義人であった復活者たちの称賛と共に神の永遠の王国の所有によって栄光化され、教会の魂とだけ一致していた人たちも天にその住まいを得るだろう、というのも、永遠に残るのは天国か地獄のみであろうが、また、愛徳が、それにふさわしくないこの被造物を永遠の責め苦のために地獄に落とすとは考えられないからだ。
           父の手に霊魂を返したイエズス・キリストは、アダムの代わりに、その至聖なる霊と共に、最初に、生命の王国に入った。ほんとうは天の民の一人としてそこに最初に入るべきであったのはアダムであったのに、彼はその背信により霊魂と共にそこに入るのに幾千年も待たねばならなかったし、霊魂に再結合した肉と共にそこに入るためには、それよりももっと長い幾千年を待たねばならないのだ。イエズスはそうではない。『大きな叫び』を上げ、その霊魂を父に委ねた瞬間、その神-人間の本性である無限の愛徳により、この上なく正義に貫ぬかれた彼の魂は、人類の過去・現在・未来のすべての罪を背負っていたが、霊魂の命である恩寵を失わせる原罪は負わず、彼の完成された生贄を通じてすべての罪を消滅するためにそれを負い、人のあらゆる霊魂と等しく、父から裁かれたのだ。そして父は、生贄の成就以前のように、『罪とはかかわりのないかたをわたしたちのために罪となさった』(第二コリント5・21)。けれどもそれがすべて成就されると、『神はこの上なく彼を高め、すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった。こうして天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべてイエズスの名において膝を屈め、すべての舌は「イエズス・キリストは主である」と表明し、父である神の栄光を輝かす』(フィリピ2・9~11)。 裁かれると直ちに人間としてのその霊魂、完全の域に達していたその霊魂は、体に再び結合し、死んで生者となり、栄光の復活者、肉も具備した最初の栄光の復活者、霊魂と肉体において天に生まれた最初の人、復活者たちの初物、義人たちに対する復活の約束、彼が王であり、相続人の長子である王国の所有の証拠である生者となる瞬間まで、主のうちに喜び、主のうちに憩った。
           父の遺産、その子らのために彼が定めた遺産は常に長子に与えられた。またキリストの全兄弟たちはこの永遠の、聖なる、王的遺産に与るはずであったから、彼は彼の血そのもので書いた聖なる遺書をもって、彼らにそれを結び付けた。また父が彼に与え、彼がその兄弟たちである人びとに与えるために受けた王国における分け前を受けるように、自分を死に渡したのだ。遺言書は遺言を残した者が死んではじめて有効になるのだから(ヘブライ9・16~17)。
           多くの長子権による長子イエズスは、こうして父の意志に基づき、王たちの王、永遠の世紀の主として、最初に王国を所有するのである。この父は全能、アルファでありオメガ、初めであり終わり、力、知恵と愛徳である者、なすことをすべて知り、すべてのことをなし、善い目的に向って完璧に行い、そしてこのゆえにその御言葉を産み、時が来ると彼に肉を与え、したがって生贄として屠り、続いて復活させ、称賛し、釘で刺し貫かれたその両手に審判するあらゆる権力を与えた。ために、どれほどの者たちは彼を見、物質的にあるいは罪を犯して彼を侮辱し、彼を刺し貫いたかを見、繰り返しおのが胸を叩くことであろう。すなわち個別に受ける審判に際して、また審判主キリストの最後の出現に際して、このように定められたのだから、そうなるだろう。 

          マリア・ワルトルタ著 『― 世紀末の黙示録 ―  手記  抜粋』より
          死者たちの中の長子(黙示録1・5)。

          死者たちの中の長子

          2016.01.22 Friday

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            マリア・ワルトルタ著 『― 世紀末の黙示録 ―  手記  抜粋』より

            付属文書 ヨハネの啓示(黙示録) 1950年

             死者たちの中の長子(黙示録1・5)。

             未熟な読者ならこの一節を読んで、或る種の混乱に陥り、或る種の疑問を抱き、その結果次のように問うかもしれない。「しかし、ここには間違いや矛盾はないだろうか。長子は恩寵の生命を最初に生きた長子アダムであり、それゆえキリストは『新しいアダム』、または、超自然的生活から堕落し、そのような状態のままキリスト生誕第三十三年までいた第一の人アダムを除外して、『第二のアダム』と呼ばれ、その子に先立って生まれ、恩寵満ち満ちていた彼の母マリアは、知恵の言葉により、神の長女と言われたのではないか?」。
             間違いも矛盾もない。
             アダムは最初の人間であるが、長子ではない。彼はどんな父からもどんな母からも生まれておらず、神から直接創造されたのだ。
             イエズスは、長子でもある父の独り子である。初めが無い神的思惟から御言葉は産出され、彼にも初めは無かった。したがって彼は、神のように絶対的長子である。また、マリア―彼女は知恵の書によって、また教会によって『長女』と言われている―から生まれたとはいえ、人間としても長子である。なぜなら、関与によるのではなく、直接の産出によって、父なる神から生まれたその素性によって、神の子らの真の長子である。すなわち、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆うでしょう。それゆえお生まれになる子は聖なる者で、神の子と呼ばれます』(ルカ1・35)。
             したがって、たとえ彼に先立って母は『いと高き者の長女にして娘』(シラ書24)と歌われたとしても、また彼女がその座である知恵の書は彼女について『主はそのみ業の初めに、わたしをお造りになった。いにしえのみわざになお先立って。永遠から、わたしは定められた』(箴言8・22~23)、更に『わたしを創られた方はわたしの幕屋で憩われた』(シラ書24・12)としても、彼は長子である。なぜなら、たとえ母が格別な特権によって無垢であるとしても、限り無く純白で限り無く聖である子は、限り無く母を超越する絶対的長子なのだ。神なのだから
             彼女は、父の思惟が、人びとに恩寵をもたらすために、彼女によって恩寵が来ることを考え、定めた時から、また、彼女を恩寵で満たして創造し、彼女が母になる以前も、母となる間も、母となった後も常に彼女の内に憩ったその聖なる櫃を所有した父の選択による最初の娘である。実に、彼女は無原罪であったから恩寵に満ちていたし、恩寵によって受胎し、肉となった無限の恩寵は、彼女の内部で、彼女から人間の肉と血をとり、彼女の血と共に処女の胎内で育ち、ひとえに、彼女のわざによって、また聖霊の働きによって形成されたのだ。
             彼は、永遠の産出によって長子である。父は彼のうちに、未来の一切の物事を、まだなされていない物質的、霊的あれやこれやの一切の物事を見ていた。なぜなら父はその御言葉のうちに創造と贖罪を見ており、その両方とも御言葉により御言葉のためにもたらされることを見ていたからである。
             感嘆すべき神の神秘! 利己的愛ではなく、能動的で、極めて強力で、むしろ無限の愛で自分を愛する計り知れない御者は、このたった一つの完全無欠の行動によって、位格(ペルソナ)の区別においての他は彼、父とすべてが同等であるその御言葉を産む。なぜならもし神が一にして三、すなわち感嘆すべき唯一の存在であるならば、学識の浅い人びとには三つの面からこのようにわかりやすく説明できよう。三つの各々の面は、はっきり区別される信仰の真理であり、すなわち神学的に唯一の神であり、神性、永遠性、計り知れなさ、全能により、すべてにおいて同等である三位格だ。三位格の間には混同は無く、また一位格は他の位格ではなく、だからといって三神ではなく、唯一の神は自分ひとりで子を産み、したがって自分を産み、聖霊の発出の原因となることによって、神的位格の各々に存在を与えるのだ。
            神、すなわち力は、すべてを見、知恵によって、聖霊である愛徳によって行い、最も偉大なそのわざを成し遂げる。そのわざとは、御言葉の産出と受肉、人間の創造と神格化、マリアを原罪から保護すること、その神的母性、堕落した人類の贖罪である。すべてを見、知恵によって、すなわち、万物が存在する以前から在って在るものによって行うのであるから、全面的な権利をもって自分は『長子』だと言うことが出来る。
             太古から存在し、神が宇宙に置こうとした各々の形態と性質においてその生命を生きている宇宙が存在していなかった時、彼、父の御言葉はすでに存在していた。生命が無かったがゆえに、死んでいるかのように存在していなかった万物は、彼によって創造され、こうして『生命』を得た。御言葉は、すべての要素が無秩序に、徒(いたず)らにのたうっているカオスからそれらを引き出した。御言葉がすべての事物を整備すると、すべては役立つ生命力をもち、こうして可視的な感知しうる宇宙は、完全な知恵の法則と共に、愛の目的と共に存在した。
             なぜなら、何一つ愛の目的無しに、知恵の法則無しにはつくられなかったからだ。水盤に集められる水滴から、光と熱を与える天体を形成するために集められる微分子まで、あの動物たちを養うために予定された植物的生命から、その動物たちを利用し楽しみ、その動物的、理性的完全さにより、何にもましてその内部に封印されている不滅の部分、永遠者そのものの息吹は、神を歓呼し、神の歓喜のもととなるために―なぜなら神はその子らを見て歓喜するからだ―その根源に帰るべく予定されている、創造の傑作である人間に至るまで、すべては愛のためにつくられているのだ。もし常に忠実に呼応されていた愛なら、死や苦しみが神の愛について人間に疑いを抱かせるのを許しはしなかったろう。
             死。神によってつくられた多くのものの中に死はつくられなかった。また苦しみはつくられていないし、死と苦しみの原因である罪はつくられなかった。この上もなく美しい宇宙にそれを置いたのは敵対者なのだ。また、敵から、憎しみから堕落させられるままになった宇宙の完成、人間によって、まず恩寵の死が、次いで肉の死がもたらされ、そして、アダムとその連れ合いのうちに、またこの人祖からすべての子孫のうちに、恩寵の死の結果として、すべての苦しみと心身の疲労が生じた。
             それではどうしてアダムの子孫である女から生まれたイエズス『死者たちの中の長子』だと言えるのか? たとえ神的受胎によって母は彼を生んだとしても、その母は、義人であったとはいえ二人の男女、すなわちアダムから一人ひとりの人間が受け継ぐ原罪により、超自然的生命を欠き、罪に汚れている二人の男女から生まれたのではないか? これぞ多くの人の異議申し立てである。
             その出生からイエズスは二重に『長子』である。なぜなら、すでに超自然的に生きる子らを生めなくなっていたアダムに長子が生まれた時、存在することによって、人がまだ生まれていなかったように生まれたからだ。アダムの子らは、両親がすでに堕落し、三重の色欲にまみれていた時に懐胎され、超自然的生命に対して死んで生まれてきた。そしてアダムとエバ以降、どの父親もどの母親もこのように出産してきた。
             二人共に勝れて義人であったにもかかわらず、アンナとヨアキムもまた、このように出産したのであろう。彼らもまた受け継いだ罪から損害を受けていたし、彼らは単に人間的な普通の在り方でマリアをもうけたのだから。神の母になることを予定されていたマリアの誕生における希有の出来事といえば、処女の、原罪の汚れから守護された霊魂の、男と女から生まれた万人の霊魂の中で唯一、無原罪であったその霊魂の、未来の使命の観点から神が与えられた特異な特権による注賦(ちゅうふ)だけであった。
             それに反して、エバ以降、どんな女も知らなかった恩寵に対する忠実さを知っていたマリア、最小の小罪どころか、その完全な無辜(むこ)の状態、その完全な均衡を妨げるような最小の嵐さえも知らず、ために、ちょうどアダムとエバが誘惑者の誘いに負ける以前にそうであったように、知的能力はそれに劣る部分を支配し、霊魂は知的能力を支配していたマリアから生まれたキリストは、霊的に侵されておらず破られていない胎内から生まれた長子である。はたまた、キリストは物質的に侵されておらず破られていない胎から生まれた長子である。なぜなら彼女は母とした者として、彼女から生まれた者として神であることにより、したがって扉を開くことなく、あるいは岩を動かすことなく出入りする霊という自らの賜物の持ち主として、神は人性をとるために彼女の胎に入り、救い主としてのその使命を始めるために、諸器官や筋肉を傷つけずそこから出た。
             こうして、長子、卓越した人間、恩寵に死んでいた一切の死者たちに再び生命を与えるであろう者は、唯一、恩寵の充満から生まれた。二人の肉の飢えによってではなく、恩寵のうちに生きることを維持していたならば人の子らが有していたであろうような在り方で生まれたのだ。五官の欲求ではなく、恩寵のうちに生まれてきた者が奉献する神に対する聖なる愛と、伴侶に対する悪意の無い愛は、神から義務づけられた、獣性により腐敗していない愛のみを成長させ、倍増させるべく秩序立てられねばならなかった。
             この命令に違反されると、新しいアダムを再創造するために、神はそれを汚れ無き女によって形造られねばならなかったが、驕り高ぶって神のごとくなろうと欲したあの泥をもってではなく、ひたすら、超純潔、これだけでも御言葉の母となるに値するほどの超謙遜が提供する不可欠の要素をもって、新しい人を形造ろうとした。
             そして死者たちの中の長子は、闇に横たわる死者たちに光をもたらすために来た。地球上にまだいた者たちであれ、天の門を彼らに開く贖罪を待ちつつすでに冥界に集まった者たちであれ、死者たちに恩寵への生命をもたらすために来た。また、肉も共に生きて天に帰らねばならない者たちのためにも、彼は長子であった。汚れ無く、受けた恩寵に忠実な女から生まれた彼のために、ほんとうに満ち満ちる宝を、宝の持ち腐れにせず、それどころかすべての動きと霊感に対するマリアの完全な対応による恩寵の持続的増加と共に活発にそれは用いられ、ただそれだけで、アダムの、またアダムとその伴侶のせいで、万人に共通に与えられた『おまえは塵に返る』という罰は適用されなかったろう。
             一点の罪の汚れも無かった彼女も、人間共有の罰から免れることにより、また、御言葉を安置する櫃であり、神的芽に、人間-神を形成するにふさわしいすべての要素を与える土地である肉が腐肉になったり塵になるのは適していないので、神の母も塵には返らなかった。したがって、死から肉と共に復活した長子はイエズスのみであり、いつまでもイエズスのみである。彼は、父の意志に対する完全な従順ゆえに、この上なき辱めを受け、完全な生贄になった後、否定し難いその復活をもってこの上なく栄光化されたのである。なぜなら皆が皆彼の友人たちではない多くの人が、彼の栄光化された体を見、それだけでなく、彼が天使たちの敬意を受けながら天に帰るのを見て、この二つの事実を証言することになるからである。『なぜ、あなたがたは、生きているかたを死人の中に探すのですか? そのかたはここにはおられません。復活なさったのです』(ルカ24・5~6、マタイ、マルコの並行箇所)。復活者はあまりにも美しい変容を遂げていたので、マグダラのマリアは、彼が自分だとわからせるまで、彼を見分けられなかった。さらに使徒言行録(1・11)にはこう記されている、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか? あなたがたを離れて天に上げられたあのイエズスは、天に昇るのをあなたがたが見たのと同じありさまで、またおいでになるであろう』と。

            * 神は死をつくらなかった。(知恵の書1・13)

            天は最初のミサをマリー・アンに啓示する

            2016.01.19 Tuesday

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              マリー・アン・ヴァン・フーフへ
              祝されし童貞聖マリアのメッセージにより解説された
              ミサの聖なる犠牲(The Holy Sacrifice of the Mass)④

              IV 天は最初のミサをマリー・アンに啓示する

              …皆は膝(ひざ)によりかかられて頭を下げておられます。皆は何かに向けて準備しておられるようです。しかし、それが何であるか私は知りません。ただ一人だけ落ち着きのない様子の―がいます。彼は周囲を見回していますが、他の人々は黙想にふけっておられます。

               聖母は下の部屋の様子をビジョンでご覧になる。

               上の部屋には聖母がおられ、下の部屋のビジョンを与えておいでになります。下の部屋では神なる御子が荘厳な、非常に荘厳と思われる何らかの偉大な礼拝を準備なさっておられます。皆様跪(ひざまず)いておられ、聖母は腕を交差させておられます。
              (マリー・アンは胸の上で腕を交差させました。)

               一方、聖なる婦人の方々はこのように手を組んでおられます。(マリー・アンは祈るときのように手を組みました。)

               主は使徒の方々に指示しておられます。この部屋にはたった今現れたばかりの二人の見慣れない人物がおられます。どなたであるか私は知りません。主はなおも非常に謙遜に、熱心に使徒の方々に教えておられます。使徒の方々は膝に寄りかかっておられますが、主は立ったままでおられます。主は今、御指導を続けながら寄りかかられましたが、再び立ち上がられました。(マリー・アンは十字架の印を二回しました。)

               上の部屋では聖母と聖なる婦人の方々が御自身を祝福しておられます。聖母は使徒の方々の祝福を見ておられたようです。主なる神はなお皆に教示なさっています。

               灰色の髭とあごひげをした二人の見知らぬ人々は、先の人々には属していません。彼らは部屋の隣りにいるようです。
               主の左側、部屋の横に小さな机があります。それは正確に言えば机のようではありませんが、机と言ってもよいでしょう。この机の上には麻の布で覆われた容器があります。この容器から使徒のうちの二名の方が小さなパンの塊と美しい西洋梨のような形の器あるいはカリス――金でできたものと思われます。――を取り出されました。それは非常に美しいものです。それは輝いており、盆の上に置かれました。

               そして彼らはその全てをわれらが主なる神の前に差し出しました。最も若い方が出て行かれました。今、彼は白い麻の布を持って帰って来て、それを主にお渡ししました。茶色のあごひげの方が部屋の横の方へ行き、珍しい陶器を持って来られました。それはあたかも広口の壷というか、うまく説明できません。そして二名の使徒はまた各自の場所に戻られました。
               このパンは使徒の皆様が夕食の時に取られたようなパンの塊とは異なっています。もっと平たいものです。主は今、使徒たちにお話しになり、使徒たち全ては厳かによりかかられました。(マリー・アンは二回十字架の印をしました。)

               主は二人の使徒が御前にもって来られたものを祝福なさり、そして再び皆に話しかけられました。今、主は使徒たちを祝福しておられるようです。あごひげをはやしておられない方は、とても心配しておられるようです。彼はわれらが主なる神の側を決して離れようとしません。主はこの使徒の方に御手を置かれました。それはあたかも全てはうまくいっていると彼を安心しておられるようです。

              われらが主はミサの聖なる犠牲(いけにえ)を創設なさる

               どなたも話しておられないようです。いずれの方もご自身一人でおられるかのようです。天的な美しい高みに昇るが如き雰囲気があります。主は天を見あげておられます。われらが主なる神は御腕を挙げられました。(マリー・アンは手を頭の上に挙げました。)

               主の御目は天におられる御父なる神の方をご覧になりました。その瞬間、聖父なる神は閃光のうちに主の上に御出現なさいました。われらが主なる神は、主が望まれたように御自身を聖父なる神へ献げておられるようです。おお、何と美しいわれらが主なる神は、何と美しいのでしょう!(マリー・アンの表現は、大いなる喜びと畏敬に満ちていました)

               私はこの美を、そしてこの畏敬の念を表現する言葉を見いだすことができません。(マリー・アンは右手を挙げ、二本の指を伸ばして十字架の印をしました)

              パンの奉献――全実体変化

              主はパンの塊を御取りになり、再び天の方へ、パンが主の体となることを望んでおられる聖父なる神の方をご覧になりました。主なる神はパンを持った御手を挙げられ、パンは上から、そして主の周囲から発する輝く光によって脈動しています。この光景を見るとき、私は飲み込む畏敬の念を説明する言葉を私は見いだすことができません。御手にパンを持っておられるこの時の主の御姿は何と美しく見えることでしょうか。

               主は何かお話になっておられますが、何とおっしゃっているのか私には理解することができません。主の全存在はまるで主が透明であるかのように、まるで主がそこにおられないかのように光輝いています。しかし主はそこにおられるのです。主はパンの塊を御前に置かれました。

               主はパンを二つに分けられ、片方をいくつかの小片に分けられました。主は天の方をご覧になりました。主の唇は聖父なる神に話しかけておられるかのように動いています。このとき、聖なる机の一面に非常に明るい輝きが満ちました。光は天から、そして主の御体から来ているようです。それはパンの塊を包み込み、主が天の方をご覧になり、聖父なる神に語りかけておられる間、パンは輝く光によって脈打ち、鼓動し、震えているかのようです。

               (このときマリー・アンは座った状態から立ち上がって両手を天に挙げました。彼女の表現は完全な畏敬の表現でした。彼女の腕は上方へ向って延ばされ続けました。そのとき、彼女は明らかに何かとても美しいものを目にしていたのでした。愛と熱意を持って「わが主よ、わが神よ」と語りながら、彼女の目からは涙がこぼれ落ちました。と同時に彼女は腕を十字に交差させ、肩に手を置きました。そして彼女は言いました。
              「真にふさわしくない、真にふさわしくない、私はまことに不純であると感じるのです。しかし、心が私の中で育つかくも大いなる愛で一杯になる時、胸は、はちきれそうになるのです。この偉大なる聖なる瞬間を目にしてなしうることは、ただ次のように言うことばかりです。
               
              わが主よ、わが神よ、わが主よ、わが神よ』と。まるで喉に何かがつかえたかのように、私は「わが主よ、わが神よ、私は値しないものです。」と言うときに感じる畏敬の念と喜びの経験を説明するに適切な言葉を見いだすことができません。」)

               これら全ての間に、天井は消え失せたかのようです。そして代わりに諸天使、ケルビム、諸聖人が出現なさいました。天の全ての方々が降りて来られたかのようです。何と天的な美、何という喜ばしき経験でしょう。私はこの感覚をうまく説明することができません。あたかも挙げられて、もはや地上にはいないかのような感じです。使徒たち全ては天を見あげておられ、畏敬の念に打たれたかの如く、皆様の目は愛と熱意の天的な表現に満ちておられるようです。何と美しい、何と美しいのでしょう。おお神よ!

              この光景を私たちの司祭に開示してください、これを私たちの司祭に開示してください。(マリー・アンは必死で嘆願するかのような声でこの言葉を発し、その目からは涙が溢れていました。)主にして神である御身が示された天の「栄光の栄光」を彼ら司祭にお見せください。おお主よ、おお神よ! おお主よ、おお神よ!
              上の部屋ではわれらが祝されし御母、われらの聖なる御母が、この光景の全てをご覧になっていたようでした。マリー・アンは微笑んで言いました。

              「おお、何と美しいのでしょう。この聖なる時において、この厳かなる時の間、私たちの聖なる御母と金色の髪をしたもう一人のお方が平伏しておられる際に、女性の皆様がお示しになった敬意と熱意は!」隣接した部屋におられる女性の幾人かは手を組んで熱心に祈っておられます。
               大部屋で食事をし、その他のお仕事をしておられた方々も今は跪かれて、この最も厳かなる時において深い熱意をもって祈っておられます。

              ぶどう酒の奉献――全実体変化

               私は今、主の方へ連れ戻されました。主は使徒に少しの間お話になっています。主は美しい洋梨型の器あるいはカリスを祝福なさいました。そして再び光の輝きが主を照らしました。主は金の器あるいはカリスをお取りになり(マリー・アンは両手でカリスの形を造りました。)
               それを天におられる聖父へとお献げになりました。そしてその直前、聖父なる髪は一瞬の光輝のうちに御自身をお表しになりました。上からの輝く光が主なる神を貫いているかのようです。主の御体から流出する光は金の器、あるいはカリスを包み込み、そしてそれは脈打ち、振動しているかのようです。何かより黒いものが主の御体から金の器あるいはカリスの中へと流れていきます。しかし主の御体ははっきりと見えます。

              (マリー・アンはよりかかった姿勢から立ち上がって、腕を延ばし、大いなる畏敬と念をもって上方を見上げました。そして更に高くへと手を延ばし、彼女の体は緊張して震え、顔に涙をこぼしながら次のように言いました。)

               「わが主よ、わが神よ、わが主よ、わが神よ、天におられる聖父なる神よ、聖子なる神よ、聖霊なる神よ、天の諸天使よ。」彼女は胸の上で腕を十字に交差させ、祈りと大いなる畏敬のうちにゆっくりと再びよりかかった姿勢に戻りました。これはあたかも非常に特殊な、透明の光景のようですが、しかしそうではないのです。
              ただ私はうまくそれを説明することができません。つい先程、諸天使、ケルビム、主聖人が主の上方に出現なさり、同じく輝く光が、同じく光栄に満ちた感覚が人を包み込み、その時はもはや次のように言いうるばかりになってしまうのです。

              「おお、わが主よ、わが神よ、私はふさわしくない者です。わが主よ、わが神よ、私はこの厳かな瞬間を目撃するにふさわしくありません。」この大いなる喜びの天的な感覚はまさしく表現しえません。われらの主なる神が御自身を天におられる永遠の聖父へと献げられるこの神々しい光景を表現する言葉を私は見いだすことができないのです。

               聖父なる神が御自身を神なる御子に表されるこの時は最も厳かな瞬間です。私たちの聖なる御母はこの美を、この聖なる聖なる瞬間をご覧になりました! エノクとエリアまでもが、この最も厳かなる瞬間を目撃し、それに参与するために彼らの肉体において呼び寄せられました。一つの声がこのことを私に告げました。
              (そしてマリー・アンは彼女の腕を胸の上で十字に組み、再び大いなる熱意をもって「わが主よ、わが神よ」と言いました。)
              主は立ち上がった使徒たちにお話になり、使徒の皆様の顔にはまだ美しい感動の表情が見られます。ただ一人を除いて。、この暗い様子の一人を除いて。彼は不安と自責の念の入り交じった恐れと怖さの表情をしており、それを必死に努めて隠そうとしています。
               主なる神は先に分けて置かれたパンのかけらの一つをお取りになりました。主はそれを高く挙げられ、私の理解できない何らかの言葉をおっしゃいました。今、主の右側におられる使徒と主の左側におられる使徒の一人、すなわち部屋の横から珍しい容器を持って来られたあの二人の使徒の方々は恭しく跪いておられます。

               私が見ている間に二人の使徒は場所を離れられました。主がそうするようにお命じになったのです。主はパンのかけらの上に祈られることを終えられました。主なる神は全く恭しく謙遜に御自身を拝領なさいます。大変不思議なことに、パンの一かけら一かけらの下に、そのかけらがどんなに小さくてもそれぞれ主御自身の像があるのです。これはとても不思議ですが、しかしとても美しい。

               天使たちは聖母のところに 聖なる形色をお持ちする

               主は一位の天使に、それは大天使ガブリエルですが、下方に主なる神の像のあるパンの一かけらをお与えになりました。もう一位の天使は御血の入った小さなカリスを受け取っておられます。両天使は聖なる形色を上の部屋におられる聖なる御母の所へとお持ちしました。それから茶色のあごひげの使徒にお与えになりました。(マリー・アンは指で主の像の大きさを示し、それは1インチほどです。)

               使徒たちは聖なる形色を拝領する

              主がこれら二人の使徒にそれぞれパンのかけらをお与えになっている間に、他の二人の使徒がテーブルの両側から近寄って来られました。彼らは恭しく跪いています。V字テーブルの内側を共に歩いている使徒の方々は、主なる神が彼らの前に差し出されたパンのかけらを互いに与えておられます。ここにもまた同じく主の像が現れています。主なる神がパンを分けられる時に落ち、最も小さなパンの一かけらにさえも、それがどんなに小さいものであろうとかかわりなく、主なる神の像がその上に映しだされているのです。主の立ち上がられる間それらはみな光輝き、主は透明になったかのようになる、というのが私のなしうる唯一の表現です。

               天におられる聖父なる神がそのように望まれたのです。元のかけらから別れたかけらの一つひとつが偶然にできたものではありません。それはたんに主の手あるいは足のみなのではなく、統一された主の全身なのです。かけらの一つひとつが皆さんの主なる神の完全な全体なのです。(マリー・アンはこれらの言葉を大いなる謙遜と誠実と確信をもって語りました。)これら全てを見るのは本当に不思議です。それは非常に美しい! 聖子が各人の中に来られるとき、人々は天にいるように感じ、聖父なる神がそこにおられます。
               ああ、本当に美しい! 何という栄光に満ちた歓喜。
               今、主なる神は美しい金の器あるいはカリスから、いくらかの御血を二人の使徒が左手に持っておられるより小さな器へ数滴だけ注ぎ出されました。(マリー・アンは驚きで息をのみ、「おお、何と美しい!」と叫びました。)小さな器に注がれる血のように見える液体とともに、主の聖心の像が出現しました。それを今、使徒の方々が拝領しておられます。おお、何と美しい! 今、二人の使徒の方々は立ち上がられました。主がそのようにお命じになったようです。彼らは主なる神の後方に歩いて行かれ、部屋の右側の方に行かれました。そこにはタペストリーあるいはカーペットが掛けられていました。

               彼らはそれを一部だけ開けられました。彼らの横には長い灰色の髪とあごひげの二人の見知らぬ人物がおられます。エノクとエリアです。彼らは二人ともパンのかけらとワインの液を二人の使徒から拝領なさいました。二人の使徒は働き手たちや世話人たちがやって来て拝領することができるようにタペストリーの所に行ってそれを一部開けたのです。

               彼らは皆拝領する時、恭しく跪いています。最も若い使徒がワインを与えておられます。実のところ、どの器に入れてあるのかはっきりとは分かりません。彼らは拝領し、そして退き、そして他の人々が拝領するために進み出てきます。
               他の使徒の方々は二人づつV字の内側に入っていかれます。彼らはお互いにパンのかけらを与えられておられます。主なる神はワインの液を陶器の器から小さな洋梨型の幾つかの器へと注ぎ出されました。それらは主の御前にあるものとよく似ていますが、もっと小さいものです。(マリー・アンは手ぶりでこれらの容器の大きさを示しました。)使徒の方々人に一つづつあり:使徒はV字の内側に入る時にそれを左手に持っておられます。

               しかし、二人づつになって中に入る三番目の組において、暗い者が彼は主の右側の三番目にいた使徒ですが、彼の顔は更に暗くなり、日に灼けたようになり、他の人々よりも暗い表情をおびてきました。彼らhパンの人かけらをV字の内側で彼と共にいたもう一人の使徒に与えました。今、彼と組みになっているもう一人の使徒は彼にパンのかけらを与えようとしておられます。(マリー・アンは驚きの表情とともい「おお」といって、次のように言いました。「一位の天使が彼の唇からパンのかけらを取り去りました。彼は拝領しませんでした。」マリー・アンは耳を傾けているようでしたが、やがて言いました。「ええ、私は理解しました。もし彼が拝領していれば冒涜になるところでした。」)彼は非常に暗くなって退きました。彼は決して主なる神の方を見ようとしません。

               彼はテーブルの彼が元いた場所に戻ろうとはせず、カーペットあるいはタペストリーの側を忍び足で歩いています。彼は主なる神をあざけっているのではありません。なぜなら主はこれが彼の計画(裏切り者が抱いている邪悪なる考え)のうちにあることを知っておられるからです。主は憐れみと悲しみをもって彼を見下ろしておられます。暗き者は邪悪の感覚、裏切り、あるいは何か恐ろしく間違った者の感覚を抱かせます。(マリー・アンは嫌悪に震えました。)彼は使徒たちの背後に忍び入り、扉の後ろで止まり、他の使徒が妨げなく形色を拝領しておられるのを眺めています。彼はゆっくりとカーペットあるいはタペストリーの仕切りの背後に抜け出し、そして立ち去りました。天使がパンを取り去ってすぐ彼は立ち去ったので、彼は他の使徒のようにワインの液に触れ、あるいは拝領することはありませんでした。 

              教育者へのドン・ボスコのことば

              2016.01.18 Monday

              0
                IAPAN
                1570年〜90年ごろ刊行された「世界地図帳」の中の東北アジアの国。
                日本列島は、IAPANと記され、その中にMeaco(メアコ)と書かれている。
                ドン・ボスコは、自分が始めた教育事業の未来の発展の姿の一つに、
                「広い海のそばにそびえる高い山とメアコという町」が見えたという。
                IAPAN_L

                『教育者へのドン・ボスコのことば』1985年 ドン・ボスコ社発行 ガエタノ・コンプリ著・編 

                100年前、夢で日本を見た人

                 一八八五年、帰天の三年前、サレジオ会の創立者ドン・ボスコは一つの夢を見た。その中に自分が始めた教育事業の未来と発展の姿を見たという。世界一周をした感じで、次々といろいろな国、民族、町の名前が出て来た。南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、ペルシア、インド、中国等と。ついに北京の次に「広い海のそばにそびえる高い山とメアコという町」が見えたと言う。
                 実は、ドン・ボスコは世界地理に詳しい人だった。フランスの地理学界の名誉会員にされたほどだった。一八八五年頃と言えば、日本は明治維新で、欧米の関心をひきはじめた頃であった。日本の二十六聖人の列聖(一八六二年)や長崎のキリシタンの発見(一八六五年)は欧米で話題を巻き起こしていたころでもある。ドン・ボスコが見ていたはずのキリシタン時代の地図と文献には日本の都は、メアコ「MEACO」と記されている。すなわち、一八八五年の夢の中に、ドン・ボスコは間違いなく日本のことを見たのである。(MB 第十七巻 六四六ページ)
                 現在はその夢を実現するかのように、日本はいくつものサレジオ会関係の教育事業が存在している。世界中の他のサレジオの教育事業と共に(男子系、女子系、それぞれ二◯◯◯余ある)ドン・ボスコの巨行くの理想と、普遍性の証と言えるものである。
                 教育はごまかしがきかない。本物でなければ、教育事業は遅かれ早かれ、必ず滅びることになる。その教育事業を支えるのは、特に私学の場合は、建学の精神である。それが本物でなければならないのである。
                 さて、世界中のサレジオ会の事業の中に何が本物で、何がその建学の精神となっているのだろうか。言うまでもなく、それはドン・ボスコの教育理念である。それがなければサレジオ会もないのである。この百数十年の間、世界中のサレジオの事業を支えて来たものは、このドン・ボスコの理念以外にはありえない。従って、私たちの学校の基本的な教育方針が何であるかといえば、その答えは当然、ドン・ボスコの理念と決まっている。問題があるとすれば、それを真に理解しているかどうかであろう。
                 ではこのサレジオ会の精神とは、どういうものであろうか。もちろんこれは生きたものなので、詳細に観察していけばある程度まで、あらゆるサレジオ会の事業の中に見られる。しかしより基本的な文献としては、ドン・ボスコ自身の書いたもの、またその他の、サレジオ会の名において書かれた文書がある。それを研究すれば、サレジオの伝統が明白になるであろう。私たちにとってはこれらの文献こそ、サレジオ会教育の原点となるものである。疑問が生じたときは、ここにもどらなければならない。
                ここに、ひとことおことわりしておくが、ドン・ボスコはいわゆる教育学者ではなかった。彼は教育者であった。すなわち、彼はただの教育理論を研究したり、それを著したりするつもりはなかった。毎日生徒と交わり、教育の実践んい全力を入れるのが教育者である。理論を知る必要はあるだろうが、教育者は研究のために生きるのではない。生徒のために生きるのである。ドン・ボスコはまさにそのような人であった。彼の生活自体は一つの教育の手本である、そして彼の著作は豊かな教育経験に満ちている。ドン・ボスコは深い洞察力と、人間の心に対する理解に恵まれていた。それゆえ彼の教育方法は、人間の教育の正鵠(せいこく)を射た普遍的なものであると私は信じている。教育の天才であったと言っても言い過ぎではないと思う。彼の言葉と行いは、いつまでも教育者に理想と希望を与えるものとなるであろう。勿論、時代と場所による限界があろうが、基本的な考え方はいつまでも生きるであろう。
                 だがドン・ボスコは特別偉そうなことを言っているのではない。ごくあたりまえのことを話しているだけである。教育の根本はごくあたりまえの事ではないだろうか。あたりまえの事を怠ってしまえば、いくらすばらしい設備を誇っても、いくら良いカリキュラムを組んでも、いくら偉そうなことを話しても、何にもならない。それでは、なにがあたりまえなのであろうか。それはドン・ボスコに言わせると、教育とは最終的に、心と人間関係の問題であるということ。いつでも生徒と心が通うようにして、彼らに自分の人生をぶつけて、いっしょに生活しながら、その心の中に一つの信念を創りあげること、これが教育なのである。教科を教えることは、ある意味では、ただ自分の姿勢を示すための一つの手段であって、教育のすべてではないという。教育とは、あくまでも人間の教育の事を言うのである。ものを教える教師であるだけでは、教育者ではないというわけである。
                 日本においては現代ほど物質的に恵まれた時代はないが、同時に、教育がこれほど危険に直面したこともないだろう。家庭内暴力や校内暴力はその著しい現象の一つにすぎない。結局、何が足りないのだろうか。答えは、ここで紹介するドン・ボスコの文献の中にあると思う。これらを読んでみると、まるで現代の日本の教育者のために書かれたもののように思われる。だが実際はもちろん、何よりも、まず、サレジオ会の事業で働いている私たちのために書かれたものなのである。まず私たちのため、先生のため、そして父兄のために書かれたものである。
                 この本の中に紹介されるドン・ボスコ関係の文献のうち、その重要なものは、およそ100年前(一八七七年〜一八八四年の間)に書かれた。それはドン・ボスコが帰天する前の最後の十年間に当たる。ある意味で、ドン・ボスコの精神的な遺産である。ドン・ボスコ自身が書いた一生涯の貴重な経験の結果とも言えよう。時代と環境の違いを考慮して、現代の日本の教育の現状を念頭におきながら、それぞれの訳文の前に導入の説明文を加えたり、注を入れたりした。また、現代用語に合わせるため従来の翻訳を再考した。なお参考のために、ドン・ボスコが教育の原点としていた聖書の箇所や、ミッションスクールの存在にかかわる教会法や、サレジオ会の公文書関係の何箇所かを加えることにした。
                 聖書の中に洗礼者聖ヨハネについて、「神より遣わされた人がいた。その名はヨハネであった」と書かれてあるが、同じようなことはヨハネ・ボスコについても言えるのではないかと思う。彼も「光を証明するために来た」のである。ドン・ボスコへの忠誠を誓う意味でも、その帰天一◯◯周年(一九八八年)の準備として、この一冊を日本のサレジアンファミリーの皆さまに捧げたい。 (G・コンプリ)
                 

                第一章 ペトロの否認の予告2

                2016.01.15 Friday

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                  安田 貞治 神父著『最後の晩餐の神秘』緑地社発行 より

                  第一章 ペトロの否認の予告 

                   《ペトロは、「主よ、なぜ今、付いて行けないのですか。あなたのためには命も捨てます」と言った》(ヨハネ13・37)

                   ペトロは主の言葉に対して、どこまでもイエズスに従う決心で、命を捨てても従うつもりであると答えた。そのことは、あくまでもこの世界で従うことにほかならなかった。彼の信仰は、肉体的に、自然のあり方によって主に従っていればいるほどに、完全に主に従うことになると解釈していたようである。それは具体的であるが見える形の偶像の信仰とほぼ同じ種類の信仰にほかならなかったようである。
                   イエズスが弟子たちに、自分に従って来なさいと最初に命じた信仰は、後になって完成された霊的な信仰ではなく初歩的な信仰であった。それは不完全なもので、よく言われるように薄い信仰であり、準備的信仰の段階であった。弟子たちのいたらない行動や不信仰は、主に時には叱られ戒められた。「信仰の薄い者、なぜ疑ったのか」(マタイ14・31)。ペトロが湖の上をイエズスと同様に歩こうとして沈みかけたとき、叱責された言葉である。
                   ペトロは、イエズスのためなら、自分の命を捨てても惜しくはないと思っていたので、イエズスが敵に殺されるなら、自分も殺されたいと願うのであったが、これはあくまでもイエズスの身を守ろうということで、そのために殺されてもしかたがないというものであった。よく言われるように、絵にかかれた餅を食べようとするようなもので、ペトロの死についての考えはまだ実感を伴うものではなかった。その時のペトロも、今日のわたしたちも、人間の死は何を意味するかよくわかっていない。多くの人が死はあの世に移ることと知ってはいるが、また、死滅して全く存在が無に帰すると考えている。人間にとってこの世に死ほど恐ろしいものはないけれど、人は死んで行くとき、あきらめて無になると、夢のような気持ちで気楽に考えている者もある。死はその人にとって、いちばん大切な役目を果たしているのではないだろうか。この世に生まれてくるのは喜びであるが、この世界を去って行くのは、わたしたちにとってやりきれないものである。神の国、天国を信じて、それを目指して死んで行ける人は、まことに幸いであろう。イエズスの十字架の死はまことに残酷のかぎりを尽くした苦しみの死であったが、それは人類の罪を贖うために支払われた神の正義における身代金であり、愛であった。イエズスの死は、神の国、御父の神性のうちに帰る死であって、わたしたちもこの師にならって死んで行くために、今は信仰のうちに生きているということなのである。 
                   

                  第二章 イエズスは真の<ぶどうの木>

                  2016.01.09 Saturday

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                    安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

                    第二章 イエズスは真の<ぶどうの木>

                    《「わたしは真のぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である」》(ヨハネ15・1)

                     イエズスは弟子たちに、はじめて、わたしはぶどうの木である、とたとえ話の形を用いて神秘体のことを話された。福音の中で「一人の地主がいた。彼はぶどう園を造り、その周りにかきねをめぐらし、またその中にしぼり場を設け、物見やぐらを立て、これを小作人たちに貸し与えて、遠方に旅立った」(マタイ21・33)とあるのを思い出す。そのたとえ話に関連して、自分が本当のぶどうの木であると告げている。天の御父はその栽培者であり農夫である、と言う。ぶどうの木は、他の種類の木と違って建築用材や道具類には用いられない木で、実を結ばなければなんら役に立たないものである。ぶどうの木はどんなに枝を広げて青々と葉が茂っても、美しい果実を結ばなければ栽培者にとっては無益となるものである。わたしはかつてぶどう園を訪れたとき、素晴らしい収穫をおさめている光景に驚いたことがある。わたしたちも、美しく実ったぶどうの実を見れば幸福感に満たされる。生い茂った百年以上もたった一本のぶどうの木に出合ったこともある。広い畑いちめんにおおいかぶさるように、無数のぶどうのふさがぶらさがって色づいているのを見て喜んだものである。
                     イエズスは、最後の晩餐ともいうべき場にのぞんで「わたしは真のぶどうの木である」と言って、これから自分の前に立ちはだかる運命である苦しみと死の深い意味を教えた。イエズスの生涯は、人間としてこの世において自由奔放に生きて喜ぶことではなくて、ぶどうの木のように明けても暮れても栽培者である農夫の意志と計画に任せて従う生涯であった。もっぱら天の御父のご意志に従って、人類の救いの計画の実現に努められたのである。その計画とは、人間である自分の肉体の苦しみと血を流しささげて死ぬ、愛の奉仕であって、人びとの罪を贖うことであった。天の御父に対して、人類の贖いの果実を、ぶどうの木のようによく熟した実としてささげなければならなかった。その意味を踏まえて「わたしは真のぶどうの木である」と言われたのは、まことにふさわしいたとえであった。


                    《わたしに付いていて、実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる。しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、父がきれいに刈り込まれる》(ヨハネ15・2)
                     キリストはぶどうの木であって、その幹につながっている無数の枝も、木の全体を通して流れている生命は同じである。キリストの命が流れ通っているので、幹につながっている枝の先ざきまで一つの生命に生かされているのである。命がかよっていない枝があれば、外面的に見ていかに強くかたく結ばれていてもやがて弱り、ついに枯れきって死ぬのである。枯れ木に花を咲かすと言ったおとぎ話もあるが、それは真実ではない。イエズスのこの世における生活は、天の御父の計画の中にある意志に仕えて、愛の行為を実現することにその目的があった。その愛の行為は多くの実を結んで、人びとの救いとなるものであった。彼が世において語った言葉は、そのまま天の御父の言葉であり、それを真に受け入れて、信仰をもって彼に従う者は、彼と同様に御父の愛の実を結ぶことになる。
                     御父がぶどうの木の栽培者であって、この上なく丹念にぶどうの木であるイエズスの人性に手入れをしている。たとえ、彼の福音を聞いていようと形だけの信仰でキリストのぶどうの木の幹、本体につながっていても、彼の言葉を守らなければ、自分の利欲の虫にとりつかれて自己愛の虫を養っていることになる。これはキリストの生命に真に生きることではなく、害になるので、イエズスの種まきのたとえにもあるように栽培者である農夫から切り捨てられる枝となる。「ある種は道ばたに落ちた。すると、鳥が来てそれらをついばんでしまった。ほかの種は土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、日が上ると根がないので、焼けて枯れてしまった。ほかの種はいばらの間に落ちた。やがていばらが伸びて、それらを覆いふさいでしまった。ほかの種はよい土に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となった」(マタイ13・4~8)。キリストの愛である生命にかたく結びつくこともなく、自分の自然の命の愛欲に基づいて、自愛と欲の慰めを求め、快楽と名誉のとりこになって働くのであれば、真のぶどうの木の実を結ぶことはできない。「わたしの言葉を聞くだけで実行しない者は、砂の上に家を建てた愚かな人にたとえられる」(マタイ7・26)とぶどうの木であるイエズスは言っている。実を結ばない枝に葉だけがどんなに豊かに茂っても、無用なもので最後は切り取られてしまう運命である。御父はキリストのぶどうの木の枝である信仰者に聖霊の働きと賜物を与えて、手入れをしているが、それにもかかわらず、枝である人自身がわがままなふるまいをして、この世の魅惑に引かれて欲の生活をするならば、結局は実をつけることはないのである。

                    (絶版)
                     

                    第一章 ペトロの否認の予告 

                    2016.01.08 Friday

                    0
                      安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より

                      第一章

                      ペトロの否認の予告

                      《イエズスはお答えになった。「わたしのために命を捨てるというのか。よくよくあなたに言っておく。あなたが三度わたしを知らないと言うまで、鶏は決して鳴かない」》(ヨハネ13・38)
                       ペトロは自分の自然の能力によって、イエズスの後について行かれると思っていた。この世の人、わたしたちも自分の能力とか行いを信じて、キリストに従えるものと思ってわずかな信仰を過信しているのではあるまいか。あたかも自分の能力、修養、努力によって得た学識で聖人になれるかのように思いがちである。ある神学者が自分の知識を誇りに思ってか、神学を知らない人が信仰生活において往々にして間違った行動をとっていると述べた文章を見たことがある。それは間違いではないが、信仰の弱い人を蔑視することなく、助け力づけるのが神を愛する働きではあるまいか。信仰は聖霊の恵みに応じて働くものであるとすれば、それが大であっても小であっても、一も二もなく神の愛の働きであると思われる。神は信仰の弱い者をもそれなりに支えてくださる。イエズスがペトロに対して彼の自前の信仰宣言に全く信用を見せず、彼の罪をはっきりと預言した。ペトロの自信にみちた信仰告白は、鶏が時を告げる声にも等しく、むしろ劣っていると言うのであった。無心の鶏は時を告げて真理を告白するが、ペトロの信仰告白はかえって偽りを告げるものであった。人間自身から出る信仰は、神の霊による信仰でないから真理の証明にはならず、偶像の神にささげるものと同様である。そのような信仰告白を聞いてもイエズスには少しも慰めとはならなかったばかりでなくかえって悲しく思えたであろう。わたしたちのひとりよがりの信仰は、つね日ごろこの程度であると知らされるのであるが、わたしたちはそれに気がついていない。わたしたちが神に全く身をささげる祈りとか、誓願文、聖母に身をささげる奉献文などは、それなりに立派なものであっても、人間が作成したものであるからペトロの信仰告白と似たりよったりのものであるかも知れない。ただ自分の心を慰めているにすぎないとすれば、猛省すべきである。ペトロの場合、自分の心に偽りがあったとは言えず、また精一杯の正直な告白であったことは確かであるが、謙遜の心を欠いてひとりよがりの傲慢の心に支えられていたので、誤りを犯しているその慢心の信仰はやがて神のみ前に碎かれる運命にあって、新しく聖霊によって生まれかわるべきものであった。


                      父への道であるイエズス

                      《心を騒がせてはならない。あなたたちは神を信じている。わたしをも信じなさい》(ヨハネ14・1)
                       二つのことをイエズスは弟子たちに命じている。神を信じることと、イエズス自身をも神と同じ程度に信じることを要請している。ユダヤ人の間において、また今日の人びとにもたびたび問題になることは、人間イエズスを神と同様に信じることができるであろうかと言うことであった。それだからこそ、弟子たちに対して、心を騒がせてはならないと、前置きして注意を促したのである。それは他人の意見に惑わされず、静かな心をもってこれまでのイエズスの言葉や奇跡を受け入れて、素直に信仰しなさいということである。まことに神を信じる信仰は、何ものにもとらわれることなく、いかなる権力や勢力にも支配されない自由に澄みきった良心で神の言葉を受け入れることである、と教えている。全身が目であるように、三位一体の神である御父を受け入れることが第一に必要であることに注意を促している。そればかりでなく、同時に三位一体の御子であるイエズスをも同じように信じなさいと命じている。イエズスは、唯一の神性である三位一体の御子のペルソナである自分を指して御父と御子は同一の神性を家として永遠から実在して住んでいる、御父のペルソナを父として信じる者は御子のペルソナをも神と信じるのが正しい信仰であると言う。この見える物質の世界に人間としてあらわれたイエズスが、人間の仲間のひとりとして働き、弟子たちの間に先生として教え、言葉と奇跡、しるしをもってそえを神の業として証明した。その証明が完全に実現されるのは、弟子たちのためであって、それは父の家の準備となると教えている。
                       イエズスが全精力をかけて教えた神の福音の言葉にふり向きもせず、ないがしろにして通り過ぎる者は、この世の幸福を満喫できたとしても、やがて死がやってきて滅びてしまう運命にある。いくら人間的信仰が外面的に立派に見えても、真実が伴わなければ消えて無になる。それは永遠の真理である神の愛に基づかないからである。天地創造の神と人類の罪の贖い主であるイエズス・キリストに基づかない架空の信仰であれば、滅びに至るものと見なければならない。イエズスは別れの最後の晩餐の席上において、本当の信仰が弟子たちにあるように願っている。 

                      (絶版)

                      34 イエズスはエルサレムへ戻る。

                      2016.01.07 Thursday

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                        34 イエズスはエルサレムへ戻る。ケリオットのユダが神殿で話す。ゲッセマニにて

                         イエズスは熱心者のシモンとエルサレムにいる。道に行商の人たちと小ろばの行列が続くところへ割って入って、イエズスが声をかける。
                        「ゲット・サンミへ行く前に神殿へ行きます。その神殿で父に祈るために」
                        「先生、それだけ?」
                        「それだけ。ここエルサレムでは泊まれません。明朝、魚門で集まりがあるので、他の羊飼いたちにも会いたい。この人たちは全パレスティナの方々へ散らばっており、羊たちを集めて、その群れの主人である私の名前を知らせ、私のもとへ来させるために」
                        「あなたのような主人を持つことは何と甘美なことか。羊たちはあなたを愛するに違いない」
                        「羊たちはそうですが、雄山羊はそうでもない…ヨナに会ってからナザレトへ行き、それから、カファルナウムへ。シモン・ペトロと他の弟子たちは、私がこんなに長く留守をしているので苦しんでいると思います。弟子たちと私自身の喜びのために行きます。夏だし、そうした方がいいと思います。夜は休むためのものだから、眠りを犠牲にしてまで真理のことばを聞こうとする人は、ほとんどいない。
                         人間…おお、人間というものば! あまりにも自分の霊魂を忘れ、肉体のことだけを心配し、気にしています。
                         昼は太陽が焦がすので、道や広場での伝道はできないから、私の弟子たちに教えに行きます。緑が涼しく、水が冷たい私の優しいガリラヤ。おまえはそこへ行ったことがありますか」
                        「いつか、医者から医者へと巡礼をしていた時代、冬でしたが、そこを通って気に入りました」
                        「おお、美しい国です! いつでも。冬もそうだし、他の季節ならなおさら。いま、夏の夜は天使の夜と名づけたいほど清く、天使のように心地良いものです。山に囲まれた湖は、神を探す人々に神のことを話すためにわざわざあつらえたように見えるほどです。それは緑の中に落とされた青空の断片です。岸辺までオリーブの木がなだらかに続き、ナイチンゲールの鳴き声に満ちています。この小鳥たちも、これほど優しく静かなところに生かしてくれている創造主に賛美を歌っている感じです。
                         そして、わがナザレト! 太陽の真っ白い接吻に、緑にあふれた笑顔を見せるかのように、大ヘルモンと小ヘルモンの山々の間に広がり、遠くにはタボル山が見え、頂上が明るい日射しに包まれるときはバラ色のアラバスターとなり、その反対側のカルメル山に太陽があるときは青い宝石のように輝き、また大理石と水の脈のように森や草原はさまざまの色の中で微妙なアメジスト色が目立ち、夕方には紫から水色へと変わるエメラルドのようである。南側に下っていくエスデレロンの豊穣な花咲く平原。
                         それから…それから…ああ、シモン、そこには一輪の花があります。孤独に生き、自分の神と子供のために清らかさと愛の香りを放ち、生きている! 母が。シモン、おまえが母を知ったら、この世で、その愛くるしさで母に似ている人がいると思いますか。いはしないのが分かります。母は美しい。でも、その心、内面からの派出とは比べものにならない。この世は、私にすべての悪をもたらしますが、私はこの世のすべてをゆるします。なぜなら、この世に来て、この世を贖うために、この世の大いなる謙遜な元后をもらったからです。この世は母を知らないけれど、母によってすべての恵みをもらい、なおさら未来はそうなります。
                         早、神殿に着きました。ここではユダヤ人の宗教の形式的な様式を守ります。しかし、まことに言うが、神の真の家、聖櫃は母の心です。その清い肉体がベールとなり、そこにすべての徳が刺繍のように飾られています。」
                         神殿に入って、第一段を上り、一本の廊下をまた歩いて第二段を上ろうとしたとき、
                        「先生、群衆の中、あそこにユダがいます。ごらんください」と、シモンが呼び止める。
                        「ファリサイ人と衆議会の人々もいるが、何をしゃべっているか聞きに行ってもよろしいですか」
                        「はい、よろしい」
                        「大廊下のそばでお待ちしています」
                         シモンは足早に去り、聞き取れる所まで進み、姿を隠せるように群衆の間に紛れ込む。ユダは大きな信念を持って話している。
                        「ここに、皆さんがよく知っており、かつ尊敬している人々がおられます。私がどんな者であったか証できる人々です。それで私は、イエズスが私の心を変えたと言えます。最初にイエズスに贖われた者は私です。あなた方のうち、多くの人は洗者ヨハネを尊敬しているが、ヨハネはイエズスを”神の小羊”と呼び、エリアに勝る人だと言っています。洗者が天からの声”これは私が嘉する子です”と言ったとすれば、イエズスがメシアであるのは間違いない。イエズスはそうだと、誓って言える。私は学問のない者ではなく、また愚かでもない。あの人こそキリスト・メシアである。私はそお御業を見、そのことばを聞いて、はっきりそう言えます。メシアはあの人です。奇跡の主人で、いろいろな病気や不幸はイエズスの声を聞いて、死んだかのように落ち、その代わりに喜びと健康が与えられます。なおさら、心は体よりも変わります。私を見ても分かると思いますが、治してもらいたい病人などがあったら、明朝、暁のときに魚門のところへ連れて来なさい。そこにイエズスがいて、あなた方を幸せにします。その間、私はその御名で、貧乏人のために、わずかな金を与えます。」
                         ユダは二人の足なえと三人の盲人と一人の老婆に施しを与えると群衆にいとまを告げ、アリマタヤのヨゼフとニコデモと、私の知らない他の三人と一緒に残る。(1)
                        「ああ、何と気持ちがいいんだろう」とユダが叫ぶ。
                        「いまは何も持っていません。あの人が望むような人となりました」
                        「本当にあなたが分からなくなった。冗談だと思っていたが、あなたが真剣にやっているのが分かった」とヨゼフが言う。
                        「真剣ですとも。だれよりも自分自身が分からなくなったのは私です。あの人に比べると、私は不浄な野獣にすぎない。しかし、相当変わりました。」
                        「それなら、もう神殿に属さないと決めたのですか」と、私の知らない三人のうちの一人が問いかける。
                        「もう私はキリストのものです。あの人に近づく人は毒蛇でない限り、あの人を愛さずにはいられない」
                        「あの人はもう、ここには来ないのですか」
                        「いいえ、来ますよ。だが後で、いまではない」
                        「私はあの人の話を聞きたい」
                        「ニコデモ、以前にここで話したことがありますよ」
                        「知っている。私はガマリエルと一緒にいて、あの人を見たけれども立ち止まらなかった」
                        「ニコデモ、ガマリエルは何と言ったのですか」
                        「だれか新しい預言者だと言った。それだけ」
                        「ヨゼフ、あなたは私が知らせたことを言わなかったのですか。あなたはガマリエルの友人ではありませんか」
                        「伝えたけれど、答えはこうでした。『もう私たちには洗者がいるが、律法学士たちのことばによると、先駆者と王の到来に民衆が準備するために、少なくとも百年かける必要があると言われている。しかし、時はもう完成されているので、それほどはかからないと思うが』と言い返し、続けてこう結びました。
                        『しかし、私はこのようにしてメシアが現れるのを認められない』と。また、
                        『いつかの日、あの人のことばを聞いて、天の稲妻(2)と思い、メシア時代が始まったと思ったが…それから長い沈黙が続いたので、私は間違ったのではないかと考えている』とも言いました」
                        「もう一度、話してみなさい。もしガマリエルが私たちの側に立ち、また、おまえたちもそうすれば…」
                        「ああ、そんなことは勧めたくない」と、見知らぬ三人のうちの一人が口をはさむ。
                        「衆議会の力は強大で、アンナが奸智と貪欲をもって衆議会を思うように動かしています。あなたのメシアが生き残りたいならば、そのまま隠れているようお勧めする。もしも力で干渉しないならば。しかし、あの場合はローマがいる…」
                        「衆議会でもあの人の話を聞けば、回心するはずです」
                        「ハッハッハ」と、三人の見知らぬ人たちは笑って言う。
                        「ユダ、あなたが変わったとは思っていたが、まだ頭だけはちゃんとしていると思っていた。あなたがイエズスについて言っていることが本当だったら、衆議会があの人についていくと、どうして考えられるか。
                         ヨゼフ、さあ、おいで、これは皆にとってよかろう。ユダ、神があなたを保護しますように。あなたには本当にその必要がある」
                         そして、皆、行ってしまう。ユダはニコデモと一緒にそこに残る。
                         シモンはこっそりその場を離れ、イエズスのもとに戻って来て、
                        「先生、ことばと心をもってざん言の罪を犯したと告白します。あの人のことをどう考えてよいやら分からない。あなたの敵とさえ思っていたのに、私たちの中でも良くあなたについて話、それほどまでにする人はいない。とりわけ、まず弟子、それから先生を亡き者にしようとする憎しみが盛んである、ここで貧乏人に金を配ったり、衆議会員たちにも話しかけるのを見た…」
                        「シモン、おまえがちょうどその時にユダの話を聞いてうれしい。いろいろ非難を受けるとき、他の弟子たちにもその話をしてもよろしい。”私は罪を犯した”という、おまえの正直さは、私が受けた喜びと、悪人と思っていたのにそうではない、と考えた弟子のために、主に感謝しています」
                         二人は長く祈ってから、神殿を後にする。
                        「ユダはおまえを見ませんでしたか」
                        「いいえ、絶対に」
                        「では、ユダには何も言わないで。あの人はひどい病気の霊魂ですが、ほめことばが、回復にむかう病人に与えられる食べ物のようなものです。あの人は、注目されたと知ると、さらに悪くなります。また、傲慢が働くときはろくなことはない」
                        「では、黙っています。これからどこへ行くのですか」
                        「ヨハネのところへ。この暑い盛りのときは、橄攬山の家にいるはずです」
                         二人は猛烈な太陽に灼きつくされそうな道を歩きながら、日陰を探しながら、まぶしい田園地帯とオリーブ園地帯を抜けてゲッセマニにたどり着く。
                         扉のところにカーテンがあり、暗くて涼しい台所の隅でヨハネが、うつらうつらしている。イエズスが呼ぶと、
                        「ああ、先生。夕方、おいでになるとばかり思っていました」と驚く。
                        「ヨハネ、きょうはどうでしたか」
                        「私は牧者を失った小羊のようでしたが、皆にあなたのことを話していました。あなたについて話すだけでも、何だかあなたと一緒にいるような感じがするから。親戚や知り合いやよその人たちに、たくさん、あなたのことを話しました。また、足なえに施しをし、ある門の前で他の女たちと一緒に話をしていた私の母と同じくらいの年ごろのああわれな女に『なぜ泣いているのですか』と聞くと、その女は、『お医者様に”あなたの娘さんは肺病で、もう手遅れです。十月の最初の夕立のころに亡くなります”と宣告されました。私にはその娘しかありません。まだ十五歳の美しい良い娘です』と答えました。私はその母に『信仰さえあれば、娘さんを治せる医者を知っています』と言いましたが、『もうだれも娘は治せません。三人もの医者に娘を診てもらったけれど、もう喀血までしているのです』
                         でも、私は説得しました。『私の言う医者は、他の医者とは違います。薬で治療するのはなく、自分の力で治します。その人はメシアです』すると、一人の老婆が『おおエリーザ、信じなさい。その人のおかげで見えるようになった盲人を知っています』と勧めたので、母親は『気を落とさずに、信頼してあなたを待っています…』と言っていました。
                         これでよかったですか。こうしかできませんでした。」
                        「よかったとも。今晩、おまえの友人たちのところへ行きます。それから、ユダに会いましたか」
                        「いえ、会っていません。でも、私に食べ物と金を送ってきたので、それを貧乏人に配りました。それに、自分の金だから使ってもよいと言ってくれました」
                        「そうですね。ヨハネ、明日ガリラヤの方へ行きましょう」
                        「ええっ? うれしい。シモン・ペトロのことを考えています。どれほど喜ぶか分かりません。ナザレトにも、夜、立ち寄るのですか」
                        「そう。ペトロとアンドレア、おまえの兄のヤコボを、そこで待つつもりです」
                        「では、私たちはガリラヤに残るのですか」
                        「少しの間」

                        (1)衆議会員かそれともファリサイ人らしい。
                        (2)ガマリエルは、少年イエズスに神殿で出会ったときのことを暗示している。