第十四章 教会側とマスコミ ③
2015.12.31 Thursday
『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
第十四章 教会側とマスコミ 温泉にて
姉妹笹川は、生来病弱で、少女時代から年に数回はあちこちの湯治場めぐりをしたものであった。こんど奥原医博のすすめで送られた矢立温泉も、馴れた古巣のごとく、傷ついた心身をあたたかく迎え入れてくれるものとなった。
人里はなれた山奥で誰にも知られず、宿主の恩情にのみ見まもられて、静かに過ごす孤独の日々は、卓効ある温泉とともに、大きな救いをもたらした。もっとも、祈りひと筋の修道生活を求める者としては、毎日のミサもなければ御聖体もないさびしさは、何にまぎらわしようもないものであったに相違ない。
長上である伊藤司教も、三ヶ月の滞在中に三回ほど、日帰りで見舞われたのがせいぜいであった。私も月に一、二度、百七十キロの道のりを電車とバスを乗りついで御聖体を持って訪ねる程度であった。そのたびにキリストの御受難を話題にとり上げ、精神の支えとするよう、すすめた。彼女もその黙想に力づけらえている、と答えた。
”精も根もつきはてた”と先にみずから表現したこのたびの試練が、どれほどのものであったかを理解するために、彼女のおかれていた状況をあらためて見直しておきたい。
たかが一日 ”洗脳” されたという程度のことで…と考える向きもあるかもしれない。だが元来、修道院の共同生活を人並みにおくるのが精いっぱいの体力でしかなかった。しかもこの時は、五月二十一日に母を亡くした直後であった。すでにこの年・一九七六年の始めに、最愛の父の死に遭った。こんどは母…苦労をかけ通した母、虚弱に生まれ、大病、十一回の大手術、二回の臨終の秘跡などで心労を負わせつづけた母、との永別であった。悲嘆の重きは弱い身体をうちひしぐものであったに相違ない。
その悲哀の底からいきなり東京へいわば引き立てられ、(もちろん家族は反対したが)エバンジェリスタ師の前に出頭させられたのである。なお、身近にくらすわれわれもつい忘れがちなのだが、当時彼女はまだ全聾の状態にあった。耳が全く聞こえないということは、不自由などという程度のものではないらしい。一切の音が消失している不安は、どんなものか。背後から危険がなだれ落ちて来てもわからないのである。覚えた読唇術とカンの良さで、日常生活を破綻なくこなしていたが、神経の休まることはなかったのではないだろうか。
エバンジェリスタ師の前に置かれるや、たてつづけの説諭となる。達者な日本語とはいえ、外人の唇を読み解くには、相当緊張がつづいたであろう。しかも、思いもよらぬ超能力とやらの持ち主と決めつけられ、多くの人を欺いたとの宣告を延々と聞かされる。神と人への奉仕にのみ喜びと生き甲斐を見いだしていた者にとって、この痛烈な打撃は、張りつめた気力でもこたえて来た生命力の根底を衝くものであった。髪の毛の逆立つほどの恐怖から疲労困憊におちいったのも、無理からぬことと思われるのである。
桜町病院の三週間も、静養よりは心身の煩わしい検査に明け暮れた。ようやく帰途についても、飛行機の着陸時の衝撃が弱い内臓にひびき、車椅子ではこび出される、という有様で、まったく試練に次ぐ試練の日々だったのである。
そういう姉妹笹川に、矢立温泉の静寂は、何よりの安らぎをもたらしたようである。私の見舞うごとに、少しも淋しくない、と洩らし、”御受難” の話に力を得る、と言いながらも、べつに沈痛な面持ちを見せることもなかった。もともと人なつこい性格なので、宿主一家や湯治客たちとすぐに仲よくなったらしい。
何よりのたのしみは、山の小鳥たちの訪問だった、という。窓のふちに菓子のかけらをならべておくと、次々と食べに来る。指先からもついばむ。腕や肩や頭にまでとまる。警戒心のつよいセキレイまで遊びにくるので、宿の人びとの評判になった。
なお、一方で”守護の天使”の訪れも、エバンジェリスタ師の「もう現れることはない」との断言にもかかわらず、つづいていた。たびたび傍らに姿を見せて、優しい微笑をもってはげまし、時にはロザリオをともに唱えられた、という。
こうして三ヶ月が経ち、さわやかな秋風とともに、体調もおもむろにととのい、修道生活に復帰できるようになったのであった。
摂理のままに
姉妹笹川は前の生活にもどったが、修院内の空気は以前と一変していたことは先に述べた。姉妹たちは、あれほど感銘を受けた聖母像のふしぎも、”超能力説”で片づけられてしまえば、対応の仕方にとまどい、おちつかぬ精神状態にあった。当然、”張本人”と名ざされた姉妹笹川に前と変わらぬ親愛を示すことはむずかしかったであろう。
私自身は、聖体奉仕会報に、聖母像に関する出来事を相変わらずとり上げ、事あるたびに報告し、こうした不思議な現象は神のはたらきかけによるものではないか、と素直な受け取り方を暗にすすめていた。
しかし、先の一九七六年五月一日の聖母像の涙の詳細を発表した時点で、伊藤司教から「このような報告は誤解を招くおそれがある。今は調査委員会にすべてをゆだねたから、調査の結果が出るまで沈黙を守ってほしい」との忠告を受けた。それ以後、しばらくはこの問題に一切ふれず、身辺雑記的なことを書きつづることにしたのであった。といっても、とくに印象的な事柄については、例外としてちょっとふれずにいられなかった。たとえば、韓国から一老婦人の訪問のあった際、聖母像から久しぶりに芳香がつよく感じられたこと、またこの婦人の話によれば、韓国では湯沢台の出来事はひろく知られ ”秋田の聖母の涙” という本はすでに二万部も売り切れ、信者は皆この奇跡を信じ、巡礼に来ることを夢みている、ということなどである。
もっとも、聖母像の涙は、”調査委員会” が組織されて以来、ピタリと止まって、一度も流れることはなかった。そこで私は、涙の現象も終わったものと考えるようになっていた。
調査委員会は、二年後の一九七八年に調査の結果として、秋田の聖母像の現象に関し、その超自然性について否定的結論を出した。が、そのくわしい内容は、私たちに全然知らされなかった。
かねて、伊藤司教は姉妹たちとの会合で、委員会の結論が出たら、一も二もなく従順にそれに従うように、とさとされていた。ひとりの姉妹が ”自分の良心にそむいても、なお従うべきであろうか” と反問したところ、”この場合はともかく従うことが大切である” との指示であった。
しかし、いざ司教自身が否定的結論を受けてみると、それを公表するまでには踏み切れず、良心にただならぬ動揺を感じられたようである。一九七九年伊藤司教は、ローマの教義聖省をみずから訪れ、これまでのいきさつを述べて、教皇庁の判断を仰ぐことにした。それに対し当時の教義聖省長官フランジョ・シーパー枢機卿(Chardinal Franjo Seper)「もし納得のいかない結論ならば、自身で再調査委員会をつくって、もう一度調べたらよい」との勧告が与えられた。
姉妹笹川の日記がエバンジェリスタ師によってコピーを取られたことは前述したが、第一次調査委員会は、その日記のみを検討して、全面的否定の結論を出したのであった。委員のだれ一人として(エバンジェリスタ師のほかは)実地に湯沢台を訪ね、聖母像を検分し、姉妹たちの生活にふれ、その精神状況をさぐるだけの労をとることなしに、下された断定である。日記以外に何も見る必要はない、とは驚くべき安易な責任の果たし方である。第二次調査委員会が伊藤司教の委嘱(いしょく)によって一九八〇年五月に発足するにいたり、先の調査の結論が当然明るみに出されたわけで、私は以上のいきさつを知って唖然としたのであった。又、第二次調査委員会の検討において、シスター笹川の精神鑑定を行った医師は「思考の進み具合に支離滅裂がなく、観念奔逸もない。強迫観念あるいは思考内容の異常である妄想は存在しない」と鑑定文書に書いている。この文書は、後に伊藤司教がラッチンガー枢機卿に送った一九八二年三月の報告書においても引用されている。ただ、今は調査委員会の問題に長々とかかわっている場合ではないので、いずれこの件に関しては、しかるべき折りに詳述したいと思う。
この第一次の結論を待っていた二年もの間、修院内の生活は以前同様につづいていた。
私は自分なりに検討をつづけつつ、ことの超自然性をみとめる方にますます傾いていた。
その間も人びとは引きつづき、”お涙の聖母像” の膝もとで祈ることを求めて、少人数ながら各地から来訪していた。
第十四章 教会側とマスコミ ②
2015.12.31 Thursday
『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
第十四章 教会側とマスコミ さて、先の山内夫妻の訪問の四日後、五月十七日から七日間、ほかならぬエバンジェリスタ神父の指導のもとに姉妹たちの聖修が行われることになった。これは先に調査を依頼した伊藤司教がエバンジェリスタ神父の便宜をはかるためにも賛同した企画であった。私はその間、三重県鈴鹿市の教会から、話題の聖母像をめぐる出来事に関する講演を頼まれ、留守にしていた。姉妹笹川は、これも御摂理の許されたことと思われるが、ちょうど母危篤の知らせを受け、黙想第一日の終わりに郷里へ帰った。こうしてエバンジェリスタ神父には一週間も、誰はばからず弁舌をふるう場が残されたのであった。
旅から戻った私は、姉妹たちの異様な沈黙と重苦しい雰囲気におどろかされた。数日後の日曜、ミサを終え、朝食をすませた私の居室に姉妹たちが集まって来た。あらたまって語り出すところを聞けば、エバンジェリスタ神父の黙想指導によって、自分たちの信念はぐらついてしまった。との告白である。姉妹笹川の異常性格による超能力のはたらきによって万事が作為されたことは明らかである、と専門の神学者から理路整然と説き明かされてみれば、何の反論も出せぬ自分たちとしては、その判断を信じその意見に従うほかないのである、という。
私は咄嗟に「そんなばかなことはありえない」と答えたものの、あとから思案して、又聞きでただ否定してみても、根拠のある反論とはならない、と気づいた。やはりエバンジェリスタ師のそれほど確信にみちた意見というものを直接委しく聞いた上で、あらためて事の真相を確かめなければならない、と思い返した。姉妹たちにしても、その道の権威の自信にみちた解釈で説き伏せられれば、心情的信頼はもろくも覆(くつがえ)され、信念の失せる不安に陥っても、無理からぬこと、と今は静かにかえりみられる。しかし、この暗く閉ざされた空気の中で、私自身の心の動揺もただならぬものがあった。マリア庭園の花をみても木をみても味気なくむなしく、絶望に近い灰色がすべてを蔽(おお)っていた。自らも足元をすくわれる動揺を全く否定できず、人間の信念というもののはかなさに、暗澹たる心地であった。
二日ほどして、私は二人の上位姉妹を伴い、エバンジェリスタ師の意見を直接たずねるべく、上京した。そして神学院の応接間に迎えられ、二時間ほど話を交わした。
彼は、姉妹笹川の日記による研究レポートを引いて説明し、彼女はもともと生まれつきの異常性格であった上に、仏教からカトリックへの改宗以前にも超能力者であったことが判明し、改宗後もこうした超能力を発揮したものと分かった、という。聖母像の手の傷やそこから流れ出た血、汗や涙の現象すべてが超能力によって惹き起こされたものである。すなわち、彼女は自分の血を像の手に移しかえることができ、涙も自分の涙を転写したものである。などと、密教の修験の例を援用して、得々と説明された。
聞き終わって私は、つまり今後の研究課題は、彼女のいわゆる ”超能力” と聖母像の客観的現象とにいかなる密接な因果関係があるか、ということであろう、と胸にきざんで、一応引きさがった。この高名な神学者の説は、すべてにおいて、私を納得させるに不充分なものであった。
一方、教区長として責任の重圧をいよいよ感じる伊藤司教は、問題をロターリ教皇大使にはかったところ、東京大司教に頼んで調査委員会をつくり正式に調査を始めるがよい、とすすめられた。さっそく事はそのように運ばれたが、もちろんかの神学者エバンジェリスタ師はその主要なメンバーの一人となったのである。
伊藤司教は調査委員会の指示をうけて、カトリック界の公報機関であるカトリック新聞に、”秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する” 旨の公示を出した。
その同じ頃、一九七六年六月十三日、姉妹笹川は調査委員会のリーダーエバンジェリスタ師に個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。彼はすでに自分の意見として、湯沢台の姉妹たちをはじめ、各方面に、”姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である” などと言明していた。しかし姉妹笹川本人にたいしては、その歓心を買うためか、非難めいたことは一言もいわず、慈父のごとき言動を示した。姉妹笹川は次のように回想している。「弟と妹につきそわれて来た私を、エバンジェリスタ神父様は両腕をひろげてにこやかに迎えてくださいました。たっぷりの朝食をすすめられまるでお父様のような優しさに私たちは感激しました。
それから一対一になって、午前中いっぱい、午後は五時過ぎまで、息つく間もない説得をうけました。
私は精神異常とでも宣告されるかと、ひそかに覚悟していましたが、そのような言葉は一つも出ず、超能力の持ち主だ、と言われて、はじめて聞く話にびっくりしました。何のことかと伺うと、潜在意識のことからこまごまとと説き、すべての不思議な現象は、私が無意識に超能力をもって惹き起こしている、とのことです。
― では悪魔から来ているのですか。だったらどうかそんなものは取り除いてください。
― 悪魔ではない。あなたは知らずにしていることだから、罪はない。
― でも、私はそんな特別な人間になりたくありません。それに、多くの人をだましているとおっしゃるなら、おそろしいことです。どうかそんな能力を取り除いてください。
― ともかくあなたが悪いのではなく、最初に天使のことなども真に受けて、ことをこんなにエスカレートさせた長上に責任がある、といえます。守護の天使などというのも、あれは、あなたが自分自身に語りかけているのです。
だから、今後はそんな出現を無視すればよいのだ、という警告でした。
ところが、それから十一時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、”恐れなくともよい” といつものお声を耳にしたとたん、何とも言えぬ心の安らぎを感じました。
午後のお話の始めにエバンジェリスタ神父様にその報告をしたところ、今までずっと続いて来たことだから急に終わるわけにはゆかない、私の指導を受ければ、これもすべて解決する…とまた延々とおさとしがつづきました。
私は何よりも、自分で知らぬこととはいえ、多くの人を欺く結果になっている、と言われたことに、恐ろしいショックを受けていました。おしまいには、疲労困憊で倒れそうな有様になったので、電話で知らされた妹が迎えにかけつけてくれました。
帰途のタクシーの中で、私はもうすべての気力を失い、このまま死ぬのではないか、と考えていました。
妹の心づくしの夕食も目に入らず、机にうつ伏せにして両手を頭にあてととき、思わぬ触感にビクリとしました。髪の毛が恐怖のあまりか、文字通り逆立っていて、汗と脂でコチコチになった毛が針金を植えたようにこわばり、指も通らぬ有様になっています。
驚愕の一瞬のあと、こんどは急に目がさめたような反省が湧いてきました。”これは何という有様か。これでも信仰をもっているのか。すべては神様が許されて起こったことであり、すべてを神様はご存知ではないか。自分であれこれ思い煩うなど、それこそ自分にとらわれているではないか…”こう思った瞬間、胸がスーッと開けたようで、笑いたい気分さえこみ上げてきました。泣き笑いのうちに手を上げてみると、髪の毛もしなやかさを取りもどしていました。
翌日から伊藤司教様のおはからいで、心身の検査を兼ねて桜町病院に入院しました。ベッドに横たわってみると、もう精も根もつき果てた感じで、三日三晩食べることも起きることもできず、診察もそれぞれの医師が出向いて来られる有様でした。
三週間後、二人の姉妹の迎えを受け、修院へ戻らずそのまま矢立温泉へ療養に行きました。
いくらか体力をとり戻して修道院に戻っても、以前とまるで違う空気が待っていました。それからは、まるで針のむしろにくらす心地でした。よく生き抜いて来た、という気が今になっていたします。でも入院中からして、体力も気力も衰え切った時は、もうこのまま召されたほうがどれほど幸せか、と何度思ったことでしょう。…」
しかもこれは、十年の歳月に痛みをやわらげられた上での控え目な述懐である。
表面上、人びとは親切であった。病院の医師も、面とむかっては精神異常を否定し、ノーマルだと断言しつづけたが、委員会への報告には、特殊なヒステリー性をほのめかしている。
修道院の目上も修友も、やさしくいたわってくれるが、今や自分の信用は地に落ち、ことごとに疑いの目でみられていることを、痛いほど感じさせられる。
指導司祭としての私の洩らした”十字架上のキリストは、誰からも信じられず、見放されていた”との一言に、必死にすがる支えを見いだしていた、とのちに告白している。
不信の中の孤独というあらたな試練の日々が、始まったのであった。
第十四章 教会側とマスコミ
2015.12.30 Wednesday
『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
第十四章 教会側とマスコミ
一九七六年五月十三日。
五月十三日といえば、カトリック信者の間では、先にポルトガルのファチマに聖母が出現された記念日として知られている。
この日たまたま湯沢台に、カトリック・グラフの編集者山内継祐夫妻が訪問、聖母像のお涙を親しく目撃するということが起こった。
すでに一年半前からカトリック・グラフは”秋田の聖母像”に関する記事を独占的に報道していた。いくつかの週刊誌もこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映するようになった。こうして世の注目を集めはじめると、かえって国内のカトリック新聞雑誌は目をそむけ、意固地に黙殺の態度をとった。私自身はカトリックの報道機関を通じて正しい情報を提出し、適正な判断をもとめたいと願ったが、ことごとく拒否された。そこでカトリック・グラフの編集者たちの革新的報道方針の熱意を頼みとして、これまでの資料を提出したのであった。
この珍しい報道は、グラフの読者層を一時ひろげたが、一方反対者の怒りも買ったようである。山内氏は「聖母像の出来事を取り上げて以来、われわれの仕事は危急存亡の瀬戸ぎわに立つことになった」と私にたびたび述べていた。
その彼が、五月十三日にはからずも自身の目で聖母像の涙を確認することとなった。その報告記事には、まずそれまでの苦しい心境の告白が述べられている。
「(聖母が)メッセージを広く伝えよ、と命じられたと聞いて、グラフではすべてを書きました。私たちとしては、この使命ゆえにこそグラフが刊行され続けているのではないかとさえ思っています。そうでなければ、司教団首脳にきらわれ、資産の乏しいグラフが、今日まで生き続けることは出来なかったかもしれません。それにしても、一連の出来事のために修道院とグラフが浴びている批難は、小さくありません。ことに、私にとってはもう、耐え切れない重荷になってしまいました。…」
山内氏はなおも次の号のために、先の五月一日と二日の”お涙の現象”の目撃者たちの座談会も企画していた。重荷によろめく心境で秋田にたどりつき、御像の前にぬかずいた彼は、にがい思いを聖母に訴えかけずにいられなかった、という。
「カトリック社会に何とか真の報道機関を、と願って、私は肩ひじ張って来ましたが、もう疲れました。まったく余力がありません。これまで毎月の経済的危機を乗り越えられたこと自体、あなたのお取り次ぎによる奇跡だ、と私は思っています。その恵みには感謝いたしますが…。予定される目撃者の座談会だって、しょせん誰が何を見たかを伝える形式のもの。もし出来事が真実なのなら、私にもお見せください。そうすれば私はグラフに一人称で胸を張って書くことが出来るではありませんか。…といっても、涙を出すとも出さぬもあなた次第ですね。ま、あなたのお望みどおりなさってください。とにかく私は、もう疲れました」
神の答え
山内夫妻は夜行で上野を発ったので、湯沢台に着いたとき、私たちはすでに朝食をすませ、聖体礼拝も終えていた。
山内氏の報告を追ってみると―まず聖堂の入口で夫人が聖水入れを指さし”いい香りがするでしょう”という。”べつに…”と答えると、彼女は聖水に浸した指先で何度も十字を切りながら”ほんと、今度は香らないわ”と首をかしげていた。
午後、彼ら二人はひと気のない聖堂に入った。彼が何気なく祭壇右のマリア像に目をやると、顔ばかりか全体が白々と輝くように見えた。午前に見たときは黒っぽい顔だったと思いだし、”オーイ”と夫人に呼びかけておいて、自分は聖母像に歩み寄った。
「私はマリア像に近づき、像の顔から三十センチ、いや十センチくらいの位置で観察しようとした。その鼻先に、水滴が光っていた。水滴は大粒で丸く、像の右頬に止まっている。右目が濡れて光り、下まぶたから水滴まで一筋の水跡がついている。…一歩退いて像を見たまま、出てるぞ、と私は言った。”恐い”と叫んで妻が私にすがりついた。私は像から目を離さずにいたが、頭の中では様々な思いが交錯した。…」
彼は冷静を取りもどして”天使祝詞を唱えよう”としたけれども、声の震えをどうしようもなかった。彼がゆっくりと唱えはじめたとき、夫人は声を上げて泣きだした。(彼は生まれてこのかた、初めて無心に祈れた、といい、神がすぐそばにおられることを実感した、と付言している)
やがて彼が私の部屋にとびこんで来て「いま、涙が出ています」と告げたので、私もすぐ聖堂におもむいた。
この日ちょうど秋田教会の婦人たち二十名が、一日黙想のため来訪しており、知らせに全員集まって、御像の涙の目撃者となった。私は例によって先唱してロザリオ一環を一同と唱えた。祈りが終わったのちも、聖母像の木肌の涙にぬれた部分が赤く染まっているのが目についた。
山内氏の記事はこう描写している。
「ロザリオの祈りが一環の終わりに近づいたとき、像の胸元の濡れがすうっと消えていった。あ、涙が消えてゆく、消えてゆく…と思っている間に、絵にかいたような消失ぶりである。そのとき私の位置からは、頬の涙やアゴの涙は確認できず、胸元のにじみの変化だけが鮮やかに目に映った」
そして”現象”が終わったあと、彼は「これが神の答えだな」と確信し、苦しくとも辛くともグラフ刊行を続けよ、との神の意志を感じ取ったという。
こうして、カトリック・グラフはその後数年間は発行をつづけたのであった。
増大する試練
このようにカトリック・グラフが”秋田のマリア像の涙の出来事”を確信をもって大々的に報道するにつれ、反対と否定の声も四方から高まってきた。
当事者のうちでも最高の責任者である伊藤司教は、騒ぎをそのまま傍観していたわけではない。すでに一年ほど前、神学者の中でもマリア神学の研究で知られるエバンジェリスタ神父に依頼して、ことの真相を究明するようはかっていたのである。そこでエバンジェリスタ師は湯沢台を訪問、姉妹(シスター)たちと会い、姉妹笹川を観察したついでに、彼女の日記を貸してほしい、と申し出た。彼女はそれを私に告げに来て、どうしたものか、とたずねた。あちらの言い分では、安田神父の記事は良いことばかり取り上げ、悪い方面には少しもふれていないので、正当な判断のための資料とならないから、とのこと。そう聞いて私はしばらく考え、何も隠しだてをすることもない、真偽をたしかめるため必要とあらば、日記をそのままお貸ししなさい、と答えた。
この日記はエバンジェリスタ師によって完全にコピーされ、一年後に彼女に返された。これを証拠資料のように用いて、姉妹笹川は異常性格者、超能力所有者に仕立て上げられたのであった。
この烙印によって決定的となったおそるべき試練は、姉妹笹川の上に、ひいては彼女をめぐる人々の上に、十年間、すなわち一九八四年の復活の祝日、教区長伊藤司教の公式書簡によって、事実の超自然性がみとめられるまで、つづいたのである。
16 エジプトにて
2015.12.28 Monday
カタリナ・エンメリック『聖家族を幻に見て』光明社刊より
16 エジプトにて
ヘリオポリスの途上で聖家族は、昨夜宿を貸してくれた善良な人に案内をしてもらった。一行はナイルの広い流れに架けられた非常に長くて高い橋を渡り、町の城門の前の広場に着いた。そこには柱の台座の上に牛の頭をした大きな偶像が立っていた。程遠からぬ所の高く聳えた木の下で聖家族は腰を下ろして休んだ。するとにわかに地震が起こり、その偶像を傾き倒してしまった。たちまち混乱と叫び声が民衆の間に起こり、近くの運河で働いていた人夫達が走り寄って来た。聖家族をここまで案内して来たあの善良な人はさらに一行を町へ案内した。すると町の神殿の偶像もまた転がり落ちてしまった。
聖家族は低い柱廊の下に寝起きする場所を定めたが、そこにはほかにも既に住んでいる者がいた。向かいは中庭の二つついた偶像の神殿であった。ヨゼフは自分たちの住居のまわりで働いた。
ヘリオポリスの北のゴーセンという小さな土地に大勢のユダヤ人が住んでいた。もちろん、その人達の礼拝も粗雑なものになっていた。そこに数人の者は聖家族と知り合いになり、マリアはその人達のためにいろいろな女仕事をして、パンやほかの食料を得た。しかし決してぜいたくなものや装飾品などの仕事は引き受けなかった。流行や虚栄を好む婦人たちが仕事を持って来た時、謝礼の金が差し当たってほしくても、マリアは仕事を受け取らなかった。するとかの女達はマリアに失礼な悪口を言った。
自分の住居から程遠からぬ所にヨゼフは礼拝堂を建てた。すると今までそうしたものを持っていなかった近所のユダヤ人達は祈るために集まることができるようになった。
しかし聖家族はエジプト人からいろいろと苦しめられた。偶像の転落事件で憎まれ、また迫害されたからである。
天使の知らせによりマリアはベトレへム地方における幼児達の虐殺を知った。マリアとヨゼフは非常に悲しみ、既によちよち歩きをはじめ、今は一才半程になっていたイエズスは終日泣いていた。
聖家族は間もなく僅かながらもその生活にゆとりができた。小机、低い椅子、またととのったパン窯を持つようになった。マリアはイエズスの寝台の隣りに寝たが、マリアは時々イエズすの前にひざまずいて祈っていた。
ヨゼフは別の部屋で寝た。
わたしはまた少年イエズスが始めて母のために井戸から水を汲んできたのを見た。マリアが祈っている間イエズスは革袋を持って忍び足で井戸端へ出て行った。マリアはイエズスがもどって来たのを見ると、言いつくせぬ程に感動したが、井戸に落ちると危ないから決して今後はしてはならないといましめた。イエズスはきっと気をつけるから、どうぞこれからもそうさせてくださいと答えた。
ヨゼフはあまり離れていない所で働いていたが、何か道具を置き忘れてきたときは、少年イエズスがそれを持ってきた。イエズスはいろいろな事に気をくばっていたのである。
わたしは、両親がイエズスと共に味わった喜びは、一切の困難を越えてなお余りあったと思う。イエズスはまったく子供らしかったが、しかし書き表し得ぬ程賢明でまた行いが正しかった。イエズスは一切を知り、そして理解していた。マリアとヨゼフはその事について時々非常に感動していた。
少年イエズスは母の編んだ敷物を届けに行く途中で、よくいじめられたり、侮辱されたりした。しかし後になって聖家族は非常に愛されるようになった。他の子供達はイエズスに、いちじくやなつめ椰子の実をわけ、また多くの人々が聖家族の許へ慰めや助けを求めにきた。
少年イエズスはいろいろな注文の品を届けて、ときには一マイルも離れたユダヤ人住居地までも行った。そこでイエズスは母の仕事の報酬としてパンをもらった。多くのいやな動物は少年イエズスに害を加えなかったばかりか、蛇までもまったくなついていた。ある時、他の子供達と一緒にユダヤ人住居地へ行った時、イエズスはユダヤ人の堕落について非常に歎(なげ)いた事があった。イエズスはマリアの作った褐色の着物を着ていた。 ミサの聖なる犠牲 ③
2015.12.21 Monday
マリー・アン・ヴァン・フーフへ
祝されし童貞聖マリアのメッセージにより解説された
ミサの聖なる犠牲(The Holy Sacrifice of the Mass)③
天におけるあなたへの報いは大きいでしょう! 聖体の前で5連のロザリオを祈る人は皆、他の条件が満たされているならば、全免償を受けることができるということを覚えておいてください。
天のおっしゃるところによれば、私たちは人類の歴史上最悪の日々を生きています。ノアの時代よりも、ソドムとゴモラの時代よりも更に悪いのです。ですから、現代、とりわけ神御自身の家の中で広がっている非礼と無関心に対して戦うために、できる限りのことは何でもしようではありませんか。立ち上がりましょう、そして、証しましょう! 私たちは、現代のこのような教会の状況の中で、自分たちが場違いなことをしているように感じることがあるでしょう。しかし、それを償いとして私たちの神なる主へ献げましょう。主が耐えなければならない非礼と無関心への償いとして。
ミサの聖なる犠牲
III. なぜ私たちは毎日 ミサに与るべきなのか?
毎日ミサに与ることの重要性は、聖母によって1950年の8月15日と10月7日に、マリー・アンに対して次のように強調されました。「可能であれば、毎日秘蹟を受けなさい。」さて、これは正しいのですから、私たちの優先順位において何が間違っているのでしょうか? 私たちが毎日、神にお献げすることのできる最大の祈り、最大の犠牲はミサなのです。多くの聖人は、私たちはただ単に時間をうまくやりくりしていないのだと私たちにおっしゃいました。毎日ミサに与ることができるように、時間をやりくりすることができるのに、それをしない人は、毎日怠惰の罪を犯すことになるかもしれません。確かに毎日ミサに与ることは、しばしば私たちにとって大きな犠牲です。しかし、本当に努力するならば、それは、はたして過大な要請でしょうか?
私たちは被造物であり、私たちの神に対する第一の義務は、神への礼拝、崇拝、称賛、感謝です。しかし、私たち自身だけでは、これらの礼拝をふさわしい仕方で献げることは決してできないのです。神は私たちに無限の価値を持つミサに与ることによって、私たちの祈りと試練を最も完全にする方法を与えてくださっているのです。もし私たちが世界中を歩いて巡礼して、あらゆる聖堂を訪問しても、この犠牲は一回のミサに熱心に与ることには及ばないでしょう。ミサに与ることは、カルワリオの丘に居合わせることなのです。なぜならミサは、カルワリオの血の出ない延長だからです。キリストは完全ないけにえです! 私たちは、私たちのために十字架につけられた御子以上に聖父なる神をお喜ばせするものを献げることはできません。
もし近代技術がタイム・マシンを発明して一人一回百ドルで運行すれば、人は一時間実際に聖主の磔刑と死に立ち会うために、カルワリオに行くこともできるでしょう。多くの人々が列を作っているところを想像して見てください。しかしながら、私たちのほとんどは、どんな日でも自由にミサに与ることによって、無料でカルワリオに行くことができるのです。それに加えて、聖体を拝領すれば、イエズスは肉体的に私たちのところに来られ、私たちの霊魂の中で十五分間ともに過ごされるのです。 私たちの信仰はどこにあるのでしょうか? 私たちの優先順位はどうなっているのでしょうか?
今日では、教会の建築や補修に使われるよりも多くのお金が、ポルノや不法な麻薬に費やされています。悪魔は私たちが毎日ミサに与るのを止めさせるためなら何でもやるでしょう。
あなたは人々が毎日のミサに与れない百万もの異なった言い訳や理屈づけを聞くでしょう。ある人は言うでしょう。遠すぎるとか、時間を取られるとか、仕事に行かなくてはとか、あまり体調が良くないとか。
審判の日において、熱心に与った平日のミサの数よりも、私たちの罪に対する大いなる弁護、私たちのためになるより大いなるものはないでしょう。なぜ私たちは日曜のミサを含めないのか? 日曜のミサに与ることは義務として要求されていることで、それに与らないことは大罪であるからです。平日のミサは自由になされる神への献げものであり、義務づけられたものではなく、付加的な犠牲が私たちの側に必要となるからです。
私たちが私たち自身、あるいは私たちの家族に贈ることのできる最大の贈り物は、おりにふれて私たち又は家族の救いのために、ミサを立てていただくことです。私たちが私たちの両親に、生きておられようと亡くなっておられようと、贈ることのできる最大の贈り物は、彼らのためにミサを立てていただくことです。これは父の日、あるいは母の日、あるいは両親の誕生日のための最大の贈り物です。私たち平均的なカトリック信徒は、30年間を煉獄で過ごすと諸聖人の伝記によって教えられています。
私たちのほとんどは、亡くなった親族や友人のために祈ることやミサを立てていただくことを、彼らの死後一、二年すると忘れてしまいます。
あなたはかつて、あなたの守護の天使のしてくださったことへの感謝として、ミサを立てていただいたことがありますか? 彼に何と多くのものをおっているか、考えてみてください! あなたはかつて、父の日に父なる神へ、母の日に聖母へ、ミサを立てていただこうと考えたことはありますか?
ミサ、ミサ、ミサ、もし私たちが良く与った一回のミサのい価値を認識しさえすれば、それを妨げる深刻な理由がない限り、私たちは毎日のミサに欠席することはないでしょう。諸聖人は天国への四つの鍵は、ミサ、ロザリオ、茶色のスカプラリオ、十字架の道行きであると私たちにおっしゃいました。そして、これらのうち最も重要なのは、毎日のミサなのです!
親愛なる読者よ、もし、あなたがすでに毎日ミサに与っているならば、どうかそれを続けてください。あなたが日々行うことのできるそれより偉大なことはありません!
もし、あなたがまだ毎日ミサに与っていないならば、そして、それが可能であるならば、どうか真剣に考慮してください。なぜなら、あなたが日々行うことのできるそれよりも偉大なことはないからです。あなたの救霊のため、神のため、家族のために、キリストの神秘体のため、罪人の回心のため、煉獄にいる気の毒な霊魂たちのために。
教皇ヨハネ・パウロII世聖下は、司教たちにその司法権のもとに、司祭がトリエント・ミサを献げることを許可するよう勧めることによって、より多くのトリエント・ミサを献げる許可を与えられました。もし、あなたがこれらの特典ミサに与ることができるのなら、何としてもできる限り、しばしば可能な時はいつでもそうしてください。
ミサの聖なる犠牲 ②
2015.12.21 Monday
マリー・アン・ヴァン・フーフへ
祝されし童貞聖マリアのメッセージにより解説された
ミサの聖なる犠牲(The Holy Sacrifice of the Mass)②
天は私たちに次のように警告されています。私たちのうちの多くの者が、司祭の不足、あるいは真のミサがもはや有効でなくなるほどの変化を被ることによって、ミサに与ることができなくなるであろう、ということです。それゆえ私たちはそれができるうちに、与ることのできる、あらゆるミサに与るべきです! 聖ドミニコは神の母から、神が多くの人々を聖母のロザリオと聖母の茶色のスカプラリオによって救うことを聖母に御許しになる日が来るでしょうと言われていたことを覚えておいてください。
これらの日々は近い将来であることを私たちは告げられています。なぜなら、私たちのうちのほとんどの人は、私たちが今、黙示録の終わりの日々にいるのだということに気付いていないからです。サタンはゆっくりと、しかし確実にミサを破壊しようとしています。立ち上がり、証しましょう! 私たちが神のくださった最も完璧な贈り物、ミサの聖なる犠牲を真に有り難く思っていることを神にお見せしましょう。
毎日、あるいはできる限りしばしばミサに与ることによって。もし私たちが肉体的にミサに与ることができない時には、その時、世界のどこかで立てられているミサに一致することができます。もし私たちが熱心に与ったそれぞれのミサの真の価値を知れば、あるいは理解すれば、私たちはミサに与ることなく一日を始めることはないでしょう。ミサは地上における最も偉大な行為です! それは人類の歴史上に起こった最も偉大な行為の延長であり、それは毎日私たちの祭壇の上で続いているのです。
…
サンクトゥス(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな)
天は次のことを私たちにお求めになりました。それは、オルド・ノヴス・ミサにおいてサンクトゥスから主の祈りを唱えるまでの間、右手を旨に当てておくということです。これは、オルド・ノヴス典礼では削除されてしまった全ての十字架の印の埋め合わせをするためのものです。
奉献
奉献はミサの最も本質的な部分です。ここにおいて司祭は、奉献の言葉によって、聖父なる神と聖霊、聖マリア、聖ヨゼフ、諸天使、諸聖人に伴われた十字架上のキリストを現実に祭壇上にお連れします。天はマリー・アンに、奉献の時に次のように唱えるようにおっしゃいました。「おお、至聖なる三位一体よ、今日、そして、わが生涯の全ての日々において、わが心のうちに座し給え」ここにおいて私たちは、先になした捧げ物をとって、それを完全な犠牲である十字架上のキリストと一致させます。キリストの十字架刑における全面的な捧げ物と一致した私たちの捧げ物が、私たちが聖父なる神に捧げうる最も完全な祈りにして犠牲となるように。
聖体奉挙
これはとりわけ、司祭が聖父なる神の栄えと誉れのために、至聖なる三位一体との一致のうちにキリストの御体と御血をお捧げする、最も完全な感謝の祈りです。ミサに出席している私たちはアーメン「そうでありますように」と答えます。これがミサの典礼の締めくくりです。私たちはここで神に感謝します。御子イエズス・キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに全ての被造物を聖なるものとしてくださったことに対して。
平和の挨拶
平和の挨拶は、オルド・ノヴス・ミサにおいて、神に対して非礼であり、神への敬意をそらせるようなやり方で行われています。ミサのこの時点においては、パンとぶどう酒は聖変化しており、私たちの主は現に祭壇上におられるのです。それゆえ、私たちは握手したり、言葉を交わしたりするべきではありません。しかしながら、愛徳は最も重要な徳であり、もし誰かが手を差し伸べて握手を求めてきたら、その場合はそれを拒絶すべきではありません。この、いわゆる平和の挨拶にできるだけ関わらないようにしたからといって、それで愛徳にかけているということにはなりません。
神の小羊
このとき既に跪いていない場合は、次のように唱えられる時に跪くべきです。「世の罪を除き給う神の小羊」三回唱えられる「神の小羊」において、私たちはそれぞれ各一回、右手で私たちの胸を打つべきです。
聖体拝領
絶対に手で聖体拝領してはなりません! 絶対に平信徒の侍者から聖体拝領してはなりません! 聖体は司祭の聖別された手によってのみ、あるいは例外的なケースでは、正しく叙階された助祭…男性でなければならず、女性であってはなりません…によってのみ、取り扱われるべきものです。聖体に対する不敬に加わるよりも、席に留まって霊的聖体拝領をする方が良いことです。天は跪いて聖体拝領することが望ましいとおっしゃっておられますが、もし司祭がそれを許可しない場合は、聖体拝領の直前に片膝を落として十字架の印をするべきであるとおっしゃっておられます。
そして、このとき私たちの主に対し、次のように申し上げます。「われらは跪くことを望めども、今このときそれをなすこと能わず」と。聖体拝領の時、このこと(跪くこと)をめぐって司祭と言い争ったりしないようにするのが望ましいことです。なぜなら、このようなことをすればつまづきを引き起こすことになるでしょうし、私たちは聖体における主に対して正しい敬意を払うことを常に意識しているべきであるからです。
最後の祝福
最後の祝福の時は、跪いているのが最も良いことで、たとえ現代のオルド・ノヴス典礼が立っていること許しているとしても。なぜなら、とりわけ最後の祝福は、司祭の行為を通じての私たちの主の祝福であるからです。天は次のことを明確にしておられます。すなわち、天の方々は私たちに真理を護ることを期待しておられるということ、しかし、また私たちは常に神への敬意を忘れるべきではないということ、いつどこで、私たちの立場を明らかにすべきかということをわきまえておくべきであるということです。
場合によって、それはミサの後、司祭に個人的に話す時であることもあるでしょうし、あるいは、彼に手紙を書く時であることもあるでしょう。天はまた、決して司祭を批判しないように、しかし彼のために祈るようにおっしゃっておられます。なぜなら、悪魔は彼らを平信徒よりも強く意識しているからです。司祭たちがそのようにより強く誘惑されるのは、彼らがキリストの神秘体においてイエズス・キリストを代行しているからです。
感謝
聖体拝領の後、およそ15分間、聖体は私たちと共に(溶けずに)留まっておられるということを覚えておいてください。聖体が私たちの体内で完全に溶けるにはおよそ15分かかるのです。それゆえ、この15分間、私たちの体はまさしく生ける聖櫃となるのです。私たちはミサの後も席に留まり、正しく聖体拝領後の祈りを唱え、御子の御体、御血、御霊魂、御神性という神が私たちにくださったこの麗しき贈り物に対し、感謝を捧げるべきです。われらの主に対し、愛と償いの生ける作用として一回の聖体拝領から次回の聖体拝領の時まで、留まり続けてくださるようお招きすることはとても良い考えです。
多くの人々は、ミサの後ほとんど待つことができずに出て行って、寄り集まって友人と他愛もないおしゃべりをしています。これはイエズスに対する大いなる非礼であり、私たちはこのことについて、いつの日か責めを負わねばならないでしょう。私たちがこの悪い例に加わらないように祈りましょう。仕事や義務のあるために行かなければならない場合は、教会の中で短く感謝を捧げ、仕事に行く途中かあるいは帰宅してから聖体拝領後の祈りを唱えるのが良いでしょう。
ミサの後
天は私的啓示を通して、三回の「天使祝詞」をロシアの改心のために祈るように勧めておられます。また、一回の「元后憐れみ深き御母」の祈りと、「聖ミカエルの祈り」を唱えること、そして「至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみたまえ」と3回となえることを求めておられます。他の人々が公にこれらの祈りを唱えていない場合は、黙祷でこれらの祈りを唱えることができます。ミサの前後にロザリオを祈る時間があれば、それは最も喜ばしいことです。もしそれが、まだあなたがたの教会において公に祈られていないのであれば、多分あなたがそれをミサの前か後に祈ることを最初に始めることができるでしょう。
ミサの聖なる犠牲(The Holy Sacrifice of the Mass)
2015.12.19 Saturday
The Holy Sacrifice of the Mass
マリー・アン・ヴァン・フーフへ
祝されし童貞聖マリアのメッセージにより解説された
ミサの聖なる犠牲
1. 今日における真のミサとは?
聖トマス・アクィナスは次のように言いました。「…新しい教義を告知する目的ではなく、行動を指導するために、預言の霊を与えられた人々が、あらゆる時代において存在してきた。」ウィスコン州ネセダの聖なるロザリオの元后、平和の仲介者、神と人の仲介者の聖堂において、われらが祝された御方、神の御母は、マリー・アン・ヴァン・フーフ夫人に34年間に渡って御出現になっています。それは私たちの現在の方向を改めるよう私たちを説得なさり、また今日のほとんどの人々は正道を全く外れているということを私たちに告知なさるためです。
天は今、私たちがキリスト教の歴史における最大の異端の中にいると警告しておられます。それは近代主義(モダニズム)あるいは人間中心主義(ヒューマニズム)の異端と呼ばれます。教会の中で行われた多くの「いわゆる」近代的改革は、サタンによって推進されたものです。キリスト教を破壊するための大いなる混乱をもたらすため、そしてキリスト教を世界統一宗教で置き換えてしまうために。この近代的世界統一宗教は、神を愛する、あるいは隣人を愛する、と口先で言いさえすれば、ほとんど全ての罪を容認する、まったく水増しされた宗教となるでしょう。
地上における神の教会を破壊するために、サタンは人間に与える神の最も完全な贈り物を破壊さねばならないことを知っています。それはミサの聖なる犠牲(いけにえ)です。もし彼がこれを一気に行うとすれば、良い人は反対したでしょう。しかし、悪魔はこのようなことをするには賢すぎました。それゆえ彼はあちらこちらに変更を加えつつ、ゆっくりとそれを行っているのです。ついには無価値なものになってしまうまで、ミサの本質的部分が変えられてしまうでしょう。
聖母は、マリー・アンに私たちがまさしく正道を踏み外しており、新しい指導が必要であることを私的啓示を通して明かされました。私たちが道を踏み外している領域の一つはミサを捧げることについてです。私たちは真のミサを捧げる最も完璧な方法は、西方ローマ教会のために教皇聖ピウス五世とトリエント公会議によって16世紀に許可されたトリエント・ミサであると天に言われています。天は私たちに新しい、あるいは最近の第二バチカン公会議以降に発達したミサの立て方、しばしば「オルド・ノヴス」ミサと呼ばれ、現在ではほとんどの司祭がそれによっている仕方は、水で薄められた、より敬意の少ない、より功徳の少ない、真のトリエント・ミサの変形版であるとおっしゃっています。
にも関わらず、天は「オルド・ノヴィス」ミサは有効なミサであると確認なさっています! そして、私たちは今なお、与れるミサがこのミサだけであれば、このミサに与らなければならず、可能であれば毎日与るべきです。
天はまた、トリエント・ミサにしか与ろうとせず、オルド・ノヴスは有効ではないと主張する極端な保守主義のカトリック信徒についても警告を発しておられました。これあのいわゆるカトリックは間違っており、不必要にして有害な変更を推進している超リベラル派と同様に害を及ぼしているのです。
有効なミサを成立させる四つの本質的な要素について覚えておくのが良いでしょう。それは次の通りです。
① 司祭が正しく叙階されていること。
② 司祭がミサを捧げる正しい意図を持つこと。
③ 司祭が正しい種なしの小麦のパンとブドウから採った正しいワインを使うこと。
④ 司祭が聖変化の言葉の正しい形式を用いることです。
天はまた、マリー・アンに幾つかの小さな変更は、聖金曜日の主の磔刑の予期のうちに聖木曜日の夕べになされた、イエズスによって捧げられた原始のミサの方法に戻ったものであるという理由で、許されるとおっしゃいました。それゆえ、これらは本当は変更ではなく、あるいは変更であるにしても、それはミサの厳粛さを改善するためのものです。これらの改善の一つは、ミサはラテン語で立てられても良い、という点です。あなたがたの自国の言語で行われるミサの聖なる犠牲を捧げることは、とりわけ若い人々のよりよい参加のためになるでしょう。しかしながら、翻訳は正確でなければなりません!
マリー・アンは天から次のことを言われました。すなわち、最初のミサはアラム語で立てられたのであって、ラテン語ではなかったということです。事実、ミサはラテン語で立てられる前は、長い間ギリシャ語で立てられていました。天はまた、祭壇と司祭はミサの時、人々の方に面していても良いとおっしゃいました。司祭は祭壇においてキリストを表象しているのだということを、私たちは覚えておくべきです。天はマリー・アンに、最初のミサの幻視を与えられました。そして私たちは次のように言われています。
それは、この最初のミサは一般に誤解されているように、最後の晩餐ではない、ということです。最後の晩餐の後にキリストは使徒たちの足を洗われました。しして、およそ一時間が経過してから、イエズスは使徒たちに面して祭壇でアラム語でミサの聖なる犠牲を捧げられたのです。天はまた、私たちに次のことを思い起こさせます。それはミサは最後の晩餐のような宴会ではなく、本質的に、そして第一義的に犠牲であるということです。
なぜなら私たちは完全ないけにえ―キリスト御自身―を血の出ない犠牲として持つからです。近代人はミサは難しいと思っています。なぜなら彼は犠牲の観念を失っているからです。天はまた、私たちに次のようにおっしゃいました。
マリーアンはミサの聖変化において現実に何が起こっているのかを見る特典を与えられました。この幻視はマリー・アンの描写によって、ある芸術家によって描かれました。聖変化のとき、十字架上のキリストが祭壇上に降りて来られ、神なる聖霊との一致のうちに、私たちの必要のために、御自身を聖父なる神へ御捧げになる様が描かれています。聖母、聖ヨゼフ、諸聖人、諸天使が祭壇を取り囲んでおられます。この幻視の光景を描いた絵は、この本の背表紙に印刷されています。
第二章 聖霊の介入
2015.12.08 Tuesday
安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より
第二章 聖霊の介入
《その方はわたしに栄光をお与えになる。わたしのものを受けて、あなたたちに告げ知らせてくださるからである》(ヨハネ16・14)
聖霊のペルソナは三位一体の御父と御子からの愛の息吹きとして生まれると表現されているから、人となってすべての人びとの罪を贖って、御父に栄光を帰した御子のペルソナにも同じ栄光を与えることになると説明している。
わたしたちがキリストの福音の言葉を聞いて、天にまします御父を知って、彼を信じて彼からこの世に遣わされた御子なる救い主を受け、罪の世から救われる洗礼の秘跡を受けて、聖霊の賜物に満たされ、新たに生まれさせられて神の子キリストの兄弟になることが、キリストの栄光の花として与えられることなのである。これこそ超自然の創造である誕生と言うべきである。楽園においてアダムが三位一体の神の姿に似せて最初に神の栄光として造られたが、彼はその栄光をそのまま永久に保つことはできなかった。なぜならサタンが蛇の形をとって、彼に与えられていた同伴者エバを巧妙に欺いて、神が禁じていた唯一の知識の木の実を食べさせ、ついには彼をもだまして食べさせたからである。これによって人祖が初めて神の言葉なる福音、神の約束を破って、神の知恵である真理、すなわち神の言葉なる神の子を拒絶したことになる。これが不信仰のはじめとなり、また原罪の原理が成立したのである。彼は自分自身のためばかりでなく子孫のためにも不信仰の宣言を公にしたのである。この時から人間は神の福音を離れて自らの理性の知恵を重んじて、自然を支配する知恵に従って生きることになった。それ以来、自分の知恵に全く依りすがって生きる者にとって、神の知恵はあたかも無益なものであるかのようだ。その結果として、神の永遠なる計画にあずかれず、滅びに至る運命にさらされることになる。「主は、神を認めない人々、わたしたちの主イエズスの福音い聞き従わない人々に報復なさいます」(テサロニケ書(二)1・8)
アダム以来の人類に対する神の罰を、十字架の死をもって贖罪の犠牲をささげて排除したのはイエズス・キリストひとりである。これによってキリストは新しいアダムと呼ばれ、キリストに結ばれて救われる人びとに神の栄光を、罪が犯される以前の古いアダム以上に与えることになる、とイエズスは教えている。しかし、その時の弟子たちの心理はその栄光の言葉を聞いても、今日のわたしたちと同じく心にとめることがなかったと考えられる。それは神のはかり知れない神秘のうちに輝いていても自然の中の現実ではなかった。
《父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、その方がわたしのものを受け、あなたたちに告げ知らせてくださると、わたしは言ったのである》(ヨハネ16・15)
この世で人間たるナザレのイエズスの所有物は何であったろうか。ナザレの家とか大工の仕事場、道具とか自分の日常生活に欠くことのできぬ衣類などということになろうか。しかし晩餐のときの言葉は、そういうこの世の事物ではなく、天の御父が持っているものと言っているので、それは唯一の神たる神性の栄光を指しているのであろうと考えられる。さきにも言ったように三位一体の唯一なる神が神性の働きによって、天地万物を無から創造されたのであるから、わたしたちが信仰をもって、この真理たる創造の世界を受け止めて宣言することは神に栄光を帰することになる。
近代文明のさきがけとして進化論が提唱され、やがて論は神なしの創造世界にまで発展してきた。世の科学者をはじめ哲学者までも無神論の立場をとってものを言うようになったので、世論は神なしの世界を認めるようになった。しかし宗教の世界、ことにキリスト教の世界では依然として、神の存在は輝いているものと見なければならない。それはなぜかと言えば、有限の物質の存在は無から成り立つことができず、アリストテレスの哲学的論理にも反するものであって、神なる絶対的創造者を必要とするからである。キリスト者は現代の進化論をどう受け止めているかと言えば、全知全能なる神の存在を認めて、神の知恵に従って真理と法則、秩序ある計画に基づいて創造された被造物が、徐々に進化して、今日の世界を形成したものと一応考えられる。つまり神なしの自然の創造説は無意味なのである。神が存在してこその進化論ということである。
イエズス・キリストはわたしたちと同様に人性を受けた神の子のペルソナ位格であるので、彼の神性の立場に立てば全くの唯一の神であり、人性の立場に立てば全くの人間そのものである。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と言っても、少しの誤りもないし、誇張もないので真理そのものと言うほかはない。
聖パウロはこの真理をのべてこう言っている。「キリストは神の身でありながら、神としてのありかたに固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、しもべの身となり、人間と同じようになった。その姿はまさしく人間であり、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで、へりくだって従う者となった。それゆえ、神はこの上なく彼を高め、すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった」(フィリピ書2・6~9)
それで「その方がわたしのものを受け、あなたたちに告げ知らせてくださる」と言ったことは、イエズスがこの世において行ったすべての行跡が御父のものとなって、再び弟子たちをはじめ、この世の人びとに恵みとして伝えられることを示す。
第一章 イエズス、弟子の足を洗う
2015.12.01 Tuesday
安田 貞治 神父著 『最後の晩餐の神秘』(平成十年 緑地社発行)より
第一章 イエズス、弟子の足を洗う
《わたしはあなたたち皆について、こう言っているのではない。自分がどんな者たちを選んだかを、わたしは知っている。『しかし、わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって踵を上げた』という聖書の言葉は、成就しなければならない》(ヨハネ13・18)
イエズスの言葉の意味を広く考えてみると、現代に至るまで、数多くのご聖体のパンを食べてもイエズスに逆らう者があると預言的に言うのである。彼の選びにかなった人とそうでない人が教会という場に混じっている。これはよい麦と毒麦が生えている畑のたとえ話のようである。人びとのごく自然的な生活の流れに、神の言葉が摂理として人知れずに実現されていくのである。
イエズスが自ら選んだ数少ない十二人の弟子たちのうちにも、滅びる者がまぎれ込んでいたのを思えば、今日の世界の中にある教会の中にもキリストを信じないで、結果として裏切る者が数多くあると想像がつくのである。教会が長い歴史を通して、信仰の教義、ドグマを発表するたびごとに、異端者も数多く出るのであった。聖書のたとえ話のようによい麦と毒麦が分かれるのである。その区別を、イエズスが最後の晩餐という記念すべき場においてのべたことは、驚くべきことであろう。それを聞いた弟子たちは、自分を疑ってめいめいの良心をかけて吟味するのであったが、主が預言として語ったので弟子たちは先生である彼に自分ではないかと問いかけ、もし自分を疑っているのであればと、その危険を避けるために尋ねたのである。それに反して、自信満々な人は、かえって裏切ることになる。なぜかと言えば、弱い人間性に頼ってこれでよしとするために神の助けをあてにしない不信仰のまま身を亡ぼすことになるからである。
かかる場合のユダの心理をわたしなりに推測すると、ユダは自分自身に頼って自信満々の態度で、神も神の言葉もなく、自らの計画を唯一のものとして安心しきっていたのであろう。それは主を裏切る計画、筋書が彼の心に確立していたからだ。イエズスの足を洗う作業も、ユダの心を変える奉仕にはなり得なかった。
わたしたちも主に選ばれて、彼の信徒になったとしても、ユダと同じように自分の欲の望みの計画を筋書として心にえがき、神のみ言葉に従って生きるよりも、自分自身の計画や筋書きに従って生きるほうが楽しく、安易であるとすれば、そうするであろう。ユダはイエズスの弟子となっても、神の言葉をよそにして、自分の心の望みと計画を実現して、滅びに至った典型的な人であったようである。
《事が起こる前に、今からわたしは言っておく。事が起こったときに、『わたしはある』を、あなたたちが信じるためである》(ヨハネ13・19)
イエズスは、自分の預言が聖書の言葉に基づいているので、その預言が成し遂げられたときに「わたしはある」ものであることを、弟子たちは信ずると言っている。このことは昔モーセが神に「あなたの名は何という名ですか」と尋ねたとき、神はわたしの名は「ある、ヤーウェ」と言った聖書の中の言葉に倣い、イエズスも「私は神である」と信じるように弟子たちに明白にのべたのである。裏切られて敵に売り渡されても神であることには少しも変わりないと証言している。イエズスを売ることが可能な人は誰であろうか。それはイエズスによって、彼の言葉を聞いて信じた人びとの中から選出されて使徒と名づけられた十二人である。この十二人に、自分の体を渡して、教会を設立する。福音書によれば、使徒たちの最後に名を連ねているユダもそのひとりであった。イエズスは弟子たちに自分の身体をパンとして与えているので、それを売ることもできた、というのであろうか。
今日の世界で、もし教会としてキリストを裏切る者があるとすれば、司教職にある者か、また全教会を裏切ることのできる者は教皇職にある者にかぎられる。世の終わりに、キリストの神秘体である教会が完成したあかつきには、キリストを裏切る偽りのキリストが出現しなければならないと聖パウロはほのめかしている。この者はサタンの働きによって教会たる神殿の中に座を占めて、支配するようになると言っている。ユダの場合も、サタンが彼の中に入って、イエズスを敵に売ることを決めたように聖書に書き残している。この最後の晩餐の席においてイエズスも世の終わりのころに同様のことが起こると暗に示しているようだ。それはとくに警戒すべきであると思えるが、わたしたちとしては神の摂理として見るべきである。信仰のない者は、それこそ自然の成り行きと考えるであろうが、サタンの働きを無視することはできない。信仰の働きはそれを見破って警戒するのである。
《よくよくあなたたちに言っておく。わたしが遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」》(ヨハネ13・20)
イエズスがこの世の人びとの中から選んで使徒とならしめた人たちを受け入れる者が、イエズス自身を受け入れることになるが、信仰においてそれ以外の人びとを受け入れてはならないと言うのである。このことがらは、教会において、大事な教導職として受け取っていなければならない。イエズス自身を真に受け入れることは、歴然たる教導職を無視しては不可能である。たとえ、顕著なしるし、不思議な出来事、奇跡が起こった場合でも、イエズスが行ったのでなければ、信じてはならない。天の御父の力、神性の働きがはっきりとあらわれてこそ、イエズスに結びつくしるしである。教導職とイエズス・キリストと天の御父である神に結びついてこそ真実の救いの宗教であり、信仰に値する宗教である。それらの一つが欠けても、救いの真理は成立しないであろう。世界には昔ながらの種々の宗教があって、われこそは衆生を救う道であると豪語しても、またこの世の偉大な人間が語るとしても、たかが人の作った偶像にすぎず、それは真の神の言葉ではなく、やがて消えてなくなる人の言葉にすぎないものである。
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