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    3 わたしのあがないの業に皆あずかるように

    2015.05.30 Saturday

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       ハンガリー国でのご出現 1961~1981年 エリザベット・サントの霊的日記から 聖母マリアの汚れないみ心の『愛の炎』より (愛心館 ・世のひかり社発行 デルコル神父監修)


      3 わたしのあがないの業に皆あずかるように

      イエズスが司祭たちに向けた願い
      「説教をするときに、無原罪のわたしの母について一言も言わないで説教をすることのないようにと、司祭たちにお願いしなさい。そして、あなたは心からわたしの国が来るように望みなさい。愛をふやすことにより、あなたの足りないところを補います。
       今生ぬるさの状態にいる司祭たちに、目覚めるように言いなさい。まずわたしとの内的一致の考えに目覚めてほしいのです。このことは、わたしを拝領しながら充分意識せず、わたしに深く近づこうとしない人に言ってほしいのです。
       ”主よ、わたしは、ふさわしくないのです”と、わたしに背を向けて言うのではなく、ふさわしくなって愛でもって祈り、わたしに会う心の準備をしなさい。
       わたしは、あなたみなが、こんなにいとおしいというのに、わたしの所へ来る人は、とても少ないのです。その少ない人たちぐらいは、もっと熱心にわたしの近くにいるようにしなさい。わたしをとても悲しませていることは、わたしに信頼を置いていないということです。信頼をなくして、信仰に何が役に立つというのでしょうか。心の中の勇気を目覚めさせるようわたしの子らに言いなさい。わたしにとり戦いの中でくじけることなく、ひっきりなしに戦っている魂は、何といとしいことでしょう。このことを司祭たちが皆にいわねばならないのです。その魂には、わたしの恵みが育まれています。わたしの母へより頼みなさい、母は教え導きます」。

      わたしの愛にとどまりなさい
      「あなたのつぐないの望みがあなたをわたしに近づけました。このあなたの望みが他の人にも与えられるよう願いなさい。たくさんの人がわたしに従うよう私が願いますし、また改心したいすべての魂を受け入れます。わたしに対してのあなたの愛が熱心で信仰深いものでありますように。わたしの声が聞こえるよう沈黙の中に長くいますように。わたしの愛の中に身を沈めた魂だけが、わたしのかすかな静かな声を聞きとれるのです。
       愛は休むことのない犠牲だけで燃える火です。わたしの国があなたとすべての上に早く来るよう望みなさい。あなたが寝るとき、一日の中で、このために何をしたのかを考えるようにしなさい。幼児期にあなたはお母さんの家から遠く離れて住んでいたとき、その知らない土地で、とてもつらかったのではないでしょうか」。
      「わたしのイエズスよ、それは郷愁なのでしょうか」。
      「そう、それは天の国へのつらい郷愁なのです。それを望まない人のために悲しみなさい。自分の気持ちだけに流されるのではなく、わたしだけを愛しなさい。あなたの魂が全部愛の精神でみたされますように。生まれたばかりの赤ちゃんのようにわたしを愛しなさい。聖母マリアが人ごみの中で、とても心配しながらわたしを探したように、わたしを探し求めなさい。そして、もし父親のようなよりかかれるものが必要な時は、わたしの父なる神を眺め、聖霊といっしょにわたしたちの愛と一致しなさい。
       心配はいりません。わたしの心は、あなたの休む場所なのです。そこで休むことを望むなら、あなたの望みはもうかなえられています。
       わたしがつらい失望を堪え忍ばなくてもよいように、わたしといっしょにいなさい。わたしの愛の中にいなさい。ほかの人もわたしのそばへ連れて来なさい。わたしたちは、一目でお互いが確認できる小さな集まりなのです」。
       このことばをとても悲しそうにおっしゃったのです、わたしの心は主に対しとても痛みました。
      「わたしの心は、わたしの呼びかけに応じる人がいないために、とても悲しいのです。このことに驚かないでください。でも、あなたのしているもっとも小さな一つ一つの犠牲は、人の救いに対するわたしの渇きをいやしてくれます。前にも言ったように、あなたの気持ちのままにするのではなく、わたしを愛しなさい。霊的に何も感じない霊的観想状態で唱えたただ一つの”天にまします”、または、ただ一つの”めでたし”は、恵みの喜びのあまりに熱心な状態で唱えたたくさんの祈りよりも効果があるということを、あなたの兄弟姉妹にも言いなさい」。
       主はわたしに短い祈りも教えてくださいました。この祈りは、サタンを退けるのによい方法なので、たくさんの人に広めるようにと頼まれました。イエズスの願いというのは、わたしたちが主の考えと、主の望みを全力を尽くして自分のものとするようにということです。

       わたしたちの歩みは、いっしょに進み、
       わたしたちの手は、いっしょに刈り入れ、
       わたしの心は、鼓動を合わせ、
       わたしたちの魂は、同じ思いをもち、
       わたしたちの精神の思いは、一つとなり、
       わたしたちの耳は、いっしょに静けさを聞き、
       わたしたちの目は見つめあって、一つのまなざしとなり、
       わたしたちの口びるは、一致して祈り、おん父のいつくしみをいっしょに呼びもとめます。

       ある日、朝祈っておりますと、聖母マリアがわたしにこうおっしゃいました、「サタンは人々の間で恐ろしい程の勝利を納めています。たくさんの人が自分たちの意志に反して、その網に落ちています。わたしを助けなさい。サタンの盲目的な憎しみが増えつづけ、信仰深い人までもその手に入れています」。

      イエズスの嘆き
       「親が子供に新しい洋服を買ってあげるとき、少なくともお礼ぐらいは、言ってもらえるのを期待しています。また、それが高かったので、子供に大切に着るように言います。永遠の父も洗礼の聖なる恵みという新しい洋服を与えました。でもあなたたちは、それを大切にしていないのです。
       この洋服の最初の美しさを、もう一度あなたたちに与えるのに、わたしより苦しんだ親はいるのでしょうか。わたしは、ゆるしの秘跡も定めたのに、あなたたちは、それを利用してはいません。これをあなたたちに与えるのに、わたしは、血の汗を流し、いばらの冠をかむり、この上ないつらい苦しみの十字架に釘づけられたのです。
       そして、最後には、みんながこわがらないでわたしに近づけるようにと、わたしは、布にくるんだ赤ちゃんのように、小さなホスティアに身をひそめています。新しい洋服を子どもに買ってあげるために、こんなに犠牲を払った親はいるのでしょうか」。

      あなたをどんなに愛しているかをごらんなさい。
       「わたしのよい先生で最愛のイエズス、わたしがあなたに話したいことをあなたはご存知でしょうが、わたしは、わたしの口からは言葉は出ず、ただ涙だけが流れ出ます。この涙はくいあらための涙です。わたしは、あなたの限りないいつくしみについて詩を書きたいのですが、その能力を持ち合わせていません。わたしの貧しさと価値のなさを知っていますので、あなたに何を差し上げたらよいのか、わかりません。わたしの主イエズスよ、わたしはあなたにわたしのすべての罪と、涙を流すという単調なことしか差し上げられないのです。この涙がわたしの心の音楽なのです。どうぞ聞いてください。このことにとても感謝しております。心臓の一つづつ打つこの鼓動は、わたしの罪のくいあらためです。その鼓動が、時にはむなしく打ち、わたしは、くいあらための足りなさを知っています。ですから、主よあなたが創造なさった一粒一粒の砂に、わたしのくいあらための念を入れることをお許しください。それから、わたしがあなたをどんなに愛しているかということを知っていただくために、風があなたのところへその砂を運んでいくようお許しください。このことが、あなたに捧げられるわたしのすべてなのです。どうぞ、主よ、わたしをおとりください」。
      (くいあらためがわたしたちをキリストに近づかせるということを兄弟姉妹に教えるために、今のことを書くようにと主は頼まれました)。
      「わたしの神よ、あなたのみもとにこの世のすべての罪を置いて、わたしはくいあらためをしたいのですが」。
      「その願いを強くもとめなさい。たくさんの人々をくいあらために目覚めさせ、わたしに近づけるからです。こうして、あなたもわたしのあがないの業に加わることでしょう」。

      キリストの光
       ある日、誰かがわたしたちの友だちのことを、「あの人は輝きがない」といいました。わたしがこの批判で愛徳に背いたと思い、びっくりしました。それでわたしは、主に目を上げました。そして主はわたしがひとりの時、こうおっしゃいました。
      「あなたの心が少しでもわたしの心を傷つけたかと心配するとき、わたしはとてもうれしいのです。わたしは《キリストの光》です。わたしはいけにえの最高峰であり、あわれみの深遠と無限の広がりであり、よい模範であり、忍耐の神であります。また、わたしは、善であり、あなたたちへ注がれるあわれみそのものなのです。このようなことを他の誰が自分のことについて言うことができるでしょうか。わたしだけが《キリストの光》です。父とともに一体となっているのは、わたしだけなのです。そして、すべてのことをあなたたちのためにしました。そのことにより、全世界の人が従うべき光となりました。わたしは、人間の弱さに力を分け与えるものです。わたしの人性は、全世界の人を納得させ導くものとなりました」。
      「わたしのイエズス、あなたを愛し、礼拝します。それをしない人の分までも」
       イエズスがわたしに言われました、「あなたは、わたしがわたしのところへすべての人をどんなに呼んでいるか、また、天のインスピレーションをすべての人が聞くようにとわたしがどんなに待っているかを知っています。わたしはあなたを祝福し、また、祈りとつぐないの行いで助けようとしたすべての人も祝福します。その人の上にも、わたしの恵みをたくさん注ぎます。わたしの愛にこたえる人に、何かを与えないということができるでしょうか。愛で一杯のわたしの心は、《民衆》にひかれます。あなたたちに、わたしのひとりの人間であることをわかって欲しいし、そうであると信じるよう、あなたたちの使う言葉をわたしも使います。あなたの愛が理屈からのものでないことを知っています。また、そうでないと、わたしにとっても価値あるものとは、いえないのです。わたしたちの心臓の鼓動が一致しているとき、わたしたちの愛は計算できる限りのあるものではないのです。そのことをよくわかりますか。人間的な常識でわたしに接するということは、むずかしいことではないでしょう。このことは、わたしに対するあなたたちの信頼を起こすことに役立つはずです。」

      両親へのメッセージ
      「あなたにお願いするのですが、昨年わたしが教えたことを書いて欲しいのです。それは、教皇の教えと同じです。それは、またとても重要なことですから、もう一度くり返します。
       わたしの心のたのしみである母親であるあなたが、その使命を果たすとき、その功徳は、決して司祭の崇高な役目の功徳に劣らないということを知りなさい。両親であり、母親であるあなたがたは、あなたに任せた崇高な役目を受けなさい。あなたたちは、わたしの王国に人をたくさん住まわせるよう招きを受けているのです。あなたたちの胸やひざ元からわたしの聖なる教会の拡張が始まるのです。わたしの王国はあなたたち母親の小さな子に教える配慮に比例して栄えるのです。あなたたちの仕事は、他のどの仕事よりも責任のある重大なものです。あなたたちがたくさんの人を永遠の救いに導くように、あなたたちの手にその仕事を任せました。この重大な責任ある仕事に特別な恵みを与えます。
       あなたの指導司祭を通して、教皇にこのわたしの願いを知らせなさい。
       教皇を通して唯一の祝別を両親に与えます。子どもの誕生のときには、この家族の上に特別な恵みを与えます。」
       このように主がわたしに話しておられるとき、母であるわたしの心にもこの恵みで一杯にしてくださいました。主は、教皇を通して、これから両親に祝福を与えることを望んでおられるのですが、この恵みの喜びはことばでは書き表せません。

      ミサ聖祭の存続
       ある日、ミサのとき、主はこう言われました。「あなたに平和…でもわたしの平和が何であるか知っていますか。世が与えられない平和のことをわたしは言っています。この平和は、その肉体を魂の崇高な要求に従わせる人だけがわたしの平和を受けるのです。わたしは、この世に神として、人間として、自分自身を現わしました。わたしの体を受け、わたしの血を飲んでいる人は、みんなこのことを知っています。わたしの人性の心は、神の本質と、あなた自身の心と融合して、鼓動します。わたしと一緒に生きる人は、わたしを賛美せずにはいられません。この賛美は、わたしのあがないの業の成果に貢献します。これを続けることは、あなたたちを聖化します。それは、天と地との永遠の関わりで、終わりのない”いけにえ”を行う人の上にあふれる恵みを与えます。
       忍耐づよいたえざるわたしの愛に近づきさえすればよいというのではなく、その愛と一体となるべきです」。

      願いと犠牲
       別なとき、イエズスはこう話されました。
      「あなたが人のことについてわたしに頼んでいるとき、わたしはあなたの願いを聞いていないと思いますか。もしそうだったら、わたし自身が自分の救いの業に邪魔することになります。確かにわたしは、あなたたちみんなを同じより方では招かないのですが、わたしがたくさん与えた人からは、たくさんのものを要求します。
       基本的なことは、わたしのもとへ連れてきた人のために、あなたたちは犠牲をしなければなりません。犠牲は、あなたの業に一つの光を与え、そこから、わたしの永遠の望みを知ることができるようになります。このことについては、もう話しました。望みは、犠牲までも含めるすばらしい手段なのです。例で示しましょう。子供たちは優秀な生徒になりたいと思い、そのことのために一生けんめい勉強します。母親は、母であることを望んでいるので、もうすでに犠牲の姿勢があります。同じく科学の絶え間ない研究にもあてはめられます。スポーツ選手は、一位になることを夢見て、スポーツのためにすべてを犠牲にします。家族の父親は、家を建てようとするとき、そのためにたくさんの犠牲を払います。ですから、あなたに言いますが、心の願いは、自己犠牲を伴います。望みと犠牲とは分けることができないのです」。
       ある日、夕方のミサにあずかり、聖堂に長い間おりますと、戸じまり担当のシスターが、わたしがそこにいるのに気づかずに間違って聖堂の鍵を閉めてしまいました。わたしは主とともにそこで過ごしました。わたしたちふたりだけでした。神とわたしの切願の祈りだけでした。わたしは精神を集中して煉獄の霊魂が一刻も早く神のみ顔を見られるようにと、一心に祈っておりました。そのとき、聖母マリアがこのように話されました。
      「あなたの願いと信仰が報われます。今まで煉獄から少なくとも一つの霊魂を救うのに、アヴェ・マリアを三回と唱えていてくれましたね。これからは、あなたの望みが叶えられ、十人の霊魂が救われます」。
       その好意をはっきり理解できず、また、お礼の言葉すら口から出ず、ただ、「あわれみのおん母よ、ありがとうございます。本当にありがとうございます。数多くのご好意に感謝いたします」というため息だけがもれました。わたしの罪のくいあらため、また、涙を増やし、わたしは泣きました。あの心の行き届いた優しさに、誰れが涙を流さずにいられるでしょうか。

      わたしは心をさがしています
       徹夜の祈りの静かな精神集中のとき、主はわたしに近づき、こうおっしゃいました。「平和があなたとともにありますように。今、わたしは人の心を探しに行くのです」。主がわたしから離れて行くのを見たとき、わたしは泣きじゃくり、とぎれ声でこう叫びました。「どこへ行かれるのですか、わたしの愛するイエズス」「心を探しに行くのです」。そのときわたしは主の変わらない望みを知ることが出来ました。主は心を探しておられるのです。

      人を救うのにわたしを助けなさい
       ある日、イエズスはわたしにこう話されました。
      「たくさんの人がわたしのところへ来るよう望みなさい。これだけがわたしの唯一の要求なのです。それをわたしは、どんなに望んでいることでしょう。人の無関心にどれだけわたしは苦しんでいることでしょう。そのことをあなたは、わかってくれれば…わたしを愛するというのは、そんなにむずかしいものなのでしょうか」。
       この質問にわたしの罪の深い苦しみだけをもって、答えることはできました。
      「でも、あなたのくいあらためは、わたしをとてもうれしくさせてくれます。この大きな奇跡を理解できますか。あなたの愛とくいあらためは、わたしをとても喜ばせます。神であるわたしを。
       たくさんのほんとうにたくさんの他の人がその罪をくやむのを望んでいます。これはわたしの最大の喜びです。あなたのくいあらためを罪人の心の中で神の甘いはちみつに変わる花粉として、わたしは集めます。
       罪人というのは、怠けもので、自分自身の魂を救うのに何もしないのです。ですから、人の罪をつぐなうよう努める人たちよ、あなたたちは、花から花へと花粉を集めに行きなさい。わたしがそれを甘いはちみつに変え、罪人の魂に注ぐことができるように、あなたたちの願いは、実を結ばないということはありません。
       残念なことに、死の床についていても、神の計り知れない愛をわかろうとはしない魂もあります。とても残念な悲劇なのです。そのことを理解するようにしなさい。わたしの母の愛の炎がそのようにならないようにと望んでいます。
       わたしのあがないの業に加わりなさい。わたしが同じことを何度もいうことをおかしいことと思わないでください。神のことばは唯一であって、同じであるということを忘れないように。あなたたちにわたしのたくさんの魂を救うのを手伝うようにお願いします」。 

      2 神が先生の学校で

      2015.05.27 Wednesday

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         ハンガリー国でのご出現 1961~1981年 エリザベット・サントの霊的日記から 聖母マリアの汚れないみ心の『愛の炎』より (愛心館 ・世のひかり社発行 デルコル神父監修)


        2 神が先生の学校で


        教会内で

        「わたしの主よ、あなたの足元にわたしは鎖でつなぎました。もうこの絆をほどきたくありません。わたしの主よ、わたしはここにおります。あなたともう離れないよう、この世のものを断ち切りました。わたしがどんなに貧しく、小さなものとなり、生活しているか、ご存知でしょう」。
        「これからは、ますます小さいものであるように」という主の声。そして、少したって、わたしの心に、「さげすまれたわたしの子に祈りなさい、慰めなさい」というマリアさまの声が聞こえました。
         このことばを思いかえしました。悪霊の言えないことばでした。悪霊は決して祈りなさいと言うことが出来ないからです。それでも、心の中に不安が生じました。教会から帰りながら、「マリアさま、そのとこをお望みなら、あなたのおん子にたどりつけるよう、わたしを導いてください」と祈り続けました。
         あのことばは、次の日になっても消えることはなく、ミサ中わたしは祈り続けました。「マリアさま、どのようにすればよいのでしょう。わたしはとても小さく、弱いものです。わたしのそばにいてくださいますか」。

        祈りの一時間目
         わたしは、毎日教会に行って祈れるよううまく日中を調節することを考えていました。祈るため、最初は、横の戸口から入り、聖霊の花よめであり、ハンガリーの保護者である聖母の祭壇の前にいて、ごあいさつしました。「わたしの母なるアヴェ・マリア、わたしはあなたの子どもです。忠実でなかったカルメル会員です。わたしを助けに来てください。あなたのおん子のもとへわたしを導いてください」。
         大きな教会には、わたし一人だけで、以前には一度もしたことはなかったのですが、主の足元にひざまづき、こう尋ねました。「ここは、わたしたち二人だけでしょうか」。
         わたしの中で悲しみにあふれた声が聞こえてきました。「そう、残念ですけれど。わたしたちの仲間がふれるように努力しなさい」。
        「わたしの主よ、心より願います。あなたのみ前にいるとき、わたしの中であなたのみわざとわかるよう、わたしの足りなさから、わたしを助けてください。わたしは、今までどの改心者もしたことのないような、自分の罪を悔やみ、深くあなたを愛したいのです。最愛のイエズスよ、わたしの生活の日々で、悔い改めの涙を流さない日がないように、あなたに対して感謝と愛であふれますように、わたしのイエズスよ、わたしを低くしてください。生活のいっときも、自分がどんなに貧しいものであるかを悟らせてください。わたしの主よ、わたしはこの世でもうすでにあなたのそばで生きていけるという思いにうれしさで心臓が止まりそうです。今がこんなに幸せなら死んだ後はどうなることでしょう。でも、どんな目で自分のたくさんの罪を主はごらんになるのでしょう」。
         言いようのない苦しみがわたしを襲っていました。わたしは心より主に祈りました。主は、わたしの罪を、あわれみ深い愛の中で消してくださるという強い気持ちをわたしに一瞬の間に与えてくださいました。
         家に帰る途中、主がそばにおられることが深く感じられ、主がおっしゃっている言葉が聞こえました。「ゆるぎのない信仰をわたしに委ねなさい。あなたの愛が止むことのないように、日中ばかりでなく、夜もわたしを愛するように。わたしたちの愛する母により頼みなさい。わたしがどうすれば喜ぶかを知っています。たくさんの恵みを願いなさい。より頼めば、より多くのものを受けます。たくさん頼むことで、制限したりする心配はいりません。わたしを喜ばせることです。たくさんの人がわたしに近づくよう望みなさい。自分をすてなさい。このことを何度も頼みます。わたしのあがないの業にあずかりたいのなら、わたしにいつも一致しているように。わたしの母にすべてを捧げなさい。わたしに奉献されたもののためにもです。わたしの心よりの願いは、みんなの罪をなくすことなのです。わたしのところへいらっしゃい」。

        始めるのはむずかしい
         ある日、礼拝の聖時間のため教会に行きますと、恐怖に陥れるような考えで悪魔のささやきがわたしを苦しめました。わたしは当惑してこう祈りました。
        「主イエズス、わたしの中で何が起ころうとしているのでしょう。どれが本当なのでしょう」。
         次の日、聖体拝領のとき平和な気持ちになりました。イエズスを礼拝して一日を過ごしました。たくさんの洗濯物があったので、洗濯をしながら、何と自分はみじめなものでしょう。とても主を助けることなど出来ないという考えがうかびました。
         こんな考えにとらわれていたとき、主は、わたしにまた、話されました。「わたしにすべてを委ねなさい。この方法でしかあなたはわたしを助けることはできません。自分自身を小さく貧しいものとしたとき、わたしの望みがわかるようになります。心配しないで注意深くお聞きなさい。あなたに大きな犠牲をしてほしいのです。木曜日と金曜日を司祭のためにパンと水で過ごして欲しいのです。」主は、わたしに司祭の数までおっしゃいました。
         「それとその日は、わたしの前で四時間過ごし、わたしを傷つける侮辱のために、特別に苦行をしなさい。たくさんの誘惑があなたを苦しめるでしょうが、心配しないでください。わたしの恵みは、あなたといっしょです。わたしに深く信頼しなさい。このことがわたしの心の中に入る秘訣です。たくさんの人がもしわたしの心の渇きを知ってくれれば…少なくともあなたは、心臓の鼓動の動悸の度ごとに自分の罪を悔やみ、また、わたしから遠のいている人のために、つぐないをしてください。もし、あなたの愛が足りないと思ったら、わたしの母に頼みなさい。わたしに対しての愛をあなたの心の中でもう一度一杯にしてくれることでしょう。わたしお十字架の傷を思い起こすことにあきてしまうことのないように。この傷はいつもあなたに力を与えます。永遠の父に自分をささげ、三位一体とともに生きるようにしなさい。
         誘惑に対しての隠れ家をわたしの母のマントの下に求めなさい。今あなたを絶えず苦しめている誘惑から、守ってくれるでしょう。あなたに会った人がみな、あなたの愛と善良さで一杯になるようなへりくだった人でありますように。謙遜の中にいつも自分がいるように、聖母マリアに祈りなさい。あなたのまわりの人をわたしのところへ導けるような話し言葉を、聖母マリアから習いなさい。
         犠牲とは、目的に連れて行く渦巻く車輪のようなものです。わたしに愛を求めなさい。わたしから汲みとり、特別にわたしが喜んで受ける小さな犠牲をわたしにしてください。小さなことだけしかわたしに捧げられないことで、心配はいりません。むしろ、あなた自身、小さいものでありなさい。ワインの中の一滴の水のようにわたしと融合しなさい」。
         主にわたしは言いました。「主よ、わたしは駆けだしものなのです」。
        「不安を感じなくてもよいのです。今からやり始めなさい。あなたは、若い時にとても勉強をしたかったのですが、機会がなかったのを憶えているでしょうか。それをさせなかったのは、わたしです。あなたに何も知らないでいてほしかったのです。そのかわり早く成熟するよう望んだのです。その時から、あなたに対して、はっきりした計画がありました」。
        「主よ、あなたの恵みを何と無駄にしてしまったことでしょう。わたしは別の道を行くために、あなたから遠ざかったことでしょう」。
        「何ヶ月か前に、あなたはある公立の学校に入ろうとしていたのではないでしょうか。でも、わたしはあなたの通り道について、わたしの学校に呼び寄せたのです。だから、わたしの学校で満足して勤勉な生徒でありなさい。あなたの先生はわたしです。わたしから学びなさい。あなたと朝から晩までいっしょです。」
        「はい、主よ、でもわたしは、まだ先生の劣等生です」。
        「ええ、そのとおりです」という主のお答え。そしてわたしが主を傷つけた幾つかの例を見せてくださいました。たとえば、あるとき、聖堂がすぐそばにあったのに、あいさつをほかの人にして主にすることを忘れたことなどです。また、聖堂で主にあいさつするのに、片ひざをつくとき、愛をこめてしなくてはいけないこと、主を忘れてしまうということは、主を深く傷つけるということも教えてくださいました。そのとき、主のおっしゃったことに対し、深い悔やみの念を感じ、わたしは涙があふれ出ました。

        天の国は、力によって得ます
        「くり返しますが、自分を変えるようにしなければなりません。わたしはあなたを助けますが、自分の勤めを果たすように精一杯自分も努力するようにしなさい。わたしの母により頼みなさい。聖母も助けてくださいます」。
        「そうします、主よ。聖母を愛するようにします。おん子を助け慰めるようわたしを招いてくださったのも、聖母なのですから。あのお声がわたしの悲しみを打ち破り、深い痛悔の気持ちを起こしてくださったのです」。
        「それが最初の出会いの大きな一歩でした。わたしの母は特別な方法であなたをわたしにあずけたのです。あなたや他の人を創造したときから、わたしはあなたを待っていました」。
        「わたしの神よ、どうぞ、わたしを遠ざけることのないように」。
        「あなたは自分で離れていったのです。どうしてわたしがあなたを遠ざけましょう」。
        「わたしのイエズスよ、そのためにわたしは、みじめな状態にいました。どうぞよい先生のイエズスよ、わたしを導いてください」。
        「自分の思いをなくしなさい。何度もあなたに言います。あなたは夫を亡くして、まだ大きくなっていない子供たちに一時間でもあなたの手助けをするよう言っていたことを思い出してみなさい。たったの一時間でもあなたは、ほっとすることができたでしょう。それから、子どもたちはいろんな口実であなたを少しも助けてくれないとき、あなたはなんと悲しい思いをしていたことでしょう。わたしもたくさんの子供たちがいます。もしわたしのためにその子たちが一時間だけでも手助けしてくれたら、どんなにうれしいことでしょう。わたしは特に、わたしに奉献された魂のこと、わたしから選ばれた人のことについて考えています。その人たちは、この世的なもので心が奪われています。どんな方法であなたがわたしを助けるか、わたしに聞かないで、わたしのどの渇きをいやせるほどの機会も利用しなさい。その人たちのために祈りなさい。」
        「主よ、わたしは精一杯あなたを愛したいですし、また、あなたを愛していない人のためには、あなたを愛したいのです。目を閉じますと、この罪人であるわたしのために忍耐をもってたくさんの苦しみを受けてこられたあなたが見えます。あなたの愛にかなった人がたくさんいますのに、どうして、ふさわしくないわたしを選ばれたのでしょうか」
        「わたしのあがないの業が役立つように、罪がたくさんある人の中から選ぶのです。その人がわたしの恵みに応えるとき特別な恵みを与えます。わたしと共に生き、わたしのために生きる人は、あなたにしたように、この世からその人々を引き抜きます」。
        「わたしの主よ、あなたの望みは、わたしの望みでもあります。主よ、わたしをすきなようにお使いください」。
        「わたしのところへ全力を尽くして、罪人を連れて来なさい。このことにだけ専念するように。奉献された人は、目をそらさないでわたしの目の悲しみ、わたしだけを見るように。わたしの心の中に、もう一度新しいいのちに生まれさせるために、その人を迎え入れます。わたしがその人から望んでいるものは、わたしに対しての全き信頼です。わたしの愛は限りないのです。
         あなたがわたしの足もとにひざまずき、今までだれもしたことのないやり方で自分の罪を悔やみ、わたしを愛したいと言っているのを聞いて、わたしはどんなにうれしかったことでしょう。あなたの単純なことばが、わたしの心の奥深くに届いたのです。こういうことをするのに特別な教えなんかいらないということをあなたも知っているでしょう。あなたのことばが永遠の父にとっては、どんなに喜びだったことでしょう。
        あなたの人生のいっとき、いっときが、このようでありますように。聖霊は、あなたの性格をみながら、あなたの悪い部分をとり除き、あなたを導いてくれます。自分を救うために自分を改めますように。わたしの王国は、力でもって得るということを、あなたはよく知っていますが、決して何度も失敗することでくじけることのないように。そのことがあなたを謙遜にさせます。十字架のしるしをするときは、ほかのことを考えずに、いつも三位一体のことを心に置くようにしてください。あなたに今話していることは、みんな知らせなさい。わたしの五つの傷を賛美するため、つづけて五回十字架のしるしをして、この五つの傷を黙想するようにしなさい。いつも打撃で血まみれになっているわたしの目を見つめなさい。あなたからも、わたしはその打撃を受けました」。
        「ああ、わたしのイエズスよ、どうぞ、そのようにおっしゃらないでください。わたしの胸が裂けます。わたしをあわれんでください」。
         別な時に、主は、こうおっしゃいました、「無駄に話をしないように気を付けなさい」。

        一週間の時間割り
        「あなたに一週間の指導をします」。

        月曜日 「この日は、煉獄の霊魂のために使うように。あなたのすることは全部、その霊魂の助かりを願ってするように。わたしと一致して、その霊魂が一刻も早くわたしの顔を見られるように祈りなさい。あなたにきびしい断食をするようお願いします。そのことをあなたにだけお願いするのではなく、わたしの望みとその他の示しも、ほかの人にも広く知らせなさい。
        月曜日に聖マリアの汚れないみ心の炎により頼み、パンと水で断食する人は、煉獄にいる司祭の霊魂を救います。また、わたしのこの願いに従おうとする人は、死後、わたしの母により八日目以内で煉獄より救われます。わたしの母自身がわたしの五つの傷の名により、あなたたちのために得たものです。わたしの母のみ心の愛の炎の約束をわたしも守ります」。

        火曜日 「この日は、あなたの家庭のための日です。家族をわたしの母にまかせなさい。あなたの家族をわたしの母が守ります。」
        「わたしの主よ、わたしはとても眠いのです。もしもわたしが目を覚ませず自分の夜の約束の祈りの時間を守れなかった時は、どうなることでしょう」。
        「目をさましてくださるように、わたしの母に祈りなさい。母もよく、昼も夜も祈りをして、寝ませんでした。あなたは、自分の家族に責任があるということをよく知っていますね。家族の一人一人の性格をみながら、わたしのもとへ連れて来るように。わたしの恵みがその人たちの中にあるように絶え間なく祈っていなさい。あなたのとてもやさしい保護者は、聖ヨゼフであるように。助けを願うことも忘れないようにしなさい。聖ヨゼフの徹夜の祈りは、家族にたくさんの恵みをもたらします」。

        水曜日 「聖職者の召し出しの日です。たくさんの若もののために司祭職をわたしに願いなさい。あなたが願った人すべてが与えられます。多くの若者の心の中には、このような望みがあるのに、その願いを達成するよう助けてあげる人がいないのです。信仰のうすいものであってはなりません。あなたの徹夜の祈りがその若者にも多くの恵みをもたらします」。

        木曜日 「この日は、祭壇の秘跡に対するつぐないにあてなさい。四時間わたしの前にいるように。特に熱心にわたしに祈り、わたしに投げつける傷を治しなさい。わたしの苦しみ、血の汗、わたしの受難に身を沈めるように。そうすると、あなたの魂は力を得ます」。

        金曜日 「心にある全部の愛を尽くして、わたしの苦しみの中に沈むように、あなたが朝起きた時、わたしが夜中に苦しみを受けて寝れなかったことを考えてみなさい。日中は、ほんの少しもわたしにやすみをくれなかった十字架の道行きについて、考えてみなさい。もう力のなくなったわたしをカルワリオへ追いやったのですから、どんなに多くのことを皆がわたしにしてくれたとしても、しすぎということはないのです。みんなのために、みんなの救いのために、最後までわたしは苦しみました。
         それで今日は、十二時から三時までわたしの傷を礼拝するようにしなさい。そして、出来るかぎりわたしが十字架から下ろされた時間まで、断食を守るようにしなさい。すべての人に言いますが、わたしの犠牲を黙想するとき、心の中に恵みが増えます」。

        土曜日 「この日はわたしの母に捧げられた日です。この日は、特に大きないつくしみをもって、わたしの母を尊びなさい。すべての恵みの母なのです。天の国の天使や聖人たちが熱心にしているよう、この地上においても、マリアが賛美されることを望みなさい。死に瀕している聖職者たちのために、聖なる死の恵みを願いなさい。天の国で、あなたのためにその霊魂が、主の前で仲介者となり、そして聖母は死のときにあなたを迎え入れます。あなたの徹夜の祈りをそのために使いなさい」。

        日曜日 この日のために、救い主は、わたしに何の時間割もお与えになりませんでした。
         

        8 イエズスとマリアの願いと約束

        2015.05.10 Sunday

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           ハンガリー国でのご出現 1961~1981年 エリザベット・サントの霊的日記から
          聖母マリアの汚れないみ心の― 『愛の炎』より (愛心館 ・世のひかり社発行 デルコル神父監修)
          8 イエズスとマリアの願いと約束
          1 わたしの第一の願いは、わたしの子の五つの聖なる傷を公けに礼拝することです。それは、個人的な信心のことではなく、共同体的な礼拝でなければなりません。
          2 五つの聖なる傷に対する信心について、イエズスとマリアは、いっしょに次のようにおっしゃいます。
          「わたしの聖なる五つの傷を礼拝するために五回十字架のしるしをして、天のおん父のあわれみに、わが身をゆだねなさい。わたしが受けたむち打ちのために―このむち打ちは、あなたたちからも受けたのです。―血まみれになったわたしの目をいつも眺めなさい」。
          3 あなたたちの家庭で聖時間を守りなさい。木曜日と金曜日を特別な恵みの日と考えて、この日には私の子に対する尊敬のために苦業しなさい。また、聖体訪問をなさい。この聖なる時間には好きな祈りかロザリオをとなえて、賛美歌を歌いなさい。この信心業をはじめる時、わたしの子の尊い傷を記念するために五回十字架のしるしをし、ローソクを一つともしなさい。
          4 教皇に対するわたしの願い。わたしの心の愛の炎の祝日は、二月二日の主の奉献の日に祝うように。
          5 神としての、わたしの望みに従って創造の業に協力する両親に対しては、わたしは、教皇を通して特別な祝福を与えます。この特別な祝福は両親のためだけです。
          6 守るべき日以外にミサ聖祭にあずかるときに、このミサをある人のために捧げるなら、その人の上に、わたしの愛の炎は輝きます。このミサ聖祭に、あなたたちが熱心にあずかるほど、それだけ悪魔の目はくらまされます。
          7 わたしは、臨終にいる人と煉獄に苦しんでいる霊魂にも、わたしの愛の炎から豊かな恵みを与えたいのです。わたしの望みは次の通りです。すなわち、あなたたちの時間を適当に分けて、夜となく昼となく燃えるわたしの心の愛の炎に対して、ふかい信頼をもって祈り、いつも誰かがいるようにしなさい。そうすれば、あなたたちの隣人の誰も地獄におちるものはいないと、わたしは約束します。あなたたちの祈りが熱心であればあるほど臨終にいる人たちが、自分の運命を決定するために新しい力を得るでしょう。
          8 月曜日、パンと水だけの断食をする人は、ひとりの司祭の魂を煉獄から解放します。木曜日か金曜日に聖時間をする家庭で、家族の誰かがパンと水だけの断食をするなら、その家族の亡くなった一員を死んでから八日以内に煉獄から救い出す恵みが与えられます。
          9 わたしの汚れない心の愛の炎を考えながら、めでたしの祈りを五回となえる人は、ひとりの霊魂を煉獄から救い上げることになります。また、十一月の間めでたしを一度となえる人は、十人の霊魂を救い上げることになります。
          10 これからのち、わたしに対してするすべての祈りに次の願いを加えなさい。
           「ああ、聖母マリアよ、あなたの愛の炎の恵みを 全人類のうえに、今も臨終のときも輝かせてください」。
          マリアのみことば
           この祈りで、あなたたちは、悪魔の目をくらますことになります。
          「わたしの子らよ、神であるわたしの子の腕は、あなたたちを打とうとしています。わたしはもうそれをとめられない程です、わたしを助けなさい。あなたたちが、わたしの愛の炎を呼び求めるなら、わたしたちは、いっしょに世界を救うことができます」。
          イエズスのみことば
           「以上のようにするとき、わたしの母のやさしいほほえみは、全世界を照らすでしょう」。
          マリアのみこころのロザリオ
           はじめに、救い主の五つの聖なるおん傷をたたえるために、わたしたちは、五回つづけて十字架のしるしをします。
           ロザリオの大きな珠では(一回)、
          「悲しみにみちたマリアの汚れないみ心、あなたに願い求めるわたしたちのために、お祈りください」と祈ります。
          小さな珠では(十回)、
          「おん母よ、汚れないみ心の愛の炎によって、わたしたちをお救いください」と祈ります。
          おわりに三回次の祈り(栄唱)をします。
          「栄光は、父と子と聖霊に、はじめのように、今もいつも世々に、アーメン」。
               ☆       ☆       ☆
          参考として(例えば管理人の場合、下記のようにしています。):
          めでたし 聖寵(せいちょう)満ちみてるマリア 主(しゅ)おん身(み)とともにまします。
          おん身は 女のうちにて祝せられ、ご胎内(たいない)のおん子イエズスも祝(しゅく)せられたもう。
          天主(てんしゅ)のおん母 聖マリア、罪人(つみびと)なるわれらのために
          今も臨終(りんじゅう)のときも祈りたまえ。
          また、おん身の愛の炎の恵みを 全人類に与えたまえ。 アーメン。  

          愛の炎の出現を受けた人は誰でしょう?

          2015.05.09 Saturday

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             ハンガリー国でのご出現 1961~1981年 エリザベット・サントの霊的日記から
            聖母マリアの汚れないみ心の― 『愛の炎』より (愛心館 ・世のひかり社発行 デルコル神父監修)

            愛の炎の出現を受けた人は誰でしょう?
             1984年に出版された32ページのパンフレットを見ても、1991年に出版された112ページの小冊子を見ても、この出現を受けたのがハンガリー国の母親であった一婦人であることがわかりますが、その名は出ていません。
             これらの出現やメッセージは、イエズスとマリアの言葉であって、1961年に始まり、20年間にわたって示され、1981年に終わっています。日本語で出されたパンフレットと小冊子は、そのわずかの抜粋でしかありません。これはこの女性が書き残した霊的日記からとられたものです。この日記は、423ページにも及び、原語のハンガリー語で1985年2月にはじめて発行され、間もなくドイツ語をはじめ、イタリア語などにその抜粋が発行されるようになりました。発行されたのは、日記の全部ではなく、その小さな一部分です。また日記にでる人名と地名は、発行された本の中では別の名に変えられています。その理由は、あの当時ハンガリーでは共産主義だったため、問題になっていた人々に政府からの圧迫がないようにという配慮からです。
             また、はじめて、発行した時に、メッセージを受けた女性の名が出ていませんが、これは、イエズスご自身の命令で、かの女が生きている間は、その名はが知られないようにするためでした。しかし、その女性が亡くなったてから、はじめてその名は公けにされました。つまり、エリザベット・サントという人で、1913年に生まれ、カール・キンデルマンという男と結ばれ、子宝にめぐまれ、大家族の母親となりました。間もなくやもめになると、カルメル会第三会員の一員となりました。
             かの女は、1961年からイエズスとマリアのことばを聞くようになり、これは二十年間もつづきました。その次に四年間も長い病気と苦しみがありましたが、かの女がなくなる三ヶ月前にハンガリー国シュケスフェヘルヴァル司教区の許可で、その日記は発行されるようになりました。これよりも7年前にその抜粋は同司教区の許可で発行されていました。
             エリザベット・サントは、1985年4月11日に帰天し、その墓は、首府のブタペストから約30キロはなれたダニューブ川のほとりにあるエルド町にあります。
             かの女の423ページにもおよぶその霊的日記は、「愛の炎」という題で1985年に発行され、5年後にそのイタリア語訳ができました。このイタリア語版は、こまかい字でぎっしり書かれた291の大きなページになっています。1991年に出された日本語版の「愛の炎」の9倍にもあたります。
             1984年に出された32ページの日本語の「愛の炎」は2万部以上発行され、112ページの版は最近発行され、5千部印刷され、大いに歓迎されています。
             聖母は、とくに司祭たちのために心をくばられ、今まで忠実だった司祭がつづくように特別に守り、また迷った司祭たちをイエズスの愛にとりもどすように特別にみちびき、ご自分に対する信心を広める使命をまかせておられます。
             聖母はまた、すべての信者がイエズスに対して忠実をつくし、聖職者のためにお祈りとぎせいを捧げるようにと、たえず呼びかけておられるのです。
                  *      *      *
             さて、エリザベット・サントを通じて与えられたメッセージは何でしょう? そのメッセージは前世紀にはじまりました。前世紀はラサレットとルルドで、この世紀になってファティマで、また最近に日本の秋田をふくめて、世界の多くの所で行われている聖母マリアの出現が同じ線にそってメッセージを伝えました。これらのメッセージは、改心へのイエズスの呼びかけを明らかに示しています。イエズスのみ心の出現をうけた聖女マルガリタ・マリア・アラコックを通して、イエズスは、偉大な約束をなさいましたが、それは、ファティマの聖母の清いみ心に関するお告げと約束との同じ線にそっています。

             そのメッセージと、約束の特徴について簡単にのべますと、まず目立っているのは、ハンガリー人を通じて与えられていることです。ハンガリーが世界の国々と大きく異なっているのは、この国が、マリアと特別な関係にあるということです。すなわち、ハンガリーは、どの国よりもマリアに従属している国といえることです。なぜなら、マリアは、この国を正式に遺産としてうけつぎ、特別な名義で、この国の合法的な所有者と宣言されているからです。これは、1031年にさかのぼります。当時のハンガリーの大王聖ステファノの玉座を受け継ぐことになっていた長男のエメリコが殉教しました。―このエメリコは父といっしょに列聖されました。―父聖ステファノは、そのとき、聖母マリアを王国を合法的にうけつぐ女王として正式に宣言したのです。ハンガリーには、何人かの神秘かがあらわれましたが、マリアご自身、この神秘家たちに対して、たびたびこの歴史的な背景についてお話しになり、ハンガリーが、ご自分の遺産であることを主張されました。
            共産党がハンガリーの王権をとる前まで、王国の憲法においてさえ、聖母とのこの関係が定められていたのです。そのために、ハンガリーの銀貨などにも、聖母の肖像があって「ハンガリー人の偉大な女王」とラテン語できざまれていました。
             聖母は、この国から三人の神秘家を特別に選んで、全世界に、つぐないの業をおこさせ、どんな時代にもかつてなかったほどのあわれみと恵みの雨をふらせて、世界を救いたいみ旨をあらわしました。
             その神秘家の一人は、マリア・ナタリアです。かの女は、とくに司祭と修道者のためのつぐないを頼まれました。また、マリア・ナタリアは、「この世に打ち勝つ勝利の元后」と題する日記を著しました。この本の日本語訳は八月中に終えられ、九月には出版される予定です。
             もうひとりの神秘家は、まだ生きているので、今のところ、その名前は発表されていませんが、「命の奉献」というつぐないの事業をたのまれました。これは、特に苦しんでいる人(病人、老人など)のあいだに広まるようにと聖母は望まれています。第三には、本書が取り上げましたエリザベット・サントに頼まれた聖母の清い心の炎、すなわち「愛の炎」です。このメッセージは、全世界の人々を対象にしています。「愛の炎」とは何でしょうか? イエズスは、このことを「ノアを救った箱船のようなものである」と説明され、マリアご自身は、「この炎はイエズスご自身です」とおっしゃっています。
             この炎は、心から心にうつり、全世界を神の愛に燃えたたせる力を持ち、亡びようとする世界を救うことができます。この炎は、これを受けた人々をみな、そのうえ、短期間で高い聖徳の位にひきあげることができます。聖母はこうおしゃっています。「あがないのみ業が行われた時から、これほどの大きな恵みは与えられたことがありません」と。
             この恵みは、すべての人に及びます。これによって教会は、すぐれた召し出しが、家庭には愛、世界には平和、煉獄の霊魂には、苦しみからのすみやかな解放、死に瀕している人々には、良い死をとげる恵みの約束が与えられています。
             このメッセージで、イエズスとマリアは、この愛の炎によりすがるようにと呼びかけ、これによって、悪魔の目がくらみ、悪魔がわたしたちに損害を加えられないようにしてあげると天からの約束をしておられます。
             聖母は、その汚れないみ心の炎に祈る人が、どの小教区にも、一日24時間絶えまないようにと望んでおられます。イエズスは、「ある小教区において、誰かが信仰深く愛の炎に祈っているあいだは、その小教区の全区域において、悪霊の目がくらんで人に害を加えることができない」とおっしゃいました。
             イエズスとマリアは、家庭内での共同の祈りを望んでおられます。週に一度、家庭で二人以上の人が集まって、聖母の約束のシンボルとして、ローソクをともして聖時間を行う人には、また、大きな恵みが約束されています。
             わたしたちの生きているこの現代では、罪に対する感覚と意識がうすらいで、迷いがふかまり、何が善いか、何が悪いかが分からなくなります。それで、多くの場合、信仰についても疑いがおこり、真理は、どこにあるのか分からなくなります。これは、一般信徒だけでなく、場合によっては、聖職者や修道者さえも迷うことがあります。まるで、悪と善の基準がなくなったyとうな感じがします。極端な例をあげますと時によっては、胎内のわが子をおろすことが、その子を不幸にしないための義務であるかのように思う人がいるのです。しかも社会人は、これを「責任をもっている態度」とさえ評価しているのです。
             それにしても、あわれみ深い神は、善悪の基準をわたしたちに与えてくださったのです。何が自分によく、何が自分に悪いか、つまり命を与えるか、死に導くか、悪の霊からくるものなのか、神の霊からくるものなのかをわきまえるための基準です。
             そのうえ、この基準をもつことが大事であることを強調するため、聖書のはじめにこの基準が明らかに出ています。「わたしは、おまえと、かの女のあいだに敵対をおく」と神はいわれたのです。おまえとは悪魔のことで、かの女とは、救い主のおん母マリアのことです。すなわち、罪の父である悪魔と、恵みの母であるマリアのあいだに、永遠の敵対が定められているのです。
             信仰について、いく度も迷ったり、まちがったりした聖書学者や神学者は、このことを簡単には認めないでしょう。善と悪の基準を決めるのは、この神学者でも、あの神学者でもなければ、この司教、あの司教でもありません。また時代に合っているか、いないかという一般常識でもありません。
             わたしたちの時代の迷いも、いうまでもなく、あの昔、蛇からきています。これにうち勝ったのは、救い主キリストであり、その確かな教えは、ペトロの後継者である教皇を中心とするカトリック教会の教えによって伝えられています。教会は、昔から救い主のおん母マリアがすべての異端説をうち破ったことを認めています。
             この時代に、あわれみ深い神は、悪魔の頭をふみくだく女、マリアのみあとについていくようにと呼びかけておられますが、これは大きな恵みです。かの女、つまりマリアについて行く人は、まちがうことがありません。悪魔は神学のことをよく知っているので、神学までも利用して、わたしたちを迷わせることができます。教会の歴史をしらべてみると、異端はすべて、なんらかの神学的な前提をもっていることが明らかになります。悪魔は、ほとんど何でも出来ますが、絶対にできない一つのことがあります。それは、聖母マリアに従うことです。マリアは、救い主へみちびく絶対に安全で確かな道です。
             エリザベット・サントの日記に出るマリアとイエズスのみことばの一つ一つは、真珠のようなものです。その一つ一つに強い輝きがあるので、その中から選ぶのは、むずかしいほどです。
            「愛の炎」というこの小さな本にのせたものは、かならずしも最も大事なものとはかぎらないと思いますが、それにしても、この日記の全文が翻訳できるまで、この小さな本を広く普及するのは望ましいと思います。
             イエズスご自身がおっしゃったように、この”愛の炎”をノアの救いの箱船と考えて、これに入る人をあざ笑う一般の人の声を気にしないことがたいせつです。
             悪の洪水に沈まないように、聖母マリアの汚れないみ心の炎をともしてください。あなたの心と、あなたが愛している人の心にも。
             おん母のマントのもとには、命と喜びがあります。
            その命と喜びを心ゆくまで味わうことを祈ります。
                                     デルコル神父
                                        1992年6月27日
                                        マリアの汚れないみ心の祝日

             

            貧しい者の聖母 La Vierge des Pauvres

            2015.05.06 Wednesday

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              『貧しい者の聖母 - バンヌーでのご出現1933 -』より 世のひかり社発刊 デルコル神父著

              くらい森にかがやく光
               ベルギーの東部地方、もっとくわしくいえば、リエージュの東方20キロのところにある森につつまれた一寒村に、ひとすじの光がかがやいた。1930年、バンヌー村でこんどもまた聖母はその尊いメッセージを貧しい家庭のひとりの少女にゆだねられた。
               聖母のご出現をみたのは、12才の娘マリエット・ベコーであった。この少女は、1921年3月25日、聖母のお告げの祝日に生まれたが、その年のこの日は聖金曜日であった。しかし、宗教に無関心な良心に育てられて成長したので、いうなら、「森の子」にすぎず、信仰生活のうちに開花し、芳香を放つ前にしおれてしまう一輪の花のようにみえた。
               この少女はたぶん、天国のことも、天使たちのことも聖母マリアのことも一度もあこがれたことはなかっただろう。ベコー家では、子どもたちにそういった話をする人がいなかったからである。
               もちろん信者ではあったが、毎日曜日のミサにも公教要理の勉強にもあずからないので、友だちからは軽蔑され、善良な人々からは同情され、司祭からは叱られることがたびたびであった。
               顔かたちは並で、貧しいために日常の糧であるかたいパンやいもにさえも、こと欠くありさまで、やせていてつぎはぎだらけの古びた服を着て、いつも寒そうなかっこうをしていた。それにしても、森に行っては枯枝をひろい、猿のように気にのぼり、枯枝の大きな束をせおったりなどして労働にきたえられた丈夫な体を恵まれていた。7人の子どもの一番上の娘だったので、弟や妹たちの世話をして、病弱な母親にとって大切な手伝い手だった。
               マリエットの名がバンヌー村以外に知られるようになった時でさえ、かの女は、「放逐された者」の村の一少女でしかなかった。「放逐された者」というのは、バンヌーという村の名の意味で、不名誉なこの村の起源を示している。すなわち、あちこちから追放され、人々から嫌われた人たちの集まりであった部落で、隣村の人々からさえ、ひどく軽蔑されていた。
               村にはおよそ100軒の粗末な家と、325人(現在は372人)ほどの貧しい人々が住んでいた。間もなく聖母はこの村をご自分の村とされるのである。貧しい人々からなる小教区であるこの村のある人々は、1914年、第一次世界大戦の戦渦をまぬがれるようにと、村を聖母マリアに奉献する願をたてたが、聖母マリアは、この願が実際にに守られるようになることを待っておられたのである。
              1914年バンヌーの近隣のバッティス、エルヴ、メランの村々は敵軍の掠奪にあい、焼きはらわれたので、これにおびえたバンヌー村民の一団がバンヌー城に難をさけ、城主クリナン婦人のすすめに従って、もし戦渦をまぬがれるなら、村を聖母に奉献し、聖母バンヌー村と命名する願をたてた。そして、バンヌーは不思議にも戦渦をまぬがれた。

              聖母の呼びかけ
              第1回のご出現(1月15日、日曜日)
               ご降誕の大祝日も、ご公現の祝日(1月6日)もすぎた。それにしてもベコー家の7人の子どもたちにとっては、それは喜びのない、わびしい祝日でしかなかった。
              1993年1月のはじめ、ベルギーでは、ボーレンの聖母ご出現が正しいものであることを示す印しを神に求めて9日間の祈りが行われていた。ある司祭は、1月15日に9日間の祈りが終わり、この日ポーレンに行って、一修道女院の聖堂でミサ聖祭をささげたが、その意向は、はっきりとした印をもって聖母のみ名がたたえられるようになることを願っていた。
               バンヌーでも、主任司祭は、ヴェルヴィエ町のクララ会、ラ・ウルブ町の聖母の聖心会の修道女たちと心を合わせて9日間の祈りをしていたが、村の人は、そうしたことを知らなかった。この9日間の祈りは、1933年1月16日に終わったが、そのひそかな祈りの目的は、ポーレンのご出現が信頼できるかどうかについて、起こりうる誤解をさけることにあった。1932年11月29日から翌33年1月3日までの間に聖母は、ポーレンの5人の子どもに度々ご出現になった。この出現は、16年後の1949年7月教会から公式にみとめられた。
               1933年1月15日の日曜日にも、マリエットは、いつものように、ミサ聖祭にも公教要理にも行かなかった。その晩の7時ごろのことである。かの女は窓ぎわに立って、夜の闇をすかして庭のむこうがわの道をながめていた。家の前の小さな庭の向こうは、パパンステルに通じる道になっていて、この道の向こうには、「もみ」の美しい森があった。この森と家の間に、あとで聖母のご出現があったのである。まだ帰ってこない弟のジュリアン(10才)を心配して、帰りを待っていたのである。暗くなってもまだ帰って来ない…
               それは、星のまばらな、月のない暗い夜であった。すると、急にマリエットの眼の前に、美しい貴婦人が現われた。光に包まれ、まっ白な衣を着た婦人は、マリエットから5、6メートルほどの所に立っている。頭を少し左にかしげ、手を胸の前にくんで、ほほえみながらマリエットを見ておられる。
               かの女は、夢ではないかと、頭を右にかしげたり、左にかしげたり、上に向けたり下に向けたりしてみた。あるいはランプの反射ではないかと、ランプを置きかえたりして、窓ぎわから闇をすかしてみたが、やはり婦人はほほえみながらマリエットを見ておられる!?
               マリエットはふるえながら、隣の部屋の母親のそばに走って行き、
              「お母さん、くら闇の中に女の方がいらっしゃる。聖母のような方よ…」といった。
              「庭に聖母が?…」
              「お母さん、ここに来て見てよ、きれいな方!…」
               母が窓からのぞいてみると、せまい庭の右手の道から4歩ほどのところに、地上30センチメートルぐらいの高さに、かがやかしい光に包まれた美しい婦人の姿がかすかに見えたが、…すぐ消えてしまった。母は窓にカーテンを引きながら、
              「たしかに聖母だね…」
              と娘にいい、それから戸に鍵をかけた。
               マリエットは、また窓に近づき、カーテンをのけて出現者を見まもった。もう何もこわくない。かえって、聖母のみ前にいると思うと、うれしくてたまらなかった。…ポケットからロザリオを取り出して祈りはじめた。
              「めでたし」を50回となえ、ロザリオ一環を終わっても、これまで経験したことのないすがすがしさを感じてまた祈りつづけた。それから10回「めでたし」をとなえととき、婦人は体を動かし、左の手を胸にあて、右の手でマリエットにそばに来るように合図された。
              「お母さん、出て行っていい? あの方が何かおっしゃりたい様子で、そばに来るように合図していらっしゃるのよ」
               マリエットが母のゆるしを求めると、母は、ひと言も言わないで、まだ戸をかけたままになっていた鍵をはずして、マリエットをひき離した。母は、娘が気でも狂ったのではないかと思ったにちがいない。
               マリエットは、すぐ窓のところにもどったが、もう何も見えなかった。悲しくなったが、もう一度ロザリオをとり出して「めでたし」の祈りを、くり返し、くり返しとなえると、言いようのない慰めを心に感じた。
                     *       *        *
               その夜は、夢も見ないで、ぐっすり眠った。マリエットが翌朝、まえの晩のことを全部父に話すと、父は聖母の出現ときくと、「ばかな! そんなことがあるものか?」といって、出て行った。かの女は、あとで友だちのジョセフィーヌ、レオナールに何もかも全部話した。すると、ジョセフィーヌは、すぐ主任司祭のところにいって、それを告げた。
              「神父さま、マリエットさんは聖母を見たんですって」
              「まあまあ、聖母はそう簡単に見えるもんじゃないよ」
               主任司祭がこんなに答えるのも無理はなかった。ちょうどその頃、ベルギー国のポーレン町での聖母出現のことが、みんなの話題になっていたからだった。こんどのポーレンの出来事も本当のご出現かどうかと案じて、天からの光明をうけるために、司祭は9日間の特別な祈りを終えたばかりであった。司祭は、マリエットも聖母の出現を見たと聞いたときに、こう考えた、「マリエットはポーレンのご出現の話を聞いたので、自分も聖母を見たように思ったのだろう」と。それで、かれは、ジョセフィーヌに注意した。「マリエットが人からばかにされるといけないから、このことは話してはなりませんよ」と。
               しかし聖母は、たびたびご出現によって、こうした疑いをすべてお消しになったのである。
               1月18日(水曜日)の朝、マリエットは、ミサにも公教要理の勉強にも行った。すると、今まで質問されても満足に答えたことがなかったのに、今度は、満点だった。神父は不思議に思ったので、他の子どもたちを帰してから、マリエットを聖堂につれて行って、かの女が見たというご出現のことをくわしく調べてみた。40以上の質問をして、マリエットの答えをいちいち書きとめた。
               聖母のようなあの姫君は、まっ白な衣を着、みかしらにまっ白なヴェールをかぶり、腰に空色の帯をしめ、手に-ルルドの出現のときのように、-ロザリオをかけておられた。姫君は灰色の小さな雲の上に立ち、右足だけが少し見え、美しいバラの花でかざられていた。全身から光を放っておられたが、みかしらのまわりは、よりいっそう輝いていた。姫君は、マリエットのつかっているヴァロン方言で、はっきりした声で話されたのだった。
               神父は、マリエットを試みるために、聖母はちょうどルルドの聖母と全く同じ姿勢だったといわせようとしたが、マリエットは、自分が見た聖母のほんとうの姿勢を言葉でも身ぶりでも示した。
               どんなに詳しくしらべても、真実と思える点はいくつもあったが、それでも神父はまだ疑っていた。かれは、どんな疑いの余地もゆるさない「一つのしるし」を望んでいたのだった。

              「わたしは貧しい者の母です」
              第3回のご出現(1月19日、木曜日)
               美しい聖母は「ではまた」とおっしゃったから、再びご出現があると期待されていた。マリエットは、木曜日の夜、あの時間に、いつもの場所の凍てついた地面にひざまずいて、「めでたし」の祈りをくりかえしながら、期待をこめて待っていた。
               とつぜん、「おいでになりましたよ」と叫んで孝行な子どもが母の帰りを迎える時のように、嬉しそうに手を上げた。
               これは3回目のご出現である。マリエットは、もっと親しみ深くして、美しい出現者になまえを、ていねいにお聞きしてもいいと思っていた。神父からもすすめられていたのである。
              「どなたでいらっしゃいますか?」とマリエットがたずねると、そばに立っていた20名ほどの人たちは息をのんた。これらの人々には、何もきこえなかったが、出現者はご自分の新しい呼び名をマリエットにお示しになった、「わたしは、貧しい者の聖母です」。
               聖母から親しく教えられたこの呼び名は、教会でもこれまで聞かなかった慰め多いものだった。いつの日か、すべての貧しい人々は、すべての不幸な人々は、この栄光ある呼び名のもとに、慰めのおん母聖母マリアに祈るときが来るであろう…しかし、今のところ、マリエットはこの呼び名のほんとうの意味を理解できず、「ああそうですか、貧しい者の聖母」とひとりごとをくりかえしていた。
               聖母マリアは、特に貧しい人々の聖母である。貧乏な人々と、困難に出会っている人々の心から、超自然界への有益な信仰をうばい取り、無神論的唯物論の濁流を注ぎ込もうとするのが現代悪である。人は現世の物質に対する節度のない愛着をもつようになると、天国の理想も希望もたやすく失ってしまう…その結果、世界から喜びも平和も消えうせて、人生は戦争とあらゆる災難のうずにまきこまれてしまう。
               バンヌー村での聖母マリアのご出現は、世を清い光をもって輝かせたのである。神は聖母を通じて、現代を悩ます最大の異端である唯物論に対して戦うべきことをお教えになられた。

              「各国の病人のために」
               前の日と同様に、木曜日の晩も、聖母はご出現の場所に4分おとどまりになってから、道に出て、前の日から聖母のものとなった泉の方へマリエットを導かれた。前日のように、今日もまたマリエットは3度途中でひざまずいてから、泉のところについた。
               泉は聖母の泉となっていた。聖母は地上のわたしたちの水を必要とされるのだろうか、あるいは、わたしたちの人間の従順をおためしになろうとするのだろうか? この夜、マリエットは、勇気を出して出現者にたずねた。「美しい姫君よ、あなたはゆうべ”この泉はわたしのものです”とおっしゃいましたが、この泉は誰のためですか?」。
               聖母は、黙ってしばらくのあいだ、いつくしみにみちた微笑をうかべてから、「すべての国民のために」とお答えになった。それから数分沈黙がつづきた。
               12才のマリエットには、この天の約束の完全な意味がまだわからない。すべての国民といっても、少女には、その広い意味がつかめない。聖母は「病人のためです、病人を慰めるためです」とマリエットにもわかりやすく説明してくださった。そして、少女に対する特別な愛情のしるしとして、「あなたのために祈ってあげましょう。ではまた、さようなら」ちいって、少しずつ消えていった。
              「ありがとうございます。ありがとうございます…」とマリエットは立ちあがって聖母にあいさつした。
                     *       *        *
               ご出現は終わった。マリエットが下を見おろしすと、貧しい者の聖母の泉からひとすじの水が流れている。このひとすじの水は病人を慰めるために各国に流れ広がるという意味だろうか?
               じつは、このひとすじの水はわずかなもので、一つのシンボルにすぎない。このシンボルによって暗示されるのは、つきることのない豊かな恵みである。
               神の道は、人間がこれを悟ることができない。その道は人間が考えるものとは異なったものである。わたしたちは、信仰と希望をもってこれに近づき、祈りに献身的な態度をとるようにつとめねばならない。
               バンヌーにおけるご出現のすぐあと、その場所から15分ほどで行けるタンクレモンという所にアメーの修道女会が新たに修道院をたてたが、この修道院の使命は、離教教会がまことの教会であるカトリック教にたちもどるのを早めるために、祈りと苦業、研究と出版による布教にとりくむことである。ファティマのご出現のときに、聖母はロシアの回心を予想させるようなことをおっしゃったように、バンヌーのご出現でも同じような希望を抱かせようとお考えになったのではないだろうか?
                     *       *        *
               マリエットが家に帰ったときに、ご出現にたち会った医師ホイゼ師は、すぐいろいろな質問をしてしらべたが、かの女の返答には不合理なところが少しもなかった。しかし、ふだん医者をこわがっていたマリエットは、医者と話すことをいやがっていた。
               人々がみな出て行ってから、マリエットは頭痛を感じて、その晩もその翌日も具合がわるく、両親の命令でベットに休まねばならなかった。 


              5 サタンの目をくらます方法

              2015.05.04 Monday

              0
                 ハンガリー国でのご出現 1961~1981年 エリザベット・サントの霊的日記から
                聖母マリアの汚れなきみ心の『愛の炎』より (愛心館 ・世のひかり社発行 デルコル神父監修)

                5 サタンの目をくらます方法

                イエズスの尊いおん血の力
                 ミサ中、聖体拝領後、イエズスは尊いおん血の効力について話されました。
                「わたしは、全世界に血を提供するものです。この神聖な血で、あなたたちは酔うこともできます。それをあなたたちの知恵は理解できるでしょうか。やさしいことではありません。
                 わたしは、この世のたったひとりの血の提供者です。それを考えてみなさい。わたしの大切な血は、麻痺した魂の力を暖めます。わたしの血をこの地上のすべての被造物に、もう一度注ぎたいのです。
                 このわたしの神の手に、自分たちを完全に委ねなさい。あなたたちの霊魂の中で働くようにさせなさい。どうして普通の造られた物のままでいるのですか。わたしがあなたたちの中に入り、いっしょにすることを楽しむことができるように、わたしの神のいのちにあずかるように望みなさい。
                 わたしの食卓は、いつも準備ができています。あなたたちのお客であるわたしはすべてを与えます。わたし自身まで与えます。
                 わたしの尊い血を受けた後は、自分の心の奥深くに入り、自分たちの心の中でどんな働きがあるのかを、よく検討してみなさい。無関心にならないでください。習慣的にではなく、愛の炎にかられて、わたしの食卓に近づきなさい。わたしの愛が燃えあがります。この愛をあなたたちの協力で、わたしはあなたたちの罪をも焼いてしまいます。」

                聖なるミサにあずかるようにしなさい
                 聖母マリアが話されました。
                「恵みの状態で守るべき日、主日以外のミサにあずかるとき、わたしの愛の炎は強く輝きます。そのときずっとサタンの目が見えなくなっています。そのミサを人のためにささげるなら、その人に、わたしの恵みを限りなく注ぎます。ミサにあずかる人は、サタンの目をくらますのに大いに協力していることになるのです。
                 しかし、サタンに気をつけるようにしなさい。サタンは復讐にかられたものすごい戦いを何度となくいどんできます。サタンは、自分の時の終わりが近いことを知っていますので、さらに人々を苦しめるのです」。

                毎日自分を捧げなさい
                「一日の間にあなたたちの仕事を何度も主に捧げなさい。もしあなたたちが恵みの状態にいるのなら、その捧げものはサタンの目をくらませるのに役立ちます。サタンの目を見えなくすることがますます増え、どこにでも広がるように、わたしの恵みの中にいつでもいるようにしなさい。あなたたちに与えられるたくさんの恵みは、よく生かされれば、たくさんの人がよい方へ向かうのに役立ちます」。

                聖母マリアの嘆き
                 ある日、いつものように仕事をしておりますと、聖マリアがわたしに話されました。
                「あなたも母親です。わたしの無限の苦しみをあなたに分け与えます。あなたの六人の子どものひとりでも滅びの方へ行ってしまったら、どんなにつらいものかを考えてみなさい。私のこのひどい苦しみを考えて下さい。多くのわたしの子どもたちが地獄へ落ちるのをわたしは見るのです。わたしをどうぞ、どうぞ助けてください」。
                 このことばをわたしに話されたとき、聖マリアはご自分の苦しみをわたしの心に注がれました。わたしの心は苦しみで打ち砕かれてしまいました。
                「人はわたしを悲しみの聖母と呼んでいますが、わたしが今でも苦しんでいることをわかってはいません。おん子のカルワリオの道にたたずんでいたときの苦しみだけではないのです」。
                 聖母の嘆きは、わたしの心の中を苦しみで一杯にしました。聖マリアの願いである愛の炎を一刻も早く広める必要性をわたしは感じました。それは、サタンが一日も早く目が見えなくなり、たくさんの霊魂をほろびへと導く力を失わせるためです。
                 わたし自身、祈りの中でも激しい悪霊の誘惑にあいました。何とわたしを混乱に陥らせることでしょう、「信じることなんかないわ、どうせ努力はむだよ」とわたしの希望を打ち砕こうとするのです。
                 わたしはとても苦しみながら祈るのです。「あわれみ深い天の父よ、どうぞわたしがあなたの小さな花火でありますように。わたしはあなたの計画の一部分でありました。あなたはわたしを創り、わたしの死の時間をお決めになりました。あなたの永遠の善と力に誰が介入できるでしょうか。神ご自身でいらっしゃるあなたまで試みた悪の手から、わたしを救ってください。天の善い父よ、わたしは今、あなたの全能のみ手の強い支えを必要としています。あなたのおん子は、わたしにいつも謙遜であるようにと教えてくださいました。わたしは全能の神であるあなたの前に、ちがった態度をとることができるでしょうか。わたしはあなたの強い輝きの光をいただく小さな花火となって、あなたの光栄の前に立っています。聖マリアよ、あなたの愛の炎でサタンの目をくらましてください。サタンは、わたしを大罪にひきずり込もうとしているのです」。

                わたしをいつも見ているように
                 キリストがわたしを助けに来てくださいました。
                「わたしをいつも見ているように、わたしの視線はサタンの目をくらませます」。
                「愛するイエズス、どのようにして、あなたをみつめることができるでしょうか。わたしが目を閉じても、あなたの目がわたしの魂のいちばん暗い所まで、明るく照らすのが見えるのです。主よ、わたしの罪のため、わたしはどんなに悲しむことでしょう」。
                 イエズスがお答えになりました。「わたしのそばを歩く人は、わたしと一緒にあつめます。それには、わたしをきちんと見て、わたしと一致することが必要なのです。わたしの視線を耐えしのべないで、たくさんの人がわたしから離れていきます。わたしに背をむけずに改心するようにその人たちに伝えなさい。わたしはいつでも人を許すのを待っているのです。”愛するイエズス”とあなたが言うのをわたしが聞くとき、どんなにわたしがうれしいかわかって欲しいのです。それをあいさつのときの決まり文句のように、いつも言って欲しいのです。もし一時間のうち、この言葉しか言わないとしても、わたしは喜んでその人を受け入れます。どうぞ、わたしから逃げないよう願います。いつもわたしをみつめていますように。あなたの兄弟のひとりにも伝えて欲しいのです。わたしたちの目は見つめ合い、ただ一つのまなざしにならなければなりません」。
                「わたしの主よ、わたしの、わたしたちのまなざしは、あなたのまなざしと一致しなければならないでしょうか」。
                「あなたが絶望のとりこにならないように、わたしの目を見るようにと勧めるのです。また、その戦いのとき、目を伏せないように勇気づけるためにも、そう言うのです。地上に目を向けて助けを求めるのではなく、わたしにだけ視線を向けなさい。あなたたちが戦いのときには、わたしのそばにいて、わたしに委ね、天をあおぐようにと望みます」。

                聖体訪問を何度もしてください
                 ある日、「愛するイエズス、あなたを愛します」ということばで祈り始めたとき、主はわたしに話されました。
                「あなたが聖時間のために、ここに来るとき、誰かに会いましたか」。
                思い出すためにわたしはうつむき、そうしてこう答えました。
                「いいえ、主よ、誰にも会いませんでした」。
                イエズスが、「わたしをひとりにしないでください。少なくとも、あなただけでも、わたしをひとりにしないでください」とおっしゃいました。
                 わたしの心は苦しみで打ち砕かれてしまいました。主はつづけてお話しになりました。「もしあなたたちがわたしの所へ来ないのなら、どのようにしてわたしが恵みを与えることができるでしょうか。わたしの心は恵みで満ちあふれています。わたしの心は限りない愛です。あなたたちの心が一致しますように。わたしたちは皆一つにならなくてはならないのです。わたしたちの心臓は、一致して鼓動し、わたしたちの手は、一つに結ばれるべきです。人を皆、わたしの所へ連れて来なさい」。
                 その後、主がわたしたちみんなのためにもっておられる限りない愛をわたしの心に注いでくださいました。

                信仰と信頼をもつように
                「わたしの神よ、わたしの心は、聖母マリアの愛の炎が一刻も早く灯るようにと、その望みで燃え立ちます」。
                「あなたは、わたしを信じていますか。わたしたちの聖なる計画を信じているのでしょうか」。
                「わたしの主よ、あなたはわたしの信仰をご存知です」と答えますと、主は、信仰のすばらしい恵みで、わたしの心を一杯にしてくださいました。
                「他の人それを分かち合いなさい。信仰と信頼が欠けているなら、どんな徳も根を下ろせないことを知って欲しいのです。わたしたちが今準備している聖なる計画の土台は、信仰と信頼です。それをあなたが知らせ始めてもよいのです。
                 わたしのことばの重要さをよく考えてください。わたしたちは、あなたたちの最初の歩みに力と勇気を与えます。この計画をおくらせることも、すぐ途中でやめることもしてはいけないのです」。

                36 イエズスは橄攬山で、弟子たちに訓戒を与える

                2015.05.02 Saturday

                0
                  マリア・ワルトルタ『イエズスに出会った人々(一)』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
                  36 イエズスは橄攬山で、弟子たちに訓戒を与える
                   イエズスが、ペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコボ、フィリッポ、トマ、バルトロメオ、ユダ・タデオ、シモン、ケリオットのユダと一緒に、羊飼いのヨゼフを連れだって自分の家を出て、ナザレトの郊外へ行くのを見る。しかし、そのあたりで、大して離れていないよく茂ったオリーブの木の下で立ち止まる。
                   次のように話し始める。
                  「私のそばへ来なさい。私は、おまえたちと一緒にいたりいなかったり、この何ヶ月間か、おまえたちをはかったり研究したりしたのです。私はおまえたちを知り、人間として世間を知りました。いま、おまえたちを世間へ送り出そうと決めました。しかし、その前におまえたちに教えておきます。おまえたちに要求している使命は、柔和、賢明、平静、忍耐、根気、良心、知識とをもって世間を迎えることです。そのために、パレスティナでの長い旅を妨げる真夏の炎暑のさ中、おまえたちを弟子として教育し、また人間形成のために使うつもりです。私は、音楽家のように、おまえたちの間に不協和音を感じるので、私の名で世間に伝えるべき天上のハーモニーのために調律したい。私のこの弟子―ヨゼフ―を、自分の仲間たちに私のことばを伝える任務に指名します。あそこで、仲間たちのいるところでは、私がこの世にいることのみならず、私の教えの最も特徴的なところを教えるためです。
                   何よりもおまえたちに言いたいのは、おまえたちには愛と融和が絶対に必要だということです。おまえたちはどんなものですか。さまざまの社会階級、まちまちな年齢、あちこちの出身です。私はいろいろな知識や学説にまだ染まっていない人々を選ぶために、おまえたちを選びました。おまえたちのような人々に私の教えがもっと楽に浸透し、また、おまえたちが、将来、まことの神を全く知らない人々にも伝道すべきだから、おまえたちは各自もとの道を思い出して、こういうふうな人々を軽蔑せず、私がおまえたちをどれほどの思いやりをもって教え導いたかを思い出し、同じようにするためです。
                   私はおまえたちの何かの疑問を感じています。
                   ”私たちは教養はないが、単なる異邦人(1)ではない”
                  それはそうです。けれども、おまえたちだけでなく、おまえたちの中で知識人と金持ちを代表する人たちでも、さまざまな理由から変形された、宗教とは名のみの宗教の中に生きています。おまえたちの中にも律法の子らであることを誇りにする人が多くあるが、十人中八人はさまざまの人間的な小さな宗教の霧の中に、アブラハム、イザク、ヤコブの神のまことの聖なる永遠の宗教を混合しています。そのために、何の知識もない素朴な漁師であり、商人もしくは商人の子ら、高官もしくは高官の子ら、金持ちもしくは金持ちの子らであるおまえたちは、互いを見て、こう言えます。”私たちは皆、平等です”私たちは皆、同じことが不足していて、同じ教えを必要としています。個人的あるいは国家的欠点を持っているから、兄弟である私たちが、いまから真理の認識と、それを実行する努力において兄弟となるべきです。
                   兄弟たちよ、私はお互いにそう呼び合い、そのそうに見つめ合うのを望みます。おまえたちは、一つの家族になったかのようです。家族が栄え、世間からも感心して見られるのはいつだと思いますか。それは、心を一(いつ)にしているときです。一人の子供が他の子の敵となったり、一人の兄弟が他の兄弟に損させたりするような家族の繁栄が続くでしょうか。そんなことはありません。父親は無理してでも働き、さまざまな困難を克服するにさとくても、それは無駄な努力です。その努力は水の泡です。というのは、財産は粉々に崩れ、困難が増し、世間は心と財産とを破壊してしまう絶えざる争いに生きるそんな家族を軽蔑します。
                   おまえたちにこのようなことが起こらないように、心を一つにしなさい。愛し合いなさい。手助けし合うために愛し合いなさい。愛を教えるために、愛し合いなさい。
                   よく見ると、われわれを取り囲んでいる世界も、この大きな力を教えています。皆、特定の方向へ走っていく蟻の種族をごらんなさい。蟻たちについて行けば、なぜ同じ方向へ走っていくのが無駄でないか分かるはずです。ごらんなさい。あの小さな蟻たちは、われわれの目には見えない微細な器官を働かせて、野性チコリの広い葉っぱの下に大きな宝物を見つけました。それは何かというと、オリーブ畑の手入れをしに来た農夫か、食事のためにこの木蔭に休んだ旅人か、ぱっと花が咲いたように陽気な子供が落としたパンくずの宝物なのです。しかし、自分の体より数倍も大きなこの宝物を、どうして一人で巣穴に運べましょうか。すると、一匹の蟻を呼んで言いました。
                  『ごらん、さあ、すぐ走って帰って、他の姉妹たちに、ここは全家族の何日分もの食べ物があると知らせなさい。この宝物を小鳥が見つけて、仲間たちをご馳走に呼ぶ前に、早く、必死で走りなさい』
                   言いつけられた小さな蟻は、でこぼこの地面、石ころや邪魔する幹にもかまわず、ふうふう言いながら自分たちの巣に戻り、姉妹の皆に呼びかけます。
                   『姉妹の一人があなたたちを呼んでいます。皆のためのものを何か見つけました。でも、一人では到底運べません。皆、おいで』
                   その日一日働いて巣穴で休んでいた蟻も、倉に蓄えを積んでいた蟻も皆、一匹、十匹、百匹、千匹が動き出す…ごらんなさい。口で餌をつかみ、体を車がわりにして大きな荷物を持ち上げ、細い足を大地に踏ん張って運ぶ…。一匹はすべり落ち、もう一匹はパンくずが石と石の間にひっかかって動かせないので、体を曲げ、渾身の力を込めて引っ張り、またもう一匹は、その小さな種族の娘かもしれない、疲れ果てて止まるが、深呼吸してまた出発する。おお、何と団結していることか。そのパンくずは何匹かの蟻たちにくわえられ、ゆっくりと進み始めます。ついて行ってみましょう…小さな姉妹たち、もうちょっと、もうちょっと、そうしたらあんたたちの苦労が報いられます。もう疲れてしまってどうにもたまらないようだけど、負けん気が強く、ちょっと休むとまた出発…やっと巣にたどり着く。今度はどうするか、その大きなパンくずを粉のように細かくするために働きます。何という大作業。切る蟻もいれば、運ぶ蟻もいて、とうとうすべてが終わる。いま、すべてを安全なところへ納められ、幸せそうな蟻たち、通路を通り、いろいろな小部屋に楽しそうに姿を消します。彼らは蟻、ちっぽけな蟻にすぎない。だが、団結しているから強い。
                   これについて、よく黙想しなさい。何か聞きたいことはありませんか。」
                  「私は、これからもう、ユダヤに戻れないのですか」とケリオットのユダが尋ねる。
                  「そんなことをだれが言っているのですか」
                  「先生、あなたが。先ほど、ユダヤで人を教えるのにヨゼフを準備すると言われましたね! もう、あそこへ帰りたくないほど、いろいろしゃくに障ったのですか」
                  「ユダヤで何かあったのですか」と、興味しんしんのトマが言うと同時に、激しい口調でペトロが割り込んでくる。
                  「帰られたとき、すり減ってしまったようどと私が言ったとおりですね。”イスラエルのかの聖なる人々”は、あなたに何をしたのですか」
                  「友達よ、別に、何も。ここで見つけられないほど異常なことではない。全世界を回っても至るところで、私は友人にも敵にも会うことでしょう。しかし、ユダ。おまえに黙っているよう頼んだではないか」
                  「それはそうですけど。あなたが私の祖国よりもガリラヤの方が好きだと思うと黙っていられなくて。一言で言えば、あなたはえこひいきしています。ユダヤでも、あなたは尊ばれたではないか…」
                  「おお、ユダ、ユダ…。ああ、ユダ。おまえのいまのとがめこそ、それこそひがみです。おまえは憤慨とねたみにとらわれやすい。私は、おまえのユダヤで歓迎されたことを知らせるためだけに尽くし、それはユダヤの人人であるおまえたちが愛されるよう、偽りでなくそう言えたのです。そして、喜びをもって。なぜなら、神のみことばには、国とか対立、反感とか敵対などの差別がないからです。人よ、私はおまえたち皆を愛している…皆を…。私の最初の奇跡を、神殿と聖なる町のところで初めての奇跡を行ったのに、私がガリラヤをえこひいきしていると言えますか。おまえたち十一人の弟子のうち―正確には十人、従兄弟は身内だから―四人もユダヤ人なのに、どうして私が差別していると言えますか。イスラエルの小さな子供に私の名前を与えるため、イスラエルのある義人の臨終を見とるために旅程を組んだというのに。
                   おまえは私が差別していると言うけれど、自分の胸によく聞いてみなさい。間違っているのはおまえの方だということが分かるはずです。」
                   イエズスは威厳と優しさをもって話し始めた。しかし、これ以上、何も言わなかったとしても、話し初めに”ユダ”の名を三度、単なる調子で言っただけでも、大きな教訓を与えるに十分であった。一度目の”ユダ”は尊敬に訴える御稜威(みいつ)の神で言われ、二度目の”ユダ”は、もはや父親らしい調子で教える先生、3度目の”ユダ”は、自分の友人の味方をするにあたって苦しんでいる友人の願いだった。ユダはまだ、いら立っており、不愉快そうで、傷ついたようにうなだれ、下卑た感情が現れて、その顔は醜くなっている。
                   ペトロは黙っていられない。
                  「小僧め! いいから詫びろ。イエズスの代わりだったら、ことばだけでは済まさんぞ。先生が間違っているとは何だ。お坊ちゃんには尊敬が足りん! 神殿では、おまえたちをこんなふうに教育しているのか、それとも、教育されてもどうもならんのは、おまえの方か。それというのもな、いままで先生だったあの人たちだったら…」
                  「ペトロ、もういい。言うべきことは私も言いました。明日になったら、このエピソードを参考に教訓を与えたい。ユダヤで言ったことを、いま、おまえたち皆にくれぐれも言っておくが、私がユダヤ人に虐待されたことを決して母に言ってはならない。母は、私の苦しみを直感して、深く悲しんでいます。母を敬いなさい、母は隠れるようにしてひっそりと生きています。私のために、おまえたちのために、皆のために、徳と祈りだけに活発です。世間の濁った光と激しい争いは、この慎みと清さに包まれている家に触れないようにしなさい。すべてが愛であるところには、憎しみのこだまさえも聞かせてはならない。母を尊敬しなさい。後で分かるでしょうが、母はユディト(2)よりも勇敢です。その時が来る前に、世間のあわれな人々の毒々しいかすのような感情を無理に味わわせないで、あのような人々は、神と神の律法が何であるか、その処方さえも知らない人々です。さっき話していた人々は、自分を神の知恵を持っているものと思っているが、ただの偶像崇拝にすぎない。偶像崇拝と傲慢とを併せ持っている人です。さあ、行きましょう」
                  そして、イエズスはまたナザレトの方へおもむく。

                  (1)原文では、イタリア語でパガノ(pagano)、英語ではパガン(pagan)。日本の辞書では、大抵、異教徒、異邦人、非キリスト教徒、どれも厳密に言うと正しくない。パガノスということばは、原始キリスト教の発展時代のもので、田舎に住んでいる人々の回心は最後になった。そのために、もともとは、パガノスとは田舎に住んでいる人々の意味で、とりたてて差別や軽蔑の意味はない。けれども、次第にこのことばは、キリスト者でない人々が、キリストを知らず、キリストの掟を守らないために道徳的にも低いという意味になった。 いまのイエズスの弟子のことばでの、”私たちはペゲンではない”ということばには、相当の軽蔑が含まれている。けれども神のない、道徳のない人々という意味ではない。
                  (2)ユディト8・16、特に、13・1~16。
                   
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