10 エンマウスの弟子たちへの出現
2015.04.27 Monday
マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
10 エンマウスの弟子たちへの出現
中年の二人の男が、エルサレムに背を向けて、山道を足早に歩いている。年長の方が、三十半ばと思われるもう一人に話しかける。
「…こうして出てきてよかったと思うよ。我々には二人とも家族があるのだから、神殿はやっきになってこの問題を片付けようとしている。神殿のやり方が正しいかどうかは分からないが、少なくとも片付けようとしているのは確かだ。…こういう犯罪的なやり方…はっきり言って、あのやり方は犯罪的だと思うよ」
「まあまあ、そう言うな。我々は長年衆議会を信じて愛してきたから、あのやり方を気にするのだ。恐らくあなたの言う通りだろうが…それでも…」
「いやいや、元々愛とは照らすものだ。間違った道に踏み込ませてはいけない。衆議会、祭司、神殿の頭たちは、”神と太祖の間に契約が結ばれた(1)”と教える。その時から、全イスラエルが太祖とその契約を愛してきた。それなら、彼らの場合も愛は光であって、迷いに誘い込むものではない」
「…彼らは主を愛しているのではなく、何世紀も前から、”イスラエルの信仰”に生きている…」
「だが、考えてごらん、ファリサイ人は律法学士や祭司や神殿の頭たちの与えているものが、まだ信仰と言えるかどうか…。神に聖別されている金をつかって、裏切者を買収し、さらに番兵たちも買収(2)している。大方の人ももう知っているが、裏切者にはキリストを裏切らせ、番兵たちには嘘八百を宣伝させている…ああ、私には、永遠の力が、エルサレムの城壁をゆさぶり、神殿の幕(3)をはがしただけで手を止められたわけが分からない。私に言わせてもらえば、エルサレムの廃墟の下にフィリステ人(4)が、みな葬られてほしかった」
「…クレオファ、あなたは全く復讐の鬼だね」
「…そうとも、私は復讐を見たい。イエズスがもし単に預言者だけであったとしても、あの罪のない人に、あんな仕打ちをしてよいはずはない。イエズスを訴えた口実のたった一つでも、あなたは見たことがあるか?」
「いや、一度もない。だが間違いを一つだけ犯したかもしれない…」
「どんな間違いを? シモン…」
「十字架の上で、力を見せてほしかったことだ。もしそれがあったら、我々の信仰は固められたし、無信仰の独裁者への罰となったろう。イエズスは、奴等の挑戦にこたえて、十字架から下りたらよかったと思う…」
「…だが、…それよりももって偉大なこと、復活があったではないか」
「復活? 本当だろうか? どんな復活…霊だけの復活か、それとも肉体をもっての復活か…霊だけのものなら、霊は永遠のもので、死ぬことも、よみがえることも必要ではない…」
シモンがそう言うと、クレオファも答えて言う。
「私もそういうことを色々考えてみた…思うに主は、人間のどんな策略も及ばぬ神の本性をもって、よみがえらえたのではなかろうか…人間からの暴力に打たれて主の霊は恐怖を感じられただろうか…マルコが言っていたが、”イエズスは死に当たって祈っておられた、ゲッセマニのその場所は血まみれであった”と。ヨハネもまた言っていた、”その場所を人の足で踏ませるな、そこは神なる人が流された血の汗の地である。主が拷問をうけて血の汗を流されたのなら、きっと恐怖もそれに伴っていたはずだ”と」
「ああ、お気の毒な先生…」
二人はその痛ましい思い出を繰り返すように沈黙する。
その時、イエズスが二人に追いついて話しかける。
「…だれのことを話し合っているのか? あなたたちの話を切れ切れに聞いていたが、殺されたのはだれだったのか?」
イエズスは旅まわりの村人のような姿である。二人はそれがイエズスであるとは、夢にも思っていない。
「…旅の人、あなたはよその土地の人のようですね。エルサレムには足を止めなかったのですか? 見るところ、服は埃だらけだし、サンダルも擦り切れている。遠くから来られたのですね?」
「たしかに私は遠い所から来ています。」
「…それはお疲れですね。これからまた、遠くへ旅されるので?」
「そう、ずっと遠く、今やってきた所よりもっと遠くに」
「…それでは、何か商売をしておられるのですね」
「商売…私は偉大な主の羊を数知れぬほど多く集めています…全世界を歩きまわって、羊と小羊を集め、時には聖性の羊の中にも入ります。聖性の羊であっても、その聖性をすてれば、他の羊よりもずっとよい羊にもなれるのです…」
「むずかしい仕事なのでしょうね。そえでエルサレムにも足を止めずに歩き続けておられる…」
「…それは、どういう事ですか?」
「…どういう事って…その町で起こったことをあなただけが御存知ないらしいので…」
「その町で何が起こったのですか?」
「あなたは遠方から来られたから、御存知ないのでしょう…あなたの話し方を聞いていると、ちょっとガリラヤ人のようにも見えますが…ガリラヤ人の子で割礼をうけていても、よその国へ行ったなら、きっとこの国の事情にはうといでしょう…実はこの国では、三年前から、ナザレトのイエズスという偉大な預言者が出て、国中に宣教していました…神のみ言葉とみ業を伝えていたのです…その預言者は、神御自身のような声で人々に教え、人々をひきつけました…お分かりですか?…ところであなたは割礼を受けているのですか?」
「…私は長男で、主に聖別された者です」
「それなら、私たちの宗教のことも知っているでしょう…」
「それについては、一言半句も知らない事はない。その定めの初まりも知っている(ハラシヤ、ミドランヤ、ハッガダ)。 人間の智恵と本能、人間が生まれ出た時からそれなしには生きられない空気、水、火、光を知ると同様に、私はその事を知っています(5)」
「…それなら、イスラエルに、メシアが約束されていたことも御存知でしょう。そのメシアは、全イスラエルにを統治する王のことでしたが…イエズスはそうではありませんでした…」
「すると、どうだったのか?」
「イエズスは、地上の王国を全く問題にせず、ただ自分は永遠の霊的な国の王であると言っていました。ですから彼はイスラエルを統治するどころか分裂させてしまいました。今のイスラエルは、イエズスを信じる者と、イエズスを犯罪者と断じる者とに分かれています。
見たところ、彼は柔和とゆるしを説く人で、決して王様のようには見えませんでした。そんなことで、どうして勝利を治めることができましょう…」
「それで…どうなった?」
「それで…祭司長の頭たちとイスラエルの長老たちは、イエズスを捕らえ、ありもしない罪状を並べ立てて、死罪を言い渡しました…もしイエズスに罪があったとすれば、それは彼があまりにも善良な人で、またあまりにも厳しい人であったことです…」
「善良さと厳しさが同居していたのか?」
「そうです、同居していました…イスラエルの頭たちに、彼らの正体をあばき、真実を知らせる事についてはあまりにも厳しく、また、不正な敵を奇跡を行ってでも罰すればよいのに、それをしなかったのは、あまりにも善良だったからです…」
「洗礼者ヨハネのように厳しかったのか?」
「…さあ…どう言っていいか…終わりのころには、律法学士やファリサイ人を厳しくとがめ、神殿の人たちにも、神の裁きが下ると告げていました…けれども、どんな人でも、どんな悪人えも、心から自分の所業を改めれば、必ず神のゆるしがあるとも言っていました…
確かに律法学士が聖書を読んで研究するよりも、もっと深く、イエズスは人の心を読んでいました。…本当に慈愛深い人でした…」
「ローマはそういう無罪の人が死刑にされるのを許したのか?」
「イエズスの断罪を決めたのはピラトでしたが、彼自身もイエズスのことを義人だと言って、死刑にすることは望まなかったのです…ところが、イスラエル人は、ピラトの弱腰をローマ皇帝に告げると脅かしたので、ピラトはそのことを恐れるあまり、イエズスの断罪を決めたのです。その悲しい事実は、私たちを心底がっかりさせました……ところで、私はクレオファの息子で同じくクレオファと言い、こちらの男はシモンと言います。私たちはエンマウスの出で、親類なのです」
「私はこの人の長女の夫で、私たちは二人共、その預言者イエズスの弟子でした」
「…すると、今はもう弟子ではないのか?」
「…私たちは、イエズスがイスラエルを解放してくれるものと思っていました…そしてある奇跡によって彼の言葉が確認されるとも思っていました…それなのに…」
「イエズスはどんな事を言っていたのか?」
「…もう言ったではありませんか。”私はダヴィドの国に来た平和の王である…”それに”国に入れ”とも言っていました。けれども、彼はその国を私たちにくれませんでした…。
また彼は”私は三日目によみがえる(6)”とも言っていましたが、彼が死んでもう三日は過ぎました。”第九の時(7)”も過ぎたのに、彼はまだよみがえっていません。
何人かの婦人たちや番兵たちが、彼の復活を見たと言っているのですが、私たちは見ていません。ナザレト人の弟子たちがイエズスの死体を盗んだという噂ですから、番兵たちは自分の怠りを弁解するためにそんな噂を広めているのでしょう。私たちはみな、イエズスの死を見極めもせずに、恐れにかられて散り散りに逃げ出したのですから、だれ一人イエズスの死体を盗み出したりできなかったでしょう…。
それなのに婦人たちは…あの人たちの言うことが信用できますか?…
私たちもこの事についてはいろいろ話し合ってきました。復活は神となって霊だけでよみがえることか、それとも肉体を伴ったよみがえりなのかと。
婦人たちは、地鳴り震動があって墓に天使たちを見たと言っています。金曜日には義人の霊が墓の外に出るとは言われていますが…彼女たちに言わせると、その天使たちは人間ではなくて、生死を超えたものの姿だったそうです…。婦人たちは本当にそれを見たのでしょうか…私たちの頭だった二人の男が墓に駆け付けて見ると墓がからっぽなのは本当でしたが、イエズスの姿はありませんでした。それを聞いて、私たちは本当にがっかりしてしまいました…。もう何を考えていいか分かりません…」
「ああ何と、あなたたちはにぶい人たちだろう。預言者の言葉が、そんなにも信じられないのか(8)。もうずっと以前から預言され、言い伝えられていた事ではないか。イスラエルが誤ったのは、実にその事である。キリストが王であるという事実を彼らは取り違えた。そのために彼らはイエズスを信じられず、ひたすら恐れるだけで、今度はまた、あなたたちも疑っている。
神殿でも村々でも、上でも下でも、人々は、イスラエルの王を人間的な王だと考えていた。けれども神の計らいは時間、空間、手段をこえたところにある。人間の王国は時間に制限され、永遠につづくものではない。モーゼのことには、ヘブライ人を圧迫した強大なファラオがいたが(9)、それらはどうなったか。数知れぬ王朝が栄えてやがて亡びる。それらがあとに残すのは、地下の墓に横たわる屍だけである。永遠と比べれば、彼らの王国は、高々一時のことである。
イスラエルだけは、言わば神の糧を受けて、歴史の始まりから、永遠の王国であり、そのためにイスラエル、すなわち神につくられた国と言われている。けれども、王なるメシアの王国は、そのパレスティナ一国に限られているものではない。その王国は、東西南北、人間がいるあらゆる地に広がっている。それは敵も味方もすべてをのみこむ王国であり、決して、武力や暴力によってつくられるものではない。だからこそ、預言者たちの言う”平和の王”である。
人間の用いる手段は、先に言ったように圧制と暴力であり、超人間的な王国の用いる手段は愛である。
人間は圧迫する者に対していつか立ち上がり、それを亡ぼしてしまうが、愛だけにはそういう事はない。愛は、愛されるか、よし愛されないにしても、ただからかわれるだけで、それに向かって直接攻撃することはできない。愛は霊的なものであるからなのだ。
無限の神は、そういう手段を望まれる。永遠の神は、有限のものを求めてはいない。霊であるもの、霊へ導くものを望む。それが人々には理解できず、手段と形式においてまちがったものを霊と称していた。
最も崇高な王制とは、神のものである。そうではないか? インマヌエル、驚くべき強大なもの、聖なるもの、木の芽のようにたくましいもの、世紀にわたる父、平和の王、来るべきメシア、神なるもの、預言はそう語り継いでいる。神は御自分から出たものが、そういう王制をしくことを望まれたにちがいない。霊的な、永遠の王制をしくこと。略奪も流血もなく、永遠の慈愛に輝き、神のみ言葉の栄光と喜びを与える王、神はあわれな人間にそれを与えようとされた…。
強き王ダヴィドは、すべてのものを足台とするために、自分の足の下にすべてをおいた(10)。イザヤはその受難について語っているが(11)、それがすべてではない。彼は、”自らのいけにえによって、罪人となる人間を救う(12)”あがない主であるとも言われている。
ヨナについてもそうである。ヨナは大魚の腹にのみこまれ、三日間そこにいて、”預言どおり、その腹から吐き出される(13)”と語り残されている。イエズスも、”私の神殿、すなわち私の体は、破壊されてのち三日目に建て直される”と告げていた。そうではないか? あなたたちはイエズスが魔術をつかって神殿のこわれた城壁を建て直すと思っていたのか?
「いえいえ、そうではありません。城壁のことではありません。イエズスのよみがえりの事です。よみがえりができるのは、神だけの御業です。モーゼの預言が言っている”ほふられた羊”が、どのようにして死から生命によみがえったのか。サタンの奴隷である人間の”過ぎ越し”のために、彼がどのようにして死から生命へと移ったのかということです…」
「その問いに答えよう。イエズスは自分の肉体と、そこに住まわれる神の霊と共によみがえった。あがないを完成させるために、すなわち、人類が日々犯している限りのない罪をあがなうために、そのようにして復活された。かねがね語り継がれてきたように、彼はあらゆる苦難を耐え忍んでのち、定めの”時”が来た時に復活した。
ダニエルのことば(14)を考えるがよい。”時”が来た時に小羊は屠(ほふ)られ、また定めの”時”が来た時、彼は死からよみがえり、神を殺した者は罰を受けるであろう。
あなたたちに言うが、思い上がった知恵ではなく、心をもって、預言者のことばをはじめから思い返し、読み直してほしい。イエズスを”小羊”として語った多くの預言者たち、さらにモーゼの言う屠られた小羊のことも思い出せ。彼によれば、その小羊の血によって(15)、”イスラエルの長男”は救われると言われている。その血によって、神の長男は救われるのである。ダヴィドやイザヤ、あるいはダニエルの、メシアについての預言を考えなさい。
神の聖なる者の王制について、人間の知恵ではなく、霊的な意味で考えれば、死に対するイエズスの勝利、そしてその復活以上に、強力で正当なしるしはありえないことが分かるはずである。
十字架につけた者たちを、その十字架の上から罰することは、イエズスの使命とそのあわれみにはふさわしくないことも分かるであろう。イエズスは軽蔑され、拷問され、十字架につけられた者であったが、同時に彼は救い主であった。彼の体は十字架に釘づけられていたが、その意志と霊とは自由であった。彼が血をしたたらせつつ十字架上に踏み止まったのは、罪人たちに回心の時を与えるためであった。冒涜の叫びを上げていた者を、後悔の泣き声に変えるためであった。
今はよみがえり、御託身(ごたくしん)前の栄光ある姿に戻られた。彼は何年もの間、神の思し召しを果たすために人間となって己を空しくしていたが、十字架上で死ぬことによって、今や最も光栄ある姿になられた(16)。光栄ある肉体と共に、最高の光栄を得て、彼は今こそ栄光の永遠に入る。
そして、満ちあふれる愛と権威をもって、イスラエルをはじめ全世界の人々をその光栄の園へと呼ぶのである。イスラエルの義人たち、預言者たち、そして救いを求めたすべての民が、そこに集まる。もう、ユダヤ人もローマ人もない、アフリカ人もシリア人もない、イベニア人もケルト人も、エジプト人もフリジア人もなく、すべての差別を超えて、絶えることのない泉のほとりに集う。極北の民もヌミデア人と肩を並べ、その国に入る。言葉の差もなく、種族の別もない。肌の色の区別もなく(17)、すべての民が、光り輝く唯一の清い言葉と愛に結ばれる(18)。
それが天の国、神の国であり、その王は、死んで復活した主であり、その永遠の民は主を信じた人々である。あなたたちも信仰をもってその国に入るように心掛けよ。
私の友よ、ほら、もうエンマウスに入った。私は休むことなくこの道を歩きつづけて行く。まだ先は長い…」
「いえ、あなたは、私に教えてくれたラビよりも知恵ある方です。もしイエズスが亡くなっていなければ、あなたこそ彼だと言いたい位です。牧者を失い、イスラエルの嵐にまきこまれ、もう聖書の意味さえ分からなくなっている私たちですが、もっと御一緒して、あなたのお言葉を聞きたいのです。よろしいでしょうか。そうしてお言葉を聞いていると、私たちは、失った主の御教えの意味がもっと悟れると思います…」
「…イエズスは何年もの時をかけて教えてきたが、まだあなたたちに教えを完成させることはできなかったのか…あなたたちが、一点の疑いもなく信仰に至るには、まだ時が足りない…だが、それも無理はない。あなたたちだけの責任ではない。”血”は来たが、”火”はまだ来ていない。その”火”がくれば、すべてが分かり、そして信じることができよう。…では、私は行く」
「ああ、…、日はすでに傾き、暮れようとしています。疲れて、腹もへっておいででしょう。どうぞ私たちと一緒にここに止まり、神のお話しをもう少し聞かせてください」
請われるままにイエズスは家に入る。ヘブライ人の習慣どおり、疲れた足を洗う水桶と、飲み物がすぐ準備される。それから食卓につくと二人は、自分たちのために、食物を祝福してくださいとたのむ。
イエズスは夕焼の空に目をやり、腰掛けに着いてから、卓上のパンをとって割り、二人に分ける。
その時イエズスは復活者の姿を現される。それは彼が身近な人々に現われた時のような光り輝く栄光の姿ではないが、神の威厳に満ちあふれ、手には傷あとがはっきりと見てとれる。その目の光、その神々しさは、全く神そのものである。二人は思わず床にすべり下りてひざまずき、深く頭を垂れる。しばらくしておそるおそる目をあげて見ると、卓上のパンきれが残っているだけでイエズスの姿は消えている。
二人はそれぞれパン切れを手にとって口づけし、深く懐中におさめ、それから涙ぐみながら言う。
「…主だった…私たちは分からなかったが…それでも、聖書の話をしてくださっている時、心が燃えるような感じがしていた…」
「…そうだ、新しく天の光をあびたようで、目からうろこが落ちた気がする…たしかに、あれは主であったのだ…」
「…すぐ出かけよう…何だか疲れも飢えも感じない…エルサレムにいる人たちに、すぐこの事を知らせに行こう…」
「…そうしよう。ああ、年寄りの父に、この時を味あわせてやれなかったのが残念だ…」
「…いや、そうではなるまい。父親は義人だった。だから、我々弱い人間が見ていなかった神の子の復活を喜んでいたにちがいないない…さあ出かけよう。夜更けには向こうに着くだろう…思し召しであれば、きっと望みどおりに着くことができる…」
「死の門を開いた主だから、きっと城壁の門も開いてくださるだろう。…行こう…」
二人は夕暮れの外に出て、エルサレムに向けて歩き出す。
注
(1)創世の書6・17~22、脱出の書19~40章、特に19~20、24。
(2)マテオ28・12~15。
(3)マテオ27・51、脱出の書26・31~37、36・35~38、レビの書16章、ヘブライ9・1~10。
(4)判事の書16・22~31。
(5)知恵の書16〜19章。
(6)マテオ20・17~19、マルコ10・32~34、ルカ18・31~34。
(7)午後三時ごろを示す。
(8)預言者たちがイエズスのメシア性を主張している。例えば、イザヤの書2・1~5、4・2~3、7・10~25、9・1~6、11・1~16。エレミヤの書14~26章、23・1~8、30~31章、33章、エゼキエルの書34章、ダニエルの書7・9、ミカヤの書5・1~7、ザカリアの書8 72・1~23、9・9~10。ルカ4・17~21、24・25~27、使徒行録8・26~40。
(9)脱出の書一章。
(10)詩編110章、使徒言録2・19。36
(11)イザヤの書50・4~9、52・13~53。
(12)イザヤの書53・10~12。
(13)ヨナの書2章。
(14)ダニエルの書9章。
(15)脱出の書11・1~10、ヘブライ11・23~29。
(16)フィリッピ2・5~11。
(17)イザヤの書14~25章、使徒言録2・1~13。
(18)黙示録4~5章、21~22章。
15のつづき イエズスはトマと一緒の使徒たちに現れる
2015.04.20 Monday
マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
15のつづき イエズスはトマと一緒の使徒たちに現れる
「私はあなたたちに罪をゆるす権能を与えた。しかし自分が持っていないものを他人に与えることはできない。したがって、あなたたちは、罪に汚されて来るであろう人々を清めるために、罪で汚れた者であれば、どうして他人を裁き清める事ができようか。(2) ゆるしの権能を完全に持つには、最も清い者でなければならない。また、自分の目に針があり、さらに心に地獄の重荷を持っているならば、どうして他人を裁けようか。自分の罪のために、自分と一緒に神を持っていないのならば、どうして私は神の名によって、あなたをゆるすと言えようか。あなたたちは尊さ、威厳を考えよ。先に私は裁くため、また、ゆるすために人々の中にいた。そして今、私は御父の所に、私の天に戻る。それによって、私に裁きの権能がなくなったのではなく、むしろその権能はすべて私の手中にある。御父は私にそれを委ねられた。この世において、ゆるしを得られない人々を裁き、それにすべての人々が、自然の死によって役に立たない遺体を残し、自分の霊だけを持って、私の所に来るであろう時、私は最初にその人を裁くであろう。(3) それから人々は、神の命で取り戻した肉体に戻り、小羊たちは牧者と共に、また野生の山羊はその拷問者と共に、それぞれ二つに分けられるであろう。だが洗礼の清めの後、私の名においてゆるす人がいなければ、(4) 牧者と一緒にいられる人間はどの位であろうかl、そのために私は司祭をつくる。私の血によって贖われた人々を救うためである。だが私の血が救ったとしても新たに死に落ちる。そうであれば勢力を持っている人は七十回絶えずして、その人々を洗うべきです。死の餌食とならないように。それはあなたたちとあなたたちの後継者で行うように。それゆえに、あなたたちをすべての罪から解放する。なぜなら罪は、霊魂にとって神なる光を取り去り盲目にする。あなたたちには、見える必要がある。それにあなたたちには、理解する必要もあるからである。罪は、神なる理性の理解力を取り去り、人を愚かにさせてしまうから。あなたたちには清める霊があるが、その代わりに罪は、神なる霊の清さを取り去ってしまう。私の名において、裁きとゆるしを与えるあなたたちの使命は大いなるものである。人々のために、パンとぶどう酒を聖別する事によって、私の体と血になる時に、あなたたちは大いなる超自然的な崇高な事を行う者となろう。それを相応しく行うために、あなたたちは清くあるべきです。あなたたちは清さそのものにふれ、神聖なる肉体で養われるであろう。心、知恵、肢体とにおいて清くあるべきです。心で聖体を拝し、その神的な愛には世俗的な愛を混ぜるべきではない。そして知恵においても清くあらねばならない。その愛の奥義で理解するべきである。
世間の知識が残れば、あなたたちの中の神の知恵は死ぬ。更にあなたたちは体の清い者であるべきです。なぜなら、あなたたちには神のみ言葉が下るであろうから。あなたたちの、肉となるみ言葉を迎える心が、どのようなものであるべきかには、生きる模範がある。原罪なくして私を担った私の母、マリアである。ヘルモン山の峰が冬の雪のヴェールにまだ包まれている時、どんなに清らかであるか見なさい。橄攬山から見ればその峰は、百合の花束の積み重なったもの、あるいは青空の平原に、四月の風に運ばれた雲々、清さに向かって、ささげもののように上がる泡のように見える。しかし自分の香りを放って開く百合の花びらさえ、先に言った清さは、私の母となった懐ほどは清くはない。雪山に風が運んだ埃(ほこり)と、絹のような花びらの上に風が落とした埃がある。だが人間の目にはそれがつかめない。それほど軽いから。だがその埃は清さを汚す。王笏を飾るために、海の貝から採取した真珠を見なさい。その真珠は貝のくぼみにできる。肉体の接触を知らないその真珠層は、サファイア色の深海の中に爪立ちして完全である。それでも私を担った懐ほど清くはない。その中心には砂の一粒がある。非常に細かいけれども地上的である。三位一体の海に生まれた真珠であるマリアには、罪の一粒もなく、また罪の邪欲の元もない。この世に第二の位格を運ぶためであるその真珠は、地上的な邪欲の種ではなく、永遠の愛(5)の炎で煌めき、その貝に深く一つに固まり集まっている。煌めきはその真珠に万能を見つけたので、神的な流星の渦巻を生んだ。その渦巻は今、神の子らを自分に呼び寄せる。明星であるマリアの汚れなきその清さを模範にするように。後に海の中に手を入れて、罪を犯した哀れな人々の汚れた服を清めるために、その血を汲む時、より大きな罪に汚されないように、まったく清い者でなければならない。神の血に触れるためには先に述べた厳しさをもって、弱い人々に対し神の思し召しを教え導かねばならない。キリスト的でない厳しさ、あるいはそれを拒み、愛徳と正義に背けば、小羊たちの牧者ではない。おお!私の愛する弟子たちよ、あなたたちが私の始めた業を続けるために、世界中に司祭を派遣する。あなたたちはその業を続ける間、私が先に言った事をいつも思い出しなさい。私がこう話すのは、あなたたちを聖別し、さらに聖別されるであろう人々が、これらおことを人々に繰り返すためである。私は未来の世紀を見る。未来の限りない群集は、皆私の目前にある。私は見る。虐殺や戦争、偽りの和睦と恐ろしい皆殺し、肉欲と傲慢を見る。
悪の毒が人間を怒りで病気にしてから、まれに十字架に戻る人々に、砂漠の乾いた砂の中に清い波を知らせるオベリスクのように、私の十字架は愛をもって救いの水辺に建てられた。苦しむ霊魂は子鹿のように、また、つばめや鳩のように、それぞれの苦しみから立ち直り新たに希望するために、休みと安らぎを与えるその水辺に走り集うであろう。その十字架の業は、丸屋根が嵐と酷暑から守るように、悪を追い払う(6)しるしを持って、人間がそのように望む時まで蛇や猛獣を近づけない。
私は見る。人間また人間…。女、子供、老人、兵士、研究家、博士、それに農夫たちを見る。皆、それぞれの希望と苦しみの荷を背負って通る。そして多くはよろめきながら通るのを見る。苦しみがあまりに多く、そして希望が重い積荷から滑ったからである。それに多くの人々は道端に倒れるのが見える。なぜなら、もっと力強い、あるいはそれほど荷のない人々に、道端で押されるからである。また、ある人々は、通ってしまう人々に見捨てられたと感じて、死ぬほどたまらなくなり、憎しみや呪いまでに至ってしまう。哀れな子供たちも続いている。生活に打ちのめされて通る。そして倒れる人々の中に、私の愛は、憐れみ深いサマリア人、善い医者を、夜の中に光を、沈黙の中に声々をわざと配った。それは倒れる弱い人々が助けを見つけ、光を再び見出し希望するために。あなたは一人ぼっちではない。あなたの上に神がおられる。あなたと一緒に、イエズスがおられると言っている声を再び聞くように。私がわざとこうするのは、私の哀れな子らが、父の住まいを失って霊に死なないようにである。そして私の代理者たちが私の反射を見て、愛である私に(7)に、続いて殉ずるようにと望む。しかし私の心臓の傷、ゴルゴタで開けられた時と同じく、私の心臓から血を流させるこの苦しみよ! 神なる私の目には何を見ているか? 通り過ぎる数知れない群衆の中に司祭がいないのか? そのために私の心臓は血を滴らせている。また神学校はからっぽなのか? 私の招集はもはや人間の心に響かないのか? 人間の心はもうそれを聞けないのか? いや未来の世紀にわたり神の学校は存在し、その中に司祭を望む者がおり、そこから続いて司祭が出るだろう。なぜなら、少年期における私の招集は天の声で、多くの心に響き、そして彼らはそれに従うであろう。だが若さが成熟したとき、他の声が入り込み、私の声は、その少年たちの心に響かなくなる。世紀にわたって聖職者に話す私の声を聞く彼らは、今のあなたたちのような使徒であるように。司祭の服は残った。けれども司祭は死んだ。世紀にわたってあまりにも多くの司祭にその事は起こり得るであろう。彼らは何の役に立たない影。彼らは人を上げるてこ、渇きを取る泉、飢えを取る麦、枕となる心、闇の中の光、先に言った事を繰り返す声とならないであろう。彼らは哀れな人類に対してのつまずきの石、死の重荷となるであろう…。
おお! 恐ろしい事、未来における私の司祭たちの中にもユダを見つづけるであろう。友人たちよ、私は今、栄光の中にいるが、それでも泣いている。私は限りない群衆、牧者のいない、あるいはまれな牧者しか持っていない羊の群を哀れむ。限りない哀れみ! だが私の神性に誓って言うが、私は彼らに私の業に選ばれた人々が与えようとしないパン、水、光と声も与えるであろう。未来の世紀にわたって、パンと魚の奇跡を繰り返そう。
少ない魚と少ないパンをもって…。私は多くの人々の飢えを満たし、その人々を哀れむために残る! そして哀れな人々が滅びるのを望まない。また、このような者になれる人は祝されよ。それは、そのような者であるから祝されるのではない。自分の愛と犠牲によってそうなれたからである。また、使徒として知るであろう。司祭たちも最も祝される者であるように!
私の貧しい小羊たちのために、特別な光で輝く者であるように。友人たちよ、立ちましょう。そして私と一緒に来なさい。
私はあなたたちに祈ることを教えよう。祈りは使徒の力を養うもので、神へと至らせる」
そしてイエズスは立って狭い梯子の方へ向かう。
しかし、その梯子の一段目に至った時、振り向いて私を見る。自分の”小さい声”を捜す。弟子たちの頭の上に私を見て微笑み、私に我を忘れさせる。何という喜び、そして、私に祝福を与えて言う。
「平和があなたと共に」
注
(2)それは絶対的な不可能ではなく、ゆるしのその使命を最も効果的に果たせる不可能の事である。
(3)個人の裁きを示す。
(4)ゆるしの秘跡。
(5)至聖なるマリアはだれよりも神に一致した者で男の愛によってではなく、神の愛によって処女的に、イエズスを懐胎した者である事を暗示している。
(6)エゼキエル9章、マテオ24・29~31。
(7)一ヨハネ4・7~16。 15 イエズスはトマと一緒の使徒たちに現れる
2015.04.20 Monday
マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
15 イエズスはトマと一緒の使徒たちに現れる
イエズスが言われる。"小さいヨハネおいで、そのビジョンはあなたの気に入った小さなベンヤミンのように、あなたの手を私の手の中に置いて、私はあなたを私の恵みの園に連れて行こう。あなたのためと、他の人々のために、恵みに恵みを重ねよう。私があなたに現わし、またいう事は、どんな事でも大きな恵みです。だがあなたはその値打ちすら知らない。それは霊的な値打ちの事ではなく、あなたにとって無限のものである。今、言うのは文化的な値打ち、あるいはこの言い方を好むならば歴史的な値打ち、それは最も高値な宝石である。あなたは子供のようにそれを手の中に置いている。
あなたよりも知識深い、だがあなたほど愛されていない他のある人々がそれに注意して、私があなたに与えるこの宝石を、渇望をもってあなたに頼み、観察し、研究して、あなたの知識よりも大きな知識をもって評価し、そして人々の意志が、あなたの愛し方のようであるようにと願う。だがそれは複雑である。なぜなら彼らにとって非常に難しい事だからです。単純に、純粋に、まじりけなく愛し得るのは、小さな子供たちだけである。あなたは私に対していつまでも愛をもって残りなさい。そして私があなたに贈る様々の宝石を寛大に喜びをもって、待っている人々に与えなさい。私はあなたの小さな手を宝石で いつまでも満たすでしょう。恐れる事はない。与えなさい。与えなさい。あなたは小さい人々のために尽きる事のない宝石箱をもっている"
そして私は次の事を見る。
使徒たちは晩餐の部屋に集まって過越祭の晩餐の時のテーブルを取り囲んでいる。けれども尊敬のためか、中央のイエズスの席は空席のままに残っており、使徒たちは皆の席を決める人がいないので、適当に席に着く。ペトロはその席にいるが、ヨハネの席には、今はタデオのユダがいる。そして使徒たちの中で、一番長老のバルトロメオが次の席を占めており、それにヨハネの兄のヤコボが続いている。私から見れば、テーブルの右側の角にヤコボ、その近くのテーブルの狭い側には、ヨハネが腰掛けている。別の側にはマテオ、トマ、フィリッポがいる。その次にはアンドレア、タデオのユダの兄弟のヤコボと続き、それに他の側には熱心者のシモンがおり、ペトロの向かいは空席になっており、だれもいない。窓には閂(かんぬき)がかかっているし門もそうである。二つの芯のついている灯りは、テーブルだけに弱光を放っており、大きなその部屋は半影である。戸棚を背にしてヨハネは、仲間たちのために素朴な食事を準備し始める。
魚、パン、蜂蜜、それに新鮮な小型のチーズなどを、テーブルの上に並べている。そして兄に頼まれてチーズを配ろうとテーブルを回った時に主を見る。イエズスは不思議な方法で現われ、前の時と同じようにドアを開けず、それはあたかも母から生まれた時のように、硬い壁を通して現われた。テーブルについている人々の、後方にある壁の中央の床から高さ1メートル位に、夜の暗闇の中にだけ分かるような光が見え、ついで2メートル位の大きさになった光は卵形になる。照明の中に光を放ちながら、霧のヴェールの裏から進むかのように、徐々にはっきりとイエズスの姿が現れる。
私はよく説明できているかどうか分からないが、その体は壁を通して湧き出るかのようである。壁は開かれたのではなく、そのままに残っているのに体は通る。初めの光がイエズスの体から発され、イエズスが近寄るのを告げるかのようである。その形は最初は光の弱線みたいで、天の御父と聖なる天使とを見るような形のものである。それがますます物体化し、実際の体の姿を取る。栄光の主の神秘的な体。私はその姿をとらえるには、かなりの時間がたったように思えたが、その出来事はごくわずかの間に起こった。イエズスはよみがえって聖母に現れた時のように、白い服を着けている。非常に美しく、愛深く、微笑みながら、手を使徒たちに向けて差し伸べている。両手の二つの傷は、非常に強い光線を放ち、ダイヤモンドの二つの煌めきかに見える。服に覆われている足と脇腹とは見えない。けれども地上的ではないその服の布で神的な傷が隠されている所からは、光が漏れている。
初めには、イエズスが月光の白さの体だけであるかに見える。だがその後、後輪のほかに、具体化されて現れると、その髪の毛と、目と、皮膚とは、自然の色を持つイエズスである。神なる人のイエズス。そしてよみがえった今は、さらに荘厳になっている。ヨハネはそのイエズスを見る。他の使徒たちは、だれもその出現に気付かなかった。ヨハネは飛び上がって丸い小形のチーズの皿をテーブルの上に落とし、それから隅にもたれて、まるで磁石にでも引っ張られたかのように屈み、低いそれでいて深い「おお!」という声を漏らす。小形のチーズの皿が音を立てて落ちるのと、ヨハネの脱魂的なポーズを、ビックリして見ていた他の使徒たちは、ヨハネの視線に沿ってみる。ある者は頭を回し、ある者は体を捻ってイエズスを見る。彼らは感激して幸せそうに椅子を立ち、彼の方に走り寄る。イエズスは微笑みを浮かべて彼らに進み、床の上を他の人と同じように歩く。先はヨハネだけを見詰めていたイエズス。ヨハネは自分をいとおしむ、あの眼差しに引かれて振り向いたと思うが…。
今は、皆を見つめて言う。「皆に平和」。そして今はイエズスを取り囲む。だれかはひざまずき、ある者は立って、私にはその中にペトロとヨハネが見える。そしてヨハネが、その服の裾に接吻し、撫でられたいかのように、顔にその裾をもって来る。皆、尊敬の姿勢で深く屈んでいる。もっと早く近付きたいと思ったペトロは、マテオが先に出て席を譲るのを待たないで、椅子を飛び超えてしまう。少し離れて困ったような顔をしているのは、トマだけである。彼はテーブルの側にひざまずいたが、敢えて前に進む勇気もなく、むしろテーブルの角の後ろに隠れようとするかのように見える。使徒たちは聖なる愛深い渇望をもって、その手を捜し、イエズスは接吻されるために自分の両手を挙げて、屈んでいる頭の上に、使徒である十一人を捜しているかのように視線を注ぐ。しかし、主は初めからトマを見ており、そのようにしているのはトマに落ち着いたら来るように、時を与えているかのようである。信じなかった人は、自分の信じなかった事を恥じて、敢えて近寄ろうとしない。イエズスがトマを呼ぶ。「トマ、ここに来なさい」。トマはうろたえて泣きそうな顔を上げるが、まだ近寄らない。そして顔を垂れている。イエズスは彼の方に何歩か進み繰り返す。
「トマ、ここに来なさい!」
イエズスの声は最初の時より命令的である。トマは躊躇し、うろたえながら、イエズスの方に行く。
「見ないならば信じないトマ、見よ!」
だが、その声にはゆるしの微笑みがある。トマはそれを感じてイエズスを見る。そして本当に微笑していると見て、勇気をかき集めて進む。
「ここに来なさい、もっと近くに。見なさい。見足りないならば、私の傷にあなたの指を入れるがよい」と、イエズスは両手を出し、それから胸の上の服を開き、脇腹の傷跡を見せる。今、光はその傷から発されていない。イエズスが後輪から出て歩き出した時から、もう光は発されてはいない。だがその血生臭い現実そのままに現れる。二つの手首から親指まで至る穴があり、その上方は長い切り傷で湾曲している。(1) トマは震えながら見ているが、触れようとはしない。唇を動かしてはいるが、はっきりと話せない。
「あなたの手をだしなさい」
イエズスはトマに非常にやさしい言葉で言う。そして自分の右の手でトマの右の手を取り、その人差し指をつかみ、自分の左手の傷口まで持ってくる。そして貫かれている手首を感じさせようといして深く入れさせる。さらに手から脇腹にと運ぶ。そればかりかトマの四本の指の根元をつかみ、その四本の太い指を脇腹の傷口に置き、更に、その傷の中に入れる。そしてトマを厳しく、それでいてやさしい眼差しで見つめながら言う。
「あなたの指をここに置きなさい。そして望むなら四本の指だけでなく、手も私の脇腹に入れ、そしてもう不信仰な者ではなく信じる者となるように」
トマは、今触れている神的な心臓の近さで勇気づけられたか、腕を上げ、後悔の激しいすすり泣きをもって、崩れ落ちるようにひざまずき、やっとの事で言う。
「我が主よ、私の神よ」
それ以上は何も言えない。彼をゆるしたイエズスは、右手をその頭に置き、
「トマ、あなたは私を見て信じたが、私を見ずして信ずる人は幸いである。信仰が見る力によって支えられたあなたたちを報いるならば、見ずして信ずる人には、どんな報いを与えるべきか!」
それからイエズスはヨハネの肩に腕を置き、ペトロの手を取ってテーブルに近寄り、自分の席に腰掛ける。今、皆は過越祭の時と同じように腰掛けており、イエズスは、トマがヨハネの次に腰掛ける事を望む。
「…友よ、食べなさい」と、イエズスが言う。
しかしもうだれも食べようとはしない。イエズスを眺める喜びが彼らを満たす。イエズスは散らばっている小さなチーズを皿に集め、切り分けて分配し、最初の一切れはパンの一片の上に載せ、ヨハネの背後からトマに渡す。そして壷からぶどう酒を杯につぎ、使徒たちに配る。次に奉仕されるのはペトロである。それからイエズスは蜂蜜の巣を渡すように頼み、それを割り、最初の断片を愛に満ちた眼差しと微笑をもって、ヨハネに渡す。そして彼らを元気づけるため、それを自分も口にし、蜜だけを吸い取る。ヨハネはいつもの仕草で頭をイエズスの肩にもたせて、イエズスは彼を胸に寄せ、その姿勢で皆に話す。
「友よ、私があなたたちに現れる時に狼狽すべきではない。私はあなたたちと共に食して眠りを分かち合った、いつものあなたたちの先生で、あなたたちを愛したがために、あなたたちを選んだ私である。今でもあなたたちを愛している」
イエズスは最後の言葉を強調し更に続ける。
「あなたたちは試練の時に私と一緒にいた。栄光のときにも私と一緒にいるであろう。頭を垂れるな。日曜日の夜(復活後)初めてあなたたちの所に来た時、あなたたちに聖霊を吹き込んだ。その時いなかったトマ、あなたにも聖霊が降るように、霊の吹き込みが一瞬の洗礼であるのを知らないのか? 霊は愛であり、そして愛は罪を消すのを知らないのか?それによって、私が死につつあった時、逃げたあなたたちの罪がゆるされた」
そう言いながら、イエズスは逃亡しなかったヨハネの頭に接吻し、ヨハネは喜びの涙にひたる。
つづく
注
(1)ヨハネ19・31~37。
66 トマ
2015.04.12 Sunday
カタリナ・エンメリック『キリストのご受難を幻に見て』光明社刊より
六六、トマ
安息日が終わってから、私は前の日曜のように玄関の間の愛餐を見た。それはまだおそくなく、ランプはともされていなかった。何人かの使徒や弟子たちが広間におり、その他の者も集まって来るのを見た。かれらは出たり入ったりしていたが、長い衣を着てこの前の時のように祈りの用意をしていた。かれらがこうして準備をしている時、トマもまた広間に入って来た。私はかれらがトマに話しているのを見た。
二、三の者はかれの腕を握り、手をふりあげて断言していた。かれはしかし手早く着更えをし、かれらは自分らの言うことをかれが信じていないのを見た。そうするうちに、前掛けをつけた一人の男が入って来た。かれは召使いであった。その一方の手には灯った小さなランプを持ち、他の手には鉤のついた棒を持っていた。それでかれは広間の中央のランプを引き下して灯をともしてから再び高くあげて広間を出て行った。
かくするうちに私は聖母がマグダレナともう一人の婦人と一緒に入って来られたのを見た。この三番目の婦人は玄関の間に残ったが、マリアとマグダレナは広間に入られた。ペトロとヨハネは二人を迎えに歩み寄った。
そうして扉は閉ざされ、一同は祈りに整列した。二人の婦人は扉の両側に立ち、手を胸の上に組んでいた。使徒たちはまず至聖所の前に跪いて祈ってから、ランプの下に並んで詩編を幾組にも分かれて唱えた。暫くして一同は休憩しお互いに語り始めた。かれらはチベリアデの湖の方に行こうと語り、その際どういうように分かれて行こうかと話し合っていた。しかし間もなくかれらの顔に、不思議な熱誠と興奮がはっきりと現われた。かれらは主のご近接を感じたのである。
私はイエズスが輝くような白い衣を着、白い帯をして中庭を行かれるのを見た。主が玄関の間の扉に歩み寄られると、それは主の前に自然に開き、主の後に再び閉じた。玄関の間にいた弟子たちは、扉の方を見、さっと両側に分かれた。イエズスはしかし足早に玄関を通り抜け、広間にお入りになった。使徒たちもまた主のため直ちに場所をあけ、歩み入らせられた。主の歩みはしかし少しも普通の人のようではなく、また私が幽霊に見たような漂いでもなかった。 ―
広間では一時にすべてがパッと広く明るくなった。イエズスは輝きに包まれていたが、弟子たちはこの光の圏外に退き下がった。私は、そうしなければかれらは救主を見ることができなかったのであろうと思った。―
まずイエズスは「あなたたちに平安あれ!」と仰せられ、次いでランプの下にお進みになると、自然に主の周りに狭い円ができた。トマはイエズスを一目見るや、非常に驚き恥ずかしそうに後ずさりをした。イエズスはしかし右手でトマの右手をとり、その人差し指を握ってご自分の左手の傷の中にお入れになった。それから主はまたかれの左手を取って、その指をご自分の右の傷に入れ、最後にトマの右手をご自分の衣の下に入れさせて、その人さし指と中指とを右脇の傷の中に入れさせられた。主はその時二言三言仰せになった。トマはしかし主の前に「私の主よ、私の神よ。」と言いながらひれ伏してしまったが、イエズスはなおかれの手をお握りになっていた。トマは失神したようになってしまった。まわりに立っていた人々はかれを支え、師はかれの手を持って再びひき起こされた。
イエズスがトマの手を握られた時、私にはそのおん傷が血の流れる傷ではなく、輝きを放つ小さな太陽のように見えた。他の弟子たちはこの出来事に非常に感動し、主がトマに触れさせたおん傷を固唾を呑んで見詰めた。
私は聖母がおん子のご出現の間、少しも外面的な感動を現さなかったのを見た。聖母は恍惚として、物静かな深い内面的な祈りに沈んでいた。マグダレナは、はるかに感動していたように見えたが、しかし弟子たちよりずっと外には現わしていなかった。
イエズスはすぐにはお消えにならなかった。主はなお弟子たちとお語りになり、また少し食べ物をお求めになった。私は主のために隣の部屋から再び楕円形の小皿を主の所に持って来たのを見たが、それは第一回目のようなものではなかった。その上にはまた一切れの魚がのっていた。主はその食物を召し上がられ、祝してまずトマに、次いで他の者にもお与えになった。さてイエズスはかれらが主を置き去りにして言ったにも拘らず、なぜ今かれらの真中にお立ちになったかを説明された。主はまたペトロに、その兄弟を力づけるようにと言われたことを語られ、更にかれが主を否んだけれども、かれを指導者としてかれらにお与えになると仰せになった。それはまた羊たちの牧者となるのである。だからペトロは大いなる熱心をもつようにと仰せになった。―次いでペトロは主の前に跪き、主から小さな菓子のような丸い食べものを戴いた。私は皿を見たことも覚えていないし、また何処からイエズスがそれを取り出されたのかも知らない。私はその食物が輝いていて、内面的なものであるのを見た。またペトロがそのために特別な力を得たことがわかった。
私はまた救主が使徒の頭(ペトロ)に息を吹きかけられて、特別な権力を注ぎ込まれたのを見た。さらに師はかれの上におん手をかざし、かれに力と他の者に対する大権とをお与えになった。
イエズスはまた聖霊がかれらに降臨された時の大洗礼についてお語りになった。また主がペトロに力をお与えになったように、他の者にも分け与えるように指示をなさった。主は最後にチベリアデの湖に漁りに行くようにお命じになった。そして救主は消えられた。一同はその後感謝の詩編を唱えた。イエズスはこの時はそのおん母とも、またマグダレナともお話しされなかった。 七、 イエズス橄攬山へ向かいたもう
2015.04.02 Thursday
七、 イエズス橄攬山へ向かいたもう
イエズスは十一人と共に広間を出られた時、もはやみ心は憂いに沈んでいた。そしてその憂いはますます募っていった。主は供を、ヨザファットの谷を通る回り道をして、橄攬山へともなわれた。一同がこの谷に入った時主は、「自分はいつか再び、この谷に来るしかし今のように貧しく、力ない者としてではなく、世の審判者として来る。その時人々は、恐ろしさの余り『山よ、われらをおおえ!』と叫ぶだろう。」と仰せられた。しかし弟子たちはこの時も主の仰せられたことを了解出来ずにいた。
一同はあるいは歩みを進め、あるいはまた静かに立ちどまった。イエズスはかれらと語りたもうた。その時主は「今夜みなわたしのことでつまずくだろう。それは『われ牧者を打たん、かくて羊の群れは散らされん』と書き記されているからである。しかしわたしが復活した時はおまえたちより先にガリレアに行くだろう」と仰せられた。
使徒たちは聖体拝領と、愛に満ち溢れた荘厳なイエズスのお言葉によって感激と、親愛に満ちていた。そして主に寄り添い、いろいろな方法で自分たちの愛を言い表していた。一同は主を決して置き去りになどするようなことは致しませんと強調していたが、主はくり返し、そのことについて仰せられた。するとするとペトロは、「たとえ他の者が主につまずくともわたしだけは決してそんなことは致しません」と言った。それで主はまたもやくり返し「本当にそのおまえが今晩鶏が鳴く前に三度わたしをいなむだろう」と言われた。しかしペトロはどんなことがあってもそれを認めようとせず「たとえわたしがあなたと共に死ななければならぬとしても、決してわたしはあなたをいなみません」と主張した。ほかの者もみな同じことを言った。イエズスはしかし、ますますおん悲しみに包まれていった。使徒たちはおん悲しみを、人なみの気休めでしずめようとした。そして自分たちの忠実さを主に誓った。しかし、ついにかれらも疲れ、疑い出した。かくて試みがかれらをおそい始めたのだった。
橄攬山には垣をめぐらし、貴重な灌木や果樹を植えこんだ大きな園があった。多くの人たちは、そして使徒たちも、この園の鍵をもっていた。そして中にはいろいろな、公開宿泊所や、厚く葉でおおわれた小屋があった。これがゲッセマニの園であった。
橄攬山の園は一本の道路によって、垣根をめぐらしたこのゲッセマニの園と隔てられ、一般に開放されていた。それはただ土塀に囲まれ、橄攬山の斜面の方に伸びていた。
イエズスが弟子たちと園にいたころには、すでに全く暗くなっていた。主は深く憂いに打ち沈み危険の迫って来たことを語られた。弟子たちはすっかり狼狽してしまった。ゲッセマニの園で主は八人の使徒に「わたしがわたしの場所に祈りにいっている間、ここに止まっておれ」と仰せられた。それからペトロとヨハネおよび大ヤコブを連れて山のふもとの橄攬の園に行かれた。 主は迫り来る戦いを予感され、言葉に言い尽くし難い悲しみに包まれていた。ヨハネは主がいつも、自分たちの慰めであられたのに、一体どうしてそうお悲しみなのですかとお尋ねすると「わが魂は死ぬるばかりに憂いている」と仰せられた。主は三人の使徒たちに「ここに止まって、わたしといっしょに起きていよ。そして誘惑に陥らぬように祈れ」と言われた。
三人はそこに残った。イエズスは少し前の方に進まれた。恐ろしい幻影が主に押し迫って来た。主は非常な恐怖におののきながら、使徒たちの所から左手の方に下って行った。おおいかぶさるように突き出している岩の下の六フィートほどの深さの洞の中に逃げ込まれた。洞の底はゆるやかに、灌木が入口におおいかぶさっていたので、その中に入ると、ちょっと、外からわからなかった。
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