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2017.01.04 Wednesday

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    神さまのこどもの みなさんへ

    2014.12.30 Tuesday

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      『小さい祈りの本』の「はじめに」から 昭和45年10月20日初版 佐久間 彪著 あかし書房

      みなさん
       みなさんは 神さまの こどもです。
       こころを合わせて、この広い世界のこと、そして
       わたしたちみんなの父、神さまのことを考えましょう。
       いちにちも早く、神さまの愛のこころで世界中が
       いっぱいになるように祈りましょう。
       とくにみんなでいっしょにお祈りするのは とても大事なことです。
       神さまはみなさんのお祈りをきっと聞いてくださいます。
       神さまはみなさんが大好きなのですから。

      1970年9月        みなさんの司教 白柳 誠一 東京大司教

      神さまのこどもの みなさんへ 

      24 原罪について

      2014.12.30 Tuesday

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        あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より
        24 原罪について

         イエズスが言われる。
        「私の母のことばは、最も理屈っぽい人のどんな躊躇も散らすはずであるが、神のことさえも、自分たち人間の尺度をもって計ろうとする人々が多くいる。神の計らいは限りなく、人間の考え方を超えているので、あなたたちも人間風にではなく、霊によって考え、神に従う努力をすれば大変、役に立つことだろう。あなたたちの考えが勝手に錠を下ろしたところにとどまるべきではない。この考えは人間の理性が完全無欠であることを前提とするので傲慢である。全く完全なのは神だけで、神は、そうするのがよいと思われれば、世間の目から見れば無知な、みじめな、愚かな、幼稚なものとして軽蔑されるような人の知恵と口を借りて啓示される。神の上智は、人間の理性の傲慢さをまごつかせるのを好むかのようである。神は、自分にこれという思想もなく、学問もない代わりに、愛と清さですぐれている人々に、ご自分の知恵を注ぐのを好まれる。人間たちよ! ファティマ、ルルド、ガダルペ、ラ・サレットのような所を考えてごらん。そこには本当の聖なる出現があった。これを見るのに召されたのは、年齢、文化、身分などからいえば地上で最も貧しいあわれな人々にすぎなかった。”聖寵”は、このような知られざるもの、”皆無に等しいもの”にご自分を現わし、ご自分の伝令とされる。その場合、人間はどうすべきか? あの税吏のように深くへりくだり、こう言えばよい。『主よ、私はあなたを知るに値しない罪びとです。このような人々をとおして私をなぐさめ、訓戒と天の案内者とを与えるあなたの慈悲は祝されよ(1)』『何だ! それは迷信、空想、異端にすぎず不可能なことだ』と言うな。頭のすぐれていない人は、神の知識を深く知ることは不可能だと言うのか? なぜ不可能か? 私は死者をよみがえらせ、狂気を治し、口を開き、目を開き、白痴に知恵を与えたではないか。私は悪魔たちを追い出したと同じように、魚たちには網の中に入ること、パンがふえること、水がぶどう酒に変わること、嵐に大凪となる
        ことを命令したではないか。神にできないことは何だろう。神の子キリストがあなたたちの中にくだる前に、神はご自分の命令で活躍していた僕たちに、奇跡を行わせたではないか。年寄りのサライは、後に私と契約を結んだイサクを産んだではないか? モーセの命令によってエジプトがさまざまの災いに襲われ(2)、イスラエルの民が通るように海が開かれ(3)、ヨシュアは太陽を止め(4)、ダヴィドが巨人を倒すなどの不思議を行ったではないか(5)? その上、新約は、それぞれの花が一つ一つの奇跡である花盛りの花壇のようではないか? 奇跡の主はだれであるか、神に不可能なことは何か? だれが神に等しいか?
         あなたたちは頭を下げ、礼拝せよ。人類の存在がなくなる前、キリストは以前とキリスト以後の預言、または創世の書の最初のことばから始まる聖書の象徴するところが知られるべきであるので、私はまだ説明されていないところについて説明する。この贈物を快く迎え、豊かな実となるようにせよ。私が人間の中にいた時に、私の訓戒に対して心を閉じ、超自然の奥義と真理とについて、私と肩を並べることができなかったために、私のことを悪魔憑き、冒涜者と言ったあのユダヤ人のようになるな。
         私は”比喩的な木”と先に言ったが、今は”象徴的な木”と言おう。そうすればあなたたちは、もっとよく理解できるだろう(6)。その象徴ははっきりしている。神の二人の最初の子らが、あの木に対してどんな態度をとるかによって、彼らには善と悪とに対して、どれほどの傾きがあるか分かっただろう。黄金を試す王水のように、カラットを量る貴金属細工師のはかりのように、その木は神の命令によって試金石となって、アダムとエバとの金属の純度の度合いを調べた。
         これについて、あなたたちの異議をもう聞いている。『そんな罰は重すぎるし、罰のもとになったあの事がらは幼稚だった』
         そうではない。あの二人の子孫である、あなたたちの”今の”不従順だったら、彼らの場合ほど重くはない。あなたたちは、もう私にあがなわれているが、サタンの毒が―ある病気にみられる後遺症のように―血の中に完全になくなることはない。しかし、あの二人は罪を知らずに聖寵を所有していたのだった。そのため愛と無垢しか産まない聖寵に支えられて、あなたたちよりも強いはずだった。だから、その賜物をもらったにもかかわらず堕落した二人の罪はより重い。
         与えられて食べてしまった、その”実”も象徴的だった。それは、神の命令にそむいてサタンのそそのかしによって、味わおうとした経験の実であった。私は人間に愛を禁じたのではない。ただ悪意なしに相愛すること、それだけを望んだ。私が彼らを清く愛したと同じように、彼らはどんな肉欲にも汚されない清い愛をもって相愛すべきであった。
         聖寵は光であり、これを所有する人は、何を知ってよいかも分かる、ということを忘れてはならない。”聖寵に満ちあふれるものマリア”はすべてを知っていた。上智である神に教えられて、どんな場合でも、いつでも清く選ぶことができた。だから、エバも知ってよいことは知っていた。良くないことを知る、ということは無用である。すなわち、神から来る知識以上知る必要がなかった。しかしエバは、神のみことばを信ぜず、従順の約束を破った。エバはサタンの言うことを信じて約束を破り、よくないことを知るのを望み、知ってどんな呵責もなくそれを愛し、私がそんなに清いものとして与えた愛を腐敗したもの、品位を失ったものとしたのである。彼女は楽園の花園の中を幸福に走りまわり、木がその梢を沼地にかがめずして花咲くように、自分のそばに子孫の花が咲くのを見ることができたのに、その代わりに堕落した天使のように、泥の中にたわむれてしまったのである。
                 *         *          *
         あなたたちも、私が福音書の中で言っている、あの愚かな子供のようになるな(7)。あの子供たちは歌声を聞き、耳をふさいだ。音楽を聞いて躍ろうとせず、泣き声を聞いて笑おうとした。お前たちも固苦しく考えず、何でも否定するものであるな。悪意と頑固さなしに、皮肉と不信仰でなく光を受け入れよ。
         このような問題については、これだけで充分である。私はあなたたちに、新たに天国を開き、あなたたちをあがなうために死んだ者に対して、どれほど感謝すべきであるかを理解させるために話した。なぜなら、あなたたちの90%がエバのように、サタンの息吹きとことばに中毒して、愛するためではなく情欲を満たすために生き、天のためではなく泥のために生き、もはや理性も魂も持っていない犬のようだからである。あなたたちは魂を殺し、理性を腐敗させたのである。まことに言うが、獣たちが互いの愛において、あなたたちに勝るのである。」

        (1)ルカ18・13。
        (2)創世17・15〜21。
        (3)脱出7・17〜17・7まで。
        (4)ヨシュア10・12〜14。
        (5)一サムエル17。
        (6)善悪の木とは、本来、姿、形としてはまことの木だったが、同時に象徴でもあった。
        (7)ルカ7・31〜33。

            

        59 古聖所に降りたもう

        2014.12.26 Friday

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          カタリナ・エンメリック『キリストのご受難を幻に見て』光明社刊より
          59 古聖所に降りたもう

           イエズスが高き叫びと共に死したもうや、わたしはいと聖なる霊魂が天使の一大軍勢に囲まれて、光の形となって十字架のかたわらから地の中に下ってゆかれるのを見た。しかしわたしは神性がたしかに霊魂とも、また十字架にかけられたもうた体とも一致しているのを見た。わたしは、それがいかようにして起こり得たかを言い表すことはできない。 ― イエズスの霊魂が行かれた場所は三つに分かれていた。古聖所(こせいじょ)の前には緑がかったと言おうか、明るい晴れ晴れとした所があった。わたしはこの所へいつも煉獄の火からゆるされた霊魂が、天国に入れられる前に入ってくるのを見た。 
           救いを待ちかねている者たちのいる古聖所は、灰色の靄(もや)のようなとばりに包まれていろいろの組に分かれていた。光輝き、あたかも凱旋する者のごとく天使にみちびかれたもう救い主は、左がわのアブラハムまでの太祖の一団と、右がわのそれ以降の人々のいる間を通って来られた。霊魂たちは救世主とはまだ気がついていなかったが、みな喜ばしいあこがれに満たされた。あたかも救いの靄がみなの上に下ったようであった。イエズスは最初に人祖アダムとエワの住んでいる靄のたちこめた室に入られた。主がかれらに話しかけられるや、二人は言葉に尽くせぬ無上の喜びに満ち、主を礼拝した。次いでかれらはいっしょにアブラハム以前の太祖の所に行った。天使は戸をたたき、あけるように命じた。わたしには天使たちがこう叫んでいるように思われた。「門をあけよ! 扉をあけよ!」イエズスはその中に勝利者として入られた。しかしこれらの魂は主をただわずかに救世主と知り、おぼろげに主を悟っただけであった。しかし主がご自身を明かすやいなや、一同は主を賛美し始めた。次いで主の霊魂は本来の古聖所である右がわの場所に行かれた。その前で天使にともなわれ、進みくるよき盗賊の霊魂に会われた。イエズスはこの霊魂に言葉をかけられてから、かれと天使たち、および救われた者たちと共に他の場所に行かれた。
           その場所はわたしには高い所にあるように思われた。それはまず地下の墓場を通って地上の聖堂に登って行く感じであった。そこには聖なるイスラエル人、太祖、次いでモイゼ、旧約の裁判官、王、予言者、イエズスの先祖、およびヨアキム、アンナ、ヨゼフ、ザカリア、エリザベト、ヨハネの親戚がいた。言い表わし得ない喜びとがすべての心に満ちあふれた。かれらは主に挨拶し、主を礼拝した。
           多くの者が墓から身を起こし、主に対する見える証明を行なうために地上に派遣された。それはちょうどエルサレムにたくさんの死者がその墓から出て来た時であった。かれらの出現は歩きまわる死骸のようであった。次いでかれらは再び体を地中に横たえた。
           その次にわたしはこの凱旋の更新が一層深い地域に再び進んで行くのを見た。そこは一種の清めの場所で真理をおぼろげに悟り、またあこがれていた敬虔な異教徒らがとどまっていた。わたしはこの霊魂たちもまた感動すべき喜びをもって救い主に敬意を表しているのを見た。こうした救い主の凱旋行進は非常な速さで霊魂のとどまっている多くの場所をめぐり、そこでいろいろなことをされた。
           最後にわたしは主が非常に厳粛に、奈落の中心たる地獄に行かれるのを見た。それは途方もなく大きな、恐ろしい、黒い金属のように光った岩で作られているようにわたしには見えた。その入口には閂(かんぬき)と錠のかかったまっ黒い門があり、思わず戦慄を覚えるほどであった。恐ろしいほえ声と叫びが聞こえて来た。
           門が天使によって突き開かれるや、不気味な呪い、わめき、悲嘆の叫びがうなり声となって響いて来た。天使は悪魔の一群を投げ倒した。あらゆるものはイエズスを認め、礼拝しなければならなかったが、かれらにとってそれは非常な苦しみであった。わたしはイエズスがユダの霊魂に言葉をかけられたのを見た。中央には闇の奈落があった。そこにはルチフェルが鎖につながれていた。わたしに示された事柄をすべて言うことはとてもできない。それはあまりにも多すぎて順を追うて話すことは全く不可能である。またわたしは非常に病気でもあるから。それで、もしそれらを語るとすると、あらゆるものがもう一度眼前に現われて来て、それを一目見ただけでも死にそうに感ずる。
           しかしわたしは古聖所や清めの場所から来た霊魂たちがイエズスの霊魂にともなわれて天のエルサレムの下にある心地よき所に行くのを見た。わたしはそこでちょっと以前わたしの聖なる友を一人見た。そこによき盗賊の霊魂も来たが、今こそ主の約束の通り再び楽園で主にまみえたのである。そこには魂たちのために天の食卓の喜びといこいとが待っていた。
           わたしは主をいろいろな場所で、海上でさえもお見受けした。主はあらゆる被造物を解放されるごとくであった。至る所で悪魔は主から逃げ去り、奈落に落ちて行った。またわたしは地上、多くの場所へ主のご霊魂が行かれるのを見た。主はアダムとエワをかれらの墓に連れて行き、そこでかれらとお話しになった。次に主は地下のいろいろの場所にある預言者の墓に行かれた。その霊魂たちは自分の墓の所で主に加わった。主はかれらに種々のことをお話しになった。それからわたしは主がダビドも加わったこの選ばれた群れと共に、ご生涯を過ごしまた苦しみをなめられた多くの場所においでになるのを見た。主はそこでかつて行われた前じるしを説明し、またその結ばれた実であるお恵みを、言い尽くせぬほどの深い愛情をもってかれらにお与えになった。また主の受洗された所では、主がかれらに聖なる洗礼の恵みを与えておられるかのようであった。主の霊魂がこれらの幸いなる慰めをうけた霊魂に取り巻かれつつ、光り輝きながら、暗い地上や岩や、水や、空気を通り、静かに飛翔している有様はまことに言いようもないほど感動すべき光景であった。
           主が冥府(よみ)の世界をめぐり行く幻影―限りのある時間的幻影―のほかに、わたしは煉獄に苦しむ霊魂に対する主の慈愛の、時を越えた永遠の幻影を見た。わたしは毎年この祝日に主が教会を通じて救いのまなざしを煉獄の火の上に投げられるのを見た。今日の聖土曜日にも―ちょうどわたしがこの黙想をしていると―清めの場所から若干の霊魂が主に救われるのを目撃した。その霊魂たちの中にはわたしの知っている者もあり、また見知らぬ者もあったが、わたしはもはや覚えていない。

           

          12 割礼

          2014.12.25 Thursday

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            カタリナ・エンメリック『聖家族を幻に見て』光明社刊より
            12 割礼

             ヨゼフは洞穴への通路を片付けて、じゅうたんを敷き、割礼のため司祭を呼びにベトレへムへ行って、五人の司祭とその式に必要な一人の婦人をつれて帰ってきた。
             夕方になって入口の前につくった仮庵(かりいお)の中に食卓が設けられた。多くの貧しい人々が割礼の習慣にしたがって司祭について来て、司祭とヨゼフから贈物をもらった。司祭達はマリアと幼児の所に行き、マリアと語り、幼児を腕に抱いた。司祭達はつける名についてヨゼフと話しあった。
             夜を通して多くの祈りをし、讃美歌を唱え、夜の明ける頃割礼が行われた。マリアはその時非常に心を痛めていた。
             割礼が行われてから幼児は腕の下まで布に包まれ、小さな腕にも布が結びつけられ、それから小さな頭も布に包まれた。式が終わってからヨゼフは幼児を受け取り、二人の婦人と共に洞穴の奥で待っていたマリアに渡した。マリアは涙ながらにイエズスを腕に受け取ってあやした。祈りや讃美歌がうたわれ、司祭達が返る前にみなは軽い食事をとった。
             日中もう一度、割礼の傷の手当をする婦人がマリアの所に来て幼児に新しい繃帯をまいた。毎夜のようにイエズスは痛みのために泣いてむずかり、マリアとヨゼフは洞穴の中でこれを抱きあやしながら歩き廻った。
             次の日の夕方、エリザベトがろばに乗って、年老いた下僕と共に洞穴に着いた。
             ヨゼフは非常にうれしそうに出迎え、マリアとエリザベトは抱き合ってこの上もなく喜び合った。エリザベトは幼児をその腕に抱きしめた。そして洞穴の中でイエズスの生まれた場所の傍で寝た。
             マリアはエリザベトに自分の身の上に起こった事を語った。そしてマリアがベトレへムに来る途中出会った難儀について語ると、エリザベトは心から涙を流した。マリアはまたキリストの誕生の時の出来事を詳しく話した。出産の時が迫るとかの女は大いなる憧れに満たされ、あたかもひざまずいたまま天使達に持ち上げられたようになり、かの女の心臓いやかの女の心は二つに分かれ、その半分はかの女から離れたように感じた。その時大いなる憧れが溢れて、輝きがかの女の前に閃き、幼児が目の前に生まれてきたように感じ、それが動き泣くのを聞いてやっと自分にかえり、幼児の胸に被いをかけた。始めのうちはそれがあまりに輝きに包まれているので、抱き上げるのをためらってしまったと。
             アンナはたびたび下僕に食べ物や必要な品物を持たせてきたが、マリアはそれをすぐ貧しい人に分け与えてしまった。しまいにアンナは自分で尋ねて来て、幼児イエズスが小さな手を差し伸べているのを見た時、その喜びと感謝は非常な非常なものであった。
             マリアはまたエリザベトにしたようにすべてを話した。そして東の国から賢者が訪問の旅の途上にあると語ったので、アンナは、そこから歩いて二、三時間離れた所に住む姉妹の所に行き、賢者が訪問して帰って行くまで戻らなかった。 
            ヨゼフは秣槽(まぐさぶね)の洞穴と側の洞穴とを、賢者の訪問を迎えるため片づけ始めた。マリアが賢者の訪問を心の中ですでに見ていたためである。 

            *マリアの母

            11 羊飼達の礼拝

            2014.12.24 Wednesday

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              カタリナ・エンメリック『聖家族を幻に見て』光明社刊より
              11 羊飼達の礼拝

               小屋や野原には家畜の群がいた。小屋の前に立っていた三人の羊飼達はこの不思議な夜に心を打たれ、あたりを見廻すと秣槽(まぐさぶね)の上の明るい輝きが目に入った。その時ひとむらの光雲が三人の方に降ってきた。その雲の中に満ちみちたものがゆれ動き、甘味な静かな讃美歌の声が近づいてきた。羊飼達ははじめは恐れていたが、間もなく神の栄光を歌う愛らしい輝く天使達が前に立つのを見た。またほかの羊飼達にも天使が現れた。
               最初に三人の年老いた羊飼が贈物をたずさえて秣槽の所に来た。洞穴の入口で、かれらはヨゼフに向かい、天使から知らせを受けた事、そして神の約束の幼児を礼拝し、捧げ物を献上するために来た事を告げた。ヨゼフはその捧げ物を受け取り、幼児イエズスを膝の上に抱いているマリアの前に案内した。羊飼達は地にひれふし、うれしさのあまり涙を流して、甘味さに浸りながら長い間そこに留まっていた。かれらは天使賛歌と詩編を歌った。そして帰る時になるとマリアは幼児をかれらの腕に抱かせてくれた。
               次いで別の羊飼がその妻や子供をつれ、捧げ物をもって訪れて来た。かれらは秣槽の前で非常に愛らしい詩編と短い詩を歌った。その詩のことばは次のようである。
                ああ、赤いばらのような童(わらべ)よ
                先ぶれのように走り出で。
              この者たちは鳥や卵や蜜や、色とりどりのより糸を持ってきた。三人の老羊飼は代る代る訪れて、洞穴の中を居心地よくするためヨゼフに手を貸した。
               そえからマリアの許に、数名の親切な婦人達が来て手助けをした。ヨゼフが子供の頃から知っていて、その人達を呼んだのである。かれが以前兄弟達から逃げて洞穴にかくれた時、この親切な婦人達に助けられた事があった。婦人達は交代でたずねてきて、いろいろなものを運び、煮炊きや洗濯をした。
               主の降誕の二、三日後、わたしは胸を打たれる光景を洞穴で見た。マリアは秣槽の傍に立って御子を見つめていた。その時のマリアは、御子が苦しむためにこの世に来たということで感慨無量であった。
               わたしは以前に受けた示現はイエズスが母の胎内にあるとき、また降誕以後に蒙る苦難についてであった。すなわちマリアの胎内に宿る栄光と、その栄光の中に光り輝く子供の姿があった。そして十字架刑のあらゆる苦しみがその子供に加えられた。それはまったくぞっとする程悲しい光景であった。わたしは涙を流し声をあげて激しく泣いた。また別の人間がその子供を打ち、突き飛ばし、むち打ち、茨の冠をかむらせ、十字架の上にのせ、釘づけにし脇腹を貫いたのを見た。救い主の受けるべきすべての苦難をこの子が受けていたとは、まったく身ぶるいする程のものであった。この子供は十字架にかかっていた時わたしに言った、「これらの苦難はわたしの受胎の時から現実のものとなる時までずっとわたしの身に受けてきたのだ。行ってこの事を人々に知らせなさい。」しかしどうしてそれを人々に告げる事ができようか。
               わたしはまた幼児イエズスを見た。大勢の子供が秣槽のそばに来てイエズスをいじめていた。マリアは留守だったのでかばう事ができなかった。子供達はいろいろな小枝や笞を持ってきてイエズスの顔を打ち、そのために血が流れた。幼児イエズスがにこやかに手をあげてよけようとすると、一番小さい子が意地悪くその手を叩いた。親までが子供達に笞をほどよく巻いたりねじったりして与えていた! 子供達はいらくさや小枝やさまざまな棒を持ってきたが、これにはそれぞれ意味があった。一人は細い笞を持ってきて、幼児イエズスを強く打とうとその柄を曲げてはじきかえした。
               わたしは何人かの子供の顔を覚えている。また別の子供達は自分達のぜいたくな着物を見せびらかしていた。できればわたしがその着物を引きはがしたいくらいだった。
               マリアが秣槽の前で考え込んでいると、羊飼達がその妻達と共に来た。かれらは祈りこそしなかったが、深い感動のうちに幼児を見つめ、帰る前にはあたかも口づけをするかのようにその上に低く身をかがめた。
               明るくなってから、マリアはいつもの場所に坐り、イエズスはその膝の上に眠っていた。マリアは手に亜麻布のようなものを持って、ひろげならべていた。ヨゼフは入口の炉端で道具を下げるための台を作っていた。
               わたしはろばの傍に立っていた。すると三人の老婦人が来て、非常に親切に迎えられた。マリアは立ち上がらなかった。婦人達は果物、鳥、パン、亜麻布などたくさんの贈り物を持ってきたが、それらはことごとく謙遜と感謝をもって受け取られた。その人々は大層物静かで、親しみ深く感動をもって幼児をながめていた。しかし抱くことなく帰って行った。
               わたしはその間をばをすっかり観察した。それはたいへん広い背中をしていた。「このろばはもうたくさんいろいろと運んでくれた」と考えて、そえを確かめるために、手で触れて毛をつまんでみると、まるで生糸のように柔らかな感じであった。
               ある時二人の老婦人が三人の八才位の少女をつれて訪れてきた。その人達は身分の高い外国人らしく、たしかに不思議な招きの声に導かれて来たのであった。ヨゼフはその人達を非常に丁寧に迎え、マリアは立って幼児をその人達の手に渡した。二人はしばらくの間イエズスを抱き黙しつつ深い感動のうちに祈り口づけをした。
               三人の少女達も静かではあったが感動していた。ヨゼフとマリアは二人の老婦人と語り合い、かれらが立ち去る時ヨゼフは少しの道を見送っていった。
               ああ、だれがこの婦人達のように、マリアの美しさ、純潔さ、汚れなき思いを知る事ができるだろうか! マリアはすべてを知っているが、しかしその謙遜から何も気付かずにいる。子供のようにかの女の眼差しは下を向いているが、何かを見つめる時はその眼差しは閃光のように、真実そのもののように、曇りなき光のようにあらゆるものを貫き通す。それはマリアがまったく純粋で、まったく汚れなく、聖霊に満たされ、無心であったからである。だれもその眼差しに耐える事はできない。
               この婦人達は町の人目を避けて目立たぬように来た。そして少なくとも二、三哩は離れた所から来たようにあった。ヨゼフはこのような訪問を受けると、いつも非常に控え目で、身を引き、遠くからながめていた。
               またマリアの許の少女が年老いた下僕と一緒にナザレトから秣槽のところに来た。この二人はアンナの所からいろいろなものを持ってきた。年老いた下僕はうれし涙に泣きぬれ、アンナに知らせるためにふたたび帰って行った。
               数日後、マリアはイエズスとその少女を伴い、二、三時間洞穴を出て近くの横穴にかくれた。それはベトレへムから数人の男がヘロデの間牒として来たからである。当時あるみどり児の身の上に奇跡が起こったという噂がひろがっていた。この人達はヨゼフと洞穴の入口で出会って、少し話をしてから、もったいぶった微笑を浮かべながらヨゼフの許から去っていった。
               秣槽のある洞穴はたいへん静かで居心地がよかった。羊飼達のほかベトレへムから誰も来る者はなかった。町ではその頃ここで起こった出来事を深く気にかける者はほとんどいなかった。大勢の外来者が来たため町は非常な雑踏と繁雑を極めていたからである。
               しかし天使が出現した不思議な出来事は遠近の谷に住む人々の間に急速に知れ渡り、これまでの旅でマリアとヨゼフを泊めた宿の人々は、なにも知らずに泊めたこの二人に敬意を表すため次々と訪れて来るのであった。
               

              10 主の降誕

              2014.12.24 Wednesday

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                カタリナ・エンメリック『聖家族を幻に見て』光明社刊より
                 10 主の降誕

                 ヨゼフは町から衣類や干した果物を持ってきた。かれがもどって来た時、マリアはわたしの時が今夜に近づいていると言った。そしてヨゼフに、宿を貸そうとしなかった薄情な人々のため一緒に祈ってくれるよう頼んだ。ヨゼフは町に行って二、三人の女の人を頼んでこようと言ったが、マリアはそれを断り、出産の手助けは一人もいらないからと答えた。それでかれはマリアを残し、自分の寝場所へ行った。
                 かれは自分の場所にいく前にもう一度ふり返った。マリアは寝場所にひざまずき、顔を東の方に向けて祈っていた。かれは洞穴が光に溢れるのを見た。マリアはまったく焔に包まれているようであった。それはあたかもモーセが燃えさかる茨の薮の中をのぞき見た時のようであった。かれは祈りながら顔をおおってひれふし、もはやふりむこうとはしなかった。
                 マリアの周囲の輝きはますます増していき、ヨゼフが取りつけた灯は消えたようになった。マリアのゆるやかな白い衣は地上に延びひろがっていた。十二時頃マリアは祈りの内に脱魂状態となり、体が地面から引き上げられ、体の下の地面が見えてきた。周囲の光がいよいよ輝きを増した時マリアは幼児イエズスを産んだ。マリアの膝の前の敷物に置かれたその幼児の輝きは他のすべての光にまさっていた。
                 マリアはなおしばらく脱魂状態であった。かの女は幼児の上に布をかけたが、手では触れなかった。しばらくたつと幼児は動きだし泣き始めた。マリアはやっとわれにかえり、幼児を胸に抱き取り布で包み、全身をベールでおおって坐っていた。天使達がその周囲を取り巻いて、伏し拝んでいた。
                 マリアがなお祈りつづけるヨゼフを呼んだのは、出産が終わって一時間たった後であったろう。ヨゼフはマリアに近づくと、祈る心が外にあふれて喜びと尊敬のあまり膝をかがめた。マリアは天よりのとうとい贈物をよくながめるようにと言った。ヨゼフは幼児を自分の腕に抱き取った。
                 それからマリアは幼児イエズスを小さな腕の下までくるんで、秣槽(まぐさぶね)の中に置いた。
                 マリアはこの秣槽に蘆やほかの柔らかい草をいっぱい入れ、その上に敷物をひろげた。マリアが幼児を秣槽にやすませると、二人は涙のうちに讃美歌を唱えてその側に立った。
                 マリアは少しも病人らしくなく、また疲れてもいないようだった。かの女は出産の前後とも白衣を着ていた。
                 わたしはこの夜不思議な喜びを多くの土地に、遠く離れた土地にさえも見た。多くの善意の人にとっては憧れが喜びのうちに満たされた、一方悪意の人は不安に駆られていた。またたくさんの動物がうれしそうに飛び廻り、多くの泉が湧き出で、各地に花が咲き、草や木がかぐわしい香をただよわせていた。地元ベトレへムでは空がどんより曇り、陰うつな赤い光がただよっていたが、羊飼達の谷や秣槽のまわりにはさわやかな輝く靄が立ちのぼっていた。

                イエズスは秘跡を粗末にあつかわないように話した

                2014.12.09 Tuesday

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                  ルイザ・ピッカレータの手記2『被造界の中の神の王国』(天使館刊)より

                  イエズスは秘跡を粗末にあつかわないように話した。 1899年10月1日

                   今朝のイエズスは沈黙のうちに現れ、とても悲しい様子でした。主は頭の上に、棘だらけの冠をつけていた。私の内部の力は沈黙し、一言も発しなかった。イエズスが大変な頭の痛みに苦しんでいるのを見て、私は手を伸ばし、静かにそれをはずした。なんというひどいお苦しみ、傷はひろがり、血が次々と吹き出していた。本当に心がはり裂けそう。私は自分の頭にそれをおいた。主ご自身、それが中まで食い込むようにしてくれた。すべては沈黙のうちに。

                   驚いたことに、少し経って再び主を見ると、人びとはイエズスを攻撃し、もうひとつの冠を主の頭上におこうとしていた。ああ、なんて非道なの。…ああ、イエズス、なんでそんなに我慢するの。なんて大人なの。
                   イエズスは黙っていた。顔も上げなかったので、誰が攻撃しているのかも知らなかった。私はあらためて冠を取り去った。心の内部では、主に対する優しい気持が目覚め、こう言った。

                  「優しい主、私のいのち、何か言って。何も言ってくれないの。秘密ならいつも打ち明けてくれたのに。もうちょっといっしょに話していましょう。そうすれば私たちを圧しつぶす苦しみと愛について、何でも話した方が楽になるから。」イエズスは言う。

                  「娘(こ)よ、お前は私の苦しみを柔らげてくれる。何も言わないのは、常々お前が人びとを罰さないでと、私に頼んでいるからです。お前の好きなようにしないと満足してくれない。だからお互いにいやにならないようにするには、黙っているほかないでしょう。」 私は言った。

                  「イエズスよ、正義のわざを振るったあと、どれほど苦しんだか忘れたの。人間たちの間で、そんなふうに苦しむあなたを見るのがつらいので、人びとに罰を与えないでとこんなに注意するのもそのためたのです。
                   そのうえ人間たちは毒へびのようにあなたに反乱して立ち向かい、あなたの御命まで奪おうとします。結果として人間はあなたに鞭打たれて苦しんだあげく、あなたの正義をさらに刺激してしまう。こんなわけで『主の御旨のままに』といえないの。」するとイエズスが答えた。

                  「私の正義はもうこれ以上待てません。私はあらゆる人びと、司祭たちや、信心深い人、世俗の人たちが秘跡を祖末にするために傷ついた。秘跡を軽蔑してなんの注意もはらわない。好き勝手なおしゃべりをする。我がままが満足されないのをみて、私にたいして腹を立てたりする。秘跡があたかも絵や石の彫刻になりはててしまっているのを見て、私のこころは引きちぎられそうだ。遠くから見るとそれは生きているけれど、近づくと偽物だというのがはっきりする。さわってごらん。どうなると思う。ただの紙、石、木、生命のないものばかり。すべて人の目を欺くものばかり。
                   たいていの人にとって、秘跡はこんなものだ。見せかけにすぎない。清くならずに、もっと汚れてしまうなんてどういうことか。金のことばかり言う宗教界の現状をみれば泣きたくなってしまう。黄金を見ると目が眩み、品位も地に落ちてしまう。儲けがなければ何もしない有様。こうした儲け心で一杯になり、外まで溢れでて、世俗の人までその臭みを感じとる。そこでつまずき、修道者たちの言葉などまったく信じない。

                   ああ、そうとも。私を大切にする者などいない。直接私を侮辱する者、悪を避けられるのにそうしない者がいるだけだ。誰を振り返って見ればよいのだろう。だから人びとに、動けなくなるほどの罰を下そう。破滅させよう。教会は砂漠となり、秘跡を授ける者は誰もいなくなるでしょう。」
                   私はすっかり恐くなって、主のお言葉をさえぎるように言った。
                  「主よ、違うの。秘跡を粗末にする人びともいるけれど、正しい畏敬の気持ちでそれを受けるような人びともたくさんいます。秘跡が受けられなくなったら、そういう人はどんなに苦しむでしょう。」
                   主は言う。
                  「そういう人は極めてまれです。それに、秘跡を受けられないで感じたその人たちの苦しみは、私への償いになり、秘跡を祖末にする人びとの生けにえとなるでしょう。」

                   よきイエズスのこうした言葉を聞いて、私の心は張り裂けそうになった! 主の無限の憐れみで、落ち着きを取りもどしてほしい。 
                   
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