23 大祭司としてのペトロ
2014.06.19 Thursday
マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
23 大祭司としてのペトロ
聖霊降臨に続くキリスト信者たちの、事の始まりの集会である。使徒は、今やマティアが裏切り者の代わりに選ばれて再び十二人になっている。十二人がそろっている事は、主の命令に従って福音を宣べ伝えるために、まだ別れていないという事を意味する。それに聖霊降臨直後は、イエズス・キリストのしもべたちに対し、衆議会(1)の迫害はまだ始まっていないと見える。そうでなければ、どんな警戒もせず神殿の人々にあまりにもよく知られている最後の晩餐が行われ、ついで裏切りと贖いの始まった家に、このように集うはずがない。そして広いサロンはみ堂となり、新しいその役割のために、信者たちの要望を取り入れて内部の変化した。それはキリスト教の最初のみ堂と言ってもよい。小さな様子のある壁の傍にいつも置かれていたテーブルは今はなく、そして信者で一杯で晩餐の行われたサロンに入れない人々は、中で起こる事を入口の廊下の開かれているドアから見る事ができる。
サロンには、子供から老人に至るまでおり、大きなテーブルの傍の隅っこに集まっている婦人たちのグループには、母マリアがいて、他にラザロの姉妹のマリアとマルタ、それにニケ、エリーザ、アルフェオのマリア、サロメ、クザのヨハンナ、イエズスに治癒してもらい慰められたヘブライ人、それにヘブライ人でない女弟子の幾人かがその羊の群の中にいる。男たちの中には、ニコデモ、ラザロ、アリマタヤのヨゼフ、ステファノ、エルマ、羊飼いたち、エンガッディの会堂の息子、エリゼオと他の多くの弟子たち、それにロンジーノもいる。
ペトロは、今日集まった人々に福音を宣べ教えている。そして、もう一度、最後の晩餐について話している。もう一度と言うのは、その言葉によって前に度々話したと分かるからである。
「…もう一度言うが、この言葉を強めて話す。かの晩餐について話す。人間によって生贄にされる前に言われていたように、ナザレトのイエズス・キリスト、神の子、そして私たちの救い主を、私たちのすべての心と知恵をもって信じるべきである。なぜなら、この信ずるは私たちの救いであり、また彼は自発的に絶対的な自分自身をささげ、自分自身を人間に糧と飲み物として与え、そのしもべで後継者である私たちに”これを私の記念として行いなさい”と言われたからである。それによって私たちは行っている。人々よ、その証人である私たちは、パンとぶどう酒が、彼がしたようにささげられ、祝福されて、彼のいとも聖なる体とその聖なる御血であると信じている。人間への愛と永遠の生命のために、十字架につけられ流された御血である。預言者たちに予め言われ、キリストによって創立された不滅の教会に入ったあなたたちも、それを信ずるべきである。あなたたちは主を神じ祝福されよ。なぜなら私たちは主に仕えていた時、私たちの弱さ、主を理解できない鈍さなどによって、最後の時には逃げてしまった。私たちは臆病で彼から離れてしまった。私も主を否むほと臆病な小心者であった。個人の裏切りで私は彼の弟子である事を否定した。このしもべたちの中で第一の私が主の弟子である事を否定した」
ペトロの頬に大粒の涙が伝わる。
「繰り返して言うが、主が残されたこのゆるしの永遠のしるしを信じ祝福せよ。なぜなら、彼がナザレ人であった時に彼を知らなかった人々にも、御父の元に戻る時、彼は言われた。”来て取りなさい。私の肉を食べ、私の血を飲む人は永遠の生命を持つであろう(2)” 私たちはその時、分からなかった。(3) 私たちは知恵の鈍い人間だったから分からなかった」
そしてペトロはまた泣く。
「だが今は、聖霊が私たちの知恵を照らし、信仰を強め愛を注いだ事によって私たちは分かる。そしていとも高き神、アブラハムの神、ヤコボの神、モーゼの神、それにイザヤ、エレミヤ、エゼキエルとダニエルや他の預言者たちに語られた、神のいと高きみ名にかけて、それは真である。そして永遠の生命を得るために、あなたたちが信ずるように切に請い願う」
ペトロが話す態度は威厳にあふれている。少し前までの漁夫の素朴さはもう消えている。彼は話すために、よりよく見られ聞かれるようにと台の上に登った。彼は背が低かったので、部屋の床から話したのでは、遠い人々からは見えなかったであろう。こうして群衆を見渡しながら彼の表現の豊かな目は、いつもより訴えている。愛、信仰、権力、痛悔、すべてがその眼差しから漏れ、自分の言葉に先んじ強める。
話し終えて台から降りて、壁と大きなテーブルの空間の所に行く。ヤコボとユダ、すなわちアルフェオの二人の息子でキリストの従兄弟である彼らが、テーブルの上を真っ白いテーブル掛けで覆う。そるするためにテーブルの真ん中に置かれている平たい小箱を上げて、その箱のあった所にも軽やかな麻布を敷く。するとヨハネが母マリアの所に行って何事かささやくと、母マリアは首に掛けていた一つの鍵を抜き取りヨハネに渡す。ヨハネはそれを受け取って戻り、麻布の上にある小箱を開く。その中は、二つに区切られており、下の段には一つの杯と一枚のメタルの皿があり、上段には真ん中にイエズスが最後の晩餐と最初の御聖体のために使った杯があり、それにイエズスが裂いたパンの残りがあり、それは貴重な小皿の上に置かれている。杯と小皿の傍の一方には、茨の冠、釘、海綿があり、他方には巻かれた聖骸布がある。ニケがイエズスの顔を拭いたヴェールと、母マリアが御子の腰に巻くために与えたものである。箱の奥の方にはまだ何かあるが、それは影になっており、また、それについてはだれも話さないし見せないので、どんな物か分からない。他の見えるものはヨハネとアルフェオのユダによって見せられ、群衆はその前にひざまずく。けれども杯とパンの乗った小皿はだれにも触れさせず見せない。聖骸布は全部解かれたのではなく、巻物のままで見せられて、何であるかを説明される。おそらくヨハネとユダは、御子が耐え忍んだかの酷い苦しい思い出を、母マリアに呼び起こさせる事がないようにと気遣ったのであろう。それらの事を終えてから使徒たちがコーラスである祈りを唱える。(4) それは詩編であると思う。なぜなら、ヘブライ人たちはその会堂と律法に決められている祭日に、また、エルサレムへの巡礼に唱えていたからである。群衆も使徒たちのコーラスに加わり、コーラスは増々荘厳になる。最後に幾つかのパンが運ばれ、小箱の下段にあったメタルの小皿に置かれ、同じようにメタルの小壷も運ばれる。ペトロはテーブルの向こうにひざまずいていたヨハネから、パンの載っている小皿を受け取り、押し頂いて後、それをささげ祝福し、それを小箱の上に置く。ファルフェオのユダがヨハネの傍にひざまずいたままペトロに下段の杯と、パンの小皿の傍にあった一つの小壷を渡し、ペトロはその中身を杯に注ぎ、それから、先にパンにしたように押し頂いた後、ささげ、杯を祝福し、小箱の上のパンの傍に置く。そしてまた皆で祈る。
それからペトロはパンを幾つかに千切り、群衆が深くひれ伏している間に言う。
「これは私の体である。これを私の記念として行いなさい(5)」
ペトロは先に自分で千切ったパンを載せた皿を持って、テーブルの後ろから出て、まず母マリアの所に行き一片のパンを与える。それからテーブルの前に戻り、聖別されたパンを拝領しようとしている人々に配分する。もう一片しか残されていない。それはいつも皿の上に載せられたまま小箱に納められる。今度は杯を取って母マリアから始まって、それを拝領したい人々に飲ませる。それが終わると、使徒たちは残ったパンとぶどう酒を、自分たちですべて飲み干してしまう。それからもう一度賛歌が歌われ、その後ペトロは群衆を祝福し、それが終わると群衆はぼつぼつ立ち去って行く。母マリアは、パンとぶどう酒の聖別と配分の式の間はずっとひざまずいていたが、今は立ち上がり小箱の方に歩み寄る。テーブルを通り、そしてイエズスが最後の晩餐の時に使った杯と小皿が置かれている小箱の段に屈み、額を寄せてその小箱の縁に接吻する。(6) それからヨハネは小箱を閉じて鍵を母マリアに返し、母マリアは、またそれを首に掛ける。
注
(1)使徒4・1〜31。
(2)ヨハネ6・52〜58。
()マテオ15・10〜20、20・20〜23、マルコ4・13〜20、6・45〜52、7・14〜23、マルコ4・13〜20、6・45〜52、7・14〜23、8・14〜21、8・31〜33、9・9〜13、9・30〜32、10・35〜40、ルカ9・43〜45、18・31〜34、24・25〜27、24・44〜48。
(4)知識人のパレスチナ人聖ユースティノによると、御聖体の典礼の始まりに、使徒たちのある著作、あるいは預言者たちの預言のある部分が読まれ、それからし司式者は出席者のだれかのため、又はすべての人々のために祈っていた。そして最後に口付けの交換があった。今の著作は聖ユースティノが書いている典礼のずっと以前の経過を表している。それがゆえに最も古い典礼は、ある聖書朗読、あるいは特別な祈りをもってではなく、聖書であり祈りでもある詩編だけを唱えることで始まっていたとも考えられる。
(5)最後の晩餐の時にイエズスがしたようにであるが、ここでマリア・ワルトルタは”これは私の血である。これを私の記念として行いなさい”と書くのを忘れている。実際に最後の晩餐の時にはそうなっている。
(6)祭壇から離れる前に西方教会と同じく東方教会でも司祭たちはそうしている。例えば聖ヤコボの典礼と言われているシロ・アンティオキアの典礼を見れば分かる。その接吻は小箱の中に納められている聖遺物に対してでもある。
第一回のご出現
2014.06.17 Tuesday
『ファチマのロザリオの聖母』渡辺吉徳編訳…ドン・ボスコ社 1983年改訂3版(1954年初版)より
第一回のご出現 1917年5月13日
1917年5月13日、ご昇天祭の前の日曜日の、五月晴れの美しい日であった。
三人の牧童たちは教会へ行って、第一のミサにあずかった。ミサ中の説教は、祈りの力についてで、教皇ベネディクト十五世の回勅(1917年5月5日付)をあげて、平和回復のためより強く祈りに力を入れるようにとのお話しであった。
教会から家に帰った子供たちは、べんとうをもって羊たちと家を出た。はじめゴーヴェイアへ向かう道をとったが、途中で引き返して、ルチアの両親が少しばかりの土地をもっているコヴァ・ダ・イリア(イレネの小谷の意)へ行くことにした。
子供たちが羊を連れてコヴァへ向かうと同じころ、ローマのシクスチンの小聖堂では、のちの教皇ピオ十二世、エウゼニオ・パチェリの司教叙階式が執行されつつあった。教皇ご自身、ご自分の叙階式とファチマの第一回ご出現との同日・時性を深く記憶され、彼の文書、講話にその反響が見られるのである。
さて、遠くのほうで正午の鐘の鳴るころ、目的地についた子供たちは、簡単なべんとうをすませると、草の上にひざまずいていっしょにロザリオを唱えた。
ロザリオが終わると、羊たちを見失わない程度の坂の上にのぼり、そのあたりにたくさんある石で家を造って遊んでいた。(この場所に数年後建立されたファチマの大聖堂の最初の土台石がおかれ、同じ所に、現在ヤシンタの墓所がある)と、とつぜん、ひじょうにはげしい閃光があった。
子供たちはあたりを見回した。空には雲一つなかった。だかしかし、山のうしろから夕立がやってくるかもしれない。恐ろしくなって三人は家に帰ることにし、坂をおり、羊の群を追った。坂下におりたとたん、前よりももっと強い閃光がして、恐れにとらわれた三人はその場に立ちすくんでしまった。互いに顔を見合わせ、おどろきで物もいえず、ある神秘的ふるえが子どもたちの体内に走った。そして同じ力にうながされたように、三人は同時に右のほうに目をやった。
不思議なことに! 数歩離れた所、小さなひいらぎの木の上に、光そのもののように輝く一人の貴婦人が立っていた。まばゆく、目がくらみ、恐ろしさのあまり逃げだそうとすると、出現者は母親のようなやさしい身振りで声をかけられた。
「こわがらないで。私はあなたたちに悪いことはしません。」
子供たちはそこに立ち止まり、われを忘れて見とれた。
出現者はまったくうるわしく、年のころは多くても十八歳ぐらいに見えた。雪のようにまっ白い衣は両足にまで達し、衣のくびのあたりは金色の紐で結ばれ、その端は胸の下まで垂れていた。御足はほとんど見えず、ひいらぎの枝にふれていた。黄金でふちどられた純白のマント(あるいはベール)は、頭、肩をおおい、ほとんど衣と同じ長さに足までかかっていた。両手は祈りの形で胸の高さに合わされ、銀色の十字架のついた、真珠のように光る白色の珠のロザリオが右手からさがっていた。太陽のような光輪の中に、端麗優雅なお顔は晴れ晴れとしていたが、軽く愁いの色が漂うていた。
恍惚の沈黙。ややあって、ルチアは勇気を出してたずねた。
「あなたさまは、どちらからおいでになりましたか?」
「私は天国からまいりました。」
「それで、なんのご用でここにおいでになりましたか?」
「私はあなたがたが六ヶ月続けて、毎月の十三日、今日と同じ時間に、ここにいらっしゃることをお願いにまいりました。
十月には私がだれであるか、何を望むかを申しましょう。」
ルチアは信頼心を起こして続けた。
「あなたは天国からいらっしゃいましたね。私も天国へゆくでしょうか?」
「そうです、あなたは天国へゆくでしょう。」
「ヤシンタは?」
「ヤシンタも。」
「フランシスコは?」
この時出現者は、母親のような慈愛と同情の混じった面もちで少年に目を注いでいわれた、「フランシスコもゆきますが、しかしあの子もロザリオを唱えねばなりません。」
貴婦人との会話について、子供たちは一語も忘れないのだが、ある事がらは三人お互い以外の人に語るのは不謹慎または虚栄のように見えて、沈黙を守ったこともある。
しかし子供たちはつぎのことを人々に語った。
自分たちの小教区内で最近亡くなった二人の女児の一人はすでに天国にあり、もう一人はまだ煉獄にあると知らされた、と。
ルチアはその第二の手記につぎのことを記している。貴婦人は最初のご出現のときすでにいわれた。
「あなたがたは主に犠牲をささげ、主に背くたくさんの罪の償いのため、主があなたがたに送られる苦難をお受けしますか? 罪人たちの改心を得るため、マリアの汚れないみ心になされる冒涜とあらゆる侮辱の償いのために、苦しむことを欲しますか?」
「はい、私は欲します」
とルチアは三人の名において熱誠をこめて答えた。出現者は母親のような身振りで、三人の子供の寛大な態度がお気に召したことを示され、そしてつけ加えられた、
「あなたがたはうんと苦しまねばなりません。しかし主のお恵みがいつもあなたがたをお助けになり、お支えくださいます。」
「こういわれてから出現者は、その時まで胸の前で合わせていた両手を広げて、司祭がドミヌス・ヴォビスクムというときのような動作をなさった。
この簡単な動作は、子供たちのほうに神秘的光線を発射したが、それはひじょうに強くかつ透徹するもので、魂の底深くまで達し、子供たちは自分ら自身を主の中に見せしめた。主ご自身がこの光であり、もっとも清い鏡の中に見るよりももっと明らかに自分らを見た。
その時抵抗できない衝動に動かされて子供たちはひざまずき、力をこめて反復した。
「おお、いと聖き三位一体よ、私は主を礼拝します。私の主よ、私の主よ、私は主をお愛しします!」
別れる前に、子供たちに、世界の平和を得るため毎日熱心にロザリオを唱えることを、勧められた。その時ルチアはたずねた。
「戦争はまだ長く続くか、またはまもなく終わるか、いっていただけますでしょうか?」「まだいえません。私の望むことをまだあなたにいっていませんから」というお答えであった。そして歩くというより、すべるように、美しい貴婦人はまっすぐ東のほうに遠ざかり、太陽の光の中に消えていった。
われに返った子供たちは幸福そうに、顔を見合わせ、自分たちの印象を語りあった。
三人とも完全に出現者を見たが、出現者はルチアとだけ語られた。フランシスコは貴婦人の声は聞こえなかったが、ルチアの話したことは聞こえた。ヤシンタは問いと答えの全部を聞いたが、会話には加わらなかった。ご出現はおよそ十分間ぐらい続いた。
そして、羊らは? フランシスコは、羊らが勝手に近くのえんどう畑に入りこんでいるのをまず見つけた。そして大急ぎで追い出しにかかった。他家の畑を荒らしたのでは、どんな叱りを受けるかわからない、しかし、よく見ると損害は別に加えていない。「えんどうはちっとも食べていなかったのでよかったですわ」とルチアはのちに語った。
三人はもう遊び続ける気がしなかった。天とこの新しい接触ののち、彼らの魂はよろこびに満たされていた。だまりこんでしまって、自分たちの魂の中で、見たこと聞いたことを味わい続けた。
ヤシンタは、だが、時どき甘美な沈黙を破って繰り返した。
「ああ、なんときれいなお方! ああ、なんときれいなお方!」
三人はまだ東のほうを眺めながら、見えなくなった貴婦人の光の跡を目と心で追っていた。ヤシンタは両手を合わせ、
「ああ、ほんとうにきれいなお方だった!」と繰り返した。ルチアはこれからのちに起こり得ることを心配して、従妹にいった。
「少なくとも、それをみんなにしゃべってはだめよ。」
「何もいわないわ、心配しないで」とヤシンタは答えた。
しかし、家に帰るといつもその日の出来事を母に聞かせてからでないと眠らないヤシンタは単純に母親に語った。ヤシンタの母親は翌朝、この話しの真偽をルチアの母親にただした。この間、フランシスコはヤシンタから秘密のもれたことをルチアに知らせたので、ルチアはヤシンタと二人きりになった時これをなじった。ヤシンタはあやまりながらも自分の胸を指さして、「ここに何かしらあって、だまっていられなかったのですもの」と弁解した。
ルチアの母は八日の沈黙のあとで、時期をみてルチアにたずねたので、ルチアは事のてんまつを残らず物語った。恐れをなした母は、きびしく娘を叱り、主任司祭のところへ行き、
「…この不幸はみな、私どもに降りかかってきます!」といって嘆いた。主任司祭は、
「どうして、それが不幸です。…もしほんとうだったら、それはむしろご家族にとって大きな祝福でありましょう。」
「…もしそれがほんとうだったら…、けれどもほんとうであるはずがありません、…娘がうそをついているのです。あの娘がうそをいうのはこれが始めてですが、うそをつくことが、どんなものか悟らせてやります。」
こうして娘にたいする折檻が始まることになった。ルチアにとって、それからしばらくのあいだの母の態度は、ほんとうに十字架であった。ここにくわしく述べないが、三人の子供たちが「はい、私どもは苦しむことを欲します」とお約束申しあげたことの実行は、すでに始まっているのである。
うわさは村中に広がった。人々は子供たちを質問ぜめにし、彼らを信ぜず、あざわらい、うそつきと見なした。子供たちは自分らのいった同じことを繰り返すだけで満足し、貴婦人に従うため、毎月十三日、六ヶ月続けてコヴァに行く、といった。
神秘的聖体拝領
2014.06.10 Tuesday
『ファチマのロザリオの聖母』渡辺吉徳編訳…ドン・ボスコ社 1983年改訂3版(1954年初版)より
神秘的聖体拝領
第三回は、同じ年の九月の終わりか十月始めころ、カペソの丘の下で、牧童の三人の子供たちはべんとうをすませて、洞穴の所まで登り、そこでロザリオと”天使の祈り”をした。
何回もこの祈りを繰り返しているうちに、異様な光に包まれ、身を起こすとそばに天使が立っていた。この度はカリスを手にし、カリスの上方にホスチアがあった。白いホスチアからはカリスの中に血のしずくがしたたりおちていた。
天使はカリスを空中において、子供たちのそばにひざまずき、つぎの祈りを子供たちに三回繰り返させた。
「父と子と聖霊にまします至聖三位よ、私は主を深く礼拝し、世界のすべての聖櫃内に在する私たちの主イエズス・キリストのいと尊いおん体、おん血、ご霊魂、ご神性を、彼ご自身が受けたもう侮辱の償いとして、主にささげます。至聖なるイエズスのみ心の限りないご功徳と聖母マリアの汚れないみ心のご功徳によって、私は主に、あわれな罪人の改心を願います。」
そして天使は立ちあがり、ホスチアをとってルチアに与え、ルチアはそれを拝領した。続いてカリスの中のものをヤシンタとフランシスコに分け与え、それと同時に三人にそれぞれに、
「恩知らずの人々からひどく侮られたもうイエズス・キリストのおん体とおん血を拝領しなさい。彼らの罪を償い、主をお慰め申しあげなさい。」
といってから、また平伏して、先の祈りを三度繰り返して、見えなくなった。
子供たちは、いつまでもひざまずいたまま、同じ姿勢を続け、休みなく同じ祈りを繰り返し、自分たちの思いをこの天の幻示(ヴィジョン)、神秘的聖体拝領から離すことができなかった。神のみ前にあるという思いは、まったく三人の心を奪い、肉体の感覚の使用を失うまでになっていた。それは霊魂の奥底における大いなる平和と大いなる幸福であったと同時に、肉体的に大きな疲労であった。
のちに子供たちは、聖母マリアのご出現が、大分異なる結果を生じたことを指摘する機会があった。それは神に集中した魂の同じ平和と同じ幸福であったが、肉体的には溌剌としてだれにも感づかれる歓喜にあふれていた。
天使の幻示は、聖母マリアの未来のメッセンジャーたちに熱心に祈ること、祈ることを知らない人々のために祈ること、信仰も愛も持たない人々のために償いをすることを教えた。この時から子供たちは、聖マリアの汚れないみ心にたいして重大関心をもつように向けられたのだった。このようにして子供たちの魂は、聖母のご出現に接するための準備がなされていったのであった。
フランシスコがまずわれに返り、この地上の現実を意識した。夕方になっていた。家に帰る時刻であった。このとき特に、天的幻示に関して、まったく沈黙を守った。
22 聖霊降臨
2014.06.07 Saturday
マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
22 聖霊降臨
晩餐の家はもの音一つなくして森閑としている。弟子たちは見えないが、晩餐の部屋に集まっている十二人の使徒と母マリアの声が聞こえる。部屋がいつもよりも広く見えるのは、位置を変えた家具と部屋の中央の二つの壁が取り外されたためであろう。テーブルにはテーブル掛けも食器もなく、戸棚もからっぽで壁の飾りもない。シャンデリアの中心だけが燃え、輪になっている他の小さい部分には灯はない。窓は一つの錠前によって閉ざされている。その小さな穴から、細長い針のような光が差し込み床まで来ている。母マリアは椅子に腰掛けており、傍らにある寝椅子の右側にペトロ、左側にヨハネがいる。新しい使徒マティアは、アルフェオのヤコボとタデオの間にいる。母マリアの前には黒い木でつくられた平たい薄い箱があり、閉ざされている。母マリアは薄い青色の服を着て、髪の上には白いヴェールをかぶっている。
母マリアは高い声でゆっくりと、前に開いている巻物を読んでいるが、そこまで至る光がないので、読むというよりも、暗記で繰り返しているようである。他の人たちは瞑想にふけりながら沈黙の内に付いて行く。そして時折り必要であれば答える。マリアの顔は脱魂的な微笑みに変容されている。その目は明るい二つの星のように輝き、自分の上にバラ色の炎が反映しているかのように顔を赤く染めている。彼女は本当に神秘のバラである。使徒たちは彼女のとても優しく微笑みながら読んでいる顔を覗き込む。ペトロはどんなに感激していることか。目から二粒の涙が零れて鼻の傍に刻まれている皺の小路を下って、白さの混じった髭に流れて消える。ヨハネはその処女的な微笑みに反応し、母マリアが巻物を読んでいるのを目で追いながら、彼女のように愛で燃える。読書が終わり、母マリアの声が消え、巻物を巻く音が途絶える。母マリアは秘密の祈りにふけり、虜手を胸に合わせ、顔を傍の小箱の上にもたげる。使徒たちも彼女に倣って祈る。
その朝の沈黙の中に突然、風、異なことに人間の声とオルガンの音の完全な大音響が響く。それは増々強く調和され、その音響と振動は広がり、家、壁、家具に響く。閉まっている部屋の平和の中に、じっとしていたシャンデリアの光は、風に打たれたみたいに震え出し、シャンデリアの鎖は超自然的な波にさらわれて、リンリンと鳴っている。
使徒たちはびっくりして頭を上げ、神が天と地に与えた最も美しいその不思議なとても美しい大音響は、増々近づくので、ある使徒は逃げまどうかのように立ち、また、ある使徒はマントで頭を覆い、神にゆるしを請いながら床にうずくまる。
他の使徒たちも、いとも清い母マリアに対していつも持っているその遠慮を保つにはあまりにも恐怖にとらわれており、母マリアの傍に集まる。だがヨハネだけは恐れていない。それは彼だけに見える母マリアの顔に、喜びにあふれる平和が広がっているからである。母マリアは両腕を開いてひざまずきにじり寄る。
そのように開かれたマントの青空色の翼は、彼女に倣ってひざまずいたペトロとヨハネの間に広がる。しかし時間をかけて私が書いた事は、一分足らずの間に行われた事である。
それから、光と火と聖霊は、メロディー的な最後の音響で激しく燃えるような玉の形を取り、扉とか窓は開かれずして、閉ざされたままの部屋に入る。そして一瞬、その火の上の部分が少し離れて光輪となる。マリアは、聖霊の火を見て、聖霊を請い願うかのように、限りない愛の微笑みと喜びの叫びで頭を後ろにそらす。聖霊のすべての火は、愛である自分の花嫁の上に集まっている。いとも至聖なるその火の玉は、音響のよい、光沢の強い十三の小さい炎に別れ、使徒たちの頭に降る。けれども母マリアに降る炎は、頭の上にまっすぐに降るが直角ではなく、その頭を冠のように包む。永遠に愛された神の娘は何と美しい。いかなる事もその品位を下げる事はできない。苦しみによって年齢を重ねたにしても、御子と共に復活の喜びに生命をみなぎらせている。もはや天国の花となるために天に上げられるその光栄なる体は美しさを前もって表わしているかのようである。
聖霊はその炎を、祝された者、母マリアの頭の上に描き巡らす。どんな言葉でそれを言い表せるであろう。神秘としか言いようがない。その顔は超自然的な喜びに変容され、セラフィムたちの微笑みに微笑み、その幸いな涙は聖霊の光に打たれて、祝された者の頬にダイヤモンドが煌めくようにこぼれる。火は少しの間、そのまま残りそれから消える。その炎が降った事の記念として地上のどんな花も放てない香りが残っている…。天国の香り。使徒たちは我に返る。マリアはその脱魂のまま残る。腕を胸の上に置き、目を閉じ頭を垂れて…。皆、母マリアに遠慮して敢えて近付こうとしない。ヨハネが彼女を指して言う。
「…母マリア様は祭壇である。その栄光の上に主の栄光が降った」
「…そうです。母マリア様の喜びを乱さぬようにしよう。そして主を宣教しに行こう。そのみ業とみ言葉が民々の中に現れるように!」
ペトロが超自然的な柔和な調子でそう言う。
「行こう! 行こう! 神の霊が私の中に燃える!」とアルフェオのヤコボが言うと、
「そして私たちの活動を駆り立てる!」
「皆、民々に福音を宣べに行こう!」と、皆それぞれに言い合って、彼らは強固な力に押され、引っ張られるかのように外にでる。
天使の出現 1916年
2014.06.01 Sunday
『ファチマのロザリオの聖母』渡辺吉徳編訳…ドン・ボスコ社 1983年改訂3版(1954年初版)より
天使の出現 1916年
ファチマにおいて、聖母マリアが三人の牧童らにご出現になった1917年の前の年に、「平和の天使」と名乗った天使の出現が三度あった。
三人の牧童というのは、(1917年、聖母ご出現の年の年齢を記すと)一番年上がルチアという十歳の女の子、つぎが九歳のフランシスコという男の子、その次がその妹の七歳になるヤシンタ。ルチアは他の二人の従姉妹である。彼らのだれも、まだ読み書きを知らなかった。当時、ポルトガルの山間地方であは、初等の学校教育はあまり普及していなかった。けれども、三人は祈ることをよく知っており、公教要理をよく勉強していた。これは家庭教育のおかげである。ルチアは七歳未満のとき、当時としては特典で、初聖体をすませていた。
この天使の出現のことは、早く世を去ったフランシスコ(1919年4月4日死亡)とヤシンタ(1920年2月20日死亡)は、だれにも語らず死んで行ったのであるが、後年ルチアが司教の願いに応じて、少女時代の出来事を語ったところから、ファチマのご出現の銀祝記念祭(1942年5月13日)にリスボンの総主教セレジェイラ枢機卿が公表したのである。
このように祈りなさい!…
ルチア、フランシスコ、ヤシンタは、羊の群を追って家を出るとき、守護の天使にお祈りする習慣であった。
それは、フランシスコとヤシンタと小さい兄妹が、ルチアから離れたくないため、母親にねだって牧童生活に入ったはじめのころ、1916年の春も終わるころであった。三人はカベソの丘の下のほうで羊らに草を食べさせていた。
午前の半ば、霧雨が降りだしたので、丘の中腹の洞穴の中に避難した。まもなく雨はやんで青空に太陽が現れたが、子供らはそのまま居残り、正午になったのでおべんとうを食べ、ロザリオを唱え、それから小石を使って遊んでいた。
突然、突風があり、びっくりして野原のほうをながめたが、なにも変わったことはなく、天気は晴朗であった。
子供らは、目の前の坂の下を一面に波打っているオリーブの木の上方に、大きな光があり、それといっしょに人の影のようなものが空中に浮かび出しており、自分らのほうへ向かって進んで来るのを見た。その人のような影はまっ白、雪よりも白く、太陽の光線で貫ぬかれた水晶の像のようであった。
近づくにしたがって顔だちがはっきりし、十四、五歳の若者の容貌で、超人間的な美しさであった。
子供らのそばに着いたその人のような影は、彼らにやさしくいった。
「こわがらないで。私は平和の天使です。私といっしょにお祈りしてください。」
といって、ひざまずき、額を地につけるまで平伏して、三回つぎのような祈りを唱えた。
「わが主よ、私は主を信じ、礼拝し、希望し、愛します。私は、主を信ぜず、礼拝せず、希望せず、愛さない人々の代わりに、お許しを願います。」
子供たちは、自分らの意志とは別の力に押されて、天使と同じように平伏し、いま聞いた言葉を繰り返した。
天使は立ちあがり、
「今のようにお祈りして下さい。イエズスさまとマリアさまのいと聖きみ心は、あなたたちの祈りに感動なさるでしょう。」
といって、見えなくなった。
ルチアは二十年以上のちに、この時の印象をつぎのように言っている。
「私たちを包んだ超自然的ふんい気はひじょうに強く、長い時間私たち自身の存在も意識せず、天使が立ち去った時に、私たちがとっていたと同じ姿勢で、いつまでも同じ祈りを繰り返していました。
神の存在が大変強く親密に感じられ、だれも、私たち三人のあいだでさえ、話しをする気がしませんでした。次の日もまだ精神はこのふんい気の中に包まれ、それはひじょうにゆっくりと消えていきました。
この出現において、だれもものをいうということは考えず、他の者にこの秘密を話す気持ちになりませんでした。私たちに沈黙それ自体がのしかかるといった感じです。それは極めて内密な恩寵で、わずかのこともこのことについて話すのは、容易ではありませんでした。あるいは、この出現は最初でしたので、それほどの強い印象を私たちに与えたのかもしれません。」
子供たちはその後、人に見られないと時は、天使に教えられた、この平伏の動作と祈りをたびたび繰り返し、この動作がもうできなくなり、物も言えなくなるまで続けた。
罪人たちの改心のために
二ヶ月後、夏の土用中の、午睡の時間に、ルチアの家の”井戸陰”に三人の子供たちがいたとき、突然カベソの神的訪問者が彼らのかたわらに立った。そしてこういった。
「何をしているのですか? …お祈りをしなさい。たくさんお祈りなさい! イエズスさまとマリアさまのみ心はあなたたちにたいして、あわれみのご計画を持っておられます。…主に絶えず祈りと犠牲をささげなさい。」
ルチアは尋ねた。
「犠牲はどんなにすればよいのでしょう?」
「すべてのことで、犠牲をすることができます。主にそむくたくさんの罪人らの改心のために犠牲をささげなさい。あなたたちの国の上に平和を呼び下すように努めなさい。私はその守護の天使、ポルトガルの天使です。特に主があなたたちに送られる苦痛をお受けし、しのいでください。」
この言葉は子供たちの心に深くくい入り、三人を照らす光となり、神がどれほど彼らを愛しておられるか、また愛されることを望んでおられるか、犠牲の価値の偉大さ、主は罪人の改心のために必要な犠牲をどれほど勘定に入れておられるかを悟らせた。
このようにして子供たちは、あらゆる苦行に励むことになったが、もっともよく実行したのは、天使の第一回の時に教えられたものであった。 ポルトガルのファチマ
2014.06.01 Sunday
『ファチマのロザリオの聖母』渡辺吉徳編訳…ドン・ボスコ社 1983年改訂3版(1954年初版)より
ポルトガルのファチマ
ファチマは、ポルトガルのレイリア司教区に属する、山の中にある一小教区である。首都リスボンから150キロ北にへだたり、ポルトガルの南北の両端から見れば、中央に位置し、東西の線からいえば、西のほう、海寄りの所にある。これから語る出来事の当時この村は、2600人くらいの人口であった。
ここに聖母のご出現のあった1917年は、第一次世界大戦のさなかにあり、ポルトガルは聯合軍側について交戦中であった。
ポルトガルは、教皇を自分の領主として誕生した(1143年)歴史をもち、もっとも忠実な国とローマから呼ばれていた。
近代にいたって秘密結社が国の実権をにぎり、1908年2月1日、カルロス王は秘密結社員らによって殺され、1910年10月5日にはつぎの王マノエルは国外に追放された。共和制が宣言され、無秩序、無政府、宗教迫害の悲しい時期が始まり、もし天の元后が、人々の予期しなかった助けをもたらしてくださらなかったなら、聖母マリアを熱愛し、真に聖マリアの土地であることを変わらず続けていたこの国も、完全に崩壊するにいたったであろうと思われる。
この国では富む者も貧しい者も、聖なる童貞マリアの無垢と愛の奥義をほめ賛え、聖母に関する巡礼に加わること、特に聖母にロザリオを唱えることを好んだ。このようにして、マリアは各家族に君臨し続けてきた。今世紀の初期、秘密結社的勝利の高潮の時にさえ、毎日ロザリオを唱える習慣は、田舎の多くの家庭内に保たれていた。
この習慣はとくに、レイリア司教区内、有名なドミニコ修道院戦勝の元后の修道院を取り巻く地方に保ち続けられた。この修道院は、ポルトガルが戦いと犠牲の中にキリスト教国となるため努力した栄光ある時代の記念をシンボル的に集めているのである。
12世紀中続いた、反イスラム戦におけるポルトガルの十字軍騎士としての武勲は、ファチマ近くの地方で展開された。
14世紀末ポルトガルがイスパニア王から独立を決定したのもこの地方においてであった。この独立戦の英雄福者ヌノ・アルパレス・ペレイラは、聖ジャンヌ・ダルクのように、英雄と聖人を兼ね備えた型の人物で、ヨハネ一世の軍を指揮し、その軍旗には聖母のお姿が刺繍されていて、彼らのときの声は、「天主と聖母マリアのみ名によって」であった。
彼は1385年8月13日、カスチリヤ王の優勢な軍隊と合戦しようとした日の前日、ファチマの高地に陣取っていた。彼は荘厳に聖マリアのご保護を呼び、王は願を立て、もし勝利を与えられるなら、天の元后の名誉のため、立派な修道院を立てることを約束した。これが天の元后に選ばれた地上のこの一角において、彼女のために祝せられた最初の13日であった。
次の日、すなわち被昇天祭の前日は、アルジェバロタの大勝利となった。
感謝のためヨハネ一世は、勝利の元后と呼ぶ壮麗な聖堂を建立し、また戦勝の修道院と名づけた修道院を建て、これをドミニコ会員らにゆだねた。このゴチック式の真の宝である、マリアの光栄のための国家的モニュメントはファチマからわずかの距離の所にあり、付近にできた村をバタリヤ(戦争)と人々は呼んだ。
これらのすべての記憶は、ポルトガル人の敬虔と愛国心にもっともなつかしいものであり、彼らはファチマの地方を「聖元帥の国」と呼んでいる。彼、ドン・ヌノ・アレパレス・ペレイラはオーレム(ファチマの従属する郡)の伯爵、したがって、ファチマの領主であった。
ドミニコ会員らのロザリオの信心にたいする熱心は伝統的である。彼らはファチマ付近の人々にそれを宣伝し続けた。
ドン・ペドロの内乱(1828年)後、ここの修道者らはバタリヤの聖所から放逐せられ、あとは美しい一顧の歴史的な記念に過ぎないことになった。
しかし、数世紀にわたってつちかわれた”毎日ロザリオを唱える習慣”はいかなる力もこれを抜きとることができず、現代まで続いた。”ロザリオの元后”ご出現の土地としてふさわしいものであったのである。
まえがき
2014.06.01 Sunday
『ファチマのロザリオの聖母』渡辺吉徳編訳…ドン・ボスコ社 1983年改訂3版(1954年初版)より
まえがき
愛する読者のみなさん、私は日本の信者方がファチマの聖母のことを一人でもより多く、よりよく知ってくださればと思い、この小冊子を出版していただくことにしました。
日本の人々も、今や、ファチマの出来事、その聖母のメッセージをよく知り、かつ実行すべき時期にあると思います。
ファチマに聖母のご出現のあったのは1917年(大正6年)で、今から57年前のことではありますが、ご出現の目的には、差しあたって、当時のポルトガルとヨーロッパに関することがらがもちろんあったのですが、その後の世界の人々と、また現在の日本にも真正面から大いに関係することがあるのです。
ファチマの聖母のお言葉の中に、「人々が私の願うことを実行するなら、ロシアは改心し、人々は平和を得るでしょう」と言われたのがありますが、ロシアはまだ改心しておらず、かれが第二次世界大戦後アジア諸国(東欧・バルカンなどはもちろんのこと)にたいしてとってきた政策を未改心のまま、日本へも押し進めてきたら、私たちはどうなるでしょう?(改心とは必ずしも宗教的意味の改心にとらなくてもよく、無神論、唯物主義に基づく暴力的実行政治を改めることと解してもよい。)
ファチマの奇跡は、すでに教会にとって正式に公認せられ、教皇ピオ十二世もたびたび特使を派遣してファチマの盛式を司式せられ、1951年10月13日には、聖年の閉鎖の式をファチマで執行することにされ、その機会に教皇特使テデスキニ枢機卿は、教皇ご自身がその前年1950年聖母被昇天のドグマ宣言の日とその前夜(10月30日、31日、11月1日<ドグマ宣言の日>と8日)までもファチマに起こったと同じ太陽の奇跡をごらんになったと公表し、ファチマとバチカンの結びを明瞭にしました。
ファチマにおいて、旧約のシナイ山やヨズエの奇跡を思い出させるような壮大な奇跡をもって、聖母マリアが地上にもたらされたメッセージを世界中に伝えねばならないのですが、日本の人々に知らせる、あるいは生き生きと記憶していただくようにするのは、私たちに課せられた義務であると思い、この小冊子を発行することにしました。
本書をお読みになり、また周囲の人々に読ませていただきたい。それによって、あなたはご自分のため、日本のためもっとも有益な業をなし、神の祝福を呼びくだすことになりましょう。
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