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2017.01.04 Wednesday

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    24 聖土曜日の昼

    2014.04.20 Sunday

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      あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より

      24 聖土曜日の昼

       空には雲一つないのに、曙が何となく遅い。天体もすべての力を失くしたかのようである。不透明な薄明で、長く泣いた後のようにぼやけている。天も主の死を悼むのだろうか。
       ヨハネは、町の門が開くとすぐ、母の願いにも耳をかさず出かけていく。婦人たちは、使徒に行かれていまい、なおさらびくびくして家の中に閉じこもる。あの部屋にずっとおられるマリアは、そう広くないがバラが咲く外の庭を眺めているが、何も目に入っていない様子である。マリアのあわれな疲れた頭の中には、御子の臨終の姿しかない。婦人たちは忙しく立ち働いているが、そのたびごとに外から混じり合った重い香りの波が打ち寄せ、それにマリアは身震いする。しかし、ことばも何の動作もなく、ぐったりしている。ただ待っている。”待つ女”である。
       だれかが入口の扉をたたく…婦人たちが開けに走り、マリアは腰かけに座ったまま頭をめぐらして扉の方を見る。マグダラのマリアが取り次ぐ。
       「マナエンです」
      「ああ、マナエン…入らせて。あの人はいつもよかった。別の人かと思った…」
      「お母さん、だれだとお思いだったのですか」
      「後で…後で…通してください」
       マナエンが入ってくる。いつものりっぱな身なりではなく、ほとんど黒に近い栗色の服と同じ色のマントを着て、装飾品は何も身につけていないし、剣もない。普通の金持ちのように見える。まず手を胸に十字に組み、あいさつのためにかがみ、それから祭壇の前のようにひざまずく。
      「お立ちください。あなたのあいさつに答えられないのをゆるしてください」
      「そんなことは私の方が許しません。私をだれかご存じですね。私をあなたの下僕の一人としてお考えください。お役に立ちたいのです。ここには男性が一人もいないようですが、皆、逃げたとニコデモから聞きました。もうての打ちようがなかったとしても、私たちを見るという慰めだけでも与えればよかったと思います。私はシストでイエズスにあいさつすることができました。それからはもうできませんでした。どうしてと言ってみてもいまはもうどうにもなりません。しかし、いま自由な身分で私の奉仕をささげます。婦人よ、ご命令ください。」
       「ラザロのことを知りたいし、また知らせたいこともあります。姉妹たち二人、私の義姉と別のマリアも、ラザロのことを心配しています。ラザロ、ヤコボ、ユダと、もう一人のヤコボが無事かどうか知りたいのです」
      「ユダ? ケリオットの? あの裏切り者!」
      「いいえ、私の夫の甥にあたるユダのこと」
      「それなら見に行きます」
       顔をしかめて立ち上がる。
      「どこか、けがでもしているのですか」
      「まあ…ちょっと。大したことはありません。腕が少し痛むだけです…」
      「私たちのせいですか。そのためにあそこまで来られなかったのですか」
      「そうです。そのため。そして傷のためではなく、行かれなかったことのためにだけいま悲しんでいます。私の中に残っていたファリサイズム、ヘブライズム、サタニズムの全部が、その血とともに流れ出てしまいました。いままで私はまだできていなかったけれど、昨日新しく生まれたのです。私の母はナザレトのイエズスです。イエズスが最期の叫びを発したとき私は産まれたのです。夕べ、ニコデモの家へ逃げました。ただイエズスだけを見たい…。墓へ行かれるとき、私にも知らせてください。一緒に行きたい…。救い主の最期の顔を私は知らないから」
      「あなたを見ています。マナエン。後ろを向いて…」
       うつむいてマリアしか見ていなかった男はびっくりして振り向き、あの布を見る。そして、礼拝してひれ伏す…男泣きをし、そして立ち上がりマリアにお辞儀して告げる。
      「行きます」
      「ご存知のとおり、今日は安息日ですよ。イエズスにそそのかされて私たちが律法に背いていると、いろいろ非難されているのに」
      「あの人たちが第一、最大の掟である愛の律法に背いているではありませんか、イエズスが言われたとおり(1)。主はあなたを慰めますように」こう言って、立ち去る。
       時間は、ゆっくりと過ぎていく。
       マリアは玄関を通って宴の部屋に行こうとするが、どこかにもたれないと、足元がはっきりせず酔いのようにふらふらしている。これを庭から見たマルタが急いで飛んでくる。
      「どこへおいでになりたいのですか」
      「その部屋に。約束してくれたはずです」
      「ヨハネが戻るのをお待ちください」
      「待つのはもうたくさん。ほら、いまは落ち着いていますよ。あの扉を開けてもらって、私はここで待っているから」
      「 他の婦人たちも皆集まり、スザンナが鍵を持っている主人を呼びにいく。何でも怖がる臆病者の男が現れ、扉を開けると行ってしまう。マリアは、マルタとアルフェオのマリアに支えられて晩餐の部屋に入る」
       部屋の中は、何もかも晩餐が終わった時のままである。腰かけだけが、もとのところに置かれている。晩餐のとき、そこにいなかったマリアは、イエズスが腰かけていた席へ真っすぐに進む。だれかに案内されているかのように見える。ベッド椅子を一周りして、これと食卓の縁に頭を当てて祈る。テーブル掛け、食器、小羊がのせられていた大皿、その席のまえに置かれている壷などを順ぐりになでる。ケリオットの人が触れたものにも触れているのに気づかない。それから食卓に頬づえをついてぼんやりしている。
       皆、黙っている。しばらくして義姉が声をかける。
      「マリア、いらっしゃい。ユダヤ人たちがここに入り込んできたらどうしますか」
      「いえいえ、ここは聖なる所です。行きましょう。よく言ってくれました。助けてください。美しい大きなぴったり閉まる小箱が欲しいのです。その中に私のすべての宝物を入れるために」
      「明日、私の家から選ばせましょう。わが家で一番美しい、がっしりした堅固いなものを。喜んであなたに贈ります」と、マグダラのマリアが約束する。
       皆、その部屋を出る。マリアは力尽きていて、わずかの段差につまずいてよろめく。皆もとの部屋に入り、もとの席に戻る前に、マリアはそこに本当の顔があるように、布の聖なる顔をなでる。
       また、だれかが玄関の扉をたたいている。婦人たちはあわてて出て、マリアの部屋の扉をぱたんと閉める。くたびれた声でマリアが言う。
      「弟子たちだったら、特にシモン・ペトロとユダだったら、ここにすぐ連れてきてください」
       訪ねてきたのはイザクである。部屋に入るとすぐに泣き出し、汗ふきの布の前にひれ伏して母の前で何を言ってよいか分からずおろおろしている。
      「ありがとう。あなたを”彼が”見ました。私も。見なくなるまで、あなたたちを見ていました」と、マリアがお礼を言う。
       イザクはしゃくり上げながら激しく泣き、ようやく話せるようになると、
      「私たちはそこを離れたくなかったけれど、ユダヤ人たちが婦人たちをいじめようとしていたので、ヨナタが私たちに身を守るように頼んだのです。それから、もう戻れなかった…。もう終わっていた…すべてが。そうしたらどこへ行くか。田舎の方にも散らばっていた者も、世ふけにエルサレムとベトレへムへの間に集まりました。そして…いつの間にか、気がついたらベタニアに来ていました…」
      「私の息子たちは?」
      「ラザロ! ヤコボ!」
      「皆そこにいます。明け方ラザロの所有地は、泣きながらさまよっている人々でいっぱいでした…。役に立たない友人たちと弟子たち!…私が真っ先にラザロのところへ行ったと思ったが、かえって婦人よ、あなたの二人の子供がもうそこに来ていました。それから、アンドレア、バルトロメオ、マテオと一緒にあなたの子も。そこに行くよう熱心もののシモンが説得したのです。夜が明けると、すぐマッシミーノが他の人たちを見つけてきました。ラザロは皆を助け、引き続きいまもそうしています。先生がその命令を与えたと言って、熱心もののシモンもそうです」
      「でも、シモンとヨゼフ、私の残りの二人の子はどこにいるのですか」
      「婦人よ、知りません。地震の時まで一緒にいたが、それから…はっきりしたことは何も分かりません。あのような闇、稲妻、地震、竜巻の中で私は全く正気を失い、いつの間にか神殿の中にいました。いまでも、聖なる境を越えてどうしてそこに入ったのか分かりません。私と香の祭壇との間は、一クビトしかなかった…そして、…至聖所を見た…そうです。なぜなら、聖所の幕はまるで巨人の手で引き裂かれたように、上から下までびりびりに裂けていたのです。…もし私がそこにいるのをだれかに見られたなら、石殺しにされるところでしたが、だれも見ていなかった。私はそこで、死んだものと生きるものの化け物しか見なかった…稲光、火事で燃える炎のあかりの中で、皆が皆が、顔に恐怖を焼きつけた幻の人々…」
      「私のシモン! 私のヨゼフは!」
      「それでシモン・ペトロは? ケリオットのユダ、トマとフィリッポはどうなったのですか」
      「お母さん、私には分かりません…。皆殺しがあったといううわさが広まったので、ラザロが私をここに確かめに送ったのです」
      「それなら、すぐラザロに安心するよう知らせに戻りなさい。さっきマナエンを送りましたが、あなたも。殺されたのは”彼”だけだと知らせなさい。そして”彼”と一緒に私も。他の使徒たちに会ったら、ラザロのところに連れて行きなさい。ただ、ケリオットの人とシモン・ペトロだけはここに連れてきてほしいの」
      「お母さん、これ以上、何もできなかったことをおゆるしください」
      「私はすべてをゆるします。行きなさい」
       イザクがその場を去ろうとすると、マルタとマリア、サロメとアフフェオのマリアに取り巻かれ、この人たちの願い、伝言、命令で窒息しそうになる。スザンナは、だれも夫の消息を話してくれないので、ひっそりと泣いている。サロメが夫を思い出すのも、この時である。そして、サロメも泣き出す。
       玄関の扉をだかれかがたたくまで、沈黙が支配する。町が平静なので、婦人たちはそれほど怖がっていない。しかし、細目に開けた扉の透き間から、ロンジーノのひげのない顔を見ると、幽霊か悪魔を見たかのように皆逃げてしまう。玄関のあたりでうろうろしていた主人は真っ先に逃げる。
       マリアと一緒にいたマグダラのマリアがやってくる。ロンジーノは、無意識の不快なほほえみを口元に浮かべて入り、自分で重い扉を閉める。軍服ではなく、灰色の短い服を黒っぽいマントで覆っている。マグダラのマリアとロンジーノの目と目が合う。なかなか扉から離れようとせずロンジーノが尋ねる。
      「だれも不浄にすることなく入れますか。だれも怖がらせずに? けさ早く議員のヨゼフに会い、お母様の望みを聞きました。私の考えが、そこまで至らなかったことをおわびします。槍を持って参りました。これを一人の…いや、最も聖なる方の形見として残しておいたのです。あの方こそ聖なるもの、そのものです! だが、お母様がこれをお持ちになっておられる方が正しい。服のことは…もっとややこしいのです。お母様にはお伝えにならない方がいいと思うが、多分わずかのでデナリオのためにもう売られてしまったと思います。それは兵士たちの権利なのです。いや、見つけるように努力したいが…」
      「いらしてください。マリアはあちらにおられます」
      「しかし、私は異邦人です!」
      「そんなことは気にしないで。お望みなら知らせにいきます」
      「おお、私のような者がこんなことをしていただけるなんて思いもよらなかった」
      マグダラのマリアは聖母のところへ行く。
      「お母様、ロンジーノが外にいます。あなたに槍を持ってきてくれました」
      「通してください」
      「異邦人なのに」と、入口にいた家の主人がぶつぶつ言う。
      「私は皆の母です。”彼”が皆の贖い主であると同じように(2)
       ロンジーノが入る。入るときにマントをとり、まず腕を上げてローマ式のあいさつをしてから口を開く。
      「アヴェ・ドミナ(奥方様、ごあいさつします)。一人のローマ人があなたを人類の母としてあいさつします。”まことの母”そのような、そのようなこと…だが命令でした…。それでも私は、あなたがお望みになるものを与えるのに役立てば、その恐ろしいことのために私を選んだことを運命に託す…。これです」
       そして、赤い布にくるまれた槍を渡す。柄がついていなくて、先だけしかない。マリアはそれを受け取ると、唇まで真っ白になる。その槍があたかも自分の血を全部失わせてしまうかのように。唇をわなわなと震わせて、
      「イエズスがあなたの慈悲のために、御自分にまで導きますように」と言う。
      「私が、広いローマ帝国で出会った唯一の”義人”でした。先に仲間たちのことばだけで、イエズスを知ったつもりでいたのが残念でした。いまとなっては、あまりに遅い…」
      「いいえ、子よ。イエズスは伝道を終えましたが、その福音は残っています、その教会の中で
      「その教会とはどこにあるのですか」こうロンジーノは軽く皮肉る。
      「ここに。いまは虐げられて散らばっていますが、嵐の後、またこずえをもとどおりにする木のように集まってきます。だれもいなくても私がいます。神の子で私の子イエズス・キリストの福音は、全部私の心に書かれています。それを皆に繰り返すには、私の心を見ただけで十分でしょう(3)
      「また来ます。このような英雄を長にする宗教は神のものに違いない(4)。アヴェ・ドミナ!」
       そして、ロンジーノも行ってしまう。
       マリアは、御子の血のりがまだついている槍に接吻する。その血を拭き取りたくないのでそのまま残し、
      「残酷な槍の上の神のルビーとして…」と、つぶやく。

      (1)ヨハネ第一3・3~10、5・18。
      (2)この著作によると、聖母マリアは自分のことを”教会の母”と深く感じ、そのとおり、それに従って振る舞った。コロサイ1・24~29。
      (3)ルカ2・19、51参照。
      (4)実際、キリスト教の神性と聖性の第一の基礎は、その創立者イエズスにある。

      つづく 

      20 はりつけ (つづき3)

      2014.04.19 Saturday

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        あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より

        20 はりつけ (つづき3)

        …カルワリオの悲劇的な情景をそのままにして、私は急ぎ足で近道を下って行くヨゼフとニコデモに追いつく。ふもとに着くか着かないころ、二人はガマリエルに出会った。髪が乱れ、被りものもマントもなく、典雅な服は土に汚れ、茨のせいでびりびりに破れているガマリエル。はあはあと息を切らし、白髪交じりの髪に両手を上げているガマリエル。この人たちは足を止めないでことばを交わす。
        「ガマリエル! あなたか?」
        「ヨゼフ! あなた? イエズスのもとを離れるのか」
        「いいや。それにしてもあなたこそ、どうしてこんなところに?」
        「一大事だ! 私は神殿の中にいた、そこへあのしるし! 神殿が土台から揺すぶられた! 緋色とすみれ色の幕が引き裂かれ、至聖所がむき出しに…われらの上に天の呪いが下った!(26)
         試練に遭って半狂乱になったガマリエルが、頂上へ向かって走りながら話したことばである。二人はガマリエルを見送る…。顔を合わせて、同時に口を開く。
        「”この石は私の最後のことばを聞いて震えるであろう”と、イエズスが言っていたとおりだ!」
         町の方へ、一段と足を早める。すると、山と城壁との間と、そのまた向こうの郊外で、まだ薄暗い中を腑抜けになったような人々がさまよい歩いている。…うなり声、泣き声、悲鳴…。ある人は口走る。
        「その血は火を降らせた!」
        「稲光の中に、ヤーヴェが神殿を呪うために現われた!」
        「墓! 墓が!」とおびえている人もいる。
         ヨゼフは、壁に頭をごつんごつんとぶつけている人をつかまえてその名を呼び、町に入ろうとして引っ張りながら声をかける。
        「シモン! 何をしているか!」
        「放っておいてくれ。あなたも死んだものだ! 皆、死んだ! 皆、外に出た。そして、私を呪っている」
        「気が狂っている!」
         ニコデモは驚き、シモンをそこにほったらかしにして総督館の方へ走る。
         町は恐怖のるつぼと化している。胸を打ちながらさまよう人々。背後に声や足音を聞くと、びっくりして飛び上がる人々。狭く暗い小道で白い服を着ている…少しでも早く走れるためにとゴルゴタに黒いマントを脱ぎ捨てて着たので―ニコデモは、幽霊と間違われて逃亡中のファリサイ人に恐怖の叫びを上げさせる。それがニコデモと分かると、何とも言えない親近感を抱いてその首に飛びついて、
        「私を呪うな! 母が私の目の前に現われ、”永遠に呪われるがよい!”と言った」と叫ぶと地面にくずおれ、
        「怖い! 怖い!」と嘆き始める。
        「皆、気違いになったのか!」と二人は途方にくれる。
        総督館に着き、総督との面会を待っている間に、ヨゼフとニコデモは、たくさんのさまざまの恐怖の理由を知る。地震が起きた際、多くの墓が開き、骸骨が出てきて人間のような姿をとり、人々に向かって”神殺し!”と言って呪っていたのを見た、と誓う人がいたからである(27)
        愚かな嫌悪と不浄の恐れひとつなく総督館に入るイエズスの二人の友だちをそこに残して、私はカルワリオに戻り、くたびれ果てて最後の何メートルかをやっとの思いで登るガマリエルに追いつく。胸を打ちながら進み、二つある広場の初めの方に着くやいなや、黄色い地面に白い線を引いたようにその場にひれ伏して嘆く。
        「あのしるし! あのしるし! 私にゆるすと聞かせてください。一言、たった一言でも、私に聞こえるゆるしのことばを聞かせて…」
         まだイエズスが生きていると思っているらしい。一人の兵士が槍でつっつき、
        「立て、黙れ。もう何の役にも立ちはしない。もっと前に考えるべきだったな。もういないのだ。異教徒であるこの私がおまえに言おう。おまえたちが十字架につけたこの人こそ、本当に神の子だった」
         こう言われて初めて気づく。
        「いない! あなたは亡くなられたのか! おお!…」
         ガマリエルは恐怖におびえる顔を上げ、そのたそがれの薄明かりの中で目をこらして頂上を見る。はっきりとは見えないが、イエズスが本当に死去したことだけは分かる。それから、マリアを慰めているあわれみ深い婦人たちの一行と、十字架の左側に立ってないているヨハネと、深い尊敬をこめて右側に立っているロンジーノとを見る。ガマリエルはひざまずき、腕を思い切り伸ばして号泣する。
        「あなただった! あなただった! われわれにはもうゆるしがあり得ない。あなたの血が私たちの上にしたたり落ちるのを望んだのはわれわれである。その血が天に向かって叫び、天は私たちを呪う…しかし、あなたはあわれみであった!…私、ユダヤの無力なラビ、空しくされた私は”あなたの血はわれらの上にあわれみのために下るように”と言いたい。それを私たちの上に注いでください!(28) なぜならい、それだけが私たちにゆるしを取り次ぐことができるから…」と言って泣きに泣く。
         やがて、自分の中に隠れた傲慢をひそかに告白する。
        「私が頼んだしるしをもらった…しかし、私の内部の生活の上に何世紀にもわたる霊的盲目がのしかかり、いまの私の望みに対して、昨日までの私の傲慢な考えをその声が打つ、私をあわれんでください。世の光よ、あなたを理解しなかった闇を、あなたの光で照らしてください。私が正義だと思っていたのに誤りだったものに対して、私は忠実なユダヤ人であった。いま、私には荒れ地のように古えの信仰の古えの木は一本もなく、新しい信仰のどんな種子も、どんなひこばえもない。私は何の潤いもない荒野、また砂漠でしかない。この頑固な老いたイスラエル人のあわれな心に、あなたの名前を持つ一輪の花を咲かせる奇跡を行ってください。古えの儀式にとらわれているこのあわれな考えを解き放つあなたが入ってください。すでにイザヤは言っている。”彼は多くの人の罪を背負って罪人のために取り次ぎをした”おお、ナザレトのイエズス、私のをも…(29)
         ガマリエルは立つ。明るくなる光でだんだん見えてくる十字架を眺め、腰をかがめているので急に老け込んだように見える。うちひしがれた様子で立ち去る。カルワリオの沈黙を破るのは、もう、マリアの泣き声だけである。恐怖に心底疲れ切った二人の強盗も、もう何も話さない。
         ニコデモとヨゼフが走って戻ってきて、ピラトの許可をもらったと告げる。しかし、あまり人を信用しないロンジーノは、二人の強盗についても、どうすべきか知りたくて、一人の騎兵を送り、駆け足で行って帰ってくるようにとイエズスを渡すことと、ユダヤ人が望んだように他の二人の骨を折ること、という命令を伝える。次から次へと起きた恐ろしいできごとのために、まだがたがたと震えている四人の執行人をそばへ呼び、二人の強盗を棍棒で片づけるように命じる。これはディスマの場合一切の抵抗なしに行われ、棍棒がすねを打ち、次に胸を打つと、ぜいぜい言いながら最後に、イエズスのみ名を呼ぶ。残りの一人の恐るべき呪詛…喘鳴は暗く陰惨である。
         四人の執行人は、イエズスを十字架から下ろそうとするが、これをヨゼフとニコデモが許さない。ヨゼフはマントを脱ぎ、ヨハネにもマントを脱いでもらい、自分たちが、梃子と釘抜きを持って上る間ずっとはしごを押さえているようにと頼む。マリアは婦人たちに支えられ、ぶるぶる震えながら立ち上がって十字架に近寄る。その間に兵士たちは任務を終えて行ってしまう。ロンジーノは、下の小さな広場を下りる前に黒馬の上から振り向いて、十字架につけられたものとマリアとを見る。それから石だたみの上にひづめの音と胸当てにぶつかる武器の音とを残して、次第に遠ざかっていく。
         イエズスの左手から釘がはずされると、腕がだらりと下がる。上にいる二人は、婦人たちにはしごをまかせてヨハネも上がってくるように頼む。ヨハネは先にニコデモがいるはしごを上がり、イエズスの腕を自分の首に巻きつけ、そのまま肩で押さえ、もう一方の腕で胴体を抱きかかえる。足の釘が抜かれると、ヨハネは師の体を十字架と自分の体にはさんで支えようとするので一苦労である。マリアはイエズスをひざで受け止めようとして十字架にもたれてしゃがむ。左手の釘を抜くのは至難の技である。ヨハネのありとあらゆる努力にもかかわらず、体全体が前方に傾き、釘の頭はますます肉に食い込んでいく。もうそれ以上は傷つけることはできないので、二人のあわれみ深い男たちはとても苦労する。とうとう釘は釘抜きにつかまれ、ゆっくりと引き抜かれる。続いてヨハネはイエズスを脇の下から支えるので、イエズスの頭がその肩のところに垂れている。その間、ニコデモとヨゼフは、一人が腰、一人がひざを支えて、そろそろとはしごを下りる。
         地面に下り立つと、自分たちのマントの上に敷いた敷布の上に皆はイエズスを下ろそうとするが、マリアが反対する。自分のマントをひざに広げて、一方の端を下がるようにし、イエズスの揺るかごにするためひざを少し開いて待ち受ける。弟子たちがマリアに御子をゆだねるためにぐるりと一回転すると、冠を被った頭はのけぞり腕はだらっと下がり、信心深い婦人たちがそれを支えなければ、傷だらけの手が地面に触れるところであった。
         いまは、母のひざに抱かれて…母の胸に顔をうずめて眠っている疲れた大きな子供のように見える。マリアは、御子の肩に右手を回して抱え、上から左手で脇を支えている。イエズスの頭は母の肩にしなだれかかり、マリアはわが子の名を呼ぶ…。悲嘆にかきくれてわが子を呼ぶ。イエズスの頭を起こして左手でなでさすり、イエズスの両手をその手にとって伸ばし、体の前へ持ってくる前に接吻し、傷の上に涙をこぼす。そっと頬をなでとりわけ丁寧に紫色のあざとはれた頬を手でなぞり、くぼんだ目、右へ軽く曲がり、やや開いている唇に接吻する。血で固まったひげと髪の毛も整える。だが、こうするとき茨に当たり、その冠をはずそうとして、とげに刺される。それでも自由になる片手を使って自分一人で、…手伝おうとする人たちを、
        「いいえ、いいえ、私、私が」と言って拒む。
         細やかな心遣いと細心の注意を払っている。まるで生まれたばかりの赤ん坊の頭を触っているような感じである。乱れた髪をその手で分け、きちんとなでつける。涙を流しながら小声で話しかけ、冷たくなった血まみれのあわれな肉体にはらはらとこぼれる涙を指で拭く。自分の涙と、まだイエズスの腰に巻かれている白い布できれいにしようとして、その端を引っ張り、それで聖なる体を拭いて清める。もう一度頭をなで、それから手、打撲傷のあるひざをなで、涙がぽとぽと落ちる体を拭く。
         こうしているうちに、その手が胸の裂傷に触る。薄い麻で覆われた小さな手が、すっぽりとその広い傷に入ってしまう。マリアは残光の中に透かすようにしてそれを見る。わが子のぱっくりと口を開けた胸と心臓とを見てうめき、子の上にくずおれる。そして、マリアも死んでしまったかのように見える。婦人たちはマリアを助け起こし、何とか慰めようとする。御子をマリアから引き離そうとするが、
        「あなたにふさわしい安心できるところ、あなたをどこへ置きましょう!」とマリアが狂おしく叫ぶので、ヨゼフはうやうやしくお辞儀をし、腕を開き、胸に手を当てて語る。
        「慰められますように、婦人よ! 私の墓は新しく、大なる人にふさわしいものです。これをイエズスに贈ります。そしてこの人、ニコデモは友人の墓にささげる自分の香料をすでに運んでいます。ただお願いがあります。もう日暮れですので私たちにまかせてください…。パラシェヴェです。(30) おお、聖なる婦人よ、どうか聞き分けてください」
         ヨハネと婦人たちも口々に頼むので、しぶしぶマリアは自分の胸からわが子を取り上げられるのを許し、あえぎながら苦しそうに立って、敷布に包まれている間、じっと懇願している。
        「おお、そっと、そっと。丁寧に」
         ニコデモとヨハネとが肩の方を、ヨゼフが足の方を抱えて、敷布に包まれた亡がらを担架の代わりのマントで支えて持ち上げ、道へと下っていく。マリアは義姉とマグダラのマリアに抱きかかえられるようにして、釘、釘抜き、冠、海綿、葭竹(31)を拾い集めたマルタ、ゼベデオのマリア、スザンナに付き添われながら墓の方へ下り始める。
         カルワリオには三つの十字架が残る。真ん中には何もなく、他の二つには死にそうな生きるトロフィーがかかっている。

        (26)脱出26・31~37、36・35~38。ヘブライ人9・1~10参照。
        (27)マテオ27・52~53に基づいてよく理解すべきことばである。
        (28)全人類、そのために選ばれた民、ヘブライ人もキリストの血によって贖われたのである。ヘブライ9章参照。
        (29)イザヤ53・12。ペトロ第一2・22~25を参照。イエズスは、ヘブライ人の最も重い罪(神殺し)も背負ったはずである。
        (30)ギリシア語で”準備”の意味で、安息日のために必要と思っていたことを、ヘブライ人がその前日にいろいろと準備していたので、安息日の前日を指すことばとなった。
        (31)ヨハネ19・29では、投槍となっている。 

        20 はりつけ (つづき2)

        2014.04.18 Friday

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          あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より

          20 はりつけ (つづき2)

          「そんなはずはない」と、司祭とユダヤ人たちがどなる。
          「われわれをここから去らせようとするための芝居だろうて。兵隊さん、槍でつっついてみろ。声を戻すよい薬になるさ」
           しかし兵士たちが微動だにしないので、十字架の方へ石と土くれが雹のように飛び、殉教者にあたり、またローマ人たちの胸当てにはね返る。
           ユダヤ人たちの皮肉なことばどおり、その薬は効果があった。石が命中して(たぶん頭か手に当たったのだろう)、悲鳴を上げてイエズスの意識が戻る。胸はまた苦しそうに小刻みに上下し、苦しみを少しでも減らそうと頭の向きを右から左へ変えるが何の効果もない。イエズスは傷だらけの足を踏ん張って、その意志力だけで健康な人間であるかのように背筋を伸ばし、頭を上げ、大きく目を開けて自分の足元に広がる世界、もやの向こうにうっすらと見える白く包まれた遠い町、光のなごりさえもすっかり消えてしまった暗い空を眺め、大きな石でふたをしたような暗くて低い空に向かって、自分の心の望みと意志力から、こちこちに固まった顎、からからに乾いた舌、はれてつぶれているのどをものともせず、大声で高く叫ぶ。
          「エロイ、エロイ、ランマ、シェーバクテーニー!」(私にはこのうように聞こえた(21)
          このような声で父からの放棄を告白するからには、天から完全に見捨てられて死ぬと感じているに違いない。
           人々は笑ってイエズスをからかう。
          「神とはおまえのことではないのか。悪魔たちは神に呪われている!」
           別の人々はこう叫ぶ。
          「イエズスが呼んでいるエリアが、救いにくるかどうか見ていよう」
          「のどをすすぐように、ちょっと酢を飲ませろ。あれは声によい! この気違いが呼んでいるエリアが神かよく知らんが、遠くにいる…聞いてもらうには強い声がいる!」と言って、ジャッカルかサタンのように笑う者もいる。
           しかし、酢を与える兵士もいないし、慰めを与えるために天から来る人もいない。大なる生贄の孤独で、超自然的にも残酷な臨終である。ゲッセマニで苦しんだ悲惨な押しつぶされそうな苦しみが、山津波のようにまだ押し寄せる。罪のない殉教者を苦しめるために全世界のあるゆる罪の波が押し寄せる。この上なく、十字架にかけられるよりも苦しい。神に見捨てられ、祈りももう神まで昇らないという、どんな拷問よりも絶望的な気持ちにとらわれる。
           これは最後の拷問である。この神からの放棄と言う拷問は血の最後の一滴をしぼり、イエズスの死を早める。
           おお神よ、私たちのためにあなたがお打ちになった私のイエズスは、他のことよりも、何よりもそのために死なれた!あなたの放棄の後、あなたの放棄によって人はどうなるのか。狂気か、死かのどちらかである。その知恵は神的であったので、イエズスは狂気になれなかったけれども、死ぬ者となった。いと聖なる死に、罪なき死人となった。命であったイエズスは死んだ。あなたの放棄とわれらの罪によって殺された。
           闇が濃くなって、エルサレムは全く見えず、カルワリオのふもとさえも視界から消える。唯一の残照を集めて、オニキスを溶かしたような小さな池の上に、頂だけが愛と憎しみとから見られるようにその神的なトロフィーとして立っている。もう光とも呼べないほどの光の中に、イエズスの嘆きの声が聞こえる。
          「渇く」
           実際、元気な人でさえ渇いてしまう風が吹きすさぶ。目を開けていられないほどのほこりを吹きつけ、身を切るように冷たい恐ろしい風がやむことなく続く。その激しい息吹は、イエズスの肺、心臓、口、凍える手足、麻痺している傷だらけの体をどれほど苦しめたか。その殉教者を、この世のすべてがさいなんでいるように見える。
           一人の兵士が、酢に胆汁液を混ぜた壷(22)のところへ行く。その飲み物の苦みで死刑囚たちの唾液の分泌を促すのだそうで、兵士がそれに海綿を浸し、そこらの細く固い葭(よし)竹に挿して死にいく人に差し出す。イエズスは揚げられた海綿の方へ、ゆっくりと顔を向ける。母の乳首を探し求めている飢えた幼な子のようである。この様子を見て、はっきりそうと感じたマリアは、ヨハネにもたれて嘆く。
          「私は涙の一滴も与えることができない…。私のこの胸はどうして乳も…。神よ、なぜ…なぜ…私たちをこれほどまでにお見捨てになるのですか。わが子のために奇跡ひとつ! 私には乳がない…私の血でわが子の渇きをいやしたいのに、だれがあそこまで引き上げてくれるのか…」
           イエズスはむさぼるように苦みのきつい飲み物を吸うが、それを嫌って顔をそむける。考えてみれば、傷だらけの唇には刺激が強過ぎてしみたに違いない。イエズスは頭を引っ込めて、力が抜けたようにぐったりとなる。体重が全部前の方にかかり、また足にかかっている。もうこの苦痛を和らげるような動作ひとつしない。骨盤から上はすべて木を離れ、そのまま宙づりのようになっている。前に垂れている頭がどれほど重たげか、首が折れている感じがする。せわしく呼吸するようになり、しかも続かない。きれぎれにするあえぎと言った方がよい。時々、苦しそうな咳をすると、軽いバラ色に染まった泡が口元に飛び散る。やがて息も絶え絶えになり、腹部はもう動かず、かすかに胸部だけが上下しているが、肺の麻痺は進む一方である。
          「母様…」と呼ぶ、幼いころに戻ったような声もだんだんと消え入りそうになる。
          「ここに、ここにいます。私の愛するもの」とあわれな母は答える。
           イエズスの目はもう見えない。
          「母様、どこにいるの。もう見えない。母様まで私を見捨てるのですか」
           もう声にはならず、耳ではなく心で、いまわのきわの吐息のようなささやきを聞き取るしかない。
          「いいえ、いいえ、子よ! 私はあなたを見捨てることなどありません! 私の愛するもの、私を感じて! 母様はここにいます。あなたのいるところへ行かれないのが身を切られるようにつらい…」と母は答える。
           これを目のあたりに見聞きすることは、また違う拷問である。ヨハネはあたりをはばからず泣いている。イエズスにはその泣声が聞こえるはずだが何も言わない。死に瀕してうわ言のように話し、何を言っているのかも分からず、おおかた母の慰めも愛弟子の愛さえも分からないのだろう。
           ロンジーノは直立不動の姿勢をとり、左手を刀に、右手は規則どおりぴちっと脇にあてて、皇帝の玉座の前で敬礼しているように緊張し感情を押し殺している。しかし、必死に絶えている顔がゆがみ、目にはこの人の鉄の意志だけがとどめている涙がにじみ、きらりと光る。
           さいころで遊んでいた兵士たちがそれをやめて立ち上がり、さいころを振るのに使った兜をまた被り、軟らかい右にうがった小さな狭い段々のそばに黙って隊列をつくる。他の兵士は命令を受けていて態勢をくずせない。まるで彫像のように見える。しかし、マリアの近くにいて、そのことばを耳にした一人は口の中で何かをつぶやき、頭を振る。
           あたりを沈黙が支配し、やがて真っ暗闇の中ではっきりと聞こえる。
          「すべては成し遂げられた!(23)
           乱れた荒い息づかいしか聞こえず、沈黙はますます長く、時間は憂慮の拍子をとりながら流れていく。そのあえぎを聞くのは苦しく、聞かなければもっと苦しい。
          「このような苦しみは、早く終わればよい!」
          「神よ、まだ最後でありませんように」
           この二つの矛盾した考えにさいなまれる。マリアたちは皆、段になっている土に頭をまたせかけてさめざめと泣いている。その泣き声がよく聞こえるのは、いますべての群衆が死ぬお方の喘鳴を聞くために黙っているからである。そのまま沈黙が続く。しばらくして限りない優しさ、たぎるような調子での祈願が聞こえる。
           「父よ、私の霊を御手にゆだねます!(24)
           また沈黙に戻る。喘鳴も軽くなり、のどと口だけでしかされていない息づかいが聞こえてくるだけである。
           そして、イエズスの最後のけいれんが起こる。三本の釘で木に打ちつけられている体を引き抜いてしまうようなよじれが、足の先から頭のてっぺんまで三度繰り返され、腹部が異様な形で持ち上がり、胸部はふくれ、収縮する皮膚は肋骨と肋骨の間に入り込み、鞭打ちの傷がまた裂けて、一回、二回、三回、がつんがつんと頭を木に激しく打ちつける。顔の筋肉のすべてがゆがんで右の方へ口がねじ曲がっているのを目立たせる。かっとまぶたが見開かれ、眼球と鞏(きょう)膜がぐるぐる動くのが見え、体全体が硬直している。最後の動きは、けいれんと収縮で弓形にそり返り、その姿は見るだけでも恐ろしい。そしてそのような疲れはてた体からは想像もつかないような”大きな叫び”が発せられる…それから、もう何も……。
           頭ががっくりと胸に垂れ、体はだらりと前方にぶら下がった形となり、呼吸も停止する。息を引き取られた。
           大地は殺された方の叫びを聞いて恐ろしいうなり声を上げる。巨人たちの幾千ものラッパから、ただ一つの音が発せられる。その中には、空全体を引き裂く稲妻と、もの悲しい雷鳴の音…。町、神殿、群衆の上を稲妻が走り、直接雷に打たれた人もいると思う。いまは稲妻が何かを見るための唯一の光である。雷鳴がとどろいている間、大地は台風のような嵐に揺れる。冒涜者たちに黙示録のような罰を与えるために、地震と嵐とが一体となっている。ゴルゴタの頂上が縦横に揺れ、気違いの手にある皿のように躍ったり、波打ったりして、三つの十字架はいまにも倒れそうになっている。
           ロンジーノ、ヨハネ、兵士たちは、転ばないように手近にあるものにしがみつく。ヨハネは片方の手で十字架をつかみ、片方で苦しみと地震のために自分の胸に倒れこんできたマリアを支える。兵士たち、特に川に下りている兵士たちは、その急な斜面にずり落ちないように真ん中にかたまっている。強盗どもは恐怖で叫びたてる。群衆はそれ以上の恐慌状態に陥り、逃げまどう人々が折り重なり、踏みつけ合い、大地の割れ目に落ち込んだり、斜面の方へ転がり落ちていく。
           地震と嵐とが三回も繰り返された後、不意に死の静寂が訪れる。無言の稲妻だけが変わらず空を走り、人々は手で髪をむしり、両手を前に突き出し、また、これまではさんざんあざけり、いまはおののいている天に向かって両手を差し上げ盲めっぽうに逃げる。稲妻が、地面に横たわっている死んだのだが気絶したのだか分からない人々を照らし出す。城壁の向こう側の家が燃えている。真っすぐ上がっている炎が、緑がかった灰色の空に一点の赤い灯をともす。
           マリアは、ヨハネの胸で頭をもち上げ、イエズスを見る。かすかな光なので、あふれる涙でわが子がかすんで見えず、
          「イエズス! イエズス! イエズス!」と三回呼びかける。
           カルワリオに来て初めてイエズスを名前で呼び、おしまいにゴルゴタの頂上の上に冠をつくった稲妻のあかりでイエズスを見る。体全体が前にのめり、頭が右の方にがっくりと曲がり、あごが肋骨に触れるほど傾いている。マリアは暗闇に、震える手を精いっぱい伸ばして
          「私の子よ!私の子よ!私の子よ!」と叫ぶ。
           それから耳を澄ます…やや口を開き、目を大きく見開いている…自分のイエズスがもういないなどとはとても信じられない…。すべてをその目で見、その耳で聞いたヨハネはすべてが終わったと知り、マリアを抱きかかえてそこから遠ざけようとしてつぶやく。
          「イエズスはもう苦しまない…」
           そのことばを使徒が言い終わらないうちにすべてを悟ったマリアは、その腕を払いのけて大地にひざをつき、突っ伏して両手で顔を覆って、
          「もう私には子供がいない!」と叫んでよろめき、ヨハネがその胸に抱き止めなかったら、倒れてしまうところであった。
           ヨハネは、マリアをしっかり支えるために地面に座り込む。その時、ユダヤ人もいなくなったために厳重な警戒が解かれていたので兵士たちにははばまれることなくやって来たマリアたちが、ヨハネに代わってマリアの世話をする。マグダラのマリアは、ヨハネが座っていたところに座り、マリアをその腕と胸とで支え、自分のひざにほとんど抱きかかえるようにして、自分の肩にのせられているあわれみ深い血の気の失せた顔に接吻する。マルタとスザンナとは、酢に浸した海綿と布とでマリアのこめかみと鼻の下を濡らして気つけ薬にする。それから義姉がマリアの名を呼びながら接吻し、苦しみの果てにうつろな目を開けてあたりを見回すマリアを見て話しかける。
          「娘よ、愛する娘よ、しっかりと開いて。私が見えると言ってちょうだい。あなたのマリアですよ…そんな目で私を見ないで…」
           最初のすすり泣きがマリアののどからもれ、一滴の涙がぽとりと落ちると、かの善良なアルフェオのマリアはあやすように言い聞かせる。
          「そう、そう、泣きなさい。ここで私と一緒に、私をお母さんだと思いなさい。あわれな聖なる私の娘よ」
          「おお、マリア! マリア! 見たでしょう」と、マリアに言われると、アルフェオのマリアは悲鳴に近い声を上げる。
          「そう、そう。でも、でも…おお娘よ…」
           胸がつまり、もう何も言えなくなって泣く、老いたマリア。慰めようのない悲痛な泣き声。これに他の婦人たち、マリアとマルタ、ヨハネの母(マリア・サロメ)とスザンナとがもらい泣きをする。その他の信心深い婦人たちの姿はもう見えない。皆ここを去ったらしい。また羊飼いたちもいない。兵士たちは低い声で話し合っている。
          「あのユダヤ人たちを見たか。あの人たちが怖がっていた…」
          「そして、自分の胸を打っていた」
          「一番怖がっていたのが、あの司祭たちだった!」
          「何という恐ろしいこと! おれは前に地震に遭ったことがあるが、とてもこれとは比較にならない。ほら、地面があちこちひび割れている」
          「向こうでは、長い方の道が一カ所崩れ落ちている」
          「その下に生き埋めになっている人がいる」
          「ほっとけ! それだけ蛇が少なくなった」
          「おお。また火事が! 郊外の方…」
          「しかし、本当に死んだのか」
          「見なかったのか。これがどうして疑えようか」
           岩の後ろからヨゼフとニコデモが顔を出す。落雷を避けるために山の後ろに避難していたらしい。二人はロンジーノのところへ行く。
          「あの死体をもらい受けたい」
          「それができるのは総督だけです。さあ行きなさい、早く。というのは、ユダヤ人たちが死刑囚のすねの骨を折る許可をもらいに総督館へ行ったと聞いたからです。私としては、そんな侮辱は受けずに済まされるものならと思っているのですが」
          「どうして、そんなことまでご存知なのですか」
          「旗手の報告です。さあ早く。私はここで待っていますから」
           険しい道に二人は急ぎ足で姿を消す。
           ロンジーノがヨハネに近づき、何ごとか語りかける。そして、一人の兵士から槍を受け取ると婦人たちの方を見る。婦人たちはようやく力を取り戻したマリアの介抱に懸命で、皆十字架に背を向けている。ロンジーノは十字架の真ん前に仁王立ちになり、ねらいを定めてぐさりと突き刺す。槍の広い穂が、下から上へ、右から左へ深く入る(25)。ヨハネは見たいという望みと見たくないという恐れに引き裂かれて、一瞬、顔をそむける。
          「もう終わった、友よ」と、ロンジーノが声をかけ、たたみ込むように続ける。
          「この方が良い。騎士に対してするように。これなら骨を折る必要もない。…この人は本当に義人だった!」
           その傷から大量の水と、すぐに固まりかける一筋の糸のような血がつーと流れ出る。じっとして動かないその傷から、もしまだ息があれば、その動きで傷は開いたり閉じたりしたはずである。

          (21)マテオ27・46、マルコ15・34にも載っていることばだが、ちょっとした違いがある。例えば、”シェーバクテーニー”というのは詩編22・2のヘブライ語テキストではなく、この詩編のアラマイ語のタルブン(解釈)に基づいている。
          (22)詩編69・22。マテオ27・34,48。マルコ15・23など。
          (23)ヨハネ19・30。
          (24)ルカ23・46。
          (25)先に引用している、モロニ第37巻87~92ページによれば、槍の穂先はパリ”セント・シャペル”で、残りはバチカンの聖ペトロ大聖堂に保存されているそうである。

          つづく


           

          20 はりつけ (つづき)

          2014.04.18 Friday

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            あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より

            20 はりつけ (つづき)

             ユダヤ人たちは呪いの声を上げるが、ローマ兵にはかなわない。マグダラのマリアはヴェールを下ろして―あの卑怯者たちに話すために、それをほんの少し上げていたので―もとの所に戻り、他の婦人たちもまたマリアのそばに集まる。
             しかし、右側の十字架にかけられた強盗は侮辱し続け、人の行う冒涜すべてを要約するかのように、考えられる限りの侮辱を繰り返して最後にこう結ぶ。
             「信じられたいと思うなら、まずおまえ自身とおれたちを救え。キリストなのか、おまえが。気違いめ!世界は賢い人々のものだ。神なんかいない。おれがいるということこそ事実だ。おれにはどんなことでもゆるされる。神か…そんなものは、おれたちを静かにさせるためのただのおとぎ話さ…」
             聖母マリアがその足元近くにいる左側の強盗は、キリストよりもマリアを見て少し前から涙を流しており、
            「お母さん」とつぶやく。
            それから右側の強盗に向かって、
            「おまえは黙れ! この罰を受けていながら、いまもまだ神を恐れないのか。この善いお方を、なぜ侮辱するのか。この方は何も悪いことをしなかったのに、私たちよりも厳しい拷問を受けている」と声を荒げるが、悪い強盗は相変わらず呪い続けている。
             イエズスは黙っている。不自然な姿勢でいるので、発熱や過酷な鞭打ちで、血の汗まで流させた深い苦悩により心臓が衰弱し、呼吸器官の具合が悪いのであえいでおり、腕に力を入れて足にかかる体重をなるべく軽くしたいのか、体を引き上げようとしている(16)。先ほどから足のけいれんが始まり、その筋肉の震えを抑えるためにもそうしているのかもしれない。ところが、腕の神経にも同じけいれんが見える。腕が上の方にあるために手の先はもう冷たくなっていて血がまわらない。特に左手の指は屍のようにだらりとして、ぴくりとも動かない。足の指も同じ症状を現しているが、まだ親指は神経がそれほど冒されていないのか、上を向いたり下を向いたり離れたりしている。
             胴体に目を移すと―体の形は完全なのだが―その位置のためか、または中に確かにできている肺水腫のためにぱんぱんに張っている。それでも呼吸しようと努めても何の役にも立たず、腹部を動かすことでだんだんと麻痺が進む横隔膜を幾らか助けるくらいである。紫に変色した唇、また頸(けい)静脈のはれが示すとおり、充血と窒息とは分刻みで激しくなる。顔は聖骸布の写真で見たままの形である。鼻の片側がはれているために、同じ側の目はほとんどつぶれていて、その類似を示している。閉じられた目の代わりに口は開いていて、上唇の傷など、もうかさぶたになっている。
             これまでの出血、発熱、暑さによる渇きがいかに甚だしいものか、イエズスは無意識のうちに自分の汗と涙の滴、また額から口ひげにたれてくる血をさえもなめて舌を潤す。腕の緊張をほどき、足への負担を軽くするために十字架にもたれようとすると、茨の冠がそれを妨げる。腎臓や背骨など腰から上全体が前方に湾曲して、十字架の支柱から離れている。
             狭い広場から追い出されたユダヤ人たちは罵詈雑言を浴びせ続け、回心する様子もない強盗の一人は自分もそれに加わる。ますます大きなあわれみをもってマリアを眺めるもう一人の強盗は泣いており、皆の侮辱にマリアも含まれているのを聞くと激しく相手を責める。
            「黙れ! おまえだって女から生まれたのではないか。おふくろがおれたちのような子供をもってどれだけ泣いたか考えろ。それは恥の涙だった、おれたちは犯罪者だったから。おれたちのおふくろはもう死んだ…私は手を合わせてわびたいが、できるだろうか。おふくろは聖人のような人だったのに、おれが与えた苦しみがもとで死んだ…おれは罪人だ…おれをだれがゆるしてくれるのか。お母さん、いま死にいくあなたの子の名前で頼むが、おれのために祈って下さい(17)
             一瞬、マリアは自分の苦しみに覆われている顔を上げて、自分を思い出してイエズスの母を見つめ改心に近づくあわれな人を見る様子は、雌鳩のようなまなざしでこの人をいつくしむかに見える。ディスマ(18)(強盗の名)は、一段と激しく泣く。これは群衆と他の仲間のあざけりをあおる結果となる。
            「けっこうなことだ。この女を自分の母とすればよい。そうしたら、この女は犯罪者の子を二人もつことになる」と群衆が言う。
             また仲間は、
            「あの女がおまえを愛するのは、おまえが自分の最も愛する子のかたどりだからだ」と言う。
            その時、イエズスが初めて口を開く。
            「父よ、この人たちをおゆるしください。この人たちは何をしているか知らないのです!」
             この祈りは、ディスマの恐れをすべて一掃するものでキリストをじっと見つめて言う。
            「主よ、あなたの国に入るとき、私のことを思い出してください。私はここで苦しむのが当然ですが、私にこの命のかなたにあわれみと平和とをください。いつだったか、あなたが話しておられるのを聞いたが、その時そのことばを受け入れようとしなかったのを、いまは後悔しています。私の罪をいと高きものの子である、あなたの御前に痛悔します。私はあなたが神から来られたものであると信じ、あなたの力とあわれみとを信じています。キリストよ、あなたのお母さんとあなたのいと聖なる父の御名で私をゆるしてください」
             イエズスがそちらに顔を向け、深いあわれみをもってディスマに目を止め、はれ上がった無惨な口に、何とも言えない美しいほほえみを浮かべて、
            「私はおまえに言う。きょう、おまえは私と一緒に天国(19)にいるはずです」と告げる。
             回心した強盗はすっかりおとなしくなり、祈ろうとするけれども、子供のこと習った祈りをいまはもう覚えていないので、射祷のように繰り返す。
            「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス、私をあわれんでください。ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス、私はあなたが神であると信じます」
             空が次第に薄暗くなる。いまは日光を通す透き間もなく、灰色や白色や緑がかった雲の層が、断続的に空を駆け抜ける冷たい風のいたずらで、厚ぼったく重なったり薄くなったりする。風がおさまると、大気が死んだようによどみ、不気味なほど蒸し暑い。さっきまで、いつもより生き生きとしていた光が緑がかってきて、人の顔が妙な色に見える。兵士たちの兜の下にぴかぴか光る胸当てが、鉛色の空の下、緑がかった光の中でいかつい輪郭はまるで彫ったように見える。人々の皮膚や、黒い髪とひげのユダヤ人の顔が土け色になり、溺死した人のようになる。女たちは血の気の失せた青さが、光でよけいに目立ち、濃い水色の雪像のように見える。
             イエズスは不気味とも言える青白さで、もう息絶えて腐敗が始まっているように見え、しかも、うなだれている。力がどんどん抜けていき、やけどしそうなほど体が熱いのに震えている。衰弱したために、いままで心の中だけつぶやいていたことばを、
            「母様! 母様!」と口に出す。
             もはや軽い錯乱が始まっており、意志で止めようにももは止められないらしく、ため息のようにつぶやく。そのたびごとにマリアはわが子を助け下ろすように腕を伸ばさずにはいられない。残忍な人々は、死にいく人とあえぐ人の苦しみを楽しんでいる。
             下の小さな広場にいる羊飼いたちの後ろに、司祭と律法学士たちが上り、これらの人たちを追い払おうとする兵隊たちに抵抗している。
            「ガリラヤ人どもはここにいるではないか。裁きが滞りなく執行されているかどうか確かめる義務のある私たちが、なぜここにいてはいけないのか。こんなおかしげな光では遠くからだとよく見えない」
            実際、多くの人々が、次第次第にこの世界を包んでいく光に気をとられ、中には怖がっている人もいる。兵士たちも峰峰の向こうから真っ黒な円錘形の雲が、杉の木のように空高く揚がっていくのを見る。それは竜巻のようにも見える。あれよあれよと言う間に高くなり、煙と溶岩を噴出している火山のように黒雲がわき起こる。たそがれのような気味の悪い光の中で、母はわが子に近づくために十字架の下ににじり寄ってきたので、イエズスはマリアにヨハネを、ヨハネにマリアを与えようと頭を垂れて話しかける。
            「婦人よ、これはあなたの子です。子よ、これはなたの母です(20)」と言われた。
             イエズスの遺言でもあるこのことば、人間への愛のためにマリアから生まれた神なる人間でありながら、自分の母に一人の人しか与えられないこのことばを聞いて、マリアはその顔を曇らせる。あわれな母はおえつをもらす。その口元には苦しいほほえみ、イエズスのためのほほえみ、イエズスを慰めるためのほほえみをたたえてはいても、知らず知らずに涙がはらはらとこぼれ落ちる。
             苦しみがますます増大し、光はますます弱まっていく。海の底のようにぼんやりした中で、ユダヤ人の後ろからニコデモとヨゼフが現われて兵士たちに、
            「この者たちをどけろ」と命じる。
            「できません」
            「何をお望みですか」と兵士たちが尋ねる。
            「通りたい。私たちはキリストの友人だ」
             司祭たちの長が顔を向けて、
            「どこのどいつが、わざわざこの反逆者の友人だなどと宣言しているのか」と憤慨する。
             ヨゼフはおごそかに言う。
            「大衆議会の貴族の一員である私、アリマタヤのヨゼフ。私と一緒に、ここにユダヤ人の長ニコデモがいる」
            「反逆者を支持する者は反逆者だ」
            「ハナンのエレアザル、人殺しどもに手をかす者は人殺しだ。私は義人として生きた。いまはもう年をとり、死が近い。天が私の方に下り、それとともに永遠の審判者が下ろうとしている今、不正な人になりたくない」
            「ニコデモ、あなたも一緒とはあきれ返る」
            「私もそう、一つの点でただただあきれている。それはイスラエルが、もう神を見分けられないほど堕落したことだ」
            「おまえたちを見るだけでも吐き気がする」
            「それなら、そこをどいて私を通せ、これしか望まない」
            「これ以上、不浄になるためか」
            「おまえたちのそばにいても不浄にならないなら、もうどんなことも私を不浄にはすまい。兵隊さん、これを」こう言って、一番近くにいる十人隊長に、金袋と通行証らしいろう引きの小さな板を渡す。
             これを見た十人隊長は兵士たちに命じる。
            「このお二人を通せ」
             ヨゼフはやっとニコデモと一緒に、羊飼いたちのそばへ行く。薄闇の中で、また死に瀕している曇る目をしたイエズスに二人が見えているかどうか分からない。しかしながら、二人はイエズスを見上げて、司祭たちの侮辱も人々も思惑も意に介さずひたすら泣いている。
             イエズスの苦痛は次第に激しくなり、体が弓形にそっているのは破傷風の顕著な特徴である。足から胴体にかけて神経が死にたえ、呼吸がますます苦しくなり、横隔膜の収縮が弱くなって心臓の鼓動が不規則になる。キリストの顔は異様に濃い赤色をしていたが、出血多量で死にいく人特有の緑がかった青色に変わっていく。口も辛うじて動く程度である。というのは、頭と首の神経がうまく働かなくなり、下あごにまでけいれんを広げる。頸動脈が詰まっているためにのどがはれ、むくみは、はれて動かしにくい舌にまで及んでいる。ぐったりした肉体の重みが下肢にずしりとかかるので、破傷風による収縮が後頭部から腰に及び、完全な弓形ではないにしてもだんだんと曲がって前方にせり出していく。あたりは暗い灰色になっているので、一般の人にはこのようなことがよく見えない。十字架のすぐ下にいる人にだけ見えることである。
             いつの間にか、イエズスは前方にだらりと下がって死人のように動かなくなり、息づかいも聞こえない。頭が前方に垂れている。
            マリアが、
            「死んだ!」と悲痛な叫びを上げる。
             その叫びは暗いしじまに広がり、まったくのところ、イエズスは死んだように見える。女性のもう一つの叫びがそれに応え、婦人たちの一団に動揺が見られる。それから十人くらいの人たちが何かを支えてそこから離れるが、このようにして離れる人々がだれであるか分からない。霧がかかったような光もほとんどなくなり、濃い火山灰のような雲に埋もれている感じがする。 

            (16)ここから実に詳しく記されている十字架上のキリストのさまざまな恐ろしい苦しみと現象について、世界的に有名な内分泌学者のニコラ・ペンデは、当時礼部聖省のカリンチ大司教の勧めによって、たびたびワルトルタに会い、いろいろな検査も行い、ワルトルタの本を文学、教義の面だけでなく、医学面からも高く評価し、十字架上のキリストを見た人でなければこのように書けないと話している。
            (17)聖母マリアの取り次ぎの暗示も感じられる。
            (18)いわゆる”回心した泥棒”はディスマという名である。三世紀の著作、ニコデモの福音書という外典書からくるが、外典書といえどもすべて偽りとは言い切れない。そして、東方教会とラテン教会でも殉教録にその名前が載っている。
            (19)ルカ23・43。厳密な意味の天国とも言えないが、聖アウグスチヌスに言わせれば、キリストのいるところ、そこが天国である。
            (20)ヨハネ19・26~27。このことばを、教会の多くの教父たちと学者がキリストの遺言として解釈している。


            つづく

            20 はりつけ

            2014.04.18 Friday

            0
              あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より

               20 はりつけ
              (1)

               一見したところ、ユダヤ人らしい四人の屈強な男たちが、とある小道から刑場に向かって駆けてくる。袖なしの短い服を着て、にたにたと薄笑いを浮かべながら、手に持った釘と金づちとロープを三人の死刑囚に散らつかせる。群集はむごたらしい興奮の渦の中にいる。
               百夫長はイエズスに壷に入れられた没薬(もつやく)の混ざった麻酔用の飲み物(2)を勧めるが、イエズスは拒む。うって変わって二人の強盗はたくさん飲み、その後、口の広い壷は頂上にある石のそばに置かれる。
               死刑囚たちは服をとるよう命じられる。二人の盗賊は何の慎みもなく脱ぐばかりか、群集に向かい、とりわけ麻の白い服を着ている司祭たちの小さな一団に向かってわいせつな恰好をして楽しむ。この一団には、二、三人のファリサイ人と、憎しみで結ばれた数人の著名人たちが加わった。その中に、ファリサイ人のヨハナン、イズマエル、律法学士のサドクとカファルナウムのエリとがいる。死刑執行人たちは囚人たちに三つのぼろ切れを渡し、これで腰を覆うように言う。二人の強盗は恐ろしい冒涜のことばを吐きながら受け取る。イエズスは触れると傷が痛むので、服をそろそろ脱ぐが、それを拒む。鞭打ちのときにもとらなかった短いズボンは許されると考えているのかもしれないが、それもとるように言われると、イエズスも仕方なく執行人たちからぼろ切れをもらうために手を伸ばす。ならず者たちにぼろ切れをもらうまでに”自分を卑しくした(3)”のである。
               それを見ていたマリアは、自分の頭を覆う細長い、薄い白布を黒いマントを着たままとる。(4) マントをすべり落とすことなくそれをはずすと、わが子のためにロンジーノに渡すようにヨハネに与える。百夫長は快くそれを受け取り、群集の方に傷だらけの痛々しい背中を見せている全裸のイエズスに、母からの布を渡す。イエズスはそれと分かり、腰に幾重にも巻いて落ちないように固く結ぶ。ただ、母の涙でしんめりしていただけの麻布に、血の最初の一滴が落ちて広がる。数知れないかさぶたが、サンダルをとり服を脱いだときにむけて、再び血が流れ始めたのである。
               今度はイエズスも群集の方を向く。胸も腕も腰もそこら中鞭に打たれたのが、はっきりとよく分かる。肝臓があるあたりに大きな紫色のあざがあり、左の肋骨の下にはくっきりと七本の鞭の線が、刻まれたようについている。急所の一つである、みぞおちにあるむごい傷跡である。逮捕されてすぐに始まり、カルワリオで終わった、何度も何度もころんでできたひざの血膿は黒ずみ、それに右のひざ頭にはまだ血がたらたら流れている大きな裂傷がある。
               群集は、口をそろえてからかう。

              ”おお、おお、美しい者!
              人間の子らの中で最も美しい者!
              エルサレムの娘たちは、あなたを慕う”

              そして、詩編の調子で唱える。
               ”私の愛する者は、りりしくて、赤い、
              一万人の人がいても、見分けられる。
              その頭は、黄金、純金で、
              その縮れ毛は、しゅろの木で、
              カラスのように黒い。
              その目は、乳で洗って、
              岸辺で休む、
              水際の雌鳩のようだ。
              その頬は、香気の園のよう、
              香りの草むらのようだ。
              唇は百合の花で、
              香り高い没薬をしたたらす。
              ………
              その胸は、
              サファイアを散りばめた、
              象牙のようだ。
              その足は、
              純金の台にすえた、
              アラバスターの柱だ。
              その姿は、レバノンのように、
              糸杉のように、比類のないものだ。
              そのことばは優しく、
              すべては人をひきつける(5)

               人々は笑ったり、どよめいたりする。
              「癩病者! 癩病者!(6) 偶像と姦淫したのはおまえか(7)。神がおまえをこんなふううに罰するのならば、モーゼの姉妹ミリアム(8)のように、イスラエルの聖なる人々に対してつぶやいたのか。おお、おお! 完全なる者! おまえは神の子か。とんでもない! おまえはサタンの月足らずの子だ! マンモン(9)は権勢ある力強いものだが、おまえは…無能な、虫ずが走るぼろだ!」
               二人の強盗は十字架に縛られ、イエズスに定められた場所の右と左に運ばれる。十字架は穴のそばに運ばれて下ろされ、手首をひもがこするとき、二人はうめいたり呪ったりして、神、律法、ローマ人、ユダヤ人などに対して手当たり次第に冒涜のことばを吐き捨てるありさまは、まるで地獄絵のようである。
               今度はイエズスの番がきたので、おとなしく木の上に横たわる。二人の強盗はどれほど暴れたことか! 執行人たちが、二人の手首を縛るときには足をばたばたさせたり、けったりして、四人だけではどうにも押さえきれず、兵隊たちが手をかしたほどだが、イエズスの場合には何の助けも要らない。横たわって、言われた所に頭を置き、言われるままに腕を開き、指示されるとおりに足を伸ばす。ただ唯一の懸念は、腰の白い布をよく体に合わせることであった。
               いま、そのすらりとした長身を、黒っぽい木の上に横たえ、黄色い地面の上に際立っている。二人の執行人は、イエズスが動かないようにその胸に腰かける。その重さはどれほど胸を圧迫し、苦しめたことか。三人目の執行人は、イエズスの右腕と右手の指を両手で押さえる。四人目の執行人が、丸くて平らな十銭玉くらいの大きさの頭をした長い四角い釘(10)を持って待ちかまえており、木に開けた穴が撓(とう)骨と尺骨の合わさった手首の関節のところとぴったり合っているかどうか確かめる。合っていると見て、男は金づちを振り上げ、手首に先端を突き刺した釘めがけて最初の一撃を加える(11)。目を閉じていたイエズスは、鋭い痛みにあっと叫び、手のひらを握りしめて、涙に泳ぐ目を開ける。その痛みは想像にあまりある。釘は、”筋肉”、脈、神経を引きちぎり、骨を砕いて、貫通する。
               マリアは拷問を受けている、わが子の叫びに屠られる小羊の悲鳴を重ね合わし、折れた茎のように頭を抱えてしゃがみ込む。イエズスは母を苦しめないように、二度と悲鳴を上げないが、鉄と鉄とがぶつかる激しい音は調子をあげながら続く。そうされているのが生身の体だと思うと…。
               右手の釘づけ作業は終わり、左手に移る。今度は木の穴が手根骨に合わない。すると、執行人たちはひもで左手首を縛って、思い切り引っ張ったものだから、あちこちの関節が脱臼し(12)、逮捕の際に縄ですりむけている皮膚を引き裂き、腱と筋肉とを伸ばす。それによって、右手も無理やり引っ張られ、釘のまわりの穴がじわじわと広がり、いまは手首近くまで裂けている。執行人たちもとうとうあきらめたのか、打てるところに、つまり、てのひらの真ん中に釘を刺す。ここは簡単に打ち込めるが、大事な神経を断ち切るだけに焼けつくように激しく痛む。
               左の指は全く力を失うが、右の指は曲がったり震えたりしているので、まだ神経が通っていると分かる。イエズスはもう叫ばない。ただ強く食いしばった歯の間から押し殺したうめきがもれるだけである。痛みのために流れる涙が十字架の木を伝って地面に落ちる。
               今度は足の番である。十字架の支柱の先端から二メートルくらいのところに、足一つ置けるくらいの小さな台が取り付けられている。これに寸法が合うかどうか確かめるために足をぐいと引っ張る。ところが、台がやや下過ぎて足がうまくつかないので、あわれな殉教者のくるぶしをつかんで引き下げる。十字架の木はささらになっているために、傷をこすられ新たに他の髪の毛をむしり取り、ぐらぐらしている冠が落ちそうになる。男たちの一人が、手でまた頭に押さえつける。手を打ちつけるために用いたものの長さも太さも二倍ある長い釘が光るのを見てイエズスが足を縮めたので、胸の上に腰かけていた連中が今度はひざに腰かけ直す。二人が皮の裂けたひざにのしかかって傷だらけの脛骨を押さえつけ、残る二人が仕事を続ける。
               しかし、手と異なり、足の上に足を重ねて釘づけする仕事はもっと難しく、足根骨の関節を合わせるのに苦心する。足を台に止めようとしても、上の足に釘を打ち込むときの震動でずれてしまい、もう一度引き抜いてやり直しをしなげればならないほどである(13)。というのは、軟らかい肉の部分に入り、右足を釘で刺した後、少し足が曲がってきたので、もう少し中心寄りへずらす必要がある。そして、やつらは打って、打って、打って…。釘を打つ金づちの音しか聞こえない。
               荒々しい鉄の音の陰に、雌鳩のような悲鳴が秘められている。金づちが殉教者の母の体を打っているかのように、マリアはその音が聞こえるたびに低く低くかがみ込み、かすかな悲鳴をもらす。はりつけとは、何と恐ろしい刑罰か。その苦痛から言えば鞭打ちも同じかもしれないが、見るに堪えないほどすさまじい。なぜなら、次第次第に釘が生きる肉の中にしずんでいくのが見えるからである。ただその代わり、時間はそれほどかからない。鞭打ちは長時間に及ぶので、すっかり体力を消耗させてしまう。
              「著者の感想」
               私の見た限りでは、ゲッセマニでの苦しみ、鞭打ち、はりつけが最も残酷な時であると思う。それは、キリストのすべての拷問を表わしている。死ねば”すべてが終わった”と考え、心が幾らか軽くなるが、しかし、これらは終わりではなく新しい苦しみの始まりである。
                   *     *     *
               次に、十字架を穴のそばまで引きずって行く。その時でこぼこの地面に跳ね返ったりして、あわれなイエズスを揺する。十字架があげられる。しかもあげている人たちの手からはずれて二度も―一度は突然、もう一度は右側に傾いて―地面に落ち、その震動が傷を負った肢体にまた新たな衝撃を加える。やっと十字架が所定の穴に落とされる。石と土で固められるまでに、あっちこっちにぐらぐら揺れて、たった三本の釘で支えられているあわれな体を貫く激痛は、とてもことばでは言い尽くせないものと思われる。体重全体が前と下にかかり、穴、ことに左手の穴が広がり、足の穴にもひどく大きくなって血があたりにほとばしる。足の血が、指をはって十字架の木と地面に流れおちる一方で、手の血は上腕分を流れ、わきを伝って帯に浸み込む。十字架がぐらぐらしているので、冠は、頭がのけぞるときに茨の太い結び目のとげが後頭部に突き刺さり、その反動で前へ戻るときに額をひっかく。
               そうそう十字架が立てられ、そこには苦しみ以外の何ものもない。二人の強盗の十字架も立てられるが、二人は手首をすりむき、血管がはれて浮き出し、次第に黒ずんでいく苦しみに、生皮をはがれるような悲鳴を上げるが、イエズスは声を出さない。しかし、群集は黙っていない。さまざまの地獄からわき出るような声がまた巻き起こる。
               いま、ゴルゴタの頂上には、トロフィーと護衛とがいる。真ん中の一番高いのがイエズスの十字架、その両側に残りの二本が立っている。兵士の半数は足元のところに武器の先をつけて、馬蹄形に頂上を取り囲んで立っているが、その中に死刑囚の服をさいころで分配している十人の歩兵がいる。イエズスがかけられている十字架と右の十字架の間に、ロンジーノがいる。ロンジーノは、殉教者の王の名誉の護衛をしているかのように見える。他の五十人の兵士たちは、左側の小道とやや下がった狭い広場で、ロンジーノの従卒の指揮の下に、いったん緩急あればすぐに動けるように待機している。大半の兵士たちは全く無関心で、時々だれかが十字架にかけられている人の顔を見る程度である。かえって、ロンジーノはすべてを好奇心と関心をもって熱心に見つめ、比較しあれこれ考えている。十字架にかけられている人たち、中でもキリストと見物人たちとを見比べ、その鋭い目はどんな細かいことも見落としはしない。太陽がまぶしいのか、手をかざして見ている。
               実際、太陽は黄みがかって赤く、火事のように見える。その火事はユダヤ山脈からこつ然と現われた真っ黒い大きな雲によって消され、その雲はどんどん流れて別の山の峰に去っていく。再び現れた太陽はまぶしくて目を開けていられないほど、さん然と輝いている。
               ロンジーノは段のちょうど真下で、子の方に苦しみに引き裂かれている顔を向けているマリアを見て、さいころで遊んでいる兵士の一人を呼んで伝える。
               「あの人が供をしている子供と一緒にここへ上がりたいなら来てもよい。あの人を助けて守れ」
               マリアは”子供”と思われたヨハネと一緒に、軟らかい石に刻まれている段を上がって兵士たちの列を通り抜けて十字架の真下に近寄るが、イエズスを見るために、また、イエズスから見えるようにやや離れた所で立ち止まる。これを見た群集は、すぐさま野卑なことばを浴びせる。マリアは自分では到底止められない涙をあふれさせながらも苦しげなほほえみを浮かべ、子供に何とか慰めを与えようと必死になっている。
               司祭たち、律法学士たち、ファリサイ人、サドカイ人、ヘロデ派などの連中は、険しい道を登って最後の段を通り、他の道へ下ってまたその逆を行くという一種のメリー・ゴーランドを楽しむ。刑場の足元にあたる第二の狭い広場を通るときには、死に行くお方への最後のお礼として冒涜のことばをささげる。人の舌で語られるありとあらゆる卑わい、残酷、憎悪、狂気が、その地獄のような口から次々と表れる。最も強烈なのがファリサイ人であり、神殿の人たちである。
               「さあ、どうだ。人類の救い主であるおまえなら、どうして自分を救わないのか。おまえの王、ベルゼブル(14)はおまえを見捨ててしまったのか」と三人の司祭が叫ぶ。「冒涜者め! 神の助けで人を救う、と言っていたくせに、自分自身さえも救えないやつを、だれが信じるものか。奇跡を行え、もうできないのか。え? いま、おまえの手は釘づけされて全くの裸だから」と三人のファリサイ人がののしる。
               サドカイ人とヘロデ派の人々は兵士たちに向かってどなる。
              「やつの服を分けたおまえたち、魔術に警戒しろ。その服には地獄のしるしがあるぞ!」
              多くの人々はそれに声を合わせる。
              「十字架から下りたなら、私たちもおまえを信じるぞ。神殿を破壊するおまえ…気違いめ!…光栄あるイスラエルの聖なる神殿はあそこにある。見ろ。あれは触れるべきではないもので、冒涜者のおまえの方こそいま死ぬのだ!」
              別の司祭たちは、
              「おまえが神の子だと? 冒涜者め! それならそこから下りてみろ。神ならわれわれを稲妻で打て! われわれはおまえを恐れない。おまえは唾棄される者だ」と言って騒ぐ。
               他のある人々は、どうしようもないというふうに顔を振って言う。
              「あいつは泣くことしかできない。本当に選ばれた者だったら、自分を救え!」
              兵士たちもこれに同調する。
              「さあ、自分を救え。このような貧民窟を灰に変えろ! そうだ、ユダヤ人の犬め、帝国の貧民窟だ。そうしろ!そうすれば、ローマはおまえを神様のように拝むに違いない」
              司祭たちとその取り巻き連中は、
              「情婦らの腕は十字架の腕よりも柔らかかった、そうなんだろう?見ろよ、あそこでおまえの…(ここで最高に侮辱したことばを吐く)が、おまえをそこまで迎えに来ている。そして、エルサレム全体はおまえの仲人をする」と言い、やくzのように口笛を鳴らしてからかう。
               また違う人々は石を投げて、こうわめく。
               「パンをふやす者、これをパンに変えろ!」
              枝の日曜日のホザンナをまねて、枝を投げて騒ぐ者もいる。
              「悪魔の名前で来るおまえに呪いあれ! その国に呪いあれ! こいつを生きるものの中から奪う、シオンに栄光あれ!」
               一人のファリサイ人が十字架の前に立ち、二本の角のあるこぶしをつくって言う。
              「おまえをシナイの神にゆだねる…いま、シナイの神はおまえに永遠の火を準備する。おまえに奉仕するように、どうしてヨナを呼ばないのか(15)
              もう一人はこう言う。
              「おまえの頭をぶっつけて、十字架を壊したりするなよ。おまえの弟子たちにも使えるようにな。神に誓って言うが、その十字架の上で大軍団が死ぬはずだ。真っ先はラザロがいい。今度は、おまえがラザロを死から救うかどうか見物しよう」
              「そうだ、そうだ! ラザロのところへ行こう。あいつを十字架の裏側につけよう。『私の友ラザロ、出て来なさい。その人を解いて行かせなさい』(こうイエズスの声をまねして、ゆっくりと言う)」
              「いいや! 愛人のマルタとマリアに、こう言っていたぞ。『私は復活と命である』ハッハッハ。復活はとうとう死を追い返せなかった。そして、命は絶える!」
              「あそこを見ろ。マリアがマルタと一緒にいる。ラザロがどこにいるか、あの女たちに聞こう」こう言って、婦人たちに近づき横柄な態度で尋ねる。
              「ラザロはどこにいるか? 屋敷か?」
               マグダラのマリアは、他の婦人たちが怖がって羊飼いたちの陰に隠れるのと違って、自分自身も苦しいが、以前の罪の女のころの大胆さに戻って言う。
              「さあ行け! もう私の屋敷にはローマの兵士と私の領地を武装した五百人もの人がおまえたちを待っている。おまえたちを、石うすをひく奴隷の餌にする老いた牡山羊のように去勢する手はずがととのっている」
              「恥知らずめ! 司祭たちに向かって、よくもそんな口がきけたものだ」
              「おまえたちこそ汚らわしい涜聖者、呪われた者よ。振り向いて見ろ。おまえたちの後ろに地獄の炎が見える」
               かの卑怯者たちは、マリアの敢然とした態度とことばにひるみ、恐怖を覚えて実際に振り向くと、後ろにその炎はないが、ローマ人の鋭くとがった槍ぶすまが背中に向けられている。休めの態勢にあった五十人の兵士たちが、ロンジーノの命令で行動を起こしたのである。司祭たちは悲鳴を上げながら逃げまどい、兵士たちは二つの出入口に立ちはだかって広場を見張る。
                  つづく
              (1)マテオ27・33~59。マルコ15・22~45。ルカ23・32~52。ヨハネ19・23~39。
              (2)マルコ15・23。
              (3)フィリッピ2・7。
              (4)モロニ第77巻90ページによると、この白い布はローマのラテラノ聖ヨハネ大聖堂に保存されている。モロニという人は、教会歴史のいろいろなことについて百三冊からなる大辞典を編さんした。素晴らしく博識の人で、グレゴリオ十六世とピオ九世の秘書であったが、その大辞典のすべての記事は重大視すべきであると同時に、賢明な評価を必要とするところでもある。
              (5)雅歌5・10~16。
              (6)イザヤ52・13~53・12。
              (7)例えば、ホゼア1、2章など。
              (8)荒野13章。第二法24・8~9。
              (9)富の意味であるが、ここはサタンを指す。
              (10)モロニ第13巻96〜99ページによると、まことの聖なる1本の釘はローマのサンタ・クローチェ・イン・ジェルザレメ聖堂で保存されている。
              (11)権威ある聖骸布の研究家ロレンツォ・フェッリは次のように書いている。”聖骸布では、左手の釘は手首ではなく手のひらに見えるのを否定できない”
              (12)彫刻家で画家のフェッリは、また次のような書き残している。
              ”1949年、ローマの聖ペトロ聖堂の門のためのコンクールのときに、一人の神父を通じてマリア・ワルトルタ女史に会うことができた。もうずっと前からトリノの聖骸布の熱心な研究家で、われらの主イエズス・キリストのまことの姿を探して三十年間、キリストの顔の再現を志していたのが、ワルトルタ女史の助言でこれを果たしばかりでなく、私の長年の研究の裏付けも得られたのである。一年後、主イエズスの体を再現するため私の研究を続けていると、左うでが右腕と比べて四センチも短いことが分かった。この異常にびっくりして有名な医学者と相談し、主イエズスには故意か偶然の脱臼があったという結論に達した。ワルトルタ女史は私の質問にちょっとほほえみ、四年前に記述したいま話した脱臼が詳細に書かれている自分の著作の一部を読み上げた。これに付け加えたいことは、ワルトルタ女史に出会っただけでなく、その友情や、その著作を何回となく繰り返して読んだことによって私の霊的生活が全く変わったということである。キリストに対する認識がどれほど深められたか。福音書がもっとはっきりし、その福音をできるだけ毎日の生活に生かすようになったのである”
              (13)すなわち、下側に右足、上側が左足になるように入れかえた。先ほどのフェッリは次のように述べている。
              ”聖骸布をよく観察すると、右足は一度釘づけされた後にはずされたことが分かる。私だけでなく他の学者も留意したことが、すでにその四年前マリア・ワルトルタによって書かれている。それは敷布が動かされたということではなく、第一と第二の傷から流された血が残した本当のしみである”
              (14)マルコ3・22。マテオ12・27など。イエズスは、ベルゼブルすなわち悪魔の力で奇跡を行っているとよく侮辱された。
              (15)イエズスの弟子。もとの羊飼いで、残酷なドラスの下僕のこと。伝道第一の年で、このドラスというファリサイ人は神の怒りに打たれて突然死した(『聖母マリアの詩(下)』21章参照)。


              ラザロからの別れ つづき

              2014.04.14 Monday

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                あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より  
                 
                1 ラザロからの別れ  つづき
                 
                「では、私はあなたと一緒に行きます。あなたから離れません」「いいえ、あなたはここに残りなさい。神殿から安息日にゆるされる距離だけ離れている人は、自分の家で小羊を食べることをゆるされているから、いつものようにあなたはここで自分の小羊を食べなさい(5)。 しかし、姉妹たちが私と一緒に行くのを許してもらいたい…母のために。
                 ああ、殉教者の母様。神の愛のバラはあなたに何を隠していたのか! 底なしの苦しみの淵! そこからいま憎しみの炎が燃え上がり、あなたの心に襲いかかってズタズタにしようとしている! 二人の姉妹たち、そう、この二人は力強く生き生きとし…それに引きかえ、母は私の亡がらにかがみ込む瀕死の人のようです。ヨハネでは物足りない。ヨハネは愛だが、まだまだ未熟です。おお、ヨハネもこの数日の引き裂かれそうな苦しみで成長し、大人になるでしょう。けれども”彼女”は、自分の恐ろしい傷のために、婦人たちの多くの慰めが必要です。あの二人を貸してもらえますか」
                「すべてを。あなたにすべてをいつも喜んでささげました。いまの私の唯一の悲しみは、あなたがこんなちっぽけなことしか望まないということです」
                「とんでもない。ベタニアの友だちにしてもらったほどの親切は、他のだれからも受け入れられなかったので、これは不正な者(6)がたびたび私を咎めたことの一つです。私はあなた方のところで、ここで、人間として味わうあらゆる苦しみをいやすに足るものを見つけています。ナザレトでは、神の”唯一の喜び(マリア)”の傍らでくつろいだ私です。ここでは私は人間以外の何ものでもありませんでした。そしていま、私は死の山へ登る前に、忠実で、愛情がきめ細やかで、優しく、思いやりがあり、謙虚で、知識に富み、慎み深く、寛大な友のあなたに感謝します。すべてにおいてあなたに感謝します。いずれ私の父が、あなたにその報いを与えます」
                「あなたの愛をもって、またマリアの贖いによって、すでに私はすべてをもらっています」
                「そうではない。まだあなたは”多くのこと”をもらうべきだし、もらうはずです。さあ、もうそんなにがっかりしないで、私の頼みを落ち着いてしっかりと聞いてください。あなたはここで待つのです…」
                「いいえ、それだけはいやです。なぜマリアとマルタはよくて、私は駄目なのですか…」
                「それは、すべての男が堕落するように、あなたも、そうなるのを望まないからです。未来のエルサレムの日々は、腐敗しきった獣の死骸の悪臭を放ち、そのたまらない臭いは、それほど残酷でない人々や私の弟子たちでさえ狂わせるに違いない。これらの人々は逃げまどうでしょうが、その恐怖と狼狽のときに弟子たちがどこへ逃げ込むと思いますか。ラザロのところに違いない。この三年というもの、弟子たちはパン、寝床、保護、隠れ家、先生などを求めて、何度となくここを訪れました。いま、狼に羊飼いを連れ去られたさ迷える小羊のように、安全な柵を求めて再びここに戻ってくるはずです。あなたはあの人たちを集め勇気づけて、私は皆をゆるすということを知らせてください。弟子たちのための私のゆるしをあなたに託します。あの人たちは自分が逃げてしまったことを省み、その心に平和はないはずです。二度と私のゆるしを得られないと思い込んで、失望のあまりもっと大きな罪を犯すことのないように、伝えてください」
                「皆、逃げてしまうのでしょうか」
                「ヨハネを除いて皆」
                「先生、ユダまで迎えろと言われるのではないでしょうね。私を拷問で死なせても、それだけはおっしゃらないでいただきたい。家族を侮辱したユダを殺そうとして、私は何度も刀の柄に手をかけましたが、辛うじて思いとどまりました。でも今度ユダに会ったらただではおきません。燔祭のための牡羊のように屠ります」
                「もう、ユダに会うことはないと誓ってもよい」
                「では、ユダは逃亡するのですか。それでもかまわない。『彼に出くわしたら』とさっき言いましたが、こう言い直します。この世の果てまで追いかけてユダをたたき殺す、と」
                「そんなことを望んではいけない」
                「いや、あいつを殺ってやる」
                「あなたはそうすることはない。ユダがいるところへ、あなたは行けないからです」
                「衆議会の中ですか、それとも至聖所の中ですか」
                「いいえ」
                「では、ヘロデのところへでも? 私はたとえ殺されようとも、その前にあいつを殺す」
                「ユダはサタンのところにいるはずです。そして、あなたはいつになってもサタンのもとへは行けない。それよりも殺人の考えを”すぐ”捨てなさい。そもなければ、私はあなたから離れます」
                「おお!…しかし…あなたのためならば…ああ、そうだ、先生! 先生! 先生!」
                「そうです。私はあなたの先生です…あなたは弟子たちを迎えて、慰めなさい。彼らを平和へと連れ戻し、それから助けなさい。ベタニアはいつまでも変わりなくベタニアです。憎しみが、その火の粉をまき散らそうとして、この愛のいろりを乱したとしても、愛の炎はそれによって全世界に散らばって、より良く燃えるようになるでしょう。ラザロ、あなたがこれまでしてくれたこと、未来にしてくれることのために、あなたを祝福します」
                「あなたは私を死から引き戻してくれたのに、私にあなたを守ることをお許しにならない。私は何をしたと言われるのですか」
                「あなたの家をくれました。ほら、シオンでの最初の宿はあなたの所有地でした。最後の宿もその一つです。私はあなたの客となる運命だったのです。だが、そのあなたも死からは私を守り得ない。話の初めに『私がだれだか知っているか』と、あなたに聞きました。いま答えます。『私は贖い主です』贖い主は生贄の役目を最後まで果たすべきです。その他に―あなたに信じてもらいたいが―十字架にかけられ、世間の目とあざけりに」さらされる者は、もう生きてはおらず死んだ者です。”もはや私は拷問の前に、愛の喪失によって殺されてしまったのです”
                 友よ、私は明朝、明け方にエルサレムに向かいます。あなたは、小ろばに乗って入場する柔和な王を、シオンが凱旋者のように歓呼して迎えたと伝え聞くでしょう。だが、そのような凱旋を誤解してはならない。この静かな夕べに話している私の”上智のことば”を、この先起こることへの私についての”無知”だと思ってはならない。群集の人望を得る人は、夜空を切って現れ、知られざる空間へと消えていく星よりも素早く見えなくなります。五日後のいまごろ、私は拷問を受けるでしょう。それは偽りの接吻によって始まり、明日はホザンナと呼ぶ声を、冒涜とむごたらしい声の合唱に変えます。
                 そうだ、シオンの町、イスラエルの民よ、あなたの過ぎ越しの小羊をとうとう迎えるでしょう! 近いうちに行われる儀式のときにそれをもらえるでしょう。それは何世紀も前から準備された生贄です。”愛(神)”は、汚れのない懐(7)を寝床として準備し、私を産みました。そして愛は私を食いつくします(8)。ごらんなさい。”私は意識のある生贄です”屠殺者が刃物を研ぐ間、何も知らずに草原の草を食み、バラ色の鼻面で母の乳房を探っている羊と同じではない。私は、命、母、友人らにあらかじめ別れを告げて屠殺者を迎える小羊です。私は人間の”糧”です。サタンは人間に飽くことを知らぬ飢えを与えました。人よ、その糧を、あなたのパンを、あなたのぶどう酒を見なさい。人類よ! あなたの過ぎ越しを食べなさい。サタンの炎で赤く染まっているあなたの海を渡りなさい。永遠の炎から守られ、私の血に染まって渡るでしょう。天は私の望みに強いられ、永遠の門(9)を開き始めます。
                 おお、死者たちの魂よ! 生きている人びとよ! いつの日か肉体に入る霊魂たちよ!(10) 地獄の悪魔たちよ! 父よ! 慰めの霊よ! 見なさい! 生贄がほほえんでいる、もう泣いてはいない。
                 これですべてです。友よ、さようなら。死ぬ前にあなたを見ることはもうないでしょう。別れの接吻を交わしましょう。弟子たちが何を口走ろうとも、あなたは疑ってはいけません。弟子たちは、あなたに向かい、”彼は一人の狂人にすぎなかった! うそつきの一人だった! 自分は命であると言っておきながら死んだ”と言うに違いない。弟子たちに、とりわけ自分自身にこう答えなさい。
                ”彼は真理と命であり、いまでもそうだ。彼は死に打ち勝つものだった。私はそれを知っている。彼は永遠に死人のままではあり得ない。私は彼を待っている。勝利者の婚礼の宴に友が招待されており、この世を照らすために準備しているあかりの灯油は、彼、花婿が戻るまで尽きることはあるまい。(11) そして、その光はこれから先消されることはない”
                 ラザロ、これを信じなさい。私の望みに従順でありなさい。あなたが泣くときには鳴きやんでいたナイチンゲールが、いままたこんなにさえずり歌っているのが聞こえますか。あなたもそうしなさい。”殺されたもの”の上に涙を注いだ後、心であなたの信仰のどんな疑いも混ざっていない賛歌を歌いなさい。あなたは祝されよ、父と子と聖霊によって」
                (5)脱出の書12・1~13、16、23・14~19など。レビ23・5~8。荒野9・1~14。エゼキエル45・18~24。
                (6)ユダを指す。
                (7)聖母マリアの無原罪を暗示する。
                (8)神の愛である聖霊が火にたとえられている。また、火が生贄を焼き尽くす力である。レビ9・22~24。判事6・11~24など。
                (9)詩編24・7~10。ヘブライ人9章。
                (10)人の霊魂は、体に入る前にすでに生きていたという意味ではなく、神の永遠の計画にある霊魂を指す。
                (11)マテオ25・1~13。

                ラザロからの別れ

                2014.04.13 Sunday

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                  あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『イエズスの受難』より 

                  1 ラザロからの別れ

                   四月のある静かな夕暮れ、ベタニアにイエズスがおられる。宴を開いている部屋の大きな窓から、とりどりの花が咲き誇っているラザロの庭が眺められる。庭の向こうに、明るい雲がたなびいているような満開のりんご園が見える。その花のかすかに苦みを帯びた甘い香りや、バラ、水仙、スズラン、ジャスミンの香りには、マグダラのマリアがイエズスに注油しためったにない香油の香りも混じっている。
                   その部屋には、熱心もののシモン、ペトロ、マテオ、バルトロメオが残っており、何かの用事で出かけているのか他の弟子たちの姿は見えない。
                   イエズスは食卓を離れ、ラザロが渡した羊皮紙の巻き物に目を通している。光に集まってくる蝶のように、マグダラのマリアはイエズスのそばから離れようとしない。マルタは、食卓に散らかっている貴重な食器を片づけている下僕たちを見守っている。
                   象牙の浮き彫りのほどこされた黒檀の棚に巻物を置いたイエズスはラザロに声をかける。
                  「ラザロ、外にでましょう。話しておきたいことがあります」
                  「主よ、ただいま」と答えて、ラザロはイエズスの後について庭に出る。
                   山の端に落ちなんとする太陽のわずかな光に、こうこうと照る満月の光が加わっている。イエズスは庭を通り抜けて、ラザロが安置されていた墓へと向かった。開かれた墓の入口に、咲き乱れたバラの花がアーチを作っており、墓の入口の岩には”ラザロよ。出てきなさい”ということばが刻まれている。その前でイエズスは立ち止まった。物音一つせず、あたりには人っ子一人いない。
                   やつれたイエズスは、ふだんよりも青白い顔にほほえみを浮かべている。
                   「わが友、ラザロよ。私がだれか知っていますか」
                  「あなたはですか? あなたは私の優しいイエズス、聖なるイエズス、力強いイエズス、ナザレトのイエズスではないのですか」
                  「あなたにとってはそうですが、この世にとって私は何でしょうか」
                  「あなたはイスラエルのメシアです」
                  「それから?」
                  「あなたは約束されている者、期待されている者です…(1)…。でも、なぜそんなことをお聞きになるのですか。私の信仰を疑っておいでなのですか」
                  「いいえ、ラザロ。あなたにだけ知らせておきたい内密の話があります。母と一人の弟子を除いては、だれもそれを知りません。母が知らないことは何もなく、弟子の一人はこのことと密接な関係があります。他の弟子たちには、一緒に過ごした三年の間に何度となくほのめかしたがこの人たちの愛は”ネペンテス(2)”の役割を果たしていて、それに気づかなかった。皆には理解できなかったと思うし、それで良かったのです。そうでないと、一つの罪を妨ぐために別の罪を犯しかねない。何の役にも立たない、無駄な罪を。しかし起きると定められたことは、どんな殺人であろうと起きるのです。だが、あなたにだけは聞いてほしい。」
                  「私が弟子の方々ほどあなたを愛していないとでもお思いなのですか。どういう犯罪なのですか。何の犯罪が起きることになっているのか、お願いですから、もっとはっきり教えてください」と、ラザロが心配して懇願する。
                  「あなたの愛を疑うなんてとんでもない、疑う余地はありません。だからこそ、私の心を打ち明けて望みを託するのです」
                  「おお、イエズス。このようなことは死に直面している人がすることです! あなたが来てくださらないまま死ぬと知った時、私がそうしたような」
                  「そのとおりです。私は”死ぬべき”です」
                  「いいえ、そんな! そんなことはおっしゃらないでください!」とラザロが悲鳴に近い声を上げる。
                  「大きな声を出すのではない!だれにも聞かれたくないが、あなただけには話しておかねばならない。私の友よ、ラザロ、初めて会った時から変わらない真心あふれる友情をもってしても、今、この時何が私のまわりで起きているか想像もつかないでしょう。ある男が、他の男たちとぐるになり子羊の値段を交渉しているのです。その子羊の名前を知っていますか、ナザレトのイエズスです」
                  「まさか! 敵はいるにはいるが、それにしてもあなたを売るなどと! 一体、だれが」
                  「私の弟子の一人です。私にだれよりも一番幻滅を感じ、待つことにも疲れ、自分自身にとって危険なものでしかないと知って、その人を排除したがっています。そうすれば、己がもっと評価される人物になると考えている。実際、彼は善人の世界からも、悪人の世界からも軽蔑される他ありません。彼がねらっていたのは現世における地位でした。かれも初めは神殿に求め、後にはイスラエルの王を通して手に入れようと計ったが、いまはその望みも失い、神殿で新たにローマ人らに期待している…。 だが、たとえローマが忠実な下僕たちにふさわしい報いを与えたとしても、下劣な密告者は軽蔑してかかとで踏みにじるに違いない。彼は私に倦んでいます。期待しながらも善人を装うという重荷にもうこれ以上耐えられない。もともとが悪人である者にとって”善人のふりをすること”は、圧しつぶされるほどの重荷になります。しばらくは耐えられるかもしれないが、そのうちたまらなくなり、自由になるためにそれを振りほどこうとします。自由?!と悪人たちが錯覚し、彼もまたそう考えているが、それは本当の自由ではありません。
                   ”神のものであること、これこそ自由です。神にそむくことは足を絞めつける鎖、おもりと鞭の奴隷で、建築に使われる奴隷、船漕ぎに使われる奴隷でさえもそれは耐えられない”」
                  「それはだれですか、教えて下さい。一体だれなんですか」
                  「話したからといって、どうにかなるというものではない」
                  「何とかなりますとも…。ああ…彼しかいない。あなたの弟子たちの中で、黒いしみのようだったあいつ。少し前にも妹を侮辱した、あのケリオットのユダしかいない」
                  「いいえ、それはサタンです。神は私において肉体となられ、サタンはケリオットのユダにおいて肉体となったのです。(3) 神の御託身が一つしかないと同様に、ルチフェル(サタン)は、”自分の国にいるままの形で、一人でけにいる”なぜなら、サタンは神の子を殺す人においてのみ肉体となったからです。私がここであなたと話している間にも、ユダは衆議会で私の殺害を相談し、その任務を買って出ているのです。だが、それはユダではなく、サタンです。忠実な友ラザロ、聞いてください。あなたに頼みたいことがあります。いままであなたが私に拒んだことは何一つない。あなたの愛はどれほど大きいか。いつも敬意を払い、いろいろな援助と思慮深い助言で絶えず私を助け、私はその思いやりをすべて喜んで受け入れました。なぜなら、あなたの心に私に対する純粋な愛を見ていたからです」
                  「おお主よ! あなたのお世話をすることは私の喜びでした! 私の主、私の先生のお世話をもうできなくなったなら、私は何をすればよいのですか。あなたへの私の恩義というには、私があなたのためにしたことはあまりにも少ない! あなたは私の愛と名誉のゆえにマリアを返され、そればかりか私を命へと戻してくださったというのに…。今のこの時を私に味わわせるために、わざわざ私を死から取り戻されたのですか。永遠の審判者の御前に立たねばならにとき、サタンが心に呼び起こす恐れへの誘いと死の恐怖で、私のまわりは真っ暗闇だったが、私はそれに打ち勝った…。
                   イエズス、どうなさったのですか。ふだんよりも青いし、震えておられるのはどうしてですか。あなたの顔は蒼白で、月光にうつむくこの純白のバラよりも白い。先生、あなたから血と命とが失せてしまったような感じです…」
                  「まったく私はあたかも動脈を断ち切られて死ぬ人のようです。エルサレムのすべての人々、すなわち、イスラエルの知り合いの中にひそむ私の敵のすべてが、渇いた口で私に食らいついて血と命とを吸い取ります。皆を愛していたのに。三年もの間、自分たちを弾劾し続けた声を黙らせたいのです。どうしてかって? 私のことばはすべてが、彼らの魂を揺さぶって目覚めさせるための愛のことばでしたが、ありとあらゆる邪欲に縛られている自分たちの魂を、彼らは意識したくなかったのです。しかも、それは権力者だけにとどまらなかった…。
                   エルサレム、エルサレムの全土を挙げて、罪もない人に襲いかかり、その死を要求しようとしている…。エルサレムとともにユダヤが…ユダやとともにペレア、イドメア、デカポリス、ガリラヤ、シロフェニキアが、キリストを命から死へと渡す(4)、 その渡りのために、全イスラエルがシオンに集まった。ラザロ、一度は神でよみがえったラザロ、死ぬとはどういうことか私に教えてほしい。その時、何を感じましたか、何を思い出しましたか」
                  「死?! それがどうだったか、しかとは覚えていません。たいへんな苦しみの後に衰弱が続いて…やがてもう苦しみも失せ、ただ眠りたい、眠いという感じでした…。光と音とはますます遠のいて弱々しくなって…姉妹とマッシミーノに言わせると、私は辛そうで苦しげだったそうですが、よく覚えていません」
                  「そう。”御父のあわれみは、死ぬ人の理性的な感覚を鈍らせ、煉獄ともいえる臨終によって、清められるべき肉体だけが苦しむように計らわれる”けれど、私は…。死について何か覚えていますか」
                  「全然。先生、何も。私の心には暗いぽっかりあいた空間があります。空白の地帯…私の生涯には、どうやって埋めたらよいか分からない数日があります。その間の思い出がありません。四日間というもの閉じ込められていた暗い穴底を見れば、いくら夜で見えなかったといってもその淵の湿っぽく冷んやりした感触が頬を打ったと思うのですが、しかし、その四日間は考えても何も思い出せないのです。”何も”」
                  「そうでしょうね。戻ってくる人々は何も知らない。そこに入る人ごとに、その秘密が表わされるのですが…。でも、ラザロ、私は自分がどれほど苦しむかを”すでに知っている”最後の苦悶を和らげるどんな飲み物もなく”私は自分が死ぬのを感じるでしょう”もうすでに感じています…ラザロ、私はもはや死につつあります。不治の病に冒された人のように、この三十三年間を死へと歩んできました。死ぬ時が近づくにつれ、どんどん早く時は過ぎていきます。
                   初めは、救い主となるために生まれたと自覚しているだけの死でした。次は、虐げられ、訴えられ、ののしられ、邪魔されるという死でした。疲労困憊し…それから…おぼれる人に吸い着くタコのように、しつこくしつこくつきまとう裏切り者による死です。吐き気がする! そして、いまは最愛の友だちと母とに”別れを告げねばならぬ苦しみで”死ぬ…」
                  「先生! 泣いておられるのですか。私の墓前でも泣かれたと聞いています。それほど私を愛してくださった…。いま、また泣いておられる…。あなたの体は氷のように冷たく、この手は屍のようにひんやりしている。あなたは苦しんでいらっしゃる。あまりにも…」
                  「ラザロ、私は”人間そのものです”、”神”だけではない。人間としての感受性も愛も持っています。母を思うとき私は煩悶する…。しかし、はっきり言っておくが、身内の裏切りを耐え忍ぶというこの私への拷問、大ぜいの人たちの悪魔を思わせる憎しみ、憎まないまでも、熱心に愛することも知らない多くの人たちの無関心―熱心に愛するということはm、愛する相手が望み、教えるとおりの者になることです―を耐え忍ぶこの苦しみは、いかに”奇形的”なものか。
                   確かに、多くの人が私を愛しています。だが、それらの人たちも”そのまま残った”私の愛によって、もう一つの”自我”へとは変わらなかった。キリストとなるために、キリストが望む人となるために、私の最も身近な人の中で自己の本性を変え得た者が、”一人だけ”います。あなたの妹のマリアです。マリアは堕落した全くの”獣性”から出発して、天使的な霊性に達したのです。これはすべて愛だけによるものです。」
                  「あなたは妹を贖われたのですね」
                  「私はことばをもって皆を贖った。だが”彼女だけ”が愛の力によって完全に変わりました。
                   さっきの話に戻ると、これまでの話したことについての私の苦しみはどんなにいびつなものか。すべてが実現されることの他には、何も望まないほどです。あまりの重荷にもう耐え切れない…。いまみたいな心と感情への拷問よりもまだ十字架の方が重くないと思います」
                  「十字架?! とんでもない! あまりにも残酷です! あまりにも不名誉なことです! ああ、何ということを!」
                   それまで握っていたイエズスの凍るような手を放して、ラザロはそばの石の腰かけにがっくりと膝をつき、両手に顔を埋めて暗澹たる気持ちで泣いた。
                   イエズスはラザロに近づき、震える手を置いて声をかけた。
                  「なぜ、どうして? いまにも死なんとしている私が、生きるあなたを慰めなければならないのですか。友よ、私にはいま力と助けとが必要なのですこれを与えられるのはあなただけです。他の人には知らせない方がよい。もしもあの人たちがしったなら流血騒ぎになるに違いない。私は罪のない人への愛のためであっても、羊たちが狼に変わるのは望まない。
                   母は…ああ、母について話すのも何という苦しみか…。すでに母にはどれほどの憂慮があることか! 母も疲れ切って死に瀕しています。私と同じく三十三年前から死に向かって歩んでいる母も、いまは残酷な拷問の被害者のようにただ一つの傷に変わりました。母をここから離し、平和に暮らしていた家へ戻す方が良いものかどうか、知恵と心、愛と理性との狭間で葛藤を続けました。家へ戻したならば、ガリラヤに私の死の便りが届くのとほとんど同時に、”母様、私は勝った!”と言うことができるでしょうが、しかし、それはできない。
                   世界中の罪を担っているイエズスが慰めを必要とするとき、母ならそれを与えてくれます。それ以上にあわれな世は、”二人”の生贄を必要としています。”なぜなら、男(アダム)は女と一緒に罪を犯したので、贖う男と同じように女も贖うべきである”からです。その時がやってくるまで、私はほほえみをもって母に接します…拷問が近いのを察して、母は震えおののいています。そして、当然生じる嫌悪と聖なる愛のために、その時を何とか押しとどめたいと思っています。ちょうど私が死に至るべき”生きるもの”として、死を追い返したいと同じように。だが、いつかすべてが実現すると知ったなら、母はその時まで生きていられないでしょう。そうはいっても、母の懐で命をもらったように、その口から命を汲むために、母には生きていてもらわなければなりません。神も私のカルワリオに母がいるのを望んでおられます。処女の涙の水を神の血のぶどう酒に混ぜて、最初のミサをたてるために。ミサとはどんなものになるか知っていますか。いいえ、あなたは知るはずがない。ミサは、生きている人々と煉獄にいる人々とに、私の死の功徳が及ぼされるためのものです。
                   ラザロ、泣かないで。マリアは強い。マリアは母として一生涯ずっと悲しんできたが、いまはもう泣きはしない。近ごろ、母の顔を気をつけて見たことがありますか。私を慰めるために、その顔にほほえみを張りつけています。あなたも母を見倣いなさい。
                   もはや私もこの秘密を自分の胸におさめておくことができなくなったので、信頼できる真実の友を探そうと見回したとき、あなたの誠実なまなざしにぶつかり、”ラザロに話そう”とひとりつぶやきました。
                   あなたの心が大きな岩で圧しつぶされていた時、私はその秘密を尊重し、おのずとわいてくる好奇心に対しても、その秘密を守り抜きました。そしていま、同じことを私の秘密にう対してあなたに望みます。後でなら…私が死んだ後でなら話してもよろしい。この対話も知らせてよろしい。”イエズスは死を意識して迎え、拷問やいろいろな人々なり自分の運命について知らなかったことは一つとしてなかった、この懊悩を皆が知るように”自分自身をまだ教えたときにもそれをしなかったということを皆が知るように。なぜなら、人間への私の限りない愛は、皆のために生贄を完成させる望みだけに燃えているからです」
                  「先生、どうかご自分をお救いください! ご自身を救って! 私は先生を逃がせられます。どうぞ、今夜にでも。いつだったか、エジプトへお逃げになったことがあるではありませんか! 今度もお逃げなさい。さあ、行きましょう。お母様と二人の姉妹をも連れて発ちましょう。ご存知のとおり、私は自分の富に何の未練もありません。私の富であり、またマリアとマルタの富はあなたです。さあ、行きましょう」
                  「ラザロ、以前に逃げたのは、まだその時ではなかったからです。その時が来ました。今度はここに残ります」

                  (1)メシアを指す。エレミア14・8に暗示する。
                  (2)ネペンテスとは、神話の薬でぶどう酒に入れればすべての悲しみを消すというもの。
                  (3)ルカ22・3。特にヨハネ6・70~71、13・27。神がイエズスにおいて肉体となったことと、サタンはユダを捕らえたのは類似的なことだと言っている。
                  (4)脱出の書、ブルガタ訳12・11。

                  22 古のエバの不従順

                  2014.04.06 Sunday

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                    あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より

                     22 古(いにしえ)のエバの不従順

                     イエズスが言われる。
                     「神は、神自身とその天使たちを別として人間を、地上のすべてのものの支配者にした、と創世の書に書かれている。(1) 女を創ったのは、すべての生きるものの支配において、男の仲間であり、喜びであるためであった。善と悪との知識の木の実のほかは、何でも食べてよかったと聖書にも書かれているではないか。(2) それは、どうしてだろうか。”支配する”と言うことばには、どんな意味が含まれているのか? 善と悪の知識の木とは、何のことか? さまざまの役に立たないことについて好奇心を持ち、自分自身の霊魂には、天の真理を聞くことを知らないあなたたちは、これを考えたことがあるか?
                     あなたたちの霊魂が、生きるものであるならば、これに答えるはずである。なぜなら、大罪がなく、聖寵の中に生きている霊魂は、あなたたちの天使の手中にある花のように、聖寵の太陽に接吻され、聖霊の露にうるおされ照らされているので、答えられないはずはない。あなたたちが霊魂を、神と類似のものとして愛し、対話するならば、どれほどの真理を、あなたたちに教えてくれることか。あなたたちが霊魂を正しく愛することを知れば、それこそ、どれほどの大いなる友人となることだろう。それなのに、あなたたちは罪をもって、その霊魂を殺すに至るほど憎むではないか。
                     私は”私を愛する人は、私のことばを守り、私の父も彼を愛し、彼の中に住まう(3)”と言った。聖寵に生きる霊魂は愛を持ち、愛を持つがゆえに神を、すなわち、自分の存在を守る父、自分に教える御子、自分を照らす聖霊を持つのである。これによって、そのような霊魂は認識、知識と上智とを持ち、光で満たされているので、牢獄の沈黙、隠遁者の個室の沈黙、聖なる病人の部屋の沈黙を満たした、あのように気高い対話を交わすことができるのである。その対話は、殉教を待っている囚人たち、真理を探している聖別された人々、神を知る渇望に燃えた隠遁者たちに、苦しみを耐え忍ぶだけではなく、十字架に対しての愛を教えて慰めるのである。
                     あなたたちが、霊魂に質問すれば、その霊魂は”支配する”という、世界ほど広い正確な神の意味は、次のとおりであると知らせるにちがいない。
                     人間が”すべて”を支配するとは、”自分の三つの状態”を支配できるようにである。まず下等な”物質”の状態、中の”動物”の状態、上の”霊”の状態を。この三つは神を得るという唯一の目的に達するためのものである。人間は”自我の”すべての力を鉄のような支配をもって神に達するという”唯一の”目的に従事させることである。健全な霊魂であったら、神が善と悪との認識を禁じた理由、すなわち善を人間に無償で与え、悪を知らないようにしたのは、悪は口に甘いが、その液が血に入れば渇きを起こし人を殺すに至る熱を産むからである。そのために偽りの液を飲めば飲むほど渇きは増すばかりである。
                     あなたたちは”それならなぜ、神はそんな液を創られたのか?”と疑問に思うかもしれない。それは、悪とは、最も健全な体の中でも生まれる、ある奇妙な病気のように、自発的に生まれる力だからである。
                     ルチフェルは天使だった。天使たちの中でも一番美しい、神だけに劣るよい霊だった。それでも、その光には傲慢のもやが生まれ、それを、すぐ一掃しないで秘かに卵のように抱いて濃くしたのである。すると、この抱卵から悪が生まれた。この悪は、人間の存在する前からあったのである。神は、悪のあの呪われた潜伏者を、天国を汚すものとして外に追い出した。しかし、それは変わることのない悪い潜伏者として残ったが、もう天国を汚すことはできないので地を汚したのである。
                     あの比喩的な”木”とは、今、述べたことを証するものである。(4) 神は男と女に”世界のすべての法則と奥義とを知れ、けれども、人間の創造主である権利を、私から奪うな”と言われた。人類をふやすには、あなたたちにある、神の愛だけで足りる。そして肉体の邪欲なしに、ただ愛の動機によって、人類の新しいアダムたちを起こすことができよう。私は、あなたたちにすべてを与えたが、ただ人間の形成の奥義だけは私に留保する。
                     サタンは、人間の知恵の処女性を奪うのに成功し、蛇のような、その舌でエバの肢体と目とをなで、悪の毒が、まだ入っていなかったために、今まで感じたことのない反応を起こしたのである。彼女は”見た”そして試そうとした。肉体は、もう目覚めていた。おお、もし彼女がその時、神を呼んだならば! 神のところに走って『父よ! 私は病気です。蛇が私をなで、私の中に動揺を起こしました』と言ったなら、父は彼女を自らの息吹きをもって清め、治したにちがいない。その息吹きは、前に命を注いだ時と同じように、新たな無垢の状態を注ぎ、蛇の毒を忘れさせただけでなく―人がかつて病気にかかって治ってからも、その病気に対する本能的な反感を持っていると同じように―かの蛇に対しての反感を、その心に残したはずである。しかし、エバは父のところに行かないで蛇のところへ戻る。あの感覚は彼女にとって甘かった。”女には、その木の実がうまそうで、見ても美しく、成功を勝ち取るには望ましいもののように思えた。そこで女は、その木の実を取って食べた”(創世の書3・6)。
                     そうしたら…”彼女は分かった”もはや悪は彼女の心を噛み続けていた。獣の生き方と声とを新しい目で見、新しい耳で聞いた。そうして、狂気の渇望をもって、それにあこがれた。”罪を一人で始めたが、仲間と一緒に、そえを完成した”そのために、女の上により重い弾劾がのしかかっている。
                     男が神に背き、淫乱と死とを知ったのは、彼女によるものであった。彼女のためにアダムは、精神と肉体との欲をもう支配できず、獣の本能の法則に従うほど堕落した。『蛇が私を誘惑した』とエバが言う。『女があの木の実をくれたので、私も食べました(5)』と男が言う。そのために人間のさまざまの能力と欲は汚されたのである。あわれみを知らない、この怪物の締めつけをゆるめるのは”聖寵”だけである。その聖寵が、忠実な子供の意志によって、ますます生き生きしたものとなれば、かの怪物の締め殺し、もう、何も恐れえないところまで至りうる。心の内部にある肉体と邪欲という暴君、外部にある世間とその勢力者という暴君たち、迫害、死までも恐れない。使徒パウロが言うとおり”私は行くべき道のりを喜んで終え、主イエズスから受けた聖職、すなわち、神の恩寵の福音を証明することを全うできれば、自分の命すらけっして惜しいとは思わない(6)”。
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                    私の殉教者たち(7)は、この世を聖なるものとしようとして福音を証するという、私から受けた使命を果たすことだけ考えた。他のどんなことも気にしなかった。彼らは、自分たちの中に生きる聖寵によって、その聖寵を自分の目のように守り、いつか腐敗してしまう体を捨てて後、無限に続く、永遠の命が受けられると知って、もう獣ではなく、”男と女”に戻った。聖パウロが言うとおり(8)彼らは、この世において”私に従い”天に至るまで、この世の金銀など望んだことはなく、”すべて”を、命さえも捨てたのである。
                     また、使徒が言うとおり『自分の手をもって、自分と自分とともにいた人々のために働いて』自分自身と他人に命を与えた。”まことの信仰なしに生きるという恐るべき病を癒すために”働いて、この目的のために心、血、命、苦労、すべてのことを捧げた。これは、何日か前に、あなたに言ったことば『与えることはもらうことである』『与えるとは、もらうに勝る…』を彼らは覚えていたからである」

                    (1)創世1・27、2・18、20~25。
                    (2)創世2・16~17、3・1~3。
                    (3)ヨハネ14・23。
                    (4)この”木”は、”まことの木”であったが、同時に象徴的な木でもあった。
                    (5)創世3・12~13。
                    (6)使徒20・24。
                    (7)著者は、ここでイエズスが水の上を歩くというエピソードにつづいて、2人の聖女殉教者について書いている。
                    (8)使徒20・33~35。
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