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2017.01.04 Wednesday

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    三人の博士の礼拝

    2014.02.27 Thursday

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      あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より 

      54 三人の博士の礼拝(1)

      私の深奥の助言者が言う。
      「これから見るヴィジョンを”信仰の福音書”と呼んでよい。なぜなら、あなたと他の人々とに、信仰とその実の力を現し、神に対しての信仰を固めるに役立つからであろうから」

           *     *     *

       星々の光の下に、親鶏のそばに集まるひよこのように、小さな白いベトレへムを見る。二つの主なる道は、その小さな町を十字に切っている。一つは村の向こうから来て、村の外へ続く街道で、もう一つは村の端から端へ通っているが、外へは出ない。今の私たちが考えるような道路計画もなく、さまざまの路地が大きな道を横切っている。平らでない土地と、あちこちに造られた家に応じて、まっすぐに行ったり曲がったりしている。両側に家が建っているが、ある家は道に背中を向けて建っており、所によっては、市場のためか、泉があるためか、ちょっとした広場がある。このようにどんな秩序もなく造られているので、斜めの残りぎれのような土地では、もう何も造れない。
       私のいる所は、ちょうど今言ったような、不規則な小さい広場の一つである。これは、四角、あるいは長方形のはずであるが、てっぺんを切った、いびつな梯(てい)形をしている。最も長い側には、広くて低い、何かの建築物がある。これは村で一番広い建物である。この外側はなめらかで裸の壁で、今、ぴたりと閉じている二つの大きな門がある。中の広い四角いところの二階には、多くの窓が開いていて、その下には、藁とさまざまのごみの散らばっている広場を囲む廊下があり、馬や他の動物に水を飲ませるための水槽がある。廊下の粗末な柱には、動物をつなぐための輪がついており、もう一方の側には、動物の群れと、他の乗り物を入れるための広い小屋がある。ベトレへムの隊商宿、あるいは隊商の宿泊地であると分かる。この隊商宿の向かい側に、外階段のついた小さな家がある。夜なので窓が閉まっている。また、こんな時間なので、道には、だれもいない。
       星の降るような空から、その夜の光が天下り光が煌々とさえて、ますます増えるばかりである。東洋の空は、その星がどんなに輝いているか、天のビロードに散りばめた宝石の花のように、手でさわれるほど近く見える。私はどうして光がこういうふうに増していくのか、探ろうとして目を上げると、普通でない大きさの、小さい月とも見える一等星が、ベトレへムの空に光っているのを見る。他の星たちは、女王様のお通りの時に道を開く侍女たちのように、光を消すかのような感じである。内部に一つの太陽を持つ巨大な青いサファイアのような球体が尾をひく。その尾には、明るいサファイア色が目立っているが、トパーズのブロンド、エメラルドの緑、オパールの乳白色、ルビーの血のような輝き、アメジストのやさしい甘い光が溶け合っている。生き物のように波打つ早い速度で、空を一掃する、その尾の中には、この世のすべての宝石が集まっている。しかし、目立つ色は、星の球体から下る青いサファイア色で、下るに従って救い主の揺りかごであるベトレへムの地、道、家々をすべて銀空色に染める。
       今の私たちにとって、もともと田舎の村にすぎないベトレへムがもう貧しい町ではなくなった。すべてが銀で染まったお伽話の夢幻的な町である。泉と水槽の水は、液体のダイヤモンドのようである。
       より強い光を放って、星はあの小さな広場の狭い方の側にある家の上に止まる。みな戸閉まりしている家の中に寝ているので、ベトレへムの住人たちはだれも、それを見ないが、星は光の動悸を早め、その尾はより強くふるえ、波打ち、他の星たちにも喜びのことばを伝えるかのようである。
       小さな家は、宝石の液体の火に浸されている感じである。狭い屋上、暗い狭い石の階段、小さなドア、すべてはダイヤモンドと宝石の埃をまいている純銀の塊のように見える。地上のどんな宮殿にも、このような階段があったことはなく、未来もないであろう。なぜなら、これは、母、神の母が使うために造られたものだからであろう。汚れのない処女の、その小さな足は、いつか神の座の段を上るだろう。また、その小さな足は純白の輝きを踏むだろう。
       しかし、処女マリアは何も知らない。幼な子の揺りかごのそばに徹夜して祈っている。その心には、すべてを照らす、あの星の輝きに勝る光彩がある。
       大通りから騎馬の行列が進んで来る。馬具をつけて、手で引かれて来るものもあり、人が乗っている一こぶらくだと、荷を背負っているらくだ、ひづめの音は、小川の石にぶつかる水音のようである。広場に着くと皆下りる。星の光の下に一行は夢のように見える。贅を尽くした乗物の馬具、乗っている人々の服、荷物などは、すべてが金銀、革、宝石などの輝きを星の光に加える。それに、皆の目が光り輝き、口は、ほほえむ。皆の心に、他の輝き、この世のものではない光が加わったからである。
       僕たちが動物をつれて宿泊所に行くと、一行の中の三人が、それぞれの乗物から下り、歩いて家の方へ行く。そこで額を地面につけてひれ伏し、土に口づけする。その優雅な服装から見ても、三人は勢力者である。らくだから下りた皮膚のかなり黒い人は、真っ白い絹のシャンマ(2)に身を包んで、胴には貴重なベルトを締め、それに短刀か、それとも宝石で飾った刀の柄が下がっている。二頭の騎馬から下りたうちの二人は、黄金の目立っている非常に美しい縞の服と頭巾を着け、飾り紐と黄金の縫いとりは、金のすかし細工のように見える。もう一人は、足の方にすぼまった広い長いズボンを履き、絹のシャツを着け、短い貴重な肩掛けは、生き生きした美しい彩りで、花かざりの花壇のようである。頭には、ダイヤモンドをはさんでいる小さい鎖で留めたターバンを被っている。彼らは、救い主がおられる家に尊敬を表わして後、立ち上がって宿泊地へ行く。

           *     *     *

       ここでヴィジョンが中断する。三時間あと博士たちの礼拝の場面がまた続く。

           *     *     *

       今は昼間である。暖かい太陽が、午後の空に輝いている。一人の僕が、広場を横切って小さな家の階段を上がって中に入り、間もなく出てきて宿屋に戻る。
       三人の知恵者(博士)たち、それぞれの僕を従えて出てくる。広場を横切ると、数少ない通行人たちは、いかにも威厳にあふれてゆっくりと通る三人の堂々たる人物を振り向いて見る。僕が戻ってから三人が入るまで二十分くらい過ぎたが、その間、家に住む人々に、お客を迎える余裕が与えられた。
       このお客たちは、前の晩よりも豪華な服を着ている。 さまざまの色の絹が輝き、ターバンを被っている人の頭に、より貴重な宝石で飾った見事な羽飾りが光っている。
       僕たちの一人は、金の金具のついた木彫りの小筥(きょ)を運んでいる。もう一人は、すぐれた彫金の黄金の杯を運ぶ。三人目は、これも全く黄金であるが、広くて低い一種の容器を運び、そのふたはピラミッドの形をしていて、てっぺんにダイヤモンドが一つ輝いている。僕たちは苦労して、特に小筥を運んでいる僕は、相当重そうに運んでいる。
       三人は階段を登り、部屋に入る。部屋は、道から家の裏まで続いている。開いている窓から、裏の菜園が見える。他の二つの壁にはドアがあって、少し開いている透き間から主人、一人の男、一人の女、少年と子供をまぜて三、四人がのぞいている。マリアは子供を抱いて腰かけ、そのそばにヨゼフが立っている。しかし、三人の博士たちが入るのを見ると、マリアも立ってお辞儀をする。純白の服で、首の根から足の甲まで覆っている。ブロンドの三つ編みを、冠のように巻きつけた美しい頭、感動のために赤く染まった顔、やさしくほほえんでいる目、”神は皆さんとともに”と開くその口は非常に美しく、三人は一瞬、打たれて立ち止まるほどである。それから、もう少し進んで、その足元にひれ伏す、マリアが腰かけてくださるようにと願う。
       彼らは、マリアがどんなにすすめても腰かけず、かかとに腰を下ろして座ったままで、後ろの三人の従者たちもひざまずいたままである。彼らは入口の所に運んで来た贈物を置いて、そこで待っている。
       三人の知恵者たちは、きびきびしていて元気のよい九ヶ月から一歳ぐらいの幼な子を眺める。子供は母の膝に腰かけて、ほほえんだり、小鳥のような声で何かしゃべっている。お母さまと同じように白い服を着て、かわいい足にサンダルを履いている。質素な服である。その長着の下から、じっとしていない小さな足、何でもつかみたい丸々とした手が出ているが、特にすばらしく、すっきりしたきれいな小さい顔には、濃い水色の目が生き生きと輝いている。にっこり笑った口元に、最初の細かい歯、頬にはかわいらしい、えくぼが浮かぶ。ちぢれ毛は輝いて蒸気のようにふわふわして、黄金の粉をまくようである。

      注:
      (1) マテオ2・1~11。
      (2)エチオピア人の服。

                     つづく

      統一教会とキリスト教

      2014.02.26 Wednesday

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        江原錠治著『カトリックと統一教会』P48~P50より
        P・ネメシェギ神父(神学博士)の『原理講論』に関する論文(『統一教会の教説についての考察』『カトリック研究』1985年6月30日発行。第47号、上智大学神学会)

        統一教会とキリスト教


        統一教会は「キリスト教」と名のるが、それは、キリスト教、特にカトリック的キリスト教とは本質的に異なる宗教である。主な相違点は、次の通りである―。

        1  キリスト教によれば、イエズス・キリストこそ唯一の救い主である(使徒行録4・12等)。
         統一教会によれば、イエズスの働きは部分的に失敗に終わり、原罪からの解放と身体的な救いとをもたらすのは、文鮮明である。

        2  キリスト教によれば、イエズスがすべての死者の初穂として身体的に復活し、彼自身が救いの歴史を全うする為に再臨する(使徒行録4・11等)。
         統一教会によれば、イエズスは霊人体としてのみ生きており、再臨主は人間の親から生まれた文鮮明であり、彼が、「イエスと接触し、神と霊交した人物」として世の救いを全うするのである。(1)

        3  キリスト教によれば、イエズスの死と復活が人類全体の救いの唯一の源である。
         統一教会によれば、イエズスは死んだ為に救い主の使命を十分にはたす事が出来なかったのである。

        4  キリスト教によれば、イエズスが真理そのものである(ヨハネ14・6)
         統一教会によれば、文鮮明こそ最終的な真理をもたらす人である。

        5  キリスト教によれば、キリスト者は主イエズス・キリストを信じ彼に仕える(コロサイ3・24)
         統一教会によれば、信者は再臨主である文鮮明を絶対に信じ、彼に侍る。

        6  キリスト教によれば、イエズスは真の人間であると同時に真の神である。
         統一教会によれば、イエズスは、創造目的を達成した男性以上の価値を有しているものではなく、神自身となる事は出来ない。

        7  キリスト教によれば、人は信仰と洗礼によって原罪から救われる。
         統一教会によれば、文鮮明によって決められた相手と、彼の面前で結婚した夫婦は、原罪のない子供を生む。

        8  カトリック教会によれば、教皇はペトロの後継者として教会の最高指導者であり、聖霊に助けられて教会を導いている。
         統一教会によれば、教皇はその「使命を完遂出来なかった」(2)のである。

        9  カトリック教会は、キリストの真の御体と御血を捧げ、拝領する感謝の祭儀(ミサ)を最も重要な宗教儀式としてとりおこなっている。
         統一教会は、キリストの復活を認めていないから、カトリックの意味での感謝の祭儀をおこなう事ができない。

        10  カトリック教会は、イエズスの教えに従って、神の国の為の独身を高く評価している。
         統一教会によれば、結婚によってのみ世界創造の目的が達成される。

        11  キリスト教によれば、人祖の罪は神に対する疑いと不従順であった。
         統一教会によれば、人祖の罪は、エバと悪魔(サタン)との淫行であった。

        12  キリスト教によれば、純一の存在である神は、父と子と聖霊の三位一体である。
         統一教会によれば、男女的な「二性性相の中和的主体(3)」である神は一位であり、イエズスは、人間にすぎず、聖霊は、神と異なる「女性神」であり、したがって、キリスト教的な意味での三位一体は認められていない。

        13  キリスト教によれば、良心は各人間と神の接点の場であり、倫理行動の直接的な絶対基準である。
         統一教会によれば、人々、国々、諸宗教などが、神の側とサタンの側に区別されており、神の側を助け、サタンの側を滅ぼす行動は、良心に背いたものをふくめて、善であり、サタンの側を助ける行動は全部悪である。

        注釈:
        (1)『原理講論』38ページ。
        (2)同書506ページ。
        (3)同書47ページ。


         
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