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2017.01.04 Wednesday

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    ヨハネにはどんなしるしも必要ではなかった

    2014.01.12 Sunday

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      マリア・ワルトルタ『イエズスに出会った人々(一)』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

      2 ヨハネにはどんなしるしも必要ではなかった

       イエズスが言われる。
      「ヨハネには、自分のために何のしるしも必要としなかった。母の懐から(1)前もって聖別されていたその魂は、アダムの罪がなければ人間すべてが持つはずであった超自然の知恵に恵まれていたのである。
       もしも人間が創造主に対して忠実であり、その恩寵を守ったならば、外部の物事を通して神を見ることができたはずである。創世の書(2)では、神は罪のない人間と親しく交わって話しをし、その声に人間は驚きもせずまた何一つ間違えることなく理解している。子供が自分の親に対してするように、神を見て理解することが人間の運命であったところが、その後罪が生じて、人間はもう神を見ることも理解することもできなくなった。そしていまますますそうなのである。
       しかし、恩寵に満ちあふれる私の母は、石女であったのにいまは子を持ち、私の親戚ヨハネの母であるエリザベトを深い愛をこめて抱いたとき、原罪から清められた。まだ生まれていない小さな子供は、傷が治るときかさぶたが落ちるように自分の魂から罪のうろこが落ちるのを感じたとき、母の懐で喜び勇んだ。マリアを救い主の母にした聖霊は、マリアを通して自分の救いの御業を開始したのである。この生まれるべきであった子供ヨハネは、血縁よりも、与えられたその使命によって私と結ばれ、私たち二人はことばをつくる一つの唇のようなものにされたのである。ヨハネが唇で私がことば。ヨハネは、福音を告げることと殉教とにおいて私の先を行き、私は、ヨハネが告げた福音を神的完全さで完成し、また神の律法を守るための殉教を同様に完成させた。
       ヨハネにはどんなしるしも必要でなかったが、他の鈍い人たちのためにしるしを必要とした。鈍い人たちの目と耳でもつかめた否定できない証がなければ、ヨハネは自分の宣言を何を基にして得たのだろうか。私にも洗礼は必要でなかったけれど、主の上智が、あらかじめ私たち二人が、その時その方法で会うべきだと決めていたので、ヨハネを荒れ野の洞穴から引っ張り出し、私を家から連れ出して、私たちを会わせ、私の上に天を開いて神々しい鳩の形で神は自分自身をくだらせた。その時、私の父は”私が嘉(よみ)した私の愛する子である(3)”というお告げを聞かせた。これは、私についてくるかまたは拒むかということについて、人間に主張も口実も残さないためであった。
       キリストの出現は数多くあり、最初は御降誕後の博士たちのそれ、二回目は神殿、三回目はヨルダン川の岸辺である。それ以後も、これからあなたにぼつぼつ知らせるが、数えられないほどたくさんのしるしがあった。なぜなら私の奇跡は、復活と昇天に至るまでのすべてが神としての私の本性を現すものだからである。私の祖国パレスティナは、私が行った超自然現象をたくさん見ている。それは四方八方にまき散らされた種のように、いろいろな場所に、いろいろな身分の人たち、羊飼い、権力者、学者、信仰の無い人、罪人、司祭、支配者、子供、兵士、ヘブライ人、異邦人たしに与えられた。いまでも、このような現象は起きているが、その時と同じように、世間は迎え入れないばかりか、さまざまなしるしを見ようともせず、また前のしるしを忘れる。それでも私はやめようとしない。あなたたちを救うために、私への信仰に導くために、私はこれをやめようとしない」

           *     *     *

      イエズスの声が聞こえる。
       「マリア、いまあなたがしていることが何か分かっているか。あなたに福音を見せるために私がしていることが分かるか。私のもとへ人間を導くためのより強いこの試みを、あなたは熱心な祈りをもって望んだ。私はもうことばだけに頼らない。いまの人間は、ただのことばだけに飽き飽きし、かえって私から遠ざかる。これは罪の一つだけれども事実である。いまは”私の福音のヴィジョン”に頼り、このヴィジョンをもっとはっきりした魅力あるものとするために説明する。
       あなたに見る慰めを与え、他のすべての人々に、私をもっとよく知りたいという望みを起こさせたい。それでもなお何の役にも立たず、むごい子供みたいにその値打ちを理解しようともせずにその贈り物を捨てるならば、あなたに私の贈り物が残り、他の人々に私の怒りが残る。ここでもう一度、古のとがめを繰り返せばよい(4)。いやそのままでもかまわない。がんこに回心を断る人々がその頭上に燃える炭を集めるのを放っておいて、牧者を知りたい小さな羊に目を向けよう。私は善い牧者である。そして、あなたは小羊を私のもとへ導く杖である」

      (1)ルカ1・15、41。
      (2)創世1・26~29、2章。
      (3)ヨハネ1・29~32。
      (4)ルカ7・32。 

      イエズスはヨルダン川で洗礼を受ける

      2014.01.11 Saturday

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        マリア・ワルトルタ『イエズスに出会った人々(一)』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

        1 イエズスはヨルダン川で洗礼を受ける(1)

        「編集者のことば」
         このエピソードでイエズスの公生活が始まり、ナザレトの家を去る時から続く。『聖母マリアの詩(上)』70章”母からの別れとナザレトからの出発”参照。
        1944年2月3日、ワルトルタ女史は、いわゆる”ヴィジョン”を見るときには、体とりわけ心臓が甚だしく疲れると書いている。本当に愛しておられるならば、イエズスはこのように疲れ切った婦人を健康に戻せばよいのに、というだれかの疑問に答えるかのように、こう説明する。
        「何かの使命を委託された私の下僕たちに、世間でいわれる幸せな一生を与えたことはない。なぜかと言うと、こうのような使命は苦しみの中に苦しみによって行われるものだから。こういう人々は”人を贖うために苦しむ”という私に似た望みしか持っていないからである」
        だから、ワルトルタ女史にも、力を消耗すると、こぼすなと言うのである。
         イエズスは、その目的のためとイエズスのその喜びとのために、一時的に、病人のワルトルタ女史に病状を感じさせず、その後、キリストに対する愛のために十字架につけられたものの状態に戻るから、いまは従順と愛とをもって仕事を続けなさいと言われる。
         同じ1944年2月3日の夕方、ワルトルタ女史は次のように書いている。

             *     *     *

         人家もなく、木も草も見当たらない荒れ果てた平原を見る。耕されている畑はなく、そえほど乾ききってはいない窪地に数本ずつまばらに立ち木が生えている。乾ききったこの土地は、北を背にした私から見ると、私の右手から南方へと広がっている。
         それにかわって、水面がほとんど岸辺すれすれの川を見る。北から南へ、水がよどんで沼地と変わらない程度にゆったりと起伏の全くない平らな土地を流れていく。その川はさほど深くないので川底が見える。正確には分からないが、幅は20メートルほどである。岸辺は土地が湿っているので、荒れ地を見て疲れた私の目を幾分か和らげる緑の茂みの帯が続く。
         私に何を書くべきかを知らせて説明するあの声(2)が、いまヨルダン川の谷を見ていると告げる。ただ私に言わせれば、谷なら幾らか山があるものだが、ここには山が一つもないので川が流れている所を谷と呼んでいるにすぎない。何はともあれ、私はいまヨルダン川のほとりに立っており、右手に広がる荒涼とした石ころだらけの土地はユダヤの荒れ野である。しかし、荒れ野といっても私たちが思い浮かべるようなうねる砂の海ではなく、川がはんらんして水びだしになった後、そこここに運ばれてきた石ころを残した裸の土地である。かなたに丘の連なりが見え、ヨルダン川のほとりにいると、何だか特別に平和な気持ちになる。ここは、天使たちの飛翔と天の声声とを思いださせるようなところである。いま感じていることをうまく言い表せないが、何か心に語りかけてくるところにいるというのがひしひしと分かる。
         あたりの光景の中に、ヨルダン川の向かって右岸沿いに人々の姿が見える。この人たちの服装はまちまちで、庶民や金持ちや、裾飾りのある服からファリサイ人と分かる人もいる。これらの人々の中に、岩の上に立って群衆に向かって話している人がおり、初めて見るけれども洗者ヨハネとすぐに分かる。その話しぶりは決して甘ったるい調子ではない。
         イエズスは、ヤコボとヨハネとを”雷(いかづち)の子”(3)と呼んだことがあるが、それならいまこの檄をとばしている人をどう説明したらよいのか。洗者ヨハネの、その話し方と身ぶりを見ると、厳しい情熱家、稲妻、山津波、地震という形容がふさわしい。ヨハネはメシアを語り、心に去来するさまざまな邪魔なものをすべて放り捨て、思いを改めてメシア到来に向けて心の準備をするように説いている。その話し方は嵐のようにたけだけしく、先駆者は、心の傷に軽く触れるイエズスのような手を持ち合わせていない。
         私が内なる声を聞いていると―そのことばは、その猛烈さを除いて福音書に書かれているのでここに記さないが―草がよく茂り木蔭も多いヨルダン川の岸辺に沿った小道をイエズスがやって来る。道と呼ぶにはあまりに細い、線のような一筋は、人間とらくだが浅瀬に立ち寄るために何年いや何百年もの間ここを通っているうちにできたものと思われる。この小道は川の対岸に続き、いつしか対岸の緑の中に消える。
         イエズスは、一人である。ヨハネの背後からゆっくりと近づいて行く。メシアの到来の準備として清められ、洗礼を受けたい多くの人の中の一人として荒れ野の苦行者のどなる声を聞きながら、音も立てずに進む。イエズスは他の人たちと何ら変わったところのない庶民の一人といった服装をしており、その所作と美しさで紳士のように見えるので、群衆と区別できるだけである。けれども、ヨハネは特別な霊性の派出を感じるらしく振り向いて、その派出の泉にすぐさま気づくと、やにわに説教台となっていた岩から飛び降り、群衆からやや離れたところで立ち止まり、大木の幹にもたれかかっているイエズスの方へ足早に近づいて行く。
         一瞬、イエズスとヨハネは見つめ合う。優しく甘い空色の瞳をしたイエズスと、厳しい漆黒の稲妻に満ちあふれる瞳のヨハネ。この二人は、はたから見ると正反対である。二人とも背が高いが―これは唯一の類似点である―他の点は全く異なっている。きれいに整えられたブロンドの長い髪、象牙を思わせる白い顔、空色の瞳、簡素な服装だけれども威厳にあふれているイエズス。それにひきかえ、ヨハネは毛むくじゃらで、肩にかかるなめらかな髪は黒く、まばらなひげが顔のほとんどを覆っているにもかかわらず苦行のために頬がこけているのがありありと分かる。熱病のように潤んだ黒い瞳、強い日射しと悪天候で青銅色となった顔。革の帯で締めたらくだの革の服は上半身を覆っているがだらりとしていて腰までしかなく、おまけに右胸は雨風に直にさらされてなめし皮のようになっている。近くで見ると、野蛮人と天使がいるように見える。
         ヨハネは、相手を探るような目つきで見て高く叫ぶ。
        「神の子羊だ。なぜ私の主は私のところに来られたのか」
        イエズスは静かに答える。
        「悔い改めの儀式を果たすためです」
        「主よ、絶対に許しません。聖別されるためにあなたのもとへ私が行くべきなのに、あなたが私のところにおいでになるのですか」
        イエズスは、うつむいて腰をかがめるヨハネの頭に手を置いて答える。
        「私の望むようにさせてください。あらゆる正義(4)が果たされ、あなたの儀式がもっと尊くて高い奥義の始まりとなり、生贄(5)がもはやこの世に来たと人々に告げられるように」
         一滴の涙をこぼし、柔和になった目でヨハネはイエズスを見、先に立って岸の方へ進む。
         イエズスはマントと服を脱いで短いズボン下のようなものになると、ヨハネがもう入っている水の中に入る。ヨハネは腰の帯につけている貝殻のような入れもので川の水を頭に注いで洗礼を授ける。イエズスは小羊そのものである。白い肉体、慎み深い振る舞い、柔和なまなざしなど、どれをとってもまことの小羊である。
         イエズスは岸に上がって服を着ると、祈りに専心する。ヨハネはイエズスを群衆に示して知らせ、神の霊が救い主を表わす間違いのないしるし(6)により知ったと証している。だが、私は祈るイエズスに目を奪われており、岸辺の緑を背景にして輝くその姿だけが目に焼き付いている。

        (1)マテオ3・13~17。マルコ1・9~11。ルカ3・21~22。ヨハネ1・19~34。
        (2)しばしば言われている内部の助言者の声。
        (3)マルコ3・13~18。ルカ9・54。
        (4)マテオ3・15。正義とは、ここでは神のおぼしめしを忠実に果たすことを言う。
        (5)イエズスを指す。
        (6)マテオ3・16~17。
         
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