13 マリアは神殿に奉献される
2013.11.21 Thursday
あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より
13 マリアは神殿に奉献される
マリアは、父と母にはさまれて、エルサレムの道を歩いている。
通りかかる人々は、雪のような服を着ている美しい幼い女の子を見ようとして足を止める。非常に軽い織物の服に包まれているが、枝と花との刺繍を見れば、それは、アンナが清めの日に被っていた同じヴェールであると分かる。ただ、アンナの場合はベルトのところまでしかなかったのに、幼いマリアの場合は、ほとんど地面まで下がっている。
肩まであるブロンドの髪が、ヴェールの刺繍のないところからすけて見える。ヴェールは額に濃い水色のリボンで止められ、リボンには母の手で銀糸で小さい百合が刺繍されている。水色のリボンの輪を別にすれば、他はすべて白く、マリアは雪を着ているように見える。
ヨアキムは、清めの時と同じ服を着ているが、アンナの服は、頭に被っているマントも暗い紫色である。アンナは、マントを目の前まで下ろしている。赤く泣きはらしている母のあわれな目、何よりも、その涙をだれにも見せたくないのでマントで隠す。ヨアキムのいつも明るい目も涙で赤く、ターバンのように頭を被っているヴェールの下に顔を伏せ、腰をかがめて行く。今のヨアキムは、全くの老人である。見る人は、手を取っている小さな女の子のお祖父さんか、それともひい祖父さんと思うだろう。小さな娘を失う悲しみのために、あわれな父は足を引きずり、力のぬけたような様子で、二十歳も年を取ったかのようである。顔も疲れ切って悲しそうで、老人というよりも病人のように見える。
二人は涙を隠そうとするが、下から見上げているマリアには隠せない。二人は、小さな女の子が自分たちの方に、まなざしを送るたびごとに、その幼い手をもっと強く握りしめて、ふるえる口で無理にほほえむ。”私たちが、この子のほほえみを見る時間は、ますます少なくなる”と考えているのだろう。歩みをできるだけ長くしようとしているかのように、ゆっくり歩いている…。しかし、どんな道にも終点がある。ちょうど向こうに神殿の囲いの壁が見える。アンナは、軽い悲鳴を上げてマリアの柔らかい手をもっと強く握りしめる。
「愛するアンナ、私はあなたと一緒にいる!」と道と交差する所に造られている低いアーチの陰から出て来た人が言う。ここで一行を待っていたエリザベトである。皆に近づくと、泣いているアンナを見て言う。
「友人たちのこの家の中に、ちょっとお入りなさい。ザカリアもいる。あとで一緒に行きましょう」
皆は、天井の低い、薄暗い部屋に入る。ここの主人である女はエリザベトの友人らしいが、アンナの知らない人で、皆が気楽にするように、どこかへ退く。
「私が、私の宝物を主にささげることを、後悔していると思わないで」とアンナは涙ながらに言う。
「けれども心は、おお、私の心、子供のない孤独さに戻る私の心は、何と痛い!」
「私のアンナよ、よく分かる…。しかし、あなたはよい方だから、神はあなたの孤独さを慰め、マリアは、お母さんの平和のために祈ってくれるでそう。そうでしょう?」
マリアは母の手をなで、接吻し、なでられるよう、その手を自分の顔に触れさせ、アンナはその小さな顔を手の中に抱いて飽きることなく、続けて接吻する。
ザカリアが入って来て挨拶する。
「義人に、主の平和を」
「そうだ、そうだ。私たちのために平和をこいねがってください。私たちの心は、父アブラハムがささげ物をしようとして、あの山(1)に登った時のように、ふるえているから」とヨアキムが言う。
「神の祭司ザカリア、私たちは苦しんでいる。私たちのことを理解してくださって、つまずきを感じないように」
「とんでもない。誠実を守ろうとして、心の当然の要求を抑えて苦しんでいるあなたたちは、私にとっていとも高きものを、どのように愛すべきかを教えてくれる。さあ、元気を出しなさい。預言者のアンナが、ダビィドとアロンとの、この小さな花をとてもよく世話してくれるでしょう。ちょうど今は、神殿い住むダヴィドの子孫の唯一の百合となる。と言うのは、メシアの到来も近く、メシアは、ダヴィドの子孫の母たちは、娘たちを喜んで神殿にささげるはずなのに、今の時代は信仰が薄いために、処女の席は空っぽです。三年前、エリゼオのサラの娘が結婚のためここを去ったが時から、王の子孫の処女は一人もいない。その到来まで、まだ三十年はあるが…。マリアは神殿の聖なる幕の前に立つ、ダヴィド家の多くの処女たちの最初の者であればよい。それとも…私には分からないが…」
ザカリアは、これ以上何も言わないで考えにふけっている様子で、マリアを見つめる。それから続ける。
「私も、彼女のことに気をつけるつもりです。私も祭司で、そこの中では多少顔が利くから、天使のような小さな女の子のために仕えましょう。また、エリザベトも時々、面会に行くでしょう」
「おお、それは私の願っていることです。私は神さまを非常に必要としているので、このことを永遠なるものに伝えるように、この幼な子に話しにやって来ます」
アンナは、少し元気になったようである。エリザベトは、もっと元気づけようとして話しかける。
「これは、花嫁の時のあなたのヴェールではありませんか? それとも、新しい麻を紡いだのですか」
「前のです。これを彼女と一緒に、主にささげます。私の視力も弱くなったし、財産は税とか、さまざまの不幸のために少なくなった。それで…大きな費用をかけることはできなかったのです。ただ、彼女が神の家に残るための充分な持参金だけは用意しました。婚姻式の時に、彼女の花嫁支度を整えるのは、もう私ではないでしょうから。彼女の婚礼のために糸を紡ぎ、花嫁の服を準備することを、冷たくなったにしても、母の手でしてあげたかった…」
「おお、どうして、そんなことを考えるのですか?」
「従姉妹よ、私は年を取っています。なおさら今、この苦しみのために、これを感じています。私の最後の力を、この花を宿し養うために使い果たした…。そして今、この花を失う、という苦しみの風が吹く」
「ヨアキムのためにも、そんなことを言わないで」
「あなたの言うとおりです。彼のために生きるようにしたいのですが…」
ヨアキムは、ザカリアと話をしているので妻の話を聞こえない振りをしていたが、深いため息をして、目には涙が光っている。
「もう昼は近いから、行った方がいいでしょう」とザカリアが立ち上がる。
皆、立ってマントを着けて出ようとする時、マリアが入口にひざまずいて両腕を開いて―祈っている小さい天使のように―言う。
「父さま、母さま、祝福を!」
小さな、しかも強い子は泣かないが、薄い唇はふるえ、一層青くなった顔と目には、カルワリオと墓の所で、私が後で見る、あきらめと深い憂慮のまなざしがある。
親たちは、女の子を祝福する。一回、二回、十回。 あきることがないように、彼女に接吻する…。 エリザベトは静かに泣いている。ザカリアは、どんなに隠そうとしても感動を隠しきれない。マリアはさっきのように父と母の間に手を引かれて出かける。先にザカリアと、その妻が歩き出して神殿の囲いの中に入る。
「私は大祭司の所へ行く。あなたたちは大きな屋上まで上がってください。」
一行は、連なっている三つの玄関を通り、黄金の冠をつけている大理石の大きな立方体の建物の前に着く。 真昼の太陽は、壮大な建築をとり囲んでいる広い庭を真上から差す。階段に面している正面の廊下だけは陰になって、青銅と黄金のそそり立つ高い門は、その光の中に、もっと高く尊厳に見える。
その大きな建物の中に、幼いマリアは、雪のように白く小さく見える。父と母の間にある階段の所に着く。その三人の胸は、どんなに動悸していることだろう。エリザベトは、アンナの側の一歩後ろにいる。
銀のラッパのひびきが聞こえると、ドアが青銅の球状の軸の上を回って竪琴の音を立てる。 ランプで飾った奥の方が見え、一つの行列が中から出て来る。銀のラッパの音と、香の雲と光に包まれた優雅な行列である。その先頭に大祭司であるはずのお方が進む。大変貴重な麻の服を着けた威厳のある老人で、胸には金の鎖につるされた宝石に輝く平たい飾り物をつけている。
尊厳な大祭司は一人で階段と所まで進み、太陽の光はさらに輝きをそえる。他の人たちは門の外で、廊下の陰に冠の形をして立っている。左には預言者のアンナと、先生と思われる年配の他の婦人たちと一緒に、娘たちの真っ白い姿をしたグル―プがいる。
大祭司は、幼いマリアを見てほほえむ。エジプトの寺院にふさわしい階段の下に立っているマリアは、何と小さく見えたことだろう。祈りのために天の方に腕を上げて、皆が永遠の御稜威(みいつ)を表わす祭司の尊厳さの前に、深くお辞儀をする。それから祭司はマリアに合図する。
マリアは、恍惚となって、父と母から離れて階段を登る。大祭司は階段を登り終わった彼女に按手する。マリアは尊い幕の垂れているところ、神殿の奥の中にほほえむ…。これによって、生贄が受け入れられたわけである。神殿にはこれ以上、清い生贄がささげられたことがあっただろうか。
大祭司は、マリアの肩に片手を置いて、汚れのない小羊を祭壇へ導くかのように、神殿の門のそばへ連れて行く。マリアを入れる前に聞く。
「ダヴィド家のマリア、自分の警願を知っていますか」
それに答える銀の鈴のような”はい”を聞いて大祭司は叫ぶ。
「では入りなさい。私の前を歩き、申し分のない者でありなさい(2)」
マリアは入り、陰は彼女を覆い、処女たちと女の先生たちの一団、レビ人たちのグループは、彼女をますます隠し、皆から離れさす…。
今はもういない…。扉が軸の上にいい音をたてて回って、聖所の方へ進む行列が透き間から見える。それから、もう何も見えなくなる。門が閉じられた。
門の扉が軸を回るその音には、「マリア! 娘よ!」と言う叫びと、二人の老人のすすり泣きとが答える。アンナとヨアキムとが最後に、こうこいねがう。
「マリアを神の家に受け入れ、その道に導かれる主は賛美されよ」
こうして、すべてが終わる。
注
(1)創世22・1~14。
(1)創世17・1。
12 御子は、御母の口に、ご自身の上智を与えられたでしょう?!
2013.11.21 Thursday
あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より
12 御子は、御母の口に、ご自身の上智を与えられたでしょう?!
イエズスは言われる。
「『まだ三歳にもなっていない女の子が、どうしてあのように話せるのか? 大げさではないか?』と、理屈っぽい学者たちの非難のことばをもう聞いている。私の幼時を大人のように考え、私を奇形児のように描いているのが、ちょうど彼らであるのに…。理解力は、皆に同じように、また、同じ時には与えられるものではない。教会では、七歳になれば自分のすることの責任がとれると決めている。その年になれば能力に多少の差があっても、大体の善悪を識別することができるからである。けれども、もっと早く理解できる子供もいる。小さなイメルダ・ランベルティーニ、ヴィテルボのローザ、ネッリ・オルガンなどの話は、あの気難しい学者たちにとって、私の母はその年であのように考え、話したと納得させるのに充分な例である。私は、天国の住民となった何千何万もの聖なる子供たちの中で、三つか四つの名前しか挙げなかったから、この子供たちは、まだ幼少のうちに地上で大人のように話し、振る舞ったのである。
理性とは何だろう?神の賜物である。そのために神は、ご自分の望む程度に、望む人に、望む時に与えうるのである。理性と知恵とは、楽園で神が人間に与えた賜である。二人の人祖に聖寵がそのまま、どんな傷もなく生き生きとあった時には、どんなにすばらしいものであったか!
ベン・シラの本には、次のように書かれている。
”すべての知恵は主から下り、つねに神の傍らにある”(シラ1・1)。そのために人間は、神の子供としての資格を失わなかったならば、どれほどの知恵に恵まれたことだろう。
あなたたちの知恵の足りなさは、聖寵と善良さを失った当然の結果である。聖寵を失ったために、知恵はもうはっきりせず、あなたたちの過ちが、ますます濃くなる霧のように覆われてしまった。
それからキリストが降って、神の愛の最高の贈物である聖寵を返した。しかし、あなたたちはこの貴重な宝石を、そのまま清く守れるか? いいえ、自分の罪でこれを壊してしまう時もあるし、絶えざる小罪、悪徳に対しての自発的な傾きによって、聖寵とその活躍とを弱めるのである。それに、何世紀も、何世紀にわたる人類の堕落は、体と知恵とに反応して神が最初の人間に与えた最初の光を弱めるのである。
しかしマリアは、神の喜びのために新たに創られたエバ、清さ、そのものだけでなく、”スーパー・エバ”で、いとも高き神の傑作、聖寵に満ちあふれる者、みことばの母となるべき者であった。
”知恵の泉”は、”神のみことば”である。それなら御子は、母の口に自分の知恵を置けないことがあろうか。
みことばを告げるべきであった預言者の口は、焼けた石で(1)清められたとすれば、愛がみことばを宿すはずであった。まだ幼な子の自分の花嫁に、すぐ大人として話せるように、そのことばを高めさせたのではないだろうか。
奇跡は、マリアが幼い時に見せた、その卓越した知恵になるのではなく、無限の知恵は限りある一人の少女の中に住まわれたことにある」
注
(1)イザヤ6・6~7。
「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」
2013.11.16 Saturday
カトリック中央協議会発行『カトリック教会の カテキズム』P821~P823より
主の祈り:
「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」
#2822 御父のみ心とは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ二・四)です。御父は、「一人も滅びない…ようにと、…忍耐しておられるのです」(二ペトロ三・九)。他のあらゆるおきてを要約し、み心のすべてを私たちに告げ知らせる神のおきてとは、神が私たちを愛してくださったように私たちも互いに愛し合うというものです。
#2823 神は、「秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみ心によるもので、…あらゆるものが…キリストのもとに一つにまとめられます。…キリストにおいて私たちは、み心のままにすべてのことを行われるかたのご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(エフェソ一・九〜十一)。私たちは、このいつくしみの計画がすでに天上で行われているのと同じように地上でも完全に実現されますように、と心からお願いするのです。
#2824 御父のみ心は、キリストにおいて、またその人としての意思を通して、完全に、また決定的に成就されました。イエスはこの世においでになられたときに、「ご覧ください。私は来ました。…神よ、み心を行うために」(ヘブライ十・七)といわれました。イエスだけが、「私は、いつもこのかたのみ心を行う」(ヨハネ八・二十九)、ということがおできになります。イエスは死を目前に控えた苦悩の祈りの中で、み心に身をゆだね、「私の願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ二十二・四十二)と祈られます。なぜイエスは、「み心に従い、…ご自身をわたしたちの罪のためにささげてくださった」(ガラテヤ一・四)のでしょうか。「このみ心に基づいて…イエス・キリストのからだがささげられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ十・十)。
#2825 イエスは「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ五・八)。被造物であり、罪びとであり、しかもイエスに結ばれて神の子とされた私たちはなおさらのこと、そうでなければならないはずです。私たちは御父に、み心、すなわち、世にいのちを与えるという救いの計画が実現するために、私たちの望みを御子の望みに合わせてくださるようにお願いします。私たちには、その力は全くありません。しかし、イエスに結ばれ、聖霊の力に助けられるならば、自分の意思を神にゆだね、御子が常に選ばれることを選んで、御父のみ心にかなうことを行うことができるのです。
「私たちはキリストと一致することにより、キリストとただ一つの霊となって、キリストの心を心とすることができます。こうして、み心が天に行われるとおり地にも行われることになるのです」。
「(イエス・キリストが)謙虚であるべきことをどうお教えになるかが分かりますか。私たちの徳は自分の努力だけではなく、神の恵みによるものでもあると示しておられるではありませんか。同時にキリストは、祈る私たち一人ひとりに、世界全体のことに思いを馳せるようにと命じておられます。また、私のうちに、あるいはあなたたちのうちに『み心が行われますように』といわれたのではなく、全地に行われますようにといわれたのです。それは、地上の誤りが取り除かれて真理が全地を支配し、あらゆる悪が破壊されて再び徳が栄え、地上でも天上と同じようにいつまでも大切にされるためなのです」。
#2826 私たちは祈りの中で、何が神のみこころであるかを判断し、み心を行うための忍耐を得ることができます。イエスは、私たちが天の国に入るのはことばによってではなく、「私の天の父のみ心を」(マタイ七・二十一)行うことによってであると教えられます。
#2827 「神は…み心を行う人のいうことは、お聞きになります」(ヨハネ九・三十一)。主イエスのみ名によってささげられる教会の祈りには、大きな力があります。とくにエウカリスチアにおける祈りがそうです。エウカリスチアとは、聖母マリアやすべての聖人たちと心を合わせた執り成しのための交わりのことですが、その聖人たちは主のみ心を行うことだけを望む、主の「み心にかなう」方々だったのです。
「『み心が天に行われるとおり地にも行われますように』という言葉を、私たちの主イエス・キリストご自身のうちに行われるように教会にも、御父のみ心を果たされた花婿のうちに行われるようにキリストの花嫁のうちにも行われますように、と理解しても、間違いではありません」。
30 ザカリアの家に着く
2013.11.05 Tuesday
マリア・ワルトルタ『マリアの詩』上 あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
30 ザカリアの家に着く(1)
山地にいる。高い山ではないが、丘でもない。この辺の草はよく育って美しく、冷たい水も豊富で、そのために牧場は青々としている。果樹園も実り豊かで、りんご、いちじく、ぶどうなどの木々が家々を取り囲んでいる。ぶどうの房は、もう鳥のえんどうぐらいの粒をつけており、りんごは、花も終わって、小さな実をつけ始めているのを見れば、季節は春のようである。草原は、いろいろの花で彩られた柔らかいじゅうたんのようで、そこで草を食べている羊は、エメラルドの上の白いしみのように見える。
マリアは、わりあいよい状態である大道を、小ろばに乗って登る。私の見えない助言者は”これはヘブロンである”と教えてくれる。しかし”ヘブロン”というのは、この辺一帯を指しているのか、町だけの名前か分からない。
マリアは夕方、町に着く。門の所には幾人かの女が集まって、見知らぬよそ人を見て盛んにおしゃべりをしている。マリアを目で追って、村のまん中あたりにある美しい家の前に止まるまで、なかなか落ち着かないようである。その家の前には、菜園でもある庭がある。裏にはよく手入れされている果樹園が、背の高い木々の森まで続き、その向こうは見えない。所有地は野生の黒いちごか、それとも野生のバラで作った生け垣に囲まれている。
(ご存知のとおり、このようなとげのついているやぶは、花と枝とがよく似ているので、実がつくまではよく区別がつかない)家の前の道に面しているところは、白い低い塀に囲まれて、それにつるバラが這っている。今はまだ花がなく、つぼみだけである。まん中には鉄格子の扉が閉まっている。この家は一見して豪奢とはいわないまでも、裕福な感じがするので有力者の家であると分かる。マリアはろばから降りてドアに近づき、格子の間から中を見る。だれも見えない。どのようにして自分の来たのを知らせたらいいかと思案していると、だれよりも好奇心の強い一人の女がやって来て、ベルの代わりに門についているある道具を指す。これは、一種のくびきの軸に、つり鐘のようにかかっている二つの金属片が、ひもで引くと、どらの音を立てて鳴るような仕掛けになっている。
マリアは紐を引くが、非常に丁寧なので、音は軽くチンチンと鳴るだけで、だれにも聞こえない。すると、さっきの老婆が、自分の大きなあごと、十人分を合わせたような、おshさべりな舌とに似合うほどの力で紐をひっぱること、ひっぱること…。死人さえも呼び起こすほどの鳴らし方である。
「女よ、こうするのです。そうでなければ、どうして聞こえるでしょう? 知っておられるでしょうが、エリザベトは年寄りで、ザかリアも年とって耳が遠く口も利けません。二人の召使いも老人だし…。今まで、いらっしゃたことはないのですか?ザカリアをご存知ですか? どこ…」
質問と情報との大洪水から、マリアを救いに来たのは、足の悪い老人である。庭師か農夫か、手に小型の鋤と、腰の紐に剪定ばさみをつけている。ドアは開かれ、マリアは老婆に感謝するが、返事をしないので彼女はがっかりする…。
中に入りながらマリアは、
「私はナザレトのヨアキムとアンナのマリアで、あなたのご主人たちの従妹です」と言う。小柄な老人はお辞儀をして、声を上げて妻を呼ぶ。
「サラ! サラ!」そして外に残ったしつこい老婆から解放されるように、マリアが素早く老婆の鼻の先で閉める。
「おお、天が産まず女に子供を与えてくださるとは、この家にとって、どれほどの幸せか、いとも高きものは祝されますように。けれども心配も大きいのです。七ヶ月前、ザカリアは口が利けなくなって、エルサレムから戻りました。ゼスチャアしたり、または書いたりして意志を通じています。このことをご存知だったでしょうか。私の女主人は、この喜びと苦しみの時に、あなたがそばにいられるのをどんなに望んでいたでしょう。うちの女主人はサラにあなたのことを話すと、必ずこう言われました。『私の小さなマリアが一緒にいてくれたら! まだ神殿にいたならザかリアに迎えに行ってもらえたが、今は主のおぼしめしでナザレトのヨゼフの妻になっている。彼女はよい方だから、この苦しみの時に私を慰め、一緒に、神に祈りを捧げてもらえたでしょう。神殿では、皆が彼女を惜しんでいる。この前の祭りに、子供をくださった神に、感謝するためにザカリアとエルサレムに行った時、彼女の先生たちがこう言っていた。”マリアの声が、もう聞かれなくなった時から、神殿は栄光のケルビムを失った感じがする”』サラ! サラ!…私の女房は耳が遠いので…。さあさあ、いらっしゃい、私が連れて行きます」
サラの代わりに、家の外側の階段の上に、相当年とった女が現れる。顔はしわだらけで眉とまつ毛とから見れば、昔は真っ黒であったはずの髪も、ほとんど白くなり、その老齢と、広くてどこも締めていない服にも、もはや、はっきり表われている状態は、微妙な対照を見せている。上から手で、目にひさしを作って見て、マリアだと分かると、腕を天に上げて、驚きと喜びにあふれる”おお!”と叫んで、目を見張り、急ぎ足で迎えに走る。いつもは動作のおだやかなマリアも、鹿のように身軽に走り、エリザベトが着くとほとんど同じ時に、階段の足元に着き、喜びのために泣きくずれる従姉を、あふれるばかりの愛情をこめて抱く。
一瞬、そのまま抱き合ってエリザベトは、喜びと苦しみのまざった”ああ!”を発して、手を大きいお腹にもって行く。青くなったり赤くなったりして顔を伏せ、マリアと僕とが彼女を支えようとして手を伸ばす。あたかも気持ちが悪くなったように、よろめく。しかし、エリザベトは一瞬の後、若返ったといえるほどの光輝く顔を上げ、天使を見るようなまなざしで、尊敬深くマリアに向かってほほえみ、深くお辞儀をして挨拶する。
「あなたは女の中で祝されたお方! あなたの胎内の、御子は祝されよ! あなたの婢である何の値打ちもない私のところに、主の御母が来られるとは、何と光栄なことでしょう。あなたの声が聞こえた時、私の子供は大喜びで胎内におどり、あなたを抱いた主の霊は、私の心に非常に気高いことを語られました。人間の考えには不可能と見えることさえも、神にはできると信じたあなたは幸せです。主が前もってあなたに告げ、この時の為に預言者たちに言われたことを、あなたの信仰によって実現されるであろう。あなたは祝されよ! ヤコブの子孫に運ばれてくる救いのために、祝されよ! 私の子供に成聖を持ってきてくださったあなたは、祝されよ! 子が私の胎内で喜び勇む子山羊のように、歓喜でおどっています。あなたの中に成長しつつあるその聖なるものによって、あがないの前に聖別されて先駆者として召されていると感じたからです!」
マリアは笑ってりう目から、ほほえむ口もとまで、真珠のように流れてくる涙を見せて、後にイエズスが、たびたびとる同じポーズで、顔と腕とを天の方へ上げて叫ぶ。
「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である神により喜びおどります」そして、私たちに伝えられているとおりの賛歌を歌う。最後に「その僕イスラエルを助けられました…」と言う時、両手を胸の前に重ね、ほとんど地面までひれ伏して、神を礼拝する。
エリザベトは別に具合が悪い様子もなく、マリアと親密な話をすると見た僕は、遠慮してこっそり立ち去ったが、やがて果樹園の方から戻る時に、一緒にひげも髪も真っ白い、堂々とした貫禄ある老人の供をしてくる。彼はゼスチュアと喉頭音で、遠くからマリアに挨拶する。
「ザかリアが来ます」とエリザベトは、祈りに専念している処女マリアの肩に軽く触って言う。「私のザカリアは口が利けないのです。信じなかったために、神に打たれたのです。まあ、まあ、後で詳しく話しましょう。けれども聖寵に満ちあふれるあなたが来てくださったので、神のゆるしを希望しています」
マリアは立ってザカリアを迎えに行き、地面までひれ伏して、足まで覆う白い服のすそに接吻する。この服は、非常に広い腰に、刺繍した平打ち紐で締められている。
ザかリアは手ぶりで歓迎を表わし、エリザベトの所まで来て、一緒によく整った下の広い部屋に入り、そこにマリアを座らせて、しぼり立ての牛乳と小さいパン菓子とを出す。
そこへ、パンを焼いているとみえて、練り粉汚れた手と、その上にかかった白い粉のために、なおさら白い髪をした婢がやって来たので、エリザベトが何かを命じる。サムエルと呼ばれる僕にも、マリアの小箱を運ぶように頼む。大事なお客様に対しての、女主人の態度である。その間、マリアは、ザカリアがろうを塗った小さな板の上に、鉄筆で書いている質問に答える。その返事から、老人がヨゼフのこと、彼と結婚して後、どうしているかを聞いているのが分かる。けれども、マリアの状態についてと、メシアの母としての身分に関しては、超自然のどんな光も与えられていないのが分かる。夫のそばに行って、やさしく肩に手をかけて説明するのはエリザベトである。「マリアも母になりました。その喜びのために一緒に喜んであげて…」しかし、これ以上何にも言わない。マリアに視線を送ると、マリアはその視線に答えるが、それ以上、何か言うように促しもしないので、エリザベトは何も言わない。
…
注
(1)ルカ1・39~55。
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