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    13 アルフェオのユダ、トマ、シモンが、ヨルダン川でイエズスの一行に加わる

    2013.10.28 Monday

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      マリア・ワルトルタ『イエズスに出会った人々』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

      13 アルフェオのユダ、トマ、シモンが、ヨルダン川でイエズスの一行に加わる

       ヨルダン川の岸辺! イエズスの時代にはほれぼれするほど美しかった! 木々の梢がせせらぎにぶつかってささやく岸辺を見、緑の流れのゆったりとした平和に心をとらわれる。
       私は幅広く、わりによく整備された道に立っている。大道かまたはローマ人が地方と首府のエルサレムとを結ぶために造った軍用道路かもしれない。この道は川のそばを長く延びているけれども、川沿いにあるわけではない。川からやや離れたところによく茂った木が並び、堤を固め洪水を防ぐ役割を果たしているらしい。私が立っている所で川は大きく蛇行し、一見、金持ちの大庭園によくある湖のようだが、その流れは止まってはいない。ゆっくりではあるが動いている。それは、岸辺の葦の茂みの音と、柳がそっといとおしむように水面をなでているので分かる。早朝の静けさと平和がただよっている。小鳥たちの鳴き交わす声、柳の枝が水に触れてさらさらという音、いろいろな木の緑色、丈の高い草の先できらきらしている露の輝きしかない。
       三人の旅人が道の曲がった角に立ちつくしている。南のエルサレムの方角や、北のサマリヤの方角を見回している。待人がいつ来るかと、木々の透き間からのぞいて見ている。トマ、ユダ・タデオ、治癒した病人が話している。
      「何が見えますか」
      「いや、何も」
      「私も」
      「確かか?」
      「確かだとも、シモン。先生が足なえの乞食を魚門で治した後、群衆の歓呼の中を通り抜けるとき、六人の弟子の一人が『私たちはいまエルサレムの外へ出るところです。エリコとドーコの中間、ほぼ五マイルのところ、川が大きく曲がっている並木道で待っていなさい』と言われた。ちょうどここだ。それに『私たちは三日後の明け方そこへ着くあはずです』とも言われた。いまがちょうど三日目の明け方だ」
      「来てくれるといいが。エルサレムからイエズスについて行ってもよかったのではないか」
      「シモン、あの時あなたはまだ群衆にもまれていて、ここまで来られませんでした」
      「従兄弟がここに来るように言ったのなら、絶対に来ます。必ず約束を守る人です。ここで待つほかない」
      「いつもあの人と一緒だったのか」
      「いつも。そう、ナザレトへ戻ってからも良い仲間で、しょっ中一緒にいました。同い年だが、私の方が少しだけお兄さんです。また、叔父にあたるあの人の父親(1)にとってもかわいがられていたのです。母親も私をことのほか愛しており、私は自分の母と一緒にいるよりもその人と一緒に育ったと言えるほどです」
      「愛していたって?…それじゃ、いまはもう愛していないのか」
      「いいえ。ただ、イエズスが預言者になってから少しひびが入りました。親戚が心よく思っていないから」
      「親戚って?」
      「私の父と兄二人、もう一人はためらっている…父がもうかなりの年だから背く勇気がなかったが、いま…いま私は、自分の心と知恵とが引っ張るところへ行きます。私はイエズスについて行く。こうしたからといって律法に背くとは思えない。言うまでもなく…それが正しいことでなかったら、とっくの昔にイエズスが言っているはずです。それでイエズスと行くことにします。善いことをしたいと願う息子を、父といえども妨げられようか。そこに救いがあると私が感じているのに、なぜ反対するか。なぜ、時として親は敵に回るのか」
       シモンは悲しみがこみ上げてきたのか、ため息をついてうつむき黙ってしまう。代わりに、トマが答える。
      「私はその障害も乗り越えました。父は私のことばを聞いて十分理解してくれ、私に祝福を与えてこう言いました。
      『さあ、行きなさい。おまえにとってこの過越祭が、メシアへの期待の束縛を断ち切るものであるように。信じられるおまえは幸せです。私は待ちます。しかし、本当に”彼”だったら―イエズスについて行けば分かるでしょうが―あなたの年老いた父のもとへ戻り”おいで、イスラエルに期待された者が現れた”と伝えなさい』」
      「あなたは私よりも運がいい。私たちはすぐそばで暮らしたのに!…身内の私たちが信じない!…その上、”あいつは気が狂った”と言っています。むしろ、家族がそう言うのです。」
      「ほら、何人かでやってくる」とシモンが大声を上げる。
      「あの人だ、あの人だ! 金髪だから分かる! おお、皆、行こう、走ろう!」
       皆、南に向かって足早に歩き出した。並木が向こうからの道を隠しているので、二つの集団は思いがけないところで出会う。イエズスは岸辺の木々の間にいたので、まるで川から上がったように見える。
      「先生!」
      「イエズス!」
      「主よ!」
      弟子と従兄弟と治癒した人の三つの叫び声は、祈りのようにうれしそうに響く。
      「おまえたちに平和!」と、間違えようのないあの美しい響き、静かだがはっきりして男らしく優しい、心に染みるような声がする。
      「あなたもユダ、従兄弟よ」
      抱き合うと、ユダが涙をこぼす。
      「どうしてそんなに泣くのですか」
      「おお、イエズス! あなたと一緒にいたい!」
      「あなたをずっと待っていました。なぜ来なかったのですか」
       ユダは黙ってうなだれる。
      「あの人たちが反対したのですか! では、いまは?」
      「イエズス、私…私はあの人たちの言うとおりに”できない”あなただけに従いたい」
      「でも、私は何の命令もしなかったでしょう」
      「ええ、そうです。あなたはそうしなかったけれども、命令するのがあなたの使命です。私の心に、ここにあなたを送られた方が”彼と一緒に行きなさい”と語りかけるのです。あなたを生んだ、私の優しい先生のあの方、ことばではなく、雌鳥のそのまなざしで”イエズスのものでありなさい”とささやきかけます。私の心を貫くあの気高い声を無視できようか。私をもっと幸せにするために私に請い願う、この聖女のことばを聞かずにおられようか。ヨゼフ側の家族から従兄弟というだけで、あなたがいかなるものか認めないでよかろうか。あなたに会ったこともないのに、洗者は、ここ、この川の岸辺で”神の子羊”としてあなたにあいさつしたではないか。それなのに、あなたと一緒に育った私、あなたに習って良くなった私、あなたのお母さんのおかげで律法の子になり、ラビたちの六百十三の掟よりも、聖書と祈りよりも、お母さんからその真髄を習った私が何もできないなんてあり得ようか」
      「あなたのお父さんは何と言っていますか」
      「父? 父にはパンと介護が十分足りています。その上、あなとという良い手本があります。 あなたはマリアよりも、全人類がよくなることを心にかけられました。それでマリアは独ぼっちです。先生、父に向かって”お父さん、愛しています。だけど、お父さんの上に神がおり、私は神に従います”と言ったら、尊敬に障りますか、教えてください」
      「ユダ、私の親戚よ、友として言います。あなたは光の道にもう随分進んでいます。おいで、神が呼んでおられるとき、父親にもそう言ってよろしい。神に勝るものは何もない。肉親の法則も消え、むしろ向上されます。なぜなら、私たちはこの涙をもって、父母らにこの世の一日よりももっと長く、もっと大きな助け、永遠のものを与えるからです。私たちと一緒に、この人たちをいろいろな愛の犠牲の道を通して天に導きます。それではユダ、残りなさい。あなたを待っていました。ナザレトでの若かりしころの友人とまた一緒になれてうれしい」
       ユダは感動している。
       イエズスがトマに話しかける。
      「あなたは従順に忠実でした。これは弟子の最初の徳です」
      「あなたに忠実であるために、やって来たのです」
      「おまえはそうなると、はっきり言えます。それから恥ずかしがってそこに隠れているあなた、おいで。怖がらなくてもいい」
      「わが主よ!」と言って、もとの癩病者はイエズスの元にひれ伏す。
      「あなたの名前は?」
      「シモン」
      「あなたの家族は?」
      「主よ。…家族は大きな勢力があって…私も勢力だった…しかし、諸々の派の反感、憎しみ…と青春のあやまちが、この勢力に傷をつけたのです。父は…おお、私は天的ではないおびただしい涙を流させた父に反して話すべきです! ごらんのとおり、父が私に何をもたらしたかお分かりですね!」
      「お父さんが癩病者だったのですか」
      「いいえ、私のような癩病者ではなかったけれど、ただイスラエルの私たちにとっては癩病に等しい他の名の病気でした。この人…おお、自分の階級がまだ力強いときに、わが家で勢力を保ったまま生きて、そして、死にました。私は…あなたに救われなければ、あのまま墓で死んだに違いない」
      「お一人ですか」
      「一人です。残したものの世話をしている忠実な下僕が一人おります。あれにもいろいろ知らせました。」
      「お母さんはどうしていますか」
      「母は…亡くなりました」
       男はどう言ってよいやら分からず困惑している。イエズスは男をじっと見つめる。
      「シモン、あなたは何をすればよいかと私に尋ねましたが、いまあなたに”ついて来なさい”と言います」
      「主よ、ただいま…! けれども…私は…一言、言わせてください。私は派のために熱心もの(2)と呼ばれ、母のために”カナーン”の人と言われていました。見てのとおり、私は浅黒い。私には奴隷女の血が混じっています。父の妻に子供がなかったので、奴隷女に産ませたのですが、父の妻が良い人だったのでわが子のようにして育て、息を引きとるまで私のもろもろの病気の世話をしてくれた…」
      「神の目には、奴隷も自由人も変わりがない。その目に奴隷であることは、ただ一つ、罪にしばられていることだけである。私はその罪を取り除きに来ました。私は、おまえたち皆を愛しています。御国は皆のものだから。あなたには教養がありますか」
      「知識人です。病がまだ体だけで衣服で隠せる間、私は、偉い方たちと肩を並べていました。しかし、それが顔に現れたとき、敵にとって私を死者の中に放り込む絶好の機会となりました。あきらめきれず、ローマ人のカイザリアの医者にかかりました。この医者に真性の癩病ではないが、遺伝性の白癬(はくせん)だから子供に伝染するので結婚しないようにと宣言されました。これで父を呪わずにいられようか」
      「いや、お父さんを呪ってはならない。さまざまな害を被ったとしても…」
      「おお、そのとおり。財産を浪費し、悪徳の限りを尽くし、残酷で真心も愛情もなかった。健康、平和、愛撫を私から奪い、私に屈辱のしるしである病気を残し、私から父となる喜びさえも奪い去った」
      「それだから、ついて来なさいとあなたに言います。私の傍らに父と子らとを見つけるはずです。シモン、目を上げなさい。まことの父は、そこであなたにほほえみかけます。世界には父を待ちこがれる大勢の子がいます。あなたを待っています。また、あなたのように多くの人が待っています。私のしるしのもとに、もう差別はなく、違いも寂しさもない。そのしるしは愛のしるしで、愛を与えます。子供に恵まれなかったシモンよ、おいで。私への愛のために父を失うユダよ、おいで。二人を運命に結びます」
       イエズスは二人に同じくびきをかけるかのように、二人の肩に手を置いて話し始める。
      「いま二人を一緒にします。けれども、またすぐに分けます。シモンはトマと一緒にここに残り、二人で私の帰る道を準備しなさい。それほどしないうちに戻るとき、民衆が私を待っているのを望みます。あなただから言えるのですが、治せる人がまもなく来ると病人に言って聞かせなさい。待ち望む人々に、メシアはわれらの民の中にいると言いなさい。罪人たちに、ゆるす人がいると言いなさい。皆に上がるための力を与えるように…」
      「でも、私たちにできることですか」
      「できます。皆が呼んでいる、待っている、皆に恵みを与える人を迎えるための準備をしなさいと言って、すでに知っていることを話しなさい。それから、従兄弟のユダ、私とこの人たちや、他の弟子たちと一緒にいらっしゃい。でも、あなたはナザレトに残ります」
      「どうして、イエズス」
      「あなたは故郷で私の道を準備すべきだから。これを小さい使命と思うのですか。いいえ、これより重いものはない」とイエズスが吐息をもらす。
      「それで、うまくいくでしょうか」
      「そうね、まあ。しかし、弁明できるすべてが整えられています」
      「何のことで? だれから?」
      「神から。祖国で、家族に。われわれはより良いことを捧げたのだから、とがめられはしない。それに、祖国と家族とがそれを拒んだとしても、これらの人たちの損出は私たちの責任ではない」
      「私たちは?」
      「おまえたちは? ペトロ。おまえたちは、また漁に戻ればよい」
      「なぜ?」
      「なぜなら、おまえたちをぼつぼつ教育して準備ができたところで連れていきたいからです」
      「では、またお会いできますか」
      「もちろん。しばしば、おまえたちのところに来るつもりです。それに、カファルナウムに行ったらおまえたちを呼び寄せます。さあ、友たちよ、あいさつを交わして行きましょう。ここに残るおまえたちを祝福します。私の平和がおまえたちとともに」
       このようにしてヴィジョンが終わる。

      (1)聖ヨゼフのこと。
      (2)著者は、いわゆるこのゼロテス(熱心な人々)が初めには律法を熱心に守る人々で、外人のくびきを嫌っていた人々(マカバイ上2・50)だが、熱狂家の国粋主義者の厳格なファリサイ人になった(使徒5・36~37)と知らなかったようである。 

      6 前の話に付け加える

      2013.10.24 Thursday

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        マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

        6  前の話に付け加える
        ― イエズスはこう言われる ―

        母マリアの心からなる祈りは、ある意味で私の復活の時を早めたと言える。
         私は前に、”人の子は殺され、三日目によみがえる”と言った。日数として数えても、時間として数えても、三日目と言えば日曜日の早朝ではないはずである。私が死の眠りについていたのは、ただの三十八時間であって、七十二時間ではなかった。三日目と言えば、せめて日曜日の夜まででなければならない。
         だが母マリアはかつて、その祈りをもって、世界の救いのために、定められたより何十年も早く天を開いた。その時のように今度もまた、自分のなえつきそうな心に慰めを与える復活の時を早めた。
         こうして私は、三日目の早朝、陽の昇る前に、人間がつけたあまりにも無力な墓の封印を切り、神の力をもって、これまた無力な番兵どもをなぎ倒した。生命そのものである私の”死”を番するために配置していた番兵どもは、三度(1)倒された。
         そのとき、何ものにもまさる私の力強い霊は、神秘な刃のように私の死の体を暖めた。
         神の霊は、”私が望む、生きよ”と言って、私に”生命を吹きこまれた”(2)
         ”人の子”としての私はこうしてよみがえった。世の罪を背負うべく定められた”いけにえ”にすぎない私はまた神の子となった。”初めであり終わりであるもの”(3)永遠に生きるもの、その手に”死の鍵”を持たれるものが、私をよみがえらせないはずがあろうか。
         限りもない苦しみの後の、深い深い眠りから目覚めるように、私は長い吐息をついたが、まだ目は開いていなかった。そのうち、ゆっくりと体に血がめぐりはじめ、思考のちからも戻ってきた。 ああ、私はどんなに遠くから旅してきたことだろう。
         脈がしっかり打ちはじめると、体中のあざや傷は跡だけを残して消え、力が戻り、私はよみがえって、はじめて目を開いた。
         私は死体の布をふりほどき、香の入れ物をすて、生きるものとなり、よみがえった。この世のものではない永遠の、美しいものとしてよみがえった私は、御父によって織られた衣服を身に付けた。私から流れ出るのは、もう、血ではなく、光である。私はこの傷あとで我が身を飾る。こうして私は、地上の呪われた者たちが、最後の日には目をあげて見ることに耐えられない光となる。
         天使も、私の”苦しみの天使”も、共に私の目の前にひれ伏して礼拝する。この二人の天使、一人は人間としての私を守ってきた役目を終え、今の私を見て喜びひれ伏す。もう一人は、私の涙を見、闘いを見てきたが、今はそれを終えて私の勝利を見て微笑する。
         こうして私は墓を出、花の蕾と露をふんで菜園に出た。 王としての私の頭上では、リンゴの木々が一斉に花開き、この世をあがなうために、いま地上をふみしめている足の下で、宝石のように草花が咲く。最初に太陽が私に挨拶し、また風も、幼児のように柔らかく四月の野辺を通り、大空のかすかな雲も、木々の間の小鳥も神なる私を礼拝する。
         私は失神している番兵たちの間を通る。彼らは、神が通りすぎるのを感じようとも知ろうともしない罪悪の状態にある人々のことを指している。
         マリア、これこそ過ぎ越しである。 主なる神の通過である。 死から生命への通過である。それはこの世を通過する平和であり、御名を信じる人々に生命を与える。それは、人間が考える漠然とした平和ではなく、神の御業に立ち戻った自由な、完成した平和である。 私は、当然のことながら、それから母に会いに行く。私を守り、慰めた母、私を生み育ててくれた母、人間の体で神の光栄をうけ、御父の光の輝きを放つこの姿で母のもとに行くが、この栄光の体に触れ接吻することができるのは、母だけである。
         私が”新しいアダム”であるなら、母は”新しいエバ”であり、清い者、美しい者、愛され祝される者である。サタンは女の姿を通してこの世に入ったが、サタンの唾に汚された人間を、ひとしお勝たれた一人の女が清めたがために、人間は今、自ら望めば救いを得られるようになった。あの時、傷まみれとなった私は、弱り果てた女を助け、そして今、子なる神は、聖徳と母性の権利によって、母のもとに行く。
         そのあとで、かつて乱行に明け暮れた女のもとに行く。そういう生き方をして来た女たちも、身を改め、私を信じるなら、私のあわれみがすべてを赦すことを知らせるためである。 サタンに打ち勝つために、五つの傷に光輝くこの私の体をその者に示そう。
         だが彼女は、栄光の体をもって御父なる神のもとに行くこの私に、触れることのできるほど清い者ではない。 それは許さない。彼女は苦しんでなお自分を清める必要がある。とは言え、神を愛することを知っている彼女に、この報いを与える値打ちはあろう。彼女は、強い意志を奮い起こして過去の悪行の墓からはい出て、自分を縛りつけているサタンを打ち殺した。 また、救い主を愛するがために、世俗に挑戦し、まことの愛ではないものを、すべて拭い去ろうと努め、主なる神のために身をくだいて愛を示そうとした。
         神が彼女に”マリア…”と呼びかけるとき、”…ラボニ!”と答える彼女の叫びを聞かれるがよい。そこには彼女の心の思いがすべてある。その彼女に復活の私を示し、他の者に伝える任務を与えよう。彼女は、他人が何を言おうと、何を思おうと気にすまい。よみがえった主を見ただけで、他の事は何もかも忘れて喜びにひたるだろう。罪を捨てて私を信じ、私を愛した人がどんな様子であるかをごらん。私は、ヨハネにさえ先に現れたのではない。 このマリアに姿を見せた。私はヨハネを自分の子供と呼んできたが、それは彼が霊的な清い若者であったからだが、ただそれだけでなく、彼は神によみせられた女性を世話し、また世話しつづけるからである。
         マグダラのマリアは、よみがえった恩恵の最初の現れに会ったが、もしあなたたちが、私のためにすべてに打ち勝ち、何よりも私を愛するようになる時、私は傷ついたこの手の中に、あなたたちの病んだ心をうけとり、そこに私の力をそそぎ込む。こうして、私の愛により、あなたたちは、健康で幸福な美しい自由な者と変わる。そしてあなたたちを、私の慈愛を、哀れな取り残された人々に運ぶ者に取り立てよう。私をいつも愛するようにせよ。ただ愛をもて。神の御心を信じ、私があなたたちを愛したがためにどんなに苦しんだかを考え、ただ私を愛し、おそれることを止めよ。

        (1) 三回は最も役に立たない、あなどりの言葉として用いる。
        (2) 創世の書2・7。
        (3) イザヤの書44・6、48・12、ヨハネの黙示録1・8、17、21・6、22・13。
         

        5 敬虔な婦人たちは墓に向かう:続き

        2013.10.22 Tuesday

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          マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

          5 敬虔な婦人たちは墓に向かう:続き

          「主の天使を見たのですから、私たちは死ぬのでしょうね…」
          菜園までくると、いく分気が静まってくる。
          「…さあ、どうすればいいのでしょう? 見たこと聞いたことをそのまま伝えても、だれも信じてはくれないでしょう。ひょっとすると、あの番兵たちを殺したのは私たちではないかと、ユダヤ人が疑うかもしれない…、友達にも他人にも何も言えないなんて…」
           二人はおどおどしながら他の道をとって家に向かう。 家に帰りつくと、母マリアに挨拶すらしないで、高間ににげるように入る。
           高間に入って二人はまた話し合う。
          「あれは、自分たちの見たことは、悪魔の仕業にちがいない…私たちに、神の使いがあらわれるなんて、そんな光栄が与えられるはずはない…きっと悪魔が、私たちをあの場所から遠ざけるために、あんな姿を見せたのでしょう…」
           あわれな二人は、悪夢を見たあとのように、おののきながら、泣いて祈る。
           もう一つのグループの、ヨハンナとアルフェオのマリアとマルタの三人は、地震だけで、これ以上の騒ぎはないと見てとって、友達が待っている所に向かう。広い道に出てから、三人は話し合い、あの地震はこわかったけれど、金曜日の出来事と何か関係があるのではないかと話す。
          「…とすると、皆こわがっているから、別に邪魔は入らないでしょう。番兵たちもそうでしょうから…」と、アルフェオのマリアが言う。
           三人は足を早めて城壁の方へ向かうが、彼女たちがまだ菜園には行き着かないうちに、マグダラのマリアとペトロとヨハネが先に着いている。ヨハネが一番足が早いので、真っ先に墓につく。番兵たちはもういないし、前に墓にいた天使は、もう見えない。
           ヨハネが、開いた墓の入口に膝をついて、そっと中をのぞく。何か変わったしるしでもなかろうかと、辺りを見まわす。墓のそばには、死体を包んでいた布が置かれ、それだけが目に入る。
          「シモン…本当だ! 主はいらっしゃらない…マリアの言った通りだ。すぐ中に入って、よく見てください!」
           シモン・ペトロはあまり大急ぎで走ってきたので、まだ息をあえがせたまま、墓に入る。
           心の中えは、
          「…私はここに入れる値打ちのない人間だけど…今は先生がどうなったのかを知るのが先決だ…」と、つぶやく。
           そして墓に入ると、どこかの隅に主が隠れておいでになるかもしれないと思って、大声で主の名を呼ぶ。
           この時にはもう墓の中は真っ暗で、小さな入口から差し込む朝の光だけである。ペトロは手で物にさわって確かめるしかない。そうしているうちに、板に手がとどき、そこに何もないのに気付いてふるえる。
          「ない! ヨハネ、死体がない…お前も入ってきてくれ。私の目は涙ではれ上がっていて、よく見えないんだ…この暗さでは何も見えない…」
           ヨハネも墓に入る。そのうちペトロは、たたんで隅におかれている汗ふきの布と体を包んでいた布が、どれらもちゃんと丸めておいてあるのに気付く。
           「本当に持ち去られてしまった…番兵は我々を見張るためにいたのではない。こういう事をするためにいたのだ…我々はそんな事とは露知らなかった。持ち運ばれるのをゆるしてしまったのだ…」
          「どこに連れて行ったのだろう。ペトロ、ペトロ、我々はもう何も残っていない…」
           二人の弟子は呆然として外に出る。
          「…行こう…マリア、あなたは母マリアにこの事を伝えてください」
          「私はどこにも行きませんよ! ここに残ります!」
          「でもだれかが知らせなければ」
          「私は行きません。ここには主の何かかまだ残っています。母マリアのおっしゃっていたように、イエズスのおられた場所の空気を吸うことも、私たちの慰めなんです…」
          「慰め?…今度こそあなたも、我々が今まで抱いていた希望がどんなに狂っていたか分かったはずだ」と、ペトロが言う。
           マリアは返事もせずに墓の入口近くの路上にくずおれて泣く。
           二人が去ってしばらくの間、そうして泣いていたが、やがて顔を上げて、墓の中をのぞく。
           すると墓の中の香台の石の頭とすその方に、二人の天使(4)が腰かけているのが見える。
           消えようとする希望と、養ってきた信仰との狭間の激しい闘いを、必死で耐えていたあわれなマリアは、心がほとんど空虚になっていて、驚く気にもならず、ぼんやりと二人の天使を見つめる。
           ずっと英雄的に闘ってきたこの女には、もう涙しか残っていないのかもしれない。
          「なぜ泣くのか?」と、美しい少年のように見える二人の天使の一人が聞く。
          「だれかが私の主をさらって行ってしまいました。どこに連れていったのか、分からないのです…」
           マリアは彼らを見て驚きもしない。”あなたなたちはだれですか”とも聞かない。
           あまりに色々な事が起こって、もう驚くことも恐れることもなくした人のように、マリアはただ座って泣くばかり。
           二人の天使は互いに目を見交わして微笑し、それから閃光をのこして外に出る。 リンゴ園の花のつぼみは、太陽をうけて、突然のように満開となる。
           マリアは、二人の向かった方に目をやる。すると、一人の輝かしく美しい男が立っている。マリアはそれがだれなのか、見当もつかない。男はマリアにやさしい視線を向けて聞く。
          「何を泣いているのか? だれを探しているのか?」
           マリアはその声を聞いて突然喜びと感動が体の中にあふれたのに、まだそれがだれか分からないらしい―(私にはそれが不思議でならない)―。
           マリアは涙声で言う。
          「だれかが私の主イエズスを盗んでいきました…私は主のよみがえりの前に、その御体に香油をゆるために、ここに来たのです…。私は自分の勇気をすべてゆり起こし、親しい人たちと一緒になって、希望と愛を失わないように努めてきました…信仰と希望と愛の三つを守ろうと、こんなにも努めてきたのに…それなのに、主の御体が盗まれてしまいました…私はどうしたらよいのでしょう…だれかが私の愛を盗み、そして私のすべてを奪ってしまいました…。
           ああ、あなた、もし、あなたが私の主を持って行かれたのなら、どうぞその場所を教えてください。…私が取り戻しに行きます。だれにもこの事は言いませんからどうか教えてください。決して御迷惑はかけませんから…。
           私のことばをお疑いなら、私はティオフィロの娘で、ラザロの妹です。どうか、教えてください!
           もしお金で買い戻せるとおっしゃるなら、そうしましょう。どの位お払いすればよろしいでしょうか? 私は貧乏ではありませんから、どうか遺体だけは引き取らせてください。決してだれにも一言もこの事は申しません。
           もしまた私を打ち叩きたいと思われるなら、そうしてください。あの方に何か憎しみをもっておられるなら、私を血の出るまで叩いてそのうらみを晴らしてください。その代わり、あの方を返してください。 あなた…私をこれ以上惨めなあわれな有り様で取り残さないでください。
           またもし、私のためにそうしたくないなら、どうぞあの方の母上のために、あわれをかけてください。私の主イエズスがどこにおられるのか、教えてください。
           私は力の強い女ですから、もし教えてくだされば、その場から運び出して来ます…。ああ、あなた…私たちは三日前から、神の御子が受けられたあの出来事のために、神様からの怒りに打たれて、こんな有り様でいるのです。どうか、もうこれ以上ひどい事はしないでください!」
           その時イエズスは、復活の輝かしい御姿を現し、
          「マリア!」と呼ばれる。
           イエズスの御体を求めて血まなこになっていた不安と狼狽の闇は一瞬にして霧のように消え、愛の光がさっと差しこんだ。
          「ラボニ!」(主よ)と胸を裂くような声をあげたマリアは、菜園を走ってイエズスの足元に近より、その足に接吻する。
           イエズスはマリアの額にわずかに指先をつけて彼女を避けて言う。
          「私にさわるな、マリア。私はまだこの体で御父のもとに昇っていない。兄弟、友人たちにこう告げよ。
          ”私は、御父、またあなたたちの御父のもとに昇り、そののちまた皆のところに来る”と」
           そう言ってイエズスは、人の目には耐えられない光に包まれて消える。
           マリアは、主が立って居られた地面に接吻し、すぐ家に向かって走る。城門は開かれていたから、人たちの間をすり抜けて、マリアは走る。家に着いて、母マリアの部屋の扉を開くなり、母マリアを抱き締めて言う。
          「…主は復活されました! 復活されました!」
           そう言って幸せの涙にむせぶ。
           そこにペトロとヨハネも大急ぎで入ってくるし、広間でまだ不安にわなないていたサロメとスザンナも来て、マリアの話を聞く。
           その間にアルフェオのマリアとマルタ、ヨハンナもあえぎながら入って来て言う。
          「私たちも聞きました…神さまであり人間である主イエズスの”苦しみの天使”が私たちに現れて、”主は復活されたと伝えよ”と、おっしゃいました…」と言う。
           ペトロが疑わしそうに頭をふっているのを見て、さらに言葉を強めて言う。
          「いいえ、本当なんです。天使はまたこうも言いました。”なぜ死者の中に生者を探しているのか。主はもうここには居られない。ガリラヤで仰せられたように、主はよみがえられた。あの時のお言葉を忘れたのか、人の子は罪人の手にわたされ十字架につけられ、そして三日目によみがえると”」
           ペトロは頭をふりながら、なおも言う。
          「この数日、あまりにも色んな事が起こったので、あなたたちはおかしくなったのではないか…」
           マグダラのマリアはその時頭を上げて言う。
          「いいえ…私は主にお会いしました。話もしました…これから御父のもとに昇り、また帰ってくるとおっしゃいました…あの火神々しい、美しさ…」
           今までのように、あちらをなだめ、こちらをすがしてきた苦労が一気になくなった今、彼女は思いきり激しく泣く。
           だが、ペトロとヨハネはまだ彼女たちの言葉を丸のみにする気になれない。彼らは目を合わせて、
          「女たちは幻を見たのだ…」と、心の中でうなずき合う。
           スザンナとサロメも見たことを思い切って話すが、しかしそれが小さな所で食い違っていることにも気付いている。たとえば、番兵たちはそこで死んだようになぎ倒されていたのに、それが一人もいなかったと言う…天使も見たのは一人なのに、あとでは二人だと言う…しかもイエズスは使徒たちには現れていない…。
           また、イエズスはここに来ると言われたそうだが、前には、自分は弟子たちよりも先にガリラヤに行くと言われた。使徒たちはそれらを考え合わせて、疑わしいというより迷いが強い。
           母マリアは、マグダラのマリアを抱いて、幸せそうに黙っている。(私にはどうも、母マリアのこの沈黙にどんな意味があるのか、よくつかめない。)
           さて、アルフェオのマリアが、その時サロメに言う。
          「私たち二人で、もう一度あそこに行ってみましょう…ありえないものを見たのかどうか、確かめに行きましょう」
           そう言って外に出る。他の婦人たちは、黙ったままでいる母マリアのまわりを囲み、使徒たちはその女たちをからかうように眺めている。
           一同それぞれ自分なりの思いにふけっていて、母マリアが脱魂の状態にあることには気付いていない。
           二人の年配の女たちが帰って来て言う。
          「本当でした! 本当でした!私たちも主に会いました。 バルナバの菜園でこうおっしゃいました。
          ”あなたたちに平和…おそれるな!
           私がよみがえったことを告げ、何日かのち、ガリラヤで兄弟たちに会おう”と。
           マリアの言っていた通りです。すぐにベタニアの人たちにも、ヨゼフにも、ニコデモにも、仲間の弟子たちにも、羊飼いたちにも知らせましょう。すぐ出かけます…何かしなければ…ああ、本当に主は復活された…」
           婦人たちはうれしそうにうなずき合っている。
           ペトロが吐き出すように言う。
          「全く気違い沙汰だ! あなたたちはここ数日の苦しい事の連続で、上擦ってしまっているのですよ。だから、光が天使に見え、風が主の声にきこえ、太陽をキリストだと思いこむ…私は何も、あなたたちを非難しているのではない、理解もしている。ただ私は自分の見たことだけを信じている、墓がからっぽであったこと、番兵たちが死体をもち去ったことだけ。
           主がよみがえったと言っているのは番兵たちだけだ…町は大騒ぎになっている。番兵たちが恐怖のあまりそんな事をしゅべったから、祭司長たちは怒り狂っている。番兵たちの口止めをするのに、祭司長たちは金を払ってさえもいる。大体ユダヤ人は復活を信じていないし、信じようともしない。それなのに、その事を信じようとする者もいる。ばかげた事だ。あなたたちもいい加減にしてくれ…」
           ペトロはそう言って、肩をいからせて立ち去ろうとする。
           そのとき、母マリアは、自分の腕の中で喜びの涙を流しつづけるマグダラのマリアの頭に接吻してから、ただならぬ輝かしさをおびた顔をさっと上げて言う。
          「いえいえ、本当によみがえったのです…私は彼を抱いてその胸の傷に接吻しました…。あなたも今まで苦しんで来たけれど、これから永遠の大海のような喜びを知るでしょう…自分でよく考えてから、神の恵みを受けようとするあなたは幸せ者ですよ…」
           ペトロはもう一言も返す言葉がない。が、いつものペトロらしく突然気を変えて言う。実はキリストの復活の知らせが、他人のせいで遅れたのであって、自分に責任があるなどとは考えてもいないらしい。
          「そういう事なら、すぐ他の人にも知らせなくちゃならない。地方に散ってしまった弟子たちにもかrない居るのだから。さあ忙しくなった…もし本当にイエズスが来られるなら、少なくとも我々を見つけてくださるだろう…」
           彼がキリストの復活を全面的に信じていないことは、この言葉の裏にはっきり見えるのだが、自分ではそれが分かっていない。

          (4)マテオ28・1~10、マルコ16・2~8、ルカ24・4、ヨハネ20・1~18。
          この著作の最初の時にマテオとマルコが指している天使と、ルカとヨハネが指している天使は同一のものである。天使は一人である。

           

          5 敬虔な婦人たちは墓に向かう

          2013.10.18 Friday

          0
            マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より

            5 敬虔な婦人たちは墓に向かう(1)

             その間、婦人たちは家を出る。マントをかき合わせ、壁にそって一列になり、影のように進んで行く。辺りはおそろしく静か。やがて町に近づいても騒動らしい気配はないので、幾分ほっとしてまた一緒になる。
             「町の門はもう開いているかしら?」と、だれにともなくスザンナが聞く。
            「野菜を積んだ農夫がほら、向こうに行くから、きっと開いているでしょう」と、サロメが答える。
            「あの人たちは私たちをどう思うかしら?」と、またスザンナが言う。
            「あの人たち? だれのこと?」と、マグダラのマリアが聞く。
            「”裁きの門”(2)にいる兵隊たちのことですよ。あの門から入る人は少ないし、出て来る人は尚更少ないと言われています。私たちはただではすみませんよ」
            「なぜ? 私たちを知っているわけではないでしょう。過越祭を終えて、自分の村に帰る五人の女にすぎないと思うでしょう」
            「でも、危険を冒すことはないでしょう。もしもということもあるのですから…。石壁にそって回って、他の門から入りましょうよ」
            「ただ、遠回りになるだけですよ」
            「でも安心のために水の門から入ってはどうでしょう?」
            「ねえサロメ…私なら東門に行きますよ。東門ならさほど遠回りではないし、何よりもできるだけ早く墓に着いて事を行わなければならないのですから」
             マグダラのマリアが、いつものように、かなりきつい口調で言う。
            「それじゃ、裁きの門は避けて、できるだけ近いもんから入りましょう」
            「それじゃ、皆がそう思っているなら、ヨハンナの家の裏から回りましょう。ヨハンナも今日のことを知らせてくれるように言っていましたからね。もう少し早く出かけていたら問題なかったけれど、遠回りするのなら、ヨハンナの家の方がいいでしょう」
            「…そうそう、ヨハンナはその辺りの番兵を知っていて、敬われてもいるそうですから…」
            「私としては…アリマタヤのヨゼフの家の方に行く方がいいと思うけど…。ヨゼフは墓のある辺りの地主だし…」
            「ねえ…これからは見とがめられないように、ちゃんと列をつくって行きましょうね…」
            「マルタ、あなたは臆病ね…」と、マグダラのマリアが言ってから、こうつづける。
            「でもマルタ、むしろ私はこうしたらいいと思いますよ。私が一人で先に行きますから、あなたたちはヨハンナに声をかけて、一緒にあとから来てください。もし何か危険があれば、私は道の真ん中に立ち止まりますから、あなたたちは引き返してください。
             それに、私はもう一つこれも持ってきました…」と、金貨の入った袋を見せて、
            「番兵たちにこれを配って黙らせましょう」
            「分かりました、ヨハンナにも声をかけます。あなたの言うとおりにしましょう」
            「では、私は先に行きますから」
            「ちょっと待って、マリア、私も一緒に行きますよ」と、マルタが妹の見を案じて言う。
            「いえマルタ、あなたはアルフェオのマリアと一緒に、ヨハンナの家に寄ってください。サロメとスザンナは先に門に行って、門の外で待っていて、それから一緒に来ればいいと思いますよ。それでは」
             そう言ってマグダラのマリアは、香油の壷と金貨の袋をかかえ、色々な不安を吹き払うように、足早に去る。空は大分明るくなり、道もよく見えるので、マリアは歩くと言うより走るように裁きの門を通りぬける。だれ一人彼女を見とがめる者はない。
             他の婦人たちは、マリアを見送ってから足を返し、一方の暗い道に入る。その道はシストの附近で、美しい建物が立ち並ぶもっと広い道に出、そこでまた道が分かれる。
             サロメとスザンナは、その広い道をまっすぐ進み、マルタとアルフェオのマリアは、そこにある鉄の門を叩く。門番がのぞき窓から二人を見て、扉をひらく。
             二人はそこからヨハンナの家へ行く。
             ヨハンナはすでに、濃い紫の色の服をつけて、準備をととのえている。その服の色のせいで、彼女の顔色は一層青白く見える。
             乳母と女中が香油をねる仕事に精を出している。
             ヨハンナは言う。
            「ああ来てくださったのですね。神様はあなたたちにお報いくださいますように…。
             もし来てくださらなかったら、一人でも出かけるつもりでした。慰めをうけるために…本当に、あの恐ろしい日から、色んな事が変わってしまいました。ですから私は、一人で取り残されたのではないと自分に言い聞かせるために、墓地に出かけて行って、墓石を叩いてこう言うつもりでした。
             ”先生…あわれなヨハンナを、一人ぼっちで残さないでください”…」
             そう言って、さめざめと泣く。
             女主人のヨハンナが、マントを羽織って身支度をしているときに、その背後にいた乳母のエステルが、何か合図を送っているが、私にはその合図の意味が分からない。
            「それじゃエステル、私は出かけますからね」と、ヨハンナが言う。
            「神様があなたを慰めてくださいますように…」と、エステルが言う。
             ヨハンナが他の二人の女と一緒に邸宅の門を出たその時、突如、短いが強い地震がおこる。金曜日以来の出来事に動転し、混乱しているエルサレムの人たひは、この地震でまた恐怖におとしいれられる。
             三人の婦人たちは、あわてて来た道を引き返し、広い門の中で右往左往しながら揺り返しをおそれて恐怖に叫び声をあげている下男や下女と一緒になる。
             マグダラのマリアの方は、強い地鳴りに追われるように、アリマタヤのヨゼフの地所に入る。
             細い道の向こうだけが暁の紅色に染まり、空にはまだ消えない星が一つ残っている。その星によって、今まで薄紫であった大空が、一面黄金色となり、大きな燃えるような光のかたまりが、天空を切って下る。
             マグダラのマリアはその光を受けて地面に倒される。倒れながらも、
            「わが主よ…」と、つぶやく。
             嵐のすぎたあとの木の枝のように、彼女はすぐさま立ち上がり、菜園の方に向かって走る。
             追われる小鳥のように、巣を求めて飛ぶ小鳥のように、マグダラのマリアは、石の墓に向かって走る。
             だがその時すでに、天の星は重い岩を支える敷石を、ごう音と共に一撃のもとに転ばし、その地鳴りと地響きで、番をしていた兵隊共は死んだようになぎ倒される。
             マグダラのマリアが息せき切って着いたのは丁度その時で、役立たずの兵隊たちが、まるで刈り取られた麦のようにそこになぎ倒されているのを目にする。
             彼女はその地震が主の復活であるとは夢にも思わず、だれかがイエズスの墓を荒らしたから、そのための神の罰であると思いこみ、地にひれ伏して叫ぶ。
            「ああ、何てことを! だれかが主を盗んでいった!」
             入口の開いた空の墓を見て、彼女は打ちひしがれたように泣くばかりである。
             が、そのうち、このことをペトロとヨハネに知らせねばと気を取り直し、また走り出す。婦人たちと会う約束のあったことをすっかり忘れていたのに気付いたのは、しばらくしてからで、はたと足をとめたが、また走りつづける。裁きの門をぬけ、人が不審の目を向けるのにも気付かず、家に向かってただひら走りに走る。
             家に着くと、狂ったように門扉を叩く。
             女中が扉を開けると、息を切らしてきく。
            「ペトロとヨハネはどこ?」
            「あそこです」と、女中が高間を指さす。
             マグダラのマリアの突然の現れに、その様子にびっくりしている二人に向かって、今見てきたことを話しはじめる。近くの部屋の母マリアを気にしながら、小声で口早に言う。
            「主が墓から運び出されています。だれが、どこに連れていったのかは分かりません…」
             そう言い終わると気がゆるんだのか震え出して、倒れないように机の角をつかむ。
            「何だって?…」
            「どうした?」と二人は口々に聞く。
            彼女はあえぎながら答える。
            「私は皆より一足先に墓に行きました…番兵に邪魔されないように金貨の袋をもって行き、彼らを黙らせようとしました…ところが彼らは、墓の辺りで死んだようになぎ倒されていて、墓は石がはねのけられ、中は空っぽでした…だれの仕業でしょうか、すぐ見に行ってください…すぐ…」
            ペトロとヨハネはすぐさま部屋を出て走り出す。マグダラのマリアもついて走ろうとしたが、ふと何かを思い出して足を止め、女中をつかまえて肩をゆすり、
            「母マリア様の…」
             その方にあごをしゃくり言う。
            「母マリア様のところにだれも近づいてはいけませんよ。女主人の私の命令ですからね、分かった? あなたは口を閉じて、だれにも何も言ってはいけません。よろしいね…」
             それからペトロとヨハネのあとを追いかけ、墓に急ぐ。
             その間、スザンナとサロメとは、友達と別れて城壁に達したとたん、地震におそわれる。恐れて近くの大木の下に避難し、どうしようかと迷う。墓の方に早く行かねばならないけれど、この地震がまだ襲って来るかもしれない。ヨハンナの家へ引き返して、他の人たちと一緒に、ちょっと様子を見ようか、しばらく思い惑ったが、やはり墓に行く方が大切だと思い定め、そちらに向かう。
             こわごわならがら菜園まで来てみると、番兵たちが気絶して倒れているのが見える。ますますこわくなって、墓の方を眺めると、墓穴はぽっかりと開き、そこから光が射している。
             さらに驚きを深めて、互いに勇気づけるように手を取り合い、墓に近づいて中をのぞく。すると、明るい墓穴の香台のそばに、光り輝く一人の人が座っているのが見える。その光る人は、彼女たちを見てやさしく微笑する。
             二人はびっくりしてそちらに目を吸いとられる。その光る人が香題の石の右にもたれると、その石は光って燃えつきて消滅する。
             二人は思わずひざまずく。
             その時、光る人、天使がこうやさしく言い始める。
            「私を恐れることはない…私は、主の御苦しみが終わったことを喜んで告げるために来た”苦しみの天使”(3)である。キリストの死の苦しみは、もう終わった。あなたの捜しているナザレトのイエズス、十字架につけられたイエズスはここに納められたが、すでによみがえり、もうおいでにならない。
             私と共にそのことを喜び、ペトロと弟子たちに伝えなさい。主はよみがえってここを去り、みなより先にガリラヤに行かれ、みなを待っていると。しばらくの間であるが、その地で主に御目にかかれると。これが主の御申しつけである」
             ひざまずいていた婦人たちは立ち上がり逃げるようにその場を去ると、途中で足を止め、おびえた目を交わす。

             つづく

            (1)マテオ28・1~10、マルコ16・3~7、又は2・8、ルカ24・2~12、ヨハネ20・1~18。
            (2)羊の群れの門、神殿の傍らにあるエルサレムの一つの門。
            (3)マテオ28・1~10、マルコ16・2~8、ルカ24・4、ヨハネ20・1~18。
            この著作の最初の時にマテオとマルコが指している天使と、ルカとヨハネが指している天使は同一のものである。天使は一人である。
             

            『聖母マリアの詩』(下)より 「45 イエズス、母に現れる」

            2013.10.08 Tuesday

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              マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』(下) あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
              45 イエズス、母に現れる
               いま、マリアは顔を伏せ、地面にひれ伏している。なぎ倒された何かあわれなもののようで、自分も言うように、立ち枯れの花のように見える。
               閉まっていた重い窓が大きな音を立てて開き、日の出の光(1)とともにイエズスが入ってくる。窓が開く音に頭を起こし、どんな風なのか見ようとして、マリアは光輝くわが子を見る。美しい、苦しみの時の前よりもずっと美しいほほえみ、生き生きとして、太陽よりも明るい光にあふれ、光で織られた白い服を着たイエズスが自分の方に近づいてくる。マリアは起き上がってひざまずき、胸で手を交差させ、ほほえみながらも涙声を出した。
              「主よ、私の神よ」
               そして、イエズスをまじまじと見つめると、うっとりし、顔には涙のあとが幾筋もあるが、ほほえみと脱魂で明るく、全くの平和に浸る。
               だが、イエズスは、母が婢(はしため)のようにひざまずいているのを見ようとせず、「母様!」と呼んで、手を差し出す。
               すると、イエズスの傷跡から、栄光のその体をもっと光あふれるものにする光線が流れ出た。
               イエズスの声は、受難の前の対話と別れの悲嘆にかきくれたことばでもなく、カルワリオでの出会いの時や、臨終の時の引き裂くような悲痛な声でもない。それは、勝利、喜び、解放、祝い、愛、感謝の叫びである。
               イエズスは、自分にあえて触れようとしない母の方にかがみ、曲げたままのひじを抱えて立たせ、抱きしめて接吻する。
               まさにその時、マリアは夢ではなく、”実際に”よみがえった子、自分のイエズス、子として母を愛している自分の産んだ子供を実感する。一声叫んでイエズスの首に抱きつき、笑い泣きをしながら抱きしめて接吻する。もう傷跡の残っていない額に、もう髪も乱れておらず血まみれでもない頭に、輝く瞳に、元どおりなめらかになった頬に、もうはれの引いた唇に、接吻する。それから手をとって甲とたなごころに、光り輝く傷に接吻すると、急に足元にかがみ込み、輝く服のすそをひょいと上げて、足にも接吻する。
               立ち上がると、自分のイエズスを眺め、何か遠慮しているような様子でもじもじしている。イエズスはそうと察してほほえみ、服の胸を少し開く。
              「母様、ここに接吻しないのですか。あなたをひどく苦しめ、あなただけに接吻してもらいたいこの傷に…母様、心臓に接吻して。あなたの接吻は、すべての苦しみの最後の思い出を打ち消し、復活者の私の喜びにまだなお足りない歓喜を与えます」
               こうして母の顔を自分の両手ではすむと、脇腹の傷に母の唇を寄せる。そこからほとばしる強烈な光。
               その光にマリアの顔が浸され、円光がかかっているようである。マリアは、イエズスに愛撫されながら接吻する。そのまま接吻を続けるが、ちっとも疲れない。泉に口をつけて、そこから命を飲む渇き切った人のようである。
               「母様、今すべてが終わりました。これ以上、あなたの子のために泣く必要はありません。試練は終わり、贖いはもう行われました。母様、私を宿し、育て、生きるときも死ぬときも私を助けてくださったことを感謝しています。
               私は、あなたの祈りが私にやってくるのを感じていました。
               その祈りは、苦しみのときの私の力、この世での、またこの世のかなたまでの私の旅の仲間でした。
               その祈りは、十字架まで、リンボ(2)まで、私と一緒に来ました。
               その祈りは、死ぬことのない宮殿、私の天に導くために、下僕たちを迎えに行っていた大司祭の前に煙る香でした。それは私と一緒に天国(3)まで来ました。贖い主に案内される贖われる人々の長い行列の先頭に立つ天使の声のようで、それによって天使たちは、自分の国へ戻る勝利者にあいさつするために集まってきました。
               その祈りは、父と聖霊とに見られまた聞かれ、父と子とは天国で生まれた最も美しい花を見、最も優しい歌を聞いたかのようにほほえみました。
               その祈りは、太祖たちと新しい聖人たちも聞きました。私のエルサレムの最初の市民がそれを聞き、そして、母様、私は彼らの感謝とともに親戚の接吻と、あなたの心の配偶者ヨゼフ(4)の祝福を持ってきました。
               母様、聖なる母様! 天を挙げて、あなたにホザンナを歌っています! 死ぬことのないホザンナ、数日前に私が聞いたあの偽りのホザンナではないそれを。
               いまから、私は人間の姿をして父のところへ行きます。天国は、人間の姿をも持つ勝利者を見るべきです。なぜなら、それでもって人間の罪(5)に打ち勝ったからです。しかし、また後で戻ります。私は、未だ信じない人々を、他人を信仰に導くための信仰を固め、世間に抵抗するために多くの力を必要とする弱い人々を強めなければなりません。それから天国に昇ります。
               しかし、母様、あなたをひとりぼっちで残しはしません。あのヴェールをごらんなさい。私が全く虚しくなたとき、あなたのために、あなたに慰めを与えるために奇跡の力を発揮しました。いま、あなたのためにもう一つの奇跡を行います。あなたは御聖体の秘跡において私を宿していたとき(6)と同じように、私を持ちます。あなたはひとりぼっちになるはずがありません。この何日間はそうでしたが、私の行った贖いにはあなたのこの苦しみも必要だったのです。贖いの業には、絶えず多くのことを加えていくべきです。なぜなら、罪は絶えず新たな悪の業に呼びます。でも、あなたはすべての下僕たちをこの贖いの業に呼びます。でも、あなたはすべての聖人を合わせたよりも、(7) もっと善く、もっと多く、贖いの業に協力しています。そのために、この長い放棄も必要だったのですが、今は違います。
               もう私は父から離れません。あなたも子から離れることはありますまい。それに、子を持てば、われらの三位一体を持つわけです。生きる天であるあなたには、地上に、人間の中に三位一体をもたらし、司祭たちの女王で、キリスト者たちの母であるあなたは、教会を聖ならしめます。それから、私はあなたを迎えにきます。そうした時には、もはや、私があなたの中にではなく、あなたが私の国で私と一緒にあって天国をより美しくします。
               母様、今は行きます。もう一人のマリア(8)を幸せにするために。それから父のところへ昇り、その後で信じない人々のところに来ます。
               母様、祝福としてあなたの接吻を。そして私の平和をあなたの仲間として残します。さようなら」
               話し終わると、イエズスは晴天の朝の押し寄せてくるような光の中に姿を消した。

              (1)最高の永遠の光(イザヤ60・19~20、ヨハネの黙示録21・23、22・5)であるイエズスが暁によみがえったことは、福音書によく表れている(マテオ28・1、マルコ16・1~2、ルカ24・1、ヨハネ20・1)。九世紀以前にさかのぼるラテン典礼の復活祭の賛歌にも、よく歌われている。
              (2)アブラハムのふところ(ルカ16・22~23)、古聖所とも言う。キリストの贖い以前の太祖らと、旧約の聖人たちのいた所(エフェソ4・9。ペトロ第一3・18~20)。
              (3)天国について話す新約聖書の個所は無数にあるので、その中の幾つかを載せるにとどめる(マテオ7・13~14、18・8~9、2・21~14、 25・31~46。マルコ9・42~49、10・17~31、12・18~27。ルカ16・9、18~30、20・27~40。ヨハネ3章、5・19~47、6・24~71、8・48~51、10・22~30、11・1~54、17・1~5。使徒1・6~11、13・44~52。ローマ2・1~10、6・20~23、8・18~27。コリント第一15章。コリント第二4・7~5・10。ガラツィア6・7~10。エフェソ1・3~14、4・1~6。フィリッピ1・21~26、3・17~21。ケサロニケ第二2・13~17)など。
              (4)聖ヨゼフは、聖母マリアのまことの浄配であったことを指す美しい表現である(マテオ1・18~25。ルカ1・26~38)。
              (5)人間の罪に打ち勝った人間の姿(フィリッピ2・7)、イエズスはまことの神で、またまことの人間である。神と全く一致している人間として、人間を贖った。
              (6)御聖体の秘跡。この著作は、すべての時代の教会の信仰を繰り返している。パンはキリストのまことの体に変わり、ぶどう酒はキリストのまことの血に変わるという愛の奇跡、御聖体を指す。
              (7)キリストの贖いとは、遠い昔に行われた静力学的なものかのように考えるべきではない。新しい人類の頭キリストが実際に人間を贖ったが、人間の絶えざる罪のために、この贖いはこの世が終わるまで、何よりもまず聖母マリア自身とすべての聖人とがこれに協力し続けなければならない。
              (8)マグダラのマリアのこと。


               

              4 イエズス聖母に現れる

              2013.10.08 Tuesday

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                マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
                4 イエズス聖母に現れる
                 母マリアは顔を床に伏せて、前にも言ったように水気を失ってなえてしまったかのように、打ちのめされた姿でひれ伏している。窓に何ものかが激しく打ち当たるような音がして、その時”最初の太陽の光”(1)と共にイエズスが入ってくる。永遠、最高の光のよみがえりは福音書にもちろん記されているが、九世紀ごろに下ったローマの典礼に、次のような賛歌がある。そのはじまりの三句はこうである。

                  「天空には賛美のうたが響き、
                   世は勝利に喜び、
                   愛とおそれにふるえる…」

                このいと強き主は、生命の暁に、太祖のむれに引かれて死の洞穴を出、あとに残るのは、番人たちと石の積み重ねだけである。勝利者は勝利をうたい、墓には死がのこるのみとも、そこではうたっている。
                 すさまじい音にはっと頭を上げた母マリアは、風でも出たのかと、窓を見上げる。その時、そこに現れたのは、傷あと一つなく、生き生きとした光輝く御子イエズスの姿である。
                 太陽よりも光輝く糸で織り上げられたような、白光を放つ服をつけたイエズスは、微笑を浮かべて母マリアに近よる。
                 母マリアは膝をついたまま、腕を胸の上に十字に合わせ、まるで泣き笑いのような声で、
                「主よ…私の神よ…」とつぶやく。
                 それから涙のあとの残った頬に、徐々に明るい微笑がひろがる。
                 イエズスは、はしためにようにひざまずいたままの母の方に向かい、御傷から光線を発するその手を母の方にのばして、「私の母よ…」と、一言いわれる。それは受難前の離別と悲しみにみちた声ではなく、カルワリオの臨終の際の苦悶の叫びでもない。
                 勝利者の愛と感謝の響く声である。わが子を目の前に見ても、まだ立ち上がる勇気の出ない母の前に、イエズスは屈みこんで、彼女をかかえて立ち上がらせ、胸に抱きしめて接吻する。その時はじめて母マリアは、幻でも夢でもないまことのわが子イエズスを見ているのだと知って、「ああ…」と、ため息のような声を上げると、彼の首に手をかけて抱きつき、涙の中で微笑しながら、イエズスに接吻する。彼のひたいにはもう傷のあとはなく、血まみれの毛髪がからみついていた頬もなめらかに光輝いている。母マリアはさらにイエズスの両手をとり、傷あとから光を発するその手のひらと手の甲に接吻する。また突然屈みこんで、純白の服のすそをあげてその足に唇をつけ、また立ち上がるけれど、まっすぐわが子を見つめることはできない。
                 イエズスは母マリアのその様子を見て微笑し、自分の服の胸をひらいて言う。
                「ここは接吻しないのですか、母上? あなたは苦しんだ…あなただけがここに唇をつける値打ちのある人です。あなたが接吻すれば、これまでのすべての苦しみは消え去り、よみがえった私の喜びにさらに喜びを加えることになるのです…」
                 イエズスは母マリアの頭をかかえ、光輝く胸の傷あとの上に近づける。イエズスが母マリアの頭を撫でつづける間、彼女は光の中から頭を動かさず、まさに渇えて死のうとしていた者が、泉の水を見つけて飲みつづけるように、そこから喜びを吸おうとする。
                 そのとき、イエズスは言う。
                「もうすべては終わったのですよ、母上、あなたがわが子のために泣いた試練の時は終わりました。贖いは実現しました。私を養い育て、生きる時も死の時も助けつづけて下さったあなたに、何と感謝すればよいのでしょう。
                 あなたの祈りは、私のところに届いていました。地上にいた時も私の苦しみを支える力でありましたし、私と共に十字架を担い、それを越えて死の国に至った時も私と共にあったし、あなたの涙は私と一緒に天の国まで昇りました。
                 贖い主が導いていく贖われた人々の先頭に立って、あなたの祈りは天使の声のように、勝利者の勝利を準備するものでした。 また、あなたの涙は、天に生まれた一番美しい花として、御父の霊にとどき、御父に受け入れられました。あなたの祈りには、太祖たちも、エルサレムの最初の私の聖なる者たちもみな感謝し、”あなたの配偶者ヨゼフ(2)”と共に祝福しました。
                 天の国は、私の母マリア、あなたにホザンナを歌っています。私の聖なる母マリアに、天ではホザンナを歌いつづけ、そのホザンナは、何日か前に聞いたあのホザンナとは全くちがう永遠のものです。
                 私はこの人間の体のまま、御父のもとに昇ります。天では、人間の罪に打ち勝ったこの勝利者を、人間の姿で見ることでしょう。
                 それからのち、私はまたこの世に来ます。それは、まだ信仰を知らないものを呼びおこし、世間に抵抗できるだけの力を与えるためです。それから私は天に昇ります。けれども、母上、あなたを一人ぼっちにしてはおきません。ちょっと、あのヴェールをごらんなさい。私が殺されたあの時も、それから引きつづいて、あれはあなたの”奇跡のちから(3)”となりましたが、さらにあなたを慰めるために、もう一つの奇跡を行いましょう。それによってあなたは、私を抱いておられた時と同じように”現実の私(4)”を見ることができます。
                 ですから、これからあなたは、一人ぼっちではありません。この何日間は一人で苦しみ抜いて来られたけれど、実は”私の贖い(5)”には、あなたのその苦しみも必要な条件でした。
                 私は自分の”しもべたち”みなを、この贖いに加わるよう呼びかけますが、あなたはそれら皆の人よりも、はるかに力のある”人(6)”です。
                 もう私は、御父と離れてはいません。と同時に、あなたも御子から分かれることはありえないのです。言い換えるとあなたは、御子によって、三位一体を有することになります。
                 あなたは生きている天国であり、地上において三位一体を担う者であり、司祭職の女王であります。そうしてキリスト者の母であるがために教会を聖とする者であるわけです。
                 そしてのち、私はあなたを迎えに来ます。その時には、あなたは私の国において、天国をより美しいものとしてくださるでしょう。
                これから私は、もう一人のマリア(7)を慰め幸せにするために行きます。それから、御父のもとに昇り、信じることの少ない人々を助けに下るでしょう。
                 さあ、母上、私に祝福の接吻をしてください。私の方からは、また仲間として私の平安をここに残します。では…」
                 そう言って、イエズスは雲一つない朝の太陽の下に姿を消す。

                (1)イザヤの書60・19~20、ヨハネの黙示録21・23、22・5、マテオ28・1、マルコ16・1~2、ルカ24・1、ヨハネ20・1。
                (2)マテオ1・16~25、ルカ1・1~38。
                (3)ヴェロニカのヴェールを暗示している。
                (4)聖体の秘跡。
                (5)イエズスの行った贖い。たえず多くの罪があるからには、贖いにも多くの状況が生まれてくる。
                (6)カトリック教会が、啓示の遺産にふくまれているのであるから、贖いは遠くて静止したものではない。イエズスが行った贖いは神なる御父の行われた贖いであるにしても、世の終わりまで、主のすべての同志、特に聖母マリアの協力が加わる。神の働きと、人間の協力、この両面を見てこそ、洗礼の必要性と効果がよりよく理解される。
                (7)マグダラのマリアのこと。
                 

                3 復活

                2013.10.02 Wednesday

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                  マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
                  3 復活

                   夜霧がかすかに光るだけ、菜園は静まり返っている。
                   夜中、その上にひろがっていた濃紺の星空は、その一部をのこして、次第に群青色に変わって行く。東から西へと、まだ薄暗い地上が、夜明けの明るみに占領されて行くのが見える。白い暁の波の下で、弱まりながらも、まだ生き残っている幾つかの星も、一つ、また一つと姿を消し、ずっと向こうの、西の方に二つ三つ残っている小さな星だけが、朝ごとのこの夜明けの奇跡を見つめている。
                   しばらくして、トルコ石のような色をしたなめらかな空に、バラ色の光が一線を画するとき、木々の枝と草の上をかすかな風が吹きすぎて、”さあ、目を覚ませ、一日がはじまった!”と告げるようであるが、はるかに高い糸杉にねぐらをつくる小鳥たちは、まだ目を覚ます気配がない。
                   特に何事もなく日が過ぎて、退屈したらしい番兵たちは、寒そうに肩をすくめて、うたたねをしているように見える。墓の入口は厚い石造りで、目立つところに神殿の判も押してある。
                   番兵は夜の間にたき火をしたらしく、地面には木の燃えかすが残っている。それに皆で何か食べたらしく、食べ残しのものと、ふきとってきれいにした小さな鍋も残っている。彼らは食べてのち、その辺りを散らかしたままで、恐らく徹夜の番をするつもりであったのだろうが、多少楽な姿勢をとれる場所に腰をすえ、つい、うとうとしてしまったのだろう。
                   いま、東の空はすっかりバラ色になっているが、太陽の光のまだ行き渡らない所もある。
                   その時どこか地の底からでも吹き出したように思える一つの星が、千変万化の光線を放ちながら、恐ろしく早い速度で地上に下る。その光のまばゆさに、夜明けの明るい大空も光を失ったように思われる。
                   その光と共にすさまじい地鳴りが起こったので、番兵たちも驚いて立ち上がる。
                   その地鳴りと思えた大音響は、栄光の肉体をとってよみがえるキリストの霊に付き従う天使たちのアレルヤである。
                   星は、墓の入口の鍵を苦もなく落として墓に入る。他の牢番も番兵もみな恐怖に立ちすくんで身じろぎもできない。
                   再び地鳴り震動がおこる。名状しがたい光をおびた星が墓に入った時、暗い穴ぐらの中は光に満たされる。その時、布で覆われた死体に神の霊が入る。
                   だが、これら一連の出来事は、ほんの瞬時のまに、いやそれよりも短い時間に思われる。神の霊があらわれ、墓に入り、そして消えるその、目にも留まらぬ瞬時の出来事の間には、たとえば”私は望む、よみがえれ”と死体に命じる神の御意志さえも、人間にはつかめはしない。
                   ただ、神の御命令をうけて、死の肉体は地鳴りをもって応じる。
                   すぐさま、布に包まれた巻かれた死体は、栄光の肉体と変わり、永遠の美しさによみがえる。死を超えてよみがえった証拠には、まず心臓がめざめ、固まっていた血管に血をおくり、腕が力強く打ちはじめ体温が戻り、あらゆる機能がめざめる。
                   さらにまたたく間のことであるが、死体の布に覆われ、胸に組み合わせてあった手がそして体が動き出す。すでに物質を離れたその超自然的な肉体、神なるものの威厳、重々しさ、輝かしさは、私の目ではとらえ得ない。
                   次に見たのは前に知っていた傷だらけの肉体ではなく、五つの傷から射す光線である。御体全体からも不思議な光があふれている。さらに最初の一歩を踏み出される場面を見ると、その御手、御足の動きにつれて、光の刃のようなものが辺りに散る。
                   茨の冠のあとの無数の傷口から発する光は、御顔のまわりを円い光の輪で包み、胸におかれた手を広げられると、丁度、心臓のあたりが白光を放ち、まさに御体そのものが光である。その光は、私たちが地上で見ているどんな光も及ばないもの、太陽の光さえ光と言えなくするもの、まさに神の光そのものである。
                   イエズスの御体から発するその神秘の光のために、彼の目の青さはますます底知れぬ青さに深まり、毛髪は炎のような色をおび、御服の白さも、言わば天使的な純白に輝く。
                   人の言葉や表現のあわれさは、とてもその様子を言い表すことはできない。言わば、三位一体の超越的な強大な光である。それは私たちが光と呼んでいるすべての光を無力にさせるもの、永遠の時の一瞬一瞬を自らに吸いこみさらに永遠へと至る。天使、聖人、天にあるすべて、神の愛、神への愛、これらが一つとなって、よみがえったキリストの体から発する光となる。復活したキリストが墓の入口の方に進まれると、光の向こう、入口の両側に、天使であろう美しい光が二つ、平伏して主を礼拝しているのが見える。キリストが幸せを薪ながら墓から外へと出て来られると、歓喜にめざめた草の木の露がきらきらと輝き、ようやく姿を見せた太陽の下で、永遠の太陽に向かって、木々の花がぱっと開いてこの歓喜の奇跡を祝う。
                   番兵たちはすでに失神してその辺りに転がっている。人間の目をもってしては、とても神を見ることはできないが、自然の草木や鳥たちは、太陽の光のくもに包まれて、感動の声をあげる。イエズスのやさしい目が木々や花々に留まると、彼らはそれにこたえ、空を見上げればその青さが一際澄みわたる。
                   露はダイヤモンドよりも光り、なめらかな花びらを一杯にひらいた花園のバラを撫でながら、そよ風がうれしそうにたわむれる。
                   イエズスは手を挙げてそれらを祝福される。小鳥はさらに声高くさえずり、風に運ばれた花の香りが、むせるように辺りにただよう。その時イエズスは、私(ワルトルタ)のささやかな苦しみと悲しい思い出と、そしてまた明日への思いわずらいを、一瞬にして消し去ってくださる。あとにのこったのは、たとえようもない喜びだけで、それに全身がつつまれる。

                   

                  2 復活のその夜明け

                  2013.10.02 Wednesday

                  0
                    マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
                    2 復活のその夜明け
                    ―聖母マリアの悲嘆と祈り―

                     ヨハネは母マリアに近づいて言う。
                    「私も来なくてよいと言われました…」
                    「そうですか。力を落とすことはありませんよ、ヨハネ。あの人たちはイエズスと共に、あなたは私と共に…。ヨハネ、ここで祈りましょう。それで、…ペトロはどこにいるのですか?」
                    「…さあ…家のどこかにいるのでしょうが…どこにも見当たりませんでした…実は私は、あの人をもっと強い男だと思っていましたが…もちろん、私も悲しんでいます…けれどもペトロには、二つの苦しみがあるのです…」
                    「あなたの苦しみは一つだけでよかったですね…ペトロのためにも祈りましょう」
                     そう言って母マリアは、ゆっくりと主祷文をとなえ終わり、それからヨハネの肩に手をおいて言う。
                    「ペトロのところに行っておあげなさい。今あの人を一人にしておいてはいけません。ペトロはいま、世間の光をおそれて、たった一人闇の中にいるのです。迷っているあの人の力になり、私たちの道がどこにあるかを知らせてあげなさい。この道は長いのです。そしてあの人に似た迷いに生きる人は、これからも限りなく多くあるでしょう。私たちはそういう仲間と一緒に仕事をはじめるのです…」
                    「…でも私には、何を言ったらいいのか分かりません。何を言っても、彼は泣くばかりです…」
                    「主の定めがどこにあるかをお話しなさい。恐れているばかりでは、まだ神を知ったとは言えません。もし、罪を犯したとしても、神が罪人をどんなにか愛しておられるかをお話しなさい。神さまはその愛のために”御ひとり子”をこの世にお送りくださったではありませんか。その神さまの愛には、私たちも愛をもって答えねばならないでしょう。 愛はまた、神さまへの信頼をよび、その信頼は、神さまの裁きを恐れないようにさせます。
                     私たちがあわれな人間であることを神さまは御存知ですから、だから赦しの保証として、また教えの柱として、キリストをお与えくださったのです。私たちがどんなに惨めであっても、キリストのおそばにどの位近いところにいるかによって、その惨めさは軽くなるのです。赦されるのは、イエズスの御名によってだけです。さあヨハネ、行って、今のことをペトロにも話しておあげなさい。
                     私はイエズスと共にここに残っています」そう言って、手にもった汗拭きの布をにぎりしめる。ヨハネは扉を後ろ手に閉めて出て行く。
                     母マリアは、夕べと同じように床に膝をつき、ヴェロニカのヴェールのそばに顔を近づけ、御子イエズスに話しかけ、祈る。他人に話す時にはしっかりしていても、ただ一人になると、背負った十字架の重みが耐え難いように思われる。
                     それでも、母マリアの心の中では希望の火が消えてはいない。時と共にその火は強くなるように見える。
                     希望の火が消えないように、心を奮い立たせて、母マリアは、父なる神に祈り、わが子イエズスに話しかけつづける。
                    「イエズス…イエズス、まだ帰って来ないのですか?…あわれなこの母は、あなたがまだ死んだままでいることに、もう耐えきれません。
                     ”神の神殿を破壊しても、私は三日でそれを建て直す”とあなたは言ったけれど、だれ一人その真意の分かる者はいませんでした…。私には分かっていましたけれど、よみがえりの三日を待つことなく、あなたに会いたいと思いつづけました。母は生きているあなたに会いたいのです。…あのむごたらしい血まみれのあなたを思い出すにつけても、元気で変わりのないあなたを見たいと思いつづけてきました。
                     ああ、御父よ、神よ、私の子をお返しください。死の世界に入るイエズスではなく、生きている彼に、またお会わせください。
                     確かにイエズスは、あなたのもとに、天へと帰って行くでしょう。罪深い人間のために、あれほどの苦難を受けたイエズスは、やがて御父なる神のもとに、天に行くことでしょう。私はイエズスから離れて、この遠くの地上にいますが、イエズスがあなたと共にいることで、幸せを感じています。
                     けれども、まだ今は、イエズスが神の御子であり、私の子でありながら、人間のように傷だらけの屍を墓に横たえていると思うと…。 御父よ、神よ、どうぞこの”はしため”の願いをお聞き入れください。
                     かつて私は、神よ、あなたの思し召しをうけ、”はい”と答えて、今までそのみ旨を守りつづけ、あなたのみ旨を私自身の望みとして、今まで何一つ私の方からお願いしたことはありませんでした。私の意志をあなたのみ旨へのいけにえとしたからには、何も私から願うことはありませんでした。
                     けれども今、私はお願いいたします。かつてあなたの天使に”はい”(1)と答えたその答えによって、どうぞ私の願いをお聞きください。
                     イエズスは、朝からの拷問に耐え、三時間の苦しみの果てに、臨終の時を迎えました。私は、実にこの三日間、臨終の苦しみを味わいつつ生きてきました。神よ、あなたは私の心を見ておられ、私の内を流れる鼓動の音も聞いていらっしゃいます。前にイエズスから聞いたことですが、鳥の羽の一枚が落ちるのさえ、神は見落とされない。また、野の花の一輪も、神の御目からのがれることはないと教えられました。御父なる神よ、あなたが小鳥に羽をかえし、夜露で小さな喉をしめらせておやりになるのなら、どうぞ、私をも、そのように扱ってください。この何日かで、私は血を失い、凍えてしまいそうです。イエズスの小さいことには、このあったかい血が流れていて、そして乳をつくって、子供を育てました。今はもう、私には子供がいなくなりました。あるのは苦しみと涙だけです。人々はイエズスを、私の目の前で、むごたらしく殺しました。どのような有り様であったかは、あなたがよく見ておいでだったでしょう。
                     あの木曜日の夜から金曜日にかけて、私はイエズスが血を流したのと同じように、体中の血を失ったかと思えるほど、寒さに凍りついています。私にはもう太陽の光もさしません。私は聖なる太陽であったものを失いました。祝された太陽を、母としての私の喜びを支え、世界の救いのために光り輝いていた太陽は、もう見当たりません。
                     イエズスは居なくなりました。イエズスが居ることは、彼のことばは、私にとってこの上なく甘美な泉でした。母としての喜びのもとでもあったその泉が涸れてしまったのですから、私はもう渇き切った砂漠に捨てられた花のようにしおれ、まさに死にかけています。イエズスが死んだ以上、私も恐れなく死を迎えます。
                     ですが、聖なる御父よ、イエズスの周りにいたあの小さな群れは、恐れています。彼らは弱いのです。彼らを支える者がいなくなた今、どうなるのでしょうか?
                     御父なる神よ、及ばずながらこの私が、イエズスの望みにしたがって、武具をつけて、この小さな群れの先頭に立ちましょうか。そうです、イエズスの残した教えを守るために、私は狼となってこの羊たちを守るべきでしょうか。私は”雌羊”(2) ですが、わが子についてきた群れ、また、父なる神の群れでもあるこの人たちを守るために、狼となりましょう。
                     御父よ、あなたもご覧になっていたとおり、今から八日前、この町の人たちは…手に手にオリーブの枝をかざし、”ダヴィドの子にホザンナ、主の御名によって来る者、祝されよ、ホザンナ!”と、声もかれんばかりに叫びをあげたものでした…道は木の小枝や花々が絨毯のように敷きつめられ、イエズスがその上を踏みしめて通るとき、人々は何と言ったでしょうか、あれはガリラヤのナザレトのイエズスだ、あの預言された王だ、イスラエルの救いの王だ、と囁きかわし、やがて大声でそう叫びをあげました。
                     その声の響きがまだこだまとして残り、小枝の葉もまだ枯れてはいないのに、今度はその叫びを訴えと呪いにかえ、イエズスの死を要求するほどになりました。凱旋を祝おうとして彼らが手にしていた枝は、一変してイエズス、”あなたの子羊”を打ち叩く鞭となりました。
                     けれども、その時もまだ、イエズスは私のそばに居ました。”石でさえ震える”と言われたあの目でイエズスは人々を見まわし、話しかけ、ほほえみ、なお心をくだいて教えつづけていました。その人たちは今どうなるのでしょう。弟子たちがどうなっているかも、神よ、あなたは知っていらっしゃいます。弟子の一人はイエズスを裏切り、他のものは恐怖にかられて逃げ出してしましました。彼らは臆病な羊のように逃げ出して姿をかくし、とても、イエズスの死に立ち会うどころではありませんでした。
                     ただ、一番若い一人だけが踏みとどまり、今ではもう一人、年配の男が残っています。でもその男も一度はイエズスを否んだのです。イエズスが居なくなった今、果たして彼は信仰にとどまれるでしょうか。
                     私は無力な人間です。でも、わが子の残したものは、私の中にも生きつづけています。と言っても、私には愛があるからこそ自分の無力さも感じるのです。わが子を失って私は平和を失いました。それでもしっかり根を張って、風に吹き飛ばされないようにしなければならないと、自分に言い聞かせています。
                     私がこの世に残されたのは、これから何か御役に立てるからなのでしょうか。それなら、私はイエズスの道を守りつづけ、やがてその道の人々が団体となって教会ができ、それが力強く、まっすぐに進んでいくように、力をかしましょう。とは言うものの、イエズスが居なくなったのに、そう長く生き残れるとは、とても私には思えません。
                     ああ、御父なる神よ、わが子は死んであなたのもとに迎えられ、この世にはない無上の喜びの中で生きつづけるために、敢えてあのむごい死を遂げたのでしょうが、この私をこのまま見捨てておかれるのでしょうか。私はこの苦しみを人々のために耐え忍ぶつもりではありますが、御父なる神よ、私をあわれみ、慰めてください。あなたに”はい”と申しあげたこの私のことを、御見捨てにならないでください。
                     母マリアは、打ちしおれた花のように、床に倒れ伏して祈る。
                     その時、短時間ではあるが激しい地震が起こる。床で祈る母マリアはそれに気づかない様子である。
                     青ざめたペトロとヨハネが、急いで部屋の戸口まで来るが、母マリアの様子を見て、おびえたように高間に引き上げる。

                    (1) お告げの天使に答えた聖母マリアの返事、お告げの天使の言葉は神の思し召しのメッセージであったから、”はい”と答えることによって、マリアは神への服従の意を示した。ルカ1・26~38。
                    (2) ビザンチンの典礼では、聖母マリアのことを”雌羊”と呼ぶことがよくある。その理由の一つは、聖霊によって神の御子イエズスの母となったからである。マテオ1・16~25、ルカ1・26~38。






                     

                    1 イエズス復活の朝

                    2013.10.01 Tuesday

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                      マリア・ワルトルタ『復活』あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳編より
                      1 イエズス復活の朝
                       婦人たちは庭の木蔭で死者を葬る香油づくりに忙しい。香油と粉を練り固めるそお仕事は、夜を徹してつづけられた。 一方、ヨハネとペトロは、白いサロンの食器類を片付け終え、晩餐の名残りはもう跡形もない。何もかも終わったと、彼らは辺りを見回して思う。
                      「主の仰せられたとおりになった…」と、ヨハネがつぶやく。ペトロがつづける。
                      「主は”目を覚ましておれ”とも言われた。また”ペトロよ、思い上がってはいけない、試練の時はすでに始まっている”とも
                      言われた。…その上また、”お前は私を否むだろう…”とも…」
                       ペトロはそう言って声を押しころして泣く。
                      「ペトロ、もういいではないか。今あなたは自分を取り戻したのだから。もう充分苦しんだのだから…」
                      「いやいや、いつまでたっても、充分とは言えない。昔の太祖のように年とっても、アダムや最初の子孫のように七百年、九百年生きようとも、この辛さが消えることはなかろう…」
                      「あなたは主のあわれみのことを忘れてしまったのか?」
                      「いや、それさえ忘れたら、私はケリオットのユダのように絶望してしまうだろう。しかし、今もし主が戻って来られて、私を赦してくださるとしても、私は自分で自分をゆるせない…。あの時、私は…”その人を知らない”と言ったのだ。…知っていると言えば、自分の命があぶないと思った事だ。主の弟子であることを恥じ、拷問と死をおそれたのだ…主ご自身は死のうとされていたのに…私は自分の命のことしか考えなかった…不倫の子を生んだ母親がその子を自分の子と認めないとしたら、私はその女よりももっと罪深い人間なのだ…」
                       ペトロの激しい悲鳴に近い声を聞きつけて、マグダラのマリアが入ってくる。
                      「騒々しい声を立てないでください。母マリア様の耳にも届いていますよ。マリア様はすっかり疲れ果ててぐったりしていらっしゃるのに、あなたの無分別な悲鳴を聞いたら、前のことを思い出して尚更つらい思いをなさるでしょう。黙ってください!」
                      「ヨハネ、マグダラのマリアの言うことを聞いたか?黙れと私に命じたこの女の言うことは、至極もっともなことだ。あの時…主に聖別された我々男どもは、恐れてただ逃げかくれするだけだった…ヨハネ、お前はちがうけれど…。それにひきかえ、女たhしはしっかりしていた、偉かった…しっかりしなければならないのは、強いと言われている我々男どもでなくてはならなかったのに…ああ、世間の人たちは我々のことを何と言うだろう、さぞかし軽蔑するだろう。そうだろう、それが当然なのだ。 マグダラのマリア、嘘をついたこの私の口をサンダルで踏みつけてくれ。そのサンダルには、主の流された血が、泥にまじってついているかもしれない。その血と泥で踏まれたら、少しは平和を取り戻せるかもしれない……ああ、私は世間の恥さらしだ…一体私は…私はどんな人間なんだ…」
                      「あなたはただ、高慢な人間にすぎないのよ」と、マグダラのマリアが静かに言う。それから続ける。
                      「苦しんでいる…それはそうでしょうが…はっきり言わせてもらえば、あなたの苦しみのほとんどは…全部とは言わないにしても…世間の人々から軽蔑される苦しみだろうと言ってもよいと思いますよ。その上まだ愚かな小娘のように泣き喚くなら、私は本当にあなたを軽蔑します。 してしまった罪は罪です。それを、これから改めるかどうかは、泣き喚くことではないはずです。泣き喚いたら、人はあなたを気の毒に思ってくれるかもしれないけれど、それだけでは何一つ片付きません。本当に後悔し改めたいなら、泣き喚かないでもできます。男らしく耐えてください。 私が…私がどんな人間であったかは、今更言うまでもありませんが、皆知っていることです。でも、私が自分の罪の深さに気付いた時でも、泣いたり叫んだりはしませんでした。皆の同情をひくようなこともしませんでした。世間の人たちは私を軽蔑しましたけれど、それは私の受ける当然のむくいでした。私は皆からあざけられて当然のことをしてきたのですから…。私が主に近づいて行いを変えてからも、軽蔑の視線は変わりませんでした。私がそれまでにどんな生活をしてきたかは皆知っていましたから、主のおそばに仕えても、色々な中傷がありました。でもそれは至し方がないので、私は自分の実際の行いでその軽蔑を一つ一つ消していくより方法はなかったのです。あなたも、叫ぶことをやめて、行いで後悔を示して下さい…」
                      「マグダラのマリア、あなたは厳しすぎますよ」と、ヨハネが執りなすように言う。マリアは続ける。
                      「他人に対してより、自分自身にもっと厳しくあれと思って私はやってきました。厳しい…それは本当でしょう。私には、御母マリアのような、愛にみちた母の心はないのかもしれません。私、ああ、私は、自分の意志を激しくきたえて、感情を抑えつけてきました…これからもそうするつもりです。私が…自分の過去の淫らな生活をゆるしたと思いますか?いいえ、いつまでも記憶に繰り返して忘れてはいません。主からその罪をゆるされ、ゆるされたばかりか更に大きい慰めを与えられてからも、秘められた後悔という傷を負って生きています。ご存知でしょう、私は他のだれよりも熱心に、香油づくりに働きました。亡き主の御体にぬる香油をつくるために。その上、だれよりも勇気をもって、主の体をおおっている布をはいで、主の葬りの準備をしましょう。ああ、神さま…どんな姿になっておいででしょう…」
                       マグダラのマリアは、その有り様を考えただけで青ざめる。
                      「数知れない傷あとは、きっと腐敗していることでしょう。前にぬった香油をきよめてから、新しい香油をぬります。他の婦人たちは、雨にあった昼顔みたいになっているでしょうから、私がやらねばなりません。けれども、かつて乱交にあけくれたこの手で、主の御体に近づくのは、本当に心苦しいのです。できれば、汚れのない御母マリアのような手で、主の葬りの注油をしてさしあげたい…」
                       マグダラのマリアは、静かに涙をぬぐう。
                       「私は信じましたし、これからも信じつづけます。ですから、今日の日のために服も準備しました。もう三日目ですから、それをもって行きます…」
                      「だが、あなたは、主が腐ってひどく見苦しくなっていると思っているのでしょう」
                      「…いえ、そうではありません。見苦しいのは罪だけですから。でも、腐っているでしょう」
                      「じゃあ、どうするんです?」
                      「お黙りなさい! 信仰を忘れたのですか? ラザロはすでに腐敗していたのに、それでもよみがえりました。私も人間の理性が、”主は死なれたのだから、もう復活はしない”とささやく声を聞いています。けれども、主から授かった私の新しい霊は、銀のラッパのような高い音を立てて、”いや、主は復活される、必ず復活される”と告げるのです。私はその音を聞いています。それなのに、なぜ、この私をも、あなたたちの疑惑の断崖に釘づけようとするのですか!
                       私は信じます。主よ、私は信じます。ラザロは深く心を痛めながらも、主のお言葉に従って、ベタニアに止まっています。私はラザロがどんな人間かをよく知っています。決して愚か者でも弱虫でもありません。ですから、主のおそば近くではなく、辛くともかげにかくれている犠牲の道をえらびました。それは武装した兵士たちの手から主を奪いとろうとするよりも、もっと英雄的な行為です。
                       私も母マリア様と同じように待っています…さあ、もう出かける時です。夜が白みはじめて来ましたから。これから私たちは
                      主のお墓に向かいます。」
                      マグダラのマリアはそう言うと、涙で腫れた顔をきっと上げて、去って行く。
                       それから母マリアの部屋に入る。母マリアは尋ねる。
                      「…ペトロはどうしたのですか?」
                      「興奮して泣き喚いていただけです。でも、もう静まりました…」
                      「マリア、そう厳しい態度をとらないで…ペトロは苦しんでいるのですよ」
                      「そうです、そして私も! でも母マリア様、ともかく、私にできるかぎり、彼を慰め、心を静かにさせました……けれども、私の方は、ああ、母マリア様、あなたは私がどんなにか心の慰めを求めているか分かってくださるでしょう…でも今は心を強く持たねばならないと自分に言い聞かせています…。
                       今日はもう三日目です。私たちは二人で、自分の心に閉じこもりましょう。神様から特に愛された聖なるあなたと一緒に、この貧しいあわれな女も、心のすべてをあげて、主を待つことにしましょう。
                       向こうの部屋の人たちは、それぞれの疑問の中に揺れ動いているかもしれません。でも私は、この部屋にたくさんのバラを置き、そして例の箱を宮殿から運ばせてきて、そこにこの恐ろしい事実のすべてを納めましょう。復活される主にそれをお見せしたくありません。
                       それからマリア様、あなたは新しい服をお召しになってください。このままの姿で主にお会いになってはいけません。私が、あなたのやつれたお顔を洗い、髪を梳きましょう。永遠の処女なるマリア様、どうぞ、私にあなたの母代わりの役をさせてくださいませ。清らかな、愛らしいあなたの身づくろいをさせていただけるなら、こんな光栄なことはございません。」
                      そう言いながら、腰掛けている母マリアの頭を抱き、やさしく髪をなで、自分の麻の服で彼女の涙をふきとる。
                       そのとき、広口のびんやその他のものを持って、婦人たちが入ってくる。かなり重そうな大鉢をかかえたアルフェオのマリアが言う。
                      「…外では風が出てきましたので、内に入れていただきました。灯りが消えそうだったので…」
                       婦人たちは持ってきた物を細長いテーブルに並べ、それから仕事にとりかかる。
                       先ず大鉢に小袋から出した白い粉を入れ、すでに濃く練り上げてある香油を、広口のびんから出して加える。それを力一杯こねあげて、また広口のびんに戻す。婦人たちは口数少なく、涙を流しながら、その仕事を繰り返す。
                       マグダラのマリアは言う。
                      「私が香油のつくり方をあなたたちに教えたとき、まさか、こんなことで役立てようとは思ってもみませんでした…」
                       それを聞いて婦人たちはまた、ひとしきり泣く。
                       マグダラのマリアの教えたこの香油はひときわ芳香が強く、それが部屋中に立ちこめたので、だれかが庭に面した窓をあける。
                       
                            *    *    *

                      婦人たちは仕事を終えると、からになった大鉢と灯りを一つ持って部屋を出る。部屋に残っている小さな灯り二つが寂しくゆれている。
                       婦人たちがまた部屋に入ってきて、窓を閉めてから、それぞれマントをとりあげ、香油のつぼを大きな布につつむ。
                       母マリアもやっとの思いで立ち上がると、自分のマントを取ろうとするが、それを婦人たちが取り囲んで押しとどめる。
                      母マリアはこのところ、休息も食事もほとんどとらず、泣きながら祈りつづけている。足は弱って立つさえやっとの状態であるから、その上、死んで三日目になる主に会わせるのは、むごすぎると婦人たちは思ったのであろう。
                      「あなたの御様子では、あそこまで歩いて行くのは無理です。母マリア様…」
                      「あなたはこの三日間、水だけしかとっていらっしゃいません…」
                      「そうですよ、母マリア様、私たちがあなたに代わって葬りのお役目を果たしてきます。聖い主の御体を葬る最後のおつとめを、私たちにさせてください…」
                      「御心配はいりません。何一つ見のがさず、香油をぬり、静かに横たえてまいります。私たちはみな母親です。子供を揺りかごに寝させるように、主の御体のお世話をしてきます。他の人が墓の扉を閉じていますまえに」
                       だが、母マリアは言う。
                      「いえいえ、それは私の仕事です。ずっとイエズスを育ててきたのは私です。この三年間は、私の手元を離れて旅をされていましたから、他の人たちの手に御世話をまかせてきましたが、イエズスは世間から排斥されつづけて、こうしてまた、私のもとに帰ってきました。私は”主のはしため”として、その仕事をしなけれがなりません…」
                       その場にいたペトロとヨハネは、母マリアのその言葉を聞いて、そっと外に出る。ペトロは、人目に立たぬところで、自分の罪の深さに泣くために。ヨハネは入口の柱のそばで足を止め、婦人たちと一緒に行きたいのは山々であるが、ここは母マリアと共にとどまる方がよいのではないかと思いまどう。
                       マグダラのマリアは、母マリアを腰掛けに座らせ、その前に膝をついて、やさしい目で見上げて言う。
                      「イエズス様はその霊によって、すべてを見ていらっしゃいます。私が、母マリア様に代わって、主の御体をととのえる時、あなたの愛と望みをしっかりお伝えしてまいります。
                       愛は切実な渇望そのものでもありますから、愛そのものであられる主から片時も離れていられないことは、私にもよく分かります。人間の愛は、それが黄金のように見えても泥のようなものでありましょう。けれども、罪深い私が、あわれみそのものの主に抱いている愛は、母マリア様には分かっていただけるでしょう。普通の人には分からないにしても、私にはその愛が分かっています。まして母マリア様の愛がどんなものであるか、私には理解できると思います。
                       主イエズスによって、私は新しい誕生を果たしました。傾けた鉢から水があふれ出るように、咲きほこるバラのように、燃えさかる炎のように、私は、イエズス様によって生まれ変わり、そして、雪崩のようにイエズス様の愛に流れこんでいます。イエズス様から、新しい力を得たのですから。
                       人間に殺された”生ける神”に向かって、あわれみの主に向かって、私は聖なる愛に燃えつきたいのです。 でも…でもそれでも私は、十字架上の主の身代わりにはなれませんでした…嘲弄のはて、血を流して死なれた主の身代わりになることはできませんでした…。
                       せめて今、あらゆる形で苦しむことが、私の幸せです。私の命の糸が切れ、苦しみによって焼かれて灰になり、新しい生命に生きかえることが、私のこの上ない幸せであり、ただ一つの望みです。
                       イエズス様のために出来なかったことを、これからは、母マリア様、あなたのために致しましょう。愛する母マリア様、どうぞ私を信頼してください。
                       私は主によって贖われ、ファリサイ人シモンの家で、心をこめて主の御足にふれることができました。今の私は、以前よりもっと恩寵に恵まれていると感じています。主の御体に香油をぬることと同時に、心からの苦しみから絞りとった香油で、主の御体のお世話をいたしましょう。限りなく愛を与えてくださった主、その御体には、死さえも蝕むことはできません。死も逃げ出すでしょう。なぜって、”愛は死よりも強い”(1)からです。愛は屈することのないもの、愛は朽ちることのないものです。母マリア様、あなたの全き愛と、私のできる限りの愛を一つにして、主の葬りの準備をしてまいります」
                       母マリアは、マグダラのマリアの熱心な説得に折れる。部屋に灯り一つをのこし、婦人たちは部屋を出る。マグダラのマリアは、母マリアに口づけして、最後に部屋を出る。
                      四月のまだうす暗い夜明けは肌寒い。あたりはひっそりと静まり返っている。ヨハネがマグダラのマリアに聞く。
                      「私が役に立てることはないのですか? 本当に?」
                      「大丈夫です。あなたはここに残って、母マリア様のお役に立つことをしてください…」
                       そして一同は、マントを身にまとい黙々として墓に向かう。

                      (1) 雅歌8・6。


                       
                       
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