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    エクソシストは語る-2

    2013.09.29 Sunday

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      ガブリエル・アモース著『エクソシストは語る』エンデルレ書店刊より

      サタンの力
      付録1(p52~p56)

      教皇レオ十三世が目にされた悪魔のまぼろし

       第二バチカン公会議による刷新の前には、ミサが終わるたびに司式者と信徒はひざまずいて聖マリアと、大天使聖ミカエルへの祈りを一つずつ唱えたことを記憶している方はたくさんおられることでしょう。これは実にすばらしい祈りでそれを唱える人たちすべてに大きな恩恵をもたらしてくれます。

        大天使聖ミカエル、戦いにおいて我らを守り、
        悪魔の凶悪なるはかりごとに勝たしめたまえ。
        天主の彼に命を下したまわんことを伏して願いたてまつる。
        ああ、天軍の総帥、霊魂を損なわんとて、
        この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、
        天主のおん力によりて地獄に閉じこめたまえ。 アーメン。

       この祈りはどのようにして生まれたのでしょうか? ここに記載するのは1995年に報道された「エフェメリデス・レタージカ」誌の記事です。
      ドメニコ・ペチェニーノ神父記「正確な年は記憶していません。ある朝、教皇レオ十三世がミサを捧げられ、いつもどおり感謝の祭儀に出席されていました。すると突然、出席者は教皇が頭を上げられ、身動きも瞬きもされずに司式者頭上にある何かを凝視しておられるのに気がつきました。教皇の表情には恐怖と畏怖が混ざり合っており、顔色と顔つきが急激に変化したのです。ただならぬ重大な何かが教皇に起こっていました。
       やっと正気を取り戻されたかのように教皇は軽く、しかししっかりと手を打って立ち上がられ、ご自分の執務室へ向かわれました。心配した随行員たちが気遣って、ささやきを交わしながら教皇のあとに続きました。
       『教皇様、ご気分でもお悪いのでらしゃいますか? なにかお入用なものはございませんか?』『なにも要らない、なにも』と教皇は答えられました。三十分ほどしてから、教皇は礼部省(現・列聖省および典礼秘跡省)の書記官をお呼びになると一枚の紙を手渡され、それを印刷して世界中の裁治権者たちに送るよう求められました。その紙はなんだったのでしょうか? それこそ各ミサの終わりに必ず人びととともに唱える祈りだったのです。聖マリアへの願いと、天軍の総帥への熱烈な祈りで、サタンを地獄へ送り返してください、と神に嘆願するものでした。教皇レオ十三世は、それらの祈りのあいだはひざまずくように指図されました。そのとき報道された記事は1947年三月三十日、ラ・セッティマーナ・デル・クレロ紙に掲載されましたが、その情報の出所は伏せられていました。 しかし、その祈りが1886年に特別な状況の中で、実際に裁治権者たちに送られたことは立証できます。信頼できる証人であるナサリ・ロッカ枢機卿が1946年、ボローニャの教区に宛てた四旬節の司牧書簡の中で記しています。『教皇レオ十三世ご自身が書かれた「霊魂を損なわんとて、この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔」という祈りの文には、聖下の私設書記官モンシニョール・リナルド・アンジェリによって幾度もくり返された歴史的説明があります。レオ十三世は、本当にまぼろしの中で永遠の都市ローマに集まって来ようとしていた悪霊をごらんになったのです。教皇様が全教会に唱えるよう願われた祈りは、その体験の成果でした。 聖下は強く、力に満ちた声でその祈りを唱えられました。わたしたちはバチカンのバジリカの中で幾度となくそれを聞きました。レオ十三世はまた、個人的にローマ典礼儀式書(1954年度版 II C, III,P.863)に含まれている悪魔祓いを書かれました。聖下は司教や司祭たちに彼らの教区および、小教区でこれらの悪魔祓いをしばしば読むように薦められました。教皇様ご自身が一日中、よくそれを唱えておられたものでした』」
       もう一つの興味深い要素が、わたしたちがミサの終わるたびに唱える習慣になっている祈りの価値を証明してくれます。ピオ十一世がロシアの回心のための特別の意向を加えられました(1930年六月三十日の教皇訓示)。この訓示の中で、ロシアのために祈ることと、ロシアにおける宗教への迫害を皆に指摘した後、教皇は「わたしたちの偉大な先駆者であるレオ十三世が全司祭および信徒はミサの後、ロシアの回心という特別な意向のために祈るようにと指導された祈りを明らかに公示し、「すべての司教と司祭たちが聖なるいけにえの儀式に出席している人たち全員に知らせ、皆に始終そのことに気づかせましょう」(Civilta Catholica,1930, vol.3)という言葉で訓示をしめくくられました。
       ご存知のように、教皇方はわたしたちのあいだにあるサタンのおぞましい存在についてしばしばわたしたちに注意されます。それに加え、ピオ十一世の薦めは、わたしたちの世紀に非常に広く行き渡っており、神学者だけでなくすべての人たちの生き方を毒し続けている誤った教義の核心を攻撃します。ピオ十一世の指令が行われていないということは、それを履行すべき任務のある人たちの責任です。これらの指令はファティマの聖マリアのご出現が世界中に知られる前に出され、それらは、主がこうしたご出現を通じて人間性を祝福されるカリスマ的なできごととは無関係であるにしても、それを大切にするのはすばらしいことです。」 

      エクソシストは語る

      2013.09.29 Sunday

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        ガブリエル・アモース著『エクソシストは語る』エンデルレ書店刊 2007年初版より

        キリストが万物の中心(P28〜 P50を抜粋)

        … あらゆるものをキリスト中心として考えると「子は万物の先に存在し、万物はかれによって存在する」神のご計画を知ることができます。また、敵対し、誘惑し、非難するサタンの働きを知ることができます。サタンは誘惑と、悪と、苦痛と、罪と、死の手段によって、この世に入ってきました。キリストが御血という代価を払って達成された神のご計画の修復を見ることができるのは、この状況においてです。
         この状況により悪魔の力に気づかされます。イエスはサタンを「この世の頭」(ヨハネ12・31,14・30、16・11)と名づけておられます。ヨハネは「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属するものですが、この世全体が悪いものの支配下にあるのです」(第一ヨハネ5・19)と断言し、「世」という言葉で、神に対抗するすべてのもののことをいっています。サタンは神に仕えるために造られた霊的存在の中で一番頭脳が優れていましたが、悪魔たちの中で最悪のものとなり、彼らの頭となりました。彼らは天使だったとき、与えられたものと同じ厳しい階級制度を守る義務があるのです。
        「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1・16)しかし、天使たちの頭である聖ミカエルは、愛の階級制度を守っていますが、悪魔たちは奴隷状態の規則のもとに生きています。
         わたしたちはまた、サタンの支配を粉々にうち砕き、神の国を設立されたキリストの働きに気づかされます。 イエスが悪魔に取り憑かれた人たちを自由にされた実例が、とりわけ重要になるのは、こういう理由です。ペトロがキリストのことをコルネリウスに教えるとき、彼はキリストが「悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」(使徒言行録10・38)ということの他は何も触れていません。それで、わたしたちはイエスが使徒たちにお授けになった最初の権能が悪魔を追い出すことであった理由を理解するのです。(マタイ10・1)わたしたちは「信じるものには次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」(マルコ16・17)という言葉を信じるすべてに伝えることができます。このように、イエスはいやしを与えられ、神に仕えるために造られた霊的存在のうちの幾人かの反逆と、わたしたちの先祖によって台無しにされた神のご計画を修復されるのです。
         悪、苦しみ、死、そして地獄を造ったのは(すなわち、いつまでも続く苦悩にさいなまれる地獄に永遠に堕とされること)神のみ業ではないことを徹底的に明らかにしなければなりません。この点について、もっと詳細にの述べたいと思います。ある日、カンディード神父は悪魔を追い出す奉仕をしていました。祓魔式(ふつましき)も終わりに近づいたとき、神父は悪霊に向かい、「ここから出て行け。主がすでに、おまえのために熱した住まいを用意しておられる!」と怒鳴ると、悪魔は「おまえは何にも分かっておらんのだ!地獄をつくったのはわれわれだ。神は地獄のことなど考えてもいなかった」と答えました。また別のときに、地獄を造ったのはサタンだったのかを知りたくて、わたしがそのことを尋ねると、「われわれみなが協力して造った」という答えを受けました。
         創造のご計画における、キリストを中心とする罪のあがないによるご計画の修復は、神のご計画と世の終わりを理解する根本原理です。天国で神に仕えるために造られた霊的存在と人間とは理性のある自由な本質を受けました。(神のみ摂理と、神がすべてのできごとを予定したという予定説とを取り違えている人たちから)神はすでに救われるものと、地獄に堕ちるものとを知っておられるのだから、わたしたちのすることは無駄だと聞かされるとき、わたしは聖書が詳細に説明してくれている四つの真理、すなわち、神はすべての人が救われるのを願っておられること、地獄に堕ちると予定されているものはだれもいないこと、イエスは万人のために死んでくださったこと、そして、すべての人が救われるための十分な恩恵を与えられているといつも答えることにしています。
         キリストがすべての中心におられることは、わたしたちが救われるのは、キリストの御名をおいて他にない、ということです。キリストの御名によってのみ、わたしたちは勝利をおさめ、わたしたちの救いを妨げる敵、サタンから自由にされるのです。完全に悪魔に取り憑かれたものと直面する最も困難な祓魔式の終わりにあたり、わたしはフィリピの信徒にあてた聖パウロの手紙に記されているキリスト論の賛美の歌を祈ります。(フィリピ2・6〜11)「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき」という言葉を口にするとき、わたしはひざまずき、その場にいるすべてのものがひざまずき、悪魔に取り憑かれたものも必ずひざまずかずにはいられません。人の心を強くゆり動かす感動の時です。わたしはいつも、天使たちの軍団がわたしたちを取り巻き、イエスの御名を聞く時、彼らもひざまずくのを感じるのです。
        …まずはわたしたちの祖先から始まり、サタンは人間を神に背かせ、自分に服従させることで人類を奴隷にしようと努力します。彼はわたしたちの祖先、アダムとエバではそれに成功しました。それで、「九階級の天使のうち第三階級の天使たち」の助けを借りて、全人類を奴隷にする努力を続けようとしました。この天使たちは黙示録によると、神に反抗するときサタンに従ったものたちです。 神はけっしてご自分の被造物を拒まれません。したがって、神と仲違いしても、サタンと彼の部下たちは、たとえ悪い目的に使うとしても彼らの力と地位(王権、支配と権威、霊力、権力等々)を保たれるのです。聖アウグスティヌスが、もし神がサタンに自由裁量権をお与えになったとしたら「生きながらえたものはだれもいなかっただろう」と言い切ったのは誇張ではありません。サタンにはわたしたちを殺すことはできませんから、「自分が神と抵抗しているように、わたしたちを神に対抗する自分の家来にしよう」としているのです。
         救いの真理は「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(第一ヨハネ3・8)であり、サタンの隷属から人間を自由にし、彼の支配を破壊したのち、神のみ国を設立することです。
         しかし、キリストの最初の降誕と再臨(二回目に審判としてのキリストが勝利のうちに来られる)との間に、悪魔はできるだけ大勢の人間を自分の側に誘惑しようとします。それは、サタンが「残された時が少ないのを知り」(黙示録12・12)すでに負かされているのが分かっていて自暴自棄で行っている戦いです。そのため、聖パウロは正直なところ「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ6・12)と告げています。
        …1987年五月二十四日、聖ミカエル教会を訪れられた折に教皇ヨハネ・パウロ二世は「大天使聖ミカエルの主要な役目である悪魔との戦いは、こんにちでもまだ続いています。悪魔はいまだに生きており、世の中で活動しているからです。現在わたしたちを取り囲んでいる悪、わたしたちの社会を悩ます無秩序、人間の矛盾した行動や弱さは単に原罪の結果だけではなく、サタンの浸透力のある闇の活動の結果なのです」といわれました。
         創世記(3・15)の「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫とのあいだに、わたしは敵意を置く。彼はおまえの頭を砕き、おまえは彼のかかとを砕く」という最後の節は、神が蛇に明らかに断罪を申し渡されたお言葉です。サタンはすでに地獄にいるのでしょうか? いつ天使たちと悪魔たちの間で戦いがあったのでしょうか? 地獄とは場所というよりは霊的な状態であることを心に留めていないかぎり、こうした質問に答えることはできません。場所と時とは、霊にとっては異なった概念なのです。
         黙示録は、悪魔たちは地上に投げ落とされたと記しています。したがって、たとえそれを取り消せなくても、彼らの最終的な破滅は、まだこれから起こることです。このことは、たとえそれがほんの「短い時であろうと」彼らにはまだ、神がお与えになった力があるということです。そういうわけで、悪魔たちは「まだ、その時ではないのにここに来て、われわれを苦しめるのか」(マタイ8・29)とイエスに叫びました。キリストは唯一の裁判官です。キリストはご自分の神秘体をご自分自身のうちでしだいに増やしていかれます。ですから、コリントの信徒への聖パウロの言葉は「わたしたちは天使たちさえ裁くものだということを、知らないのですか」(第一コリント6・3)というふうに解釈すべきでしょう。ゲラサの人に取り憑いた悪魔たちの「レギオン(軍団)」がイエスに「底ないの淵へ行け」(ルカ8・31〜32)という命令を自分たちに出さないようキリストに願ったとき、彼らは自分たちの力にすがりつこうとしていました。悪魔にとっては、人間の体から離れて地獄へ堕ちることは最終的な死の宣告なのです。悪魔が最後まで戦おうとするのはそういうわけです。しかし、悪魔の果てしのない苦痛は彼がこの世で起こした苦しみに比例して増していきます。悪魔たちは、まだ決定的に判決をくだされていないとわたしたちに告げるのはペトロです。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込めた」と。(第二ペトロ2・4)天使たちの栄光も彼らの善い行いに応じて増していきます。そのため、天使たちの助けに訴えるのは非常に役に立ちます。
        …ですから、めったに天使のことを口にしないなどもってのほかです。わたしたちのだれもに、母親の胎内に宿ったときから死ぬまで、一日二十四時間、
        友だちの中で一番誠実な守護の天使がついていてくれます。守護の天使は休みなくわたしたちの体と霊魂を守っていてくれているというのに、わたしたちは一日のうちただの一度として守護の天使のことを考えもしません。
         各国には特定の守護の天使がおり、おそらく、次の二点に関しては確かとはいえませんが各共同体や家族にも守護の天使がいるだろうことも分かります。しかも天使たちの数は多く、わたしたちを助けようとする彼らの願いは、わたしたちを滅ぼそうとするサタンの願いをはるかに超えているのが分かっています。 
         聖書は神が天使たちに託された使命について始終語ってくれます。わたしたちは天軍の総帥である聖ミカエルの名を知っています。愛に基づいた天使たちのあいだには天使の位階があり、ダンテが「その方のみ旨のうちにわたしたちの平和を見出す」といったように、それは神の知性によって導かれています。
         わたしたちはもう二人の天使、ガブリエルとラファエルの名も知っています。聖書外典は第四番目の名、ウリエルを加えました。聖書は天使たちを九段階に分けています。すなわち、主天使、能天使、座天使、権天使、力天使、天使、大天使、智天使、熾天使です。

        ローマ教皇に献上された「安土城図」

        2013.09.25 Wednesday

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          『クアトロ・ラガツィー天正少年使節と世界帝国』若桑みどり著 集英社刊より
          第三章 信長と世界帝国 
          ローマ教皇に献上された「安土城図」

          …安土城の命はとても短かった。信長はこの山上都市の壮麗な景観を精密に金屏風に描かせた。それがほとんど唯一の史料になったはずである。しかし信長はこれをヴァリニャーノに与えた。
           1582年二月十五日付けのコエリョの手紙にはこのいきさつがつぎのように書いてある。「信長は以前よりもさらに大きな恩恵を彼(ヴァリニャーノ)に与えるが、…わたしが語るべき恩恵のひとつは日本の諸公が用いる類いの装飾用の壁を作ったことで、これは彼らのあいだで非常に珍重されており、屏風と称するものである。彼が屏風を作らせたのは一年前のことであり、日本でもっとも著名な画工に命じて、これに当市と彼の城を寸分たがわぬほどありのままに、また湖および諸邸宅などをすみずみまであたうかぎり正確に描かせた」
           信長はこのできばえにたいへん満足していて、大評判になったが、彼はめったにこれを人に見せず、見せるときには大恩恵として寵臣数名にしか見せなかった。「そして内裏(だいり)がその評判を聞いて使者を介して、それを見せるように信長に伝えた」。内裏はこれを「大いに気に入って所望する旨信長に伝えたが、信長は知らぬふうをしてこれをけっして贈ろうとはしなかった」
          …「ヴァリニャーノが帰国することを知ると、彼のもとに愛情あふれる丁重な伝言を送り、巡察師は『いとも遠方より謁見のために訪れ、当市に長期にわたって逗留し、信長が司祭に与えた家をたいそう尊重する考えを示したので、彼に深く感謝するとともに、記念および、司祭たちへの情愛の印としてなにかを贈り、同師が帰国する時にたずさえて行くことを望むが、貴重品について考えたところ、高価な物はことごとくヨーロッパからの招来品であるために意に叶うものが見つからない。ただしここのコレジオを描いて持って行く希望があるならば、と考えて、自分の屏風をお目にかけるために届けた、もし気に入れば留め置けばよいし、気に入らねば送り返すように』と伝えた。
            われらがまだ屏風を開いて見ぬうちに、さっそく、ひとりの武士が信長からの別の伝言を携えて到着し、屏風が巡察師の気に入らねばただちに彼のもとへ送り返すようにと伝えた。これは非常に楽しくかつ陽気に行われたので、伝言の使者はこれを遣わした人の情愛と親しみをよくあらわしていた。
           司祭は屏風がどれほど気に入ったかを彼に伝え、信長はこれに大いに満足して、司祭はこれにより彼の深い情愛を覚えるであろうと言い、なぜなら、かの品は信長が大いに気に入っているものであり、内裏がこれを求めても断ったほどであるが、司祭に贈ることは大いに喜びとするからである。それは彼が司祭に対していかに心を遣い、尊敬しているかを日本じゅうに知らしめるためであり、かつまたいかに恩恵を与えているかの証とするためである。たとえ彼に千クルザトス与えてたとしても、金銀に事欠かぬためたいしたことではないが、己の好むものを手放して司祭に与えることは、それだけにきわめて重視すべきことであると述べた。」
           この一件はたちまち大評判になってこの屏風をひと目見ようとして大身や武士たちが修道院に駆けつけ、信長の二男信孝もやってきて大騒ぎになった。これを見ると信長は息子にも屏風を見せていなかったらしい。そこで神父らはこの屏風を見るためにやってくる群衆のためにそれを教会で展示しなければならなかった。またヴァリニャーノはこれを中国、インド、リスボンを経てローマに持ち帰り、必ずやローマ教皇に献上するであろうと言った。それこそ信長が期待していたことであった。信長は自己の都市が世界に展覧されることに大きな満足を覚えたにちがいないし、まさにそのために、いかにも手放すのが惜しい屏風をあえて贈ったのであろう。…
          西欧に日本の都市と日本の王侯の美意識と画家の技能を伝えた安土の屏風は、荒波を越えて、ほんとうにローマ教皇に献上された。ヴァリニャーノが派遣した少年使節のひとり千々石ミゲルのことばとして、『日本遣欧使節見聞対話録』にはこう書いてある。「(1585年四月四日)この日、教皇猊下はわれわれと親しく会話をなされる日に決められた。…教皇はこの上なくねんごろに親しくおあしらいくださった上、日本のさまざまなことについてじつにたくさんのご下問があった。たとえば日本の島々にいるキリスト教徒の数はどのくらいであるか、いかに多くの寺院が、神および聖者のために奉献され、建立されたか、そこにヨーロッパのパードレがどのくらい生活しておられるか、聖儀はどのようなしかたで行われているか、どうすればもっと多くの収穫が日々期待されうるか、…それらのひとつひとつにわれらがお答え申し上げると、教皇猊下はいかにも全キリスト教との御父らしく喜ばれ、いまにも躍り出そうというばかりであった。
           この日、われわれはわが国から持参した若干の贈り物のなかに巡察師さまに信長が贈り物とした絵画もあり、この絵画のうちには信長が築いた安土の非常に広大な城壁が描かれていた。この贈り物を献上したとき、猊下はたいへんご満足のようすをはっきりと示され、ただちにわれわれを宮殿の奥の書斎へ案内された」
           この屏風はヴァチカン宮殿のなかの「地図の間」に置かれていたが、いつの間にか行方不明になった。…安土桃山時代の貴重な美術であり、今はなき安土の都市図がこれで永久に消え去った。そこには青い屋根をもつ安土の天守閣と、同じ青い屋根をもつキリスト教住院が描かれているはずだった。
           ヴァリニャーノが拝領した屏風を九州に持って帰る道のりは、信長のキリスト教保護をいっそうひろい階層に宣伝するものになった。
          「日本で最上位にある公家のひとり」は、巡察師が豊後(ぶんご)に帰るにあたって通過することになっている各地の領主に書状を送って彼のことを紹介し、信長がいかに彼に名誉と歓待を与えたかについて知らせた。堺から豊後までの船旅はあいかわらず危険で、こんどは嵐に会い、沈没寸前までいったが、ようやく豊後に着いて、さらにそこから長崎まで行った。屏風を捧げての、ヴァリニャーノの九州への帰還はまさに凱旋行列であった。
           もし、カブラルの言うことを聞いて、ヴァリニャーノが近畿へ視察に行かなかったら、彼は最初に九州に着いたときの暗鬱な印象をもったままゴアに帰ったであろう。九州にもどってきたとき、彼の最初の印象はすっかり変わっていて、のちにちまでその基本的な日本観を決めるものになった。ラウレス師は、ヴァリニャーノの布教理念が固まったのは、布教の方法が、カブラルのやり方よりもオルガンティーノのやり方が実際に成功しているのを見たからだと述べている。「いかにオルガンティーノの好ましい信頼すべき性格が日本人の心を獲得しているかを実際に見たので、彼のやり方を九州でも実行しようと思い、日本人を嫌悪軽蔑しているカブラルを更迭させた」
           そうすると、『日本の礼儀作法』などはオルガンティーノの武将や領主との交際ぶりを実地で見て、その成功を知った結果であった可能性がある。オルガンティーノは肉食をやめ、すべてを日本人に合わせていた。しかも多くの君主、かの秀吉さえ彼を愛した。のちに秀吉がキリシタン迫害をはじめたとき、石田三成がオルガンティーノの名前を言ったので、秀吉は「神父皆殺し」を思いとどまったほどである。
           またヴァリニャーノの日本人観であるが、彼がもし五畿内に行かず、もし信長に会わず、もし右近に会わなかったら彼の日本人観はずいぶんちがっていただろう。日本人は古代ローマ人のようだという感想は、彼らが高い文明とストア派的気質をもつ騎士であることを共感をもって知った結果である。これは信長のほうも同様であって、神父の気品や誠実さが、裏切りになれている彼にとって一掬の清涼剤であった。キリスト教徒は裏切らない、その信頼は、信長にとって天下の乱の原因である下克上を止めさせるための清涼剤に見えた。右近への寵愛はそのあらわれである。のち、秀吉でせもが右近の清廉を愛し、彼をそば近くにおいた。
           なににもまして、ヴァリニャーノにとって、京都と安土における信長のキリスト教会に対する絶大な保護をつぶさに見たことが重要であった。このことは、日本における布教の将来を明るく照らすものに思えた。彼はついにザビエルの悲願を達成した。日本における国土にひとしい天下人の保護を得た教会を確認したからである。それは彼に、日本での信仰の隆盛はヨーロッパにおける打撃をつぐなうものになると思わせた。
           そしてこの視察のあいだに、ヴァリニャーノに、ローマ派遣使節の最初の構想が浮かんだにちがいない。歴史家たちは、その構想が最初に浮かんだのは、高槻における聖木曜日の聖式に参列したときであり、そのとき、彼は永遠の都ローマにおけるこの日の印象深い儀式を回想し、復活祭と聖体祝日の宗教的集団示威はまた彼を感激でみたしたからだと考えている。またそのほかの歴史家は、彼が少年使節派遣を考えたのは、おそらく神学校の少年たちを見て日本教会に希望をもったからだと考えている。
           1581年耶蘇会年報は信長のコレジオ訪問をつぎのように伝えている。「信長はカザの最年層(コレジオ)に昇り、一同を下に留め、パードレ、イルマンと大いなる愛と親しみをもって語り、時計を観、また備えつけのクラヴォおよびヴィオラを見て両方とも演奏させ、これを聴いて喜んだ。クラヴォを弾いた少年は日向の王の一子(伊藤義勝)であったが、これをほめ、またヴィオラを弾いた者もほめた。つぎに鐘そのほか珍しき物を見に行った。これは異教徒が珍しき物を好んで観覧しに来るゆえ、パードレは彼らを引き寄せるために住院に備えつけたものである。これによってわれらと親しみ説教を聴くに至ることは日々実見するところである。今日まで日本に送って日本人がもっとも喜んだものはオルガン、クラヴォおよびヴィオラを弾くことである。それで安土と豊後にオルガン二台を備えつけ、また諸処にクラヴォを備えつけてあるが、右は異教徒と動かしてデウスの教えの荘厳なることを覚らしむるためはなはだ必要なものである」。のちに秀吉も使節が帰朝して奏楽を行うのを聴き、感動している。
           たしかに、神父らは、安土のセミナリオに信長が突然やってきて、少年たちが奏でるクラヴォとヴィオラに聴きほれ、なかなか帰ろうとしなかったのを見て感激した。信長がとくにほめた少年はクラヴォを弾いた日向の領主の甥、伊藤義勝だった。このことはヴァリニャーノの脳裏に深く刻まれた。日向は豊後の領主大友宗麟の親族である。のちに宣教師報告は、ヴァリニャーノがスペインとローマに派遣する使節の正使として白羽の矢を立てたのは、この少年だったと書いている。東西を問わず、すべての人間にとって愛すべき者に見える少年を彼は日本とヨーロッパの架け橋にしようと思った。
           このようにして、五畿内から返ったヴァリニャーノは、キリシタン諸候の使節をローマに送って、教皇に日本教会の存在を知らしめ、この重要な教会への積極的な援助をカトリック教会の中枢部においてかち得るため、そして神学校の基礎を確実にするために、自分でローマに行こうと決心した。…

           

          聖パードレ・ピオ 2 

          2013.09.23 Monday

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            『キリストの似姿 ピオ神父』ペトロ・ボン・エッセン 神崎 房子 共編著より
             第二章 教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉
            列福式ミサの説教 (カルメル会司祭 和田 誠 訳)

             謙遜なカプチン会士ピオ神父は、その生涯を祈りと苦しむ人々に絶えず耳を傾けることに捧げ尽くし、そのたぐいまれな一生をもって全世界の人々を驚嘆させ、かつひきつけました。数限りない人々がサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院を訪れました。そして、その死後も巡礼者の列が途切れることはありません。私自身も、ローマで学生時代に個人的にピオ神父を知る機会を得ました。そして今日、神はこの私にピオ神父を福者の列に加えるお恵みを下さったのです。
             ミサ中の福音朗読で弟子たちを励ますキリストのみ言葉を聞きました。主は言われます。「あなたがたは、心をさわがせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」(ヨハネ14・1)この言葉を聞くとき、私たちの思いはおのずから、ガルガーノの謙遜なカプチン会士ピオ神父のもとに飛んでいきます。キリストのこの言葉は、まさしくピオ神父の中で完全に実現しました。主は言われます。「心を騒がせないように。そして信じなさい」と。聖フランシスコの謙虚なこの息子の生涯は、まさしくこの言葉通りの一生でした。彼の生き方は、永遠にキリストと共にいることのできる天国に対する希望で強められた「信仰の試練」そのものではなかったでしょうか。キリストはこうも言われました。
            「あなたたちのいるところに共にいられるよう、私はあなたたちのために場所を準備しに行く」
             ピオ神父の若いころからのその厳しい修業の目的は、師キリストがおられるところに自分も共にいるために、できるだけ完全に師キリストに似た者になろうと、絶えず努力すること以外のなにものでもありませんでした。ですから、ピオ神父の捧げるミサにあずかり、彼に告解し、その勧告を受けようとサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院を訪れる人々はピオ神父の中に、苦しみ、そして復活されたキリスト御自身の生ける肖像をみていたのです。
             実際、ピオ神父の顔には復活の光が輝いていました。聖痕を印された彼の身体は、過ぎ越しの神秘の特徴である死と復活の間に存在する緊密なつながりをはっきりと表していました。ピエトレルチーナの福者ピオ神父にとって、キリストの受難への参与はますます深いものとなっていきました。神から与えられた特別な恵み、内的また神秘的な苦しみなどはみなピオ神父に、主キリストの受難を絶えずその身をもって体験させ、受難の山「カルワリオ」はすべての聖人たちが登らなければならない山なのだとの確信を抱かせたのです。ピオ神父は、神から受けたたぐいまれなカリスマゆえに、多くの苦しみを忍ばなければなりませんでした。数々の試練は苦しく、人間的には耐えがたいものでもありました。多くの聖人たちの生涯を見てみますと、神の特別な計らいによって、神から選ばれた者である聖人たちが、まさしく多くの人々の無理解に苦しまなければならなかったということは決して珍しいことではありませんでした。そんな時、彼らにとって従順は、浄化のるつぼ、キリストと同化に至るための道、正真正銘の聖性をますます強化する手段となったのです。
             新福者ピオ神父も動揺な状況に置かれたとき、その長上に書き送っています。
            「ただ従順によってのみ行動するようにしています。神は御自分が最もよみされる唯一のもの、また私にとって救いに至り、最後の勝利をわがものとするために唯一の方法は従順であることをわからせて下さいました。」
             ピオ神父は嵐が吹き荒れていた時、ペトロのあの勧告「生きる者であるキリストをしっかりと抱きしめなさい」という言葉を、自分自身の生き方の原則にしていました。こうしてピオ神父は教会という霊的な建物のために生ける石となってくれたのです。
             今日私たちは、このために神に感謝を捧げます。聖ペトロは言っています。「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊的な家を築きあげなさい」聖ペトロのこの言葉は、ピオ神父の使徒職の中で何と見事に実現されていることでしょう。ピオ神父の周りで素晴らしい教会運動が広がっていきました。数え切れないほどの人々が、直接あるいは間接的にピオ神父と出会うことによって、信仰を再び見いだしていきました。そしてピオ神父の教えに沿って、世界中いたるところに「祈りのグループ」が生まれました。
             ピオ神父は、自分の霊的息子・娘たちにいつも聖人になるよう務めなさいと励ましていました。そして、「イエス様には皆さん一人一人の霊魂の聖化以外の関心事はありません」と繰り返し言い聞かせるのでした。
             ピオ神父はまるで十字架の下にとどまっているかのようにサン・ジョバンニ・ロトンドの修道院から動きませんでした。確かにこの神のみ摂理には深い意味があったのでしょう。特に激しい試練のさ中にあったピオ神父に、神なる師イエスは「十字架の下でこそ、愛することを学ぶのです」と言い慰めるのでした。
             そうです、十字架こそ愛の最高の学び舎です。否、むしろ愛の源泉そのものです。苦しみによって清められたキリストのこの忠実な弟子、ピオ神父の愛は多くの人々の心をキリストの方へ、またその救いの福音の方へとひきつけていきました。

            聖パードレ・ピオ 予知の賜物など

            2013.09.23 Monday

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               『キリストの似姿 ピオ神父』ペトロ・ボン・エッセン 神崎 房子 共編著
              第三章『ピオ神父の生涯』より/ジョン・A・シュグ著より

              5 予知の賜物

               大方の場合、未来についてのピオ神父の知識は幸いな前兆であるか、少なくとも、悲しい情景に喜びの光線を投げかけた。1936年1月、三人の信徒が神父の部屋に入った。神父は突然ひざまずき、「神の審判席に間もなく着く一人の霊魂のために祈るように」と三人に頼んだ。皆がひざまずいて祈り、立ち上がった時、ピオ神父は「誰のために皆さんが祈ったか知っていますか?」と尋ねた。彼らが「いいえ、あなたの意向に沿ってお祈りしただけです。」と答えると「皆さんがお祈りしたのは、イギリス王のためでした」と神父は言った。真夜中に、アウレリオ神父は、自分の部屋のドアを誰かがたたくのを聞いた。開けるとピオ神父が立っており、「神の審判席の前にただ今出ることになっている霊魂のためにいのりましょう。その人はイギリス王です」と言った。二人の神父はしばらくの間、共に祈った。
              次の日の午後、ピオ神父がアウレリオ神父の部屋にいた時、イギリス王ジョージ五世が死去したと、諸新聞が報道した。
               人々がピオ神父とテレパシーで交信するのが稀ではない次のような例がある。ボローニャ出身の母親と五人の子供達が訪問し、神父に子供達を彼の霊的子供として受け入れるように頼んだ。それ以来、五年間毎日、「ピオ神父様、私の子供たちのことをよく見守って下さい。子供達を保護し、祝福して下さい」と彼女は祈った。
               ついにこの人達はサン・ジョバンニ・ロトンドを再訪する機会に恵まれた。母親は神父様、私の子供達をよく見守って下さい。子供達を保護し、祝福して下さい」と嘆願した。「同じことを何回私に頼むのですか」と神父は答えた。「今がお願いした最初です」と言う彼女に、「あなたは五年間以上も同じことを私に頼んで来ましたよ」と答えた。神父の予知能力は時には人々を混乱させた。
               ローマに住む一人の霊的娘が、ピオ神父が正しかったことを認めさせられるまではこだわっていたある事柄について語っている。彼女が告白し始めるとき、「話さないで下さい。私が話しましょう」と神父が遮ぎり、彼女の罪や不完全さについて次から次へと示した。神父が「あなたは嘘をつきました。不注意でした。…教会の中で怒りもしました」と笑って言ったことに彼女は驚いて、否定しながらも、悩んで、以前に何が起きたかを思い出そうとした。そして、教会の中で婦人たちが神父に飛びかかり、その両手をひったくろうとした場面を思い出した。彼女は「私はそれらの婦人を全員の髪の毛を引き抜いてやりたかった…。婦人たちの頭をかぼちゃみたいに、お互い同士ぶっつけてやりたかった」と独り言を言った。ピオ神父が笑うのを聞いて、自分がどんな気がしたかを思い出したのである。
               そのとき、「しかし、すぐにあなたは後悔しました」とピオ神父は付け加えた。その些細なことにも、どぎまぎしながら彼女は「それは本当でした…私はピオ神父が祭壇の所にいて、人々を祝福しているのを見ました。そして『神父様が怒らないのに、どうして私が怒るべきか』と自分自身に言いました。しかし、私が何を考えたかを、神父様は一体どのようにして知ることができたのですか」と言った。
               ピオ神父がいつも知っているとは限らなかった。知っているというふりもしなかったのである。お願いに対する神父の唯一の答は、「祈って、神の意志を待たなければなりません」と言うものであった。

              7 聖母

               ミサや告白の他に、祈りの生活のためにピオ神父が勧めた主要なことは、祝福された聖母マリアへの献身である。「マミーナ、私の愛すべき小さな母」と神父は聖母を呼んでいる。そして自分のすべての霊的子供達の上に、優しく、しかも断固として聖母への奉献を勧めている。「全世界の罪人達に聖母を愛するよう呼びかけるため十分に大きな声を持ちたいと願っています」と神父は言った。ピオ神父の聖母への献身の形式はロザリオの祈りである。神父はロザリオを自分の手から決して離さなかった。修道士の一人は、「ロザリオが神父の手の中で根を張らなかったのに、驚いています」と語っている。
               ピオ神父は亡くなる二日前、霊的娘の一人に「聖母を愛しなさい。聖母を愛することを確かめなさい。そしてロザリオの祈りを唱えなさい。それは現代世界の諸悪に対する武器です」と語った。ロザリオを何回唱えるかと質問されると、「一日、六十環を唱えた時は満足です」と答えた。驚いた人が「しかし、神父様、どのようにすると、そんなにたくさん祈れますか」と質問すると、神父は「それぐらい祈れないのはどうしてですか」と答えた。
               ユーセビオ神父はロザリオを三環唱えたので、十分に祈ったのをピオ神父から誉めてもらえると思い、「神父様は…四十環ですか、それ以上ですか」と質問した。「六十環のロザリオを唱えます。しかし他の人には言わないで下さい」と答えた。
               どうしたらそのような長い祈りが時間的に可能なのかと疑問に思う。しかし、神父が一瞬たりとも無駄にしなかったこと、群衆がその周りに押し寄せていても神父がロザリオを爪繰っていたことを実感するなら、また神父がほとんど眠らなかったのを思い出すなら、ピオ神父の祈りの魂がそれほど多くのロザリオを唱えるように彼を導いたかを、理解できる。
               ピオ神父が心の中に燃えさかる火を感じて考えていたのは聖母マリアのことであった。火が余りにも熱かったので、氷を置いて消し、自分を焼き尽くさないようにしなければならなかった。聖母マリアは彼にとってとても親しかったので、聖母が出現した時、神父は驚かなかった。誰でも聖母に会っていると考えていた神父は霊的指導者に書いている。
              「聖母マリアは非常な心遣いで今朝祭壇の所まで私と一緒に来て下さいました。…
               聖母は私について考えるより他に何もすることがないという風でした」
               
               1959年八月五日、ピオ神父は聖母マリアから大きな恵みを頂いた。教皇の特別な許可により、ファチマの聖母の像、巡礼の乙女がサン・ジョバンニ・ロトンドへ、ヘリコプターで運ばれて来た。その前三ヶ月間ピオ神父は病床に伏し重態であったが、医師の助言に反対して起床することを主張した。長上の許可を得て、二人の頑丈な修道士に支えられて、半分歩き半分運ばれて居室から聖母像が崇められている教会にやっと辿りついた。
               苦痛と熱と涙の中で、神父は元后の聖母の前にひざまずき、祈り、有名な聖母像の台に恭しく接吻した。神父は、自分の部屋に帰りつく体力しかなかった。午後二時十五分ヘリコプターは飛び立ち、聖母像をイタリアの他の都市へ運ぶことになった。広場や修道院の上をペリコプターは三回まわった。
              ちょうど、ピオ神父の部屋の窓からよく見えたのでヘリコプターの窓を通して聖母像を見る事ができた。「聖母マリア」と神父はうめいた。
              「イタリアにあなたが着いた日、私は病気でした。今、あなたは離れて行きます。私をこのまま置いて…」。
               パイロットは、引っぱりもどされる突然の衝撃を感じた。ピオ神父自身の証言がある。「その瞬間私は骨の中に身震いを感じました。そして私は直ちに治りました。」
               彼は起床し、生涯健康であったかのように仕事をした。後に、ローマにいる長上に宛てた手紙の中で自分の治癒について説明した。

              9 天使

               守護の天使の友情のおかげでピオ神父は安堵の胸をなでおろすことができた。彼は「これらの天のみ使い達は私を見舞い続けて下さる」とアゴスチノ神父に書いている。自分の守護の天使を「私の青春の伴侶」と呼んでいる。神父の天使は神と彼との間を往復するランナーであった。彼の霊的子供達が、どうやって天使と話せるかと質問した時、「あなたの守護の天使を私の所へ送るように」といつも答えた。時々、人々は、自分達の守護の天使に頼んだメッセージを神父が受けとったかどうかを質問した。「天使はあなたたちのように不忠実であると思いますか?」と言うのがその答であった。
               ドミニック・マイヤー神父がサン・ジョバンニ・ロトンドに初めて行った時、ピオ神父の言葉は空想の飛躍であると考えた。カプチン会員であり、教義神学の教授であったドミッニク神父は、ピオ神父の英語担当の秘書となった。ピオ神父のことがもっとよく分かり、人々のメッセージが天使の感応でピオ神父に伝達されたことを確信する人々に会って、ドミニック神父はそれを信じた。
               ピオ神父が冗談半分とも思える苦情を言ったのを、何回も公言している。或日、ドミニック神父が「神父様、疲れているようですね。昨晩よく眠れなかったのですか」と尋ねると、ピオ神父は「たくさんの守護の天使が次から次にメッセージを伝えたので夜中眠れなかった」と言った。
               イギリスの空軍将校がドミニック神父に次の手紙を書いた。
              「神父様。私が無事帰宅できるようにピオ神父様が助けて下さいました。どうぞお礼を申し上げて下さい。四月十六日、日曜日、私はフランスのアビニヨンとリヨンの中間にいました。一日中歩き、とても疲れていました。私は、ピオ神父に助けを願うように私の守護の天使に頼みました。十分以内に自動車に乗せてもらい、パリに帰れました。そこで五十か六十リラしか持っていなかったので、カレーまでの切符を買い、十分な食事をするため、自分の腕時計を売ろうとしました。再び、私の守護の天使に、腕時計が良い値段で売れるよう神父様の助けを願うようにと頼みました。十五分もたたない内に、私は二千フランを人から贈ってもらいまいした。そして、余裕ができたら、イギリスのカトリック社会事業団に寄付するように言われたのです。ピオ神父様はお願いを十分に聞き入れて下さいました。私は自分の腕時計を今も持っています。どうか、私の感謝をお伝え下さい」
               同様な話を何百人もの人達から聞くと、話し手がいずれも責任感が強く物事の道理をよくわきまえている人達なので、これらの話は本当であると思わざるを得ない。
               ピオ神父の守護の天使は青春時代の彼の親友であるばかりではなかった。神父のためにフランス語の手紙を書き、フランス語で書かれたアゴスチノ神父からの手紙を訳してくれた。
               ピオ神父はギリシャ語やフランス語を全然勉強しなかったが、時折、これらの外国語を使って自分の霊父達に手紙を書いている。最初にこの事態が起きた時、フランス語で書かれた手紙が来たのに驚いたアゴスチノ神父は、誰がピオ神父にフランス語を教えたのかと聞いた。ピオ神父はからかうように、「私のフランス語の能力についての質問には『あああ、私は何と言ったらよいか分からない』と言うエレミアの言葉をお返しします」と答えた。
               アゴスチノ神父はだまされ易い人ではなかったが、ピオ神父の説明を認めた。そして次のように書いている。
              「ピオ神父はギリシャ語もフランス語も知らない。彼の守護の天使がこれらの外国語をよく説明するので、ピオ神父は私のフランス語の手紙に返事を書ける」
               教区司祭、パヌロ神父も異語の賜物について興味があり、次のように書いている。
              「ギリシャ語のアルファベットを知らないでギリシャ語をどうして読み書きできるのかとピオ神父に尋ねると彼は『私の守護の天使が全部教えてくれるのです。ご存知でしょう』」と答えた。
               1912年九月二十日、ピオ神父はアゴスチノ神父へユーモアを混えた手紙を書いた。
              「守護の天使の使命が偉大なら、私自身の天使は確かにより偉大な使命があります。なにしろ諸外国語を私に通訳するのですから」

              11 二ヶ所同時存在

               ピオ神父の秘書であるドミニック・メイヤー神父は、ピオ神父のおかげで治ったオーストリア人の女性について話した。七年前にピオ神父の生活と精神に心を奪われ、サン・ジョバンニ・ロトンドに移住した彼女は、金銭面ではともかく、何かと犠牲を払った。そのうえ、六週間前から腕がとても腫れて、椅子を動かすこともベットを整えることもできなかった。
               ある夜、ピオ神父が彼女の夢に現れ、自分の親指を彼女の腕の中に押し入れる程に圧迫した。朝になると腕は完全に治っていた。二、三ヶ月後、告解の後、神父が彼女の所に現れたので彼女を癒したのはピオ神父かどうか尋ねると、「そうだ」と言った。
               第二次世界大戦中、北アフリカ戦闘の最中にイタリア軍は連合軍に恐ろしく砲撃された。イタリア兵の一人は、大きな岩の後ろで助かった。突然一人の「修道士」というあだ名の男が彼の隣に立っていて、袖をやさしく引っぱってこの岩の陰から出るようにと言った。その兵士は安全と思った場所から立ち退くことを拒否した。「修道士」は彼の袖をもっと強く引っぱったが、兵士はそれでも動こうとしなかった。遂に「修道士」は彼の腕をつかみ、力づくで引っぱり出した。その直後、砲弾が彼の立っていた所で炸裂し、あたり一面を破壊した。兵士は安全であった。「修道士」は消えた。
               何日かたって、兵士は自分の同僚にその話をした。友達はいつも身につけていたピオ神父の写真を見せた。「私の命を救った修道士です」と兵士は叫んだ。以前一度もピオ神父について聞いたことも、見かけたこともなかった。
               ピオ神父の霊的子供達の1人、ローマの公爵夫人が聖ペトロ大聖堂で告白しようと決心した時、すでに遅く、堂守が聴罪師は全員帰ったと告げた。彼女はともかく聖堂内に入り祈るつもりだった。大聖堂の半分近くまで行くとカプチン会員に会った。彼が「告解したいですか」と言ったので彼女は同意した。
               聖ペトロ大聖堂から出たところで、堂守が明朝早く来るようにすすめた。夫人が「告解はもう済ませました」と言うと、彼は「どのようにして」と尋ね、彼女が気が違っているという手振りをした。それから何年か過ぎて、公爵夫人は二人の友達と一緒にサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れた。ピオ神父が彼女に向かってまっすぐ歩いて来て、「あなたを覚えていますよ」と言った。「神父様、この度が私の初めての訪問です」という彼女に、神父は、「私を覚えていませんか…聖ペトロ聖堂であなたに会いました」と言った。
               他の霊的娘は、ウルグアイのモンテビデオの、エスケラ・メダラ・ミラグロサ修道院長であるマードレ・テレサ・サルバトーレスであった。彼女は胃癌と心臓の動脈障碍のため激痛の中で臨終を迎えていた。
               修道女たちがピオ神父に手紙を書いて、助けを願った。推測すると、神父が手紙を受けとったと思われる同じ日に、サルト司教区長代理ダミアにニ・モンシニョールがイタリアから帰国し、マードレ・テレサにピオ神父の手袋の一つを与えた。
              マードレ・テレサ自身の話を聞こう。
              「その手袋を、拳ほどの腫れのある脇腹と、窒息しそうになっている喉元にあてました。そして眠りました。夢の中で、ピオ神父が痛みのある脇腹に手を触れました。…三時間後に目を覚まして衣服を頼みました。そして、何ヶ月も寝ていたベットから起き上がったのです。…誰の助けもなしに起きて聖堂に行き、昼食のために食堂にも行きました。何ヶ月もろくに食べていませんでしたが、その時は誰よりもたくさん食べました。それ以来何の痛みを感じません。直ちに普通の活動を始め、完全に癒されました。」

               

              42 マテオが召される。

              2013.09.21 Saturday

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                マリア・ワルトルタ著『イエズスに出会った人々(一)』あかし書房刊より

                42 マテオが召される。(1)

                「著者の感想」
                 今朝、私は、いまのヴィジョンを読んでいたときの神父様の表情を思い出していました。神父様は驚いておられました。それを、そばにいたイエズスに告げると、こうお答えになりました。
                「このヴィジョンを与えるのは、そのためである。私は”まことの”友人にどれほどの喜びをもっていろいろ表すか、あなたには想像できないと思う。私のロムアルド(神父)の喜びのために、愛によって神父を助けるために、このように自分ん自身を現す。私はこの人を見るからである。私は、ヨハネに秘密はなかった。いまのヨハネたちにも、そうする。老ヨハネに、たくさんの平和と豊漁とを与えると伝えなさい。あなたには漁がない。私が与える糸で網を作るという女性的な業だけをあなたに与える。働きなさい、働きなさい … 他のことができないという考えを捨てなさい。この仕事には”すべて”がある。 そしてまた”あなたに平和”と言いに来ないからといって気にするな。人にあいさつをするのは、到着したときと出発するときであって、いつも一緒にいるときはしない。一緒にいることは、もはや平和である。そして、あなたは私の客ではない。あなたはすっかり私の腕の中にいて、片時もあなたから離れたりしない。
                 この世にいたときの私について、言いたいことがたくさんある!しかし、きょうはあなたを喜ばせたいので ” あなたに平和 ” と言おう」
                 ほとんどすぐ後で、次のことを見る。

                     *       *       *  

                また、カファルナウムの市場である。もう日は高く、広場ではもう市が終わり、世間話をしているぐうたらな男たちと、遊びほうけている子供たちしかいない。
                 イエズスは弟子の一行に囲まれて、泉から広場の方へと歩きながら、走って迎えに出た小さな子供をなでたり、子供たちの内緒話に聞き耳を立てたりしている。
                 一人の女の子が額から血を流している。かなりひどいひっかき傷で、まだ小さい兄に、ひっかかれたと訴えている。
                「どうして妹にこんなことをしたのですか。いけませんよ」
                「わざとしたんじゃないよ。ぼくは、あのいちじくを採ろうと思って、さおを持ったら、とっても重たくて妹の頭の上に落っこったんだ…。妹のためにも採りたかったんだよ」
                「ヨハンナ、本当ですね」
                「ほんとうなの」
                「ほんとなの」
                「じゃ、兄さんはヨハンナに悪さをしようとしたのではないと分かりますね。ヨハンナを喜ばせたかったのだから、いますぐ仲直りの接吻をしなさい。良い兄弟たち、もちろん良い子供たちも憎しみあったりしちゃいけません。 さあ、…」
                 二人の子供は、泣きじゃくりながら接吻する。妹はひっかき傷のせいで、兄は妹を苦しめたことで泣いている。イエズスは、ぽろぽろこぼれる涙で味つけされたその接吻を見て、にこにこしている。
                「おお、それそれ。いまこそ二人は良い子だから、私が、さおなしにいちじくをもぎます」
                「ほんとだ。こんなに背が高くて腕が長いんだもの、すぐ採れるよね」
                 いちじくをもいで、皆に分ける。そこへ、一人の女が走ってくる。
                「先生、採ってください。いまパンを持ってきますから」
                「いいえ、私のために採っているのではありません。ヨハンナとトビオロのためです。とっともいちじくを欲しがっていたから」
                「まああ、こんなことで先生に迷惑をかけるなんて。まあ、あつかましい! 主よ、おゆるしください」
                「婦人よ、仲直りすべきだったのに、戦のもとであった、いちじくで平和を取り結びました。だけど、子供たちは決してずうずうしくはありません。子供たちは甘いいちじくが大好きで、私はこの子たちの甘い、罪のない霊魂が好きです。私の多くの苦しみを忘れさせてくれる…」
                「先生、あなたを愛さないのはお金持ちです。ところが、庶民の私たちは、あなたを愛しています。そして、金持ちは数が少なく、私たちは数が多い」
                「婦人よ、知っています。あなたの慰めを感謝します。平和があなたとともに。
                 さよなら、ヨハンナ! さよなら、トビオロ! 良い子でいなさいね。二人ともいたずらや意地悪をしないでね。そうでしたね」
                「はい、はい、イエズス」と二人の幼い子供が答える。
                 イエズスは歩き出し、ほほえんで言う。
                「おお、いちじくの実のおかげで、曇りだったのがすっかり晴れてしまいました。行きましょう…。どこへ行けばいいのかな」
                使徒たちには分からない、あれやこれや言うが、イエズスはどれにもかぶりを振り、にこにこしている。ペトロがこぼす。
                「お手上げです。あなたがおっしゃらないならば…きょうの私はご機嫌ななめです。あなたは見なかったけれど、舟から降りたときにエリとあのファリサイ人がいました。いつもよりも青ざめ、怒りのまなざしで私たちをにらんで…」
                「思う存分、見させればいいでしょう」
                「ええい、仕方がない。だけど先生、誓ってもいいが、あいつと仲直りするには、二つのいちじくだけでは無理です!」
                「トビオロの母親に、私は何と言いましたか。もめごとのもとになったもので、仲直りさせました。あの人たちに言わせれば、私が無礼を働いたのだから、カファルナウムの有力者たちに丁寧にお辞儀をして、平和になるよう努めるつもりです。その上に、他のだれかも喜びます」
                「それはだれですか」
                イエズスはその質問には答えず、話し続ける。
                「あの人たちには仲直りしようという気がないから、多分、無理だと思います。でも、聞きなさい。すべての争いのとき、一番賢明な人が自分の方が正しいと知っていても、自分の意見を頑固に主張せずに譲れば、もっと良く、聖なることだと思います。他人に損害を与えたいという意向をもって振舞う人はまれです。大抵は、意識しないで他人に害を加えています。いつもそのことを頭に置いて、ゆるしなさい。
                 エリとその仲間たちは、あんなことをして、正義をもって神に仕えていると思い込んでいます。忍耐と根気強さ、あふれる謙遜と敬愛をもって、新しい時代が始まり、”いま、神は私が教えるように奉仕されるのを望んでいる”と、私はその人たちに納得させたい。使徒の知恵は敬愛で、その武器は根気、成功の秘訣は模範と、人を回心させたい場合の祈りです」
                一行は広場に着いた。イエズスは、真っすぐ税吏事務所に向かう。
                 マテオは、そこでいろいろな事務をとっている。貨幣を種類別に分けて色の違う袋に入れ、二人の部下がどこかへ運ぶのを待っている金庫へしまおうとしている。長身のイエズスの影が机に長く伸びると、マテオは遅く来た納税者がだれか見ようとして頭を上げる。ペトロが、イエズスの袖を引っ張ってささやく。
                「先生、支払いはきょう何もありません。どうされたのですか」
                 イエズスはそのことばに耳をかそうともせず、恭しく直立したマテオをじっと見つめている。心の底まで貫き通すようなまなざしである。とはいえ、この前の厳しい裁判官のようなものではなく、今度は呼びかけるような愛のまなざしである。相手を包み込み、愛で満たす。マテオは真っ赤になり、何をどうしてよいか分からず、もじもじしている。
                「アルフェオの子、マテオ。時が来ました。いらっしゃい。私について来なさい」こう威厳をこめて、イエズスは命令する。
                「私?先生、主よ! 私がだれだかご存知ですか。これを私のためでなく、あなたのために言うが…」
                「おいで、私について来なさい。アルフェオの子のマテオ」と、もっと優しく繰り返す。
                「私が神のみもとに嘉されるだなんて、どうしたことか。私…私」
                「アルフェオの子、マテオ。 あなたの心を読みました。いらっしゃい、私について来なさい」
                三度目の招きは、いつくしむようである。
                「おお、すぐに。私の主よ!」
                 マテオは泣きながら、机の上に散らばっている貨幣を集め、金庫を閉めるのもそこそこに席を立って出てくる。
                「主よ、どこへ行かれるのですか」と、イエズスのそばに立って問いかける。
                「私をどこへ連れて行くおつもりですか」
                「おまえの家へ。人の子を泊めたいですか」
                「しかし、あなたを憎んでいる人たちが何と言うでしょうか。」
                「私は天のことばを聞いています。そこでは”救われる一人の罪人のために神に栄光”と言われています。そして、父はこう言います。
                神のあわれみが永遠に天に昇り、地を覆います。私は永遠の愛、完全な愛、あなたを愛しているから、あなたにもあわれみを施します。」
                おいで。さあ、いらっしゃい。そして、私がここへ来たことで、おまえのほかに、おまえの家も聖別されますように」
                「私の心にあった希望のおかげで、私の家はもう清められました…そうは言っても、にわかにはそれが本当のことだとは信じられない。私が、あなたの聖なる人々と一緒に…」と、マテオは言いながら、弟子たちを眺める。
                「そうです。私の友人たちと一緒に。皆、ここへ来なさい。おまえたちを一つにしたい。兄弟のようでありなさい」
                弟子たちは度肝を抜かれて、一言のことばも出ない。太陽がさんさんと降り注ぎ、もう人影の見当たらない広場へと、イエズスとマテオの後をつけて、皆、まぶしい日射しが照り返すわずかな道のりを歩く。道には猫の子一匹いない。太陽とほこりだけがある。
                 さる家に入る。道に面した門の広い麗しい家である。半ば影になった涼しく美しいポーチ、その向こうに、花壇のある広い中庭が見える。
                「私の先生、どうぞお入りください。だれか、水と飲み物を運ばせなさい」こう言うと、下僕たちが、早速、頼まれたものを持って、走ってくる。
                 マテオがあれこれ命令するために外へ出た間に、イエズスとその弟子たちは身づくろいをする。やがて戻ってくる。
                「先生、こちらへおいでください。サロンはもっと涼しい…。これから友人たちが訪ねてきます。本当にすばらしい祝いをしたい! これは私の再生…これこそまことの割礼です…。あなたはその愛をもって、私の心の割礼をしてくださいまいした。先生、これが私の最後の宴となりましょう。これから先、税吏のマテオにとっても、どんちゃん騒ぎはもうない。この世の祝いは、これで終わりです…あなたに贖われ、あなたに仕え、あなたに愛されている…心の中の祭りだけが…私はよく泣いた…ここ数ヶ月、もう三月も泣いて…どうすればよいか分かりませんでした。あなたに近づきたかったけど、この汚い心をもって、聖であるあなたにどうして近寄れましょう…」
                イエズスが答える。
                「おまえは、痛悔と愛とをもって心を配っていました、私のため、隣人のために。 ねえ、ペトロ。ここへおいで」
                 ぼう然として、口のきけないペトロが前へ進み出る。同年配の、小柄でがっちりした二人の男が向かい合う。イエズスは二人の間で笑みをたたえ、美しい。
                「ペトロ、おまえはしばしばヤコボが持ってきていたあの金袋の匿名の送り主はだれかとしつこく尋ねていましたね。ごらん、いま、おまえの目の前にいる人がそうです」
                「えっ?だれ?このどろぼ…。ああ、マテオ、ゆるしてください。でも、それがあなただと、だれが想像できたでしょう。あなたは高利貸しだから、私たちの絶望のもとでした。あの豊かな施しと、毎週自分の心臓の一部を切り取ることがあなたにできると、だれが考えられたでしょうか」
                「知っていますとも。私は、あなた方に不当な課税をしておりました。しかし、いま、あなた方皆さんの前にひざまずいて頼みます。私を追い出さないで! イエズスは私を迎えてくださいました。どうかイエズスよりもつらく当たらないでください。お願いします」
                 ペトロが、足元にひれ伏したマテオを、深い愛をこめて大仰にすぐさま立たせ、
                「さあ、さあ、私や他の人にではなく、イエズスにゆるしを頼みなさい。私たちは…全員、多少はあなたのように泥棒です… おっと、また言ってしまった! おお、呪われた舌! けれど、私は見てのとおりの人間です。私は腹にあることを言います。さあ、おいで。平和と愛の契りをかわしましょう」
                そして、マテオの頬に接吻する。他の人たちも、少しばかり愛情をもって同じように抱いて接吻する。こういうとき、臆病なアンドレアは控え目である。ケリオットのユダは氷のように冷たく、その抱擁はとってつけたようにそっけないもので、爬虫類の束を抱いているようである。
                 マテオが物音を聞きつけて、席をはずす…。
                「先生。こんなことはあまり賢明だとは思えない」と、ケリオットのユダが不服そうに言う。
                「当地のファリサイ人たちは、もうあなたを非難しているというのに…この上また税吏を弟子に加えるのか!淫売の次には税吏だなんて…ご自分を滅ぼすおつもりですか。それだったら、はっきり言って、そうだったら…」
                「私たちは姿を消す、だろう?」と皮肉っぽくペトロが後をとる。
                「だれが、おまえに話しているのか?」
                「おまえがおれに話しかけていないのは先刻承知のことよ。代わりに、おれがおまえの敬愛すべき霊魂、いとも清い霊魂、知恵深い霊魂に話してやる。
                 神殿の一員であるおまえが、神殿のものでない貧しいおれたちのような連中に罪の悪い匂いを感じているのは知っているさ。純粋なユダヤ人、ファリサイ人との混血、サドカイ人でヘロデ派、半分律法学士、いくらかエッセン派のおまえ―これ以上、気高いことばを聞きたいか―素晴らしい鯛が、雑魚ばかりの網にかかったように、おれたちの中にいて居心地が悪いのはよく知っている。しかし、どこがいいんだか。イエズスが私たちを選んだので…私たちは残る。だがな、居心地が悪いんだったら、おまえは消え失せろ。そうしたら、皆ほっとして、せいせいする。イエズスも、ほら、私のことで、なおさらおまえのことで気に障っているイエズスも。私のためとは、私には忍耐、そうそう…そう…あまり愛徳もないし、その上おまけに、おまえの気高い称号を並べ立ててもちっとも分からない。愛がないし、謙遜がないし、尊敬もない、おまえに対してもな。小僧、お前には何もないさ。あるのは大きな煙だけ…願わくは、害を及ぼさない煙であるようにな」
                 イエズスは腕組みして、きっと口を結び、だれもそういう目で見られたくない目をして、こわそうに立ったままで、ペトロの話が終わるのを辛抱強く待っていて、最後に言う。
                「ペトロ、それで全部か。おまえも心の中にあるパン種を取り除いて、心を清めたか。それはよかった。きょうは、アブラハムの子らにとって、種なしパンの過越祭です。キリストの召し出しは、おまえたちの霊魂の上に流される子羊の血のようです。それがあるところに、もう罪が下ることはあるまい。それを受ける人が忠実な人だったら、もう下ることはあるまい。私の召し出しは解放で、どんなパン種でも捨てて、祝うべきです」
                 ユダに対しては一言も言わない。ペトロは恥ずかしそうに黙っている。
                「ここの主人が戻ってきます」とイエズスが注意を促す。
                「友人たちと一緒に。あの人たちに徳だけを見せるべきです。これができない人は、ここから去ればよい。おまえたちは、自分たちが守るつもりのない命令で他人を圧倒するファリサイ人のような人だあってはならない」
                 マテオは他の男たちと一緒に入ってきて、宴が始まる。イエズスはペトロとマテオにはさまれて中央に腰かけている。いろいろな事柄について話し、イエズスは忍耐強く、A氏とM氏とに望まれるままに説明する。自分たちを軽蔑しているファリサイ人たちへの愚痴や不平もまざっている。
                「それなら、おまえたちを軽蔑していない人の方へ来なさい。少なくとも善人は、おまえたちを軽蔑できないような生活を営みなさい」とイエズスが答える。
                「あなたは善いお方です。でも、あなたは独りぼっちです」
                「いいえ、この人たちは、私と同じようだし、それから…心を悔い改めて、自分の友達のところに戻るように神なる父のもとに戻りたい人がいます。人間に、あらゆるものがなくなって、御父が残るならば、それだけで人の心の喜びはいっぱいになるのではありませんか」
                 宴の席は、いつの間にかお菓子が運ばれる時となり、一人の下僕が主人に何ごとか耳打ちする。
                「先生、エリとシモンとヨアキムが、あなたにお話をしたくてお目にかかりたいと申しています」
                「もちろん」
                「しかし…私の友達は税吏官です」
                「まさしく、それを見たくて来たのです。見せてもいいではありませんか。隠しても役に立たないばかりか、むしろ、ここに淫売婦がいたとうわさをする口実になるだけです。 どうぞ、お入りなさい」
                 三人のファリサイ人が入ってきて、勢ぞろいしている悪漢どもを見るようにうすら笑いさえ浮かべて、口を開こうとするが、マテオと一緒に立って迎えに出たイエズスが先手を取り、マテオの肩に手を置いて紹介する。
                「イスラエルのまことの子らよ、あなたたちにあいさつをし、皆が律法を守るのを請い願う完璧なイスラエル人のあなたたちの心を喜ばせる大きな便りをいたします。
                 ごらん、アルフェオの子マテオは、きょうから、カファルナウムのつまずきとなる罪人ではなくなりました。 イスラエルの一匹のかさっかきの羊は治されました。喜びなさい。こういうような羊の次に、他の罪深い羊が治るでしょう。こうして、あなたたちがこれほどの関心を表しているこの町は、聖なる町として主に嘉されるものとなりましょう。マテオは、神に仕えるためにすべてを捨てます。アブラハムの懐に戻る、迷える羊に平和の接吻を与えなさい」
                「それにしても、税吏官たちと一緒に戻るのですか。愉快な宴をしながら? おお、実に面白い回心ですね?エリ、あれをごらんなさい。女衒(ぜげん)のヨジアです」
                「そして、あれは姦通者のイサクのシモンです」
                「あれはばくち場の主人のアザリアで、そこではローマ人とユダヤ人が遊んだり、けんかしたり、へべれけになったりして女漁りまでしています」
                「ところで先生、この人たちがどんな人間かご存知ですか。ご存知でしたか」
                「知っていました」
                「それならどうして、カファルナウムのあなたたちと弟子の方々が、それをゆるしたのですか。ヨナのシモン、どうも気に食わない!」
                「ねえ、ここでもよく知られているフィリッポが、ねえナタナエル! もうたまげてしまいました! まことのイスラエル人でもあるあなた! あなたの先生は、税吏官や罪人と食卓をともにするのを、どうして許したのですか」
                「本当に、イスラエルではもう何の遠慮もない」
                 三人はすっかりつまずきとなっている。イエズスが話す。
                「私の弟子たちをかまわないでください。私がそう望みました、私だけ」
                「ええ、そうですとも、ごもっとも! 聖人のまねをしたくても、実際にそうではない場合、知らず知らずのうちに、ゆるされない失敗を犯してしまうものですね!」
                「そしてまた、尊敬を教えないで弟子たちを育てると―ファリサイ人の私やエリに対して、ユダヤ人で神殿もものであるこの人の無礼な笑いが、まだ私のかんに触れるが―律法に敬意を表さないのも無理からぬことです。自分が持っているもの、それしか教えられません」
                「エリ、あなたは間違っています。皆が間違っています。人は知っていることを教える、そのとおりです。律法を”知っている”私が、律法を知らない人々に―だからこそ罪人に―教えます。あなたたちは…もう既に、自分の霊魂の主人であると知って意います。しかし、罪人はそうではない。私はその人たちの霊魂だけを探し、その人たちに霊魂を返します。そのとおり、そのまま私に運びます。その霊魂は病気で、傷だらけで、汚れているので、私はそれを治療して清めます。私はそのために来たのです。救い主を必要とするのは罪人です。私は、罪人たちを救いに来ます。それを理解しなさい…理由もなく私を
                憎んではならない」
                 イエズスは優しく説得力に富んでいて、なおかつ謙遜である。しかし、あの三人はとげまみれの三本の朝鮮アザミで、反感を隠さず出て行く。
                「行ってしまった。これから、どこに行っても私たちは非難されるに違いない」と、ケリオットのユダがつぶやく。
                「ほうっておきなさい! ただ御父からおまえが非難されないようにしなさい。
                 マテオ、それから友人のあなたたち、気にしてはいけない。良心がわれわれに語りかけます。”悪いことをするな” これで十分です」
                 イエズスはまたもとの席に腰かけて、ヴィジョンが終わる。

                注:
                (1) マテオ9・9~11。 マルコ2・13~17。ルカ5・27~32参照

                  


                 

                ヘロデの前のイエズス

                2013.09.13 Friday

                0
                  アンナ・カタリーナ・エンメリック『キリストのご受難を幻に見て』より 光明社刊

                   27 ヘロデの前のイエズス

                   広場や、イエズスが引き立てられたもう道筋には、過ぎこし祭の巡礼の群れが押し合いながら立っていた。かれらは知り合い同志で一団となり、出身地別になっていた。全国からの怒り狂ったファリザイ人たちは、無定見な民衆をイエズスに反対するよう駆り立てようと、各々同郷人の群れの前に立っていた。ピラトの館のかたわらにあるローマ兵の見張り台の前や、街の重要な地点には大勢のローマ兵が配置されていた。
                   行列は一隊のローマ兵に護衛されて来た。この兵士たちはイタリアとスイスの中間地方からの出身者であった。イエズスの敵たちはこうして歩き回らねばならぬことを非常に憤慨し、そのはらいせに主を罵倒した。総督の使いは、その間にヘロデの所へ行き、行列の来るということを知らせた。
                   ヘロデはすでに大きな広間で褥(しとね)付き玉座の安楽椅子に座ってイエズスを待っていた。かれの周囲には大勢の宮臣や兵士たちがとりまいていた。大祭司たちは回廊を通って中に入り、両側に立った。イエズスは入口に立たれた。ヘロデは非常に得意になっていた。そえはピラトが大司祭たちの前で、ガリレア人を裁く権利をかれに与えることを公然と宣言したからである。かれは今や非常にいそがしくたちふるまい、尊大振っていた。またかれの前に出ることをさげすみをもって避けていたイエズスが、こんな情けない恰好でかれの所へ来たことをかれは喜んだ。ヘロデはヨハネがイエズスについて大変荘重に語るのを聞き、密告者や間諜(かんちょう)たちからもナザレト人についていろいろの報告を受けていた。そして主に自ら会うことを非常に望んでいた。かれは自分の宮臣や、大司祭などの前でおおげさにイエズスの訊問を行った。自分がいかにこの事件の内情に通じているかを、この両方の者たちに見せてやろうと手ぐすね引いて待っていた。
                   しかしかれはまたピラトがなんらの罪をもイエズスに認めなかったという報告も受けていた。このことは告発人たちを用心してあしらってやった方がよいという暗示をへつらい者のヘロデに与えた。しかしそのために告発者たちをかえってますます激昂させてしまった。かれらははいってくるやいなや、非常に激しく訴え出た。ヘロデはしかし物めずらしげにイエズスを眺めた。そして汚れ果てた着物に包まれて、かくもみじめに虐げられ、髪は乱れ、打ちたたかれ、血に染まった主の顔を見て、この柔弱な王は気分を悪くしながらも同情を禁じ得なかった。かれは顔をそむけて司祭たちに言った。「この男を連れ出せ、きれいにして来い。」すると下男たちはイエズスを前の広場に連れて行った。そして水とボロ切れの入った鉢を持って来て、乱暴に主を洗った。かれは主の傷ついている顔を痛めようがどうしようが容赦なく洗った。ヘロデはかれらのひどい取り扱いをとがめた。それはピラトのしぐさをまねようとするかのようであった。「かれを見るがよい。―屠殺者の手にかかったようだ。今日おまえたちはもう時間前に過越し祭を始めてしまったではないか。」しかし大司祭たちは自分らの訴えと起訴をうるさく持ち出した。その時イエズスが再び連れて来られた。ヘロデは主に親切心を見せようとした。そして主がすっかり弱り果てているだろうからと、酒の入った杯を持って来るように命じた。しかし主は頭を振られて、その飲物を飲まれなかった。
                   ヘロデは何かとしゃべり散らし、主に対しお世辞がましく、自分が主について知っていることをならべ立てた。始めかれは少々質問をした。また何か主が奇跡を行うことを望んだ。しかし主は一言半句も答えられずずっと静かに下を向いて居られた。ヘロデは非常に怒った。かれはみんなの前で恥をかかされたのだ。でもそれを人に気づかれまいとした。そして、質問ときまり文句をたてつづけにぶちまけるのだった。かれは言った。「余はおまえがひどい罪を負わされているので気の毒でならない。余はおまえのことをいろいろ聞いて知っている。ところでおまえはローマ総督から余の所へ送られて来た。そして余の裁判を受けるのだ。おまえはみなの訴えに対して何というのか。何? おまえは黙っているな。みなはおまえの話や教えのすぐれた知識について余に聞かせてくれたが、余はおまえから告訴人たちへの反駁を聞きたいのじゃ。なんとおまえは言うのか。おまえがユダヤの王というのは本当か。おまえは神の子か。おまえはだれだ。おまえは大きな奇跡を行ったそうじゃが、さあ、余の前で自分の証しをたてろ。しるしを見せろ。余はおまえを放免することができるのじゃぞ。おまえは生まれながらの盲目を見えるようにしたというが、それは本当か。おまえはラザルを死からよみがえらせたって。なぜおまえは返事をせんのじゃ。奇跡を一つ見せてくれ。それはおまえのためになるぞ。」
                   しかし、イエズスは黙って居られた。ヘロデはますますせき込んで話した。「おまえはだれだ。だれがおまえに全権を与えたのだ。なぜ今はもう、何もできんのか。おまえの生まれにまつわって奇妙な話があるじゃないか。最近余の聞くところによると、民衆はおまえのために神殿へ凱旋行列を行ったそうだが一体あれはどういう意味があるのだ。それが今、こんな結果になったということは一体どうしたわけだ。」
                   しかし、ヘロデはすべてこれらの問いにイエズスから一言の返事も得られなかった。主がかれにお話しにならなかったのは、洗者ヨハネをかれが虐殺し、またヘロディアスとの姦通のせいであったことがわたしに知らされた。
                   アンナとカイファは救世主の沈黙に対するヘロデの不機嫌を利用してその訴えをまた改めて述べ立てた。かれらは特にイエズスがヘロデを狐と呼び、すでに以前から王室の滅亡を企てていたということや、新宗教を始めようとして過越しの羊をすでに昨日食べてしまったことなどを訴えた。
                   イエズスの沈黙にヘロデは実際非常に憤慨していたが、ある政治的もくろみを忘れなかった。かれは救い主を裁こうとは思っていなかった。かれは主に何か言い知れぬ恐怖を抱いていた。またヨハネを虐殺したことでかれは時々不安におそわれていた。また他方かれは大司祭たちをきらっていた。それはかれらがかれの姦通を決して是認しなかったためと、またそれゆえにかれを犠牲の祭りから除外したためである。しかし、ピラトが主の無罪を宣告したということが、主を裁きたくなかったおもな理由であった。かれは司祭長たちの前で、ローマ人にへつらおうとしたのである。今やかれはイエズスに軽蔑的な毒舌を浴びせかけ、下僕や護衛兵に命じて言った。「この馬鹿者をつまみ出せ。笑い者の王さまにふさわしい敬意を表せ。こいつは罪人と言うよりかおろか者と言った方がいい。」かれらは救い主を広い庭に連れ出して言葉につくせぬ虐待や侮辱を加えた。この庭は館の一画に囲まれていた。ヘロデは平屋根の上からこの虐待をしばらく見下ろしていた。しかし、アンナとカイファは常にかれの後に付きまとい、イエズスの判決を決定するようにといろいろ手をつくした。しかし、ヘロデはローマ人たちに聞こえよがしに言った。「もし余がかれを裁けば、余は最大の罪をおかすということになる。」しかし、実際はていねいにも、イエズスをわざわざ自分のところに送ってよこしたピラトの判決に、反対するのがかれにとっては最大の罪であるということを意味していた。
                   司祭長や他のイエズスの敵たちは、ヘロデがどうしても自分らの思うようにならないことがわかると、その仲間二、三人の者に金を持たせ、大勢のファリザイ人がちょうど滞在しているアクラ市区に走らせた。そしてかれらはファリザイ人に、その同郷人の者といっしょにピラトの館に行くようにうながした。また司祭長らは多額の金を、ファリザイ人を通じて民衆の間にばらまかせた。それは民衆にイエズスの死をさわぎ立てて要求させるためであった。他の大司祭の使いたちは民衆の間に、―もしかのガリレア人を生かして置けばきっと神の裁きが民の上に来るだろうという脅迫を言いふらして歩いた。主の敵たちは、もしイエズスが許されれば、イエズスはローマ人と結託するだろう。それがかれのいつも言っていた王国だ。そうなればユダヤ人は永久に滅びてしまう、と宣伝した。また一方ヘロデは、かれに有罪の判決を与えたが、万一かれが許されると、かれの帰依者どもは祭日をめちゃめちゃにしてしまう危険があるから、民衆もまたその意思表示をしなければならぬと言ううわさを広めさせた。こうして混乱、ひどい不安をかもす噂が広まり、民衆がみな激昂し、怒り立つように手配した。同時にヘロデの兵卒たちには金を与えて、イエズスを死ぬほど乱暴に虐げさせた。それはピラトが主を放免することを恐れ、主の死を望んでいたからである。
                   これら礼儀知らずの神を恐れない悪党たちのために、わが主はもっとも侮辱的な嘲弄と、もっとも残酷な虐待とをこうむらなければならなかった。かれらは主を庭に引き出すや、一人の兵卒は門番の小屋から大きな白い袋を持ち出して来た。かれらはその袋の底に穴を作り、嘲笑のうちにそれを主の頭からかぶせた。その袋は足の方まで垂れ下がった。他の一人の兵卒は、赤い布きれをカラーのように主の首のまわりにまきつけた。そして、主が自分たちの王に返事をされなかった腹いせに、その前におじぎをしたり、あっちこっちに突き飛ばしたり、罵倒したり、つばきしたり、顔を殴りつけたり、またあらゆる侮辱をこめた敬意の礼をつくした。そして、兵卒たちはあたかも主を躍らせようとするごとく引っぱり回した。主は長い引きずるような愚弄のマントに足を取られ倒れた。さらに主は庭のまわりにある建物に沿って流れている溝の中に引きずり回された。そのため聖なる顔は柱や隅石などに打ちつけられた。ついでかれらは主を再び引っぱり上げた。するとさらに新しい騒ぎが起こった。ファリザイ人から金をもらった者が、ひしめき合い棍棒でその頭を殴りつけた。主に新たなる虐待が加えられるごとにかれらの間には高笑いが巻き起こった。そこには主に同情を寄せる者はただの一人もいなかった。わたしはイエズスがひどく出血し、三度までもその打撃のためにお倒れになったのを見た。しかしわたしには天使が泣きながらそのお顔に油をぬっているかのように見えた。わたしには、この打撃は神の助けがなければ、全く致命的なものであったことが示された。
                   しかし、大司祭たちは間もなく神殿に再び行かねばならなかったからせきはじめた。かれらはすべての指令が達せられたという報告を得るや、さらにもう一度ヘロデにイエズスの判決を迫った。しかしかれはひたすらピラトを気にしていたので、イエズスを愚弄のマントを着せたままで総督のもとに送り返した。

                  「インド公子」到来 … 踊るマンショ

                  2013.09.08 Sunday

                  0
                    『クアトロ・ラガツィー天正少年使節と世界帝国』本文から

                     第五章 ローマの栄光

                    「インド公子」到来

                    …… フィレンツェの国立古文書館にある使節関係の一文書では、リヴォルノの港代官マッテーオ・フォルスターニからトスカーナ公にあてて三月一日に一行の到着が報告されている。これが、たぶん、発端である。その文面は、船長グランデラーグの船が到着して、リヴォルノ向けの羊毛、燕脂、塩がおろされたが、これといっしょに「日本の島なるインドの公子四人渡来」となっている。ここではっきりプリンチピ・インディアー二(インドの公子)となっているのは注目すべきだろう。
                     なぜなら、シマンカスの王立古文書館にある、フィリペ王がローマのスペイン大使オリヴァレスに送った1584年11月24日の書簡では、一行は、「マンショ 日向(ひゅうが)の王の孫(または子孫)、ミゲル 有馬の王の甥(フロイスが『使節記』に書いたポルトガル語では、マンショを日向の王の従兄弟と書いてあったために、日本の歴史家に非難された。しかし、その文書を受け取ったフィリペまたはその裕筆は「孫または子孫」と書いているから、フロイスの書きまちがいであることがわかる。
                    フロイスは同じところで、侍従の名前もふたつまちがえた)などと、具体的に彼らの身分を書いてあるのみであり、ヴァティカン古文書館にあるトレド管区長からイエズス会総会長あての12月17日の手紙には「シニョーリ・ジャポネージ(日本の紳士または貴族)となっている。したがって、一行がスペインにいるあいだは彼らの素性は歪曲されていない。
                     とくにフィリペの的確なことは非常に顕著だ。この手紙で彼はスペイン大使に、使節が国に帰って西欧でよく待遇されたことを賞賛し、みながキリスト教徒になるようにこの使節を好意をもって迎え、名誉をもって遇し、教皇庁でよい処遇がなされるように命じ、彼らがぶじに着いたかどうか、また教皇が厚遇したかどうかの報告を待つ、と命令している。
                     だから、日本をインドと混同したり(なんで日本からインドの公子がくるの?)、スペイン宮廷で厚遇されたから公子だと早合点したりするようなまちがいは、羊毛と塩と使節の到着を同じ報告書に書くような男がやったことである。あるいはスペインは植民統治国だから、インドと日本のちがいを知っている(フロイスは、ポルトガルでは使節の一行を物珍しく見る者などいなかったと、大騒ぎするスペインを暗に田舎者扱いしていたが、イタリアではもっと大騒動になった)のに、イタリアに入ったとたんに、オリエントはみなインドだろうというような大ざっぱな理解になってしまったのかもしれない。しかもこの代官は方々に手紙を出し、「インド公子」「インド王子」と書きまくっている。
                     これ以後、トスカーナ大公がローマ教皇庁にいる弟のフェルディナンド・デ・メディチ枢機卿に送った1585年3月2日のピサ発の手紙では「かの日本の公子」となり、3月2日のフィレンツェ発教皇庁駐在大使コルバラからコモ枢機卿に贈った手紙ではなんと「インドより来れるふたりの王」となっている(これはヴァティカン古文書館)。この大使は、3月9日、3月11日、3月13日、3月16日とたて続けにインド、インドとくり返し、3月23日になってやっと「日本の公子」と書くようになった。
                     さらに1584年のシエナ年代記は「彼らはザビエルによって帰依したインドの王のため教皇に服従をあらわさんとて来れり」と記し、ドン・マンショは「ブンゴ」の使節ではなく「コンゴ」の王の大使(!)となっている。もうなんでもあり(シエナ古文書館)。
                     このような国籍、身分の誤解のほかに、3月1日上陸時に代官フォルスターニが大公に送った手紙には、大公をそそるこのような文章があった。「…万事につきて彼らの才智の驚くべきを見ることを得べし。船長より、リヴォルノにおいて彼らを宿泊せしむるべき者あるかと尋ねしところ(ということはここではどこに泊るかも決めていなかったということである)、…船長の言うところによれば、彼らは殿下の御手に接吻するためおもむかんとするものなりと。船長はまたイスパニア国王は彼らに四千ドゥカートと与えたる由を語れり」
                     さらに同日、同人は大公の主席秘書官にあててつぎのように書いた。「同船はまだ投錨せず。されど彼らは身分高くして、イスパニア国王より大いに厚遇を受けし人物なるをもって…彼らがこの路を選びたるは、大公の高名を聞きて謁見を望みしがためなり…彼らは教皇のもとにおもむくものなるが、かの国の王者の用うる衣服を所持し、イスパニア国王のもとにおもむきたるときは王の衣服にて来るべく、殿下および教皇に対してのみ、この服装をなすべしと言えり」
                     つまるところ、これは最初は代官が自分の家に泊めようと思ったのだけれども、どうもスペイン国王に厚遇されていたらしいので、大公が迎えるのがよい、第一、この港に来たのは大公の名声を聞いて謁見したいためだし、そのときは「王様の前か教皇の前でしか」着ない服を着てゆくそうだ、ということである。これを聞いて大公は、ここからフロイスの記述によるが、代官にできる限り歓待するように指示し、その重臣であるイギリス人(サンデは身内の一騎士と書いている)に馬車と輿(よ)車を二台ともなわせて彼らをピサに招いた。というのも、代官は前の手紙で、スペイン国王が彼らを馬車で送り迎えした、と書いたからであろう。また一行が船を降りたとき、数多くの大砲(ここはトスカーナの海軍基地であった)から祝砲が轟いた。
                     ピサについてはもう言うまでもないことで、この都市の大学こそは中世哲学・科学のメッカであった。ガリレオがピサの斜塔で実験をやったことは有名で、彼は、使節がここへ来たときは、二十四歳、ピサにではなく、ヴァリニャーノも学んだパードヴァ大学にいた。ピサで使節を迎えに来たなかにはピサの市長や大学人がいた。大公は弟のピエトロを名代として送り、彼らが宿泊することになった宮殿を訪問させた。日暮れになって彼らはたぶんまたスペインから随伴していったおせっかいな神父の助言で「大公が望んでおられるから」という理由で和服に着替えて、大公が送ってよこした護衛兵つきの輿車三代に乗って、数多くの松明が照らすなかを宮殿に向かった。
                     ここで大公の兄弟は玄関まで迎えたが、フランチェスコは階段の下までおりず、階段のかなほどまで来て待っていた。 階段まで出迎えたのは彼が王ではないからで、なかほどで止まったのは、ほとんど王と言ってもいい地位をもっていたからである。そこで大公は、彼ら使節をイタリアで最初に迎えるのが自分であったことは神の恩恵であると言った。彼は細面のダンディーだから、階段のなかほどでその挨拶を格好をつけて優雅にやったに相違ない。

                    踊るマンショ

                     使節らはここで狩りに招待されたり、大舞踏会で「有名な」大公夫人とマンショが踊ったりして、王侯らしい数日を過ごさなければならなかった。……マンショは「いや実際、ひとつにはその所作を知らぬための羞恥の念と、今ひとつにはかような婦人に対する畏敬の思いや、貴顕の人びとが多いことへの生まれつきの臆病さで、わたしはもうとても困惑した。しかし、このような公式の場での演技はひたすら野暮臭く見えないようにと、わたしはとても大胆に構えて勇を鼓し、あえてそれを敢行するほかはなかった」とまるで戦場に行ったときのように武勇談を語っている。
                     マルティーノは「最初にその戦闘に出陣したマンショとミゲルのおかげであとに続くわれわれはすこし羞恥の念が軽くなるはずだった(しかしじつはたいへん恥ずかしい思いをしてしまったのだ)。なぜなら、最後に踊ることになったジュリアンが相手の女性を選ぶときに、じっと自分を見ていた婦人を選んだのだが、それは(もうダンスをしない)老女だったので、みんながどっと笑ったんだ」
                     ジュリアン「それが偶然だったからまだよかったものの、もしわざとやったんだったらどうなると思う? 舞踏のへたなわたしが自分の恥を人にそらそうとしてみんなが笑ったのはわたしが未熟なのではなく、まるで舞踏に適しないその婦人に恥を移すようにわたしが仕組んだように見えるではないか」
                     リノ「いやいやそのふるまいは優雅さを欠くものではなかったにちがいない。観衆はかたや紅顔の少年、片や年齢の重荷を背負った老婦人とがともに顔を赤らめるのを見て、その組み合わせをおもしろがったのだろう」
                     キリスト教教育にはなんのたしにもならないこの舞踏会をこんなに長く書いたのは、ヴァリニャーノがこの話を聞いてひどくおもしろがったからだろう。実際ダンスなどというものは日本人にはまったくやっかいなものだ。そしてここにはいつも優等生すぎるマンショが、いつも先頭を切ってなにか不得手なことをやるときの、がんばりとその本音を出しているのがおもしろい。彼は自分の外交的使命を自覚し、不得手なことも一所懸命に、日本人の恥になるまいとしてがんばっていた。けっこう身につまされる話である。現代になっても、初期の留学生はみなこういう思いをしたものだった。また不器用なジュリアンの失敗や、その失敗をすっぱ抜くマルティーノの余裕のある快活な性格も出ている。ジュリアンは、無骨なのは自分なのに、老婦人を侮辱したのではないかと思いやっている。彼は思いやり深い少年だ。でも、最後にはみなの笑いは悪意のあるものではなかったと、ヴァリニャ−ノは慰めた。ヴァリニャーノも自分の最初の舞踏会を思い出したことであろう。なぜここに出ている少年たちの特徴に信憑性があるかといえば、このエピソードには粉飾すべき要素がなにもないからである。
                     いっぽう現場にいたメスキータから情報を得たフロイスはこう書いている。「公妃が立ち上がって、ドン・マンショの腕をとって踊りたもうた。ここでふたつのことが生じた。ひとつは感動であり、ほかは愛嬌である。ふたつとも臨席者に大きな歓喜を呼び、ドン・マンショの謙遜と教養に賛辞が浴びせられた。上記のしだいで、公妃がご自身と踊るように招かれたとき、彼は一行の責任を負っているパードレに許しを求めなければ応諾しなかったので感動を呼んだのである。また彼もほかの者も貴婦人と踊ったが、なにぶん風俗といい舞踏のしかたといい、日本のものとは非常に相違しているので、熟練して踏みまちがいもしない多くの宮廷人の慇懃なふるまいにくらべて、彼らはイタリアの踊りを知らないし、練習したこともないので、ときどきまちがい調子を失うことがあった。しかし、少年であり異国人であるが、それでもなお、あたかもよく知っているかのごとく平然と行った。それはことごとく臨席者の座興を招き、大いなる喝采と満足をかち得た」…
                     とにかく、三月七日、フランチェスコ大公はローマのメディチ枢機卿に、「日本の公子」らにはふさわしい名誉の待遇をし、カーニヴァルを見学させ、聖灰の水曜日(三月六日)にはサント・ステーファノ騎士団の儀式を見物させて大いに彼らを喜ばせ、すべての費用を負担してフィレンツェを見学させる。それはすべてそうすることで教皇が満足なさるだろうと思って悦んでやったことであると書き送った。使節についてはただ「彼らははなはだ謙譲なる青年なり」とのみ書いている(フィレンツェ古文書館)。
                     このサント・ステーファノ騎士団の任務そのものが、日本の武士のそれとよく似ているのみならず、ヨーロッパとキリスト教世界の宿命の敵であったトルコを仮想敵として組織され、地中海の海軍を統括していたからである。少年たちも武士であったから、この騎士団の武器庫や船を見て感動した。ピサの大聖堂で行われた儀式には騎士団員がみな白く長い衣を着け、胸に紫色の十字をつけて聖なる灰をいただいたが、その最高の座席には大公がいて、すべての騎士はまず大公とそれから桟敷にいた使節のほうに頭をさげて灰をいただいたのである。
                     しかし、これらすべては目的地ローマに行くのを遅らせるだけだった。それでも、トスカーナ公の熱心な歓待を拒むことができず、彼らはフィレンツェに向かい、大聖堂、パラッツォ・ヴェッキョ(使節はここに泊った)、ピッティ宮殿、ポポリの庭園、ミケランジェロの設計になるサン・ロレンツォの「夜」の彫刻のあるメディチ家の廟もあったのだけれど、その記述はない)、プラトリーノの庭園、数々の奇跡的な聖遺物、聖画像などを見学した。サンデの『見聞録』では、すでに1565年にジョルジョ・ヴァザーリが建造していたウッフィーツィの柱廊を見学したのち、アルノ川にかかったポンテ・ヴェッキョの上の柱廊を通って、川向こうのパラッツォ・ピッティまで行ったらしい記述がある。
                     そして3月二十九日、ローマにおけるトスカーナ大使ジュリーニは大公にあてて、「彼らはイタリア、とくにトスカーナを賞美し、プラトリーノをフェイリペ王の離宮にもまさりたるもっとも壮大なるものとして嘆賞せり」と大公を悦ばせる報告をした。

                    船長アルメイダ

                    2013.09.03 Tuesday

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                      『クアトロ・ラガツィー天正少年使節と世界帝国』本文から

                      第一章 マカオから大きな船がやってくる
                      船長アルメイダ
                       
                       1549年年(天文18年)にザビエルが鹿児島に着いてからわずかに三年後の1552年、そして天正少年使節が長崎を出帆する三十年前に、二十七歳のひとりのポルトガルの青年が長崎に上陸した。
                       この人物が、大航海時代のポルトガル人の典型、金儲けのために、荒れ狂う海も、凶暴な海賊もものともせず世界を行く男、船長ルイス・デ・アルメイダだった。アルメイダは医師の免許をもった前途有為の若者だったのに、ポルトガル、スペインの世界征服の波にのって、アジアでの一獲千金を夢見て、リスボンから船に乗ってインドのゴアに行き、さらに中国のマカオに向かった。そして中国で生糸を仕入れて日本で売りさばく有利な貿易に投資し、自分でも貿易船を乗り回して、三十歳になるかならぬかで、もう巨万の富を蓄えていた。
                       世界をまたにかけるこのような男がスペイン、ポルトガルには何百、何千といた。この両国は強力な王権をバックにし、前世紀に行われた地理上の発見や、すばらしく機能的な帆船や、破壊力抜群の大砲を武器として、このとき世界をぐるりと囲む世界帝国を築きあげていた。帝国が築いた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、ルイスのような青年がいっせいに世界ビジネスに飛び出していったのである。
                       だが、いったいどうしたことか、この男、大航海時代のヒーロー、一攫千金を夢見て祖国ポルトガルを捨て、仲介貿易で巨利をむさぼった野心満々の若者が、祖国から遠い島国日本で、その全財産を投げ打ち、貧者の救済に献身して日本に骨を埋めてしまったのである。
                       そう、だからこそ、この男ルイス・デ・アルメイダを知ったからこそ、私にはすべてが見えてきた。世界帝国がはりめぐらしたグローバルな経済網、そのエージェントである冒険家たち、そして彼らとともに、アジアに大量に押し寄せたキリスト教宣教師たちが、いったいなにを考えていたのかが。
                      ルイスはこのとき世界に起こっていたふたつのこと、つまり、投機的な世界経済と、キリスト教の世界布教の双方を一身に体現していた。歴史書で見慣れてはいたものの、いっこうに現実味をもたなかった世界史上の出来事が、この男を見ているうちに、血も涙もある身近かな人間の物語に見えてきたのである。そればかりではない。われわれの天正少年使節がなぜヨーロッパに送られることになったのかについても、もとをただせば、この男が日本でやったことと深い関連があるのである。
                      ふたりの子供をひざに抱く細面の端麗な風貌の老人の銅像が今は大分市の大通りに建っているが、かつてはその名を知る人もいなかった。
                       ルイス・デ・アルメイダは1555年(弘治元年)から1583年(天正11年)まで二十八年間も日本にいて日本で死んだ。そのため西洋でもその名はたいして知られていない。その生涯を調べたレオン・ブルドンは、この人のことを、「さまざまな異なった文化を理解する態度と、賢明な洞察をもって、この太陽の昇る帝国の南で、もっともうるわしい成果をおさめた」と絶賛した。
                       日本のキリスト教の歴史を書いた歴史家はひとりのこらずこの人物の仕事について書いているが、彼がどうして日本にくることになったのかも、なぜイエズス会の神父になったのかもよくわかっていない。
                       リスボンで1710年に出たソウサという人の記録では、ルイスはどこでいつ生まれたのかもなぜイエズス会に入ったのかもわからないと書かれている。
                       二十世紀になって、シュルハマー師が、ローマのイエズス会古文書保管所で、やっとその身分を明らかにした。それによると、彼はリスボンのかなり裕福なユダヤ人か、イスラム教徒かで、新しくキリスト教に改宗した家族の出だということである。
                       十六世紀の日本のことをくわしく書いたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、アルメイダが1583年に日本で死んだときには六十歳に近かったと言っているし、アルメイダが1555年(弘治元年)にマカオから書いた手紙には、自分が「三十代に入った」とあるので、生まれたのは1525年ごろというふうに考えられる。
                       日本でいっしょに働いていたフロイスにも、自分がイエズス会に入る前になにをしていたかはなにも話していなかったらしい。けれどもフロイスは「ルイスはラテン語がとてもよくできた」と書いている。それは彼がどこかの大学でいわゆるヒューマニズム(人文主義)的な教養を身につけたことがある証拠である。
                       二十世紀になってレオン・ブルドンの調査によって、ルイスはポルトガル王ドン・マヌエルの「王付き大医者」の位にあったメストレ・ギルのもとで医学を学び、1546年の3月30日に、王領のどこでも外科医として開業できる資格を得た医者だったことがわかった。この学位授与式はドン・ジョアン三世の文書館に保存されているそうである。
                       しかしどういうわけか彼はポルトガルで医者にならずに、「そのほかの多くの若者と同じように」幸運をもとめてインドに出かけた。そのころポルトガルの首都であり世界通商の中心母港であったリスボンからインドのゴアへの船は数年に一度しか出なかったので、いろいろな可能性を考えると、彼が乗った船は1548年に出たサン・ペドロ号かコンチェイサン号で、そこにはのちに日本で宣教したバルタザール・ガゴ、ルイス・フロイス、そしてジョアン・フェルナンデスなどのイエズス会士が乗っていた。
                       冒険者と宣教師をいっしょにアジアに運ぶ、これは運命の船だったかもしれない。別のイエズス会士アカシオ・カシミーロによると「彼は1550年ごろにオリエントに出かけ、貿易に励んで巨万の財産を築いた」そうである。
                       別の著者ペレグリーノ・ダ・コスタは、「ルイス・デ・アルメイダは、インド、中国、それに日本で数年間貿易をやって、フランシスコ・ザビエルを乗せたあの有名な船《サンタ・クルス》号の船長になり、聖人を上川(サンシャン)島に運んでいった。そしてそこで亡くなった聖人の遺体を同じ船でマラッカに運んでいった」と書いている。
                       さらにペレグリーノは「1552年、ザビエルが、友人のディオゴ・ペレイラの船《サンタ・クルス》号でマラッカから中国へ行きたいと言ったときに、そのときのマラッカの統治者ドン・アルヴァーロ・アタイーデが個人的な理由で反対したので、その友人はルイス・デ・アルメイダに船長として行ってもらうようにした」と書いたので、この話はキリスト教信者のあいだでほんとうのように思われていた。大儲けをした野心的な若者が、聖人ザビエルの死にあって劇的に回心し、ザビエルの魂の残る島日本で布教する決心をしたとすれば、それは納得がゆくし、第一ドラマチックである。
                       しかし、1970年に「宣教師、医者、商人ルイス・デ・アルメイダ」という論文を書いたテイシェイラ師は、この話は、事実とちがっていると書いている。
                       ルイスはこの船の船長ではなく、船長をしていたのはアルフォンソ・デ・ロジャス、マラッカの統治官はアルヴァーロではなくてその兄弟のペドロ・ダ・シルヴァ・ダ・ガマだった。このふたりはどちらもインドの発見者であるヴァスコ・ダ・ガマの息子だった(世襲!)。マラッカ海運総司令官だったアルヴァーロは、ザビエルが中国にわたることに強硬に反対した。それでザビエルはいくつかの請願状で、教会関係者が彼を説得するように懇願した。 結局この布教妨害の罪でアルヴァーロは破門されてしまった。このあいだ、ザビエルは悲しみのあまり家から出てサンタ・クルス号に泊ってしまうことを考え、中国にわたることができなければ「悲しみのあまり死んでしまうでしょう」と書いている。ザビエルが情熱的な人であったことがわかる手紙だ。また広東沖になった上川島に着いてからの最後の手紙でザビエルは自分が中国に行くことを妨害したのは悪魔のしわざだったと述べている。
                       その上、さらに悲惨なことだが、上川島で、ザビエルは病気になって「船付きの理髪師」に手術を二回も受けるはめになった。刃物をもっていればだれでもいいというものでもなかったろうに!ペレグリーノによれば、この理髪師は静脈を切らなければならなかったのに、顔面神経に「触れて」しまった。そのためザビエルは人事不省に陥り、高い熱と激しい痙攣を起こし、1552年12月2日に、念願の中国大陸に足を踏み入れることなく亡くなった。この悲惨な話は聖ザビエルの栄光に満ちた伝記では読んだことがない。聖人は、亡くなる前に自分を中国の大地の上に寝かしてくれと言ってベットを降り大地に横たわった。
                       もしもこの船に外科医のアルメイダが乗船していたのなら、こんな悲劇は起こらなかったはずである。このことからこの船に外科医アルメイダは乗っていなかったとテイシェイラ師は結論づけている。もっと問題がこみいってしまったのは、中国の記録を書いたディオゴ・ド・コウトが、サンタ・クルスにはルイス・デ・アルメイダというパイロットがほんとうに乗船していたと言っていることで、 どうやらそれは同姓同名の人だったらしい。今筆者がポルトガル語を教えてもらっているブラジル人もルイス・アルメイダという名前なので、この名前は多いらしい。
                       このように、学者たちの調査のおかげで、アルメイダの実像がだんだんはっきりしてきたが、しかし、どうしてもはっきりしていないのが、なぜ彼が儲け仕事をやめて突然入信してしまったかという理由である。状況証拠から考えると、東アジアで交易をする商船には必ず宣教師が乗っているので、船中で洗脳されたか、あるいは宣教師のやっていることに共感したかということが考えられる。だがその回心はあまりにも劇的なので、通常の体験ではないなにか強烈な出来事が、三十代の若者を転身させたのだとしか思われない。
                       多くの記録を読んでいるうちに私はあるおもしろい手記に出会った。天正六年に日本に着たアフォンソ・デ・ルセナという宣教師が書いた手記で、中国のマカオまで来た西洋人たちもよほどの儲けがなければそこから日本にはわたらなかったそうで、その理由はマカオから日本までの海域ほど危険な航海はなかったそうである。とくにしばしば襲ってくる台風のせいで、莫大な財産を積んだ多くの船がその犠牲になった。商人も宣教師も同じ運命を辿った。この危険な海域でよりによって大型台風に出会ったルセナは大波に翻弄される船の恐怖を「船を天までおしあげたり、覆いかぶさって船を海底へ葬ってしまう」ような波について語り、さらに、「その荒れる船のなかでは、最大の恐怖と生命の危機になったときに示す最奥の人間性がむきだしになる」と書いている。
                       このとき、日頃不信心だった男たちは、同船していた神父にしがみついた。「五人のポルトガル人が神父にすがって、ふたりが腕を、ふたりが足を、ひとりが胴をつかまえて、わたしたち六人はいっしょに海に入って死にましょうと言った。そして腰をおさえていたひとりが耳に口を近づけ低い声で『もしこの嵐から生きて逃れることができたらイエズス会に入ります』と神に誓った。彼は富裕な商人で、自分の商品を陸揚げしてから、今後は修道士として生きるために修道会に身をおいた」
                       このとき乗船していた商人のなかのふたりがその後入信したということである。生命と財産が自然の猛威の前ではじつにはかなく消えてしまうものだという体験は、人間にとってほんとうにだいじなものはなにか、永遠に滅びることのないものはなにかという宗教的回心を呼び覚ます契機であったことは疑いがない。このなかで、神父が果たす役割は非常に大きかった。彼は自分自身も恐怖にさらされながら、肉体の身がはかなく滅びても永遠の霊魂の救済を祈れと言って、彼らに最後の告解(懺悔)をさせる役割だった。奇妙なことだが、このように生命を賭けてでも日本にやってくる人間には二種類あった。ひとつは莫大な利益を狙う欲望に命を賭けた商人である。そしてもうひとつは最初からこの世の生命を棄てている神父たちだった。しかし、この二種類の人間たちは、しばしば地獄の底でひとつになったのである。…
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