3人の神学生とは誰だったのか?
2013.08.30 Friday
『クアトロ・ラガッツィ ー 天正少年使節と世界帝国』若桑みどり著 集英社発刊より
『カトリック教会のカテキズム』第2部 神の十戒 第2章「隣人を自分のように愛しなさい」より
2013.08.21 Wednesday
47 マリアの被昇天 2
2013.08.16 Friday
頭を垂れたヨハネの疲れた顔に、マリアを失った苦しみと、光栄あるマリアの運命への歓喜とが浮かんでいるが、もはや歓喜が苦しみに勝っている。
「神よ、私の神よ、ありがとうございます! 感謝いたします! こんなことが起こるだろうと予感していたので、被昇天の様子は何一つ見落とさないように起きているつもりだった。しかし徹夜が三日も続いた!被昇天が近づいた時、苦しみと疲れとがないまぜになって、睡魔が私に襲いかかった(3)…。神よ、あなたご自身が望まれたその瞬間を、多分私が乱さないように、またそれほど苦しまないようにということだったのでしょう…それだ、確かにあなたのおぼしめしだった。あなたの奇跡がなければ見られなかったことを、私に見せてくださった。
マリアは、もうこれほど遠くになっても、すぐ近くにいるかのような光栄に入った。光栄あふれる姿を私に見せてくださった。そして、イエズスも! おお、いとも幸せな思いもよらないヴィジョン! あなたのヨハネへの神なるイエズスの賜物の中の賜物! 最大の恵み! 私の先生である主がまた見えたこと! 母のそばにおられるイエズスを見た!
天のエルサレムの最大の星であるあなた方が、ここで輝いている。天国とはどんな所でしょう。天使たちと聖人たちの喜びはどれほど大きいか。お母様が御子と一緒にいるのを見る喜びは、これらの人たちの苦しみのすべてを皆無にするだけではなく、私の中にも、悲しみよりも平和がある。私が神に頼んだ奇跡のうち二つが実現した。光栄のうちに一緒になったお二人を見たことで、私の大きな苦しみはなくなった。神よ、このために感謝します。最後の審判の後、肉体のよみがえりの後、死後、天に昇った霊魂とまた一緒になる聖人の運命はどんあものかと、いとも聖なるものであっても人間であるマリアによって見せてくれたことについて感謝します。
死ぬ時、天に昇った霊魂が、また肉体と一緒になるところを見せてくださったことも感謝します。私は、信じるために見るという必要はなかった。先生のどんなことばでも、いつも難く信じていたから。だが、何百年か何千年かの後には、塵となった肉体がどうして再び生きる体となれるか、多くの人が疑いを持つに違いない。
私は、最も気高いすべてにかけて誓うが、イエズスは神としての自分自身の力によって生き返っただけでなく、その母も死の三日後―それが死と言えるなら―生き返り、そして霊魂にまた合わさった肉体で、御子のそばに、天における永遠の住まいに落ち着いたと言える。私は『おお、すべてのキリスト者たちよ、世々の終わりの肉体の復活を、霊魂と肉体との永遠の命とを、聖人たちにとって幸いであり、痛悔せずして死んだ罪人にとっては恐ろしいその命を信じなさい。私はこれをあなたたちに証(あかし)できる。いつの日か、霊魂と体とともに新しい永遠の世界に、太陽なるイエズスと、すべての星の中の星マリアのそばにいられるように、聖なる生活を送りなさい』と言う。神よ、感謝します! いますぐマリアの残した物を集めます。マリアの服からこぼれ落ちた花を、寝床に残っているオリーブの枝を集めてとっておきます。そうだ、待ちぼうけをくった私の兄弟たちに助けと慰めとを与えるのに役立つに違いない…」
落ちて、あちこちに散らばっている花びらを一つ一つ集め、服の裾を持ち上げて中に入れ、部屋に戻ったその時に寝床の上の花をしげしげと見て叫んだ。
「もう一つの奇跡! イエズスとマリアの二人の人生における不思議の、もう一つの感激的な比較である! 神であるイエズスは自分でよみがえり、己の意志だけで墓石を倒し、自力で天に昇った。 いとも聖なるものであっても人間の娘にすぎないマリアは、天に昇るために天使たちによって道がつけられ、その助けによって天に上げられた。
キリストの場合は、体がまだこの地上にあった時に霊魂がその体を生かした。敵たちを黙らせるために、すべての弟子たちの信仰を固めるために、そうあるべきだった。マリアの場合は、いとも聖なる体がもはや天国の入口に至った時に霊が戻った。マリアにとって、これ以上何も必要としなかったから。神の無限の知恵の完全な力よ!…」
ヨハネは、小さな寝床に残された花と枝とを布に集め、それに外に落ちていたものを加えて、例の箱のふたの上に置いた。次に、箱を開けてマリアの小さな枕と寝床の毛布を置き、台所に行って錘(つむ)と杼(ひ)、食器などを集めてきて他の物と一緒にし、箱のふたを閉めた。小さな台に腰かけ、つぶやく。
「さあ、私にとってもすべてが果たされた! これからは、神の霊が私を連れていく所へ、どこでも自由に行ける。行く!…先生が人間に与えるようにと私にくださった神のみことばをまくこと、愛を教えること、人間のために何を行ったかを知らせよう。その生贄と秘跡と永久に続く儀式とを。これにより、私たちは御聖体のイエズス・キリストと全く一致して、命令されたとおりにその儀式と生贄とを繰り返す。すべて、完全な愛の賜物である!愛を愛させること、私たちがかつて信じ、今も信じているとおりに他の人たちも信じるように。(4) 主のための収穫と漁が豊かであるように、愛の種を蒔くこと。
これは、マリアが最後の時に私を愛する人と呼んで言われたことである。愛する人である私は、この世で先生とその母とを愛することはもうないので、万民の中に愛をまきに行く。愛は私の武器と教えである。私は愛によって悪魔とありとあらゆる邪教に打ち勝ち、多くの人々をキリストに導くことができるに違いない。こうして、この世で完全な愛であったイエズスとマリアとを継続する」
注
(3)この著作では、ある外典書また伝記にあるように、墓もなく、奇跡的にみずみずしいまま残った花もなく、他の使徒たちの不思議な集まりもない。処女マリアと一緒に住んでいたヨハネだけが、そこに眠りに負けながらもいたのである。
(4)ヨハネ第一4・8~16。ヨハネ第二全章。
47 マリアの被昇天
2013.08.14 Wednesday
47 マリアの被昇天(1) 『マリアの詩 下』フェデリコ・バルバロ訳 あかし書房より
幾日過ぎたのか正確には分からない、冠のように遺体を取り囲んでいる花から考えると、わずか数時間しか経っていないようでもあるが、新鮮な花の下にある、葉がしおれたオリーブの枝と、貴重な箱のふたに聖遺物のように残されている枯れてしまった他の花からすれば、もう何日も経っていると分かる。
しかし、マリアの体は生きを引き取った時と少しも変わっていない。その顔、その小さな手には死を示す何のしるしもなく、部屋には何の厭な匂いもただよってはない。かえって、お香、百合、バラ、スズランなどの匂いが混ざり合って、草花のすがすがしい香りが立ちこめている。
何日間か徹夜が続いているヨハネは、疲れのため睡魔に襲われ眠り込んでいる。小さな台に腰かけ壁にもたれかかり、屋上に続く開いた戸の近くにいる。床に置かれたあかりが、くたびれて真っ青な顔を下から照らしており、目のあたりは涙のために赤くなっている。
空が白みかけたようである。ほのかな明るさが、屋上と、家を取り囲んでいるオリーブの木とを、ぼんやり見せ、部屋の中もようやく明るくなってくる。
突然、大きな光が部屋を満たした。燐が燃えるような青みを帯びた銀色の光が部屋に広がり、だんだん大きくなって夜明けの光とあかりの火よりも明るくなった。イエズスの御降誕の時にベトレへムの洞穴にあるれたのと同じ光のようである。そうしているうちに、天国みたいなこの光の中に天使たちが現れ、先に現れた力強い光よりも輝かしく光っている。天使が羊飼いたちに現れた時と同じように、優しく動いている翼からさまざまな色をした火の粉がこぼれ、とりわけ甘美な竪琴の調べも聞こえてくる。
天使たちは小さな寝床を中心に冠を描き、寝床の上にかがむと、じっと静かな体を持ち上げ、先ほどから聞こえている調べを大きく響かせながら翼を強く羽ばたいて、奇跡的に天井に開かれた穴から―ちょうど不思議にもイエズスの墓が開かれたと同じく―自分たちの女王の体を運び去った。その体は至聖なるものだが、まだ光栄を受けていないので物質の法則に支配されている。キリストの体はよみがえった時には、もう光栄の体だったので、このようなことはなかった。(2)
天使たちの翼の音がますます大きくなって、いまや、オルガンの音色のように力強い。眠りこけていたヨハネは、その大きな光と天使たちの翼の音にたたき起こされ、二、三度もぞもぞした後で、力強い調べと、天井の穴から開いた戸へと吹き抜ける風によって、すっかり目を覚ます。
使徒は何が起こったのか分からず、寝ぼけまなこできょろきょろする。ようやく寝床が空っぽで天井に穴が開いているのに気づき、何かの不思議が起こったと直感した。屋上に出て、霊的な本能なのか天の招きによってなのか仰ぎ見て、日の出の太陽の光をさえぎるために手をかざして、いま起きた事柄を見る。
まだ命のない、横になったマリアの体が天使の群れに支えられて天へ天へと昇って行く。最後のあいさつをしているように、天使たちの翼の動きにつれて動いているマントとヴェールの裾を風がなびかせると、ヨハネがマリアの体のそばに置き、しょっ中取りかえていてマリアの服のひだの間に残っていた花が、屋上やゲッセマニの地面に向かって落ちてくる。その間も、天使の群れの力強いホザンナはどんどん遠ざかり、聞こえにくくなっていく。
ヨハネが天の方に昇っていくマリアの体を、じっと見つめていると、ヨハネの養母への愛に報い慰めるために神から与えられた奇跡によって、マリアが太陽の光に包まれて霊魂を体から離す脱魂状態が終わって、その足で立つのをはっきりと目にした。いま、マリアは光栄を受けた体の賜物に恵まれているのである。ヨハネは見続ける、すべての自然の法則に反して自分にくださる神の奇跡を。天へと真っすぐ昇るマリアを見る。ホザンナを歌う天使たちに囲まれているが、もう支えられてはいない。人間のどんなペンも、ことばも、絵筆も再現不能な美しいヴィジョンに、ヨハネはうっとりしている。
ヨハネは屋上の低い壁にもたれたまま、見事に輝く神の姿―肉体となったみことばに形を与える汚れのない唯一のものとして、神から造られたマリアは実際そう見える―が、どんどん高く昇っていくのを見つめ、とうとう愛である神が最も愛したこの人に与える最後で最高の奇跡、すなわち、至聖なる母と至聖なる御子の出会いを見たのである。
キリストはえも言われぬ美しさで輝かしく光りながら天下から真っすぐ下って母に会うと胸に抱きしめ、一緒に二つの大きな星よりも輝いて、もと来たところへ引き返していき、ヨハネの目から消える。
つづく
注
(1)1951年12月8日に書かれたヴィジョン。
(2)霊魂も体もともに至聖なるマリアが天の光栄に上げられたことは、神に啓示された真理でかつ普遍教会が教える教義である。けれども、マリアの被昇天が ” どのようにして行われたかは、信用に値する一致した証をもって定められることではない。この著作の被昇天の記述は、いわゆる外典書の記述ときわめてかけ離れたものではあるが、聖書に載っている他の箇所とよく調和している。例えば、ヘノクに関して、創世5・21〜24。シラ44・16、49・14。ヘブライ人11・5。エリアに関しては、列王下2・1〜18。シラ48・1〜15。
46 聖母マリアの幸いな帰天 3
2013.08.13 Tuesday
46 聖母マリアの幸いな帰天 3 『マリアの詩 下』より
「だったら、泣くのではありません…」こうマリアは涙をこぼす使徒の顔を見てたしなめながら続ける。
「私がこのままの形で残るのなら私は失われはしないのだから、なぜ思い悩むのですか」
「あなたが崩れることなく今のままで残るとしても、あなたを失うと感じることに変わりはありません。苦しみの渦に巻き込まれている感じがします。私をたたきつける嵐に。親戚が死に、そして、使命に他の兄弟たちも遠くにいる今の私には、あなたがすべてなのです。最も激しい嵐の中に、いまひとりぼっちでのこらなければならないなんて!…」と言うと、ヨハネはより一層激しく泣きながら、マリアの足元に崩れ落ちる。
マリアはヨハネの上にかがみこみ、すすり泣きにふるえる頭の上に手を置いた。
「いいえ、いいえ、泣かないで、どうして私を苦しめるのですか。十字架の下でイエズスの残酷な殉教と人民の悪魔的な憎しみに会うという、比べようもないあの恐るべき時に、あなたは強かったではありませんか。イエズスと私とを慰めるほど。それなのに!
こんなに明るく静かな安息日の夕方、間もなく味わえるはずの歓喜に胸をはずませている私の前で、このように動揺するなんて!! 落ち着きなさい。私たちのそばに、私の中にあることに倣って一緒になりなさい。ここはすべて平和です。あなたも平和になりなさい。さらさらというオリーブの木が静かに揺れる音だけが、この静けさを破っています。それにしても、この家を取り囲む天使たちの飛翔のような軽いささやきの甘美なこと!
多分、天使たちはここにいます。私の生涯でも特別な時期にはいつも天使たちが、1人だったり大勢だったりまちまちですが、私のそばにいました。神の霊が処女の私を母にした時、私はナザレトにいました。(30)ヨゼフが私のありさまに当惑して、どうしたらよいか煩悶していた時にも、(31)天使たちはいました。
また、ベトレへムでイエズスが生まれた時やエジプトへ逃げた時(32)もいました。エジプトで、再びパレスチナに戻りなさいと言われた時(33)も、復活の日にも。安息日の翌日の明け方、敬虔な婦人たちに現れ、(34)― 天使たちの王が私に現れた後でしたけれど ― あなたとペトロにすべきことを命令した時にも。
イエズスと私の生涯の重大な時には、いつも天使たちと光がありました。今夜も姿は見ていないけれど、そばにいるのが感じられます。そして、キリストを懐胎した時、出産した時に見た耐えられない光が、もう一度私の中でますます増えていくのを感じています。ふだんよりも力強く荒々しい愛からくる光です。その強い愛によって、私は天からみことばが人間である救い主になるのを早めに引き寄せるのに成功しました。(35) 今夜、感じているこのような愛の力によって、天は私をこの世から奪い、私の魂によって私が生きたいと望んでいる所に運びます。そこで、聖人たちの民と、すべての天使たちと一緒に、その婢(はしため)である私に行ったすべての大いなることのために、神に向かって私が死ぬことのない ” マニフィカット(賛歌)” を歌います」
「魂をもってだけではないと思いますが…。この世の続く限り、他の民と国々は、あなたを愛し賛美するでしょう。あなたは一人で、すべての大祭司たちと神殿の人々が長い長い世紀にわたってささげた愛よりも大きな愛を神にささげたのです。燃えるようないとも清い愛、神は、あなたをいとも幸いなものとするに違いありません。」
「そして、私の唯一の望みを実現するはずです。なぜなら、神の子である私の子に倣い、その完全さに近よれば近よるほど、その愛によって、人間の考えでは得られないと思うことさえも得られるのです。ヨハネ、このことをよく覚えておきなさい。そして、あなたの兄弟たちにも伝えるのです。
あなたたちは甚だしく虐げられ、さまざまの妨害は敗北を予感させ、迫害者による虐殺と、ケリオットの人のような道徳のないキリスト信者たちの離教(36)などが、あなたたちの心を圧迫しますが、恐れずにただ愛しなさい。あなたたちの愛に比例して、神はあなたたちを助け、すべてのこと、すべての人々に打ち勝たせます。人が天使のようになれば何でも得られます。その時、神が人間に注いだ永遠の息吹き(37)である聖霊が天に向かって飛び立ち、炎のように神の足元に落ちて、神に話せば全能なるものから何でも得られます。もしも人間が古えの律法(38)が命じているように感じ、私の子が愛するように、教えたとおりに愛せば、すべてを得るはずです。私はそのとおり愛しています。(39)
そのために、イエズスが苦しみの極限において死んだように、私は愛の極限においてこの世から去るであろうと感じています。ごらん、私の愛の能力は限度を超えています。私の魂と肉体はもうそれに耐えられません。愛があふれて私を浸し、溺れさせます。私を天へ、神の方へ、私のこの方へと押し上げます。
『おいで!その世から去ってわれらの王座へ、われらの三位の抱擁へ昇れ!』という声がします。私を取り囲んでいるこの世のすべてが、天からくる大きな光の中に消えていきます!天の声がすべての音を圧倒します!私のヨハネよ、私に対する神の抱擁の時が来ました。」
幾らか落ち着いてきたヨハネが、恍惚としてマリアのことばを聞いているうちに、マリアの青白い顔がゆっくりと真っ白な光に変わっていくのを目の当たりにして、、マリアを支えるために近づいて話しかけた。
「あなたはタボルで変容したイエズスのようです。(40)あなたの体は月のように輝き、その服はダイヤモンドでできているように光っています。お母様、あなたはもう人間のようではありません。体の重みと不透明さが消えてしまいました!あなたは光です!しかし、あなたはイエズスではありません。イエズスは人間のほかに神だったので、ダボルでまたここ橄欖(オリーブ)山で昇天した時、自力で昇れたのです。でもあなたは違います。いらしてください。あなたの疲れた幸いな体を寝床に横たえるのを手伝います。お休みなさい。」
深い愛情をこめてマリアを支えて、寝床まで連れていく。マリアは、マントも脱がずに見を横たえた。手を胸に置き、愛に輝く優しい目を閉じて、かがみ込んでみているヨハネに言った。
「私は神におり、神は私におられます。(41)私が神を眺め、その抱擁を感じている間、あなたは詩編と、特に、今の私に合う聖書の他のところを唱えてください。上智の霊が、それをあなたに教えると思います。そして、私の子の祈りを唱えなさい。それからお告げの大天使のことばと、エリザベトが私に言ったことばとを繰り返して。その次に、私の賛歌を…この世で私はまだ残っているあらん限りの注意をもって、私は、あなたと一緒にいます…」
ヨハネはこみ上げてくる涙をこらえ、ともすればうろたえがちな気持ちを抑えながら、年とるにつれてキリストの声に似てきた ― マリアはほほえみ、これに気をとられる。自分のそばにイエズスがいるような心地がする ― とても美しい声で、詩編第118編のほとんどを唱え、詩編第42〜43編の初め3節と第22編と第1編とを唱えた。それから主祷文、ガブリエルとエリザベトのことば、シラの書第24章の11節から46節までを唱え、おしまいに ” マニフィカット ” を唱えた。しかし、いつの間にか気づかないうちにマリアの命が消えたらしく、第9節のところで、静かにほほえみを浮かべたままの姿勢で、平和のうちに息絶えているのに気がついた。
ヨハネは、胸が引き裂かれるような叫びを上げ、小さな寝床の端にひれ伏してマリアを呼んだが答えはない。しかし結局、自明の事柄は認めざるを得ない。超自然の歓喜の表情を刻む顔をのぞき込むと、その優しい顔、静かに胸で合わさっている手に、涙が、おびただしい涙がとめどなく流れた。愛の使徒の涙、イエズスの望みでマリアの養子となった人(42)の涙である。これこそマリアが受けた唯一のみそぎである。
激しい苦しみの最初の瞬間が過ぎると、ヨハネはマリアの最後の望みを思い出し、小さな寝床の端から垂れている麻のマントの広い裾と、枕からすべり落ちそうになっているヴェールとを引き上げて、マントを体に、ヴェールを頭にかけた。
いま、マリアは石棺のふたに横たわる真っ白い大理石の像のようである。ヨハネはじっと長い時間それを見つめ、またその両の目から涙があふれてこぼれる。
それから、余分な家具をすべて片づけて部屋を整え始めた。寝床と壁に沿った小さな机を残して、その上に聖遺物の入っている箱を置き、屋上に面した戸とマリアが横たわる寝台との間に低い台を一つ置いて、小さい棚には夕闇が迫っているので、あかりを灯して置いた。それからゲッセマニの園で、あらん限りの花と実のついたオリーブの枝とを取ってきて、小さな部屋の中のあかりの下で、大きな冠を作るように花と枝とでマリアの周りを飾った。そうしながら、まだ聞こえるかのように、マリアに話しかける。
「いつもあなたは谷に咲く百合、(43) かぐわしいバラ、美しいオリーブ、豊かなぶどうの木、聖なる麦の穂でした。あなたは、私たちにあなたの香り(44)と命の油、強いぶどう酒と、拝領するにふさわしい心の人に、死から守るパンをくださいました。
あなたのように素朴で清く、とげを飾りにしている平和なこの花は、あなたを飾るにふさわしい。このあかりを引き寄せて、このまま私は寝床のそばで通夜をします。その間に私の待っている奇跡が、少なくとも一つは実現するように待ちながら祈ります。
第一の望みは、ペトロや私が、ニコデモの下僕を通じてここに集める他の弟子たちが、もう一度あなたに会えることができることです。第二の望みは、あなたんはすべてにおいてあなたの御子と同じような運命でしたから、やはり三回目に目覚めて、私を二重のみなしごにしないことです。第三の望みは、ラザロにあったようなことが起こり、私に平和が与えられることです。ヤイロの娘、ナインの若者、テオフィロスの息子たちが、それぞれ命を取り戻したではありませんか…その時に行ったのは先生でしたが、いま見える形ではなくても、先生はあなたと一緒におられます。それに、あなたはキリストによってよみがえった人々と違い、病死したわけではありません。あなたは本当に死んだのでしょうか。すべての人間が死ぬように? いいえ、そんなはずはありません。あなたの霊は、もうあなたの体にはない。その意味では”死”とも言えるが、この世からのあなたの旅立ちを考えると、あなたの死は、罪のない、聖寵に満ちたあなたのいつも清らかな処女の体からの一時的な霊の分離でしかないとしか思えません。そのはずです!そのとおりです!いつ、どのようにしてその合致が行われ、いつあなたに命が戻るのかは分かりません。しかし、私はこのことをどれほど確信していることか。神がそのことばをもって、あるいはその行いによって、あなたに運命の真相を見せるまで、私はここに、あなたのそばに残ります。」
すべてを整え終えたヨハネは低い台に腰かけ、小さな寝床に近い床にあかりを置いて祈り、横たわるマリアを見つめている。
46 聖母マリアの幸いな帰天 2
2013.08.12 Monday
「他の使徒たちも愛し、また互いに愛し合っています」とヨハネが口をはさむ。
「そうです。でも、あなたは”愛するもの”そのものです。他の人たちもそうではあるのですが、あなたたち1人ひとりがそれぞれ違っていました。十二人の中でも、あなたはいつも愛、清らかな超自然の愛を持っていました。多分あなたがこんなに清らかだから、そのように愛せたのだと思います。
打って変わって、ペトロはいつも人間臭く、率直で激しい人でした。弟のアンドレアは兄と違って、常に寡黙で控え目な人でした。あなたの兄さんのヤコボは感情が激しやすい人で、イエズスが”雷の子”と呼んだほどです。イエズスの従兄弟のもう1人のヤコボは、正直で英雄的な人でした。その弟のアルフェオのユダはいつも変わらず気高くて誠実な人でした。ユダはダビド家の子孫というにふさわしい人でした。フィリッポとバルトロメオは保守的で、熱心もののシモンは賢明、トマは平和の人でした。過去を忘れず、人の関心を引こうとしないマテオは謙虚でした。そして、ケリオットのユダは、残念なこと!キリストの群れの中の黒い羊、キリストの愛に暖められた蛇で、いつも悪魔的な偽善者でした。
けれど、全く愛であるあなたは他の人たちよりもよく理解できるので、他の人々や遠くにいる人々への愛の声となって、この私の最後の助言を伝えてほしいのです。
互いに愛し合い、皆を迫害する人々も愛するように伝えてください。私がそうだったように、神と一つのものになるために。そのために、私は永遠の愛の花嫁(16)に選ばれるに値するものとなったのです。私は、無条件で私自身をささげました。このことで私にどれほどの苦しみが来るかを知っていたのに。その時、預言者たちは私の知恵の前に在り、神の光が預言者たちのことばをはっきり分からせてくれました。天使に伝えた私のこの”なれかし”(17)によって、母となるものは、耐え忍べる最大の苦しみに自分自身をささげなければならないと知りました。でも、私の愛を限るものは、何ら生じませんでした。というのは、この愛をもっている人にとっては、それが力や光に変わり、より高い方へ自らを引きつける磁石や清めの火となり、その炎の抱擁によって、すべてが美しく変わることを知っているからです。そう、実際、愛は炎です。人間のくず、ぼろきれ、がらくたなど、はかないすべてのものを破壊し、天にふさわしい清い霊にします。
宣教師であるあなたたちの行くところで、どれほどの汚れて腐敗し切った人間に会うことでしょう。かといって、そういう人間を1人でも軽蔑してはなりません。むしろ、その人たちが愛に達し、救われるように愛しなさい。その人たちの心に愛を注ぎなさい。(18)多くの場合、人間が悪人になるのは、だれにも愛されたことがないか、または、悪く愛されたからです。あなたたちは、さまざまなことから空っぽになったり、不浄になったその人たちを愛しなさい。清められた後、聖霊が再びそこに住むように。
神は、人間をつくるときに天的な材料を採らず、もっと下等な泥を採り、それにご自分の息、すなわち、ご自分の愛を注いで、神の養子という高い位にまで上げれたのです。(19)私の子は、一生涯にわたって泥に落ちた人間のくずを幾つも見つけました。そして、それらを軽蔑して踏みつけたりはしませんでした。かえって愛をもって拾い上げ、迎え入れ、天のために選ばれたものに変えました。このことを絶えず肝に命じておきなさい。イエズスがしたようにしなさい。私の子の行いとことばをもって、すべてを清くしなさい。イエズスの優しい手本を忘れないで。それを生きること、それを実行することです。そしてまた、この世がある限り、未来の人々のためにそれが残るように、善意の人々が永遠の命を得るための案内がいつでもできるように、これを書きとめなさい。あなたたちは、命と真理との永遠のみことばを、すべての光にあふれることばを繰り返すのはできないでしょうが、できるだけ多く書き残しなさい。(20)
私がこの世に救い主を与えるために私の上に下った神の霊は、あなたたちの上にも何回も下って、(21)群衆をまことの神に回心させるよう、(22)そのことばを思い出させるはずです。そうなれば、多くの子どもを主に与えるためにカルワリオで始めた私のあの霊的母性を、(23)あなたたちが受け継いでくれるでしょう。同じ例が新たに生まれた主の子らに話し、この子らを強め、迫害を耐え忍んで苦しみの中で死ぬことを容易なものにするでしょう。すでにステファノとヤコボ、私のあのヤコボ、そして他の人たちがしたように、(24)キリストへの愛を告白し、天まで昇らせるでしょう…。
あなたが1人になったら、(25)この箱をよく守ってください…」
この世で果たすべき使命は終わったというマリアのことばを聞いて、ヨハネは心配になり青ざめたが、いまはそれ以上の憂慮に胸をふさぎ、問いかけずにはいられなかった。
「お母様、どうしてそんな話し方をなさるのですか。どこか具合でも悪いのですか」
「いいえ。そんなことはありません」
「いいえ。私はこの世にいる間は、あなたと一緒にいます。けれど、1人になってもよいように、心の準備はしておきなさい」
「あなたは、具合が悪いのを、私に隠しているのですね!」
「いいえ、いいえ、私のことばを信じて。いまほど健康で平和と歓喜にあふれていると感じたことはありません。でも、このあふれるような超自然的命、このような歓喜を生き長らえつつ耐えられるとは思えません。それに、私は永遠のものではありません。あなたもこれを理解してください。私の霊は永遠でも、肉体はそうではありません。人間の肉体はすべて死の支配下にあります」
「いやいや、そんなふうに言わないで!あなたは死にはしない。死んではいけない!汚れのないあなたの体が罪人のように死ぬなどあり得ません」
「ヨハネ、それは間違っています。私の子は死にました!私も死にます。(26)私は、病気になったり死のもだえなどはないと思いますが、死ぬのは死にます。子よ、あなたに知っていてもらいたいことがあります。全く私一人の望みで、イエズスがいなくなってから考えているものですが、私の初めての強い望みです。私一人では最初の望み。私の全生涯において、あらゆることは神のおぼしめしへの私の意志の得心でした。処女でいたいという望みは、神が幼い私の心に置かれたものです。ヨゼフとの結婚生活も主の望みでした。処女で神の母となるというのも、神が望まれたことです。私の生涯すべてが神の望みどおりで、神の望みへの私の従順があるだけでした。けれども、イエズスと再び一緒になりたいのは”全くの”私の望みで、年来のものです。この地を去り、天で永遠にイエズスと一緒にいること!…そしていま、この望みの実現は近いと感じています…ヨハネ、そんなにうろたえないで。それよりもむしろ私の最後の望みを聞いてください。
命の霊が去って私の体が静かな状態のときに、よくヘブライ人がする防腐処理はしないでください。考えてみれば、私はもうヘブライ人ではなく最初のキリスト者です。なぜなら、だれよりも先に私は肉体のキリストを宿し、その最初の弟子となり、キリストの下僕であるあなたたちの中にあって、その贖いに協力し継続したものです。私の誕生に立ち会った両親以外、だれ一人私の体を見ていません。
あなたは私のことを、しばしば ” 神のみことばをやどしたまことの聖櫃 ” と言いますね。それなら、聖櫃は大祭司によってだけ見られ得ることを、(27)あなたは知っているはずです。あなたは司祭で、神殿の大司祭よりもずっと清く聖なるものです。その時が来たら、永遠の司祭だけに私の体を見られるのを望みます。ですから、私には触れないでください。その他には、ごらんのとおり、私は清められ、清い服、永遠の婚姻の服をすでに身につけています…ヨハネ、どうして泣くのですか」
「苦しみの嵐が私の体を吹き荒れているからです。あなたを失ってしまう!あなたなしに、どうして生きられますか!考えただけで心が引き裂かれそうです!そんな苦しみには耐えられない!」
「耐えられますとも、神が私を助けてくださったように、あなたは長く生きられるように助けられるでしょう。もしも神自身が私をゴルゴタと橄欖(オリーブ)山で助けなかったならば―イエズスが死んで昇天したその時―イザクが死んだように(28)私も死んだにちがいありません。神は、あなたが皆のために生き、そして、私が言ったことを思い出すように助けてくださるはずです」
「ええ、思い出しますとも。決して忘れはしません、すべてを。あなたの体についてもお望みのとおりにします。キリスト者であるあなたに、いとも清いものであるあなたに、ヘブライ人の儀式はかいのないものだと分かるし、あなたには腐敗は起きないと確信しています。あなたは原罪を免除されr、聖寵に満たされ、聖寵そのものであるみことばを宿したのだから、他のすべての肉体と同様にあなたの体が崩壊をみるはずがなく、神のまことの聖遺物としてそのまま保たれるに違いない。これはあなたへの、あなたにおける神の最後の奇跡に違いない(29)」
注
(16)神と処女マリアとの絆は、教父たちとローマ教皇たちとにとって、しばしば繰り返し説かれている。
(17)御託身に対するマリアの承諾は、人間が贖いのいとも苦しい御業に甘んじて与るという意味であろうというのが、古えからの教会の根強い考え方である。ルカ1・38。
(18)イザヤ41・1~4を暗示する。またマテオ12・15~21を暗示する。
(19)創世2・7。
(20)厳密な意味で歴史的に言えば、使徒たちに福音書を書くように勧めたのはマリア自身であるという証明はできないが、ルカ1・1~4、2・19~51のことばを考え合わせれば、大変認めやすくなる。
(21)ヨハネ20・19~23。使徒2・1~13。
(22)ヨハネ14・23~26、16・12~15。
(23)処女マリアは、人類の長であるキリストを産むと同時に、キリストの体である人類の霊的母ともなった。しかし、ここに新しい”名前”が加わる。すなわち、とりわけ密接にイエズスの贖いの苦しみに与り、臨終の時に救い主から任されたこともあったからである。ヨハネ19・25~27。
(24)使徒6・7~8章、8・1~3、12・1~2。
(25)注2参照。
(26)この著作では、聖母マリアの帰天と被昇天の最後の理由は、神への愛の極みであったという。アヴィラの聖テレジアも、ある聖人の場合、例えば聖パウロの場合、愛の力は、魂だけでなく体も神にまで昇らせたと言っている。コリント第二12・2~3。
(27)脱出25・10~22、37・1~9。レビ16章など。
(28)イザクはこの著作によると、幼な子イエズスを初めて拝んだ羊飼いたちの頭のようだった。
(29)神の母、汚れのない聖母マリアの体は腐敗を知らなかったということは、キリスト教の典礼と教父神学とに全く一致し、ピオ十二世教皇は、聖母マリアの被昇天の決議にも引用されている。
46 聖母マリアの幸いな帰天
2013.08.11 Sunday
3 婦人よ、それが私とあなたとの間に ”もはや” 何のかかわりがありますか
2013.08.09 Friday
イエズスは、先ほどのことばの意味を私に説明する。「多くの翻訳者たちが省いている ”もはや” はこの文章の鍵になるものなので、その真に意味するところを話しておく。
私は、父のおぼしめしによって師(ラビ)になる時を知らされるまで母に仕えていた。そして、私はその使命が始まった時に、母に仕える子ではなく神の下僕となったのである。親に対する外部的なきずなは解かれたが、それは、より高く私の心のすべてを集中させるきずなへと変わった。私の心は聖母マリアを相変わらず ”母様” と呼び、私の愛はいっときも止まることなく冷えることもない。母は、私を我が子として産むと同時にメシアとして、伝道者として産んだのであるが、この世に私を与えた時にその愛は頂点に達した。マリアの ”第三の” 崇高で神秘的な母性は、私をカルワリオの想像を絶する苦しみのもとに十字架にかけるがために産むことにより、この世の贖い主としたのである。
『私とあなたとの間に、もはや何のかかわりがありますか』いままでの私は、母のもの、すべては母のものであった。母は私に命じ、私はそれに従い ”仕えた” そして、”いま私は、私の使命のものである”
私が言っているのではないか。『鋤(すき)に手をつけてから振り向いて、家に残る人にあいさつをする人は神の国にふさわしくない(2)』と。私は鋤をもって土くれではなく人の心を開いて、そこに神のみことばを蒔くために鋤きに手をつけた。その手を離すのは、人間が私を十字架にかけるためにさらっていくときだけだが、これも拷問のあの釘でもって私の父の心を開き、人類のための赦しをほとばしらせるためのものである。
『私がナザレトのマリアのものだけであったころ、母よ、あなたはわたしのすべてでした。心の中ではいまもそのままです。しかし、久しく待たれていたメシアの使命を行い始めた私は、私の父のものです。しばらく待ってください。私の使命が終われば、再び ”すべて” あなたのものとなります。幼いころのように私をかき抱くその時、あなたの子は人類の恥と見なされているので、だれもあなたの腕から奪い取ったりすることはない。それどころか、あなたに犯罪者の母という汚名を着せるために私の亡がらをあなたの前に投げ捨てるに違いない。その後、勝利者を得た私に出会い、あなたもまた勝利を得て、ついには天においていつまでも私を自分のものとする時が来ますが、いまの私はすべての人々のものであり、また私を皆のもとに送られた私の父のものです』
以上が、多くの人々に忘れられているあの短くて意味深長なことば ”もはや” の意味するところである」
それから、イエズスは次のことを教えてくれた。
「弟子たちに『母を喜ばせるために行こう』と言った私のことばには深い意味がこめられていたのである。すなわち、母に私を見る喜びを与えるだけではなく、私に最初の奇跡を行うように勧めるのは母であること、母は人類の最初の恩人であると知らせるためであった。
よく覚えておきなさい。私の最初の奇跡は、(3)マリアのために行われたのである。これはマリアが奇跡の鍵であることを象徴している。私が母を拒むことは一つとしてなく、母の願いであれば恵みの時も早める。善良さにおいて母は神に次ぐものであり、あなたたちに恵みを配ることこそ母を幸せにすることだと私は知っている。母は愛そのものなのである。それを知っている私は『母を喜ばせるために行こう』と言ったのだ。
さらにまた私の力量と一緒に、母の力量をも、この世に示したかったのである。私はマリアに宿る運命であったので ― 香り高い生き生きとした雌しべを取り囲む百合の花弁のように、私は母の胎内で母に囲まれ同じ一つの肉体であった。また、”苦しみの時に十字架上で、私は肉体をもって母は心をもって苦しむことで一体であったように ” ― 母は ”この世に現される力量においても ” 私に結ばれていることは明らかである。
私が婚礼の列席者に言ったことを、あなたたちに言っておきたい。『マリアに感謝しなさい。あなたたちが奇跡の主をもらえたのも、私のいろいろな恵み、とりわけ赦しの恵みをもらえるのも母のおかげであり、母によるものである』
さあ、安らかに眠りなさい。私たちはあなたとともにいる」
注
(1) 著名な聖書学者 ラグランジュは、(ヨハネ16・5)の ”あなたたちの中で『どこに行かれるのですか』と聞く者もいない” ということばは新約のギリシア語では ”もはや聞かない” の意味である。このような箇所では、新約に使っているギリシア語では、”もはや” という短い副詞がよく省かれている、と述べている。これについて別の聖書学者ジュオンは、”あなたと私との間に何のかかわりがあるか” ということばにも同じことが言える、と述べている。
(2)ルカ9・61~62。
(3)公生活では。
2 イエズスはカナの婚礼に列席する(1)
2013.08.08 Thursday
いま私が見ている家は、カナという村のはずれにある。自分の所有地にする地主たちの家で、麦打ち場の真ん中には井戸があり、いちじくやりんごの木もそばにある。
家は道に面しているが、道から少し奥まった所にあり、道と家とを結ぶ小道は丈の高い草に覆われている。空は晴れわたり、日光がさんさんと降りそそいでいる。目に映るものといえばこれだけで、その家はポツンと離れて建っている。
やがて、長い服の上にフードの付いたマントを羽織った婦人が二人、広い道から小道へと入っていく。一人は五十歳くらいで、原毛のような灰褐色の服を着ている。もう一人は三十五歳くらいで、青みがかった黄色の服に空色のマントという軽やかな服装をしている。すんなりとしていて、とても美しい。優しさにあふれ奥ゆかしげな物腰だが、その動作は毅然としている。近づいて見ると、透き通るように白い肌、空色の瞳、額にかかるヴェールの下からのぞくブロンドの髪には目をみはる思いがする。至聖なるマリアである。小麦色の肌をした年上の人は、だれだか分からない。(2) 二人は何か話しながら歩いており、聖母はいつも笑みをたたえている。家に近づくと出迎えの係のだれかが知らせたらしく、祭りの服装をした男女全員が戸口まで出てきて聖母マリアの来訪をことのほか喜んでいる。
朝も九時ごろかあるいはもう少し早い時間かもしれない。さわやかで、露をふくんだ草は青々としてみずみずしい。季節は春のようである。あたりの野原には夏に見られる枯れ草がないし、小麦畑は穂がまだ出ていない。いちじくとりんごの葉はやわらかい緑色で、ぶどうの木の芽と同じ色である。
大歓迎を受けた聖母マリアは、家長らしい老人に案内され外の階段から、二階を全部使った広い部屋に上がる。住まいや物置、倉などは一階にあるようだ。二階の広い部屋は、特別な祝い事や、広くなければできない仕事や農作物を広げたりする仕事に使うらしい。
祝い事のときには要らない道具を片づけて、きょうのように茂った枝や花ござなどを飾りつけて食卓を置くようである。部屋の真ん中にある食卓に、壷や、とりどりの果物が皿に盛られ、いっぱい並んでいる。私が立っている所から見て右側にある長い戸棚の中には、チーズや、たっぷり蜂蜜を塗ったパン菓子や、また別のお菓子をのせた皿が入っている。そして、この戸棚の下には六つの大きな瓶がある。
マリアは、皆の話を丁寧に聞いてからマントをとり、かいがいしく食卓の用意を手伝い始める。ベット椅子を整え、花飾りを直し、果物を盛りつけ、ランプの油を確かめたりして部屋を歩き回っている。ほほえみを絶やさないがことば数は少なく物静かで、その上に聞き上手である。
道の方から楽器の ― 少し調子はずれだが ― おおきな音が聞こえてくる。マリアは残るが、皆は外へ走り出る。美しく着飾った幸せそうな花嫁が、真っ先に出迎えた花婿と親戚や友人に囲まれて入ってくる。
ここでヴィジョンが変わる。
家ではなく村が見える。カナなのかその近くの村なのかはっきりしない。イエズスとヨハネそしてユダ・タデオらしい人が一緒に歩いている。イエズスは真っ白い服に紺色のマントを羽織っている。楽器の音を聞きつけたイエズスの連れの一人が地元の人をつかまえて尋ね、その返事をイエズスに伝えている。
「母を喜ばせるために行こう」と言ってイエズスは軽くほほえみ、連れの二人と一緒に畑の中の小道を抜けてその家に急ぐ。
(言い忘れたが、マリアの親しげな様子から考えると、五十歳くらいの婦人は花婿の親戚か友人のようである)
イエズスが着いたことを出迎えの係が知らせると、主人が花婿である息子とマリアと一緒に玄関まで出迎えてうやうやしくあいさつし、連れの二人にもあいさつする。続いて花婿もあいさつをする。
何よりも私が強く感動したことは、マリアとイエズスが交わした愛と尊敬にあふれたあいさつである。大げさな身ぶりは何もしないけども、イエズスが”平和はあなたとともに”とあいさつするときのまなざしとほほえみは、数知れない抱擁と接吻にはるかに優る。マリアは接吻したくてたまらない気持ちを抑えて白い小さな手をイエズスの肩にそっと置き、さりげなく肩までのびた髪の毛にさわる。慎み深い母が子をいとおしむしぐさである。
イエズスは母と並び、弟子と主人たちに伴われて階段を上り、祝いの部屋に入る。思いがけない三人の客に、婦人たちはあわてて椅子と食器などをとりそろえている。イエズスの出席もあいまいであったし、ましてや連れの二人は予想だにしていなかったようである。
部屋に入る時「平和がこの家に、神の祝福が皆さんの上にありますように」と言うイエズスのりりしく、まろやかな優しい声が、そこにいる人たちにはっきりと聞こえた。列席者に対する威厳にあふれるあいさつである。すらりと高いイエズスの姿はひと際目立つ。おそらく予期されなかった客だと思うが、花婿よりも主人よりも、祝いの席の王者にふさわしい。控えめで、やわらかな物腰なのに、皆の関心がどうしても集まってしまう。
イエズスは、新郎新婦とその親戚と大切な友人たちと一緒に中央の食卓につく。師への尊敬と心遣いのためか二人の弟子たちも同じ食卓に案内される。
イエズスは大きな瓶と長戸棚のある壁を背にしているので、戸棚のそばのドアから給仕頭が焼き肉の皿などを忙しげに運ぶ姿は見えない。
私の関心は一点に集中している。中央の食卓についている婦人は、花嫁花婿の母親たちとマリアだけである。他の婦人たちは皆、右手の壁に沿ったテーブルにつき、喚声をあげながら話に夢中である。しかも給仕は新郎新婦と大切な友人たちの席の後ろでされている。イエズスは主人の隣に腰かけていて、向かいに花嫁の隣に腰かけているマリアがいる。
婚礼の宴が始まる。皆、食欲旺盛で飲み物もすぐ空になる。少ししか食べず、少ししか飲まないのは、イエズスと、物静かな母だけである。イエズスもそれほど多くは話さない。しかし、ことば数が少ないからといって尊大なしかつめらしい様子は見られない。丁寧かつ柔和な態度で、多くは語らないが聞かれれば答えるし、向けられた話には関心を示して自分の意見を述べ、その後は観想にしずむ人の表情に戻る。ほほえむけれども、声を上げて”笑う”ことはない。いささか軽率な冗談をだれかが言うと聞こえないようなそぶりをする。マリアはわが子のイエズスを見つめているだけで十分のうようだし、食卓の端に座っているヨハネも、師のことばをきくのに夢中である。
給仕頭と下僕たちとが小声で何かささやき合っている。マリアはいらいらした彼らの様子から困っているこが何かを見てとると、イエズスに声をかけ、「わが子よ、ぶどう酒がもうありません」と小さな声で知らせた。
「婦人よ、それが私とあなたとの間に”もはや”何のかかわりがありますか」と答えながら、イエズスは何とも言えない優しい笑みを浮かべ、マリアはまだだれも知らない二人だけの喜びの秘密を思い浮かべてほほえむ。
マリアは下僕たちに「この人の言うとおりにしなさい」と命じ、ほほえみをたたえたイエズスの瞳の奥の、すべての”召された人々”もまだ理解していない大きな教えを読み取っている。「壷に水を満たしなさい」とイエズスが下僕たちに命令する。下僕たちが、井戸から運ぶ水を瓶にうつしたり、井戸のつるべがしずくを飛び散らして上下するときの滑車のきしむ音を、私は聞いている。給仕頭は変化した液体を目の当たりにしてびっくり仰天し、コップについで大げさな身ぶりで口にふくんで味わい、そばにいた主人と花婿にこのことを伝える。
マリアは、御子を眺めてほほえんでいるが、御子のほほえみにぶつかると頬を染めてうつむく。実に幸せそうである。宴の部屋にさざなみのようにざわめきが広がり、皆がイエズスの方を振り向く。もっとよく見えるように立ち上がる人もいれば瓶を見にいく人もいる。しばらくシーンとしていたが、やがてイエズスを賛美するコーラスが沸き起こった。
イエズスはその時立ち上がり、一言「母に感謝しなさい」と言って席を離れ、弟子たちもそれに続く。部屋の戸口のところで「平和はこの家にありますように。神の祝福はあなたたちの上に」と繰り返し、マリアに向かって「母様、また会う日までさようなら」と、あいさつする。
ヴィジョンはここで終わる。
注
(1)ヨハネ2・1~11。
(2) アルフェオのマリアである。もう1人の婦人は三十五歳以上には見えないが、聖母マリアだから年齢はもっと上のはずである。しかし、気高くて美しく優しさにみちているためにとても若く見える(マリア・ワルトルタの別の原稿による)。
7 処女マリアの誕生のつづき
2013.08.03 Saturday
婦人たちは、ヨアキムと一緒に、幸せな母の部屋に入り、そのかわいい赤ちゃんを返す時に、嵐のこと、月、星、大きな虹の不思議さについて話す。
アンナは、自分の考えごとにほほえむ。
「彼女は星です」と言う。
「そのしるしは天にある。マリア、平和の虹! マリア、私の星! マリア、清い月! マリア、われらの真珠!」
「では、マリアと呼んでいるのですか?」
「そうだ。マリア、星、真珠、光と平和…」
「でも、その名には苦さの意味もある。災い、不幸を招く恐れがあると思いませんか」
「神は彼女とともにおられる。彼女が存在する前からご自分のものであったから、神ご自身は、彼女をその道に導き、そして、すべての苦さは蜂蜜のように甘くなるだろう。今、しばらくは母である私の子でありなさい…。全く神の者となる前に…」