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    7 処女マリアの誕生

    2013.07.31 Wednesday

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      7 処女マリアの誕生

       アンナが親戚の婦人の腕に支えられて庭の菜園に出ている。アンナは、もう臨月の様子で、このころの蒸し暑さにも苦しんでいると見える。庭には木陰があるにもかかわらず空気は燃えるように重く暑苦しく、練り粉のように包丁で切れる感じがする。土が細かい粉のようになっているのを見ると、干魃が続いているらしい。所有地の境界の草原の草もまばらで枯れかけている。木陰の濃い所だけわずかに緑が見え、そこで何匹かの小羊が、小さな羊飼いのそばで草を食べている。
       ヨアキムは、二人の男に手伝わせて、ぶどうとオリーブの木のところで何か仕事をしている。乾いている木々のために、近くの泉から水を引こうとしているらしい。
       金色の蜜蜂が、ぶどうの蜜を探して棚の陰を飛んでいる。そこを通って、アンナはゆっくりとヨアキムの方へ歩いて行く。彼は振り向いて、アンナに気がつくと、あわてて迎えに来る。
      「ここまで来たのか」
      「家の中は、かまどのようです」
      「それにお前はなおさら苦しいだろう」
      「産み月の私の唯一の苦しみです。皆、苦しんでいる。人間も動物も。ヨアキム、この暑さに無理をしないで」
      「ずっと待たれている雨は、三日前に今にも降りそうに見えたが、まだ一滴も降らないで畑が焼けている。幸いにあの泉から水が引ければ、木々や野菜が枯れはてない程度には役に立つだろう。ああ、雨が降りさえすれば!…」ヨアキムは、すべての農夫たちと同じ心配をして空を見上げる。
       アンナは疲れて、編んだしゅろの葉で顔をあおぐ。
       親戚の女が言う。
      「向こうをごらんなさい。大ヘルモン山の向こうに早い雲が昇って行く。北風だから雨を持ってくるかもしれない」
      「もう三日前からあのように上がるが、月が出てくると引っこむ。多分、同じようなことが起こるだろう。」とヨアキムは当てにしない。「うちへ帰りましょう。ここでも呼吸が苦しい。帰った方がいいでしょう。」と顔がもっと青くなったアンナが言う。
      「苦しいか」
      「いいえ。恵みが与えられた時に神殿で感じたあの大きな平和を感じています。母となったと知った時と、同じような大きな平和。天使たちの夢(1)を見てから、われらの祖先ヤコブが感じたあのような平和。あるいはむしろ、ラファエルが現れてから(2)トビアが感じたような喜びの平和です。何だかよく分からないが、青空に飛んで行くかのように、私の心には年寄りのトビア(3)の賛歌が浮かぶ。その賛歌は今の時の、この喜びのために書かれたような感じがします。これを受けるイスラエルの地のために…罪深い。しかし、今ゆるされているエルサレムのために…。この母のうわ言を笑わないで。私は”今までもらった恵みのために主に感謝せよ”と聞く時、エルサレムで、まことの神の幕屋を立て直すであろう人は、今から生まれる人ではないかと考えます…。そして賛歌の次のことばは、聖なる町についてではなく、私の子について預言しているのではないかと思う。」 

        ”あなたは光輝き、地のすべての民は、
        あなたの前にひれ伏し、
        国々は贈物を持ってあなたの所に来て、
        あなたの中に主を拝み、
        そして あなたの地を聖なるものとして考えるだろう。
        なぜなら あなたの中に、
        ”大いなる名前”をこいねがうだろうから。
        あなたは、あなたの子らによって、
        幸せとなるだろう。
        なぜなら 皆祝福され、
        主のそばに集まるだろうから。
        あなたを愛し、あなたの平和で喜ぶ人々は幸せである…”

       そして、だれよりも先に喜ぶのは、その幸せな母、私です…」
       このようなことばを言うと、アンナの顔の色は変わり、やさしい涙が頬を伝い、それに気づかずにほほえむ。その間、感激して黙って聞いていた夫と親戚の女と一緒に歩いて家の方へ行く。
       強い風が吹き始め、雲が空に駆け足でやって来る。平原は暗くなり、嵐の前ぶれのように自然界が戦慄する。家にたどり着くころ、青い稲妻は空を裂き、最初の雷の転がる大石の響きは、枯れ切った葉に落ちる最初の雨の粒の、竪琴のような音に混じる。
       皆、家に入ると、アンナは自分の部屋に退き、ヨアキムは手伝いの男たちと一緒に入口で、乾き切った大地にとっての祝福である待ちこがれていた雨について話している。しかし、その喜びは、すぐ恐れに変わる。稲妻と雹とを持ってくる雲が、異常に激しい嵐に変わったからである。
      「雹が降れば、ぶどうとオリーブの実は、臼でひかれたように砕かれるだろう。ああ、どうしたらよいか」
       ヨアキムには、もう一つの心配がある。それは妻が子を産む時が来たからである。親戚の女は、アンナには何の異常もないと安心させるが、彼はイライラして、手伝いの婦人たち ― その中の一人にアルフェオの母がいるが ―、アンナの部屋に出入りして、お湯とか、いろりの火に乾かした布とかを運ぶたびに様子を聞く。彼女たちは安心させることばを返すが、アンナの部屋からどんな声も叫びもないため、かえって心配で落ち着かない。
      「私は男なのでお産を見たことがないが、陣痛がないということは致命的だと聞いたことがある…」
       激しい嵐のために、夕闇が早く迫って来た。豪雨、嵐、稲妻が荒れ狂ったが、雹だけは姿を見せなかった。
       手伝いの一人の男は、その激しさを気にしている。
      「サタンが、家来の悪魔と一緒にゲヘンナから出たかのようだ。何という低い、黒い雲! その中に風のうなりが、悲鳴と呪いの声のように聞こえる。 ”彼”が、今晩は非常に怒っているにちがいない!」
      「ねらっていた大きな獲物がつかまえられなかったか、それとも彼を大天使ミカエルが、神の新しい稲妻で打って、その角としっぽとを切り落としたのだろう」
       1人の女は走りながら通って叫ぶ。
      「ヨアキム! もう生まれるところです。すべてうまく行った!」
       そして手の中に小さな壷を持って姿を消す。
       嵐は、庭に黒く煙っている穴を残した最後の落雷の後、突然静まる。その時、初めてクウクウと言う小さな雌鳩のような産声が、アンナの部屋の入口から聞こえると、見たこともない巨大な虹が、ヘルモンの山から、ガリラヤの丘々と平原を越えて南の方の山まで、九月の澄んだ空に現れる。
      「今まで見たことがない!」
      「ごらん、ごらん、イスラエルの全土を抱いているかのような感じだが、太陽がまだ沈みきっていないのに、一つの星が見える。
      大きなダイヤモンドのように輝く星…」
      「満月にはまだ三日足りないのに、月はまん丸く見える。あの輝きをごらん!」
       婦人たちは、真っ白い布に包んだバラ色の綿のような子を抱いている。
       マリア(聖母)である! 子供の腕の輪の中に寝られるような、小さな、小さなマリア。身長は腕くらいの長さしかないマリア。薄いバラ色で染めた象牙色の小さな頭、もう泣いていない。吸うという本能的な動作をする紅のような小さな唇、丸い頬の中の細い鼻、青空のかけらのような水色の目、非常に細く、そして、バラ色がかっているブロンドの眉、丸い小さい頭の細い髪の毛は、白いといってよいほどの蜂蜜色のバラブロンドである。
       耳は、バラ色の透明な、申し分ない二つの小さな貝のようで、今、聞いているほんのり赤いあの小さな二つの手は、後でどうして多くの涙を拭くことができようか。
       小さな足はどこにあるのか。今のところ布の中にかくれて動いているだけだが、四センチぐらいの長さで、足の裏は珊瑚にはさまった貝のようで、小さな指は彫刻の傑作である。この人形のような足が歩き出すときには、それに合うようなサンダルはどこで見つかるだろうか。その小さな足は、険しい道を歩き、十字架の下の苦しみをどうして支えることができようか?
       しかし、今のところは、そんなことをだれも知らない。むしろ、小さい美しいすねがバタバタ動くのを見て、皆ニコニコ笑っている。今、父が小さな胸に接吻のために口をあてれば、心臓の動悸が聞こえる…。世々に、地上に贈られた最も美しい小さな心…。 一人の人間の汚れのない唯一の心…。

      (1) 創世28・12
      (2) トビア12章
      (3) トビア13・13~15。

      6 ”汚れのない女”は、絶えず神を考えていた

      2013.07.29 Monday

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        6 ”汚れのない女”は、絶えず神を考えていた

         イエズスは言われる。
        「二人を夜の夢をもって照らしてのち”神の勢力の息吹き、全能者の確実な派出”である上智は、産まず女のために、”ことば”となった。人間のあがないの自分の時はもう近い、と見ていたアンナの孫、私、キリストが、ほぼ五十年あと、”ことば”をもって産まず女と病人、悪魔に憑かれた希望のない多くの女に対して、地上にあるさまざまの災いに対して、奇跡を行うであろう。
         しかし、その間、一人の母を有する喜びのために、イスラエルの希望を含んでいた神殿の薄暗さの中で、ふしぎなことばがささやかれたが、その神殿は、もはや存亡の極限に立っていた。なぜなら、一つだけの民のための希望を含むのではなく、この世が存在するかぎり、世々に”全地”の民のための希望をもってくる新しい神殿が生まれるところであった。産まず女であったものを、受胎させる奇跡を行うのは、この”ことば”である。これによって私には、一人の母が与えられた。この母は二人の聖人から生まれたので、当然、非常によい気質と霊魂に恵まれていたが、それだけでなく、汚れのない体と、人間の中の唯一のものとしての汚れのない霊が与えられたのである。(1) 神は絶えずそれぞれの人間の霊魂を創るが、時が来る前に御父が嘉され、三位一体の歓喜であったこの霊魂の美しさは、どれほどであったか想像できるものではない。神が、ご自分のために創られた、おお、全く聖なるもの! 救い主を運ぶあなたは、最初の救われたものであった。生きる天国であるあなたは、あなたのほほえみをもって全地(世界)を聖ならしめることを始めた。
         神の母の霊魂となるために創られた霊魂とは! 三位の愛の最も生き生きとした動悸から、命の、この火の炎がほとばしった時、すべての天使が喜んだ。なぜなら天国でも、これ以上、生き生きとした光を見たことはなかったからである。天のバラの花びらのように、宝石と炎と同時に非物質の貴重な花びらは、神の息吹きで、(2) 他の人間の場合と全くちがうふうに肉体に降ったが、その炎はどれほど力強いものであったが、罪はそれにふれえず、その花びらは空間を越えて、聖なる胎内に宿られたのである。(3)
         この世は”自分の花”を持っていたが、それをまだ知らなかった。これは永遠に花咲くまことの唯一の花、百合とバラ、すみれとジャスミン、ひまわりとシクラメンと、この世にあるすべての花が結集して一つだけの花を作るように、すべての徳と恩寵とを結晶するマリアである。四月、パレスチナの地は、大きな園のようで、さまざまの香りと色とが人間の心を楽しませていた。しかし、最も美しいバラは、まだ知られていなかった。彼女は母の胎内で、もう神に花咲いていた。私の母は”懐胎”された瞬間から”愛したからである。しかし、ぶどうがぶどう酒を造るために自分の血を与え、そして、甘くて強いぶどう液の匂いが、麦打ち場にただよって鼻を満たす時期になり、彼女は、まず神に、それからこの世にほほえんで、すべての清さを超えるそのほほえみをもって、『ごらん、お前たちのすべての病いの永遠の薬となるために、圧搾機にしぼられるぶどうは、もう、お前たちの中にいる』と知らせた。
         ”マリアは、懐胎(4)された瞬間から愛した”と私が言った。霊に光と認識を与えるのは何であろうか。それは聖寵(5)である。聖寵を取り消すのは何であるか。原罪と大罪である。
         汚れのないマリアは、神のこと、その愛、その光、その上智、そのすべてを初めから知っていたので、”愛しつづけていた”汚れのない霊魂を中心にして、形づくられる胎児でしかなかった時から、理解することや愛することができたのである。
         もっと後に、マリアの処女性の深さをあなたの心に観想させたい。そうすれば、それによってあなたの心に、われら(三位)の永遠を観想させた時と同じような、天的なめまいを覚えるであろう。神を失わせる汚れをもっていない子供を胎内に宿らせることは―その子の懐胎は自然なものであっても―その母に人間の能力を超越する知恵を与え、預言者にする。そのためアンナは、自分の娘を”神の娘”と呼んでいる。
         罪の汚れをもっていなかった最初の祖先から、神の望みどうり汚れのない子供が生まれたならば、どうなったか考えなさい。”超人”を造ろうとして、今、威張っているお前たち人間は、そのさまざまの悪徳によって”超悪魔”を造るに至っている。もしサタンの誘惑を聞かずに、体としての人間、精神として上智の子らを造ったならば、今から何千世紀の後に倒されるはずの”サタンに打ち勝てる強いもの、巨人”を造ることができただろう」


        (1) 知恵7・25。
        (2)創世2・7。
        (3)神学的に言えば、無原罪のこと。
        (4)未来の救い主の母となるマリアの懐胎は原罪をまぬがれたのである。
        (5)聖寵は愛であり、知恵である。そして、マリアの霊魂は聖寵に満ちたものであったので、霊魂をもらうと同時に愛したのである。マリアがエリザベトを訪問した時、(ルカ1・15、44)には、洗礼者は母の胎内から、マリアの胎内にあった救い主イエズスを認め、愛し、礼拝したのである。多くの神学者は、その時に洗礼者が原罪から清められたという説をとなえている。

        5 アンナは賛歌をもって母となったことを告げる

        2013.07.26 Friday

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          5 アンナは賛歌をもって母となったことを告げる

           ヨアキムとアンナの家である。中には何も変わっていない。ただあちこちの壷には、庭の刈り込んだ果樹の満開の枝が生けてあって、雪のような白さから珊瑚の赤さまで、移り変わる雲のようである。
           アンナの仕事も前とちがう。他のよりも小さい機(はた)に、彼女は麻の美しい布を織りながら、足でリズムをとり、歌いながらほほえむ…だれに? 自分自身の中に見える何かに。その歌はゆっくり楽しそうで、その素朴さで快いものであるからここに写す。

            ”ダヴィドの子らを愛したもうた全能の主に栄光、主に光栄!
            そのいとも高き恵みは、天から私を訪れた。
            古い木が新しい枝を出した、私は幸せである。
            光の祭りのために、希望はたねを落とした。
            そして今、ニーザンの香りは芽ばえを見る。
            春にアーモンドが花咲くように、
            私の肉体も花咲いた。
            その枝に一輪のバラ、最も甘い実が一つ、
            輝く星一つ、罪のない子供がいる。
            家の喜び、夫と妻の喜びがある。
            私を あわれんでくださった私の主、
            神に賛美。
            その光が私に言われた、
            『一つの星が、あなたに下るだろう』
            光栄、光栄あれ、
            木の実は あなたのものである。
            最初の、また最後の主の賜のように、
            聖なるもの、清いもの、
            それはあなたのものである。
            その実によって、この世には喜びと平和が来ますように。
            梭(ひ)よとべ 糸は幼な子の布のために動く、
            彼が生まれる!
            私の心の歌、神にのぼりますよう”

           アンナが、四回目にこの歌を繰り返そうとしている時に、ヨアキムが入って来る。
          「そんなに楽しいのか、アンナ。春を告げる小鳥のようだね。その歌は初めて聞くが何の歌か。どこからくるのか?」
          「私の心から。ヨアキム」
           アンナは立ち上がって、ニコニコしながら夫の方へ行く。前よりも若返って美しく見える。
          「お前が詩人だとは知らなかった」と夫は感嘆して言う。
           年配の夫婦とは見えない。そのまなざしには、若い夫婦の愛情がある。
          「お前の歌声を聞いて菜園の奥から来た。恋愛中の雌鳩のような、お前の声を聞かなくなってから、もう何年にもなる。その歌を繰り返して聞かせてくれないか」
          「あなたに頼まれなくても繰り返したいところでした。イスラエルの子らは、希望や苦しみの真実な叫びをいつも歌で表しました。私も、自分自身とあなたにもこの”大きな”喜びを、歌によって告げたかった…。そう、自分自身にも。なぜなら、それは、もうこんなに確実だと感じても、まだうそのように思えるほど大きい…」そしてまた歌い出し ”その枝に一輪のバラ、最も甘い実が一つ、一つの星がある…”と言うところにくると、その調子のよいコントラルトの声がふるえ始め、とぎれて喜びのすすり泣きになる。ヨアキムを見つめ、腕を上げて叫ぶ。
          「私の愛するものよ、私は母となりました!」そして彼が伸ばした腕の中に顔を隠し、その腕が幸せな妻を抱く。
           私が生まれてきてから見る最も清い幸せな抱擁である。清い中に燃えるような抱擁…。そしてヨアキムは、アンナの半ば白い髪の中にやさしい咎めをささやく。
          「それなのに私に言わなかったね」
          「その前に、はっきり確かめたかったのです。私のような老婆が…母となったとは…本当と信じられなかった…その上に何よりも苦い幻滅をあなたに与えたくなかった。私は先に言ったとおり、私の胎内に新しい枝が生まれるのを十二月から感じていました。今、その枝に実が確かです…。こらん、あの布は生まれる子のためです」
          「お前が十月にエルサレムで買った麻ではないか」
          「そうです。そして待ちながら、希望しながら、それを紡いでいます。希望していました。なぜならあの時、神殿の中で、女に許される一番近いところで祈っていたあの最後の日、もう夕方だったけれども”もう少し、もう少し”と私が言ったのを覚えていますか。あの恵みをもらわずに、そこから去ることはできませんでした!そうしたら、もうだんだん暮れてきた薄暗がりの中で、私は現存する神から承諾を奪いとるために夢中になって眺めていた、その聖所のなかから、一つの非常に美しい光のひらめきが発するのを見ました。月のように淡白で、それででこの世にあるすべての真珠と宝石の光を含んでいました。幕の貴重な星の一つ、ケルビムの足元におかれている一つの星は、そこだら離れて超自然の光で輝き…聖なる幕の向こうから、栄光自身から一つの火が出て、全速力で私の方に来る途中、天の声で『お前が願ってことが与えられますように』と歌っている感じでした。 ”一つの星が、お前のところに来るだろう”と先ほど私が歌っていたのはそのためです。神殿の中に星の光のように現れて、そして”光の祭り”の時に”私だ”と言っている私たちの子供はどんなものでしょうか。それとも私のことを、エルカナの新しいアンナ(1)として見るのは正しかったかもしれません。私たちの子をどんな名前で呼びましょうか。水の歌のようにやさしく、私の中に、その小さな
          心臓が手の中にとらわれている小さな鳩のようにドキドキしている、あの小さな心の持ち主は何と呼びましょうか?」
          「男だったらサムエルと呼ぼう。女だったら”星”と言うのは、私に父となったという喜びを与えるために、あなたの歌を止めた、そのことばだから。それはまた、神殿の聖なる陰の中に現れたその形でもある」
          「星、私たちの星! よく分からないけど女の子ではないかという気がするからです。このような愛撫は、いともやさしい女の子からしか来ない感じがします。私は女の子でもちっともかまわない。むしろ彼女は、私を水色の花咲く小さい道に運び、私は聖なる天使に支えられ、そして、この世はもう遠くなったかのような感じです。この神の娘―なぜなら、枯れた幹から生まれるこの子 ― は私たちの者というよりも神の者で、自分のお母さんに苦しみではなく、平和と祝福だけを持って来るでしょう。これは、まことの父である神の実です」
          「それならマリアと呼ぼう。私たちの海の星、真珠、幸福、イスラエルの最初の大いなる女の名前。(2) この女の子は、主に対して罪を犯すはずはなく、神だけに自分の歌をささげるだろう。神にささげられているから。生まれる前の供物(ホスチア)!」
          「そうです。神にささげられたもの。男であれ女である、私たちは三年間、私たちの子供を喜び味わってのち、主にささげましょう。私たちもこうして神の栄光のためにささげ物となるでしょう」

          (1)一サムエル1・9以下。
          (2)脱出15・20~21, 荒野(民数)12・1~15。




          4  ヨアキムは義人の女にこもっていた 神の上智を娶った

          2013.07.26 Friday

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            4  ヨアキムは義人の女にこもっていた 神の上智を娶った

             イエズスが言われる。
            「義人たちはいつでも知恵者である。彼らは神の友人であるので神とともに生き、無限の上智である神に教えられている。私の祖父母は義人であったので、上智をもっていたのである。二人は上智の讃歌を歌っている本のことばを、”本当に”言えたのである。
              
             ”私が若い時から愛し、求めたのは知恵だった。
              私はそれを配偶者にしようと務め、
              その美しいものの愛人となった”(1)

             アロン家のアンナは私たちの先祖(2) が語っている、かの強い女であった。そして、ダヴィド王家の子孫のヨアキムは、美しさの魅力と富よりも徳を探したのである。アンナは、”大きな”徳をもつ人であった。さまざまの花を集めた香り高い花束のように、美しいもの”徳”を作るすべての長所をもっていた。神の座の前に立つにふさわしい実際の徳を。
             ヨアキムは上智を娶った。 ”女よりもこれを愛して”正しい女の心にある神の上智を娶った。アロン家のアンナは、自分の一生涯を真っ直な正しい男の生活に一致させて結ぼうとした。正しさには、家族の喜びがあると知っていたからである。しかし”強い女”の象徴には、既婚の女の栄光であり、婚姻の目的でもある子らの冠だけが足りなかった。
             すでに老齢に近づいていた彼女は、もう何十年も前からヨアキムの妻であったが、それでも夫にとっては、彼女は
            いつでも”若い時の花嫁、自分の喜び、愛らしい雌鹿、可憐なかもしか”(3) で、その愛撫は、婚姻の最初の日の新鮮な魅惑、彼の愛を絶えずやさしく養っていたのである。このために子供が恵まれない、という悲しみの中でも、お互いにことばと心で慰め合っていたのである。(4) そして時期が来た時、永遠の上智が生活を通して二人を導いてのち、夜の夢によって彼らを照らし、いとも聖なる母マリアの到来を告げたのである。
             謙遜な二人は、このようなことは頭に浮かばなかったが、神の約束の訪れで、希望にふるえたのである。ヨアキムのあのことば”希望しなさい、希望しなさい … 私たちは、私たちの誠実な愛によって神に打ち勝つだろう”には、希望がもう表れている。
             二人は男の子を夢見ていたが、神の母が与えられたのである。知恵の書のことばは、この二人のために書かれているかのようである。 ”知恵があれば私は永久に名をとどめ、あとに続く人々に永遠の記憶を残す”。(5)
            けれども今言ったようなことを得るために、二人はどんな事件も起こさなかった真実で、継続する徳の持ち主となるべきだった。信仰の徳、愛の徳、希望の徳、貞節の徳。
             夫婦の貞節。二人はこれを守っていた。なぜなら貞節であるには、童貞であることの必要はないからである。貞節の床は、天使たちに守られて、そこから、よい子供、親の徳を自分の一生の基準とする、よい子が生まれるのである。しかし今は、そういう夫婦はどこにいるのか? 今は、子供たちが望まれていないが、貞節も望まれていない。そのために私は、愛と床は汚されていると言うのである」

            (1)知恵8・2
            (2)ソロモンのこと(格言31・10~31)
            (3)例えば(格言5・18~19)
            (4)例えば(一サムエル1・5)
            (5)知恵8・13



            8 彼女の魂は、御父が考えられた時と同じように全く美しい - 2

            2013.07.24 Wednesday

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              8 彼女の魂は、御父が考えられた時と同じように全く美しい - 2
               王である私の足の下には、どんな王宮にもないじゅうたんと宝石があるべきであった。または、この世のどんな君主も持っていなかった僕と給仕するものとを持つはずであった。しかし、私は霊のほかに”肉体”であるべきであった。肉体を救うための肉体! その時期は何世紀も前に、天に運ぶことによって、肉体を崇高なものとする計画であった。なぜなら、霊が住んでいる肉体は神の傑作で、そのために天国が創られたのである。
               しかし、肉体となるためには、私には母が必要であった。神であるには、父が神である必要があった。そのため神は、ご自分の妻を創って言われた。『私と一緒においで。私のそばにいて、私が”私たち”の子のために何をするかを見よ。永遠の処女、永遠のおとめ、眺めて喜べ。そして、あなたのほほえみは天を満たし、天使たちを喜ばせ、天国に天的な調和をもたらしますように。今、私の心を喜ばす霊だけである汚れのない処女よ。未来に存在するであろうそのままのあなたを見ている。私はあなたを眺める。そして、あなたの瞳の水色を海と空とに与え、あなたの髪のブロンドを聖なる麦に、あなたの清さを百合に、あなたの肌の色をバラに与え、真珠をあなたの細かい歯に似せて創り、あなたの口を眺めて甘いいちごを実らせ、ナイチンゲールののどにあなたの調べを、そして雌鳩にあなたの泣声を与える。また、あなたの未来の考えを読んで、あなたの心の動悸を聞いて、想像のモチーフを汲む。 私の喜びよ、おいで。天体はあなたのたわむれの道具、星たちはあなたの首飾りで、月はあなたのやさしい足台、天の川をあなたの帯にしなさい。おいで、あなたの子の遊び道具、また、あなたの胎の子の枕となるであろう草花を見て喜びなさい。おいで、羊たちと子羊、鷲と鳩が創られるのをごらん。私は海と川との器を創るとき、山々を創り、雪と森林で塗る時、私のそばにいなさい。穀物と木と草花とぶどうを植え、私の平和である、あなたのためにオリーブを創り、また、御聖体の房を下げる、ぶどうの木をあなたのために創る時、私のそばにいなさい。おお、私の美しいもの、走れ、跳べ、喜べ、そして、一瞬一瞬に創られる全世界、全宇宙は、私の愛人あるあなたから、私を愛することを知り、私の子の母、天の国の母、天の国の后、あなたの神の愛である、あなたのほほえみによってもっと美しくなりますように。
               そして、過ちのない婦人を眺めて、私はまた、こう言う。”人間の不従順”の苦さ、サタンと人間との間の淫乱の交際を取り消すあなた! さあ、おいで。私は、あなたによってサタンに対しての復讐を行うものである』
               創造主の父である神は、男と女とを”どれほど完全な愛の法則”をもって創ったか。あなたたちは、その完全さも理解できないほどである。そして、サタンの誘惑がなかったならば人類はどのように継続したかを考えよ。
               果樹をごらん。それは、種子と実とを邪欲によって得るだろうか? いいえ、そうではない。雄花から花粉が出て、気象のさまざまな現象により雌花に運ばれ、子房が開かれて実を作る。人間がするような次の日に同じ快楽を味わうために、これを拒むことはない。次の季節に至るまで花を作らず、花を作るのは生殖のためである。
               動物も同じである。”すべて”の動物をごらん。雄と雌とがけがらわしい実を結ばない抱擁のために探し合い、一緒になるのを見たことがあるか? そうではない。動物は近くから、あるいは遠くから、飛んだり、這ったり、走ったりして、その時期になると性交の儀式に入り、単なる快楽にとどまらないで子孫を産む。
               あなたたちは、植物や動物のやり方とちがう。それは人間の師がサタンであったからである。あなたたちの行為は、その師にふさわしい。しかも、あなたたちの祖先が神に忠実であったならば、清く、苦しみなしに獣さえも知らない汚らわしい性交なしに子孫が授けられるという喜びを味わっただろう。
               サタンに堕落させられた男と女とに、神は男を知らずに子どもを産むという、神によって高められた女を対立させた。これは、種子の必要のない百合であるマリアという汚されていない杯に対しての”唯一の太陽”の接吻によって花を産む花である。これこそサタンに対しての神の罰である!
               彼女が生まれる今、お前の憎しみを吹いてもよい、サタン。この小さな女の子はお前に打ち勝った! お前が反逆者になる前、人を堕落させる前にお前はもう負けたのであった。サタンよ、お前の力に対して、どんな軍隊でも打ち勝つことなく、お前の息の悪臭を散らせる風もない。それでも、チューリップの杯に入れるほど小さいあの幼な子のバラ色にほんのり染まった椿の花の芯のようなかかとは、お前をお前の洞穴へ追い返す。その産声は、どんな軍隊をも恐れないお前を逃亡させ、その息は、この世を悪臭から清める。お前は負けたのである。彼女の名前、彼女のまなざし、彼女の清さはお前を突き刺し、倒し、創られた”すべての”人間の父である喜びを、神から奪った呪われたものお前を、また地獄の洞穴に閉じ込めるのである!
               最初の人間は、どんな罪もないものとして創られて、子孫を産む場合に、神が定めた法則によって産んだならば、この世では両性と色々な人種の間の平衡を保たせ、民と民との戦争、家族と家族との災いを避けられただろう。
               最初の人間は、神に服従しても愛を知っただろう。そればかりか、神に服従することによって、より深く、より良く愛を知ったにちがいない。また神によって霊に合わせられている肉体も、喜びを知ったにちがいない。
               人間たちよ、今のあなたたちの、さまざまの愛は何だろうか? 愛を装った邪欲か、それとも相手、自分あるいは他人の情欲のために配偶者の愛を失う絶えざる恐れである。このような邪欲が入り込んでから、あなたたちは夫、あるいは妻の心を安全に所有する安心感がなくなった。そのために、時としては嫉妬のために狂気のようになり、時として裏切りに対する復讐のために、人殺しともなり、なるいは幻滅のあまり落胆し、ふるえるのである。
               サタン、神の子らにお前は何をしたか。お前が堕落させたこの子らは、本来ならば苦しみを知らずに子が授けられるという喜びを知り、死ぬ、という恐れなしに生まれる楽しみを知ったであろうに。しかし、今お前は一人の女において、女によって負けたのである。今から彼女を愛する人は、貞潔を守るためにさまざまの誘惑に打ち勝って、また、神のもとに戻るであろう。苦しみなしに懐胎できない母たちは、彼女を慰め手として仰ぎ見るであろう。妻たちは彼女を案内者として持ち、死に行く人は母として崇めることによって、呪われたものお前に対しての盾であるその胸の上に安らかに死ぬであろう。
               おお、”かの少女”の処女性!
               マリア(著者のこと)おいで。この深い処女性を黙想せよ。その黙想は、心に恍惚のめまいを覚えさせるほどのものである。どんな男とも結婚しなかった女の無理な処女性は、何とあわれなことか。または、神のものとなるために処女性を選んだとしても体だけのことで、心からではなく、そこであまりにも人間的な考えを愛撫し、受け入れる女の処女性とは何であろう。それは処女性のまぼろしにすぎない。そしてまた、神だけに生きる、聖別されて観想生活を営む女の処女性とは何であろう。これは大きなものであるが、私の母のと比較すれば、完全な処女性と言えないのである。
               処女マリアは唯一の処女、全き処女そのものとして計画され、生まれた者で、そのものとして永遠に残る者である。
               これこそ三位一体の神の復讐である。汚されたすべての人々に対して、神は完全さのこの星を高く掲げる。不健全な好奇心に対立し、神だけを愛することで満足するこのつつしみ深い星を。神は悪の知識に対して無知な、この気高い少女を指定する。彼女が無知であるのは、堕落した愛、神が夫婦となるべき人間に与えようとした愛を知らないだけでなく、その上、彼女には罪の遺産である邪欲も知らなかった。彼女には、神の愛の氷のような、しかし、燃えるような知恵があるだけである。その知恵は、肉体を氷で守る火である。これは、神が一人の処女と結婚する祭壇が透明な鏡であるように、そして、その肉体と愛は衰えることなく、その完全さは、神という配偶者の花嫁にふさわしく、神の程度には至らないが、神のように汚れのないものである」
              あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より

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              8 彼女の魂は、御父が考えられた時と同じように全く美しい

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                 8 彼女の魂は、御父が考えられた時と同じように全く美しい

                 イエズスが言われる。
                「私の小さな友よ。起きて急ぎなさい。あたなを処女マリアの観想の天のような青空に、私と一緒に連れて行くのを切に望んでいる。そうすれば、あなたの魂も今、御父に創られたかのように新鮮で、まだ肉体を知らない一人の小さなエバである、という感じがするだろう。神の傑作の中に飛び込むので、あなたの心は光に満ちあふれるだろう。神のどのように愛するかを分かれば、あなた自身、あふれる愛に満たされるだろう。汚れのないものマリアの懐胎について話すことは、空の青さの中に、光の中に、愛の中に飛び込む、という意味である。来なさい。そして、その先祖の本の中に、彼女の光栄を読みなさい。
                   ”神は、そのみ業を始められた時から、
                  そのみ業より早く、
                  私を有しておられた。
                  永遠から、
                  初めから、地が始まる前から、
                  私は立てられた。
                  淵もまだなく、
                  泉がまだほとばしっていない時、
                  私は生まれた。
                  山が立てられ、
                  丘がつくられるより早く、
                  私は生まれた。
                  土地も畑もまだない時、
                  世のちりのもともない時だった。
                  彼が天を固め、
                  淵のおもての上に半円の天をおかれた時、
                  私はそこにいた。
                  上空に雲をこりかため、
                  ふちの水源を決め、
                  海の境界を定め、 ― 水がその境界を越えぬように ―
                  地の基礎を固めた時、
                  私は、建築技師のように、彼のそばにいた。
                  私は、日々、神の喜びのもとであり、
                  いつも、そのみ前でたわむれていた。
                  私は地の上で遊び、
                  人の子と交わるのを楽しみとした”」
                               (格言の書8・22~31)
                 あなたたちは、このことばを上智に応用しているが、美しい母、聖なる母、今、あなたに話している上智である私の処女の母について語っている。私は、あなたが彼女について話している本の初めに、この賛歌の最初のことばを書くように望んだのは、神の喜びと慰めとを知らせるためであった。彼女は、あなたたちを支配し、愛している三位一体の神の絶えることのない深く完全な喜びである。神は、人間から数多くの悲しみを受けたが、最初の試験の時に人類の全滅に値する罪が犯された時、人類の存在を継続させた理由、あなたたちがもらったゆるしの理由は彼女であった。
                 ご自分を愛してくれるマリアをもっているということは、人間を創造することに値するものであった。美しい処女、聖なる処女、汚れのない処女、愛にあふれる処女、いとも清い母、愛深い妻をもつために、人類を生かしておいて、ゆるすことを決めるに値するものであった。ご自分の喜びである彼女をもつために、ご自分の太陽であり、庭にその花を咲かせるために、あなたたちに、これ以上のことさえも与える覚悟であった。神は、彼女のために、彼女の頼みによって、彼女の喜びのために、あなたたちにこれほどのことを続いて与えるのである。なぜなら、彼女の喜びは神の喜びに反映し、そのすべての輝きは宇宙に対して、人類に対して、聖人に対しても恵みに変わる。
                 神は、無から創られた宇宙に、一人の王を与えようとおぼしめした。物質の本質によって、創造の最初の日から、罪のない恩寵に生きる”神よりもやや劣る”王であった(詩編8・6、ヘブライ2・7)。しかし、未来の遠い、遠い世紀に隠れているすべてのことを知っている最高の上智は、過去を眺め、現在を見、未来の終末に、最後の人間がどのように死ぬかを知っている。神は、このような人間が聖寵を失い、天を失うという犯罪を犯すだろうと言うことを知らなかったのではない。
                 それなら、なぜ人間を創ったのか。確かに多くの人々は、これを疑問に思っている。では、人間たちが存在しない方がいいと思うのか。今のように貧しい、あなたたちの悪さによって辛いものとなった人間の一生を、神が宇宙にまいた無限の美を知り感嘆するために、生きるに値しないと思うのか。
                 それなら、無限の空間を矢のように流れる、あの天体と惑星とを、だれのために創ったか。それらはあなたたちに、光と季節を与え、変わることのないものとして毎晩、毎月、毎年、青い空に読むことができる新しいページを与える。
                 人間たちよ、牢獄を忘れよ。あなたたちが作る、暗いきたならしい毒にあふれる偽りと冒とくの印刷物を無視して、少なくとも目をもって、天体の世界の限りない自由を眺め、澄み切った青空を見て心を澄ませ、大聖堂のオルガンよりも調和に満ちあふれる天体をもって、われら被造物が歌っていることばを読め。われらの輝きをもって書いていることば、愛をもって書いていることば。なぜなら、われらは存在する喜びを与えたものを、絶えず目の前におき、この存在、この輝き、晴天の中に自由で美しいものである、と言う喜びを与えたものを愛している。その向こうに、われらは、われらの普遍の隣人であるあなたたちを愛することにより、あなたたちに案内と光、暖かさと美しさを与えることによって、神の愛の第二の掟を守る。われらが宇宙に書いていることばを読みなさい。われらの歌、われらの輝き、われらのほほえみは、すなわち神である。
                 神は、空の鏡の海、陸への道、水のほほえみ、波の声、屈託のない娘たちの忍び笑いのような過去の思い出に、ため息して泣く老人たちの嘆きのように海の声を、激しい風の平手打ちやうなりと地鳴りをもって話している、あの水色の液体をだれのために創ったか。海はいつも神を語るではないか。天と天体がそうであるように、海はあなたたちのものである。そして、海とともに湖と川、水たまりと小川やあなたたちを養う渇きをとる、清い泉もそうである。
                 歌いながら舞う花であり、走ったり働いたりして王である、あなたたちを養っている動物の数知れない種類を、誰のために創ったか。
                 蝶のように見える芽と、動かない小鳥とも見える花、装飾品、あるいは宝石箱とも見える草花は、あなたたちの足の下にじゅうたんとなり、あなたたちの頭を守り、知恵、肢体、目と鼻に喜びと利益をもたらす、数知れない種類の植物をだれのために創ったか。
                 大地の奥深い所に隠れている鉱物、沸騰して湧き出る温泉、硫黄などを、神ではないが神の子である”一人のもの、人間”のために創ったのでないならば、だれのために創ったか。
                 神の喜びに、足りないものは何もなかった。神だけは自分自身で足りる。そのために創造の世界すべては、ご自分の無限の喜び、美しさ、いのち、力を一点も加えなかった。しかし、このすべてのことを、ご自分のみ業の”王”としたかった被造物”人間”のためになされたのである。
                 それほどの、神のみ業の贈り物に対し人生は感謝して生きるに値する。また生きるものであることを感謝すべきである。世の終わりにならなければ、あがなわれなかったにしても、その感謝を表すべきであった。なぜならあなたたち最初の人間から始まって、今に至るまで個々の人は違反者で、傲慢で、淫乱で人殺しであるにもかかわらず、神は宇宙の美しさ、宇宙の恵みで楽しむことを今でもゆるしてくれるばかりか、あなたたちがよい子供たちであるかのように、生活をより楽しくするために、すべてを与える。あなたたちが知っていることのすべては、神の光による。発見することも神の指定による。よいことは皆、神より出る。悪の場合は、そのしるしをもっている他の知識、発見あるいは発明が、最高の悪であるサタンからくるのである。すべてご存じの、いつも高き知恵は、人間が存在する前から、人間は泥棒と人殺しになるだろうと知っていた。そして永遠の善であるものは、善において限りがないので”罪”が存在する前に、罪をむなしくするための手段を考えた。その手段とは、みことばである”私”である。そして、この手段が、生きる道具にするために”マリア”を計画した。こうして処女マリアは、神の崇高なはからいにおいて創造された。万物は、御父の愛する子である私のために創られたのである。
                 つづく
                あかし書房 フェデリコ・バルバロ訳 マリア・ワルトルタ『聖母マリアの詩』上より

                聖グリニョンド・モンフォール著『聖母マリアへのまことの信心』デルコル神父訳1993年度版

                2013.07.19 Friday

                0
                  63 ここでわたしは、おお愛するイエズスよ、あなたの方をふり仰いで、キリスト信者のほとんどが、学問のある者もない者も、あなたとあなたのおん母との間に、どれほど深い結びつきがあるかをよく理解していないという点について、心から嘆きたいのです。
                   主よ、あなたはいつもマリアと供にあり、おん母は、もう、マリアという存在は生きていないと云える程に、恵みによって、あなたご自身に変化しておられるのです。おおわたしのイエズスよ、どんな天使よりも、どんな聖人よりも、おん母の中において、より完全に生き、治められるのは、あなたです。ああ、もし、この美しいおん母によって、あなたがどれほどの愛と栄光とを受けておられるかを知ったら、きっと世の人々も考え直すでしょう。
                   太陽から光をひきはなし、火から熱をとるほうがもっと容易であろうと思われる程に、聖母は、あなたと強く一致しておられます。いや、それどころではなく、すべての天使と聖人とはあなたから引き離すほうが、マリアおひとりを引き離すよりも容易でしょう。マリアこそは、どんな被造物よりも熱くあなたを愛し、誰よりもよく、あなたに栄光を帰しておられるからです。

                  64 こう考えてくると、愛するわたしの主よ、この世の人々が、あなたの聖なるおん母に対して、これほどに無知であると知るのは、嘆かわしく、驚くべきことではありませんか。と云っても、わたしは今、あなたを知らないからおん母をも知ろうとしない、偶像崇拝者や異教徒を相手にしているのではありません。また、あなたと、そしてあなたの聖なる教会から離れて、しぜんに、おん母をないがしろにする異端者や離教者について話しているのでもありません。わたしが、誰について話しているかと云えば、カトリックの信徒たち、いやそればかりではなく、人々に真理を教えることを恥としているカトリックの教師たち(*20)についてです。
                   これらの人々は、冷たい理論と、血と熱もない冷淡さでしか、あなたとあなたのおん母hとのことを考えようとしません。聖なるあなたのおん母と、そのおん母に対する信心について、あまり話そうとしません。それはなぜかと云うと、おん母をあまり尊ぶことは、あなたへの侮辱になると、かれらは云うのです。そうでしょうか?聖なるおん母を深く信心しているある人が、この信心は、迷いのない確実な手段だ、危険のない近道だ、完全に清い道だ、キリストへの愛に至る不思議な神秘だ、と見事に証明したとします。すると、先に云った人々は、その信心家をけなし、聖母に対する信心について、そういうふうに話してはいけない、それは迷いになりやすい、むしろその信心を弱めるように努めて、人々をイエズスにだけ向けさせなけらればならないと申します。
                   かれらも、時々は、あなたのおん母について話しますが、それはその信心をすすめるためではないのです。かれらは、マリアへの信心をもっていないから、当然、あなたへの信心ももっていないわけです。ですから、ロザリオとか、スカプラリオとかは、無学者か老婆の信心の道具であって、救いのためにかならずしも必要なものではないと申します。聖母を信心している人が堕落するようなことがあると、これ見よと云わんばかりに、聖母への信心をやめて、七つの詩編をとなえよとか、イエズス・キリストへの信心をせよなどとすすめます。
                   おお、愛するイエズスよ、この人たちが、本当にあなたの精神をもっていると云えるでしょうか? かれらのこのやり方は、あなたをお喜ばせするでしょうか? あなたのお気に入らないのではないかと恐れて、あなたのおん母のお気に入るように努力しないことが、果たしてよいことでしょうか? おん母への信心が、あなたへの信心をさまたげるでしょうか? おん母への尊敬は、おん母のためだけのものでしょうか? 聖母のお気に入るように努めることは、あなたへの愛から遠ざかることになるのでしょうか?

                  65 それなのに、愛する主よ、学者と云われる多くの人は、わたしが今云ったことを肯定するかのように、人々を、聖母への信心から引き離そうと熱を入れています。それは、かれらの傲慢の罰ではなくて何でありましょう。
                   主よ、かれらのそういう考え方から、私を守ってください。そして、わたしがあなたを模範とし、あなたに従えば従うほど、あなたを愛し、あなたの栄光のために働くことが出来ますように、わたしを守ってください。あなたが、あなたのおん母に対して抱いておられる感謝と尊敬と愛の気持ちを、わたしたちにも分けてください。

                  66 またわたしのつたない手を導き、「聖なるおん母にふさわしい尊敬と称賛とをささげられるように恵みを与えてください」(*21)
                   わたしも、聖人たちと共に、こうとなえましょう、「聖なるおん母を侮辱する者は、神のあわれみを願う資格がない」と。(*22) 

                  *20 ここでモンフォール師は、当時(1680~1715年)のマリア信心の危機について話す。前にあった出過ぎた信心に反対するためとはいえ、カトリックの博士たちでさえ、これと正反対の極端に流れてマリア信心を非難していた。モンフォール師も、マリア信心の乱用といつわりの傾向をはげしく非難している(本書90-104条)が、一方では、まことの信心を正しく紹介するように努力している。このマリアに対する信心は、キリストに対する中心的な礼拝と競争する同じ程度もものではなく、キリストと一致し、キリストに似たものとなり、マリアを通じて、キリストに奉献されるためである。
                  *21 聖ボナヴェントゥーラのことば。
                  *22 パリのギョームGuillaume師のことば。

                  聖グリニョンド・モンフォール著『聖母マリアへのまことの信心』山下房三郎(トラピスト会司祭)訳1980年発行

                  2013.07.18 Thursday

                  0
                    63 こうした中で、主よ、わたしはあなたのほうに向きなおって、愛情こめて嘆き訴えさせていただきたいのです。キリスト信者の大部分が、しかも、もの分かりのいい人たちでさえ、あなたと御母マリアとの間には、お互いを結び合わすキズナが必然に存在していることを、すこしも理解していません。主よ、あなたはいつも、マリアとともにおられ、マリアはいつも、あなたとともにおられ、あなたから離れることができません。もしマリアがあなたから離れると、マリアはもうマリアではありえなくなるのでしょう。
                    恩寵によって、マリアはスッカリあなたに変容し尽くされていますので、生きているのはもはやマリアではなく、存在しているのはもはやマリアではない、と言えるほどなのです。イエズスよ、あなたこそ、ただあなただけが、マリアのうちに生き、支配しておいでになるのです ― 天のすべての天使、すべての聖人のうちにおけるよりも、もっと完全な仕方で。
                     ああ、あなたがマリアのうちにあって、受けておいでになる栄光と愛を、すこしでも理解することができましたら、その人はきっとあなたについて、またマリアについて、これまでとちがった考えを持つようになるでしょうに。太陽から光を引き離すほうが、火から熱を引き離すほうが、むしろ容易だと思われるぐらい、それほど緊密にマリアは、あなたと一つになりきっておられます。いいえ、それどころではありません。天国のすべての天使、すべての聖人をあなたから引き離すほうが、あなたからマリアを引き離すよりも、むしろ容易なのでございましょう。マリアは、ほかの被造物よりも、もっと熱烈にあなたを愛し、もっと完全にあなたに栄光を着せておいでになるからです。

                    64 いとも愛すべき主よ。こうした現実にもかかわらず、地上のすべての人が、あなたの聖なる母マリアのことに関して、あまりに無知である、あまりに忘却のやみに沈んでいる、ということは、なんとも驚くべきこと、なんとも痛ましいことではないでしょうか。わたしは、異教徒のことや、偶像をおがんでいる人たちのことを言っているのではございません。この人たちは、もともと、あなたをごぞんじないのですから、マリアさまのことを知ろうとしないのは当然です。わたしはまた、異端者や離牧者のことを言っているのでもございません。この人たちは、あなたからも教会からも、離れているのですから、マリアさまに信心をしないのも当然でございましょう。
                    わたしがここで言っていますのは、カトリック信者、しかもカトリック信者の中でも、インテリ階級にぞくする学者先生のことです。この先生がたは、ひとに真理を教えることを、一生の職業としていながら、あなたのことも知らねば、あなたの聖なる母マリアのことも知っていないのです。たまに知っていても、それはあくまで、純理論的で無味乾燥な、不毛でうるおいのない認識でしかありません。
                    この先生がたは、マリアさまについて、マリアさまへの信心について、ごくごくまれにしか話しません。マリアさまをあんまり尊敬すると、それは信心の乱用である、あなたへの侮辱である、と言っているのです。たまたま、マリアさまを熱烈に崇敬している者が、マリアさまへの信心について、この信心は、イエズス・キリストを完全に見い出し、愛するための、まちがいのない確実な手段である、危険のない最短の道である、欠陥のない清らかな方法である、本人しか知らない秘訣である、と心をこめて、力づよく、納得のいくまで、しばしば話しているのを、この先生がたが見たり聞いたりしてごらんなさい。さっそくかれらは、このマリア信心家に向かって、くってかかり、こう言うのです ― そんなことはない、マリアをそんなにほめそやしてはいかん、マリアへの信心には、本質的に大きな欠陥がある、この欠陥を取り除くために大いに努力せにゃいかん、信者大衆を、マリアへの信心に投入するために説教するよりも、むしろイエズス・キリストについてこそ説教すべきだ、と。そして自分らの説を証明するために、あらゆるウソの理論を展開しているのでございます。
                    イエズスよ。ときたまかれらは、あなたのお母さまへの信心について話しているようですが、それはマリアへの信心を強め、納得させるためではなく、かえってそれを、ぶッこわすためなのです。この先生がたは、マリアへの信心をもっていないのですから、とうぜんあなたに対しても、本当の、心からの信心をもっていません。
                    かれらは、ロザリオ、聖母の肩衣などへの信心用具を、それは女、子供の信心だ、無学信徒専用の特許品だ、そんなものがなくても、天国へはちゃんと行ける、などとクサしています。ロザリオをとなえたり、または何か聖母に対して信心の務めを果たしている者が、不幸にもかれらの手に落ちますと、かれらはすぐに、この聖母信心家の洗脳にとりかかります。ロザリオのかわりに、痛悔の七つの詩編をとなえたらどうか、とすすめるのです。マリアへの信心をやめて、かわりにイエズス・キリストへの信心を増強するように、とすすめるのでございます。
                    愛すべきイエズスよ。この人たちは果たして、あなたの精神をもっているのでしょうか。このように行動することが、ほんとうにあなたを喜ばせることなのでしょうか。あなたのごきげんをそこなうのではなかろうかと恐れて、あなたのお母さまを喜ばせるために、ありったけの努力を投入しないことが、果たしてあなたを喜ばせることなのでしょうか。
                    あなたのお母さまへの信心が、あなた自身への信心にとって、ほんとうにさまたげとなっているのでございましょうか。あなたのお母さまは、ご自分にささげられる栄光と賛美を、ひとり占めにしていらっしゃるのでしょうか。あなたのお母さまは、天上天下、まったくひとりぼっちなのでしょうか。あなたにとっては縁もゆかりもない、赤の他人なのでしょうか。あなたのお母さまを喜ばそうと努力することは、それだけあなたを不愉快にすることなのでしょうか。あなたのお母さまへの奉仕に献身し、あなたのお母さまを心から愛することが、そのまま、あなたへの愛から自分を引き離し、遠ざけることにつながるのでしょうか。

                    65 それなのに、愛すべき主よ。学者先生の多くが、その高慢の罰として、わたしが今さき書いたことがみんな事実でもあるかのように、マリアさまへの信心からまったく遠ざかり、まったく無関心を決めこんでいるのでございます。どうか、主よ、マリアさまに対するこの人たちの悪感情と冷淡な態度から、わたしをまもってください。かわりに、あなたがお母さまマリアに対していだいておられる感謝、尊敬、愛のお気持ちを、わたしにも分け与えてください。わたしがもっと近くからあなたを模倣し、あなたにつき従うようになれば、それだけいっそうあなたを愛し、あなたの栄光をあらわすことができるからです。

                    66 これまでいろいろ書きてまいりましたが、あなたの聖なるお母さまのほまれのためには、まだひとことも言っていないような気がいたしますので、どうか主よ、マリアさまをふさわしくたたえるお恵みを、わたしに与えてください。マリアさまへの賛美を妨害する敵 ― それは同時にあなたの敵 ― が、どんなに多くてもかまいません。わたしは、敵の頭上に、聖人たちとともに、大声を張り上げて次の聖句を投げつけてやりたいのです。「神の御母を侮辱する者が、どうして神のあわれみを期待できますか」(パリのギョーム)

                    『指針 あがないの秘跡』教皇庁 典礼秘跡省著から

                    2013.07.13 Saturday

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                      第三章 四 ミサの祭儀と他の儀式の結合

                      78  ミサの祭儀を政治的あるいは世俗的なイベントと結びつけたり、カトリック教会の教導職の教えと完全に合致しないような状況と結びつけたりすることは許されない。さらに、一般的にミサの祭儀を単に見せ物としたいという意図をもって、あるいは、世俗的な式典を含む他の式典のようなしかたで執り行ってはならない。そうすることによって、聖体がその真正の意味を失いかねないからである。

                      聖ベネディクトのメダイ十字架 2

                      2013.07.11 Thursday

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                        聖ベネディクトのメダイ十字架を贈られた時のリーフレットから抜粋 (ドン・ボスコ社等の聖具売り場で購入できます。)
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                        聖ベネディクトのメダイを身につけ、以下の条件を満たす人は臨終に際し、全免償によって護られるであろう。

                        1 神に霊魂を委ねる
                        2  告解をして聖体拝領をする。もしそれが不可能なら、心から痛悔しつつ、イエズスの御名を呼ぶ。

                        このメダイには、教皇ベネディクト14世の1742年3月12日付けの書簡によって他の免償も与えられている。
                        「われわれは以下のことに厳粛に同意する。このメダイを付けている者で通常の条件を満たしている者(告解、聖体拝領、教皇のための祈りをすること)
                        に全ての大祝日に全免償を与える。すなわち…

                        クリスマス、御公現、ローソクのミサ、御復活、御昇天、聖霊降臨、三位一体、聖体、聖母被昇天、
                        無原罪の御宿り、聖母の御誕生、諸聖人の祝日、聖ベネディクトの祝日(3月21日)

                        一週間に一度、次の習慣を行うならば…
                        1 ロザリオを唱える  2 信仰を教える
                        3 病人を見舞う    4 施しをする
                        5 ミサに与る

                        多くの部分免償については以下の通り。
                        1. 病人を見舞う、教会を訪問する。家庭で子供に教理を教える。  恵まれない親類を助ける。(各200日)
                        2. ミサを立てるかミサに与り、キリスト教徒の元主のために祈るか、あるいは政府のために祈る。(7年と280日)
                        3. 諸聖人の祝日に病者を見舞う度に、(7年)
                        4. ミサに与る前に何らかの祈り、あるいは聖体拝領前の何らかの祈り。(100日)
                        5. 助言または模範によって罪人を改心させた者は、罪による罰の3分の1を赦される。
                        6. 月曜、木曜または復活祭に良い告解をして聖体拝領し、公教会の繁栄のためと教皇のために祈る者に免償。
                        7. 聖ベネディクト修道会の発展を祈る者は、この修道会でなされる善行の功徳に与ることができる。

                        聖ベネディクトのメダイ十字架


                        善終の十字架と聖ベネディクトのメダイの効用についてみてきたが、この二つが一つに合わさったものをよく理解するためである。このメダイ十字架ならば、十字架に架けられた救い主と聖ベネディクトを示すメダイにうやうやしく接吻することができる。この十字架は偉大な悪魔祓いの力があるといわれている。いかなる時も献身と祝福がくり返される。この聖ベネディクトの十字架で祝福をするとき、短い悪魔祓いの祈りをすることがとても勧められている。

                        短いエクソシズム(悪魔祓い)


                        「ああ、我がイエズス、御身の聖なる十字の印もて、われらよりすべての悪霊を立ち退かしめ給え。
                        聖父 † と、聖子 † と、聖霊 † との御名によりて。アーメン。」
                        (注釈…†のところで十字をきる)

                        毎日この十字架を用いるといいでしょう。救い主を崇め、悪魔に対して聖ベネディクトの支援を請うためにいいでしょう。