62 イエズスとユダ、ヤコボの先生マリア(1)
食事をとったり、マリアが機織りや針仕事をする部屋を見る。隣りの部屋は、ヨゼフの仕事場であるが、そこから勤勉な働く音が聞こえる。その代わりに、ここには全くの沈黙がある。マリアは、自分で織った羊毛の細長い布を縫い合わせている。幅はほぼ一メートル半、長さはその二倍で、ヨゼフのマントのために使うつもりらしい。菜園に面して開いているドアから、空色がかった紫の、小さなマーガレットのような花が咲き乱れている塀が見える。私は、その正確な名前を知らない。それを見れば秋のようであるが、木々は、まだ緑が濃く美しく、太陽のよく当たる壁についている二つの蜜蜂の巣から、蜜蜂はいちじく、ぶどうの木、割れている実で一杯のざくろの周りをブンブンと飛び回っている。
木々の下に、イエズスは、ほぼ自分と同じ年ごろの二人の子供と遊んでいる。二人はちぢれ毛であるがブロンドではない。むしろ、一人は小麦色である。色の濃い小羊のような頭で、まん丸い小さい顔は皮膚の白さを目立たせ、紫がかった水色の大きな、非常に美しい目をしている。もう一人は、それほどちぢれ毛ではないが、色は暗い栗色で、目も栗色、顔色はもっと濃い小麦色であるが、頬はうすいバラ色をしている。小麦色の二人の中に、全くブロンドの小さい頭をしているイエズスは、もはや光輪のかかった感じがする。三人は仲よく遊んでいる。小さな車にさまざまの商品、枯れ葉、小石、かんなくず、小さな木片を載せて、商売ごっこをしている様子で、イエズスはお母さんのためにいろいろなものを買い、それらの品物を彼女のところへ持って行く。マリアは、ほほえみながら買物を受け入れる。
それから、遊びが変わる。子供の一人がこう言い出す。
「エジプトの脱出ごっこをしよう。イエズスはモーセ、私はアロン、おまえは…マリア(2)」
「だって、私は男だもの!」
「それはかまわない。同じだ。お前は、マリアで黄金の仔牛の前で踊るんだ。仔牛は向こうの蜜蜂の巣にしよう(3)」
「私は踊らない。私は男で女役なんか、いやだ。私は信仰者で、偶像の前で踊ったりするもんか」
イエズスが口を入れる。
「じゃあ、そのことではなく、ヨシュアがモーセの後継ぎに選ばれるところ(4)にしよう。そうすれば、偶像崇拝のあんな汚い罪もないし、ユダも男になって、私の後継ぎになるのを喜ぶだろう。ねえ、うれしいでしょう」
「そうとも、イエズス。でも、そうしたら、あなたは死ななければならない。だって、モーセはあとで死ぬから。こんなにいつも私を愛してくれる、あなたに死んでほしくない(5)」
「皆、死ぬんだ。だけど、私は死ぬ前にイエスラエルを祝福する。しかし、ここにはお前たちしかいないから、お前たちにおいて全イスラエルを祝福する」
皆、承知する。しかし、すぐ問題が一つ起こる。あんな長い旅をしたのに、イスラエルの民はエジプトを出た時に持っていた車を、まだ持っていたか、どうか。意見は一致しない。それで母マリアに聞きに行く。
「母さま、私がイスラエル人はまだ車を持っていたと言ったら、ヤコボはそうでないと言うの。ユダはどっちが本当か分からない。母さまはご存じでしょう」
「そうです、イエズス。あの流浪民には、まだその車がありました。どこかに止まる時、ちゃんと車を修繕して、それに弱っている人たちを乗せたり、また、たくさんの民に必要だった食糧とか、他の物が載せられていたのです。手で運ばれていた聖櫃を別にして、他の物は、すべて車で運んでいたのですよ」
こうして問題が解決される。子供たちは、庭の奥まで行って、そこから、詩編の歌を唱えながら家の方へ来る。イエズスは先頭に立って、銀の鈴のような声で詩編を歌う。その後ろに、ユダとヤコボとがついて来るが、聖櫃の位に上げられた手押車を支えている。けれども、アロンとヨシュアのほかに、人民の役もしなくてはならないので、紐で小さいおもちゃの車を足につけて、本当の役者のような、まじめな顔をして進んで来る。棚の下をずっと通って、マリアの部屋のドアの前に来ると、イエズスが言う。
「母さま、通る聖櫃に挨拶して」
マリアはほほえみを浮かべて立ち、太陽のきらめきの中に、輝かしく通る御子の前にお辞儀をする。
それから、イエズスは、家、むしろ庭の一番端になっている小山の側に登って、小さな洞窟の上に立ってイスラエルに話す。神の命令と約束とを繰り返し、ヨシュアを指揮者として指定し、自分のそばに呼び、こんどはユダも小高いところに登る。イエズスはユダに元気をつけ、祝福する。それから板をもらい—これはいちじくの葉っぱであるが—そこに賛歌を書くまねをして、それを読む。全部ではないが相当の部分で、本当に葉っぱに書かれているかのように読んでいる。それから、自分を泣きながら抱くヨシュアにいとまを与え、小さい丘の端まで登って、そこから全イスラエル、すなわち、地面にひれ伏している二人を祝福し、それから短い草に横になって目を閉じて…死ぬ。
ほほえみながらドアの所に立って、これを見ていたマリアは、横になって固くなった彼を見ると大声で叫ぶ。
「イエズス、イエズス、立ちなさい。そんなかっこうやめて! あなたのお母さんは、死んだあなたを見たくない!」
イエズスはニコニコして立って、母の方へ走って行って接吻する。ヤコボとユダもやって来る。マリアはこの二人もなでる。
「あんな長くてむずかしい詩編と、その祝福を全部、どうしてイエズスは覚えていられるの!」とヤコボが聞く。
マリアがほほえんで「彼は記憶力がよくて、私が読む時に注意しているから」と簡単に答える。
「私は学校で注意しているけれど、あんな長いうめき声を聞くと眠くなる。それなら、私にも覚えられるかしら」
「できますとも、安心して」とマリアが答える。
だれかが面の戸を叩く。ヨゼフが足早く庭を突っ切って戸を開ける。
「あなた、アルフェオとマリアに平和!」
「あなたたち皆にも、祝福あれ」
妻と一緒のヨゼフの兄である。力強いろばがひっぱる田舎風の車が道に止まっている。
「よい旅行でしたか」
「よかった。子供たちは?」
「マリアと一緒に庭にいます」
子供たちは、お母さんたちに挨拶のためにもう走って来ている。マリアもイエズスの手を引いてやってくる。
義理の姉妹たちが接吻を交わす。
「子供たちは、おとなしかった!」
「非常にかわいらしく、とてもおりこうでしたよ、親戚は皆、お元気ですか?」
「皆元気です。カナから挨拶といろいろなおみやげを送っています。ぶどう、りんご、チーズ、卵、蜜、そして…ねえヨゼフ、お前がイエズスのためにほしがっていたものをちゃんと見つけた。車の上の丸いかごの中にある」
アルフェオの妻が笑う。その大きく開いた目で自分を見ているイエズスの上にかがんで、空の切れはしのように青く澄んだ目の上に、接吻して言う。
「あなたのために、何を持って来たか分かる? あててごらん」
イエズスは考えるが分からない。私は、ヨゼフにうれしい驚きを与えるために、わざと知らないふりをしているのではないかと思う。ヨゼフは丸い大きなかごを運んでくる。イエズスの前に置き、ふたを留める紐を解いて開くと、全く白い泡のような小さな羊が、きれいな干し草の中に寝ている。
イエズスは、うれしそうにびっくりした”おお!”の声を上げて、小さな動物を早速、抱こうとするが、しかし、すぐ振り向いて、まだ地面にかがんでいるヨゼフの方へ走り寄って、感謝しながら抱いたり接吻したりする。
二人の小さな従兄弟たちも、今、目覚めてバラ色の鼻面を上げて、お母さんを探して鳴き始めた子羊を感嘆して眺める。小羊をかごから出して三つ葉の一握りをやると、羊は柔和な目で見回して食べる。
イエズスが言い続けている。
「私のため! 私のため! お父さんありがとう!」
「そんなに気に入ったのか」
「おお、とっても! 真っ白で、清い、おお、この小さな雌羊!」
小さな腕を小羊の首にかけ、ブロンドの頭を羊の顔に寄せて、そのまま幸せそうにじっとしている。
「お前たちにも二頭つれて来た」とアルフェオは子供たちに言う。「だが、それは小麦色だ。お前たちはイエズスのようにきちんとしていないから、白かったら、すぐ汚してしまう。これはお前たちの群れにして一緒に番すれば、このいたずら小僧たち二人も、道で石を投げたり、ブラブラしたりしないだろう」
二人の子供は、車の方へ走って行き、うす黒い二頭の羊を見る。
イエズスは自分の羊と一緒に残り、それを庭に連れて行って水を飲ませ、羊は、ずっと前から知っているようについて歩く。イエズスは羊に”雪”という名前をつけて呼び、羊は、うれしそうに鳴いて答える。
お客たちは、食卓につき、マリアはパン、オリーブ、チーズなどを運んでくる。また、よく分からないが、りんご酒か、蜜の水が入った壷も置く。ただ、薄い薄いブロンドの液体と見える。皆が食事をとりながら話しているうちに、子供たちは三頭の羊と遊ぶ。 イエズスはほかの羊たちにも、飲み水と名前を与えたかったので一緒に集める。
「ユダ、お前のは”星”と呼ぼう。額にそのしるしを持っているから。お前のは”炎”と呼ぼう。枯れそうなエリカのような色をしているから」
「うん。そうしよう」
大人たちに向って、アルフェオが言う。
「これで子供たちの絶えないけんかを解決したと思う。ヨゼフ、お前のアイデアが私を照らした。こう考えたのだ。”私の弟は、イエズスの遊び相手に小さな羊をほしがっている。私はあの二人のいたずらっ子のために二頭買おう。こうすれば、頭のこぶと膝のすりむき傷のために、他の親たちとの絶えまのないゴタゴタや苦情がなくなって、おとなしくなるだろう。学校へも行くし、それから、羊と遊んだら、静かにしていてくれるだろう”と。
今年は、お前もイエズスを学校へ上げるべきだ。もう、その時になった」
「私は、絶対にイエズスを学校へはやりません」と断固としてマリアが言う。このような調子でヨゼフよりも先に話すのを、初めて聞いた。
「なぜ! 子供が、その時になったら、成人の試験を受けなければならないから、いろいろ習うべきだ…」
「あの子は、もう知っています。そして、学校へは行きません。もう決まったことです」
「それは、イスラエルで例のないことではないか」
「初めてのことかもしれないが、しかし、そうするつもりです。そうでしょう、ヨゼフ」
「そのとおり。イエズスにとって、学校へ行く必要はありません。マリアは神殿で教育を受けた。律法の知識では、本当の先生と変わらない。私も、そう望んでいる。マリアが、その先生であればよい」
「しかしそうすれば、お前たちは子供を甘やかすのではないか」
「そんなことはない。イエズスは、ナザレトの一番よい子です。彼が泣いたり、わがままを言ったり、逆らったり、尊敬を表わさないことなど、見聞きしたことがありますか」
「それはそうだ。けれど続いて甘やかせば、いつかそうなるだろう」
「子供たちを自分のそばに置く、というのは甘やかすことではない。大事なことは良識と良い心をもって、子供を愛することです。私たちはイエズスを、このように愛している。そして、マリアはこの辺の先生よりも学問があるので、イエズスの先生となればよい」
「しかしね、そうしたら、あなたのイエズスは、大人になって蠅さえも、こわがる女の子みたいになるだろう」
「いいや、そんなことになるはずはない。マリアは分別のある女で、男らしく彼を教育できよう。私も卑怯者ではなく、男らしい模範を与えるのを知っている。イエズスは心と体とに欠点のない子です。身も心もまっすぐな力強いものとして成長するにちがいない。安心して、アルフェオ。私たちに家族の面目を失わせるようなことはありません。私がそう決めたので、これだけで充分です」
アルフェオが、「どうせ、マリアが決めたのだろう。そしてお前は…」
「そうだったら悪いと言うのか。相愛している二人が、同じ心、同じ望みを抱くのはよいことではないか。愛があれば、一人が望んだら、もう一人もそれに同意する。マリアが愚かなことを望んだら、私は”いや、それはだめだ”と言う。しかし、彼女は知恵にあふれることばかり望んでいるので、私はそれに賛成し、私は、それを自分のものとする。私たちは、最初の日と同じように相愛し、命あるかぎりそうするにちがいない。そうでしょう、マリア!」
「そうですとも、ヨゼフ。こんなことにならなければよいが、しかし、一人が死んで一人が残っても、つづいて相愛するでしょう」
義理の姉は口をはさむ。
「二人の言うとおりです。ああ、私が教えることができたら!…学校では、善いことも悪いことも習う。家ではよいことだけ教えることができる。もしもマリアが…」
「お姉さん、何でしょう?どうぞ遠慮なくおっしゃってください。私が、あなたをどんなに愛しているか、ご存じでしょう、あなたの気に入ることができれば、どんなにうれしいか」
「まあ、ただ私が言いたいことは…。ヤコボとユダとはイエズスよりも少ししか年上でない。二人は、もう学校へ行っているが、しかし何を知っているか…それに引き換え、イエズスは律法をもうよく知っている。こんなことちょっと言いにくいけれど、もし、あなたがイエズスに教えている時に、あの二人にも一緒に教えてくだされば…私としては、そうすれば二人とも、もう少しよく、知識深くなると思う…。三人は従兄弟で、兄弟にように互いに愛し合うとしたら、すばらしい。そうしてくだされば、私はどんなにうれしいか!」
「ヨゼフも同じ意見で、また、あなたのご主人もそうだったら、私はかまいません。一人のためにも、三人のためにも話すのも同じです。一緒に全聖書をおさらいするのも喜びです。いつでもいらっしゃい」
静かに、静かに入って来た三人の子供が、すべてを聞いて判決を待つ。
「あいつらは、あなたの堪忍袋の緒を切らせるでしょう。マリア」とアルフェオが言う。
「いえ、いえ。私といればいつもよい子にしています。私が、あなたたちに教えれば、よい子で聞いてくれるでしょう?」
二人は、マリアのそばに走り寄って、腕をその首に回し、小さい頭を寄せて、ありとあらゆる ”約束” をする。
「アルフェオ、試させてください。あなたも、この試しに不満はないでしょう。毎日、午後から夕方まで、ここに来ればよい。それで充分でしょう、信じて。私は、あきさせないで教える術を知っています。子供たちを夢中にさせると同時に、気ばらしを与えるべきです。彼らから、何かを得たいならば、彼らを理解し、愛し、また愛させるべきです。あなたたちは、私を愛しているでしょう、そうでしょう?」
返事は二つの大きな接吻である。
「ごらんのとおりです」
「よし、分かった。私にはあなたに ”有難う” しか言えない。しかし、イエズスは、自分のお母さんがほかの子に気を配るのを見ればどう思うだろう。ねえ、イエズス、お前はどう思う?」
「私はこう言います。”毎日、私の扉の前で立って気をつけ、門前を離れず、私の言うことを聞く人は幸せである”(格言8・34)。知恵の場合と同じように、私の母の友だちである人は幸せで、私は、私が愛している人が、彼女の友だちであるのはうれしい」
「しかし、あんなことばを、だれがあの子に言わせるのか?」
とびっくりしたアルフェオが聞く。
「だれも、兄さん。この世の人、だれも」
ここでヴィジョンが終わる。
* * *
イエズスが言われる。
「こうしてマリアは、私、ヤコボとユダの先生となった。このために親戚関係のほかに、学問と一緒に育っただけでなく、一つの幹から出た三つの枝のように育った。兄弟のように、相愛したのである。イスラエルで比類のない先生、私のやさしい母が、知恵の座、”まことの知恵の座” の私の母が、私たちに、この世のためと天のための知識を教えた。私が ”私たちを教えた” というのは、私も二人の従兄弟と同じように、彼女の生徒だったからである。この世に共同生活をする、という表面の下に、サタンの探りにもかかわらず、神の秘密についての ”調印” が守られたのである。
あなたは、このやさしい心、安らぐヴィジョンを見てうれしいでしょう。今は平和の中に、イエズスはあなたとともにいる」
注
(1)ルカ2・40。
(2)モーセの従兄弟で癩病にかかった。
(3)脱出32章参照。
(4)荒野27・12~23、第二法31~34。
(5)”未来の使徒、アルフェオの子、小さなユダが答える”と欄外に著者が書いている。
《民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら自分を救うがよい」》(ルカ23・35)
民衆はただ立って十字架のイエズスを見つめていたという。イエズスがどのようにふるまって死ぬのか、それは人間的な関心を持った見つめ方であった。その目には信仰の光がさし込んではいなかった。それは自分が救われることを願っての見方ではない。世の終わりまで人びとは、十字架を見つめても、自分の救いのために何の役にも立たないと言うであろう。キリストの苦しみは一つ一つ人びとの救いの恵みの源泉になるものであるのに、それを無駄に見過ごしているのであった。しかし議員たちは、もっと悪い行動をとった。自分たちの救いの恵みを拒否したのである。他人を救いながら、自分自身を救うことのできない愚かさとあざ笑ったのである。それは単に人間的生命を救うことにかぎっての言葉である。もともと人間的生命は、神からの死の宣告を受けているのである。サタンが、死ぬことはないと楽園で人祖をだましたためであった。議員たちは、衆議会員であったから、司祭衆であり、ユダヤ教の長老たちであった。彼らは宗教、律法、神の代理人として自らを任じていたが、その宗教は、自分自身を救うことに始終していた。彼らはただ自然的生命を守ること、この生命を生きぬくことを信条とする立場からキリストの十字架の死を眺めていたのである。キリストの救いと死はそれらを目的としていなかった。
彼らの宗教と信仰は神の生命に、永遠に生きる幸福に結びつくことのないものであった。それは偶像の信仰と同じことであり、キリストに対しても自分自身を救うことを要求する。キリストにおいて、自分を救うこととは何であるか。それは御父の聖意を果たすことであり、十字架にかかって、人びとの罪を贖って死ぬことであった。彼らの言うように、十字架から降りて自然的生命を救ったとしても結局は自分を救うことができない。死ぬことによってキリストは、すべて改心する人の魂を救い、自分の霊魂をも救うことになった。しかし、この真理を眺めて、人びとはあざ笑うのであった。
真理は厳しければ厳しいほど、人びとの心はそれに反して偽りの暗闇に陥るのである。
《兵士たちは、イエズスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自一つずつ渡るようにした》(ヨハネ19・23)
イエズスの衣服を四等分に分けたのであると言っているが、将来の教会が同じ福音を信じていながらも、分裂することを前もって示していると想像することができる。世界が終わるまでイエズスの教会が互いに分裂し、対立して争う運命であるかのようである。それぞれの教会はイエズスの福音の言葉を衣のように分け合って成立しているが、唯一の聖なる信仰がなければ単なる教訓にすぎないものになる。彼を十字架につけた兵士たちは、信仰の持ち主ではないので、ただ役目として働いたのである。今日の不信仰なる者と同様に、人間的欲得の行為に刺激されてイエズスの衣服を分割し、自分たちの金銭的利益をはかって、それを分け合うのである。
キリストの救いの福音にも、幾世紀もの長い間に人間的思想が交錯しあって、そのつど分裂を生み、多くのキリスト教会なるものが出現している。神よりの信仰は純粋であれば一つであるが、世紀が進むたびごとに、対立し、分裂がひどくなっている。キリストの救いの恵みは、彼が言っているように分かれ争うところにはないもので、キリストの体である教会もまことに一つであって、十字架にかけられていると思われる。教会はキリストの神秘体ではあるが、衣服ではない。彼の福音と言っても、神の言葉は人間がつかう言葉を用いて表現しているので、いわば人間の衣服のようなものである。衣服を分割しても、神の恵みの本質は人によって分割されるものではない。人間の思考や思想を信仰に混入すればするほどそれだけ不純になり、分裂と対立を生むものである。分かれ争うところにはキリストの体も姿も見えなくなる。神の本来の姿というものは人間の思惑によって分割されるものではない。信仰といってもさまざまな形態があって、救いの恵みをあたかも彼の衣服のように分割して、自分のものとしたとしても、それは失われるものである。
キリストの衣服でも、信仰のない兵士たちには霊的救いのためにはなんら役に立たなかった。今日の人びとも教会に入籍してその一員となって生活を営んでも、信仰のない者には救いの恵みがないのである。世界的にいかに大きな働きをして、大いなる役割を果たしたとしても、信仰のないものは、十字架の下で、キリストの衣服を分け合った兵士たちと同様で大差はない。聖書の言葉を神のものとしてのべ伝えても、信仰に生きることがないものには、なんの役にも立たない。本当の信仰は、神の言葉を受け入れ、愛をもって守ることによって証明されるが、キリストの衣服を自分の利益のために分け合っていた兵士のように、福音の宣伝を自分の利益と名誉のために使うのであれば、その人は救われることがないであろう。
《イエズスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言われた》(ヨハネ19・26)
釘づけにされていたイエズスは、手や足、全身が火炎に包まれているかのような激痛のさなかにあって、母とかたわらに立っている弟子を眺めて言われた、そのもの静かな言葉には驚きを感じる。それは人間のものではなく、神の言葉であった。婦人よと呼びかけるが、かつて神が人祖アダムとエバを楽園から追放されたとき、蛇に対して、新しい婦人を出現させて、蛇の頭を踏みくだかせることを宣言した「婦人よ」という言葉に思いあたる。また、イエズスが公生活の初めに、カナの婚宴の場において、最初の奇跡をおこなうにつれて、自分の母なるマリアの願いを受けいれて、婦人よと呼びかけた。今、十字架のもとに立っている母を眺めて、婦人よ、と聖書で三たび呼んでいることに重要な意義がある。つづいて、「ごらんなさい」と言って彼の愛する弟子を指名して、これはあなたの子であると言った。彼が十字架の上に流した血を、真っ先に十字架の下に立っているヨハネにまず注いで、彼を救いにあずからせ、彼女の子としたのである。十字架の彼の血が流されて、罪が洗われなければ、誰も神の子となってキリストの兄弟に結ばれて、聖母の子に生まれ代わることはできない。この神秘である霊的真理を、イエズスは十字架の上からみごとに遺言として与えたのである。これはまことに意義深い信仰の奥義である。
キリスト信者は、イエズスの十字架の血の神秘に生かされてこそ彼の母を自分の母としていただけるものである。彼の血が、神の計画の神秘の働きによって、マリアの子となる恵みをいただくのであって、それは自然の働きではない。イエズスの人となりは、母マリアの胎内に、聖霊の働きによって自然の肉体をもった人間として宿ったのである。罪人であるわたしたちは、神の御子の血によって罪から贖われ、清められたのちに、聖霊によって、聖母の霊的子となることを示している。これこそ隠された十字架の神秘である。この神秘の奥義は、自然の知恵では悟ることなく、神だけが知っているので、神にはなにものも隠されていない。いったん罪に陥った人間がゆるされて救われることは、サタンにとっては、この上もないねたましいことであり、恐ろしいことのように思われる。この神秘を通して、救い主の母、マリアがわたしたちの霊的な母となるのであってサタンはその神秘に恐怖を感じている。創世記の言葉によれば、神の御子はその母と子らによって、サタンの頭を世界の終わりに一緒に踏みくだき、キリストの神秘体が完全に勝利をおさめるのである。
神の言葉に従ってわたしたちが、聖母を霊における母として信仰のうちにいただくということは、どれほど素晴らしいことであろうか。聖母のみ心に自分をささげることは、この婦人に愛されることであり、それと同時に天の御父が聖母と共にいらっしゃる愛のうちに包まれることになる。そうでなければ、神の国、天国は約束されていないのである。
十字架の下に立っていた婦人は、とめどなく涙を流しながら、御子のしたたる血を眺めて共に苦しみ、罪人であるわたしたちの罪の霊魂が贖われることに協力し、わたしたちを霊的に産むのであった。わたしたちも信仰のうちに、この婦人の涙、聖母の涙を思い起こして見ることができるが、信仰のない者にとっては、世に隠されたこれらのことは目に見えないものなので思いつくこともないのである。
《それから弟子に言われた。「見なさい、あなたの母です」。そのときから、この弟子は、イエズスの母を自分の家に引き取った》(ヨハネ19・27)
わたしは若いころからカトリックの司祭としてこの聖書の言葉を引用して、何回となく人びとに、聖母がわたしたちの母であると語ってきたのである。多くの人はそれを聞いて一応うなずくことがあっても、それはそれとして通り過ごしたであろう。今日、あらためて聖書の言葉を読むにつれて、より深い意義に感動をおぼえるが、これを信仰の真理として受け取って、二千年前のヨハネ個人の出来事のように、わたし自身が信仰をもって受け取らなければならない。聖母の意義を感じていない者は、それほど宗教的意義があるものとして受け取ってはいないだろう。
教会がキリストの神秘的身体であるとすれば、キリストはその頭であり、わたしたちがその肢体として結ばれている。自然の形態でも頭を産んだ女は当然その肢体をも次つぎと産むのである。だからわたしたちを産んだその婦人を母と呼ぶのである。聖母は、今もキリストの神秘的肢体を産むのであれば、母たる真理に適合する。罪人であるわたしたちを、新しくキリストの神秘体として世の終わりまで産むことは、ある意味で苦しみの連続性を思わせるのである。人祖エバに対して神は「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3・16)と言って、聖母の前じるしを告げているようだ。神秘体の頭であるキリストを産んだ母は、彼に愛された弟子をも産むのである。
この弟子は、そのときから「イエズスの母を自分の家に引き取った」とされているが、彼の霊魂は神の家となって、主の母を受け入れて信仰したのである。イエズスの言葉は、この真理に適合する信仰をつくるものであって、彼の愛はすべてを与え、母さえもわたしたちに与えるのである。単なる自然の出来事のように見せかけてはいるが、神の聖霊の働きによって、霊的に完成される母と子との深い関係である。使徒ヨハネは神の子の言葉を聞いて、神殿となるべき自分の霊魂の家に、信仰と愛のうちにその母を引き取ったと見るべきである。
これらのことをふまえて考察すれば聖母を疎外する者、無関心な者は、自分の信仰の家たる心に、彼女を引き取ることがないので、神の言葉に適合してはいない。イエズスが愛する弟子に言った最後の言葉であるだけにきわめて重要である。世界にはキリストを信じる者がたくさんあるけれども、彼の母、聖母をヨハネのように引き取っている者はいまだに少ない。
ヨハネはこのときから聖母を霊的な産みの母として受け取って聖霊の働きに受諾したのである。イエズスが十字架の上から、「見よ!」と呼びかけて、「母がここにいる」と指摘して、神の言葉のうちに、母の生命に生きる子の存在を確立させたのであった。母と子との間の生命のつながりほど親密な関係は他になく、それは神が永遠にわたって結んでくれた生命の秩序であった。十字架のイエズスは、わたしたちにも、彼を産んだ母が、わたしたちの母親であることをくしくも認識させる言葉として残して、安心して世を去るのであった。
第八章 ためらいの日々
マリア庭園の発想
みちのくの遅い春も四月半ばともなれば、窪地の残雪もようやく消え、見渡すかぎりかげろうのゆらぐ世界となった。小さな修院をとりかこむ原野に立ち、遠くそびえる大平山、近くにならぶ丘々を眺めるうち、私のうちにひとつの夢がふくらみはじめた。
日本の風光の美は、山や川など自然の起伏に富み、四季の変化に恵まれる点に、負うところが多いと思われる。そして、そのような美の条件の具わっている所には、必ずといってよいほど、昔から宗教的な礼拝所が建てられている。私は、高野山をはじめ比叡山、永平寺その他の名刹を訪ねるたびに、その感を深めていた。ヨーロッパでも、キリスト教の有名な巡礼地は、きまってそのような場所にみられるようである。
また私はかねてから、日本人の心情に聖母への信心を植えつけることを念願としてきた。というのも、これまでキリスト教国の人々の信仰の根づよさや犠牲心をみると、それは単なる伝統や教義的理解によって養成されたものではない、と思われたからである。多くの聖人伝を読んでも、そこに聖母への素朴で強烈な信仰を見いだすことができる。
ヨーロッパの人々が、カトリックの純粋な信仰を、二千年近くも養い育て、保ちつづけてきたというのは、ひとえに聖母への厚い信心の賜であったに相違ない。われわれに身近な日本の切支丹の人たちにしても、あのおそるべき迫害の中で、サンタマリアへの信心によって、キリストに対する信仰を守ってきた、という事実はまさに驚嘆に値する。
これらのことによって私は、日本の国土にキリスト教の信仰を根づかせるためには、とくに聖母の御保護と、人々の聖母に対するまことの信心とが、大きな意義をもつのではなかろうか、と気づいたのであった。
そういうわけで、以前、司牧の任にあたっていた教会において、聖母のルルド出現百年目を記念して聖母像の制作を依頼し、庭に安置したのであった。さらに、聖母信心のために、ふさわしい庭も造りたいと考えた。とくに日本の庭は宗教的雰囲気にみちているので、そういう庭園の企画をたてた。だがいざ実行となると、資金の捻出が問題となり、信徒たちの一致した賛同は得られなかった。にもかかわらず私は、聖母の御保護に信頼して実施にふみ切った。こんにちも、その信頼が予想以上にむくいられたことに感謝し、多くの協力者のために祈りつづけている次第である。
そのような経験があるだけに、こんどの”夢”というのも、べつに突拍子もない思いつきではなかった。
まだ自分としては確信をもつに至らぬけれど、ここが聖母に選ばれた土地であるとすれば、祈りの園としてマリア庭園を造ることも、将来のため有意義ではなかろうか、と考えるようになったのである。…
”聖母に捧げる日本庭園”は、毎日の共同祈願の意向に加えられ、また聖ヨゼフのお取り次ぎをも願うようになった。
1974年5月1日の”勤労者聖ヨゼフの祝日”を迎えて、経済的にも責任を感じる私は、御ミサを捧げる前に、一言申し述べた。
「今日は勤労者聖ヨゼフの祝日でありますので、マリア庭園のために、とくに聖ヨゼフのご保護を願いましょう。聖ヨゼフは聖主と聖母のために、ご自分の一生涯を無にして尽くされた方ですから、天国においても、きっと、聖母のために造られる庭のために、喜んで協力してくださるに違いありません。そのための御ミサを捧げます」
御ミサが済み、朝食を終えたあと、いつものように聖体礼拝を行った。
祈りの後、姉妹(シスター)笹川が私に近づいてきて、次のような報告をしたのである。
「いつも大事なことを教えてくださる守護の天使が、今日、御聖体の礼拝中に現れて、『あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい』と言ってお姿が消えました」
(その後、聖堂に聖ヨゼフの御像が安置されたが、現在の御像は数年後にある奇特な方が、聖母像の制作者若狭氏に依頼され、同じ桂材をもって対になるように彫られたものである)
このようにして、私ははじめて、姉妹笹川を介して、天使の働きかけなるものを具体的に知ることになった。
しかし、その真実性は、マリア庭園そのものが、将来天使のお告げのごとく、ほんとうに完成できるか否かにかかっていると思われた。
聖母に捧げる苑
… この時私は、教皇パウロ六世の教書”マリアリス・クルトゥス”を思い出した。1974年2月2日、主の奉献の祝日にあたり、聖ペトロの教座から全世界の司教たちに宛てて送られた、聖母崇敬に関する長文の勧告文である。その最後は「私が、神の御母に捧げる崇敬について、これほど長く論ずる必要があると思ったわけは、それがキリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素だからです。また問題の重大性もそれを要求したのです」と結ばれ、また前文の部分では「キリスト教的敬神の真の進展には、必ず聖母崇敬の、真実で誤りのない進歩が伴うものです」と強調されている。
私は、この山に来てから、教皇のこれらの言葉に接して、聖母崇敬の念を一層鼓舞されるのを感じたのであった。
かつて青年時代、カトリック司祭になる志望を固めたのは、聖母信心に関する説教を聞いた際であった。
やがて司祭となってからは、宣教の務めのうちに聖母崇敬について多く語り、またロザリオの祈りをできるだけ唱え、人にもすすめてきた。このため「古めかしいマリア崇敬論者」との陰での批判の声も、たびたび耳にしたのであった。
近頃は、典礼刷新運動によってか、新築のモダンな聖堂の中に聖母像が見かけられぬことが多い。古い教会でも、マリア像を取り除いたり、小さな物に替えたり、出入口にまるで装飾品のように据えたりしている。
こういう情景を目にし、”古めかしいマリア狂徒” というような嘲笑を耳にするたび、この人たちは教皇パウロ六世の「キリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素」という言葉を、どのように受け取っているのだろうかと、胸が痛くなるのである。
昔ある教会の司牧の任にあった時、私はやはり聖母崇敬をとくに信徒たちに植えつけようと努力した。当時、全学連の政治運動が、日本中に氾濫し、カトリック教会の中にも進歩的聖職者の先導によって浸透しつつあった。そのような機運に際して、聖母崇敬を説くことは、手痛い反撃を招くばかりであった。こちらも一歩もゆずらず防戦したが、あのはげしい攻防は今もって記憶にあざやかである。
これらを思うにつけ、”十字架の道行” の古い絵の一場面が目にうかんでくる。十字架を負って歩むキリストの前後に、あどけない子供や少年たちが、捨札を持ったり、キリストにつけられた綱を引いたりしている。それらの群れに、聖母を軽んじる若い信徒たちの姿が二重写しに重なって見え、どうしようもない悲しみがこみ上げてくるのである。
日本の在来の宗教はもとより新興宗教においても、土地や資財は惜しみなくその信仰の対象のために捧げられている。ところが唯一最高の神の礼拝を標榜するカトリックの聖職者や信徒が、その崇敬を表わすに適当な場所を造ることには一向心を用いない。土地があれば、まず当節流行の諸施設をつくることを考えたりする。だが、土地もまず神様から頂いたものではないのか。先日見た例では、せっかく設けられた祈りの場”ルルド”が、駐車場にされて、聖母像に近づくことも困難な有様になっていた。これでは、神に捧げるどころか、神の物まで人が奪っているのではないか。
最近では、聖職者、信徒を問わず、”進歩的”な人々の間で、”今はもう聖堂を建てる必要はない。各家庭でミサを捧げれば充分だ。神のみことばに生きるとは、世俗社会に入って行くことである。隣人愛の奉仕をすることは、ミサに参加するよりも重要性がある”というような意見が巾をきかせているらしい。それが”キリストに生きる”という意味だ、と主張される。
しかし、真の隣人愛というものは、まず神と結ばれた愛から発生するものである。大いなる愛に捧げる犠牲的愛に生きることによって、はじめて可能であり、単なる人間関係の横のつながりのみの隣人愛は、畢竟、肉身の愛の域を超えるものでないことをさとるべきである。
近年、万事に”新しさ”がもてはやされ、革新とか新風の導入が安易に歓迎されるようである。教会の中でも、ミサ典礼の様式が刷新されたことが大いに喜ばれているが、もしもこの気運の行き過ぎでミサや典礼の本来の神聖さが失われてゆくならば、それは信仰生活に悲しむべき損出を招くこととなるであろう。こんちに、私たちの充分戒心すべきところと思う。
1975年1月4日、ここの聖母像から最初の涙が流されたとき(この件については、後の章に詳述するが)、姉妹笹川に守護の天使が告げた言葉の中に次のような語がある。
「…聖母は日本を愛しておられます。…秋田のこの地を選んでお言葉を送られたのに…聖母は恵みを分配しようと、みんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください」
この忠告にも、私は聖母崇敬を介して神に捧げる祈りの苑、マリア庭園の重要な意義の裏づけをみる思いがしたのである。
第二章 十字架の追想より
ルカ福音
《「われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」》(ルカ23・41)
犯罪者の一人は、自分の罪を認め十字架の苦しみを当然のこととして受けている。これは神の正義を認めていることになる。罪の痛悔は真理を愛しているといえる。しかしイエズスは、なんら悪をおこなってはいない。むしろ善をおこなっている。それでも犯罪者と同じく苦しみ、不正を平然として受け入れ十字架の苦しみを受けている。なぜそのような不合理が実現しているのか。イエズスの十字架は、人びとの罪を贖うためであって宗教的犯罪かのように仕立てられているが、内心は償いとして神にささげられている。
イエズスは律法にそむいた者、神殿の破壊者、偽りのメシアとして訴えられていた。同じように神を求めているとはいえ、そこには明白な信仰の相違があった。それは偶像の信仰と神に嘉せられる真の信仰との相違であったろう。偶像の信仰とは暗闇の信仰のことであり、人間に仕える利欲への信仰である。神への聖なる信仰は、あくまでも神に属するものである。真理の光といえる神の光のなかに歩むものである。偶像の信仰は人間的な欲のなかに、暗闇のなかに、残酷な仕打ちのなかに歩むものである。これは利益を求めて真理を憎むものであり、不正を喜び、不正を愛するものである。キリストの十字架は、不正を愛する者たちのしわざであったが、犯罪者の一人は、キリストの十字架を見て、これこそ不正な十字架刑と見る。それに反して、ユダヤ教の司祭たちは、当然で正当な十字架刑と喜び合うのであった。そのようなことが今日でもあってよいものであろうか。しかし、そのようなことは今日もなお多い。偶像の信仰があるかぎり、真理を憎む者は絶えることがないのである。このような人でも自分は神に仕えていると思って、真理を迫害していることに気づかない。この事実こそ暗闇に仕える偶像の信仰である。それは自分の傲慢によって獣になり下がり、神の地位を奪おうとする信仰であり、単に自分自身に仕える信仰であって、神に奉仕する謙遜な信仰とは、根本的に違っている。それは自分の傲慢によって他を制圧する権力であり、へりくだって十字架にかかったイエズスの御父の思召しに生きる信仰ではないのである。イエズスの人性はすべて信仰の従順の形体をとっている。それはわれに倣えとペトロにすすめた信仰の従順の徳であった。イエズスにとっても御父の聖意を果たすことが根本になければ十字架は無意味であろう。多くの人は十字架を眺めて、神を礼拝しているといっても、わが身に十字架の屈辱がふりかかり、苦しみを受けることになれば、それを拒否してしまう。そのことはただキリストだけに十字架を求めて喜んでいるようなものである。わが身を十字架につけてこそ本当にキリストを礼拝する信仰であるが、右側の盗賊はこの信仰を見つけた最初の人であった。
《「イエズスよ! あなたが御国においでになるとき、わたしを思い出してください」》(ルカ23・42)
彼の願いは、イエズスが御国において、このわたし、犯罪者を思い出してください、ということであった。イエズスが彼を思い出すということ、これは何であろうか。自分のような者でも、憐れみをかけてくださいとのことのようである。イエズスの思い出は、神の思い出である。それには内的な精神のつながりがなければならない。イエズスが知らないという者は聖書によれば、そとの暗闇に捨てられた者である。わたしはあなたたちを知らないと審判のときに仰せになる。それはイエズスと内的な関係、霊的生命のつながりのない者にかぎる。神の生命につながりがあってこそ救いにあずかる。十字架にかかった犯罪者は、イエズスに一筋の内的かかわりを求めて、思い出してくださいと願うのである。それは信仰のかかわりであった。このように、救われた者は信仰によって、イエズスと結びつくことが必要である。わたしたちも、復活し昇天なさったイエズス、神の右の座につかれているイエズスと一筋の内的かかわり、霊的生命のかかわりに生きていなければたすかりが得られない。救われる兄弟に対して、残酷なふるまいをなす者は、神の愛に生きることはないのである。この犯罪者が願ったことを、われわれも願うのでなければ、天国に入れないであろう。主よこのわたしを思い出してくださいと祈る必要がある。それは罪のことではなくて罪を悔い改めたことを思い出してくださいと言うのである。往々にして人びとは神に対して、自分が罪人であったことを悔い改めない。多くの人びとは、自分の罪を認めないばかりか、自分はこれでよしと考えている。それは神に対しての傲慢心であり神を見くだしているのである。自分を尊び他人に誇り、無限の神の働きの尊さを忘れ、自分の意欲を重んずるのは、人びとの傲慢のあらわれである。神のはからいを無視して、自分の意欲を自由なる世界に打ち立て自分をあがめる偶像の信仰である。十字架にかけられた犯罪者は神のはからいを優先して、自分の意欲を願うのではなく、自分に課せられた罪の償いに甘んじ、とうて神の国に入る資格がないと思って、イエズスの思いやり、憐れみを願うのである。神の意志を尊重するのが真の信仰である。
《するとイエズスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた》(ルカ23・43)
イエズスのこの言葉は確かである。犯罪者の魂は、すっかり罪がゆるされて、イエズスと共に楽園に入るとの約束である。この言葉は人間の自然の善業も、人間の精神面の誇張も、自分を善人とみなしている人も、イエズスの楽園に入る資格がないと証ししている。それだけで自分の自然性を誇っている者があれば、誰も神の国に入ることはできない。人は誰でも自分の罪は認めにくく、自分の善を誇ってしまう。人間の理性とはそのように自分が善であるかのように働き、そう見せたいものである。しかし神に対する畏敬の信仰がなければ、人間は自分が罪のなかにあることを認識しようとしない。人間の理性は、自分はよいものとして働くが、神の働きを認めようとしない。アダムはこの理性の知識の実を、神のはかりしれない知恵よりも、重んじて食べた最初の人であった。人間は理性の知識の実をみだりに味わえば、神の知恵から離れるものである。人間が神の国に入れるのは、父の思し召しをおこなってこそ可能なのである。神の御子は、マリアを通して人となり、父のご意思であるみ旨をおこなって神の国、父の国に入れることをわたしたちに教えたのである。自然的理性によってだけでは、神の国に入ることはできない。
この自然界に住むために働く理性だけでは霊的な神の国があることさえわからない。神の言葉によって、神の国と、思召しが人間に提供せられるのである。神の言葉は生きて働くもので信仰によって神の言葉に従順になれるのである。自分を愛して生きるものは、信仰によるよりも理性に重きをおくので自己中心になりがちになる。神を愛するならば信仰によって、神の言葉、神のはからいを受け取るので従順になり神の愛に一致して生きることになるのである。十字架にかかりながらイエズスに願った犯罪者は、救い主であるイエズスをそっくり受け入れて依り頼んだことによって、神の言葉を疑いなく受け入れたのである。この信仰によって彼は救われた。自分の業、善、理性によって救われたのではなく、イエズスの贖罪によって贖われた最初の人である。この救いの真理を見逃しては救いがない。人間の理性は、神の真理をよそにして働けば、ひとりよがりの傲慢に陥り、神に反逆するものとなるのである。
]]>
マルコ福音
《それから、ある者はイエズスにつばを吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また下役たちは、イエズスを平手で打った》(マルコ14・65)
現時の国家法の裁判では、神を冒涜するというような刑法は成り立っていない。イエズスの時代のユダヤ教の裁判においては、最大の悪、罪は唯一なる神を冒涜することであた。その罪に値する者があれば、直ちに石打ちにして殺されたものである。
大司祭をはじめとして最高法院の人たちが、ナザレのイエズスを神を冒涜する者として死刑の判決を下したので、その後、彼をどう扱うか、民衆たちの間に起こったことが記されている。手を縛られたイエズスを囲んだ民衆にとって、まずつばきを吐きかけて、神から捨てられたもの、呪うべきものとして宗教的最高の権威から捨てられたものを侮辱するのは当然なことであった。これらの人びとは、途方もない侮辱をあびせかけるのが、かえって神を礼拝する行為だと考えたのであろう。またある者は、イエズスに目隠しをして、こぶしで殴りつけたとあるが、イエズスの目を見るのは良心がゆるさないので、目隠しのまま打ち叩き、誰が叩いたのかを預言してみろ、と言い放った。
預言というものは、神の全知なる知恵に照らされて、神のはからいを前もって預言するものであって、人が尊敬をもって受けなければならないものである。大司祭から見はなされ、ユダヤ教から破門され死刑に定められたイエズスを見る大衆の目は、少しの同情もなく、かえって憤激の的として、怒り狂うのであった。
かつてのイエズスの言葉、福音の教え、無数の善業、病人の癒しの奇跡、何千人もの飢えを満たしたパンの奇跡さえもなんら役に立たなかった。それどころか、かえって偽りのメシア、神殿を破壊し、神を冒涜したとの大司祭の宣告によって、民衆は裏切られたとの感情を燃え立たせたのである。
大司祭の下役どもは、イエズスの頬を平手で打っていたと聖書に告げられているが、そのときはすでにペトロをはじめ、使徒の仲間はイエズスを捨てて逃げてしまっていた。一人の同情者、好意をもつものもなく、ことごとくわれ関せずとの態度をとっていた。
今日の世界でごミサの聖祭が毎日カトリック教会でおこなわれているが、ご聖体の聖変化の言葉に「あなたがたのために、わたされるわたしの体である」というのは、この侮辱されているキリストのの体を連想させるのである。現代の典礼学者や神学者たちは、聖体の秘跡は礼拝の対象となるものではなく「とって食べるものである」と説明しているときくことが多いが、それはパンの形色のみをさして言えることであって、深い信仰の霊的意義に欠けたもののように思われる。イエズスの体は、今や新しい典礼と神学によってしばられているという思いがする。そのような誤った思考が横行しているとすれば、大衆の宗教的行為は、聖体の秘跡に隠されているイエズスに、つばきをかけた民衆と同様であると思わねばならない。
ルカ福音
《これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエズスをヘロデのもとの送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ》(ルカ23・6~8)
ピラトは、自分のこれまでの調べによって、イエズスには死刑に値する罪がないことを知って、ローマの法律に照らして、彼を殺すことはできないと人知れずに良心的呵責をを感じていた。人は誰でも、自分の良心にそむいて行動するのは罪だとわかっている。ピラトもできるだけ罪にならないようにふるまって、イエズスがガリラヤ人だと知って、それならヘロデ王の支配下にあるので、これさいわいとばかりに、ヘロデ王の権利を尊重した形で、イエズスの裁判を任せるほうがよしと考え、ヘロデ王のもとに送ったのである。これはピラトにとって、最悪の罪の責任をまぬかれる好機会であった。これまではローマの総督として、ヘロデ王の権限を快しとしていなかったようである。人間の権力というものは、独裁的であればあるほど栄誉に輝くものである。対立する権力があると相対的になり、敵視の形を構成するものである。
ピラトはこの際一歩さがった形で、自分の罪をまぬかれるために、ヘロデ王の権力を認めて、イエズスを裁判するように願ったとみることができる。
ヘロデ王は、自らの権限がはじめてローマの総督から認められ公認されたことを喜んだ。聖書に「彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ」とあるのは、そのことを含めてのことである。そのときの彼はとくに、奇跡をおこなうイエズス、天からのしるしをおこなう彼を見たいと望んでいたので、やっとかなえられたという思いだったのであろう。神からつかわされたメシアであって、人民に評判の高い人である彼の裁判をするとは、全国民にかけて、これほど名誉に値する職権を持ったためしがなかった、と感じたかもしれない。もともと傲慢であるヘロデの心は神のような威光に輝く思いがしたであろう。それで「彼を見ると非常に喜んだ」との表現は、今に至るまでまざまざと目に浮かぶように福音記者は書きとどめている。
一方ピラトから送られてきたイエズスの心は、どんなものであったか、誰も押しはかることはできない。この場合、タライまわしにされる一般人の心はどうであるかと言っても、結末のつく問題ではない。それが犯罪人であれば、人びとから足蹴にされるものである。イエズスの場合もまさにそれであった。ヘロデ王にまわされても、イエズスの釈放は期待できなかった。
ヘロデはちょうど一年前か二年前に、預言者ヨハネに、自分の罪を責められたので、牢獄に閉じ込め、誕生日の祝日に、悪びれもせずヨハネの首をはねて殺した。彼はピラトよりも深い罪の権化のように思われるのである。
それに反してイエズスの心は、聖なる神に対する人間の罪の違反を謝罪し、無限なる神の正義を満たすために、不正なる仕打ちを耐え忍んで、ひたすら従順の償いを御父にささげるのであった。不正なる罪は、不正なる苦しみと死をもって償わなければ、バランスがとれなかったようである。
《しかし、人々は一斉に「その男を殺せ、バラバを釈放しろ」と叫んだ》(ルカ23・18)
ヘロデ王は、イエズスに死刑の判決をしないで、ピラトのもとへ送り返したので、二人とも彼に罪がないと公然と言い放ったことになる。ピラトが、例年の過越祭の行事には、一人の罪人が民衆の願いによって釈放される慣例を思い出して、民衆に叫んで言った。そのとき、釈放はバラバかキリストかと問いかけた。バラバは、死刑囚で暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの一人であった。そのとき大司祭たちをはじめ、民衆の叫び声は、一斉にバラバを釈放しろというものであった。ピラト自身の判断では、よもやバラバという声ではなく、メシアであるイエズスであると信じていた。それはイエズスのこれまでなさった善業である癒しの奇跡を多くきいていたからである。しかし、反対にその男を殺せという恐ろしい叫びであった。
このとき、人間の常識は通用せず、以上に殺気じみた激昂が飛び交い、神からつかわされた神の子、自分たちの救い主の死を心から要求したのであった。しかも、方法として神にも人間にも呪いとなる十字架の死刑を求めたのである。これほど人類の歴史のなかで、不正な死刑があったであろうかと、疑わざるを得ない。彼は、ユダヤ人としても二千年もの太祖アブラハム以来の待望をかけてきた神の子、メシアであったはずである。しかし彼を死刑にしたということは人間の考えでは及びもつかなかったほどのことである。
要するに、人間が神の知恵を試みたのである。神の約束は、人の言葉によって伝えられているが、人間はそれが真実であるかどうかを言葉だけによって知ることができず、それに伴う奇跡かしるしがなければ、真実性がつかめなかったのである。アブラハムの子孫として、ユダヤ人たちは、イエズスがメシアとして奇跡かしるしをもって、十字架の死刑さえもかなぐり捨てて、十字架より降りて歩むことを要求したのである。そうであってこそ、ユダヤ民族を救うことのできる真のメシアであると承認することになる。心のどこかで、試してみようとしたのである。
イエズスは、かつて砂漠の中でサタンの誘惑に対して「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4・7)と言って悪魔を排斥した。そのときの群集心理は、イエズスが本当のメシアであるかどうか、偽り者であれば、なおさら十字架にかけて殺して当然なことと思えたのであろう。神の子であるかどうか、彼が自分でそう言ったので、なおさら確かめる必要がある、と考えたようである。自分たちの見る目で納得がいくように試みたのである。そのために、選んだ呪いの道具である十字架である。その場合、信仰ではなくて、認識を得るということであって、知識を得んとすること以外のなにものでもなかった。
もしやイエズスが、十字架の死刑を不当なものとしてかなぐり捨てて、メシアの威厳と権威をあらわしてその不正をただすのではないか、と期待をかけるよりも、彼が十字架の死刑をうけて、神の呪いのしるしのもとで、すんなりと死を迎えるのであれば、偽りのメシアであるという証拠が成り立って、自分たちの行為が神のよみするものとなると考えたのである。
聖書は、イエズスの死の際に太陽が暗み、地震が起こり、神殿の幕が二つに裂けたと記しているが、それらを見ても大司祭たちの不信仰は少しも変わらなかったようである。
今日の世界の人びとも、福音の言葉を読んで知ってはいるが、あらためてイエズスが自分たちの救い主であったと信ずる者は少ないのではなかろうか。キリスト信者でさえも今日では、ペトロやヨハネ、パウロのような信仰者はないであろう。キリストの死は、文明の世界においては意義がうすれて、かすんでいるようであり、バラバの釈放がもっと重大であると考えているふしがある。それは、今日の世界では、死刑廃止の運動が取り上げられ、主論になりつつあるのをみてもわかる。
二千年前、バラバかキリストかと言ったとき、キリストの代わりに無罪放免となったバラバのように、われわれ罪人がキリストの死のおかげで、神の前に洗礼の秘跡を受けることによって無罪放免のお恵みにあずかれることは、隠された無限の神秘である。人類一般において、大いに意義があるものとしてそのことを受け取らなければならない。そうであってこそ神の救いの真理が今の世界においても樹立する。一人のイエズスの死によって、人びとの無数の罪が神のみ前にゆるされているということは、人間の知恵では納得しがたいものであり、信仰の知恵で神の愛の不思議さを悟る以外にないであろう。
ヨハネ福音
《大祭司は、イエズスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエズスは答えられた。「わたしは世に向って公然と話した。わたしはいつもユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか、わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々はわたしの話したことを知っている」》(ヨハネ18・19~21)
アンナス大司祭はイエズスに尋問したのは自分の信仰のためではなく、彼を裁くため、死刑に処する手段とするためであった。そういう目的であれば、彼が自分の教えを聞いた人びとに尋ねるがよいと言ったのは正しいことである。
今日、福音宣教の目的で、世界各地において、人びとはイエズスの教えを、キリスト教諸教派の形でのべ伝えている。宣教に従事している人びとも、自分で学んだ知識や学識、自分の信仰に応じて語っていることが多く、他の者たちよりもすぐれていて、本当のイエズスを語っていると自負していても、神の目からすれば、それは自己にとらわれているのみで誤りがある。キリストの裁判にあたって、彼の死刑を正当化するために、証人たちの証言が求められたが一つとして一致することがなかった、という。今日の福音宣教の言葉も一致性に欠けているならば、それは聖霊の能力によるものではなく、そこには神の生命一貫した一致である聖霊の働きを見ることができない。したがって信仰の一致性に欠けていれば、キリストの教会はまことの一つの神秘体ではなく人間的な組織にすぎない。
キリストは世に向って、公然として語った。今日の人びともキリストについて、公然として語っている。しかし聞く人びとの心に浸透性がないのはなぜであろうかと、問う必要があるのではないだろうか。ほんの少しでも自分の名誉と利益を求める心があれば、神の言葉であっても、神を求める心に欠けることになる。それはキリストが聖パウロの心のうちに生きていたように、語るのではないから、キリストが真に語るのではなく、単なる人間が語るのであって、聖霊の結実である神の言葉を効果的に伝えることは不可能になるのである。
キリストの裁判において、彼が始終沈黙を続けたのは、人間の言葉に対してであった。彼が答えたのは、大司祭カヤファが、神の職務的権限をつかって、彼に命じたときのみであった。彼の答えは世の終わりに、公審判があることを示して、世界の審判者が再現なさって、全人類がいやおうなしに彼の前に集められ、公審判を受けるという預言であった。この隠れた真理は、ずっと世の人びとに隠されているもので、現代の人間の自然の能力ではとうてい想像もつかないものである。
《イエズスがこう言われると、そばにいた下役の一人が「大祭司に向って、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエズスを平手で打った》(ヨハネ18・22)
下役は、大司祭を最高位のもとあがめ、イエズスをいやしい罪人として、平手で頬を打ったのである。世の顕職は、往々にして人びとにこうびをうるものである。捕らえられたと言っても、イエズスは神の子であり、神のメシアであって、神の右の座につく最高の品位のものであった。現世的な人の目では、今もって彼の真の姿は隠されている。この世界においては見えない神の姿は、ただ神の言葉による信仰の鏡を通して見えるものである。大司祭の下役の男は、まことの信仰がなかったので、イエズスの言葉を単なる人間のものとして受け取り、それに憤慨して打ったのである。
人の心が清ければ神を仰ぎ、信仰の道を通して、神の真理を受けるのである。現代に生きる人びとも、聖書を読みその言葉を容易に理解したとしても、それがよき種として実りをもたらすよい畑、心がなければ、これといった収穫が得られない。それは不思議なことである。人の心は世の欲におおわれて、自然の能力のままに生きるので、神なしの世界をよしとして生きることになるのである。
使徒ヨハネの手紙には「目の欲、肉の欲、生活のおごり」などこの世を愛している者は、神の愛にとどまることはできないと言っている。目の欲は、人びとにとって大きな喜びとなり、幸福を提供するものである。昔から人びとは宇宙のかなたにまで幸福を探し求め、その欲望はつきることがなかった。また肉の欲は、人間がこの世に生きているかぎり、そして肉体の生命の続くかぎり、快楽として無限の対象を追求するものである。生活のおごりにしても、人は自由の世界を泳ぎまわって、権力と富貴の光栄を求めて、やむことを知らない。人間は欲に従って、いくらそれを追い求めても、そうしたことは神とは無縁のものであって、神に出会えるものではない。
神は人間の見えない世界、霊の世界、神秘の世界に存在するもので、福音を通して神の知恵や意志が人に伝えられるが、単なる人の知恵では悟りがたいものである。この隠された宝を発見できるのは、神の光と助力による信仰ひと筋の道だけである。大司祭の下役の男が、イエズスの言葉をきいて、怒りに燃えて彼を打ったのは現代の無神論者にも似通った行為であるのではないだろうか。それは恐ろしいことである。
第一章 イエズスの裁判より
マタイ福音
《人びとはイエズスを捕らえると、大祭司カヤファの所へ連れていった》(マタイ26・57)
そのときには、ユダヤ教の最高法院に、大祭司をはじめ司祭たち、律法学者、長老たちがイエズスを待って集まっていた。イエズスは真夜中近くに捕らえられて、律法を破る者、神殿の破壊を告げる者として告発され、訴えられていたようだった。それらのことにかぎって見ると、今日の私たちでも神の子、メシアであるとは名ばかりで偽るものとしてイエズスを見てしまうであろう。
この世に生活するものにとって、来世などはないと考えているとしたらメシアである救い主は必要なものではない。したがって経済的繁栄と物質的幸福のみを求める人びとにとっては無意味なものである。ユダヤ教の最高法院のメンバーにしても、この世の生活が第一であって安泰を願っていたのである。彼らはローマ皇帝の支配下にあって、平安な生活を望んでいたので、今日の人びとが、無神論の世界に安住しているのと大差なかったようである。
イエズスは、このときにかぎって、超自然的働きや奇跡のしるしを見せることもなく、自然そのままの人間として自分の自然体を縛られたままに連行されて行ったのである。それは今日でいえば、パンの形に閉じ込められているイエズスの神秘的現存、聖体の秘跡の性格を表徴するかのようであった。
縛られた彼に対して、人びとは見える形でなぐったり、つばきを吐きかけ、平手で頬を打ったり暴力のかぎりを尽くしている。今日のキリスト信者が、聖体のキリストの現存を礼拝の対象として受け取らないで、聖体を食べるためのものという主張をかかげて、イエズスに礼拝をささげることは必要ではないと考えているとするならば、それは司祭たちでさえも、聖体の秘跡を厄介ものとして取り扱っているからだということになるのではないだろうか。
当時のユダヤ教の大祭司や司祭衆にしても、彼について神の子、メシアであるとの評判は聞いていはいたが、福音をのべ伝え、弟子たちをつくっているときいてとくに厄介者として裁判にかけたのである。法院の全員が死刑にしようとの目的で、イエズスに不利になる証言を求めたが得られなかった。最後になって二人の証人が出てきて「この男は、神の神殿を打ちこわし、三日あれば建てることができると言った」と証言した。これをきいて大司祭は立ち上がり始終沈黙を守っていたイエズスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」とイエズスに尋ねた。なお沈黙を続ける彼に大司祭は神の名をつかって言った。「生ける神に誓ってわれわれに答えよ。お前は神の子、メシアなのか」そのときイエズスははじめて口を開いて「私は言っておくが、あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言った。そこで大司祭は服を引き裂いて、怒りをこめて「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉をきいた。どう思うか」。すると全員が「死刑にすべきだ」と答えた。
イエズスの答えは、神秘に輝く霊界のうちで御父の姿を眺めての答弁であったように思われる。そのため、メシアである神の子を人びとがどう思おうとも、まことを宣言しなければ偽りを言うことになるのである。キリストは人間によって殺されたが、自分の死をもって罪人を贖うことにより神の生命に復活したのである。
《ペトロは遠く離れてイエズスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って下役たちと一緒に座っていた》(マタイ26・58)
イエズスが、自らの全身を敵にわたすのを見て、弟子たちは彼をおきざりにして、それぞれ逃げてしまった。最初、ペトロは勇気をふるい、剣を抜いて有無を言わせず、大司祭の下役の左の耳を切り落とした。ペトロの暴力に対してイエズスはやわらかに言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を、今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26・52〜54)
ペトロが剣を抜いて、主であるイエズスの身体を守ろうとする行為は、自然的防衛の行動であった。それに対して、イエズスは、剣を取る者は、みな剣で滅びると言って、暴力というものが、悪く言えばすべて野獣的な行動であって、神のみ前において善なるものではなく、人を善に救い得るものでないと言っている。そのために、暴力の剣をとる者は、みな剣によって滅びる審判を受けることになる。彼がかつて弟子たちに論して「あなたの右の頬を打つ者に他の頬をも向けなさい」と教えた真理の実現のようである。人間の行為は神のみ旨にかなったものでなければならない。ペトロはイエズスを守るための手段である暴力を放棄して、今、無力になって、イエズスの後に民衆にまぎれて従うことしかなかった。そのことは彼にとって、かつての信仰のおこないではなく、民衆の一人のようにイエズスの身の成り行きを見とどけようと好奇心をもって従うことであった。ペトロは十二人の弟子に選ばれ、また使徒の頭として第一にあげられ、ローマ教皇の座と権利が与えられる約束にもかかわらず、今は民衆の一人としてふるまい、イエズスの教えに従うことを放棄して、ただひとり身をひそめて、イエズスの裁判の成り行きを見ようとしたのである。
そこには宗教的真理の真の信仰のかけらさえなき精神状態であったに違いない。人間の理性は命を失う恐れのある状況の変化によってたちまち信仰を失うことになるのである。たとえ命をかけると言っても、それだけでは保証にならないのである。
そのときペトロが、イエズスを遠く離れて、大司祭の屋敷の中庭まで入って、事の成り行きを見ようとしたことは、信仰のためではなく、これから起こる事件の展開にかられての行動であった。彼はイエズスの最期を見とどけようとしているが、イエズスの信仰に生きて、福音が万民を救う真理であると宣言する態度ではなかったのである。聖パウロは、改心する前に、キリスト教会を迫害したとき、天よりの声をきいた。「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」(使徒行録9・4)とイエズスは言っているので、世の終わりの教会の姿もキリストの裁判や死にあやかるものと想像がつくのである。最後の教皇も現世の成り行きいかんによって、ペトロのように民衆の一員となってキリストを知らないと言うであろうか。
マルコ福音
《大祭司たちと最高法院の全員は、イエズスを死刑にするために、イエズスにとって、不利な証言を求めたが、得られなかった。 しかしイエズスはお答えにならなかった。そこで重ねて大祭司は尋ね「お前はほむべき方の子、メシアか」と言った。イエズスは言われた。「そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座し、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」》(マルコ14・55、61〜62)
最高法院に列座する人びとは、イエズスを死刑に処するために、民間から証人たちを呼んで証言を求めたが、食い違っていたので決定することができなかった。大司祭が立ち上がって恐るべき神の名をつかって、職務上の質問をしはじめた。それまで沈黙していたイエズスが神の名に答えるように神の子メシアとしてつかわされた者であると、きっぱりと言われた。ユダヤ教の大司祭なる者が真に神を信じていたならば、どうして彼の証言を虚偽として受け取られたか疑問である。神に誓って、これほど恐ろしい言葉が言われたためしがない。最高法院たちの信仰は、神に通ずるものではなかったと言えそうである。
今日の世界の人びとも、聖書を読み、神の言葉を受け止めてはいるが、それとは裏腹に無神論を主張して、神がいないと言うのと似ている。
神がいなければ、聖書の言葉は虚偽を伝えているので神礼拝も無用なものとなる。イエズスは、公生活の初めにサタンの誘惑を受けて、神の代わりにサタンを礼拝するようにというすすめを受けているが、ためらうことなく「サタン退け、あなたの主なる神を礼拝し、これにのみ仕えるべし」と一喝して退けている。
最高法院の人びとが、直接神の子の声を聞いていながら、神を冒涜する声と受け取ったのは恐るべきことである。宗教人であっても肉眼では神を見ることはできないので、地位や権力に頼って自分の肉欲におぼれ、自然的知恵に任せてふるまっているのであれば、信仰がなきにも等しいものである。現代の人びとも科学的知恵を優先し、見える世界にのみ頼っていては神の言葉であるイエズスを絶えず否定していることになり、イエズスを死刑に定めているのと同じである。
最高法院へのイエズスの最後の言葉に「全能の神の右に座し、天の雲に囲まれて来るのを見る」とある。人びとはこの世に対する将来の預言をきいて単なる偽りの言葉、冒涜の言葉として受け取るのみであった。
人間の精神は自由であるといっても、神の言葉を無駄な益のないものとして排斥しているのであれば、不信仰の罪をまぬかれない。彼は数多くの言葉をのべ、奇跡をおこなった町々が悔い改めないのを見て叱り「コラジン、ベッサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ツロやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはツロやシドンのほうが、お前たちよりまだ軽い罰ですまされるであろう」(マタイ11・21〜22)
イエズスの裁判は、ユダヤ教の最高法院たちの不信仰の罪ではあったが、この世におけるすべての人びとの不信仰は、世の終わりに神の前にただされる時がくることを表徴しているかのようである。
イエズスがピラトに対して言われたことは、この世においてきわめて重要な言葉である。彼の国とは、この世のものではないこと、自然の世界に属していないということをはっきり宣言している。そして世の終わりまで政治的支配の国でないとことわっている。人間はこの世に生命を受け生まれてきて、自然の世界に属して生存しているが、この世とはいったい何であろうか。いっさいのものは死して滅ぶべき運命に裏打ちされた国である。三位一体の神の子が人となって、人びとの罪を贖い救うことによって、改められるべき国であるが、彼は聖母マリアの胎内に宿ってわたしたちと同様に死すべき人間性の生命を受けた。イエズスの世界は、もともと生まれながらに神の王国に属するもので、この世の国と全く次元が違う霊的国なのである。彼は生まれながらにして、三位一体の神、御父の顔を仰ぎ見ることのできる神の子であって、神の国に属しているのである。「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハネ3・13)と明言しているのである。
彼がこの世に生まれてきた理由は、この世の国を建設し支配する王様となるためのものではなかった。人びとは、この世界の至る所に神の王国を建設しようと、世紀の初めから試みたであろう。しかし、神の王国とは信仰によって人びとの霊魂が救いの恵みにあずかって建設されるものなのである。それは人間の単なる努力、自然の能力で成り立つものではない。
イエズスがこの世に属していないとの理由で、この世の人びとは思いのまま彼に暴力を振るうことができたようである。彼にとっては、どのようなことがあっても通過すべきこの世であった。ひたすら御父の意志をこの世に求めて、それにのみ没頭して生きるのであって、彼にとってはこの世界の支配は目的ではなかった。自然の法則に従って変化が伴うこの世に王位を受けて栄誉とする目的ではなかった。「人々はイエズスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエズスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6・14~15)
ユダヤ人たちは、パンの奇跡を見て、イエズスを捕らえて王にしようとしたが、彼はそれを退けた。
今日の教会の人びとも、政治の出来事に大きな関心を持っているが、教会の立場がこの世の一部分として存在しているかぎり、かかわりを無視することはできないが、教会とは本質的には霊的な天上のものであって、全く神の恩恵の支配のものでなければならない。イエズスの行動は真理そのものとして生きたので誤ることはなかったが、わたしたちがこの世に属しようとすれば、神の恩恵の国から遠ざかる過ちを犯すのである。イエズスは、この世の権力者から裁きを受けて、この場合、この世に属するものでないことを明白にしたのである。
神の国とは、神の恩恵に属するもので、神の国の王子であるイエズスが、この世に属する王の裁きを受けているのは、人びとによって罪の世界となり暗闇となったための結果である。この暗黒の世界を支配している者があるとすれば、それは神ではなく、人の知恵かサタンの知恵にすぎないものである。イエズスの受難は神の隠された救いの計画ではあったが、人間の知恵と悪意によっておこなわれるこの世のしわざでもあった。
《そこでピラトが「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。「わたしは王だと、あなたが言っていることである。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」》(ヨハネ18・37)
ピラトはイエズスに、あなたはこの世に属していないと言うが、王であるのかと尋ねた。この場合、イエズスは自分が王であると自ら宣言するのではなく、ピラトが王なのかと言っていると、彼の言葉を用いて答えた。自らが王であると言えば、人びとに誤解を与えるもとになるだろう。この世に属する王であると言えば、世紀を通じて世の終わりまで、政治的争いのものになり、問題となる。神のみ前においても、人びとの政治の争いはこの世にあってはやむことはないのであろう。イエズスは真理ことが大事なもので、真理に基づく王でなければ、神の前における本当の王ではないと宣言する。イエズスは、真理という重要な言葉を持ち出して、自分が神からつかわされてきた理由を、はっきり真理である神の存在を明らかにするためだと主張する。それにつけ加えてこの世界に属する人びとのなかにも、真理に属して生きているものがあれば、みなイエズスの声を聞いて悟るのであると言う。彼の生涯をかけての言葉と行いを通じて、彼が神の子として生まれ、神からつかわされたものと知って、この真理に目覚める者がある。イエズスの声、言葉を聞いても心にとめることなく、それを聞き流している者は、もともと真理に属するものではない。このことが、人の人生にとってどれほど大事であるかは、人の知恵によってはかることはできない。
ピラトは、王であるかと言って、この世の政治的王様であるかと尋ねた。イエズスは、かかる王がわたしの問題ではなく、真理の王が大切なものであると答え、人間を罪から救うことのできるのは、ただ真理の王のみであって、神は真理であって、永久の世界を支配する王である、とのべている。
彼が神からつかわされてきた理由は、この真理に証明を与えるためであると言う。福音の他のところでは神が真理そのものであり、生命であって、愛であって、人のまことの道であると証明している。神は人間の本源であって真理によって創られ、人は真理である神を礼拝し、これにのみ仕えるべきであると、教えている。彼の人となりの生涯は、この真理に仕えて、人びとを罪から救う使命を負っていた。
人びとがこの真理の道を踏みはずして、罪の暗闇に迷いさまよって生きているとすれば、それをただして教え導くのが救いのもとになる。人は自然の法則によって、この世に生まれてくるが、真理である神への道を歩むことが倫理的に必要であるとイエズスは教えている。イエズスのように、三位一体の御父のご意志をこの世に実現して、神の愛への一体化をはからなければならない。彼が教えた主の祈りとその生きるべき道はみごとに表明されている。「み旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」と、その実現に励むのでなければ、真理に属するものではない。これほど重要な真理がのべられているにもかかわらず、人びとの心は真理に疎く、生きている現状である。
《ピラトは言った。「真理とは何か」》(ヨハネ18・38a)
この言葉は、聖書の中で最も有名な言葉の一つである。真理とは何ぞや。神は真理そのものであり、真理の本源であるが、人間の理性の力では、その真理に適合し真理を汲み尽くすことができない。ただし、将来の人間が、神の恩寵を受けて、天国に入ったとき、特別の神のグロリア、栄光の恩寵のうちに、顔と顔とを合わせて真理なる神、父を見ることが許されるものである。それでも、神の本性、無限の姿を見尽くすことはできないであろう。
見える世界に生活する人間は、神の言葉を受けて信仰のうちにおぼろに、神の真理である知恵に接することが許されている。イエズスは、ピラトに対して、自分が御父のもとからこの世につかわされてきたのは、救いの真理に証明を与えるためだと言っている。わたしたちは、神の御子であるイエズスを通して、神である真理を信じ、恩恵のうちに受け入れられて、神の真理の知恵に一致するのである。人間の自然の能力の範囲では、たとえ仏教の禅による悟りに入ったといえども、神の真理には到達することはできない。それゆえ禅の悟りはあきらめの無である、ということになる。
ピラトは、真理とは何か、と言って吐き捨てるかのような態度をとって問題にしなかった。
神の本質である超自然の真理は人の知恵には悟りがたく、そればかりでなく暗くなっている。真理の輝きが強ければ強いほど、人間の理性は、梟(ふくろう)の目が光を受けてかすむように、暗くなるのである。ピラトの知恵は、イエズスの真理の言葉を聞いてかすむのであった。そして「真理とは何ぞや」と言って顧みなかった。ピラトのように現代の多くの人びとも無神論をかかげて、神とは何ぞやと言っているようである。真理に目覚めている人は少ないであろう。
《ピラトはこう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」》(ヨハネ18・38b)
この言葉は、ピラトがイエズスについてくだした唯一の偽らざる評価であった。罪が見いだせない、と宣言しているにもかかわらず、ローマの総督として彼に死刑を言いわたすことは、この世においても甚だしい矛盾であり、不正な裁判であった。イエズスの十字架の死刑は、イエズスの罪によるものではなく、他人の罪、人類の罪であることがここに明白に証せられ、この世の人びとの罪を背負って死ぬという真理が実現されることになる。これこそ世の罪を贖(あがな)うべき子羊の偽らざる犠牲の役割であった。
長い間、ユダヤ人の宗教である旧約のしきたりには、彼らが子羊を屠(ほふ)ってその肉を食べ、その血によって救われるという信仰があった。現在のわたしたちも罪人であるがまことの子羊であるイエズスの十字架のいけにえによって、彼の肉と血により、罪が贖われて救いを得ることになる。イエズス自身が真理として、また人びとの救いの真理として、ピラトの死刑を受けて実現したのである。ピラトは、自分の意志によって、イエズスが釈放されるべきであると考えたが、それが実現しなかった。ピラトは自分の自由意志でどうにもならないことを知ったとき、ユダヤ人の殺意を見て、恐ろしさを感じはじめた。それは抵抗できない隠されたサタンの圧力であった。そのとき、すべてがサタンの力に服していたが、ただイエズスの真意だけは、御父の思召し以外、何ものにも服従するものではなかった。
彼は、その前夜ゲッセマネの園で「この杯を取りのぞいてください」と祈ったが「されどわが意のままでなく、あなたの思召しのまま成れかし」と受諾したのである。そのことは、イエズスが自分の罪のためにではなく、人類の罪のために死をもって贖う必要があると、父の意志を悟ったからである。
わたしたちは、自分の犯した罪でさえも容易に謝ることもできず、むしろ他人に罪をなすりつけることが多い。罪のない人が、罪人の代わりになって償いのために死ぬことは、愛のためであると知ってもわたしたちには容易にできることではない。イエズスの人類を愛する愛は敵をもゆるす愛であって救いの真理を実現することによってそのことは証明せられたのである。
《「ところで過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」》(ヨハネ18・39)
ピラトは、イエズスを釈放するために、過越祭の慣例を思い出して、ユダヤ人の王と名のるイエズスの名を群衆の前に提案した。このことは、ピラトは、半ばユダヤ人をからかってのことだったように思われる。真剣にイエズスを釈放したいとの考えではなかった。どちらであっても、ピラトは大したことではないと思っていたようである。
ユダヤ人の年中行事である過越の祭りは、ユダヤ民族にとって最大の喜びの行事であり、エジプト王の奴隷状態からモーセに導かれて解放された民族的解放の記念行事であった。この際、ローマ帝国としてもユダヤ国民を喜ばせるための恩典として、この祭日には、一人の罪人を民衆の願いに応じて釈放する慣例があった。ユダヤ人にしてもイエズスという神の子、真理そのものである彼を、罪人として扱っているのはそれほど重要なことと考えていなかった。時と場合によっては、群衆の行為は群集心理で罪ではないと考えるふしがあるので、その重要性を見逃しがちである。信仰の光に照らされていなければ、人びとは神の子を殺すことになりかねない。ピラトは群衆の声を聞いて、決断しようとしたが、群衆の要求によって自分の意に反してキリストを十字架の死刑に処することに決める。信仰というものは神の声を聞くことであって、人びとの意見を聞けばきくほど信仰にならないものである。自分の心が真理に服して認めなければ信仰は成立しない。真理であるイエズス自身の言葉を聞く必要がある。ピラトはイエズスに罪がないと認めるだけでは、自らの救いの信仰に至ることはできなかった。ピラトはユダヤ人の満足を求めて、イエズスを裁判することになり、イエズスにさんざんの苦しみを与えて、最後は十字架の死刑に追いやった。ピラトにとっては、天から降ってきた事件であって、それは災難のようであったが、どのようにして神の前に正しい裁きをするかという点で総督としてのあり方が問われるものであった。すべての人はこのような場合には、自分の生涯を通して、神の前に正しい行為が迫られるのであるが、ほとんど意に介さない。わたしたちも日々このように迫られているが、盲目的に行動しがちである。
ピラトは、イエズスがユダヤ人の王であってもなくても、大した関係がないと思っていた。もし、ピラトが神を見る目を持っていれば、それは驚きに代わるのであるが、ピラトにかぎらずこの世の人びとに対してすべてが隠されているために、驚かないのである。
《すると彼らは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった》(ヨハネ18・40)
ピラトはイエズスを赦免する下心があって極悪人であった強盗バラバを舞台にのぼらせて、イエズスと彼とを並べて、群衆に向ってこの二人のうちどちらかを許してほしいかと問いかけたのである。善人そのものである神の子と極悪の強盗バラバとは歴史上かつてない比較対象であった。バラバは日本で言えば昔の大盗賊の石川五右衛門というところであろうか。
ピラトは群衆の反応が当然ナザレのイエズスという叫びであると期待していたことだろう。今日のわたしたちのなかにも群衆の声、民の声は神の声だという者もあるが、ピラトの法廷の庭に集まった人たちはみなユダヤ人たちで、その声は隠された神の声であったことも推察される。過越祭において一人の罪人が赦免される慣例があるが、群衆の要求はピラトの予想に反して罪人であるバラバであったのである。イエズスは義人であったので、神の摂理として汚れのない犠牲の子羊となるべきものであった。ピラトの考慮は人間的であったのだが神の摂理はその裏をかいたかのようであった。
ピラトは残されたイエズスの処分を、どうすればよいかと途方にくれて再び人民の声をきいた。群衆は彼を十字架にかけよと絶叫するので、ピラトはどうすることもできなかった。それは、あたかも神の声の響きのようであり、イエズスが罪人のために死ぬという、真理の証しとなった。天の御父はこの真理をふまえて群衆の叫びに全く沈黙しているようであった。この救いの真理がこのとき果たされないようでは、人類が罪より贖われることもできなかった。それは人類史上最大の救いの真理というべきものであって、この真理を見失う者は救済の栄光を受けることはできないのである。神の真理が大であれば大であるほど人の目につかないのであり、人びとの知恵はその光にくらむものである。バラバという罪人が赦免されたことは、人間的にみて第一号の救済の真理の一端を示すものであると言えよう。
わたしたちは救済の真理を信仰をもって受容すれば罪から救われるのである。イエズスの死はわたしたちも罪に死ぬことを意味し、それによって、洗礼の秘跡を通してイエズスの新しい霊的な生命に呼びさまされるのである。
第一章 イエズスの裁判より
《そこでピラトはもう一度、官邸に入り、イエズスを呼び出して「お前はユダヤ人の王なのか」と言った》(ヨハネ18・33)
総督ピラトは、ユダヤ人の訴えを聞いて、イエズスを呼び寄せて「あなたはユダヤ人の王であるのか」と質問した。かりにユダヤ人の王であっても、ローマ皇帝の占領下のもとで、ユダヤ国家を自由に支配することはできないし、一国に二人の王が同時に支配権を行使することは不可能である。イエズスが王であると言えば、ローマの総督としては職務上黙っていることは許されない。ピラトは、自分が思いもよらない事件にかかわったことにはじめて気がつき、イエズスを面前に呼び出して「ユダヤ人の王なのか」と自ら尋ねた。そのとき、イエズスはユダヤ人に両手を縛られて何もできない状態であった。この時代のユダヤ人たちは、聖書の預言によって最も力強い王様を求め、全世界をも征服して支配するほどのメシアなる王様、ローマの権力をも奴隷化するほどの王があらわれることを誰しも望んでいた。昔のダビデ王やソロモンにまさる王様を来るべきメシアとして望んでいた。
イエズスがかつて男子だけ数えて、五千人ほどの大群衆に、五つのパンと二匹の魚を奇跡的にふやして彼らに満腹するほど食べさせたことがあった。このとき群衆は彼のなさったしるしを見て感激のあまり、イエズスを捕えて、王としようと試みたが、彼は人びとの心を一応鎮めて去らせ、ひとり山に逃れて夜もすがら祈るのであった。ユダヤ教の人びとは明らかにローマの支配権をひっくり返すほどの王権を求めていたに相違なかった。しかし、彼らには世紀を通じて世の終わりまで、イエズスがこの世の王として支配するとは毛頭考えられなかったことは言うまでもない。
ピラトの前に、ユダヤ人は彼を王として訴えたが、イエズスがこの世を支配する王ではなく、神の世界においてのまことの王であると言ったことはなんと意義深いことであろうか。この場合、単なる人間の策略であるにしても、神のみ前には真理の表明にほかならなぬものがあって、これは隠れたか身のはからいであった。ユダヤ人たちは、彼を本当のメシアなる王として訴えたのではなく、偽りの王、他人を惑わす自称的な王であるとして訴えたのである。しかし神の側からすれば本当のメシアなるユダヤ人の王であった。このことの真偽については、ピラト自らがイエズスに対して問う必要があった。イエズス自身がなんと答えたであろうか、今日のわたしたちにとっても最も興味ある関心事でなければならない。そして神の子、世界を裁くために来られる真理の王として、再臨のイエズスの姿を予見するものでなければならない。
わたしたちは、ピラトにきくよりも、信仰のうちに、敬虔に神にきき、彼の支配に従って生きることが何より必要なのである。今日の人びとは、問うことが多い世界に生きているが、神に問うことがないのは、無神論の世界に安住しているからであろうか。
《イエズスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それともほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」》(ヨハネ18・34)
ピラトは、イエズスが本当のユダヤ人の王であるのか、と本人に確かめる必要があって質問した。
そこで、イエズスは彼に自分の意志で問うのか、それとも他人に働きかけられて職務上質問しているのかと彼の本心を確かめた。これはきわめて重要なことである。
わたしたちも、イエズスの本性が二つあって、神であるのか、それとも単に人間としての本性であるのか、確かめる必要がある。イエズスのこの世における存在と働き、使命について、宗教的意義が十分であるかを問わなければならない。
聖書の言葉は、すべて宗教の真理の証しとなっているが、人生をかけて救われるべき真理を確かめなければならない。イエズスご自身が、神の真理として人間の救いに必要欠くべからずるものを提供しているとすれば、まことに重要なことである。この真理をよそにして、わたしたちの人生の目的が神への幸福に達することはできない。
人びとは、この世の生活がそれなりに文化的意義と歴史性をもたらして、世界に意義あるものとして仕えていると言っても、それだけでは納得がゆくはずはない。自然界の被造物、生物、動物は、自分の存在の意味、目的を知らないで存在しているが、わたしたちも生涯を通してこの世の生命にすがって生きる。しかし、それだけでは生きる目的を知らずに、ついには無になる死を迎えるのである。人はそれぞれに自分の生きる意義を自分なりに意味づけてはいるが、それも死と共に消滅してしまう。
永遠の存在である神の子である救い主に救われて、新しい示顕の神の子の生命に結ばれていなければ、わたしたち自身の存在と目的を失うのである。イエズスがこの世にもたらした宗教的意義は、わたしたちが神の生命に生きることにある。わたしたちがこの世の生活において、新しく神の生命にあずかって生きるということは、永遠の神の国に生きることであり、死後の霊界に完成されるものである。
ピラトに対するイエズスの質問を深く霊的に考察してみると、このような問題にふれていると気がつくのである。
《ピラトは言い返した。「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を引渡したのだ。いったい何をしたのか」》(ヨハネ18・35)
ピラトは、イエズスの言葉をきいて、わたしはユダヤ人ではないと反問して、ユダヤ人の王なんかになんら関心がないと言っているようだ。ユダヤ人の王とは誰のことか、そんなものがあってはならない、ローマ帝国の政治の支配下には許されることではない、と彼はあくまでもユダヤ人を奴隷の扱いで、軽蔑の態度を示していた。自分はローマの総督として、名誉あるローマ市民であると自負心に燃えていたので、ユダヤ人のレベルで考えてもらいたくないと言っているようだ。総督の名誉にかけてユダヤ人の王を裁判にかけていると宣言している。地上の人間というものは、往々にして権力をかさにきるものである。たとえば第二次世界大戦の結末の、極東裁判の判決にしてもそうである。ピラトが、ユダヤ人たちや司祭長はじめ人民が裁いてくれと言って、お前をわたしにわたしたのであると、言いふくめるようにイエズスに言った。それではいったいあなたは何をしたのか、と新たに尋ねた。ユダヤ教の最高法院の裁判の場においてもこれと同様のことが尋ねられた。何を語ったか、どういう教えを広めたか、ということであった。今日の人びともイエズスが何を語り、何を教えたかを問うであろう。彼のおこないや言葉、奇跡をも吟味するであろうが、彼の福音の言葉は、人間に通用する言葉を用いているけれども、本質的には神の意図が見えない形で底に隠されている。わたしたちが普通つかう言葉や文章の形であっても、福音の底流には神の言葉の生命がひそかに脈打っている。それとは違って人の言葉はただ人間的思考や意志を伝達することであって、用が終われば消えてなくなるものである。
イエズスの言葉は神から生まれた言葉であって、三位一体の御父の真理の言葉であり、永遠の生命を伝達して、人を生かすものである。それは神の意図に従って、死人をよみがえらすほど不思議な力を宿している。イエズスの言葉をきき信仰によって彼を心に導入したとき、神の生命に生かされる神秘的な活力が生まれる。それは、白紙の幼児のように単純に信仰の従順性を通して導き入れられるものなのである。
イエズスは自分の言葉の神秘性について、人びとに種まきのたとえをもって語っている。地上の畑ではなく、人の心の畑に神の種をまくものであって、それを聞く人の心がよいものであれば、神の生命が種のように根づいて生長し、実を結ぶのである。よい畑にまかれた麦が三十倍、六十倍、百倍の実をつけるように、人のよい心にまかれた神の言葉も同様に実をつけるのである、と教え諭している。
ピラトは、自ら神の言葉を直接に尋ねているが、彼の心の態度は実る畑の可能性がなかった。すべて高慢な心の持ち主は、神の言葉を受けつけない踏みつけられた道や石地の畑である。信仰をもって、しかも神を畏敬して聞く人にのみ心の中に神の生命が芽生えるのである。今日の人びとはどのような心で神の言葉に耳を傾けるか、それが課題であろう。
]]>
さて本論に於ける聖女の見解は、ベラルミ−ノの説に相当するか、スアレスの説に相当するか、明らかに彼女の説は、煉獄に於いて小罪の犯責が赦されるとするベラルミ−ノの説とは異なるようである。彼女は第三章に於いて「煉獄の霊魂にはもはや罪責がなく、従って神と霊魂との間には罰以外何ものもない」と言い、又第四章に於いては「煉獄の霊魂は死の瞬間に罪責(la culpa)」が取去られたから、罰のみがある」との意見は、スアレスの説に同じうしている。が併し、彼女が全幅的にスアレスの説と同じであるかというと、それは本論の幾多の箇所に照らして疑わしい。
罪を犯した後、霊魂には汚点(macchia)が残り、又それを取除くために、霊魂は煉獄に行かねばならぬが、その汚点を聖女はどのように解しているか。
聖トマスによれば、罪の結果は
一、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱める(corrumpit bonum naturae)。
二、霊魂に汚点を残す(causat maculam)。
三、人に罰を負わせる(facit hominem reum poenae)。
以上三様である。この汚点とは、人の霊魂のうちに当然あるべき筈のものが、罪の結果、取去られたことを指しているのである。 大罪の結果として「聖寵の光が霊魂をもはや照らさないとき、霊魂にあるもの(汚点)は影であり、而してこの影はそれを起した自罪によって、それぞれ形が異る」(ビルュアール)。又「小罪の結果は愛熱の減退を来す」(同上)(billuart,
vol. iv. d, vii, a. 11)。
聖女は煉獄に於ける霊魂について比喩的に語り、神を観る超自然の光栄(天国のものにあらず)の光を享けない結果として生ずる霊魂を覆うている暗影こそ、汚点であると看破しているのであろうか。
第二章に於ける比喩は、一見それを肯定しているようであうが、この比喩に於いて霊魂のうえにに神が輝かない原因 — 結果としてではなく — として、罪の錆(ruggine del peccato)を聖女は挙げている。であるから聖女カタリナの言う汚点と聖トマスの言う汚点とは違う。聖女がこの汚点は神の義のみならず、神の純潔にも背くものであると主張していることに鑑みて(第八章)、この汚点は罰を意味するに止まらず、霊魂の短所をも含んでいるらしい。が併し汚点の中には (1)徳に対する弱さ (2)罪によって得、罪責が赦された後もなお残っている悪への傾き、(3)世俗的関心等、一語に総括すれば、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱めること(corruptio naturalis boni)が含まれている。確かに悪への傾きと世俗的関心とは、スアレスが言ったように、死の瞬間に除かれ得るとはいえ(註。得るとあるのは、除かれないかもしれないから、得るとしたのである)、実際にはそうではないらしい。又悪への傾きと世俗的関心とは、その行為を繰返すことによって徐々に得られたから、又動揺の経路によって取除かれる筈であり、徳から離れ、再び徳に戻るためにも、亦々経路を逆に辿らねばならぬらしい。現世に於いて神が霊魂を摂らい給うのも、この方法によるのである。さすれば煉獄に於いても、その方法が異なるとは考えられない。
以上のことは本論に於いても、聖女カタリナの見解であったことを示す箇所が屡々ある。第十一章に於いて聖女は全然とは言えないまでも、殆どそれに近いことを言っている。聖寵が霊魂にかえされたとき、霊魂は屡々ひどく汚れ、自我に傾いたままであるから(imbrattata e conversa verso se stessa)(註。聖寵はこの傾きを取り除かない)、神に創造された原始の状態に霊魂が戻るためには、聖女が屡々述べている通り、霊魂は神の全能の動作を必要とし、これなくしては救かり得なかったのである。聖女はこの第十一章に於いて、自我への傾きを利己的悪癖と解している。而して本論を終るに当たり、”全善にして哀憐深き神は、凡て人より出づるものを滅し、煉獄はこれを浄化する”と言っているが、この”人より出づるもの”とは、現世的傾向を指すに外ならない。
今この死後の項で述べたものは、聖女が他の所で語っているものとは異なった意味があるように見えるばかりで、例えば、第三章に於いて神と人との間には、罰以外何等障壁がないと言っているのも、聖女は悪への傾向を取除くことを、罰の一部に込めていたと考えられる。更に第十一章の”燃やされていると同時に障げられている”(istinto acceso ed impedito)ことが、煉獄の苦しみとなると言う場合も同様である。
又第一章に於いて短所が煉獄の霊魂にないと言っているようにもとれるが、煉獄の霊魂は短所となることをすることが出来ないのを言っているに過ぎない。前に述べた悪への傾きとか悪癖等は何れも受動的なものである。聖女が短所はないと断言していないことは、神の純潔に背いた或るものが障碍となるとしていること、及び第十一章に述べている点とから見て明白である。その第十一章に曰く「霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が見えれば霊魂は絶望する。又神は霊魂の最後の状態に於いて短所を焼尽し、それが焼尽されるとき、神は如何なる短所があったかを霊魂に示し、焼尽されねばならぬ凡ての短所を焼尽す愛の火を点じたのは、御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらを霊魂に観せ給うのである」と。
なお煉獄論に関し、スアレスにも匹敵するベラルミ−ノは、次のように疑念を述べている。
「現世に於いて、一時的なものに対する偏った愛着を、種々なる苦しみ(例えば、溺愛した妻子との死別の如き)によって神が浄化し給う如く、来世に於いても、種々なる艱難、苦しみによって浄化されねばならぬ現世に於いて実際にあったかかる偏った愛着の跡が、肉体を離れた霊魂の中になお残っていると、信じられるであろうか」(煉獄論第一篇第十五章二五)と。
"An sicut in hac vita immoderatus amor erga temporalia purgatur a Dio variis afflictionibusu, ut mortibus uxoris liberorum, etc., ita etiam credibile sit, post hanc vitam adhuc remanere in anima separata aliquas reliquias talium affectionum actualium quae purgari debeant tribulationibus et molestiis" (De Purg., lib. i. c. xv, 25)
要するに受動的な悪癖や現世的関心は、煉獄に於いて取去られることは、煉獄の霊魂に内面的な改善がなされるとの観念を含むが、この観念のうちには正統神学に背反することは決してないようである。かかる観念は、この地上に於いて神が霊魂に摂らい給うことについて、我々が弁えていることと合致しているし、又本論に於いてもこれを是認しているように見える。
煉獄の火について
煉獄で霊魂が苦しんでいる火は、比喩的の火ではなく、実際の火であるとするのは、信仰個條でなく、フィレンチェ公会議に於いても、ギリシヤ教会側は煉獄の霊魂は実際の火によって感覚的に苦しまず、苦悩界の幽暗によって苦しんでいると主張したから、これを決定することを避けた。現代に於いても東方教会の公教要理は煉獄の火に就いては、何等触れていず、ローマ教会に於いても同様である(ピオ十世公教要理その他参照)。併し神学者同様信者の一般的感情は、実際の火によって苦しんでいるとしているが、これら神学者の意見の根底をなすものは、聖グレゴリオ大教皇の「対話」第四篇三十九章の「審判に先立ち、ある軽い過失に対して浄化の火があることを、我等は信じねばならぬ」、及びニッサの聖グレゴリオの「死者のための祈祷」中の「肉体を離れた霊魂は、その霊魂の中に入った煉獄の火が汚れを除かぬ限り、神の本性に与るものとはなり得ない」とに拠っているのである。
カタリナの「煉獄論」に於いては、この問題には何等触れてはいないが、全体を通読して、聖女は精神的火のことを考えていたのではないか、との印象を受ける。
ゼーノヴァの聖女カタリナ 煉獄論
発行者 フェデリコ・バルバロ
訳者 笹谷道雄
昭和25年10月20日 ドン・ボスコ社発行
第十五章
煉獄の霊魂は、いかに現世の人々をとがめるか
神の光によって照らされた聖女カタリナは、本書に記したすべてを観たとき、彼女は語った。
「私は地上の一切の人々が、怖れ戦(おのの)くほどの大声で叫びたい。惨めなる者よ! 死の瞬間に遭遇する怖るべき悶えに對する用意を怠るまでに、現世の事柄によって盲目となっているのを、何故そのままに打棄てておくか。
汝等は大いなりという神の哀憐(あわれみ)の希望のもとに隠れ、良善の師の聖旨に背いたことに対し、審判の暁に、この神の全善が立ち給うことを考えよ!(10) 主の哀憐は、その聖旨をことごとく果たすことを汝等に強い、悪をなすよう汝等を励まし給わぬ。主の義は、人の義に屈することなく、それがいづれかの方法で、全く果たされることを識れ。
”私は告白し、次いで全贖宥を受け、それによって一切の罪を浄めて、煉獄を安全に通るであろう”(11)との誤った希望をもち、自らを欺いてはならない。全贖宥には、告白と完全なる痛悔を条件とすることを知れ。この痛悔は得ることかたく、贖宥を得るよりも罪を犯さず、贖宥を必要とせぬよう、心することが最上なることを弁えよ」。
(10)マテオ十二章四二節の該当句であろう。
(11)「煉獄が殆どなく」の意。「大なりと謂う神の哀憐の希望のもとに隠れ」とは、神の哀憐は大であるから、罪を犯しても、直ちに赦し給う等々のことを念頭に置いて、常に主に背くことを指す。
第十六章
聖女は煉獄の霊魂の苦しみが、平和と歓喜を減じないことを示す
苦しみの真中(さなか)にある煉獄の霊魂のうちには、次の二様の作用のあることを、私は悟る。
第一は、神の哀憐(あわれみ)である。彼等は歓んで苦しんでいる間(うち)に、その苦しみは自分が受くるべき当然の酬いであり、又神の尊前に神に背き奉ったことがいかに大きいかを想いつつ、神が彼等に対し全善にて在(ましま)したことを悟るのである。
何故ならば、主の全善が、哀憐(あわれみ)(イエズス・キリストのいと聖き御血による償罪)を以て、恒に義を和らげ給わなかったなら、唯一つの罪の酬いとして、地獄の萬苦があったであろうから。で彼等は苦しんでいるすべては正しく相当し、且つ命ぜられたものであることを弁えているから、自分の苦しみを歓びを以て堪え忍び、苦しみの一部分すらも取り去られたくないのである。そして彼等は天国の永遠の生命に於いて在るであろう時と同じく、もはや神の意志について呟かない。
第二は満足である。これは神の命が彼等を計り給う上に、いかに愛に満ち、哀憐(あわれみ)深きかを観て感じる、その満足である。
彼等は前述の二つのことを同時に意識させられ、聖寵の状態にあれば、霊魂は各々その能力に応じて、この二つの事柄をありのままに悟るのである。彼等は大いなる満足を感じるが、この満足は減じないばかりか、却って霊魂が神に近づけば近づくほど増してゆく。彼等はこれ等のことを直接に識らなくとも、神が啓示(しめ)し給う程度に於いて識るので、彼等の一切の注意は、自分の苦しみに向けるよりも遥かに一層神に集中され、自分の苦しみよりも神を重視する。何となれば神を瞥観することは、人が想像し得るあらゆる満足や歓喜(よろこび)に勝っている。しかし、勝っているとはいえ、歓喜からは、苦しみの少しの部分も取り去られないのである。
第十七章
結論として聖女は煉獄の霊魂について述べた凡てのものを、彼女が感じ、心中に経験した一切のものにあてはめる
煉獄の霊魂が受けているこの主の浄化を、私の霊魂のうちに於いて、特に過去二ヶ年にわたって経験し、それを毎日益々明らかに悟り感じる。私の肉体のうちに在る霊魂は、ちょうど煉獄にいるようである。そしてこれは真の煉獄と似ているが、ただ違う点は、肉体がそのうちに於いて受ける霊魂の苦しみに堪え得、死なずにある程度の苦しみである。(12) しかしこの苦しみは、肉体が実際に死ぬまで、徐々に絶えず増してゆく。
私は凡てのもの(霊魂に栄養を与え得る歓喜、喜悦、慰安の如き霊的なもの)から、遠ざかったことを感じる。
私は、記憶、意志、悟性を以って現世の財宝も、霊的の財宝も望まず、又”これは彼れよりも、一層私を満足させる”と言うことも出来ない。
私は、霊的にも肉体的にも、私に慰安を与えるあらゆるものが、徐々に私から取り去られたほど内的に苦しんでいた。そしてこの慰安が取り去られた時に、これらが嘗ては私の慰安と力の源であったことを悟った。しかしながら霊魂が、自分にとって慰安となり、力となるものを見出すやいなや、却ってこれらのものは無味で、むしろ厭うべきものとなり、(13) それらを私のうちに保持(たも)っていようとはしなかった。と言うのは、完徳に到るための一切の障碍を取り去ろうと、霊魂は自然的衝動によって努力し、障碍を取り去ることが出来なければ、むしろ地獄に行くことも辞さないほど、これらの障碍を取り去りたいと望むのである。それで霊魂が自身を養う凡てのものを除き去り、熱心にこの目的を保持する所から、霊魂のうちに極くわずかの短所さえも、とどめておくことは出来ない。
肉体はもはや霊魂と交通し得ないから、地上の如何なるものを以ってしても満足できないほど、〔肉体は〕圧迫されており、肉体にとっては、神がその義を満たすために、この浄化の業を大いなる愛と哀憐(あわれみ)とを以ってなし給う、その神以外に慰めはないのである。しかし私がこれら一切のことを悟ったとき、満足と平安があるとは言え、これによって、私の苦しみや圧迫されていることは、いささかも感じない。
しかし私には如何なる苦しみも、神が私のために定め給うた以外の苦しみを、望ませることは決して出来ない。私が必要とするすべてを神がなし給うまで、私は閉じ籠められ囚獄から外に出ることを望まず、その中にとどまっている。私の福(さいわい)は神の聖旨が行われることで、神の命がいかに正しく、哀憐(あわれみ)に満ちているかがわかるから、万一神の命に背くことがあれば、それは私が堪え得る苦しみの最大のものであろう。
以上説明した一切の事柄は、いわば霊的に観、触れることによって悟るけれども、思いのままに説明する適当な言がない。私が今説明したすべてのことは、私の心の中に起こったありのままを述べたのであった。私が閉じ籠められている囚獄(ひとや)は、現世であり、縛られている鎖は、肉体である。
聖霊によって照らされている霊魂は、霊魂の目的たる神に到ることの出来ない惨めさが、いかに大いなるものであるかをよく弁えているから、霊魂が敏感であればあるだけ、そのことによって大いなる苦しみを感じる。神は成聖の聖寵によって、霊魂をいわば神のごとく在らしめる権威を与え給うが、それのみならず、神の全善に与らせ、己と一にすらもならせる権威をも与え給うのである。神は苦しみ給うことは不可能であるから、神に近づく霊魂も苦しまず、神に近づけば近づくほど、主の完徳に与るのである。
であるから霊魂が出遭う障碍のために、神に到るのが少しでも遅れることは、霊魂に堪え難い苦しみを起こさせる。この苦しみと遅滞とは、霊魂が生まれながらに有っている特質(自然的特質)(14)と、聖寵によって霊魂に示された特質(超自然的特質)とを障げる。神を所有することは、霊魂の本質上可能であるが、実際にはいまだ所有することが出来ずにいるから、霊魂が神を望むことが大なれば、それに比例して苦しみも亦大きく、霊魂が神を全く識れば識るほど、それだけその望みは激しくなり、浄化されるようになるのである。神に赴くことをはばむ障碍は、霊魂が神に牽付けられるほど、怖ろしくなる。そしてこの障碍がなくなれば、その時、遂に霊魂は在るが如く在り給う神を観奉るのである。
神に背くよりもむしろ死することを望む者は、死の苦しみを感じないことはないが、神を讃える熱誠が、自分が生きようとする欲望よりも一層強いことを、神によって明らかに照らされる。(15) これと同様に、神の聖旨を識る霊魂は、いかに苦しくあろうとも、内的、外的のあらゆる苦しみに超えて、この神の聖旨を一層重要に思う。この理由は御自らのため、又御自らによって、浄化の業をなし給う霊魂の創造者なる神は、人が識り且つ悟り得る如何なるものにもまさって、遥かに限りなく霊魂に望まれるからであり、これは神が、霊魂を御自分の霊威(みいつ)に奪われている状態に保ち給うから、なほ更さうである。故に霊魂は如何なるものも—仮令僅かにしても—重要であると思うことが出来ない。
自我に係わるすべてのものは過ぎ去る。霊魂は、神に全く自分を奪われているから、自分が苦しんでいる苦しみを観、語り、或は、それを識ることさえも出来ない。これらすべては(神の意志や、神の意志によって霊魂のために定められた一種の苦しみ等)前に述べたように、霊魂が現世を去る瞬間に、霊魂に示される。結論として哀憐(あわれみ)深き神は、人から出るものを全く滅し、煉獄は、これをことごとく浄化するということを付け加えておく。 [完]
(12)現世に於ける煉獄であるから、肉体は死なずにあるのである。死後に於ける真の煉獄は霊魂のみ。
(13)完徳の高嶺の状態を指す。その直後の「地獄に行くことも辞さない云々」は、実際に地獄に言っても良いという意ではなく、もし地獄に行くことを望むとすれば、人々の救霊を望み給う神の聖旨に悖り、且つ又我等の側からは、望徳に反することになる。これはイタリア人特有の誇張した表現法で、文字通り解すべきではない。
(14)原語はproprieta.
(15)人が己が生命と神を讃えることの何れかを選ばねばならないとき、即ち、この両者の何れかを犠牲にしなければならないとき、己が生命を犠牲に供する—即ち、死を選んだ場合、死の苦しみを感じない無感覚になったと考えてはいけない。彼は確かにこの死の苦しみを感じるが、自分の声明を愛するよりも、一層神を讃える熱誠が彼にとっては重要であるとの意。
* * *
Trattat del Purgatorio
di
Sancta Caterina da Genova
"In iis quae de Purgatcrio determinata non sunt ab Ecclesia standum st ii, quae sunt magis conformia dictis et reve lationibus S, nctorum."
St. Thomas,in 4 sent. dist 21, quaest. 1, a. 1.
煉獄に関し、聖会の未だ決定せざる所は、聖人に啓示せられしと言はるること又は聖人の言はれしことに、一層合致する節を取るべし。
(ベラルミノ枢機卿がその著『煉獄論』第二篇七章に引用せる聖トマスの文)
]]>
『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊より抜粋
]]>
… それでは聖体拝領の真の目的、即ち目指すところは何であろうか? 外ではない、我等の霊魂が恒に清らかで生々として天主と結ばれている其の状態を持ちつづける事である。我等のうちに霊的そして内的生命を保つ事、我等を人生の闘いに於いて気絶しないように守ること、洗禮と堅振とによって、天主から授かった聖寵を失わないように守ることである。
従って、聖体の秘蹟の特別の恵みは、養育と保存の恵みなのである。我等の主は聖体に就いてこう言っている。即ち「我等は聖体拝領を通してのみ、キリスト教的生活を為し得る」と。「誠に實に汝等に告ぐ、汝等人の子の肉を食せず其血を飲まずば、汝等の衷(うち)に生命を有せざるべし。」(ヨハネ六ノ五四) カトリック信者として天主と一致しているには、我等は聖体拝領に依らなければならない。体に対して言えることは、魂に対しても同じく言える。我等は食べないでは生きる事が出来ない。食物は生命を与えないが、生命を支え、我等が健康と呼ぶ活力を与える。ここで肉身は全く霊魂のシンボルとなっている。霊魂も又、其生命を持っている。それはイエズス・キリストを通して天主と一致する事によって生ずる。そしてこの一致が聖寵と呼ばれるのである。それを養うために食物がいる。その食物が即ち聖体に在すイエズスなのである。イエズスはこう言っている。「我は生命のパンなり。汝等の先祖は、荒野にマンナを食して死せしが、是は天より降るパンにして、人是を食せば死せざらんためなり。(ヨハネ六ノ四八—五〇) 蓋し我が肉は實に食物なり。我血は實に飲物なり。我肉を食し我血を飲む人は我に止り、我も亦是に止る」と。(ヨハネ六ノ五六・五七) 食物なくして肉身を生かして置けないと同様、聖体拝領なくして聖寵を霊魂に留めて置くことは出来ない。肉身の力と健康が食物に依ると同様、霊魂の生聖及びその活力は聖体拝領に依るのである。聖体拝領は、これをよく理解するなら、既にもっている聖寵に対する報酬ではなく、むしろそれは、聖寵を増加する手段である。それは唯手段に過ぎない。肉身を養うことも是と同様である。我等は強いから食べるのでなく、強さを保つために、或は強くなるために食べるのである。そして肉体的養育が肉体的生命のために習慣として度々繰返されると同様、カトリック信者の生活に於いて聖体拝領は極く習慣的なものとならねばならない。
これがカトリック教育が我等に与える聖体の真の目的である。其れが為にトレント会議は、あらゆるキリスト教時代と、教会のあらゆる教父等の証言を引用して、次のような希望を正式に述べた。即ち「最も聖なる犠牲の實を一層多く刈り取るために、精神的に聖体を拝領する事に満足せず、信者は毎日実際に聖体拝領をして欲しい」と。これが真理であり、天主の御意である。これが教会の誤りなき声を通して、天主が我等に与える規則である。各人は此真理を肝に銘じ、もし必要ならば、決して誤り得ないこの判断を以て、自己の意見を正さねばならぬ。
立派に聖体を拝領するためには、或程度の成聖を備えてをらねばならないと言うのは本当である。然し此成聖とは何であろうか。これは偉大なる聖人や殉教者の持つ完全さであろうか。決してそうではない。其れに必要な成聖は、貴方の手の届く所、すべてのカトリック信者の手の届く所にある。これは唯、罪をさけ、忠実に天主に仕えると言う真面目な意志を持つ聖寵の状態のことである。この状態は極く基本的な事であはないだろうか。貴方は天主がこれをせつに望んでいると言う事を感じないであろうか。天主は実際それを貴方に望んで居られる。即ち、これなくしては誰も真のカトリック信者なり得ないと仰せになる。大罪の状態にあって、悪を喜ぶ人は一体如何なる種類のカトリック信者であろうか。
立派な聖体拝領のために、我等の主は、唯貴方が真のカトリック信者であること、真面目な善意によって、天主の方へ導かれることを望んでいる。貴方は此意志を持っているであろうか。良心に答えさせて見よ。もし持っていないならば、其れを求めねばならない。さもなければ、地獄は貴方のために勝利を得るであろう。もし持っているならば、何故それを強くし、増すために聖体を拝領しないのか。それは明瞭で然も答えにくい問題である。同じ事を偉大なる聖会博士大司教聖ヨハネ・クリゾストムがコンスタンティノープリの信者に向って呼びかけている。彼は言う。「貴方は天主の恩寵の中にあるか、又はないかの何れかである。もしあるならば、何故聖体拝領をしないのか。聖体拝領は貴方の聖寵を保つために定められたのである。もし罪の状態にあるならば、何故立派な告解によって心を清め、聖なる拝領台に近づいて再び罪におち入らぬように力をうけないのか?」と。もし貴方が天主に近づくためにふさわしい者になるまで待たねばならないならば、拝領するものは一人もいないであろう。聖アムブロジオは言っている。「もし毎日あずかるのにふさわしくないならば、その人は一年間で果たしてふさわしくなるであろうか」と。…教会は貴方も、又他の誰でも、共にふさわしくないのを知っている。其が為に教会はすべての教会の子供に、すべての司祭に又司教にさえも、聖体拝領の前に斯う言わせる。而も一度ではなく三度までも「主よ、我は不肖にして主をわが家(や)に迎え奉るに堪えず」と。教会は貴方が聖体を拝領するにふさわしい者であるから拝領させるのではなくして、貴方を最も聖にして寛大なる主に出来るだけふさわしい者とするために必要であるからである。教会が度々あるかるように勧めるのは、貴方が聖であるからでなく、貴方がそうなるべきであるからである。貴方が強いからでなく、弱くて、不完全で、悪に傾き、誘われやすく、罪におちいりやすいからである。…
四世紀のある敬虔な博士は、度々聖体を受ける者と、稀にしか受けない者と、どちらが一層謙遜であるかと自問自答して見た。其の答えは正しく次の通りであった。即ち「イエズス・キリストを度々受ける者は、より謙遜である。何故ならば、それは彼が自分のみじめさをよりよく知り、それをなおす必要を一層強く感じているしるしであるからである」と。貴方は度々受ければ受ける程、ますます受けるにふさわしい者となるであろう。…
聖アルフォンソは言った。「数少なく聖体を拝領した方が、もっと多くの信心を経験すると言う考えによってだまされてはいけない。事実稀にしか食べない人は、より偉大なる食欲を以て食べるが、規則正しく食事をする人のように強くなる事は出来ない。もし貴方が稀にしか拝領しないならば、貴方は恐らくもう少し感覚的な信心を持つであろうが、聖体拝領によってそれ程益する事も無いであろう。何となれば、貴方の心は多くの過失を避ける力に不足しているから」と。従ってほんの少しばかりの感覚的な信心に就いて考えるのは止めて、一層高い見地から敬神に就いて考えよ。聖体拝領の中にイエズスの真の実際的な愛を求めよ。そうすれば、それを貴方は何時でも発見するであろう。…
教会は度々拝領するように勧める。もし出来るならば、毎日でも。然しその度毎に告白する義務が有るとは言わない。トレント会議によれば、我等が聖体拝領の前に告白する義務が有るのは唯「我等が大罪を犯した時」である。秘蹟に度々近づいているカトリック信者の魂は稀にしか大罪を犯さない。人間の弱さ故に普通に陥る余り重くない罪、即ち小罪に関して、確かに信仰は我等にこう教えてくれる。即ち「天主の愛を真面目に実行する事に依って、又痛悔によって、小罪を充分に消す事が出来る」と。そして此罪の赦しをもっと容易にするために、教会は準秘蹟と言って、我等の良心を浄化する最も簡単な方法を定めた。即ち聖水を以て十字架を印すこと、主祷文・告白の祈等である。
前回の告白以来犯したいくつかの小罪の為に、貴方が聖体拝領を躊躇するならば、カトリック教会の偉大なる声は「聖体拝領は大罪を防ぎ、小罪を消す」と宣言すると言うトレント会議に耳を傾ければほい。
これをよく理解せよ。告解でなく聖体拝領が日々の過失を消すために定められたのである。火が藁を燃やし尽くすように、聖体拝領は過失をすっかり食いつくしてしまう。火は石や鉄をなくするものではない。大罪は石や鉄のようなもので、告白の鉄槌によってのみ打ち砕かれる。藁は如何に我等の良心が真面目であろうとも、我等が日々犯す軽い過失を意味する。恐れず、喜びを以て聖体を拝領せよ。貴方は度々或は毎日でも聖体を拝領して、我等のよき主をもう決して困らせはしないと信じて安心せよ。…
もし貴方が毎日よき聖なる生活をしているならば、貴方は常に充分聖体拝領の準備をしているのである。パッツィの聖マリア・マグダレナは、或朝修道院の為に自分の労働を捧げていた。心は祭壇の前にあった。彼女は何も心の準備はしなかったが、愛に燃え、両手にくっついた生パンにさえ気がつかずに、イエズスを受ける為に聖堂へ行ったのである。又カルメル山の修道女等の目上であった聖女は、彼女等に向って斯う言うのが常であった。「貴方達が為すすべての事を天主に捧げて下さい。天主を喜ばせる為に、すべての行いをすること。そうすれば、貴方達は恐れないで拝領台に近寄る事が出来るでせう」と。聖アルフォンソは斯う付け加えている。「何か善い仕事のために、或は国家の任務の為に、準備の時間が無いからと言ってそれを理由に聖体拝領をやめてはいけない。無駄な会話を避けるように、延期をよぎなくするすべての仕事を避けるように、唯注意しなさい。」…
聖ペトロは奇蹟的な位置網によって、彼のボートに入った御方の神聖さと、威風とを知った時に、自分の身をイエズスの足下に投げ出して言った。「我は罪人なれば、我より遠ざかり給え」と。自愛深き主は「おそるる事勿れ」と答えた。(ルカ五ノ八) 貴方も恐れてはならない。貴方の心は天主のためであり、貴方は天主に忠実に仕えたいと望んでいる。天主はもうそれ以上の何物をも貴方に要求しないし、貴方の煩悶も貴方を身捨てず、却って貴方をへり下せるに相違いない。大概、確かにそのような煩悶は、頑固なものではなく、又貴方から聖体拝領の効果を奪いはしない。良い意志の有る所に、善い聖体拝領も有る。乾燥や嫌悪に会い、感覚的慰安の不足、なやましい煩悶等の為に、聖人等でさえ貴方のように苦しんだのであった。聖ヴィンセンシオ・デ・パウロは、信徳誦さえも誦えられないような、精神的乾燥の状態に二年間暮らした。悪魔が彼の煩悶の状態を利用して、烈しい誘惑を以て彼を悩ました時、哀れな聖人は、自分が其目的の為に書いて置いたクレド(信条)を心臓の上に置いて、僧服(スータン)に縫いつけ、断然我等の主に一致したのであった。彼が手を紙にふれる時は、何時でも、それは彼が最早なし得なかった敬神の行為と、等しいものであったに違いない。彼は自分の信仰に何の感動もなく、毎日ミサを立て、彼の精神的訓練を継続した。私は貴方に聞きたい。「聖ヴィンセンシオの聖体拝領は善かったであろうか?」と。…聖テレザに依れば、そのような愁嘆きの状態にある魂にとって、度々聖体拝領をする事より善い薬は無いのである。…
聖体は天主の愛の源である。冷たいと貴方が感ずれば感ずる程、それ程貴方は熱の源に引かされるのである。…貴方が普通の食事をしている時でさえも、弱っていると感ずるならば、そのような時に何も食べなかったり、又は殆ど食べなかったらどうなるであろうか、弱るより先に、貴方は先ず飢えて了うであろう。もし、貴方が強き者のパンを食べないなら、貴方の弱さは十倍も増し、今貴方がしているように、小さな過失に就いて嘆くどころではなく、深刻なる過失即ち大罪に就いて嘆かねばならぬであろう。「私は毎日罪を犯す。毎日犯す故に薬が必要である」と言う聖アムブロジオの言葉を、聖トマス・アクィナスが引用している。ローマの聖フランシスが聖体拝領後、ほんの僅かしか進歩しない事を不安に感じた時に、聖マリアは彼女に理解させるために、やさしい愛情をこめて斯う言った。「我が子よ、貴女が犯した過失のために、聖なるテーブルから遠ざかってはならない。反対にその過失こそ貴女を度々聖なる食卓に導くべきである。何故ならば、祭壇の最も聖なる秘蹟のうちに貴女のすべてのみじめさに対する薬があるのだから」と。…
毎日の聖体拝領は、彼らに罪をまぬかれしめなかったが、成聖の道に於いて彼等を大いに助け、多くの大いなる欠点から救った。又彼等の中の多くの者を、無数の徳で飾った。それは又、貴方にとっても同様である。…貴方は度々聖体を拝領すれば、貴方を知っている人々の躓きとなるのが恐ろしいとでも言うかも知れない。…それでは何が度々聖体を拝領する人に就いての躓きの原因となっているのだろうか。それは聖体拝領ではなく、度々聖体を拝領するにも拘らず、自分の悪の傾向を止めもせず、宗教的実践に生きるのを怠る事である。それは譬えば、短気な行い、不貞節、貪食、自分の健康や慰安等に就いて余りに詳細に気を配る事等である。これ等は最早欠点の域を越える数多くの過失であり、又これ有るが故に、自らの成聖を配慮する良心の注意を集める事が出来ないのである。もしも貴方がこの点で罪が有るとすれば、それを天主は禁じ給うのであるから、貴方は直ちにこの甚だしい悪を効果的になおすべきである。貴方は聖体拝領を止めるべきではない。生活をもって清くもつと我等の救主イエズス・キリストにふさわしくするために、貴方自身をふるい立たせるべきである。…
聖体拝領はすべての聖寵、平和および善良の源である。もし貴方が度々よく拝領するならば、短期間でより善くなる事が出来るであろう。…
一方私は本当に敬虔でない人が、度々聖体拝領すると云うのを見たことさえない。何故ならば、単に規則的な生活を送る人を我々は敬虔であるとは言わないし、又、規則的である事は敬虔なことでもない。何故ならば、規則的生活とは、天主の法律を守り、教会の法を守り、主日と祝日とにミサに与り、宗教を尊敬し、正しい生活をしている事で充分であるから、敬虔であるためにはより高く行って、イエズス・キリストの愛のうちに住まねばならぬ。一度敬虔の道に入れば、カトリック信者はもはや単に教を守る事だけでは満足出来ない。信者はその上に福音の教、自己否定、内的回想、霊魂の救いに対する奮発、キリスト教的成聖を作るすべての美しい徳を実行に移すのに一生懸命になる。義務と言うよりも愛によって行動するのである。貴方は天主への奉仕を重い軛とするのではなく、優しい子供のような感情で生きいきとさせた多くの人々を知っているであろうか。教会は敬神の根本的行為として、我々に聖体拝領を公表しているのであるから、原因がなくて結果が有れば、これは前代未聞である。経験がそれを示している。よい食物なくして立派な申し分のない健康を持つ事よりも、度々聖体拝領をせずに敬虔である事はより不可能なことである。
聴罪者、或はもっと正確に云えば、霊的指導者は、キリスト教的完全さに向って我等を導き、助言を与える神父である。我々は指導者をえらぶ義務が有るのではない。然し敬虔の道に於いて聖なる経験の有る神父によって導いて戴く事より以上に賢明で、カトリック的実践に、より適ったものはないのである。…
教会の真の精神を汲んでいるすべての聖人のような神父達は、度々聖体を拝領する事を好む。そしてこれに就いて、彼等は単に教会が公表する一般的規則を適用するだけである。なぜならば、事実我々は、聖体拝領の規則に関しては自由ではない。この題目に就いて、我々は霊魂の指導者に従わねばならない詳細な規則を持っている。又我々がその規則を放置するならば、それは義務を大いに妨害する罪となるのである。教会はそのような規則を有名な「公教要理」にまとめた。それはトレントの公教要理として知られ、教皇ピオ五世の指導により、トレント公会議の命によって出版されたものである。トレント公会議の公教要理は、次の如く宣べている。主任司祭は、必ず教会信者が度々又は毎日でも聖体拝領をするように努力すべきこと、何故なれば、肉体と同様、霊魂も毎日滋養分を与えられねばならないから。これが司祭及び公会議の教義である。
敬虔なるブロアのルイは言う。「或日、我等の主は、他人に度々聖体拝領する事をやめさせた人達に就いて次の如く歎かれた。〝我がよろこびは人の子等と共に在る事である彼等のためにこそ祭壇の秘蹟は定められたのである。霊魂が我を受けるのを妨げる者は、我が歓喜を減らす者である〟」と。又聖フランシスコ・サレジオ及び聖テレジアによって非常に高く評価されていた敬虔なるアヴィラの神父は「度々聖体拝領をすることに欠点を見出す者は、聖体の秘蹟を最も強く憎む悪魔の役割を演ずるものである」と常に言っていた。コルトナの聖マーガレットの指導者は、常に彼女が度々聖体拝領をするように大いに激励した。彼が死んだ時、我等の主は彼女に、この善き司祭は彼女が聖体の秘蹟に近づくのを容易ならしめた其愛徳により、天国に於いて多くの報酬を受けたと言う事を示されたのであった。又イエズス会の聖アントニー・トレスと言う聖なる修道者の生涯の中で、我々は次のような事を読むのである。「彼が痛悔者に向って度々聖体を拝領するように勧めたために、天国に於いて彼の栄誉は大いに増した」と。絶えず自らの職務のために、教会の指示に従う事を目的とする司祭は幸福である。又そのような人生の案内者を以て、天主が自らの善意によって祝福する霊魂は幸である。…
カトリック教会が勧める事は大げさでも不可能でもない。教会は天主に対する拝礼の真理を我等に与える。我々が教会に耳を傾けるならば、我々は、イエズス・キリストに耳を傾けているのである。教会の教訓を軽んずれば、天主の光を軽んずるものである。カトリック信者が、天主の権威に就いて余り考えようとしないのを見る事は不思議である。貴方の信仰を堅くし、又其のすべての実際的な結合を堅くせよ。イエズスが教会を通じて貴方に語り給うたのだ、と貴方は信じ、又知っている。唯耳を傾け、イエズスを認めるだけで満足してはならぬ。思う存分にイエズスの教えを実行せよ。真理を望まない人には、つぶやかせておけばよい。彼等が聖体の秘蹟に対して尊敬を払うために、どんな事をしているかを彼等に示させよ。…「汝等常に主に於いて喜べ。我は重ねて言う、喜べ。」(フィリッピ四ノ四)そしてイエズスのために生きることを望み、イエズスを以て自らを養え。
]]>
1:十字軍と幻視者
… 彼女は見た。けれども地上の眼で見たのではなかった。天上の視(ヴィジョン)においてしか見えない「天上のヴィジョン」を見たのである。彼女は見た、「一つのいとも大いなる輝きを。そこから天上の声がとどろき渡った。」
声は告知した。
「か弱き人間よ、灰の灰、黴(かび)の黴よ、汝の見るもの聞くものを言え、また書け! されど目にしたものを述べるのに、汝は(聖書)解釈の素養もなく、無学にして、語ることを恥じているのであるからして、人間の語り方によらずして、すなわち人間的作為の認識にも人間的解釈の意志にもよらずして、天上のヴィジョンにおいて汝に与えられた天分により言い書くがよい。どのように神の奇蹟においてそれを見かつ聞いたかを。さながらおのが師のことばに耳かたむけ、師の思い望む通りに、師の指し指示する通りに、それをまるごと伝える聞き手であるかのように、語るがよい。されば汝もまたそのようにせよ!汝の見かつ聞くものを、汝の好むようにでも、だれか他の人間の好むようにでもなく、すべてを知り、すべてを見、そのひそやかな決断の隠された深みにおいてすべてを秩序づける存在の意志にしたがって言え、また書け。」
天上の声の告知している相手は、「無学」で単純なヒルデガルドという女性である。「無学」とは、とりあえずラテン語をこなさないという意味であろうが、それだけではない。スコラ学と聖書解釈学の正則を身につけた当時一般の教養とは無縁の、身分こそ修道女であるとはいえ一介の女性にすぎないという意味で「無学」なのである。にもかかわらずその彼女に突如として「聖書の、(旧約)詩篇の、福音書の、旧新約聖書を論じた他のカトリック文書の意味がひらめくように明らかになった。」
ということは、この聖書解釈や神学文書理解が聖職者の通例の研鑽の成果ではないかということである。与えられた聖職者教育コースをこなした結果の認識ではなかった。告知を受けた側としてこの正規の道を通らないで得た啓示の例外性を、彼女はふたたび自分の「無学」を強調しながら告白する。「けれどもだからといって私は、これらのテクストの語義も、分綴法も、(文法法)文例も、時称も習得することはなかった。」
ヒルデガルドのこの告白は明らかに、当時としてはまことに危険だった。教会の指定する神学的教養の道を通らずに、我流で直接(じか)に神を見たという。しかしかりに彼女の開発した見神技術が公認されるとすれば、中世の神学体系はその場から無用の長物となり、ついには否定されることになりかねない。つまりは教権体制にさからう異端である。事実ヒルデガルドは久しい間異端の疑いにさらされる。クレルヴォーのベルナールやエウゲニウス教皇の後援を得た後も、すくなくとも教権制度の傘下にある聖職者の大多数を敵に回さなくてはならないだろう。当時の聖職者たちの常套化したあり方を当てこすった「人間的認識の作為」や「人間的解釈の意志」に「無学」の「天上のヴィジョン」を対置させ、教権制度の停滞ないし腐敗をほのめかす彼女の戦略は、ことほどさように当初から由々しい危険をはらんでいたのである。
危険は百も承知だった。だからこそむき出しの幻視をフォルマール修道士の「校正」という隠れ蓑にくるんだ。公開の時期にも慎重を期した。幻視の書は着手してから完成までに十年の歳月を要した。
それも1141年の執筆開始から数えての韜晦(とうかい)の期間である。彼女の幻視力はしかし1141年に突然はじまったわけではない。それ以前の数十年に及ぶ沈黙の期間があった。序文には少女時代にはじまる幻視癖のことが回顧されている。
「隠された奇蹟の眼の力と神秘を私がみずからの内面にまことにふしぎにも体験したのは幼年時代からのことだった。すなわち五歳の時以来のことで、それがいまに至るも変わらない。しかし私は、私と同じように修道院生活のなかに生きているごく少数の人たちを除くなら、だれにもそのことを言わなかった。神がその恩寵を通じて公開を望み給うた今日に至るまで、一切を沈黙をもって覆ったのである。」
五歳の時に何を見たのか、ここでは具体的には言及されていない。それに、後年になってゴットフリート/テオードリヒ両修道士のまとめた『自伝』によるなら、幻視体験は五歳ではなくて早くも三歳の時にさかのぼるらしい。
「三歳の時に私は魂の高揚するような大きな光を見た。けれども子供だったので、そのことを口外できなかった…五歳になるまでいろいろのものを見、なかにはそのまま素直に人に話したものもあるが、話を聞いた人たちは、それがどこから来て、だれに教わったのかと訝(いぶか)った。」
人が訝るようにどんな体験があったのだろうか。やがて巷間に流布された少女ヒルデガルドをめぐるいくつかの伝説のなかにそれらしいものがある。
五歳の時に彼女は故郷の牧草地で別の女の子と遊んでいた。ヒルデガルドが突然言った。
「ほら、あそこに仔牛が一頭いるわ。なんてきれいなんでしょう。頭から爪先まで真っ白、でも頭と脚のところだけは斑点があって…ああ、背中にもいくらか黒いところがあるわ!」
遊び友達の女の子がそちらを見ると仔牛などどこにもいない。するとヒルデガルドが一頭の孕んだ牝牛を指して言った。「だってそこにいるじゃない!」遊び友達の女の子は家に帰るとヒルデガルドの奇妙な「作り話」を母親に言いつけた。ところが牝牛が仔牛を産んでみると、斑のありかは正確に彼女の言い当てた箇所にあった。ヒルデガルドには、まだこの世に出ていない胎内の仔牛がありありと見えていたのだ。
…
1095年、教皇ウルバヌス二世は全ヨーロッパのキリスト教徒に聖地イェルサレムの奪回を呼びかけた。これが十四世紀にいたるまでくり返し行われた十字軍遠征の端緒となる。当時トルコの支配下にあった聖墓所在地イェルサレムの奪回が、この行動のさしあたっての目標であることはいうまでもない。
ウルバヌス二世の呼びかけは、ヨーロッパ全土に未曾有の反響を呼び起こした。あらゆる階層の出身者からなる何万人にもおよぶ男たちが、なかには国家や君主に命じられたわけでもないので、たちまちにして十字誓願に応じた。妻子を置き去りにし、家財産を捨てて、勇躍、冒険的な遠征に旅立ったのである。騎士の指導者に率いられたものもいた。なかには掠奪目当てのごろつきとして未組織の群れをなすものもいた。いずれも重い木の十字架を担ぎ、あるいは象徴的に布製の十字の徽章だけを肩につけて、生還のおぼつかない長期の旅路に出立した。目的地に到達する前に落命したものは数知れない。…
一方、聖地における最初期十字軍の勝利もつかの間だった。およそ半世紀後の1140年代には、十字軍の成果と東方におけるその支配地はほぼ壊滅している。ふり返ってみれば十字軍とは、無数の兵士の死と巨額の経済的損失を後にのこす暴挙にほかならなかったのである。精神的虚脱とやり場をうしなった暴力衝動はヨーロッパに逆流してくる。さなきだに中世世界では小諸侯間の私闘や掠奪は日常茶飯事である。掠奪対象としては僧院でさえ例外ではなかったのである。
ヴィジョン公開に踏み切るまでのヒルデガルドの半生には、ざっと以上のような恐怖と暴力が外界に荒れ狂っている。山上のディジボーデンベルク修道院はたしかに静寂と沈黙のうちに閉ざされていた。外界から侵入してくるものはなく、こちらからも出てゆかない。それはしかし、兵士やならず者が奇蹟的にここを素通りしたというかぎりでのつかの間の楽園にすぎず、いったん彼らの泥足が踏み込んでくればひとたまりもなかったのである。
十二世紀の僧院はいわば丸腰だった。暴力に対する自前のいかなる防御策も持たなかった。当然のことながら、切り取り強盗がいつ襲ってきてもふしぎのない状況のなかで、軍事的防御策を講じない僧院は存続を危ぶまれた。そこで多くの僧院が世俗の僧院管理人(Vogt)と契約する。僧院管理人は一定の契約金と引き換えに、僧院の外部にある寺領地管理と軍事的保護を請負った。
建前はそうでも、この保護者はやがて強者の地位を乱用するにいたる。僧院が僧院管理人を保護者に指定するというより、僧院管理人が僧院を管理の傘下に指定するのが、もっぱらの実情になる。多くの寺領地がこうして僧院管理人の手に掌握された。僧院機構全体のなかで主人としてふる舞うのは、もはや僧侶ではなく、むしろしばしば世俗の僧院管理人なのだ。そのうえ僧院管理人職は家職として引き継がれる場合がすくなくない。僧院の自立性はうしなわれ、いよいよ悪代官(Vogt)がはびこる。専横な保護者がイヤでも、外敵から身を守るには悪名高い僧院管理人に依存するほかなかった。げんにディジボーデンベルク修道院も、ヒルデガルドが同院を離れてからのことではあるが、1154年に世俗の管理人と契約を結んでいる。
後にヒルデガルドが創設する(1143年)ルーペルツベルク女子修道院はしかし例外的に僧院管理人と契約しなかった。諸侯の庇護ももとめなかった。あらゆる世俗的権力の上にあるものと直接(じか)に交渉した。神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサに請うて、皇帝の万能の「保護状」を手中にするのである。ヴィジョンは神から垂直に、世俗的保護もまた皇帝から垂直に、中間的媒介者なしに受容した。…
第四章 アヴェ・マリアより
空の鳥を見よ。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は彼らを養われる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。(マタイ6・26)
今日、わたしたちは慌ただしい生活の中で、毎日何らかの心配や心づかいをもって生きているようです。政治にたずさわる人たちは、国際情勢や国内の動きに思いをはせ、商売や事業をしている人びとは、それらの繁栄について心づかいをしていることでしょう。また家庭の主婦たちにとっては、毎日の生活と子どもの養育や教育のことで、思い煩うことが多いに違いありません。老人には老いゆく者としての寂しさがあり、青年は青年、若い娘は娘なりに、それぞれの悩みをもって生きているのでしょう。
こうしてみると、人間というものは、かくも心配や心づかいに責められ、かくも悩まなければ生きて行けないものなのかと、あらためて考えられずにはいられません。人は誰でも、例外なく幸福や平和を求めているのに、これは一体どうしたわけでしょうか。私たちに、何が欠けているためではないのだろうか。すなわち、わたしたちの内部に、精神的な確固としたよりどころがないためではないかと考えさせられます。「一寸先はヤミ」という言葉がありますが、人生というものは、そのような不安にみちており、人間が互いに相手を十分に信じられない、というもどかしさから、免れることができないのです。
ノーベル賞の創始者であるノーベルは、その人間観を、端的につぎのような言葉で述べております。「人間というものは、未熟で、平和を受けるに値しないのですよ。どの人間にも、野獣、悪魔、蛮人といったものがひそんでいます。要するに平和なんて、この世にはすこし高尚すぎるものなのです」
わたしたちひとりひとりの中には、強い野獣性がひそんでおり、今日のような競争社会では、それが子どものように弱い善意を圧倒し、だんだんむき出しになってきます。欲望や優越感を満足させるために、どれほど多くの醜い争いや、そのための犠牲を生んでいることでしょう。そういう社会には、あせりと、とげとげしさと、他人の無視や利己主義が横行し、そのためにすべての人が苦しむのです。
わたしたちの心の中の善意というものは、ノーベル氏もいうように、子どもみたいに弱いものであっても、社会生活や個人の生活に平和をもたらすためには、最も大切なもののように思われます。わたしたち相互の善意と、それへの信頼なしに、平和は決してあり得ないでしょう。イエズスは弟子たちに向かって「空の鳥を見なさい」と言って、おおらかに天の神を仰ぎ見るようにすすめていますが、それはともすれば地上をはい回り、おのれの損得利害から離れ得ぬ心を、暫時そこから解き放つための、知恵の言葉でありましょう。
あの空の鳥たちは、人間のように「まくことも刈ることもしないのに、天父はこれを養いたもう」と言って、自然の鳥どもの生活のうちに、神の摂理、はからいを啓示しているのです。わたしたち人間の理性の能力、知性の光は、この神の大きな愛のはからいを、自然のうちに読み取るならなければ、ついに日々の煩いや悩みから、解放されることができないだろうと思われます。
わたしがまだ青年のころ、最も心をひかれた聖書の言葉は、この「空の鳥を見よ」という一節でした。この言葉の呼びかけを聞いたとき、わたしの心は無限の空間にかけのぼって、広大無辺な神の愛に呼ばれているような気がしてなりませんでした。
現代の学校教育においては、神はタブーとされており、したがって、宗教教育もまったく欠けております。そのような、いわば大切なカナメを欠いた教育をほどこしながら、世界人類の平和を求めるといっても、どこかチグハグな感じをまぬがれません。いつか評論家の坂西志保さんが、つぎのように言われているのを読んで、なるほどと思いました。「私はよく子どもに宗教心を与えたいが、どうしたらよいか、と母親にきかれる。あなたは何を信じられますか、ときくと、家では別に何も信じていない、と答える。宗教心というものは、ビタミン注射などと違って、そう簡単に教え込まれるものではない。また、たとえできたとしても、そのような宗教心が、人の倫理道徳の基準となり、どんな場合にも、正義を選ぶということにはならないであろう。むしろ宗教心は、自然によい環境において学び、自分のうちに完全に消化され、言葉と行為に現われるというのが望ましい。またそうならなければ効果がない、と私は考えている。困ったときの神だのみもよい。しかし、祈らなくても守ってくれる神をもち、その道にもとらないように行動するのが望ましい。学校では宗教を教えられないことになっている。したがって宗教心を養おうと思えば、家庭が主となる。何が正しいか、何がまちがっているか、はっきりした基準をもたない今日の社会で、幼いころから宗教の教えによって、自然に倫理観を身につけるのが望ましい」
キリストはまことの神の存在を、自然界の現象、たとえば空の鳥を眺めよと言って教えましたが、日に日に周囲から自然を失っていく今日のわたしたちは、よい家庭環境の中で、正しい神の考え方や、その存在を学び取らなければなりません。神は全人類の父であり、この共通の精神の場、すべての人の父なる神を信ずる善意の足場なくして、世界の平和もありえないでしょうし、人と人との信頼もありえないでしょう。
今日の国際関係や、人間関係のありかたを見るにつけても、あまりに相互の信頼が失われ、猜疑心と利害打算に支配され、そのために行きづまりと、苦悩を負っているように思われてなりません。神をもたなければ、人間のなかの野獣性は野放しになるのです。小さく弱い善意が押し殺されてしまうのも、当然でありましょう。神のみまえに、人間は鳥よりもはるかに優れたものであり、神の配慮のなかにあるものなのです。しかし神を尊ぶことなしに、人間相互の尊重や配慮が、真に行われることもあり得ないでしょう。
人が〔現世の眼から観て〕完全とみなしているものは、神の御眼には欠陥に満ちていることを知れ。人間のすべての行為—思念(おもい)、感情(かんじ)、言語(ことば)、行動(ふるまい)—は如何に完全らしく見えるとも、神の聖旨にかない奉る意向を以てなされたのでなければ、不完全で汚れている。行為が完全であるがためには、我等が主行者としてではなく、神が我等のうちに行動し給うのでなくてはならぬ。
この行為は神の御業であり、神に於いてなされたものでなければならない。それでいかにしても人は主行者であってはならぬ。我等に功がなくとも、結局我等のうちに神が行動し給うこの純粋な愛の最後の作用は、正にかかるものを請うのである。この最後の作用に於いて、神は霊魂に入り、霊魂を燃やし給うから、霊魂を包む肉体は焼尽されるようで、(8) これを他の表現を以てすれば、霊魂は燃ゆる火の竈の中にあり、そこではただ死によってのみ、休息が得られるのである。
それにもかかわらず、神の溢るる愛は、煉獄の霊魂に言い尽くし難い歓喜を与え給うのは勿論であるが、しかしこの歓喜は苦しみを毫も減ぜず、むしろこの愛が妨げられていることに気づくことからして、苦しみは起こる。神が霊魂に受容させ給うこの愛が、完全となればなるほど、苦しみは大きくなる。
このように煉獄の霊魂は、最大の歓喜を当うと同時に、極度の苦しみをも感じるが、苦しみは歓喜を、歓喜は苦しみを互いに妨げない。
(8)抽象的に言う。
第十三章
煉獄の霊魂は、今はもはや功を積む状態にない。彼等のために、現世に於いてなされた人の祈りと善業の施興を、彼等はどう考えるか
煉獄の霊魂が痛悔によって、その汚れを浄めることが出来たとすれば、彼等は一瞬にしてそのすべての負い目を除き去るのどの熱烈にして劇しい痛悔の業をするであろう。これは彼等の唯一の愛であり、終極の目的である神に達するのを妨げている障碍の結果を明らかに観るからである。霊魂は負い目を、ことごとく還さねばならないことは確かで、これは義の要求を満たすための神の命である。このことについて、霊魂は自分自身選ぶことが出来ず、神の意志以外の何ものも考えず、望みもしないのは、そう定められているからである。
彼等は苦しみの期間を短縮(ちぢ)めるために、現世の人々によって捧げられる祈りと善業の施興(ほどこし)は、神の聖旨にかなうものでなければ、望まないであろう。彼等は主の限りなき全善の思し召しのままに償罪を要求し給う神の御手のうちにすべてを委ねる。これらの施興を、彼等が神の聖旨と別箇なものとして考えることが出来れば、それは神の意志を彼等に悟らせまいとする自我の業となるとともに、彼等にとっては真の地獄のような苦しみとなるであろう。彼等は、彼等に對する神の意志の上に動き得ずに止まり、愉しみも苦しみも、彼等を再び自我に向けさせない。
第十四章
煉獄の霊魂の神の意志に對する服従
これらの霊魂は神と緊密に一致し、神の意志に化しているから、萬事に於いて神のいとも尊き命に満足し、わずかでも浄化すべきものを有ったまま、神の尊前(みまえ)に霊魂が置かれたならば、煉獄の苦しみよりも更にひどく苦しみ悩むであろう。
神の汚れなき至聖、全き善は、その霊魂が尊前に在ることをゆるすことは出来ない。神の尊前に在るのを霊魂にゆるすことは、神の側からすればふさわしくないことである。よって、神を全く満足させる瞬間が欠けていることに気付けば、(9) 霊魂にとってそれは堪え難いことであり、完全に浄化されずして神の尊前に立つよりも、直ちに地獄のような苦しみの中に飛び込むであろう。
(9)今一瞬で神に到る、その一瞬が欠けていればの意。