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    源泉 No.161〜163『キリスト伝』より

    2013.12.27 Friday

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      #『キリスト伝』より ジョゼッペ・リッチョティ著 フェデリコ・バルバロ訳
      源泉
      #161 さて、重大なもう一つの問題について、新しい発見があり、それが誤った偏見を暴露した。現代の多くの学者にとって、第四福音書は「歴史の体面だけをかろうじて保っている神学上の定理」(ロアジイ)であるといっている。いいかえると、第四福音書は、比喩的・象徴的な本であって、神秘的抽象の世界だけを動き回っているので、その本にあるエピソードを、地理学的なわくの中に入れるのは単に表面の飾りで、中味は地形などと無関係なものだと、かれらはいうのである。
       こういう非難も、例のとおり、かれらの哲学上の偏見から出ている。その上、こういう非難をする学者の大部分は、机の前に坐っているだけで、パレスチナを詳しく調べるどころか、通りすぎさえもしていない。かれらは、考古学や歴史や地理をたいして重視しないが、これは、たいへん思慮に欠けたやり方だといわねばならない。
       ルナンでさえも、かれ一流の勝手なやり方であったとはいえ、キリストの伝記を書くにあたって、いく分はパレスチナの地理を調べている。そのルナンは、こう書いている。
       「第四福音書の歴史的概略は、思うに、ヨハネを中心とするグループがしっていたままのイエズスの生活であった。このグループは、その思い出をもとに共観福音書をつくり上げたクループよりも、創立者キリストの生活の、外部的な事情に通じていたと思う。」と。
       しかし、第四福音書を書いた人は、エルサレムの地理さえ知らないほど、パレスチナのことについては知っていないと、いわれつづけてきた。
       ところが、事実はその反対である。第四福音書を書いた人は、共観福音史家よりもその地の地理に詳しく、話の本筋にはかかわりなく省けるような点にまで、驚くほど詳細に立ち入っている。
       第四福音書にだけ出ているパレスチナの地理の指定は、少なくとも十はあって、そのうちの一つも、まちがっている証明はなく、むしろ、そのうちのいくつかは、思いがけないほど正確であることが立証されたので、その例をあげてみたい。 

       
      #162 ヨハネの本(1・28)には、他の本には出ていない「ヨルダンの向こうのベタニア」が出てくる。ところで、ベタニア(11・18)は、エルサレムからわずか「十五スタディウム」(約2800メートル)しか離れていないのである。そしてエルサレムからヨルダンまでは、約40キロもはなれているのである。これは、昔、ベタニアが二つあったことがわかって―ベトレへムが二つ、ベト・ホロンが二つもあったように―解決した。
       ヨルダンの向こうのベタニアは、渡し船を使う川の渡し場に近かったので、その名も、「ベト・オニア」(船の家)からくるのではあるまいか。ここは渡し場であったから、オリゲネスは「ベタニア」とはいわず、写本から読んで「ベト・アバラ」(渡しの家)といった。最近、この地に昔の町の廃墟が見つかった。
       ギリシア語のヨハネ福音書(5・2)では、エルサレムの「羊門」のそばに、おそらくその町の区の名からとって「ベザタ」といわれる池があったと書かれている。この池は「五つの廊」に囲まれていたとある。五辺形の廊下がそこにあったのだろうか? まことに変な形である。その変な形のことから、現代のある学者は、この話が全部比喩的なものだと解釈し、池はユダイズムの霊的な泉のかたどりであり、五つの廊は、律法の五つの本のことであるといった。
       しかし、最近の発掘によって、このまことしやかな比喩の解釈も打ち砕かれた。
       すなわちこの池は、長さ120メートル、幅60メートルの短形をしていた「四つの廊」にかこまれていたが、それ以外にもう一つの廊下が、池の真ん中に渡っていて、池を二つに分けていた。
       ヨハネ(19・13)によると、ピラトは裁判の最中、「イエズスを外に連れて行き、敷石、ヘブライ語で、ガッパタといわれる所で裁判の席についた」とある。
       この場所はどこにあるのか?何年か前の発掘によって、はっきりしたことがわかった。「ガッパタ」とは、「敷石」の訳ではなくて、同じ場所の二つの呼び方であった。
       アントニア城にあったこの場所は、最近見つかったが、考古学的にみると、アントニア城をつくったヘロデ大王時代の、建物の特色を表わしている。

      163 歴史の二つの目は、地理と年代学であるという有名なことばを裏付けるように、ヨハネの福音書を見ると、地理の上での先に見た正確さと同じ正確さが、年代の上でも見られる。
      共観福音史家が、イエズスの生活について知らせるいわば内部的な年代を、ヨハネ福音書に出てくる年代と比較してみると、共観福音史家が、はくぜんと知らせる年代を、正確にしようとして、ヨハネが機会をのがすまいとしているという印象を受ける。
       共観福音書だけを見ると、イエズスの公生活は、一年か、それよりも少なかったようにみえる。これに対してヨハネは、はっきりとちがう三つの過越祭のことをしるして、イエズスの公生活が、少なくとも二年何ヶ月かであったことを教える。
       ヨハネ(2・11)では、イエズスが行った最初の奇跡が、共観福音史家がしるしていないカナでの婚宴の時にあったとしるしている。そのすぐあと(2・13以下)、イエズスの公生活の、威厳に満ちた行動として、神殿から商人を追い払った事件を載せている。しかし共観福音史家では、この事件がこの事件がイエズスの死の何日か前のできごとであるかのようにしるされている。
       パレスチナの歴史の、よく知られているある事件から計算すると、神殿から商人を追い出したこのできごとは、「神殿建築」が始まって四十六年後のことであると、ヨハネのことばからわかる(2・20)。
       最後に、共観福音書のイエズス受難の話を読むと、イエズスが弟子とともにヘブライ人の過越祭の宴会を行ったのは、死の前日の夜であったことがわかる。その宴会は、律法によって、ニザンの月の十四日に行われることになっていたから、イエズスが亡くなったのは、ニザンの十五日に当たることになる。
       ところがヨハネの方は、イエズスが殺される日の朝、ピラトの邸の前で群れをなしてイエズスを訴えていたユダヤ人は、まだ過越祭の宴会を行っていなかったと、特に注意している。ヨハネ(18・28)によると、そのユダヤ人たちは、小羊を食べる宴会の前に、「汚れ」を受けないように、総督官邸には入らなかったという。なぜなら、異教徒の家に入ったら、その夜行う宴会が汚されるのを恐れたからである。するとこの場合、イエズスが亡くなったのは、ニザンの月の十四日となる。その前日の晩餐は、ヘブライ人の過越祭の宴会とは別のものである。共観福音書もヨハネの福音書もまちがっていないことを証拠立てる論拠には、今ここでは触れないことにする。
       しかし、ヨハネが、共観福音史家がはっきりしるさなかったことを正確にして、しかもかれだけがはっきりと年代を示していることには、もう一度注意を喚起したい。

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