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2017.01.04 Wednesday

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    十字架の神秘 5

    2016.12.11 Sunday

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      第二章 十字架の追想 

       

       《民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら自分を救うがよい」》(ルカ23・35)
       民衆はただ立って十字架のイエズスを見つめていたという。イエズスがどのようにふるまって死ぬのか、それは人間的な関心を持った見つめ方であった。その目には信仰の光がさし込んではいなかった。それは自分が救われることを願っての見方ではない。世の終わりまで人びとは、十字架を見つめても、自分の救いのために何の役にも立たないと言うであろう。キリストの苦しみは一つ一つ人びとの救いの恵みの源泉になるものであるのに、それを無駄に見過ごしているのであった。しかし議員たちは、もっと悪い行動をとった。自分たちの救いの恵みを拒否したのである。他人を救いながら、自分自身を救うことのできない愚かさとあざ笑ったのである。それは単に人間的生命を救うことにかぎっての言葉である。もともと人間的生命は、神からの死の宣告を受けているのである。サタンが、死ぬことはないと楽園で人祖をだましたためであった。議員たちは、衆議会員であったから、司祭衆であり、ユダヤ教の長老たちであった。彼らは宗教、律法、神の代理人として自らを任じていたが、その宗教は、自分自身を救うことに始終していた。彼らはただ自然的生命を守ること、この生命を生きぬくことを信条とする立場からキリストの十字架の死を眺めていたのである。キリストの救いと死はそれらを目的としていなかった。
       彼らの宗教と信仰は神の生命に、永遠に生きる幸福に結びつくことのないものであった。それは偶像の信仰と同じことであり、キリストに対しても自分自身を救うことを要求する。キリストにおいて、自分を救うこととは何であるか。それは御父の聖意を果たすことであり、十字架にかかって、人びとの罪を贖って死ぬことであった。彼らの言うように、十字架から降りて自然的生命を救ったとしても結局は自分を救うことができない。死ぬことによってキリストは、すべて改心する人の魂を救い、自分の霊魂をも救うことになった。しかし、この真理を眺めて、人びとはあざ笑うのであった。
       真理は厳しければ厳しいほど、人びとの心はそれに反して偽りの暗闇に陥るのである。

       

       《兵士たちは、イエズスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自一つずつ渡るようにした》(ヨハネ19・23)
       イエズスの衣服を四等分に分けたのであると言っているが、将来の教会が同じ福音を信じていながらも、分裂することを前もって示していると想像することができる。世界が終わるまでイエズスの教会が互いに分裂し、対立して争う運命であるかのようである。それぞれの教会はイエズスの福音の言葉を衣のように分け合って成立しているが、唯一の聖なる信仰がなければ単なる教訓にすぎないものになる。彼を十字架につけた兵士たちは、信仰の持ち主ではないので、ただ役目として働いたのである。今日の不信仰なる者と同様に、人間的欲得の行為に刺激されてイエズスの衣服を分割し、自分たちの金銭的利益をはかって、それを分け合うのである。
       キリストの救いの福音にも、幾世紀もの長い間に人間的思想が交錯しあって、そのつど分裂を生み、多くのキリスト教会なるものが出現している。神よりの信仰は純粋であれば一つであるが、世紀が進むたびごとに、対立し、分裂がひどくなっている。キリストの救いの恵みは、彼が言っているように分かれ争うところにはないもので、キリストの体である教会もまことに一つであって、十字架にかけられていると思われる。教会はキリストの神秘体ではあるが、衣服ではない。彼の福音と言っても、神の言葉は人間がつかう言葉を用いて表現しているので、いわば人間の衣服のようなものである。衣服を分割しても、神の恵みの本質は人によって分割されるものではない。人間の思考や思想を信仰に混入すればするほどそれだけ不純になり、分裂と対立を生むものである。分かれ争うところにはキリストの体も姿も見えなくなる。神の本来の姿というものは人間の思惑によって分割されるものではない。信仰といってもさまざまな形態があって、救いの恵みをあたかも彼の衣服のように分割して、自分のものとしたとしても、それは失われるものである。
       キリストの衣服でも、信仰のない兵士たちには霊的救いのためにはなんら役に立たなかった。今日の人びとも教会に入籍してその一員となって生活を営んでも、信仰のない者には救いの恵みがないのである。世界的にいかに大きな働きをして、大いなる役割を果たしたとしても、信仰のないものは、十字架の下で、キリストの衣服を分け合った兵士たちと同様で大差はない。聖書の言葉を神のものとしてのべ伝えても、信仰に生きることがないものには、なんの役にも立たない。本当の信仰は、神の言葉を受け入れ、愛をもって守ることによって証明されるが、キリストの衣服を自分の利益のために分け合っていた兵士のように、福音の宣伝を自分の利益と名誉のために使うのであれば、その人は救われることがないであろう。

       

       《イエズスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言われた》(ヨハネ19・26)
       釘づけにされていたイエズスは、手や足、全身が火炎に包まれているかのような激痛のさなかにあって、母とかたわらに立っている弟子を眺めて言われた、そのもの静かな言葉には驚きを感じる。それは人間のものではなく、神の言葉であった。婦人よと呼びかけるが、かつて神が人祖アダムとエバを楽園から追放されたとき、蛇に対して、新しい婦人を出現させて、蛇の頭を踏みくだかせることを宣言した「婦人よ」という言葉に思いあたる。また、イエズスが公生活の初めに、カナの婚宴の場において、最初の奇跡をおこなうにつれて、自分の母なるマリアの願いを受けいれて、婦人よと呼びかけた。今、十字架のもとに立っている母を眺めて、婦人よ、と聖書で三たび呼んでいることに重要な意義がある。つづいて、「ごらんなさい」と言って彼の愛する弟子を指名して、これはあなたの子であると言った。彼が十字架の上に流した血を、真っ先に十字架の下に立っているヨハネにまず注いで、彼を救いにあずからせ、彼女の子としたのである。十字架の彼の血が流されて、罪が洗われなければ、誰も神の子となってキリストの兄弟に結ばれて、聖母の子に生まれ代わることはできない。この神秘である霊的真理を、イエズスは十字架の上からみごとに遺言として与えたのである。これはまことに意義深い信仰の奥義である。
       キリスト信者は、イエズスの十字架の血の神秘に生かされてこそ彼の母を自分の母としていただけるものである。彼の血が、神の計画の神秘の働きによって、マリアの子となる恵みをいただくのであって、それは自然の働きではない。イエズスの人となりは、母マリアの胎内に、聖霊の働きによって自然の肉体をもった人間として宿ったのである。罪人であるわたしたちは、神の御子の血によって罪から贖われ、清められたのちに、聖霊によって、聖母の霊的子となることを示している。これこそ隠された十字架の神秘である。この神秘の奥義は、自然の知恵では悟ることなく、神だけが知っているので、神にはなにものも隠されていない。いったん罪に陥った人間がゆるされて救われることは、サタンにとっては、この上もないねたましいことであり、恐ろしいことのように思われる。この神秘を通して、救い主の母、マリアがわたしたちの霊的な母となるのであってサタンはその神秘に恐怖を感じている。創世記の言葉によれば、神の御子はその母と子らによって、サタンの頭を世界の終わりに一緒に踏みくだき、キリストの神秘体が完全に勝利をおさめるのである。
       神の言葉に従ってわたしたちが、聖母を霊における母として信仰のうちにいただくということは、どれほど素晴らしいことであろうか。聖母のみ心に自分をささげることは、この婦人に愛されることであり、それと同時に天の御父が聖母と共にいらっしゃる愛のうちに包まれることになる。そうでなければ、神の国、天国は約束されていないのである。
       十字架の下に立っていた婦人は、とめどなく涙を流しながら、御子のしたたる血を眺めて共に苦しみ、罪人であるわたしたちの罪の霊魂が贖われることに協力し、わたしたちを霊的に産むのであった。わたしたちも信仰のうちに、この婦人の涙、聖母の涙を思い起こして見ることができるが、信仰のない者にとっては、世に隠されたこれらのことは目に見えないものなので思いつくこともないのである。

       

       《それから弟子に言われた。「見なさい、あなたの母です」。そのときから、この弟子は、イエズスの母を自分の家に引き取った》(ヨハネ19・27)
       わたしは若いころからカトリックの司祭としてこの聖書の言葉を引用して、何回となく人びとに、聖母がわたしたちの母であると語ってきたのである。多くの人はそれを聞いて一応うなずくことがあっても、それはそれとして通り過ごしたであろう。今日、あらためて聖書の言葉を読むにつれて、より深い意義に感動をおぼえるが、これを信仰の真理として受け取って、二千年前のヨハネ個人の出来事のように、わたし自身が信仰をもって受け取らなければならない。聖母の意義を感じていない者は、それほど宗教的意義があるものとして受け取ってはいないだろう。
       教会がキリストの神秘的身体であるとすれば、キリストはその頭であり、わたしたちがその肢体として結ばれている。自然の形態でも頭を産んだ女は当然その肢体をも次つぎと産むのである。だからわたしたちを産んだその婦人を母と呼ぶのである。聖母は、今もキリストの神秘的肢体を産むのであれば、母たる真理に適合する。罪人であるわたしたちを、新しくキリストの神秘体として世の終わりまで産むことは、ある意味で苦しみの連続性を思わせるのである。人祖エバに対して神は「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3・16)と言って、聖母の前じるしを告げているようだ。神秘体の頭であるキリストを産んだ母は、彼に愛された弟子をも産むのである。
       この弟子は、そのときから「イエズスの母を自分の家に引き取った」とされているが、彼の霊魂は神の家となって、主の母を受け入れて信仰したのである。イエズスの言葉は、この真理に適合する信仰をつくるものであって、彼の愛はすべてを与え、母さえもわたしたちに与えるのである。単なる自然の出来事のように見せかけてはいるが、神の聖霊の働きによって、霊的に完成される母と子との深い関係である。使徒ヨハネは神の子の言葉を聞いて、神殿となるべき自分の霊魂の家に、信仰と愛のうちにその母を引き取ったと見るべきである。
       これらのことをふまえて考察すれば聖母を疎外する者、無関心な者は、自分の信仰の家たる心に、彼女を引き取ることがないので、神の言葉に適合してはいない。イエズスが愛する弟子に言った最後の言葉であるだけにきわめて重要である。世界にはキリストを信じる者がたくさんあるけれども、彼の母、聖母をヨハネのように引き取っている者はいまだに少ない。
       ヨハネはこのときから聖母を霊的な産みの母として受け取って聖霊の働きに受諾したのである。イエズスが十字架の上から、「見よ!」と呼びかけて、「母がここにいる」と指摘して、神の言葉のうちに、母の生命に生きる子の存在を確立させたのであった。母と子との間の生命のつながりほど親密な関係は他になく、それは神が永遠にわたって結んでくれた生命の秩序であった。十字架のイエズスは、わたしたちにも、彼を産んだ母が、わたしたちの母親であることをくしくも認識させる言葉として残して、安心して世を去るのであった。

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