第八章 ためらいの日々
2016.12.08 Thursday
『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』 より (安田 貞治 神父著 エンデルレ書店 発行)
第八章 ためらいの日々
マリア庭園の発想
みちのくの遅い春も四月半ばともなれば、窪地の残雪もようやく消え、見渡すかぎりかげろうのゆらぐ世界となった。小さな修院をとりかこむ原野に立ち、遠くそびえる大平山、近くにならぶ丘々を眺めるうち、私のうちにひとつの夢がふくらみはじめた。
日本の風光の美は、山や川など自然の起伏に富み、四季の変化に恵まれる点に、負うところが多いと思われる。そして、そのような美の条件の具わっている所には、必ずといってよいほど、昔から宗教的な礼拝所が建てられている。私は、高野山をはじめ比叡山、永平寺その他の名刹を訪ねるたびに、その感を深めていた。ヨーロッパでも、キリスト教の有名な巡礼地は、きまってそのような場所にみられるようである。
また私はかねてから、日本人の心情に聖母への信心を植えつけることを念願としてきた。というのも、これまでキリスト教国の人々の信仰の根づよさや犠牲心をみると、それは単なる伝統や教義的理解によって養成されたものではない、と思われたからである。多くの聖人伝を読んでも、そこに聖母への素朴で強烈な信仰を見いだすことができる。
ヨーロッパの人々が、カトリックの純粋な信仰を、二千年近くも養い育て、保ちつづけてきたというのは、ひとえに聖母への厚い信心の賜であったに相違ない。われわれに身近な日本の切支丹の人たちにしても、あのおそるべき迫害の中で、サンタマリアへの信心によって、キリストに対する信仰を守ってきた、という事実はまさに驚嘆に値する。
これらのことによって私は、日本の国土にキリスト教の信仰を根づかせるためには、とくに聖母の御保護と、人々の聖母に対するまことの信心とが、大きな意義をもつのではなかろうか、と気づいたのであった。
そういうわけで、以前、司牧の任にあたっていた教会において、聖母のルルド出現百年目を記念して聖母像の制作を依頼し、庭に安置したのであった。さらに、聖母信心のために、ふさわしい庭も造りたいと考えた。とくに日本の庭は宗教的雰囲気にみちているので、そういう庭園の企画をたてた。だがいざ実行となると、資金の捻出が問題となり、信徒たちの一致した賛同は得られなかった。にもかかわらず私は、聖母の御保護に信頼して実施にふみ切った。こんにちも、その信頼が予想以上にむくいられたことに感謝し、多くの協力者のために祈りつづけている次第である。
そのような経験があるだけに、こんどの”夢”というのも、べつに突拍子もない思いつきではなかった。
まだ自分としては確信をもつに至らぬけれど、ここが聖母に選ばれた土地であるとすれば、祈りの園としてマリア庭園を造ることも、将来のため有意義ではなかろうか、と考えるようになったのである。…
”聖母に捧げる日本庭園”は、毎日の共同祈願の意向に加えられ、また聖ヨゼフのお取り次ぎをも願うようになった。
1974年5月1日の”勤労者聖ヨゼフの祝日”を迎えて、経済的にも責任を感じる私は、御ミサを捧げる前に、一言申し述べた。
「今日は勤労者聖ヨゼフの祝日でありますので、マリア庭園のために、とくに聖ヨゼフのご保護を願いましょう。聖ヨゼフは聖主と聖母のために、ご自分の一生涯を無にして尽くされた方ですから、天国においても、きっと、聖母のために造られる庭のために、喜んで協力してくださるに違いありません。そのための御ミサを捧げます」
御ミサが済み、朝食を終えたあと、いつものように聖体礼拝を行った。
祈りの後、姉妹(シスター)笹川が私に近づいてきて、次のような報告をしたのである。
「いつも大事なことを教えてくださる守護の天使が、今日、御聖体の礼拝中に現れて、『あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい』と言ってお姿が消えました」
(その後、聖堂に聖ヨゼフの御像が安置されたが、現在の御像は数年後にある奇特な方が、聖母像の制作者若狭氏に依頼され、同じ桂材をもって対になるように彫られたものである)
このようにして、私ははじめて、姉妹笹川を介して、天使の働きかけなるものを具体的に知ることになった。
しかし、その真実性は、マリア庭園そのものが、将来天使のお告げのごとく、ほんとうに完成できるか否かにかかっていると思われた。
聖母に捧げる苑
… この時私は、教皇パウロ六世の教書”マリアリス・クルトゥス”を思い出した。1974年2月2日、主の奉献の祝日にあたり、聖ペトロの教座から全世界の司教たちに宛てて送られた、聖母崇敬に関する長文の勧告文である。その最後は「私が、神の御母に捧げる崇敬について、これほど長く論ずる必要があると思ったわけは、それがキリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素だからです。また問題の重大性もそれを要求したのです」と結ばれ、また前文の部分では「キリスト教的敬神の真の進展には、必ず聖母崇敬の、真実で誤りのない進歩が伴うものです」と強調されている。
私は、この山に来てから、教皇のこれらの言葉に接して、聖母崇敬の念を一層鼓舞されるのを感じたのであった。
かつて青年時代、カトリック司祭になる志望を固めたのは、聖母信心に関する説教を聞いた際であった。
やがて司祭となってからは、宣教の務めのうちに聖母崇敬について多く語り、またロザリオの祈りをできるだけ唱え、人にもすすめてきた。このため「古めかしいマリア崇敬論者」との陰での批判の声も、たびたび耳にしたのであった。
近頃は、典礼刷新運動によってか、新築のモダンな聖堂の中に聖母像が見かけられぬことが多い。古い教会でも、マリア像を取り除いたり、小さな物に替えたり、出入口にまるで装飾品のように据えたりしている。
こういう情景を目にし、”古めかしいマリア狂徒” というような嘲笑を耳にするたび、この人たちは教皇パウロ六世の「キリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素」という言葉を、どのように受け取っているのだろうかと、胸が痛くなるのである。
昔ある教会の司牧の任にあった時、私はやはり聖母崇敬をとくに信徒たちに植えつけようと努力した。当時、全学連の政治運動が、日本中に氾濫し、カトリック教会の中にも進歩的聖職者の先導によって浸透しつつあった。そのような機運に際して、聖母崇敬を説くことは、手痛い反撃を招くばかりであった。こちらも一歩もゆずらず防戦したが、あのはげしい攻防は今もって記憶にあざやかである。
これらを思うにつけ、”十字架の道行” の古い絵の一場面が目にうかんでくる。十字架を負って歩むキリストの前後に、あどけない子供や少年たちが、捨札を持ったり、キリストにつけられた綱を引いたりしている。それらの群れに、聖母を軽んじる若い信徒たちの姿が二重写しに重なって見え、どうしようもない悲しみがこみ上げてくるのである。
日本の在来の宗教はもとより新興宗教においても、土地や資財は惜しみなくその信仰の対象のために捧げられている。ところが唯一最高の神の礼拝を標榜するカトリックの聖職者や信徒が、その崇敬を表わすに適当な場所を造ることには一向心を用いない。土地があれば、まず当節流行の諸施設をつくることを考えたりする。だが、土地もまず神様から頂いたものではないのか。先日見た例では、せっかく設けられた祈りの場”ルルド”が、駐車場にされて、聖母像に近づくことも困難な有様になっていた。これでは、神に捧げるどころか、神の物まで人が奪っているのではないか。
最近では、聖職者、信徒を問わず、”進歩的”な人々の間で、”今はもう聖堂を建てる必要はない。各家庭でミサを捧げれば充分だ。神のみことばに生きるとは、世俗社会に入って行くことである。隣人愛の奉仕をすることは、ミサに参加するよりも重要性がある”というような意見が巾をきかせているらしい。それが”キリストに生きる”という意味だ、と主張される。
しかし、真の隣人愛というものは、まず神と結ばれた愛から発生するものである。大いなる愛に捧げる犠牲的愛に生きることによって、はじめて可能であり、単なる人間関係の横のつながりのみの隣人愛は、畢竟、肉身の愛の域を超えるものでないことをさとるべきである。
近年、万事に”新しさ”がもてはやされ、革新とか新風の導入が安易に歓迎されるようである。教会の中でも、ミサ典礼の様式が刷新されたことが大いに喜ばれているが、もしもこの気運の行き過ぎでミサや典礼の本来の神聖さが失われてゆくならば、それは信仰生活に悲しむべき損出を招くこととなるであろう。こんちに、私たちの充分戒心すべきところと思う。
1975年1月4日、ここの聖母像から最初の涙が流されたとき(この件については、後の章に詳述するが)、姉妹笹川に守護の天使が告げた言葉の中に次のような語がある。
「…聖母は日本を愛しておられます。…秋田のこの地を選んでお言葉を送られたのに…聖母は恵みを分配しようと、みんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください」
この忠告にも、私は聖母崇敬を介して神に捧げる祈りの苑、マリア庭園の重要な意義の裏づけをみる思いがしたのである。