十字架の神秘 6
2016.12.07 Wednesday
『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)
第二章 十字架の追想より
ルカ福音
《「われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」》(ルカ23・41)
犯罪者の一人は、自分の罪を認め十字架の苦しみを当然のこととして受けている。これは神の正義を認めていることになる。罪の痛悔は真理を愛しているといえる。しかしイエズスは、なんら悪をおこなってはいない。むしろ善をおこなっている。それでも犯罪者と同じく苦しみ、不正を平然として受け入れ十字架の苦しみを受けている。なぜそのような不合理が実現しているのか。イエズスの十字架は、人びとの罪を贖うためであって宗教的犯罪かのように仕立てられているが、内心は償いとして神にささげられている。
イエズスは律法にそむいた者、神殿の破壊者、偽りのメシアとして訴えられていた。同じように神を求めているとはいえ、そこには明白な信仰の相違があった。それは偶像の信仰と神に嘉せられる真の信仰との相違であったろう。偶像の信仰とは暗闇の信仰のことであり、人間に仕える利欲への信仰である。神への聖なる信仰は、あくまでも神に属するものである。真理の光といえる神の光のなかに歩むものである。偶像の信仰は人間的な欲のなかに、暗闇のなかに、残酷な仕打ちのなかに歩むものである。これは利益を求めて真理を憎むものであり、不正を喜び、不正を愛するものである。キリストの十字架は、不正を愛する者たちのしわざであったが、犯罪者の一人は、キリストの十字架を見て、これこそ不正な十字架刑と見る。それに反して、ユダヤ教の司祭たちは、当然で正当な十字架刑と喜び合うのであった。そのようなことが今日でもあってよいものであろうか。しかし、そのようなことは今日もなお多い。偶像の信仰があるかぎり、真理を憎む者は絶えることがないのである。このような人でも自分は神に仕えていると思って、真理を迫害していることに気づかない。この事実こそ暗闇に仕える偶像の信仰である。それは自分の傲慢によって獣になり下がり、神の地位を奪おうとする信仰であり、単に自分自身に仕える信仰であって、神に奉仕する謙遜な信仰とは、根本的に違っている。それは自分の傲慢によって他を制圧する権力であり、へりくだって十字架にかかったイエズスの御父の思召しに生きる信仰ではないのである。イエズスの人性はすべて信仰の従順の形体をとっている。それはわれに倣えとペトロにすすめた信仰の従順の徳であった。イエズスにとっても御父の聖意を果たすことが根本になければ十字架は無意味であろう。多くの人は十字架を眺めて、神を礼拝しているといっても、わが身に十字架の屈辱がふりかかり、苦しみを受けることになれば、それを拒否してしまう。そのことはただキリストだけに十字架を求めて喜んでいるようなものである。わが身を十字架につけてこそ本当にキリストを礼拝する信仰であるが、右側の盗賊はこの信仰を見つけた最初の人であった。
《「イエズスよ! あなたが御国においでになるとき、わたしを思い出してください」》(ルカ23・42)
彼の願いは、イエズスが御国において、このわたし、犯罪者を思い出してください、ということであった。イエズスが彼を思い出すということ、これは何であろうか。自分のような者でも、憐れみをかけてくださいとのことのようである。イエズスの思い出は、神の思い出である。それには内的な精神のつながりがなければならない。イエズスが知らないという者は聖書によれば、そとの暗闇に捨てられた者である。わたしはあなたたちを知らないと審判のときに仰せになる。それはイエズスと内的な関係、霊的生命のつながりのない者にかぎる。神の生命につながりがあってこそ救いにあずかる。十字架にかかった犯罪者は、イエズスに一筋の内的かかわりを求めて、思い出してくださいと願うのである。それは信仰のかかわりであった。このように、救われた者は信仰によって、イエズスと結びつくことが必要である。わたしたちも、復活し昇天なさったイエズス、神の右の座につかれているイエズスと一筋の内的かかわり、霊的生命のかかわりに生きていなければたすかりが得られない。救われる兄弟に対して、残酷なふるまいをなす者は、神の愛に生きることはないのである。この犯罪者が願ったことを、われわれも願うのでなければ、天国に入れないであろう。主よこのわたしを思い出してくださいと祈る必要がある。それは罪のことではなくて罪を悔い改めたことを思い出してくださいと言うのである。往々にして人びとは神に対して、自分が罪人であったことを悔い改めない。多くの人びとは、自分の罪を認めないばかりか、自分はこれでよしと考えている。それは神に対しての傲慢心であり神を見くだしているのである。自分を尊び他人に誇り、無限の神の働きの尊さを忘れ、自分の意欲を重んずるのは、人びとの傲慢のあらわれである。神のはからいを無視して、自分の意欲を自由なる世界に打ち立て自分をあがめる偶像の信仰である。十字架にかけられた犯罪者は神のはからいを優先して、自分の意欲を願うのではなく、自分に課せられた罪の償いに甘んじ、とうて神の国に入る資格がないと思って、イエズスの思いやり、憐れみを願うのである。神の意志を尊重するのが真の信仰である。
《するとイエズスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた》(ルカ23・43)
イエズスのこの言葉は確かである。犯罪者の魂は、すっかり罪がゆるされて、イエズスと共に楽園に入るとの約束である。この言葉は人間の自然の善業も、人間の精神面の誇張も、自分を善人とみなしている人も、イエズスの楽園に入る資格がないと証ししている。それだけで自分の自然性を誇っている者があれば、誰も神の国に入ることはできない。人は誰でも自分の罪は認めにくく、自分の善を誇ってしまう。人間の理性とはそのように自分が善であるかのように働き、そう見せたいものである。しかし神に対する畏敬の信仰がなければ、人間は自分が罪のなかにあることを認識しようとしない。人間の理性は、自分はよいものとして働くが、神の働きを認めようとしない。アダムはこの理性の知識の実を、神のはかりしれない知恵よりも、重んじて食べた最初の人であった。人間は理性の知識の実をみだりに味わえば、神の知恵から離れるものである。人間が神の国に入れるのは、父の思し召しをおこなってこそ可能なのである。神の御子は、マリアを通して人となり、父のご意思であるみ旨をおこなって神の国、父の国に入れることをわたしたちに教えたのである。自然的理性によってだけでは、神の国に入ることはできない。
この自然界に住むために働く理性だけでは霊的な神の国があることさえわからない。神の言葉によって、神の国と、思召しが人間に提供せられるのである。神の言葉は生きて働くもので信仰によって神の言葉に従順になれるのである。自分を愛して生きるものは、信仰によるよりも理性に重きをおくので自己中心になりがちになる。神を愛するならば信仰によって、神の言葉、神のはからいを受け取るので従順になり神の愛に一致して生きることになるのである。十字架にかかりながらイエズスに願った犯罪者は、救い主であるイエズスをそっくり受け入れて依り頼んだことによって、神の言葉を疑いなく受け入れたのである。この信仰によって彼は救われた。自分の業、善、理性によって救われたのではなく、イエズスの贖罪によって贖われた最初の人である。この救いの真理を見逃しては救いがない。人間の理性は、神の真理をよそにして働けば、ひとりよがりの傲慢に陥り、神に反逆するものとなるのである。