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    十字架の神秘 4

    2016.12.06 Tuesday

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       マルコ福音

       

       《それから、ある者はイエズスにつばを吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また下役たちは、イエズスを平手で打った》(マルコ14・65)
       

       現時の国家法の裁判では、神を冒涜するというような刑法は成り立っていない。イエズスの時代のユダヤ教の裁判においては、最大の悪、罪は唯一なる神を冒涜することであた。その罪に値する者があれば、直ちに石打ちにして殺されたものである。
       大司祭をはじめとして最高法院の人たちが、ナザレのイエズスを神を冒涜する者として死刑の判決を下したので、その後、彼をどう扱うか、民衆たちの間に起こったことが記されている。手を縛られたイエズスを囲んだ民衆にとって、まずつばきを吐きかけて、神から捨てられたもの、呪うべきものとして宗教的最高の権威から捨てられたものを侮辱するのは当然なことであった。これらの人びとは、途方もない侮辱をあびせかけるのが、かえって神を礼拝する行為だと考えたのであろう。またある者は、イエズスに目隠しをして、こぶしで殴りつけたとあるが、イエズスの目を見るのは良心がゆるさないので、目隠しのまま打ち叩き、誰が叩いたのかを預言してみろ、と言い放った。
       預言というものは、神の全知なる知恵に照らされて、神のはからいを前もって預言するものであって、人が尊敬をもって受けなければならないものである。大司祭から見はなされ、ユダヤ教から破門され死刑に定められたイエズスを見る大衆の目は、少しの同情もなく、かえって憤激の的として、怒り狂うのであった。
       かつてのイエズスの言葉、福音の教え、無数の善業、病人の癒しの奇跡、何千人もの飢えを満たしたパンの奇跡さえもなんら役に立たなかった。それどころか、かえって偽りのメシア、神殿を破壊し、神を冒涜したとの大司祭の宣告によって、民衆は裏切られたとの感情を燃え立たせたのである。
       大司祭の下役どもは、イエズスの頬を平手で打っていたと聖書に告げられているが、そのときはすでにペトロをはじめ、使徒の仲間はイエズスを捨てて逃げてしまっていた。一人の同情者、好意をもつものもなく、ことごとくわれ関せずとの態度をとっていた。
       今日の世界でごミサの聖祭が毎日カトリック教会でおこなわれているが、ご聖体の聖変化の言葉に「あなたがたのために、わたされるわたしの体である」というのは、この侮辱されているキリストのの体を連想させるのである。現代の典礼学者や神学者たちは、聖体の秘跡は礼拝の対象となるものではなく「とって食べるものである」と説明しているときくことが多いが、それはパンの形色のみをさして言えることであって、深い信仰の霊的意義に欠けたもののように思われる。イエズスの体は、今や新しい典礼と神学によってしばられているという思いがする。そのような誤った思考が横行しているとすれば、大衆の宗教的行為は、聖体の秘跡に隠されているイエズスに、つばきをかけた民衆と同様であると思わねばならない。

       

      ルカ福音

       

       《これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエズスをヘロデのもとの送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ》(ルカ23・6~8)
       ピラトは、自分のこれまでの調べによって、イエズスには死刑に値する罪がないことを知って、ローマの法律に照らして、彼を殺すことはできないと人知れずに良心的呵責をを感じていた。人は誰でも、自分の良心にそむいて行動するのは罪だとわかっている。ピラトもできるだけ罪にならないようにふるまって、イエズスがガリラヤ人だと知って、それならヘロデ王の支配下にあるので、これさいわいとばかりに、ヘロデ王の権利を尊重した形で、イエズスの裁判を任せるほうがよしと考え、ヘロデ王のもとに送ったのである。これはピラトにとって、最悪の罪の責任をまぬかれる好機会であった。これまではローマの総督として、ヘロデ王の権限を快しとしていなかったようである。人間の権力というものは、独裁的であればあるほど栄誉に輝くものである。対立する権力があると相対的になり、敵視の形を構成するものである。
       ピラトはこの際一歩さがった形で、自分の罪をまぬかれるために、ヘロデ王の権力を認めて、イエズスを裁判するように願ったとみることができる。
       ヘロデ王は、自らの権限がはじめてローマの総督から認められ公認されたことを喜んだ。聖書に「彼はイエズスを見ると、非常に喜んだ」とあるのは、そのことを含めてのことである。そのときの彼はとくに、奇跡をおこなうイエズス、天からのしるしをおこなう彼を見たいと望んでいたので、やっとかなえられたという思いだったのであろう。神からつかわされたメシアであって、人民に評判の高い人である彼の裁判をするとは、全国民にかけて、これほど名誉に値する職権を持ったためしがなかった、と感じたかもしれない。もともと傲慢であるヘロデの心は神のような威光に輝く思いがしたであろう。それで「彼を見ると非常に喜んだ」との表現は、今に至るまでまざまざと目に浮かぶように福音記者は書きとどめている。
       一方ピラトから送られてきたイエズスの心は、どんなものであったか、誰も押しはかることはできない。この場合、タライまわしにされる一般人の心はどうであるかと言っても、結末のつく問題ではない。それが犯罪人であれば、人びとから足蹴にされるものである。イエズスの場合もまさにそれであった。ヘロデ王にまわされても、イエズスの釈放は期待できなかった。
       ヘロデはちょうど一年前か二年前に、預言者ヨハネに、自分の罪を責められたので、牢獄に閉じ込め、誕生日の祝日に、悪びれもせずヨハネの首をはねて殺した。彼はピラトよりも深い罪の権化のように思われるのである。
       それに反してイエズスの心は、聖なる神に対する人間の罪の違反を謝罪し、無限なる神の正義を満たすために、不正なる仕打ちを耐え忍んで、ひたすら従順の償いを御父にささげるのであった。不正なる罪は、不正なる苦しみと死をもって償わなければ、バランスがとれなかったようである。

       

       《しかし、人々は一斉に「その男を殺せ、バラバを釈放しろ」と叫んだ》(ルカ23・18)
       ヘロデ王は、イエズスに死刑の判決をしないで、ピラトのもとへ送り返したので、二人とも彼に罪がないと公然と言い放ったことになる。ピラトが、例年の過越祭の行事には、一人の罪人が民衆の願いによって釈放される慣例を思い出して、民衆に叫んで言った。そのとき、釈放はバラバかキリストかと問いかけた。バラバは、死刑囚で暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの一人であった。そのとき大司祭たちをはじめ、民衆の叫び声は、一斉にバラバを釈放しろというものであった。ピラト自身の判断では、よもやバラバという声ではなく、メシアであるイエズスであると信じていた。それはイエズスのこれまでなさった善業である癒しの奇跡を多くきいていたからである。しかし、反対にその男を殺せという恐ろしい叫びであった。
       このとき、人間の常識は通用せず、以上に殺気じみた激昂が飛び交い、神からつかわされた神の子、自分たちの救い主の死を心から要求したのであった。しかも、方法として神にも人間にも呪いとなる十字架の死刑を求めたのである。これほど人類の歴史のなかで、不正な死刑があったであろうかと、疑わざるを得ない。彼は、ユダヤ人としても二千年もの太祖アブラハム以来の待望をかけてきた神の子、メシアであったはずである。しかし彼を死刑にしたということは人間の考えでは及びもつかなかったほどのことである。
       要するに、人間が神の知恵を試みたのである。神の約束は、人の言葉によって伝えられているが、人間はそれが真実であるかどうかを言葉だけによって知ることができず、それに伴う奇跡かしるしがなければ、真実性がつかめなかったのである。アブラハムの子孫として、ユダヤ人たちは、イエズスがメシアとして奇跡かしるしをもって、十字架の死刑さえもかなぐり捨てて、十字架より降りて歩むことを要求したのである。そうであってこそ、ユダヤ民族を救うことのできる真のメシアであると承認することになる。心のどこかで、試してみようとしたのである。
       イエズスは、かつて砂漠の中でサタンの誘惑に対して「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4・7)と言って悪魔を排斥した。そのときの群集心理は、イエズスが本当のメシアであるかどうか、偽り者であれば、なおさら十字架にかけて殺して当然なことと思えたのであろう。神の子であるかどうか、彼が自分でそう言ったので、なおさら確かめる必要がある、と考えたようである。自分たちの見る目で納得がいくように試みたのである。そのために、選んだ呪いの道具である十字架である。その場合、信仰ではなくて、認識を得るということであって、知識を得んとすること以外のなにものでもなかった。
       もしやイエズスが、十字架の死刑を不当なものとしてかなぐり捨てて、メシアの威厳と権威をあらわしてその不正をただすのではないか、と期待をかけるよりも、彼が十字架の死刑をうけて、神の呪いのしるしのもとで、すんなりと死を迎えるのであれば、偽りのメシアであるという証拠が成り立って、自分たちの行為が神のよみするものとなると考えたのである。
       聖書は、イエズスの死の際に太陽が暗み、地震が起こり、神殿の幕が二つに裂けたと記しているが、それらを見ても大司祭たちの不信仰は少しも変わらなかったようである。
       今日の世界の人びとも、福音の言葉を読んで知ってはいるが、あらためてイエズスが自分たちの救い主であったと信ずる者は少ないのではなかろうか。キリスト信者でさえも今日では、ペトロやヨハネ、パウロのような信仰者はないであろう。キリストの死は、文明の世界においては意義がうすれて、かすんでいるようであり、バラバの釈放がもっと重大であると考えているふしがある。それは、今日の世界では、死刑廃止の運動が取り上げられ、主論になりつつあるのをみてもわかる。
       二千年前、バラバかキリストかと言ったとき、キリストの代わりに無罪放免となったバラバのように、われわれ罪人がキリストの死のおかげで、神の前に洗礼の秘跡を受けることによって無罪放免のお恵みにあずかれることは、隠された無限の神秘である。人類一般において、大いに意義があるものとしてそのことを受け取らなければならない。そうであってこそ神の救いの真理が今の世界においても樹立する。一人のイエズスの死によって、人びとの無数の罪が神のみ前にゆるされているということは、人間の知恵では納得しがたいものであり、信仰の知恵で神の愛の不思議さを悟る以外にないであろう。

       

      ヨハネ福音
       《大祭司は、イエズスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエズスは答えられた。「わたしは世に向って公然と話した。わたしはいつもユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか、わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々はわたしの話したことを知っている」》
      (ヨハネ18・19~21)
       アンナス大司祭はイエズスに尋問したのは自分の信仰のためではなく、彼を裁くため、死刑に処する手段とするためであった。そういう目的であれば、彼が自分の教えを聞いた人びとに尋ねるがよいと言ったのは正しいことである。
       今日、福音宣教の目的で、世界各地において、人びとはイエズスの教えを、キリスト教諸教派の形でのべ伝えている。宣教に従事している人びとも、自分で学んだ知識や学識、自分の信仰に応じて語っていることが多く、他の者たちよりもすぐれていて、本当のイエズスを語っていると自負していても、神の目からすれば、それは自己にとらわれているのみで誤りがある。キリストの裁判にあたって、彼の死刑を正当化するために、証人たちの証言が求められたが一つとして一致することがなかった、という。今日の福音宣教の言葉も一致性に欠けているならば、それは聖霊の能力によるものではなく、そこには神の生命一貫した一致である聖霊の働きを見ることができない。したがって信仰の一致性に欠けていれば、キリストの教会はまことの一つの神秘体ではなく人間的な組織にすぎない。
       キリストは世に向って、公然として語った。今日の人びともキリストについて、公然として語っている。しかし聞く人びとの心に浸透性がないのはなぜであろうかと、問う必要があるのではないだろうか。ほんの少しでも自分の名誉と利益を求める心があれば、神の言葉であっても、神を求める心に欠けることになる。それはキリストが聖パウロの心のうちに生きていたように、語るのではないから、キリストが真に語るのではなく、単なる人間が語るのであって、聖霊の結実である神の言葉を効果的に伝えることは不可能になるのである。
       キリストの裁判において、彼が始終沈黙を続けたのは、人間の言葉に対してであった。彼が答えたのは、大司祭カヤファが、神の職務的権限をつかって、彼に命じたときのみであった。彼の答えは世の終わりに、公審判があることを示して、世界の審判者が再現なさって、全人類がいやおうなしに彼の前に集められ、公審判を受けるという預言であった。この隠れた真理は、ずっと世の人びとに隠されているもので、現代の人間の自然の能力ではとうてい想像もつかないものである。

       

       《イエズスがこう言われると、そばにいた下役の一人が「大祭司に向って、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエズスを平手で打った》(ヨハネ18・22)
       下役は、大司祭を最高位のもとあがめ、イエズスをいやしい罪人として、平手で頬を打ったのである。世の顕職は、往々にして人びとにこうびをうるものである。捕らえられたと言っても、イエズスは神の子であり、神のメシアであって、神の右の座につく最高の品位のものであった。現世的な人の目では、今もって彼の真の姿は隠されている。この世界においては見えない神の姿は、ただ神の言葉による信仰の鏡を通して見えるものである。大司祭の下役の男は、まことの信仰がなかったので、イエズスの言葉を単なる人間のものとして受け取り、それに憤慨して打ったのである。
       人の心が清ければ神を仰ぎ、信仰の道を通して、神の真理を受けるのである。現代に生きる人びとも、聖書を読みその言葉を容易に理解したとしても、それがよき種として実りをもたらすよい畑、心がなければ、これといった収穫が得られない。それは不思議なことである。人の心は世の欲におおわれて、自然の能力のままに生きるので、神なしの世界をよしとして生きることになるのである。
       使徒ヨハネの手紙には「目の欲、肉の欲、生活のおごり」などこの世を愛している者は、神の愛にとどまることはできないと言っている。目の欲は、人びとにとって大きな喜びとなり、幸福を提供するものである。昔から人びとは宇宙のかなたにまで幸福を探し求め、その欲望はつきることがなかった。また肉の欲は、人間がこの世に生きているかぎり、そして肉体の生命の続くかぎり、快楽として無限の対象を追求するものである。生活のおごりにしても、人は自由の世界を泳ぎまわって、権力と富貴の光栄を求めて、やむことを知らない。人間は欲に従って、いくらそれを追い求めても、そうしたことは神とは無縁のものであって、神に出会えるものではない。
       神は人間の見えない世界、霊の世界、神秘の世界に存在するもので、福音を通して神の知恵や意志が人に伝えられるが、単なる人の知恵では悟りがたいものである。この隠された宝を発見できるのは、神の光と助力による信仰ひと筋の道だけである。大司祭の下役の男が、イエズスの言葉をきいて、怒りに燃えて彼を打ったのは現代の無神論者にも似通った行為であるのではないだろうか。それは恐ろしいことである。

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