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    十字架の神秘 3

    2016.11.29 Tuesday

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      『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)

      第一章 イエズスの裁判より 

       

      マタイ福音

       

      《人びとはイエズスを捕らえると、大祭司カヤファの所へ連れていった》(マタイ26・57)
       そのときには、ユダヤ教の最高法院に、大祭司をはじめ司祭たち、律法学者、長老たちがイエズスを待って集まっていた。イエズスは真夜中近くに捕らえられて、律法を破る者、神殿の破壊を告げる者として告発され、訴えられていたようだった。それらのことにかぎって見ると、今日の私たちでも神の子、メシアであるとは名ばかりで偽るものとしてイエズスを見てしまうであろう。
       この世に生活するものにとって、来世などはないと考えているとしたらメシアである救い主は必要なものではない。したがって経済的繁栄と物質的幸福のみを求める人びとにとっては無意味なものである。ユダヤ教の最高法院のメンバーにしても、この世の生活が第一であって安泰を願っていたのである。彼らはローマ皇帝の支配下にあって、平安な生活を望んでいたので、今日の人びとが、無神論の世界に安住しているのと大差なかったようである。
       イエズスは、このときにかぎって、超自然的働きや奇跡のしるしを見せることもなく、自然そのままの人間として自分の自然体を縛られたままに連行されて行ったのである。それは今日でいえば、パンの形に閉じ込められているイエズスの神秘的現存、聖体の秘跡の性格を表徴するかのようであった。
       縛られた彼に対して、人びとは見える形でなぐったり、つばきを吐きかけ、平手で頬を打ったり暴力のかぎりを尽くしている。今日のキリスト信者が、聖体のキリストの現存を礼拝の対象として受け取らないで、聖体を食べるためのものという主張をかかげて、イエズスに礼拝をささげることは必要ではないと考えているとするならば、それは司祭たちでさえも、聖体の秘跡を厄介ものとして取り扱っているからだということになるのではないだろうか。
       当時のユダヤ教の大祭司や司祭衆にしても、彼について神の子、メシアであるとの評判は聞いていはいたが、福音をのべ伝え、弟子たちをつくっているときいてとくに厄介者として裁判にかけたのである。法院の全員が死刑にしようとの目的で、イエズスに不利になる証言を求めたが得られなかった。最後になって二人の証人が出てきて「この男は、神の神殿を打ちこわし、三日あれば建てることができると言った」と証言した。これをきいて大司祭は立ち上がり始終沈黙を守っていたイエズスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」とイエズスに尋ねた。なお沈黙を続ける彼に大司祭は神の名をつかって言った。「生ける神に誓ってわれわれに答えよ。お前は神の子、メシアなのか」そのときイエズスははじめて口を開いて「私は言っておくが、あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言った。そこで大司祭は服を引き裂いて、怒りをこめて「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉をきいた。どう思うか」。すると全員が「死刑にすべきだ」と答えた。
       イエズスの答えは、神秘に輝く霊界のうちで御父の姿を眺めての答弁であったように思われる。そのため、メシアである神の子を人びとがどう思おうとも、まことを宣言しなければ偽りを言うことになるのである。キリストは人間によって殺されたが、自分の死をもって罪人を贖うことにより神の生命に復活したのである。

       

       《ペトロは遠く離れてイエズスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って下役たちと一緒に座っていた》(マタイ26・58)
       イエズスが、自らの全身を敵にわたすのを見て、弟子たちは彼をおきざりにして、それぞれ逃げてしまった。最初、ペトロは勇気をふるい、剣を抜いて有無を言わせず、大司祭の下役の左の耳を切り落とした。ペトロの暴力に対してイエズスはやわらかに言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を、今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26・52〜54)
       ペトロが剣を抜いて、主であるイエズスの身体を守ろうとする行為は、自然的防衛の行動であった。それに対して、イエズスは、剣を取る者は、みな剣で滅びると言って、暴力というものが、悪く言えばすべて野獣的な行動であって、神のみ前において善なるものではなく、人を善に救い得るものでないと言っている。そのために、暴力の剣をとる者は、みな剣によって滅びる審判を受けることになる。彼がかつて弟子たちに論して「あなたの右の頬を打つ者に他の頬をも向けなさい」と教えた真理の実現のようである。人間の行為は神のみ旨にかなったものでなければならない。ペトロはイエズスを守るための手段である暴力を放棄して、今、無力になって、イエズスの後に民衆にまぎれて従うことしかなかった。そのことは彼にとって、かつての信仰のおこないではなく、民衆の一人のようにイエズスの身の成り行きを見とどけようと好奇心をもって従うことであった。ペトロは十二人の弟子に選ばれ、また使徒の頭として第一にあげられ、ローマ教皇の座と権利が与えられる約束にもかかわらず、今は民衆の一人としてふるまい、イエズスの教えに従うことを放棄して、ただひとり身をひそめて、イエズスの裁判の成り行きを見ようとしたのである。
       そこには宗教的真理の真の信仰のかけらさえなき精神状態であったに違いない。人間の理性は命を失う恐れのある状況の変化によってたちまち信仰を失うことになるのである。たとえ命をかけると言っても、それだけでは保証にならないのである。
       そのときペトロが、イエズスを遠く離れて、大司祭の屋敷の中庭まで入って、事の成り行きを見ようとしたことは、信仰のためではなく、これから起こる事件の展開にかられての行動であった。彼はイエズスの最期を見とどけようとしているが、イエズスの信仰に生きて、福音が万民を救う真理であると宣言する態度ではなかったのである。聖パウロは、改心する前に、キリスト教会を迫害したとき、天よりの声をきいた。「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」(使徒行録9・4)とイエズスは言っているので、世の終わりの教会の姿もキリストの裁判や死にあやかるものと想像がつくのである。最後の教皇も現世の成り行きいかんによって、ペトロのように民衆の一員となってキリストを知らないと言うであろうか。
       

       

      マルコ福音

       

       《大祭司たちと最高法院の全員は、イエズスを死刑にするために、イエズスにとって、不利な証言を求めたが、得られなかった。 しかしイエズスはお答えにならなかった。そこで重ねて大祭司は尋ね「お前はほむべき方の子、メシアか」と言った。イエズスは言われた。「そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座し、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」》(マルコ14・55、61〜62)
       最高法院に列座する人びとは、イエズスを死刑に処するために、民間から証人たちを呼んで証言を求めたが、食い違っていたので決定することができなかった。大司祭が立ち上がって恐るべき神の名をつかって、職務上の質問をしはじめた。それまで沈黙していたイエズスが神の名に答えるように神の子メシアとしてつかわされた者であると、きっぱりと言われた。ユダヤ教の大司祭なる者が真に神を信じていたならば、どうして彼の証言を虚偽として受け取られたか疑問である。神に誓って、これほど恐ろしい言葉が言われたためしがない。最高法院たちの信仰は、神に通ずるものではなかったと言えそうである。
       今日の世界の人びとも、聖書を読み、神の言葉を受け止めてはいるが、それとは裏腹に無神論を主張して、神がいないと言うのと似ている。
       神がいなければ、聖書の言葉は虚偽を伝えているので神礼拝も無用なものとなる。イエズスは、公生活の初めにサタンの誘惑を受けて、神の代わりにサタンを礼拝するようにというすすめを受けているが、ためらうことなく「サタン退け、あなたの主なる神を礼拝し、これにのみ仕えるべし」と一喝して退けている。
       最高法院の人びとが、直接神の子の声を聞いていながら、神を冒涜する声と受け取ったのは恐るべきことである。宗教人であっても肉眼では神を見ることはできないので、地位や権力に頼って自分の肉欲におぼれ、自然的知恵に任せてふるまっているのであれば、信仰がなきにも等しいものである。現代の人びとも科学的知恵を優先し、見える世界にのみ頼っていては神の言葉であるイエズスを絶えず否定していることになり、イエズスを死刑に定めているのと同じである。
       最高法院へのイエズスの最後の言葉に「全能の神の右に座し、天の雲に囲まれて来るのを見る」とある。人びとはこの世に対する将来の預言をきいて単なる偽りの言葉、冒涜の言葉として受け取るのみであった。
       人間の精神は自由であるといっても、神の言葉を無駄な益のないものとして排斥しているのであれば、不信仰の罪をまぬかれない。彼は数多くの言葉をのべ、奇跡をおこなった町々が悔い改めないのを見て叱り「コラジン、ベッサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ツロやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはツロやシドンのほうが、お前たちよりまだ軽い罰ですまされるであろう」(マタイ11・21〜22)
       イエズスの裁判は、ユダヤ教の最高法院たちの不信仰の罪ではあったが、この世におけるすべての人びとの不信仰は、世の終わりに神の前にただされる時がくることを表徴しているかのようである。

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