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    十字架の神秘 つづき

    2016.11.21 Monday

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       《イエズスはお答えになった。「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していたなら、わたしがユダヤ人に引渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際わたしの国はこの世に属してはいない」》(ヨハネ18・36)

       イエズスがピラトに対して言われたことは、この世においてきわめて重要な言葉である。彼の国とは、この世のものではないこと、自然の世界に属していないということをはっきり宣言している。そして世の終わりまで政治的支配の国でないとことわっている。人間はこの世に生命を受け生まれてきて、自然の世界に属して生存しているが、この世とはいったい何であろうか。いっさいのものは死して滅ぶべき運命に裏打ちされた国である。三位一体の神の子が人となって、人びとの罪を贖い救うことによって、改められるべき国であるが、彼は聖母マリアの胎内に宿ってわたしたちと同様に死すべき人間性の生命を受けた。イエズスの世界は、もともと生まれながらに神の王国に属するもので、この世の国と全く次元が違う霊的国なのである。彼は生まれながらにして、三位一体の神、御父の顔を仰ぎ見ることのできる神の子であって、神の国に属しているのである。「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハネ3・13)と明言しているのである。
       彼がこの世に生まれてきた理由は、この世の国を建設し支配する王様となるためのものではなかった。人びとは、この世界の至る所に神の王国を建設しようと、世紀の初めから試みたであろう。しかし、神の王国とは信仰によって人びとの霊魂が救いの恵みにあずかって建設されるものなのである。それは人間の単なる努力、自然の能力で成り立つものではない。
       イエズスがこの世に属していないとの理由で、この世の人びとは思いのまま彼に暴力を振るうことができたようである。彼にとっては、どのようなことがあっても通過すべきこの世であった。ひたすら御父の意志をこの世に求めて、それにのみ没頭して生きるのであって、彼にとってはこの世界の支配は目的ではなかった。自然の法則に従って変化が伴うこの世に王位を受けて栄誉とする目的ではなかった。「人々はイエズスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエズスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6・14~15)
       ユダヤ人たちは、パンの奇跡を見て、イエズスを捕らえて王にしようとしたが、彼はそれを退けた。
      今日の教会の人びとも、政治の出来事に大きな関心を持っているが、教会の立場がこの世の一部分として存在しているかぎり、かかわりを無視することはできないが、教会とは本質的には霊的な天上のものであって、全く神の恩恵の支配のものでなければならない。イエズスの行動は真理そのものとして生きたので誤ることはなかったが、わたしたちがこの世に属しようとすれば、神の恩恵の国から遠ざかる過ちを犯すのである。イエズスは、この世の権力者から裁きを受けて、この場合、この世に属するものでないことを明白にしたのである。
       神の国とは、神の恩恵に属するもので、神の国の王子であるイエズスが、この世に属する王の裁きを受けているのは、人びとによって罪の世界となり暗闇となったための結果である。この暗黒の世界を支配している者があるとすれば、それは神ではなく、人の知恵かサタンの知恵にすぎないものである。イエズスの受難は神の隠された救いの計画ではあったが、人間の知恵と悪意によっておこなわれるこの世のしわざでもあった。

       

       《そこでピラトが「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。「わたしは王だと、あなたが言っていることである。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」》(ヨハネ18・37)
       ピラトはイエズスに、あなたはこの世に属していないと言うが、王であるのかと尋ねた。この場合、イエズスは自分が王であると自ら宣言するのではなく、ピラトが王なのかと言っていると、彼の言葉を用いて答えた。自らが王であると言えば、人びとに誤解を与えるもとになるだろう。この世に属する王であると言えば、世紀を通じて世の終わりまで、政治的争いのものになり、問題となる。神のみ前においても、人びとの政治の争いはこの世にあってはやむことはないのであろう。イエズスは真理ことが大事なもので、真理に基づく王でなければ、神の前における本当の王ではないと宣言する。イエズスは、真理という重要な言葉を持ち出して、自分が神からつかわされてきた理由を、はっきり真理である神の存在を明らかにするためだと主張する。それにつけ加えてこの世界に属する人びとのなかにも、真理に属して生きているものがあれば、みなイエズスの声を聞いて悟るのであると言う。彼の生涯をかけての言葉と行いを通じて、彼が神の子として生まれ、神からつかわされたものと知って、この真理に目覚める者がある。イエズスの声、言葉を聞いても心にとめることなく、それを聞き流している者は、もともと真理に属するものではない。このことが、人の人生にとってどれほど大事であるかは、人の知恵によってはかることはできない。
       ピラトは、王であるかと言って、この世の政治的王様であるかと尋ねた。イエズスは、かかる王がわたしの問題ではなく、真理の王が大切なものであると答え、人間を罪から救うことのできるのは、ただ真理の王のみであって、神は真理であって、永久の世界を支配する王である、とのべている。
       彼が神からつかわされてきた理由は、この真理に証明を与えるためであると言う。福音の他のところでは神が真理そのものであり、生命であって、愛であって、人のまことの道であると証明している。神は人間の本源であって真理によって創られ、人は真理である神を礼拝し、これにのみ仕えるべきであると、教えている。彼の人となりの生涯は、この真理に仕えて、人びとを罪から救う使命を負っていた。
       人びとがこの真理の道を踏みはずして、罪の暗闇に迷いさまよって生きているとすれば、それをただして教え導くのが救いのもとになる。人は自然の法則によって、この世に生まれてくるが、真理である神への道を歩むことが倫理的に必要であるとイエズスは教えている。イエズスのように、三位一体の御父のご意志をこの世に実現して、神の愛への一体化をはからなければならない。彼が教えた主の祈りとその生きるべき道はみごとに表明されている。「み旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」と、その実現に励むのでなければ、真理に属するものではない。これほど重要な真理がのべられているにもかかわらず、人びとの心は真理に疎く、生きている現状である。

       

       《ピラトは言った。「真理とは何か」》(ヨハネ18・38a)
       この言葉は、聖書の中で最も有名な言葉の一つである。真理とは何ぞや。神は真理そのものであり、真理の本源であるが、人間の理性の力では、その真理に適合し真理を汲み尽くすことができない。ただし、将来の人間が、神の恩寵を受けて、天国に入ったとき、特別の神のグロリア、栄光の恩寵のうちに、顔と顔とを合わせて真理なる神、父を見ることが許されるものである。それでも、神の本性、無限の姿を見尽くすことはできないであろう。
       見える世界に生活する人間は、神の言葉を受けて信仰のうちにおぼろに、神の真理である知恵に接することが許されている。イエズスは、ピラトに対して、自分が御父のもとからこの世につかわされてきたのは、救いの真理に証明を与えるためだと言っている。わたしたちは、神の御子であるイエズスを通して、神である真理を信じ、恩恵のうちに受け入れられて、神の真理の知恵に一致するのである。人間の自然の能力の範囲では、たとえ仏教の禅による悟りに入ったといえども、神の真理には到達することはできない。それゆえ禅の悟りはあきらめの無である、ということになる。
       ピラトは、真理とは何か、と言って吐き捨てるかのような態度をとって問題にしなかった。
       神の本質である超自然の真理は人の知恵には悟りがたく、そればかりでなく暗くなっている。真理の輝きが強ければ強いほど、人間の理性は、梟(ふくろう)の目が光を受けてかすむように、暗くなるのである。ピラトの知恵は、イエズスの真理の言葉を聞いてかすむのであった。そして「真理とは何ぞや」と言って顧みなかった。ピラトのように現代の多くの人びとも無神論をかかげて、神とは何ぞやと言っているようである。真理に目覚めている人は少ないであろう。

       

       《ピラトはこう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」》(ヨハネ18・38b)
       この言葉は、ピラトがイエズスについてくだした唯一の偽らざる評価であった。罪が見いだせない、と宣言しているにもかかわらず、ローマの総督として彼に死刑を言いわたすことは、この世においても甚だしい矛盾であり、不正な裁判であった。イエズスの十字架の死刑は、イエズスの罪によるものではなく、他人の罪、人類の罪であることがここに明白に証せられ、この世の人びとの罪を背負って死ぬという真理が実現されることになる。これこそ世の罪を贖(あがな)うべき子羊の偽らざる犠牲の役割であった。
       長い間、ユダヤ人の宗教である旧約のしきたりには、彼らが子羊を屠(ほふ)ってその肉を食べ、その血によって救われるという信仰があった。現在のわたしたちも罪人であるがまことの子羊であるイエズスの十字架のいけにえによって、彼の肉と血により、罪が贖われて救いを得ることになる。イエズス自身が真理として、また人びとの救いの真理として、ピラトの死刑を受けて実現したのである。ピラトは、自分の意志によって、イエズスが釈放されるべきであると考えたが、それが実現しなかった。ピラトは自分の自由意志でどうにもならないことを知ったとき、ユダヤ人の殺意を見て、恐ろしさを感じはじめた。それは抵抗できない隠されたサタンの圧力であった。そのとき、すべてがサタンの力に服していたが、ただイエズスの真意だけは、御父の思召し以外、何ものにも服従するものではなかった。
       彼は、その前夜ゲッセマネの園で「この杯を取りのぞいてください」と祈ったが「されどわが意のままでなく、あなたの思召しのまま成れかし」と受諾したのである。そのことは、イエズスが自分の罪のためにではなく、人類の罪のために死をもって贖う必要があると、父の意志を悟ったからである。
       わたしたちは、自分の犯した罪でさえも容易に謝ることもできず、むしろ他人に罪をなすりつけることが多い。罪のない人が、罪人の代わりになって償いのために死ぬことは、愛のためであると知ってもわたしたちには容易にできることではない。イエズスの人類を愛する愛は敵をもゆるす愛であって救いの真理を実現することによってそのことは証明せられたのである。


       《「ところで過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」》(ヨハネ18・39)
       ピラトは、イエズスを釈放するために、過越祭の慣例を思い出して、ユダヤ人の王と名のるイエズスの名を群衆の前に提案した。このことは、ピラトは、半ばユダヤ人をからかってのことだったように思われる。真剣にイエズスを釈放したいとの考えではなかった。どちらであっても、ピラトは大したことではないと思っていたようである。
       ユダヤ人の年中行事である過越の祭りは、ユダヤ民族にとって最大の喜びの行事であり、エジプト王の奴隷状態からモーセに導かれて解放された民族的解放の記念行事であった。この際、ローマ帝国としてもユダヤ国民を喜ばせるための恩典として、この祭日には、一人の罪人を民衆の願いに応じて釈放する慣例があった。ユダヤ人にしてもイエズスという神の子、真理そのものである彼を、罪人として扱っているのはそれほど重要なことと考えていなかった。時と場合によっては、群衆の行為は群集心理で罪ではないと考えるふしがあるので、その重要性を見逃しがちである。信仰の光に照らされていなければ、人びとは神の子を殺すことになりかねない。ピラトは群衆の声を聞いて、決断しようとしたが、群衆の要求によって自分の意に反してキリストを十字架の死刑に処することに決める。信仰というものは神の声を聞くことであって、人びとの意見を聞けばきくほど信仰にならないものである。自分の心が真理に服して認めなければ信仰は成立しない。真理であるイエズス自身の言葉を聞く必要がある。ピラトはイエズスに罪がないと認めるだけでは、自らの救いの信仰に至ることはできなかった。ピラトはユダヤ人の満足を求めて、イエズスを裁判することになり、イエズスにさんざんの苦しみを与えて、最後は十字架の死刑に追いやった。ピラトにとっては、天から降ってきた事件であって、それは災難のようであったが、どのようにして神の前に正しい裁きをするかという点で総督としてのあり方が問われるものであった。すべての人はこのような場合には、自分の生涯を通して、神の前に正しい行為が迫られるのであるが、ほとんど意に介さない。わたしたちも日々このように迫られているが、盲目的に行動しがちである。
       ピラトは、イエズスがユダヤ人の王であってもなくても、大した関係がないと思っていた。もし、ピラトが神を見る目を持っていれば、それは驚きに代わるのであるが、ピラトにかぎらずこの世の人びとに対してすべてが隠されているために、驚かないのである。

       

       《すると彼らは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった》(ヨハネ18・40)
       ピラトはイエズスを赦免する下心があって極悪人であった強盗バラバを舞台にのぼらせて、イエズスと彼とを並べて、群衆に向ってこの二人のうちどちらかを許してほしいかと問いかけたのである。善人そのものである神の子と極悪の強盗バラバとは歴史上かつてない比較対象であった。バラバは日本で言えば昔の大盗賊の石川五右衛門というところであろうか。
       ピラトは群衆の反応が当然ナザレのイエズスという叫びであると期待していたことだろう。今日のわたしたちのなかにも群衆の声、民の声は神の声だという者もあるが、ピラトの法廷の庭に集まった人たちはみなユダヤ人たちで、その声は隠された神の声であったことも推察される。過越祭において一人の罪人が赦免される慣例があるが、群衆の要求はピラトの予想に反して罪人であるバラバであったのである。イエズスは義人であったので、神の摂理として汚れのない犠牲の子羊となるべきものであった。ピラトの考慮は人間的であったのだが神の摂理はその裏をかいたかのようであった。
       ピラトは残されたイエズスの処分を、どうすればよいかと途方にくれて再び人民の声をきいた。群衆は彼を十字架にかけよと絶叫するので、ピラトはどうすることもできなかった。それは、あたかも神の声の響きのようであり、イエズスが罪人のために死ぬという、真理の証しとなった。天の御父はこの真理をふまえて群衆の叫びに全く沈黙しているようであった。この救いの真理がこのとき果たされないようでは、人類が罪より贖われることもできなかった。それは人類史上最大の救いの真理というべきものであって、この真理を見失う者は救済の栄光を受けることはできないのである。神の真理が大であれば大であるほど人の目につかないのであり、人びとの知恵はその光にくらむものである。バラバという罪人が赦免されたことは、人間的にみて第一号の救済の真理の一端を示すものであると言えよう。
       わたしたちは救済の真理を信仰をもって受容すれば罪から救われるのである。イエズスの死はわたしたちも罪に死ぬことを意味し、それによって、洗礼の秘跡を通してイエズスの新しい霊的な生命に呼びさまされるのである。

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