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    十字架の神秘

    2016.11.21 Monday

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      『十字架の神秘』安田貞治神父著(緑地社発行)

      第一章 イエズスの裁判より

       

      《そこでピラトはもう一度、官邸に入り、イエズスを呼び出して「お前はユダヤ人の王なのか」と言った》(ヨハネ18・33)
        総督ピラトは、ユダヤ人の訴えを聞いて、イエズスを呼び寄せて「あなたはユダヤ人の王であるのか」と質問した。かりにユダヤ人の王であっても、ローマ皇帝の占領下のもとで、ユダヤ国家を自由に支配することはできないし、一国に二人の王が同時に支配権を行使することは不可能である。イエズスが王であると言えば、ローマの総督としては職務上黙っていることは許されない。ピラトは、自分が思いもよらない事件にかかわったことにはじめて気がつき、イエズスを面前に呼び出して「ユダヤ人の王なのか」と自ら尋ねた。そのとき、イエズスはユダヤ人に両手を縛られて何もできない状態であった。この時代のユダヤ人たちは、聖書の預言によって最も力強い王様を求め、全世界をも征服して支配するほどのメシアなる王様、ローマの権力をも奴隷化するほどの王があらわれることを誰しも望んでいた。昔のダビデ王やソロモンにまさる王様を来るべきメシアとして望んでいた。
       イエズスがかつて男子だけ数えて、五千人ほどの大群衆に、五つのパンと二匹の魚を奇跡的にふやして彼らに満腹するほど食べさせたことがあった。このとき群衆は彼のなさったしるしを見て感激のあまり、イエズスを捕えて、王としようと試みたが、彼は人びとの心を一応鎮めて去らせ、ひとり山に逃れて夜もすがら祈るのであった。ユダヤ教の人びとは明らかにローマの支配権をひっくり返すほどの王権を求めていたに相違なかった。しかし、彼らには世紀を通じて世の終わりまで、イエズスがこの世の王として支配するとは毛頭考えられなかったことは言うまでもない。
       ピラトの前に、ユダヤ人は彼を王として訴えたが、イエズスがこの世を支配する王ではなく、神の世界においてのまことの王であると言ったことはなんと意義深いことであろうか。この場合、単なる人間の策略であるにしても、神のみ前には真理の表明にほかならなぬものがあって、これは隠れたか身のはからいであった。ユダヤ人たちは、彼を本当のメシアなる王として訴えたのではなく、偽りの王、他人を惑わす自称的な王であるとして訴えたのである。しかし神の側からすれば本当のメシアなるユダヤ人の王であった。このことの真偽については、ピラト自らがイエズスに対して問う必要があった。イエズス自身がなんと答えたであろうか、今日のわたしたちにとっても最も興味ある関心事でなければならない。そして神の子、世界を裁くために来られる真理の王として、再臨のイエズスの姿を予見するものでなければならない。
       わたしたちは、ピラトにきくよりも、信仰のうちに、敬虔に神にきき、彼の支配に従って生きることが何より必要なのである。今日の人びとは、問うことが多い世界に生きているが、神に問うことがないのは、無神論の世界に安住しているからであろうか。

       

       《イエズスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それともほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」》(ヨハネ18・34)

       ピラトは、イエズスが本当のユダヤ人の王であるのか、と本人に確かめる必要があって質問した。
      そこで、イエズスは彼に自分の意志で問うのか、それとも他人に働きかけられて職務上質問しているのかと彼の本心を確かめた。これはきわめて重要なことである。
       わたしたちも、イエズスの本性が二つあって、神であるのか、それとも単に人間としての本性であるのか、確かめる必要がある。イエズスのこの世における存在と働き、使命について、宗教的意義が十分であるかを問わなければならない。
       聖書の言葉は、すべて宗教の真理の証しとなっているが、人生をかけて救われるべき真理を確かめなければならない。イエズスご自身が、神の真理として人間の救いに必要欠くべからずるものを提供しているとすれば、まことに重要なことである。この真理をよそにして、わたしたちの人生の目的が神への幸福に達することはできない。
       人びとは、この世の生活がそれなりに文化的意義と歴史性をもたらして、世界に意義あるものとして仕えていると言っても、それだけでは納得がゆくはずはない。自然界の被造物、生物、動物は、自分の存在の意味、目的を知らないで存在しているが、わたしたちも生涯を通してこの世の生命にすがって生きる。しかし、それだけでは生きる目的を知らずに、ついには無になる死を迎えるのである。人はそれぞれに自分の生きる意義を自分なりに意味づけてはいるが、それも死と共に消滅してしまう。
       永遠の存在である神の子である救い主に救われて、新しい示顕の神の子の生命に結ばれていなければ、わたしたち自身の存在と目的を失うのである。イエズスがこの世にもたらした宗教的意義は、わたしたちが神の生命に生きることにある。わたしたちがこの世の生活において、新しく神の生命にあずかって生きるということは、永遠の神の国に生きることであり、死後の霊界に完成されるものである。
      ピラトに対するイエズスの質問を深く霊的に考察してみると、このような問題にふれていると気がつくのである。

       

       《ピラトは言い返した。「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を引渡したのだ。いったい何をしたのか」》(ヨハネ18・35)
       ピラトは、イエズスの言葉をきいて、わたしはユダヤ人ではないと反問して、ユダヤ人の王なんかになんら関心がないと言っているようだ。ユダヤ人の王とは誰のことか、そんなものがあってはならない、ローマ帝国の政治の支配下には許されることではない、と彼はあくまでもユダヤ人を奴隷の扱いで、軽蔑の態度を示していた。自分はローマの総督として、名誉あるローマ市民であると自負心に燃えていたので、ユダヤ人のレベルで考えてもらいたくないと言っているようだ。総督の名誉にかけてユダヤ人の王を裁判にかけていると宣言している。地上の人間というものは、往々にして権力をかさにきるものである。たとえば第二次世界大戦の結末の、極東裁判の判決にしてもそうである。ピラトが、ユダヤ人たちや司祭長はじめ人民が裁いてくれと言って、お前をわたしにわたしたのであると、言いふくめるようにイエズスに言った。それではいったいあなたは何をしたのか、と新たに尋ねた。ユダヤ教の最高法院の裁判の場においてもこれと同様のことが尋ねられた。何を語ったか、どういう教えを広めたか、ということであった。今日の人びともイエズスが何を語り、何を教えたかを問うであろう。彼のおこないや言葉、奇跡をも吟味するであろうが、彼の福音の言葉は、人間に通用する言葉を用いているけれども、本質的には神の意図が見えない形で底に隠されている。わたしたちが普通つかう言葉や文章の形であっても、福音の底流には神の言葉の生命がひそかに脈打っている。それとは違って人の言葉はただ人間的思考や意志を伝達することであって、用が終われば消えてなくなるものである。
       イエズスの言葉は神から生まれた言葉であって、三位一体の御父の真理の言葉であり、永遠の生命を伝達して、人を生かすものである。それは神の意図に従って、死人をよみがえらすほど不思議な力を宿している。イエズスの言葉をきき信仰によって彼を心に導入したとき、神の生命に生かされる神秘的な活力が生まれる。それは、白紙の幼児のように単純に信仰の従順性を通して導き入れられるものなのである。
       イエズスは自分の言葉の神秘性について、人びとに種まきのたとえをもって語っている。地上の畑ではなく、人の心の畑に神の種をまくものであって、それを聞く人の心がよいものであれば、神の生命が種のように根づいて生長し、実を結ぶのである。よい畑にまかれた麦が三十倍、六十倍、百倍の実をつけるように、人のよい心にまかれた神の言葉も同様に実をつけるのである、と教え諭している。
       ピラトは、自ら神の言葉を直接に尋ねているが、彼の心の態度は実る畑の可能性がなかった。すべて高慢な心の持ち主は、神の言葉を受けつけない踏みつけられた道や石地の畑である。信仰をもって、しかも神を畏敬して聞く人にのみ心の中に神の生命が芽生えるのである。今日の人びとはどのような心で神の言葉に耳を傾けるか、それが課題であろう。

       

       

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