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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 第二章の(B)注釈

    2016.11.06 Sunday

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       (B)煉獄に於いて受ける浄化の本質については、神学者間にも意見が区々である。抑々霊魂は何から浄化されるのか、罪責からか、或は単に短所からか、もし短所からだとすれば、どの意味に於いて彼等は完全となるのか、内部的に善くなることか、或は神の尊前に於いて、彼等の状態が善くなることだけを指すのか、という諸点である。
       聖ベラルミーノ枢機卿は、小罪の犯責が煉獄に於いて赦されるとまで主張している。〔これはマテオ十二章第三十二節に於いて、我が主は来世に於いて、罪に對する苦しみが赦されることを語られたのではなく、罪責が赦されることを語られたのであるから、このマテオの句は苦しみが赦され、罰が果たされる場所、即ち、煉獄の存在の証明とはならぬとのカルヴィンの主張に対して応えたもので〕ベラルミーノは「少なくも小罪の犯責(quoad culpam)は煉獄に於いて赦される」(煉獄論第一篇四章六)と言い、亦「小罪の犯責は対神愛の業と、堪忍ぶことによって赦される」(同十四章二)との聖トマスの説を裏書きしている。
       これに反しスアレスは煉獄は罪の罰の負目を取除くことが出来る以外、他の意味に於いて霊魂を改善することはない(Suarez,Disp.xi.sec.iv.a.2.§10)。凡ての罪責は霊魂が肉身を離れる最初の瞬間に(in primo instanti separationis animae a corpore)完全痛悔の唯一つの業によって赦され、この完全痛悔の唯一つの業によって意志は全く神の方に向い、人は凡ての小罪からのがれる(§ 13,)。かくして煉獄に於いて罪責(quoad culpam)が赦される。如何となれば霊魂の浄化は、死の瞬間から始まるからである(§ 10)。悪い習癖や邪まな傾向について彼は言う。「我等は悪癖や邪まな傾向のために、霊魂が煉獄に留まっていると考えるべきではない。これらは感覚的欲求から起こる限り、肉体がなくなれば、これらのものも亦なくなる。悪い習癖と邪まな傾向が意志の中にある限り、死の瞬間に取去られるか、又は霊魂が光栄に入る時、反対徳の注賦によって、意志から駆逐される」(Disp. xlvii sec. i, 6)。


       さて本論に於ける聖女の見解は、ベラルミ−ノの説に相当するか、スアレスの説に相当するか、明らかに彼女の説は、煉獄に於いて小罪の犯責が赦されるとするベラルミ−ノの説とは異なるようである。彼女は第三章に於いて「煉獄の霊魂にはもはや罪責がなく、従って神と霊魂との間には罰以外何ものもない」と言い、又第四章に於いては「煉獄の霊魂は死の瞬間に罪責(la culpa)」が取去られたから、罰のみがある」との意見は、スアレスの説に同じうしている。が併し、彼女が全幅的にスアレスの説と同じであるかというと、それは本論の幾多の箇所に照らして疑わしい。


       罪を犯した後、霊魂には汚点(macchia)が残り、又それを取除くために、霊魂は煉獄に行かねばならぬが、その汚点を聖女はどのように解しているか。


       聖トマスによれば、罪の結果は
       一、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱める(corrumpit bonum naturae)。
       二、霊魂に汚点を残す(causat maculam)。
       三、人に罰を負わせる(facit hominem reum poenae)。
       以上三様である。この汚点とは、人の霊魂のうちに当然あるべき筈のものが、罪の結果、取去られたことを指しているのである。 大罪の結果として「聖寵の光が霊魂をもはや照らさないとき、霊魂にあるもの(汚点)は影であり、而してこの影はそれを起した自罪によって、それぞれ形が異る」(ビルュアール)。又「小罪の結果は愛熱の減退を来す」(同上)(billuart,
       vol. iv. d, vii, a. 11)。


       聖女は煉獄に於ける霊魂について比喩的に語り、神を観る超自然の光栄(天国のものにあらず)の光を享けない結果として生ずる霊魂を覆うている暗影こそ、汚点であると看破しているのであろうか。
       第二章に於ける比喩は、一見それを肯定しているようであうが、この比喩に於いて霊魂のうえにに神が輝かない原因 — 結果としてではなく — として、罪の錆(ruggine del peccato)を聖女は挙げている。であるから聖女カタリナの言う汚点と聖トマスの言う汚点とは違う。聖女がこの汚点は神の義のみならず、神の純潔にも背くものであると主張していることに鑑みて(第八章)、この汚点は罰を意味するに止まらず、霊魂の短所をも含んでいるらしい。が併し汚点の中には (1)徳に対する弱さ (2)罪によって得、罪責が赦された後もなお残っている悪への傾き、(3)世俗的関心等、一語に総括すれば、善に向わんとする霊魂の自然的傾向を弱めること(corruptio naturalis boni)が含まれている。確かに悪への傾きと世俗的関心とは、スアレスが言ったように、死の瞬間に除かれ得るとはいえ(註。得るとあるのは、除かれないかもしれないから、得るとしたのである)、実際にはそうではないらしい。又悪への傾きと世俗的関心とは、その行為を繰返すことによって徐々に得られたから、又動揺の経路によって取除かれる筈であり、徳から離れ、再び徳に戻るためにも、亦々経路を逆に辿らねばならぬらしい。現世に於いて神が霊魂を摂らい給うのも、この方法によるのである。さすれば煉獄に於いても、その方法が異なるとは考えられない。


       以上のことは本論に於いても、聖女カタリナの見解であったことを示す箇所が屡々ある。第十一章に於いて聖女は全然とは言えないまでも、殆どそれに近いことを言っている。聖寵が霊魂にかえされたとき、霊魂は屡々ひどく汚れ、自我に傾いたままであるから(imbrattata e conversa verso se stessa)(註。聖寵はこの傾きを取り除かない)、神に創造された原始の状態に霊魂が戻るためには、聖女が屡々述べている通り、霊魂は神の全能の動作を必要とし、これなくしては救かり得なかったのである。聖女はこの第十一章に於いて、自我への傾きを利己的悪癖と解している。而して本論を終るに当たり、”全善にして哀憐深き神は、凡て人より出づるものを滅し、煉獄はこれを浄化する”と言っているが、この”人より出づるもの”とは、現世的傾向を指すに外ならない。
       今この死後の項で述べたものは、聖女が他の所で語っているものとは異なった意味があるように見えるばかりで、例えば、第三章に於いて神と人との間には、罰以外何等障壁がないと言っているのも、聖女は悪への傾向を取除くことを、罰の一部に込めていたと考えられる。更に第十一章の”燃やされていると同時に障げられている”(istinto acceso ed impedito)ことが、煉獄の苦しみとなると言う場合も同様である。
       又第一章に於いて短所が煉獄の霊魂にないと言っているようにもとれるが、煉獄の霊魂は短所となることをすることが出来ないのを言っているに過ぎない。前に述べた悪への傾きとか悪癖等は何れも受動的なものである。聖女が短所はないと断言していないことは、神の純潔に背いた或るものが障碍となるとしていること、及び第十一章に述べている点とから見て明白である。その第十一章に曰く「霊魂の中には多くの隠れた短所があり、その短所が見えれば霊魂は絶望する。又神は霊魂の最後の状態に於いて短所を焼尽し、それが焼尽されるとき、神は如何なる短所があったかを霊魂に示し、焼尽されねばならぬ凡ての短所を焼尽す愛の火を点じたのは、御自身であることを霊魂に悟らせるために、それらを霊魂に観せ給うのである」と。


       なお煉獄論に関し、スアレスにも匹敵するベラルミ−ノは、次のように疑念を述べている。

       「現世に於いて、一時的なものに対する偏った愛着を、種々なる苦しみ(例えば、溺愛した妻子との死別の如き)によって神が浄化し給う如く、来世に於いても、種々なる艱難、苦しみによって浄化されねばならぬ現世に於いて実際にあったかかる偏った愛着の跡が、肉体を離れた霊魂の中になお残っていると、信じられるであろうか」(煉獄論第一篇第十五章二五)と。

        "An sicut in hac vita immoderatus amor erga temporalia purgatur a Dio variis afflictionibusu, ut mortibus uxoris liberorum, etc., ita etiam credibile sit, post hanc vitam adhuc remanere in anima separata aliquas reliquias talium affectionum actualium quae purgari debeant tribulationibus et molestiis" (De Purg., lib. i. c. xv, 25)

       

       要するに受動的な悪癖や現世的関心は、煉獄に於いて取去られることは、煉獄の霊魂に内面的な改善がなされるとの観念を含むが、この観念のうちには正統神学に背反することは決してないようである。かかる観念は、この地上に於いて神が霊魂に摂らい給うことについて、我々が弁えていることと合致しているし、又本論に於いてもこれを是認しているように見える。

       

       煉獄の火について
       煉獄で霊魂が苦しんでいる火は、比喩的の火ではなく、実際の火であるとするのは、信仰個條でなく、フィレンチェ公会議に於いても、ギリシヤ教会側は煉獄の霊魂は実際の火によって感覚的に苦しまず、苦悩界の幽暗によって苦しんでいると主張したから、これを決定することを避けた。現代に於いても東方教会の公教要理は煉獄の火に就いては、何等触れていず、ローマ教会に於いても同様である(ピオ十世公教要理その他参照)。併し神学者同様信者の一般的感情は、実際の火によって苦しんでいるとしているが、これら神学者の意見の根底をなすものは、聖グレゴリオ大教皇の「対話」第四篇三十九章の「審判に先立ち、ある軽い過失に対して浄化の火があることを、我等は信じねばならぬ」、及びニッサの聖グレゴリオの「死者のための祈祷」中の「肉体を離れた霊魂は、その霊魂の中に入った煉獄の火が汚れを除かぬ限り、神の本性に与るものとはなり得ない」とに拠っているのである。
      カタリナの「煉獄論」に於いては、この問題には何等触れてはいないが、全体を通読して、聖女は精神的火のことを考えていたのではないか、との印象を受ける。

       

      注釈(B)

       

      ゼーノヴァの聖女カタリナ 煉獄論
      発行者 フェデリコ・バルバロ
      訳者 笹谷道雄
      昭和25年10月20日 ドン・ボスコ社発行

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