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2017.01.04 Wednesday

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    煉獄論 6

    2016.10.24 Monday

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       『Trattat del Purgatotio』di Sancta Caterina da Genova
      ゼーノヴァの聖女カタリナ『煉獄論』昭和二十五年 ドン・ボスコ社発行

       

      第十五章
      煉獄の霊魂は、いかに現世の人々をとがめるか


       神の光によって照らされた聖女カタリナは、本書に記したすべてを観たとき、彼女は語った。
      「私は地上の一切の人々が、怖れ戦(おのの)くほどの大声で叫びたい。惨めなる者よ! 死の瞬間に遭遇する怖るべき悶えに對する用意を怠るまでに、現世の事柄によって盲目となっているのを、何故そのままに打棄てておくか。
       汝等は大いなりという神の哀憐(あわれみ)の希望のもとに隠れ、良善の師の聖旨に背いたことに対し、審判の暁に、この神の全善が立ち給うことを考えよ!(10) 主の哀憐は、その聖旨をことごとく果たすことを汝等に強い、悪をなすよう汝等を励まし給わぬ。主の義は、人の義に屈することなく、それがいづれかの方法で、全く果たされることを識れ。
      ”私は告白し、次いで全贖宥を受け、それによって一切の罪を浄めて、煉獄を安全に通るであろう”(11)との誤った希望をもち、自らを欺いてはならない。全贖宥には、告白と完全なる痛悔を条件とすることを知れ。この痛悔は得ることかたく、贖宥を得るよりも罪を犯さず、贖宥を必要とせぬよう、心することが最上なることを弁えよ」。


      (10)マテオ十二章四二節の該当句であろう。
      (11)「煉獄が殆どなく」の意。「大なりと謂う神の哀憐の希望のもとに隠れ」とは、神の哀憐は大であるから、罪を犯しても、直ちに赦し給う等々のことを念頭に置いて、常に主に背くことを指す。

       

       

      第十六章
      聖女は煉獄の霊魂の苦しみが、平和と歓喜を減じないことを示す


       苦しみの真中(さなか)にある煉獄の霊魂のうちには、次の二様の作用のあることを、私は悟る。
       第一は、神の哀憐(あわれみ)である。彼等は歓んで苦しんでいる間(うち)に、その苦しみは自分が受くるべき当然の酬いであり、又神の尊前に神に背き奉ったことがいかに大きいかを想いつつ、神が彼等に対し全善にて在(ましま)したことを悟るのである。
       何故ならば、主の全善が、哀憐(あわれみ)(イエズス・キリストのいと聖き御血による償罪)を以て、恒に義を和らげ給わなかったなら、唯一つの罪の酬いとして、地獄の萬苦があったであろうから。で彼等は苦しんでいるすべては正しく相当し、且つ命ぜられたものであることを弁えているから、自分の苦しみを歓びを以て堪え忍び、苦しみの一部分すらも取り去られたくないのである。そして彼等は天国の永遠の生命に於いて在るであろう時と同じく、もはや神の意志について呟かない。
       第二は満足である。これは神の命が彼等を計り給う上に、いかに愛に満ち、哀憐(あわれみ)深きかを観て感じる、その満足である。
       彼等は前述の二つのことを同時に意識させられ、聖寵の状態にあれば、霊魂は各々その能力に応じて、この二つの事柄をありのままに悟るのである。彼等は大いなる満足を感じるが、この満足は減じないばかりか、却って霊魂が神に近づけば近づくほど増してゆく。彼等はこれ等のことを直接に識らなくとも、神が啓示(しめ)し給う程度に於いて識るので、彼等の一切の注意は、自分の苦しみに向けるよりも遥かに一層神に集中され、自分の苦しみよりも神を重視する。何となれば神を瞥観することは、人が想像し得るあらゆる満足や歓喜(よろこび)に勝っている。しかし、勝っているとはいえ、歓喜からは、苦しみの少しの部分も取り去られないのである。

       

       

      第十七章
      結論として聖女は煉獄の霊魂について述べた凡てのものを、彼女が感じ、心中に経験した一切のものにあてはめる


       煉獄の霊魂が受けているこの主の浄化を、私の霊魂のうちに於いて、特に過去二ヶ年にわたって経験し、それを毎日益々明らかに悟り感じる。私の肉体のうちに在る霊魂は、ちょうど煉獄にいるようである。そしてこれは真の煉獄と似ているが、ただ違う点は、肉体がそのうちに於いて受ける霊魂の苦しみに堪え得、死なずにある程度の苦しみである。(12) しかしこの苦しみは、肉体が実際に死ぬまで、徐々に絶えず増してゆく。
       私は凡てのもの(霊魂に栄養を与え得る歓喜、喜悦、慰安の如き霊的なもの)から、遠ざかったことを感じる。
       私は、記憶、意志、悟性を以って現世の財宝も、霊的の財宝も望まず、又”これは彼れよりも、一層私を満足させる”と言うことも出来ない。
       私は、霊的にも肉体的にも、私に慰安を与えるあらゆるものが、徐々に私から取り去られたほど内的に苦しんでいた。そしてこの慰安が取り去られた時に、これらが嘗ては私の慰安と力の源であったことを悟った。しかしながら霊魂が、自分にとって慰安となり、力となるものを見出すやいなや、却ってこれらのものは無味で、むしろ厭うべきものとなり、(13) それらを私のうちに保持(たも)っていようとはしなかった。と言うのは、完徳に到るための一切の障碍を取り去ろうと、霊魂は自然的衝動によって努力し、障碍を取り去ることが出来なければ、むしろ地獄に行くことも辞さないほど、これらの障碍を取り去りたいと望むのである。それで霊魂が自身を養う凡てのものを除き去り、熱心にこの目的を保持する所から、霊魂のうちに極くわずかの短所さえも、とどめておくことは出来ない。
       肉体はもはや霊魂と交通し得ないから、地上の如何なるものを以ってしても満足できないほど、〔肉体は〕圧迫されており、肉体にとっては、神がその義を満たすために、この浄化の業を大いなる愛と哀憐(あわれみ)とを以ってなし給う、その神以外に慰めはないのである。しかし私がこれら一切のことを悟ったとき、満足と平安があるとは言え、これによって、私の苦しみや圧迫されていることは、いささかも感じない。
       しかし私には如何なる苦しみも、神が私のために定め給うた以外の苦しみを、望ませることは決して出来ない。私が必要とするすべてを神がなし給うまで、私は閉じ籠められ囚獄から外に出ることを望まず、その中にとどまっている。私の福(さいわい)は神の聖旨が行われることで、神の命がいかに正しく、哀憐(あわれみ)に満ちているかがわかるから、万一神の命に背くことがあれば、それは私が堪え得る苦しみの最大のものであろう。
       以上説明した一切の事柄は、いわば霊的に観、触れることによって悟るけれども、思いのままに説明する適当な言がない。私が今説明したすべてのことは、私の心の中に起こったありのままを述べたのであった。私が閉じ籠められている囚獄(ひとや)は、現世であり、縛られている鎖は、肉体である。
       聖霊によって照らされている霊魂は、霊魂の目的たる神に到ることの出来ない惨めさが、いかに大いなるものであるかをよく弁えているから、霊魂が敏感であればあるだけ、そのことによって大いなる苦しみを感じる。神は成聖の聖寵によって、霊魂をいわば神のごとく在らしめる権威を与え給うが、それのみならず、神の全善に与らせ、己と一にすらもならせる権威をも与え給うのである。神は苦しみ給うことは不可能であるから、神に近づく霊魂も苦しまず、神に近づけば近づくほど、主の完徳に与るのである。
       であるから霊魂が出遭う障碍のために、神に到るのが少しでも遅れることは、霊魂に堪え難い苦しみを起こさせる。この苦しみと遅滞とは、霊魂が生まれながらに有っている特質(自然的特質)(14)と、聖寵によって霊魂に示された特質(超自然的特質)とを障げる。神を所有することは、霊魂の本質上可能であるが、実際にはいまだ所有することが出来ずにいるから、霊魂が神を望むことが大なれば、それに比例して苦しみも亦大きく、霊魂が神を全く識れば識るほど、それだけその望みは激しくなり、浄化されるようになるのである。神に赴くことをはばむ障碍は、霊魂が神に牽付けられるほど、怖ろしくなる。そしてこの障碍がなくなれば、その時、遂に霊魂は在るが如く在り給う神を観奉るのである。
       神に背くよりもむしろ死することを望む者は、死の苦しみを感じないことはないが、神を讃える熱誠が、自分が生きようとする欲望よりも一層強いことを、神によって明らかに照らされる。(15) これと同様に、神の聖旨を識る霊魂は、いかに苦しくあろうとも、内的、外的のあらゆる苦しみに超えて、この神の聖旨を一層重要に思う。この理由は御自らのため、又御自らによって、浄化の業をなし給う霊魂の創造者なる神は、人が識り且つ悟り得る如何なるものにもまさって、遥かに限りなく霊魂に望まれるからであり、これは神が、霊魂を御自分の霊威(みいつ)に奪われている状態に保ち給うから、なほ更さうである。故に霊魂は如何なるものも—仮令僅かにしても—重要であると思うことが出来ない。
       自我に係わるすべてのものは過ぎ去る。霊魂は、神に全く自分を奪われているから、自分が苦しんでいる苦しみを観、語り、或は、それを識ることさえも出来ない。これらすべては(神の意志や、神の意志によって霊魂のために定められた一種の苦しみ等)前に述べたように、霊魂が現世を去る瞬間に、霊魂に示される。結論として哀憐(あわれみ)深き神は、人から出るものを全く滅し、煉獄は、これをことごとく浄化するということを付け加えておく。 [完]

       

      (12)現世に於ける煉獄であるから、肉体は死なずにあるのである。死後に於ける真の煉獄は霊魂のみ。
      (13)完徳の高嶺の状態を指す。その直後の「地獄に行くことも辞さない云々」は、実際に地獄に言っても良いという意ではなく、もし地獄に行くことを望むとすれば、人々の救霊を望み給う神の聖旨に悖り、且つ又我等の側からは、望徳に反することになる。これはイタリア人特有の誇張した表現法で、文字通り解すべきではない。
      (14)原語はproprieta.
      (15)人が己が生命と神を讃えることの何れかを選ばねばならないとき、即ち、この両者の何れかを犠牲にしなければならないとき、己が生命を犠牲に供する—即ち、死を選んだ場合、死の苦しみを感じない無感覚になったと考えてはいけない。彼は確かにこの死の苦しみを感じるが、自分の声明を愛するよりも、一層神を讃える熱誠が彼にとっては重要であるとの意。

       

              *      *       *

       

      Trattat del Purgatorio
                di
      Sancta Caterina da Genova

      "In iis quae de Purgatcrio determinata non sunt ab Ecclesia standum  st ii, quae sunt magis conformia dictis et reve lationibus S, nctorum."

       St. Thomas,in 4 sent. dist 21, quaest. 1, a. 1.

      煉獄に関し、聖会の未だ決定せざる所は、聖人に啓示せられしと言はるること又は聖人の言はれしことに、一層合致する節を取るべし。

      (ベラルミノ枢機卿がその著『煉獄論』第二篇七章に引用せる聖トマスの文)

        

       

       

       

       

       

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