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2017.01.04 Wednesday

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    聖体拝領の真の意味 つづき

    2016.10.23 Sunday

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      … 悪魔は子供等から早くもその無邪気さを盗みたがっている事も、又、更に聖体拝領だけが、彼等を悪魔の罠から守る事が出来ると言う事も、我等の主はよく知っている。…初めて聖体を受けたばかりの子供の善意程、真面目なものは無いとは経験の証明する所である。その子供はイエズス・キリストを愛し、イエズスを自分のものにしたいと望んでいるのに、何故其の子供の望みを満足させないのか。子供の敬虔さを軽蔑する我等よりも、其の子供の方がイエズスを受けるにふさわしい者である。「幼児の我に来るを許せ、神の国は彼等のものなればなり」と、我等の主なる神キリストは言った。地上に在る神の国とは聖体である。「子供は軽卒である」と貴方は言う。誠に然りである。そして其故にこそ我々は彼等に度々受けさせねばならないのである。子供にとって一週間は一ヶ月である。その年頃では印象は生き生きとしてしるし、又敏速である。それ故にもし将来信仰の強い人にしたいと望むならば、度々キリスト教的印象を新たにする必要がある。「子供等は軽率である。」然り。そして彼等は善であり、愛情が深い。我々は彼等が必要とする愛情に適当なる養分を与えるべきである。彼等にイエズス・キリストを愛させるべきである。そのために度々子供等をイエズスに近づけよ。彼等の欠点は、それ程根強いものではない。そしてそのような欠点が、悪に成り果てる事から守ってくれるものは敬神である。
      カトリック信者の子供は、原則として初聖体後は、毎日曜日と祝日には聖体を受けるべきである。もし指導者、両親、或は教師が善意の欠けている証拠を見つけない限り又聖なる食卓から子供を遠ざける時には、余程慎重にしなければならぬ。何故なれば、堕落の危険が目近く、その母親の心を凍らせる危険は、聖体拝領のみによって効果的に防ぎ得るのであるから。貴方は子供を無邪気さと清浄さの中に保ちたいと念願しないであろうか。子供が度々拝領するように激励せよ。或は少なくとも指導者がそうするように勧めた時に、子供を妨げないように。間違った熱心から、如何に多くの両親が、知らず知らずに彼等の子供の堕落の最初の原因になることだろう。如何に多くの人々が彼等自身がひどく恐れている堕落の直接の原因、致命的原因であったであろう。貴方が子供のために恐るべきものは、度々受ける聖体ではなくて、反対に受ける事を怠ること、即ち聖体の秘蹟に対して望みを持たない事である。天主から遠ざかる子供のために、あらゆる物は恐ろしい。「然し我々は将来のために恐れる。最初は余り急がない方がよい。後戻りをする事は不愉快なことだ」と言うかも知れない。然し何故これ等の良き子供等が後戻りをしなければならないのか。何故彼等は天主を愛することを止めなければならないのか。若い時の熱が、後のキリスト教的生活の最もよき保証ではないか。もし我が子が、将来悪に対して強いようにと望むならば、今からでも子供がすべての力の源なる聖体から、沢山の力と勇気とを引き出すのを許せ。子供がすべての貞節の基礎の上に自らを親密に結びつけようとするのを許せ。子供の現在の敬神を以て、その将来の敬神の真剣さを計る事が出来るであろう。こうして保たれた無邪気さは、貴方のため、子供自身のために、清浄な青年期の曙光となるであろう。もしも聖体拝領したにも拘らず、青年期が堕落を避け得ないと言う事が度々起るならば、もし彼等が清き人を作るパンを取り上げられるならば、その結果は果たしてどうであろうか。
      初期の教会では、子供等も大人と同様に、毎日聖体拝領を許されていた。彼等はイエズス・キリストの秘蹟から、キリスト教生活の活力、信仰の祈と熱の清き精神を引き出すのが常であった。そのような力、そのような精神は十才、十二才、十五才を越えないような聖人や殉教者を教会に与えたのであった。天主の御手は不足してはいない。同じ方法は我々の時代に於いても同じ効果を結ぶであろう。そして子供に与えられた聖体拝領は、今も尚彼等の中に成聖の目を生ずるのである。或両親は言う「我々は結局子供が余り敬虔になり過ぎて遂に司祭になり、天主に身を捧げることを望むのを恐れる」と。それでは敬虔と召命とは同じことであろうか。召命を恐れる事は、カトリック信者の両親にとっては、非常に奇怪な意向であろう。何故ならは、天主に一身を捧げることは「最高の生活状態」であり、全家族に対する特別の恵みである。然し敬虔を恐れる事は、全く馬鹿々々しい。敬虔とは唯一の真の喜悦、唯一の真の幸福である。敬虔はすべての事柄に有益である。現在及び未来の生活に希望をもたらすのである。人は敬虔すぎる事はない。何故ならば、良すぎると言う事は決してないから。そのような馬鹿々々しい見解のために如何に多くの子供等が堕落した事であろう。自分の心を自ら開き、キリスト教的生活に自ら着手しようとする宗教的自由を子供等に与えよ。我々はそれを強制できないと同様、制限する権利を持たない。特に秘蹟の問題が有る時は尚更の事である。子供等を教え導け。彼等の無経験を注意深く指導せよ。然し結局我々の指導は全面的にカトリック的であらねばならず、良心の自由を妨げるような事があってはならぬ。そのような権利の濫用によって、我々は魂をゆがめ、知らず知らずのうちに、彼等に対する天主の計画の邪魔をする事になる。それ故に、度々聖体を拝領する事は、子供にも必要である。もしも強い世紀を作りたいと思うならば、子供等に度々聖体を受けさせるようにせねばならぬ。聖体のみが聖人を作り得るのである。
      私が子供に就いて述べた事は、更に強く十六才頃から二十才頃の青年等に適用される。この危険な年齢では、情熱に対する戦いが、世界の堕落した実例や幾千の外的困難のために、もっと危険になるのである。聖フィリッポ・ネリは生涯をかけて、ローマの青年の浄化に努めた。聖人の証言は、天使的成聖と特別の経験との二重の重さを持っていた。この聖人は次のように言った。「聖マリアに対する献身につけ加えて、度々聖体を拝領する事は、青年が善良な道徳と信仰の生活を保つために、又、堕落から起ち上がり、弱さの中の自分を強くするために、最上とは言わないが、唯一の方法である」と。…純潔は聖体拝領なくしては不可能である。青年を地上に於いて最も魅力的に、最も愛すべきものとする力と、すべての頼もしい徳は、更に不可能である。もし度々聖体を受ける事が盛であるならば、どんなに素晴らしい変化が我々の学校の中に起ることであろう。胸を悪くするような不道徳の代わりに、又、道徳を腐敗させるよりも有害なる無関心の代わりに、我々は若い人々が自然的に昔あったように生々とし、愛すべくして精神と愛徳の賜によって特別立派な姿を、又、教会や国家の偉大な人物に譲歩する謙遜な姿を見るであろう。何事もキリストから離れる時には凋(しぼ)んでしまう。又神性なるキリストの接触によらなければ、何事も生き生きと咲く事は出来ない。経験の示す所によれば、そのような事が聖体拝領の若い人々に及ぼす影響である。秘蹟を規則的に受ける事によって、根絶出来ないような悪は存在しないし、それがなす事の出来ないような変化はないのである。…
      イエズスのみが涙を乾かし、或は少なくとも其痛みを軽く為し得る。我々の心が、苦悩によって打ち砕かれる時、彼のみがそれを回復して平和と望と、全く超自然的な内的歓喜に到らしめる事が出来るのである。カトリック信者のみが、その歓喜を知っている。そして其歓喜は悲哀とよく調和するものである。或カトリック信者は苦悶と苦悩の中にいるかも知れない。然し彼は不幸である事は出来ない。或時、ひとり子を失った母親が静かに言った。「私は泣き悲しむ。けれども私は満足している。」 彼女は毎日聖体拝領をしていたのであった。
      イエズスの中に我々は永遠性を見出す。天国を見出す。我等の異郷の旅が余りにつらい時に、生活が余りに耐え難い時に、イエズスの許へ行かねばならぬ。その秘蹟を受けに行かねばならぬ。それは我等に地上を、試練を、十字架を、戦いを、不正を忘れさせる唯一の手段である。イエズス・キリストは自ら苦しみ、又苦しみが如何に我等の魂に益する所があるかを教え、且つ彼は我等の苦悩を取り去り、その代わりに彼の平和、彼の力を与えて下さるのである。我々は病に苦しむ時、彼に依り頼もう。彼こそは最上の医者である。そして彼の訪問は同時に我等の肉体を慰め、我等の心に歓喜をもたらすであろう。…もし貴方が回復すれば、聖体を受ける事は、貴方の苦しみの日々を成聖の日々とするに違いない。そして、それは貴方の未来の生活に、大きな影響を与えるであろう。もし回復しないならば、貴方は立派に終油の秘蹟を受け、永遠の天主の前に、愛によって全く浄められて現われるように準備が出来ているであろう。…
      聖フランシスコ・サレジオは言う「フィロテアよ、度々聖体を拝領せよ、貴方の霊的指導者の忠告に従って、出来るだけ度々。この神聖なる秘蹟の中で、美・善及び純潔に度々憧れて生きることによって、貴女は更に美しく、善良に且清らかになるであろう」と。

       

      『聖体拝領の真の意味』デ・シェギール著 ドン・ボスコ社 昭和二十五年発刊より抜粋

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